雨季特有の厚い雲間から、奇跡のように、赫い月の光が、砂漠に降り注いでいた。
今より、もっと古い時代、炉端で語られる、昔語りがあった。
その時ですら、御伽噺でしかなかった古い物語である。
砂漠は、かつて、点在する湖と緑の樹海だったという。
それは、楽園というに相応しい地だった。
女神のただ一人の子供が、人の子に殺されるまでは…
女神の息子は、人の子を愛し、人の子の中から妻を娶った。
妻の兄は、人の子の王であり、女神を崇拝したが、人の子の中に降り立った女神の息子を、神の子故に妬んだ。
ある時ついに、人の子の王は、神の子を手に掛けてしまう。
神の子は、それでも人の子らを愛し、祝福を送りながら死んでいった。
しかし、憎悪に狂った女神は、ありとあらゆる恵みを楽園から剥ぎ取った。
人の子の王は、楽園から逃げ去った。
女神は、人の子を追い立てる。
楽園に生まれた死の砂漠は、女神の足跡に従って広がった。
始まりの刻、その慈愛で楽園を生んだ女神が、憎悪と砂で、世界を覆い尽くさんとしたのだ。
一人の男が、女神の前に現れた。
女神の息子と、人の子の間に産まれた半神である。
彼は、祖母なる神を宥めることができないと知ると、父の骨から造った杖を、女神の額に打ち込んだ。
女神の絶叫は、世界を震わせた。
砂漠は、凪いだ。
消えることはなかったが、広がることを止めた。
半神は、女神を深淵に沈めた。
女神の額には、乳白色の杖が、角のように生えていた。
それによって、憎悪は凍りつき、慈愛だけが地上へと流れ出る。
人々は、重く辛い心で女神の恵みを受け取ったが、いつしか、この物語りは忘れ去られてしまった……
半神は、もういない。
人の子の王も、既に亡い。
ただ女神だけが、深淵に沈んだ銅の女神だけが、目覚めようとしていた。
今なお、血の滴る憎悪をもって、既に亡い敵を追うために……
三 二人の祭主
デモナゼン城郭に、崩壊の鐘が鳴る。
灰色の夜の闇を背景に、赤銅に輝く髪と瞳を持つ女が微笑んだ。
「私をとめるの?人の子に、その価値があるの?」
デモナゼン砦の遥か高みでは、小さな聖域たる塔が崩れ落ち、剥き出しになった螺旋階段から、下界の喧噪が覗ける。
歩廊を持つ城壁は、倒壊し、土煙を上げていた。
城下では、瓦礫となった楼鐘から、最後の鐘の音が、幾重にも重なって響く。
『冥』の祭主に宿った女神は、冷えた石の螺旋階段に、白い素足で踏み出した。
漆黒だった髪も瞳も赫い燐光を孕み、朱唇は冷酷な微笑みを見せる。
「今度こそ、私の愛し子を奪った人の子から、我が与えたすべてを取り戻し、砂の海に沈めてやろう。我が軛よ。そなたには、とめられない」
銅の谷の聖洞騎士は、傷ついた頬に触れる女神の指先を感じた。
女神の吐息に、意識が焼かれる。
(私のアレク。私を殺して……)
女神の中で、小さな、だが、決して消えない悲痛な声が助けを乞う。
「アシェイル……」
アレクシアは、強大な女神の意志に逆らい、ゆっくりと唇を動かす。
女神は苛立たしげに、首を振った。
「最後の聖洞騎士よ。我が軛。私を離すがいい。でなければ、まず、お前を砂の柱にしてやるぞ」
(私の愛しい守護の騎士。琥珀の瞳の……)
赫い輝きをもつ眼差しの憎悪が、アレクシアに、ある老人を思い起こさせた。
バイザル伯の憎悪。
息子や家門に対する愛着が、歪んで裏返った奇妙な憎悪だった。
人を焼き、我が身をも焼く憎悪。
最後の瞬間、あの丈高い傲岸な老人は、自分の首を刎ねる孫に、安堵の交じった微笑みを見せたのではなかったか。
あの孤独な老人と同じ狂気が、目の前の女神にもある。
アレクシアは、強大な力を持つ女神を哀れんだ。
その強さ故に、女神を止められる者がなく、何より、女神自身が、自らの憎悪から救われないのだ。
銅の谷の聖洞騎士は、女神を静かに見つめた。
「女神よ。貴方は矛盾している。貴方は、私を砂の柱にすることが、できるのに、私を軛と言う。離せと言う。私に、貴方をとめる力があるのか」
女神は、虚ろに言った。
「いいえ…いいえ……、今、私を繋いでいるのは、この黒い血筋の娘。私の中で、無駄に足掻いて、ずたずたになっている娘の心……」
女神が、『冥』の祭主の顔で、儚げに微笑む。
同時に、内なる祭主の悲鳴が、聖洞騎士を打ちすえる。
だが、アレクシアは、目を背けなかった。
「銅の谷は、貴方の痛みを、少しも癒さなかったのか」
一瞬、女神から、赤銅色の陽炎が立ち上ぼる。
