自由になる方法

自分の外からの制約さえなければ、何でも自由に好きなことができるような気がするので、我々は「外からの制約がない」という意味の自由を求めがちである。しかし、制約がなくても、自分に能力のないことはできない。自由には「外的制約がないこと」と「能力があること」という2つの側面がある。能力がないことは内的制約だ。自由になるためには「外的制約を何とかすること」と「自分のやりたいことをやるための能力を身につけること」の両方が必要なのである。

外的制約を何とかするというのは、自分以外を変えることであり、能力を身につけるのは、自分が変わることである。どちらがラクかというと、自分以外を変える方がラクだ。外的制約はなかなか無くなるものではないが、無くならないとしたら「無くなれ」と文句を言うだけだし、無くなるとしたら排除したり破壊したりするだけである。ラクなものである。それに比べて、能力を身につけるという方向で自分が変わるのは、ラクじゃない。

我々はとりあえず外的制約に文句を言ったり蹴飛ばしたりすることで自由になろうとするのだが、それはなかなかうまくいかない。なかなかうまくいかないので、余計に文句ばっかり言うようになる。文句ばっかり言っているうちに、なんかの拍子に外的制約がなくなったりすることもある。ところが、自由になってみると、自由だから何でもできるはずなのに何もできない自分を発見する。能力がないのに「外的制約がない」という意味の自由だけがあったら、自分の能力の無さに直面することになって、かえって辛い。外的制約がなくなることが自由への道のゴ−ルだと思っていたら、実はそこはスタ−トラインだったというわけだから、ショックは結構大きい。そこから立ち直るには、時間もかかる。そうこうするうちに、またもや新たな外的制約が生まれたりする。

外的制約に文句を言う前に、能力を身につけることで内的制約を無くしていく方が安全である。能力を身につけるためには、練習しなくてはならない。どんな分野にも基本的な練習みたいなものがあって、それをこなしていくと、基本が身につくようになっている。そうやって何かを身につけることは、自由の獲得である。ところが、練習して基本が身につくと、「そういう風にしかできない」ようになってしまっているのだ。そうだとしたら、何かを身につけることは、新たな制約の獲得だということになる。

そこから先に進むには、自分が身につけたことを「そうすることもできるし、せずにいることもできる」ようにしなければならない。そして、その能力を臨機応変に発揮するのが、ホントの自由である。臨機応変とは、最適なタイミングを待って、しかも、その機会を逃さないことである。我々が自由かどうかは、能力を身につけたり発揮したりすることよりも、適切な状況で能力を発揮し、それ以外では能力を出さないでいられるかどうかにかかっている。