矛盾と自由

論理的に矛盾する状況というものがあります。例えば、僕のやりたいことと僕にできることが違う場合、意志と能力が僕の中で矛盾しています。僕が「やりたいことをやろう!」と思っても、「できること」をやるとそれは「やりたいこと」ではないし、「やりたいこと」をやるとうまくいかないということになって、やりたいことをやるのは論理的に不可能であるという結論になります。この時、論理性にこだわると正解はないので何もできません。しかし、正解がないということは「どうやろうと自由だ」ということでもあります。

論理的な正解がある場合は、ある手順に従って行動すれば誰でもうまくやれるはずですが、そこには落し穴があります。「ある手順に従えば誰でもできる」というのは、実は「ある手順に従った人だけができる」ということであって、「誰でも」という言葉には意味がありません。そして、「ある手順に従う」というのは結構難しいことであり、限られた人にだけ可能なことかも知れません。つまり、論理的な正解があっても、それが万能なわけではないということです。

「手順に従う」のが苦手な人にとっては、正解があろうがなかろうが変わりはありません。それどころか、正解があるのにそれに従わない場合は、「手順に従う」のが大事だと思っているエライ人なんかに責められる可能性もあります。そういうエライ人は矛盾した状況などというわけのわからないことには近付かないので、「手順に従う」のが苦手な人にとっては正解がない方が責められないだけマシなくらいです。それが、論理的に矛盾した状況における自由です。

論理的には不可能でも、失敗を覚悟で何かやってみることはできます。自由とは試行錯誤することなのです。試行錯誤とは、自分の失敗から学習するつもりでありながら、自分が正しいという前提で行動することです。「自分は失敗するだろうけど、とりあえず正しいのだ」と考えるわけですから、矛盾しています。しかし、その矛盾の中に自由があるわけです。試行錯誤は失敗を重ねることであり、失敗から学ぶことです。失敗から学ぶと我々は変化しますが、成功から学ぶと変化しません。失敗から学べば、自分のやりたいことができるようになるかも知れないが、成功から学ぶとできないことはできないままです。

論理的な正解がある場合でも、試行錯誤によって別のやり方を探せば、そこに自由が生まれます。矛盾した状況でなくても、試行錯誤することによって矛盾が持ち込まれるわけです。試行錯誤の弱点は時間がかかることですが、手順に従っていればよいという時代は既に終わっているので、何でも時間をかけてやるしかないと思われます。そのことにまだ気付いていない人に理解されないのは仕方ないでしょう。

 → 自由になる方法