「だが、それすらも奪ったのだ。人の子は」
夜の冷えた空気が、鋭い刃を持った風となる。
それは、崩れかけた砦へ、狂ったように吹き付けた。
優しげな呪詛が、囁かれる。
「自分勝手な思惑で、一族を滅ぼした者が、憎くはないの?聖洞騎士よ。お前の剣は、何故、敵に向けられていないの。戦いなさい。その男の命を奪いなさい」
聖洞騎士は、頬に触れた女神の白い腕をとる。
「……アシェイル、それが望みか」
(アレク。……アレク…やめて。いや…私を殺して…私を…守って。兄様を殺させないで……)
女神の唇は、閉ざされていたが、『冥』の祭主の内なる悲鳴は、現実となってデモナゼン砦に反響した。
(私の心を、守って……私に兄様を、アレクを、殺させないで……!)
手をついた壁に、血の跡が付く。
「公子殿!」
ウィストリクは、よろめいた少年へ手を差し伸べた。
黒ずくめの公子は、それを拒み自分で立ち上がる。
デモナゼン城郭の抜け道は、いまだ崩壊から免れていたが、まるで無事と、いうわけにもいかなかった。
崩れた壁が通路を遮断し、思うように進めない。
公子が、ため息をつく。
「本当に、計算通りには、いかないなぁ」
「だから、もう、やめましょう。将軍さえ助けられれば、いいです」
「ウィストリク。ずいぶん利己的な発言だな」
青年は、苦々しげに言った。
「貴方にだけは、言われたくありません。何だって、いきなり人助けに目覚めるんです。体調のいい時、もっと平和な状況でやってください。これ以上、好き勝手は、させませんよ。さっさと脱出しないと…」
小柄な公子は、怪訝な表情で、育て親を見上げる。
「人助け?」
「バイザル伯令嬢の、仇討ちの助っ人に行くんじゃ…」
「いや、別に」
ウィストリクは、腑に落ちなかった。
「じゃ、従兄弟君ピリス男爵の応援で、バイザル伯令嬢の仇討ちの邪魔をしに?」
「まぁ、そうしてもいいけど……」
「……何をしに、瀕死の重症の身で、崩れかけた塔へ、昇るんですか?」
血の気のなくなった唇が、微笑の形をつくる。
「前に、ベルスンの長から聞いた御伽噺を、覚えているか?女神が砂漠を造った話だ」
ウィストリクは、唐突に話題を逸らす養い子に、苛立ちながら頷く。
「ええ」
「あれと似た話を、お前も、寝物語にしてくれた」
「似た話?」
「かつて、人の全てを統べる皇帝がいた。初代皇帝の妻の兄は、カーディーン大公家の祖となった。二代目の皇帝は、初代大公の娘を娶り、その子供達の内、一人は、三代目の皇帝となり、一人は大公を継ぎ、一人は、アーメルド公爵家を興した」
「歴史以前の神話ですね。……似てませんよ」
公子は、もどかしげに言った。
「もう一回言うけど、皇帝の妻の兄。皇帝の血統は、不可解に消え…砂漠は広がる。傑出した存在に、人の血が混じる。やがて傑出した存在は、人によって消される。やがて、復讐だか呪いかで、砂漠が広がる。よく似ているじゃないか。多分、元は同じ話…か、同じ真実、だ」
「……御伽噺ですよ?」
「…が、それを真実としている存在が、その『真実』に基づいて行動し、行動できる『力』を持っているのなら、それは、真実でなくても、結果は、そう変わるものではない」
言葉を弄ぶような説明だった。
「はぁぁぁ???」
少年の蒼白の面に、苦笑が浮かぶ。
「つまりね。この上では、おそらく、女神様が、世界を砂漠に沈めようとしている。御伽噺だろうが、真実だろうが、この際、状況に変わりはない。彼女に、その力があるのは、見ただろう」
ウィストリクは、目の当たりにしても、信じがたい惨状を思い出した。
言葉がでない。
公子は、言った。
「止めないとね。今までの苦労が、水の泡。叔父貴ももちろん、人が滅びる」
ウィストリクは、現金に我に返った。
「貴方に止められますか」
「無茶をいうな。私は瀕死の重症だぞ」
少年が、答え終わらないうちに、爆風が通路から瓦礫を吹き飛ばす。
『冥』の祭主の内なる叫びが、灰色の闇が落ちる夜に、悲痛に響いた。
吹き飛ばされた弾みに、切り裂かれた右肩が、石の壁にぶつかった。
痛みに、痛みが重ねられ、感覚を失う。
何も考えられない。
「セスリエル」
デモナゼン城郭の主は、喘いだ。
愛しい恐ろしい女神は、赫い輝きを帯びていた。
優しい声で、異邦の戦士に囁く。
「その男の命を奪いなさい」
悲痛な叫びが、反響する。
(殺させないで…アレクを…兄様を、兄様を……!)
