ひとりの人間の範囲

人間を視覚的に捉えると、構造つまり身体が我々の外側に見えます。聴覚的(非視覚的)にとらえると、機能つまり精神が我々の内側に情報として存在しています。僕の精神は僕の身体(脳)の機能として存在するだけでなく、僕を知る人すべての中にも記憶として存在します。そして、それらの記憶は僕の身体の外にありながら、その記憶を持つ人の中では僕として機能します。つまり、僕の精神の範囲は僕の身体の範囲とは異なるわけです。

一人の人間の精神の範囲と身体の範囲が異なるのは、機能として捉えるか構造として捉えるかの違いによります。社会が視覚寄りの時、つまり文明社会では、一人の人間の存在はその身体の範囲に焦点を結びます。それが個人という概念です。個人という概念の上に民主主義等の思想があります。その場合、人間を視覚によって捉えているので、一人の人間の精神を一つの身体に閉じ込めてしまう危険性があります。「他人の中に存在する記憶としての自分」あるいは「自分の中にある記憶としての他人」というものは、身体で区切られる個人という概念によって捉えることができません。

社会が聴覚寄りの時、つまり非文明的社会では、一人の人間の存在はその人を知る人々の間に広がっています。そこでは一つの身体は個人ではなく役割を象徴しているでしょう。役割とは社会の中で一つの身体が果たす機能です。一人の人間を共同体内の役割だけで捉えれば、人々の結び付きは強くなりますが、個人の行動は束縛されるでしょう。それは一人の人間を役割に閉じ込めることです。

人間を身体にも役割にも閉じ込めないためには、視覚と聴覚のどちらにも片寄らない捉え方をする必要があります。そのためには、ものごとをあまり意識的に捉えない方が良いと思われます。意識というのは意識していること以外を無視するものだからです。構造と機能のどちらか一方を意識する時は他方を無視してしまいがちです。