終 章
デモナゼン砦の攻防は、カーディーンの逆転勝利で終わった。 砂漠のとばくち、ハマヌンの宿場では、最上級の宿の一室で、一人の男が緑の結晶をもて遊んでいた。 「しぶといの」 男の言葉に頷いた客は、デモナゼン城郭から救出された貴族の一人である。 あの呪われた夜の直前、運よく急用で砦を出ていた男を、頼って来たのだ。 バーシュ伯ライアルは、よく分かっていた。 目の前の、うろたえた反逆者は、運よく救出されたわけではない。 生き残るよう仕組まれたのだ。 誰にとは、考えるまでもない。 「まったく、しぶとい」 バーシュ伯は、天敵のように嫌っている公子が出没した時点で、ピリス男爵を傀儡の大公にする企みを放棄していた。 しかし、どうやら、公子の目的は、反逆の阻止というより、緑妖花で築いた人脈を横取りすることだったらしい。 愚か者の生存は、邪魔立てすれば、事の真相を表明するという脅しだった。 今回、根回しの資金源にした緑妖花は、銅の谷と呼ばれるアーメルドの辺境のものだった。 手に入れるには、いつにもまして苦労があった。 しかし、腹立たしいことに、黙認するしかなさそうだ。 盟主の言葉が、何を意味するか理解できない貴族は、ただ薄ら笑いを浮かべて頷く。 少し話を戻そう。 天敵によって、しぶといと言われた公子は、デモナゼン砦の攻防戦の間、休みなく働いていた。 もちろん、実際に戦ったわけではない。 くだんの少年は、将軍を欠いたカーディーンの軍隊へ号令を下していた。 張りのある自信に満ちた声が、次々に指示を出す。 兵隊も、少年が領主であるティルファの出身者が、多かったためか、子供の指揮官に何の戸惑いも見せず従う。 デモナゼン城郭の守備隊の方は、ただもうピリス男爵を盲信していて、ためらいが無い。 ピリス男爵本人も、別人の様に見えた。 青年貴族の優雅な線の細さを、どこに置いてきたのか、兵を率い剣を唸らせて、自ら戦場を疾駆する。 「明け方まで、もてばいい」 少年は、何でもないように言った。 「モンティール子爵が、叔父貴を護送中、取り逃がしてくれる。折よく通りかかった軍が、指揮官を拾って、デモナゼン砦へ駆けつける」 ウィストリクは納得したが、アレクシアは混ぜ返した。 「折よく?」 「偶然ね」 「…偶然、攻撃されてもいないうちから、援軍を用意していた奴がいたんだな」 悪びれない笑顔が、返って来る。 アレクシアは、無言で少年の肩に手を置いた。 触れた途端、公子は、床几にへたりこんだ。 「何だ。やっぱり、痛みは感じるんだな」 恨みがましい黒い瞳を背に、銅の谷の戦士は、戦場へ向かった。 「アレク!」 公子が、呼びかける。 「アレク……アレク!行くのか?」 銅の谷の生き残りは、応えない。 今度こそ振り返らない。 このまま戦場を抜けて、生きていたら、どこかへ行くのだ。 どこへ、か、どうするのかは、考えていない。 アシェイルを失ってまで、一族もない今、生きていかねばならぬのかどうか。 何も、まだ決めてはいないのだ。 公子が、叫んだ。 「また、会おう。探すよ。その時、死んでいたら、やっぱりせせら笑ってやる!」 アレクシアは、ゆっくり馬首を巡らせた。 「今度会ったときも、男に襲われていたら、せせら笑うくらいじゃ、すまさないぞ」 少年は、微笑みながら、手を振った。 「笑ってもいいから、助けてくれよ」 ハンナム・カーディーン大公の治世一六年、デモナゼン城郭は、崩壊した。 戦場で別れた、人の子の王と半神の祭主は、それからも何度か巡り会う。 それは、四年程続き、片方の死をもって終わった。 ハンナム・カーディーン大公の治世二〇年、銅の谷は、最後の女戦士を失う。 彼女は、娘ではなく、男の子を残した。 黒髪の青年が、残された息子を抱いて呟く。 「銅の谷の女との恋は、高くつく。黒い血筋に生まれたお前は、父を殺すことになるのか。それとも、銅の谷の末裔として、神の器となるのか……」 その判定には、いささか、また時を必要とする。 無人となって久しい、銅の谷では、緑が谷を覆い尽くし、人の営みの痕跡は、とうに消えていた。 ヘイセルの古い祭祀場では、半神を呼ぶ最後の香炉が、何年もの間、燃え尽きたままになっている。 そして、深淵には、女神が眠っている。 今も…… |