「セスリ…エル……」
幼かった妹。
愛くるしい小さな手をしていた。
父も母もいた、幸せな情景。
奪われて失った愛する者達。
裏切りの代償に…取り戻し……だが、取り戻せなかった、夢に描いていたような妹。
美しい、あやうい魂の女。
一年半もの間、セイランの語りかけに、決して応えることはなかった……
「セスリエル…!」
ピリス男爵は、傷ついて血に塗れた腕を差し伸べた。
その先に、女がいる。
繊細な横顔に嫌悪を浮かべた、復讐の女神が。
見えない刃が、婚礼衣装を裂く。
新たな鮮血が飛んだ。
乱れた黒髪が、男爵の美貌を隠す。
その唇が、妹の名を呼ぶ形に、かすかに動いた。
アレクシアは、友の声を聞き、友の兄を見た。
よく似た一対の美貌。
これは、谷に馴染まなかったアシェイルが、心の底へ、大切に大切にしまっていた思い出の少年なのだ。
小さな妹を甘やかして、何でも言うことを聞いてくれた、両親よりも、ずっと近いところにいてくれた兄なのだった。
アレクシアは、唇をかみしめた。
女神を、『冥』の祭主を、『敵』が脅かすというなら、どのような敵であれ、剣をとって戦うだろう。
だが、これでは、身動きがとれない。
アシェイルを、その心を、守らねばならない。
女神を、女神自身の憎悪から、守らねばならない。
戦って守れるものなら、戦おう。
だが、剣をとることでは、どちらも守れない。
女神の言葉通りに男爵を殺せば、アシェイルが、傷つく。
アシェイルの心を守るためには、女神をとめなければ、『冥』の祭主を斬らねば、ならない…そんな事はできない。
守るということが、これほど複雑であるなどと、考えた事もなかった。
いまいましい悪党の言葉が、聖洞騎士の脳裏に蘇る。
(守られる側は、どう思うかな……)
あれが、この事態を見越しての言葉なら、今度こそ、たたっ斬ってやる。
しかし、残念ながら、悪党の公子にとっても、これは、事前に予測できるような凶事ではなかった。
ある意味で、強運である。
「セイラン。城主たる者、自分の城で膝をつくなよ」
傾いだ砦の、外気に晒された螺旋階段に、新たな人物が現れた。
倒れ掛けた男爵が、踏みとどまる。
「公子殿」
男爵の驚愕の陰で、銅の谷の戦士は、小さく言った。
「……悪党」
赤錆びた月光のもと、人の悪い微笑は、少年を魔物じみて見せた。
「セイラン。若輩の私が言うのも何だが、女に迷うのは、戦が終わってからにしてくれないか。バナディが、泣くぞ」
「セスリエルは、ただ一人の妹です」
「知ってる。セイランと言い、ヴィスと言い、従兄弟殿達の妹自慢には、耳にタコができてるな。だが、ありがたい事に、一人っ子の私には理解できない。敢えて言わせていただく。たかが妹、だ。城主たる役目を果たせ。役目の障害になるなら、切り捨てろ。代わりに私が、除いてやってもいいんだぞ」
公子は、男爵の剣を拾った。
切っ先を、儚げな肢体の少女に向ける。
「セスリエル・ピリス男爵令嬢か。初めて、お目にかかる。美しい従姉妹殿」
女神の微笑が歪む。
空間がきしんだ。
それは、女神の憎悪の重圧だった。
「…お前か……」
女神に、何かが起こった。
その瞳は赫く狂喜に輝き、燐光を帯びた髪が、生き物のようにざわめいた。
「お前、…お前…お前だ。我が愛し子を殺した、人の子の王!」
「いつ、の話だ。『女神』よ」
少年は、不敵だった。
男爵を切り裂いた見えない刃に襲われながら、女神に向けた切っ先を、ゆるがせもしない。
血飛沫が、男爵の顔面にまで飛ぶ。
アレクシアは、動けなかった。
少年と女神の会話の意味が、理解できない。
理解できたのは、公子が、女神の憎悪を受けて立ったことだ。
