とことんやるのだ

自分のやりたいことをやるには、「自分のやりたいことは何か」と考えるよりも「何をしようかな」と考えた方がいいのではないか、と僕は思う。「自分のやりたいことは何か」と考えて、考えたことをやろうとするとだいたいはお金がかかる。お金をかけると「便利、快適」という20世紀的な価値が手に入るので一瞬シアワセになるが、我々は便利や快適にはすぐ慣れてしまう。「便利、快適」に慣れると、最初手に入れた時にはシアワセであったはずの「便利、快適」が当り前になって価値が感じられなくなる。つまりその20世紀的シアワセはすぐに消えてしまうのである。それで、「もっと便利、もっと快適」を求めると、もっとお金がかかることになる。そういう風に、みんなが「もっと便利、もっと快適」な生活をするようになるのが経済成長だというわけである。

「自分のやりたいことは何か」と考えると「その何か」を思いついたりもするが、やってみると結構面倒くさくて「後はお金をかけて何とかしよう」ということになりがちだ。お金をかけるのは、他人に何かをしてもらうことである。やりたいことをやるのにお金がかかるとしたら、自分でとことんやってはいないわけである。「自分のやりたいことをやる」のに大事なのは、お金より手間ひまをかけることなのだ。「次は何をしようかな」と考え続けるのが「自分のやりたいことをやる」ということである。

我々は「面倒なことはお金を払って他人にやってもらい、残った時間とエネルギ−で自分のやりたいことをやろう」と考えたりするのだが、お金をかけて何とかするということを続けていると、自分のやりたいことはできない。自分のやりたいことというのも面倒なものである。面倒を他人に任せるという発想では自分のやりたいことも他人に任せてしまうことになる。面倒なことというのは「面倒だということすら忘れるくらいに」集中していると、面白くなってくるものである。

お金をかければものごとはラクだが、自分のやりたいことをやるのは別にラクなことではない。基本的にものごとはお金をかけない方が面白いのである。お金をかけないとしたら、お金を使わないための工夫が必要になり、自分なりのやり方というのが生まれる可能性がある。その「自分なりのやり方」というのが個性の表現である。お金をかけるとお金を払った相手の工夫を受け入れるしかないので、自分が何をやっているのかよくわからなくなる。自分でやろうとすると手間ひまがかかるが、「自分のやりたいことは何だったのか」は手間ひまをかけることでわかるものなのだ。

お金をかけるのは「他人からのサ−ビス」という情報を受け取ることで、ある程度やれば飽きる。「便利、快適」を求めてお金をかけることばかり考えていると、飽きたところで終わりである。自分のやりたいことをやり続けるとしたら、だんだん自分でやるという部分が増えてお金がかからなくなる。それは「便利、快適」とは反対の「不便、面倒」という方向で、それを乗り越えるために自分のやり方が必要になる。自分のやり方を考えるようになれば、うまく行かないということはあっても飽きることはない。

みんながお金のかかることをやろうとしたら、経済活動は活発になるが「みんなが自分のやりたいことをやっている社会」というものは実現しない。逆に、みんなが自分のやりたいことをとことんやろうとすると、だんだん自分の手間が増える代わりにお金がかからなくなって、経済活動の規模は縮小する。経済が縮小すると、「自分のやりたいことをやるにはお金がかかる」と思い込んでいる人は困るかもしれないが、お金をかけずに何とかすることを考えなければしょうがない。経済が縮小すれば何をやっても儲からないので「どうせ何をやっても儲からないからやりたいことをやるしかないし、使えるお金もあまりないから、とことん自分でやるしかない」ということになる。