シアワセって何だっけ?

さて、我々は幸せなんだろうか。答えは簡単だ。自分が幸せかどうかについて考えているヤツはシアワセ者である。不幸というのは実感としてはっきり分かるものである。よく分からないなら不幸じゃないのだと言える。でも、「自分は幸せだ」というような実感もない。我々は本当にシアワセ者なのだろうか。鈍感すぎて自分の不幸に気付いていないだけということはないだろうか。

自分の不幸に気付いていないとしたら結構やばい。自分に不都合なことが全然見えないのだから、いずれ不幸に気付いた時には「自分に不都合なことが全然見えない人でも気付かないわけにいかないくらい」大変なことになっているだろう。だが、それは将来の話である。自分の不都合が全然見えないとしたら、とりあえず今のところは幸せだと思い込んでいるはずである。ところが、我々はそうではなくて、幸せだか何だかよくわからないのだ。我々が幸せなのかどうかが分からないのは、自分にとって不都合な辛いことや悲しいことも少しは感じているからだ。我々は鈍感すぎるわけではない。鈍感すぎるわけでもない人間が不幸を切実に感じていないのは幸せな証拠だ。

では、幸せなはずの我々に「幸せだ!」という実感がないのはなぜだろう。そもそも実感というのはナマの現実によってもたらされるものだが、ナマの現実は自分にとって不都合なものである。「自分に都合のいい実感」というのは無いのだ。あるとしても一瞬である。永遠に続く幸せを実感したとしたら、それは錯覚である。ナマの現実から逃れて幻想に浸っていると現実が見えなくなる。そして、ある日突然、現実の不都合にぶつかって目が覚める。目が覚めると幻想は消える。「幸せだナア」と実感するのはいいが、それをいつまでも続けていたら後が恐い。

つまり、不幸は現実であり、幸せは非現実である。幸せに浸ると危ないのは、現実が見えなくなるからだ。現実をちゃんと見てそれに対応しながら幸せを実感できるなら、それは危なくない。つまり、持続可能な幸せとは「現実の不都合にちゃんと対処しながら、幻想も持ち続けること」だということになる。それは頭と身体が分離した状態である。ところが、そういう分離を抱えているとアホみたいなのだ。カシコイ人は幻想を排除するから、現実の不都合を見たら幸せな気分になれない。

 → 幸せは小さいほど確かだ