「どれほどの時が流れようとも、お前の罪は消えない」
黒い髪の悪党は、声をあげて笑った。
「まことにな。罪は消えぬさ。愛も憎悪も擦り切れるが、罪を犯した事実は消えない。だが、女神よ。それが、どうしたというのだ」
銅の谷の女神は、凍りついた。
吹き荒れていた風が止む。
女神の双眸には、冷えた輝きが宿った。
「何故、殺した」
「必要だったから」
「何故」
「言わねば解らないか。欲望のためにだ。自分のために、愛する者のために、信ずることのために、罪は犯されるもの。女神よ、お前だとて、我が子を殺した人の子を、追い詰めるため、楽園を引き裂いたではないか。お前が愛していた筈の、小さな生き物たちはどうした。乾いて朽ちた木々は、悲鳴をあげなかったのか」
かつて、このような弾劾は、されたことがなかった。
銅の谷の聖洞騎士は、もちろん、ピリス男爵やウィストリクまでが、戦慄を覚えた。
いかに異邦の神であろうとも、冒涜であり、あまりに危険な挑発だった。
少年の声が、ふいに優しくなった。
「だが、…そうだな。それが…どうした、というべきだろうな。少なくても、私は、そう言うよ」
銅の女神の唇が、ゆっくりと動く。
「お前を引き裂いてやろう。最後の肉片を砕くまで、意識を残してやる。お前だけ、を引き裂いてやる」
公子は、神の呪詛を受けて、尚あざ笑った。
「そうだ。憎悪しか持ってないなら、せめて標的を間違えるな」
ピリス男爵は、従兄弟によって、自分の剣が妹に振り下ろされるのを、なす術もなく見た。
赤銅の髪の流れが、目に写る。
剣が剣を撃つ音が、肺腑に響く。
呪われた公子が、守護の騎士に向かって苦笑する。
「アレク。立ち会いは、体調のいいとき暇な状況でしたいな。体格差が、もちょっと縮まってると尚いい。このままでは、なかなか不公平だよ」
アレクシアの声が、獰猛な響きを帯びた。
「ふざけるな」
重症を負っている筈の少年が、難なく聖洞騎士の剣を受け止めた。
「怪我人相手に、手加減しようって気は、ないのか」
「こんな元気な奴のどこに、手加減する必要がある」
「そりゃ、アレクに守って貰ってたからねぇ。楽してた分、余力が……」
アレクシアの剣が、空気を唸らせて撃ち降ろされ、公子の剣の刃を音を立てて欠いた。
それでも、少年の余裕は消えない。
「なるほど、女神を宿す女に、アレクのような戦士がついているということは、裏を返せば、『冥』の祭主とやらは、剣で斬れるということだな」
「馬鹿者が。女神に、ずたずたにされたいのか。体はアシェイルでも、力と意識は、女神のものだぞ」
剣の柄を握る少年の手首から、血が伝い落ちる。
「これ以上の番狂わせは、ごめんだ。どうせ死に掛けだし、私の命で足りるなら、くれてやってもいいかと思ったが、女神を倒せるなら、やってみよう」
本当に、どこに、そんな力が残っていたものか、激しく剣を撃ち返す。
公子は、銅の谷の戦士が、剣を引く瞬間を捕らえた。
欠けた剣を叩きつける。
アレクシアは、投げつけられた剣を払う。
その一動作の隙をつかれた。
血の伝う腕が、『冥』の祭主を的に、短剣を投げる。
それは、先刻、刺客を倒したものと、同一のものだった。
こいつにとっては、所詮、女神も刺客も、復讐で頭に血の昇った扱いにくい奴、に過ぎないなのか。
銅の谷の戦士は、あまりの冒涜行為に、それこそ、頭に血が昇った。
「セスリエル」
ピリス男爵が、叫ぶ。
白い夜衣に突き立った短剣は、心臓を射抜いていた。
……だが、銅の女神は倒れない。
再度、聖洞騎士の剣を躱した少年が、鋭く舌を打つ。
「不死身か」
女神の繊手が、無造作に、我が身から短剣を抜く。
投げ捨てられた短剣が、乾いた音を立てる。
「この身は、不死なのではない。『冥』の祭主は、死の夢を奉じる者。もとより、死者よ」
女神の哄笑が、アレクシアを打った。
知らなかったわけではない。
女神を癒す夢を送る祭主の中にあって、『冥』は、特別な存在だった。
『冥』の祭主は、女神を、死の眠りにとどめる役割を担う。
死を知る者は、死んだ者のみ。
谷の秘術で、反魂された死人なのである。
(そう、アシェイルを封じていた小さな聖域には、どういう訳か、谷の秘香が焚きこめられていた。だからこそ、谷の外でも朽ちることなく生きていたのだ)
アレクシアを打ちすえたのは、女神の憎悪だった。
それは、アシェイルにも向けられている。
「切り刻むがいい。この女とて、お前の血族であろう。同じ血の匂いがする」
少年は、肩をすくめる。
「めんどくさい。死にもしないものを、切り刻んでどうする。女神よ。好きにしろ。だが、私だけにしておけ。標的を間違うなよ」
赫い輝きが、意識を焼き尽くす。
ピリス男爵も、ウィストリクも、立っているので精一杯だった。
自分の指一本、動かすことが儘ならない。
聖洞騎士が、まして公子が、平然としているのが信じられなかった。
儚げな少女の肢体した者が、静かに歩み出す。
「いいえ。思い直したわ。お前の大事なものを、お前より先に葬ってやる。見ているがいい」
公子は、笑おうとして、果たせなかった。
もう、それほどの気力はない。
次に、何が起こるか知っていれば、尚更だった。
「堕ちたものだな。豊饒の女神が……。頭に血が昇っている奴の相手は、本当に、苦手だよ。何一つ計算通りには、いかない」
女神の指先が、少年の頤に掛けられ、向きを変える。
……砂漠が、泡立った。
赤錆びた月光が、幻想的に砂原を照らす。
奇怪な眺めだった。
次から次へと、巨大な泡が立ち、弾けた。
莫大な砂が、人々に襲いかかり、その重みで埋め尽くす。
人々の悲鳴は、遠く、塔の高みへ届かない。
女神は、恐るべき微笑みを浮かべた。
「砂は、人を拒む。豊かな楽園、美しい森も、澄んだ湖も、小さな生き物たちも、捨てよう。人の営みのための何もかもが、いらない。人の子の王よ。もう、人は生きて行かれない。お前の罪ゆえに」
少年は、無表情に、下界の惨状を眺める。
石造りの壁が、ちりちりと音を立てて震えた。
灰色の闇が落ちる夜、デモナゼン砦は、すべてが崩壊する中で、孤高の怪物のようにそびえたつ。
聖洞騎士は、女神の憎悪と復讐を見つめていた。
この復讐を、遂げさせるわけにはいかない。
女神が切り刻んでいるのは、世界なのだ。
そして、それを育んだ女神自身をも、傷つけている。
そこまでする憎悪。
その復讐が果たされてしまった刻、女神はどうなるのか。
銅の女神を守る為に、女神をとめなければならない。
聖洞騎士の力、それは、女神から引き出される。
意志の力で女神に勝れば、女神の力を殺ぐことができる。
この圧倒的な憎悪を越えることが、……できなければ、ならない。
だからこそ、女神は、聖洞騎士を、『軛』と呼んだのかもしれない。
琥珀の瞳が、輝きを帯びる。
空気をきしませた重圧が、消え、風が蘇った。
赤銅の輝きを宿した女神が、ゆっくりと振り向く。
「やはり、私の邪魔をするのね」
「何度でもいいます。女神よ。貴方を愛しています。だから、貴方をとめる。貴方は、破壊の神ではない」
『冥』の祭主の顔が、儚げに微笑む。
「愛しいアレク。いったでしょう。お前を砂の柱にすることもできると……。そう、したくなかったのに」
(アレク……!)
『冥』の祭主の悲鳴とともに、女神の力が、聖洞騎士を襲う。
崩れ掛け傾いだ砦が、衝撃で震える。
楼鐘の鐘が、甲高い音を響かせた。
アレクシアは、自分の中に、女神の力が満ちるのを感じた。
閃光と同時に、周囲の床も壁も、抉られ、砂塵となって散る。
アレクシアの中にあった聖洞騎士の力と、女神の力が、ぶつかったのだ。
聖洞騎士は、身じろぎもしない。
その身体は、女神の力に引き裂かれ、無数の傷を受けていた。
鮮血が、ゆるく滴り落ちる。
「女神よ。深淵に還ってくれ。貴方は、やすらいでいたのに……」
「騙されて、繋がれていたのよ」
聖洞騎士を傷つけた女神は、アシェイル本人のもののように、どこか怯えた、震えを帯びた声で言う。
アレクシアは、柔らかな微笑みを見せた。
「騙して、繋いでしまっても、守りたかったのだ」
どれほど、粘れるだろう。
女神の自分自身を傷つけるような力を、少しでも、殺がねばならない。
アレクシアは、遠くなる意識を、頑固に押し止どめ、女神の力を手繰り寄せ続ける。
身の内に外に、女神の力をこれ程に受けたことはなかった。
意識が、女神の心と繋がれる。
それは、祭主の能力だった。
女神の中で消え入りそうなアシェイルの心が、すがりついてくる。
(アレク。お願い。貴方の力を解放して。貴方は、聖洞騎士であり、祭司にして、稀なる祭主。安らぎの夢を贈る祭主ではなく、女神を守る『半神』、銅の谷の始祖を宿す、唯一人の祭主なの)
(アシェイル……どうすれば…)
(『彼』は、もう来ている。貴方が生まれた時、女神が目覚めかけた時、貴方の中に、とうに……)
変貌は、たやすく起きた。
アレクシアでないものの意識が、奇麗に本人のものと重なる。
背の半ばまでの艶やかな赤銅の髪が、更に伸びた。
生真面目な表情が、微妙に変化する。
女神が、たじろいだ。
「アレクシア……?」
「いいえ、この者は、祭司にして、聖洞騎士。聖洞騎士にして、祭主である稀なる者。女神ではなく、私のための、唯一の祭主です。お久しゅうございます。我が父の母なる女神よ」
銅の谷最後の祭主に、忘れられた神が宿った。
神の子と、人の子の間に生まれた半神は、祖母である神へ挨拶を贈る。
そしてまた、黒髪の小柄な少年へ微笑みかけた。
「お久しゅうございます。我が母の兄たる人の子の王よ。随分、可愛らしい器をお選びですね」
公子が、顔を顰める。
「『半神』?……」
清澄な空気が、優しく流れた。
新たに神を宿した、祭主の腕が上がり、世界に力を送る。
宥めたといった方が、正しいかもしれない。
泡立つ砂原は、最後の一呼吸をすると素知らぬ振りで鎮まった。
風は和らぎ、きしるような圧迫感が去る。
ウィストリクとピリス男爵は、期せずして同時につめていた息を吐き出す。
人の子の王と呼ばれた公子は、うさんくさげに新たな神を睨んだ。
「……壊れた建物とか、人命の被害は?」
半神は、声を挙げて笑った。
「相変わらずですね。生憎、私のできることには、限りがあります。こぼれた水は、戻せません」
呪われた公子は、切り替えが早かった。
「まぁ、いいか。やられた奴の半分は、敵だ。ところで、お前にとって、私は、母の兄である前に父の仇にあたるんじゃないか?」
半神は、陽気で無垢な笑顔を持っていた。
「忘れたんですか。父自身が、許したものを、私が、仇をとろうとは思いません。私は、銅の女神の騎士です。彼女を守るために、この世に戻りました」
女神のものと、よく似た、だが、ずっと澄んだ暖かい赤銅の輝きが、辺りを照らした。
「我が女神よ。目覚めた貴方に会えて、うれしい。貴方の眠りを、娘たちに託して、私もまた眠り続けて来た。いつか、癒された貴方に、会えるように。その時には、貴方の微笑みが、また見たかった。でも、少し早かったようですね」
半神は、無防備に、女神に向かって、腕を広げた。
銅の女神は、震えた。
「お前は、私を封じた」
「貴方を守るためなら、どんなことでもします。貴方の意向に、逆らう形になってしまいましたけど。彼を殺しても、父は戻りませんし、仇すら、いなくなったら、貴方には、何もなくなってしまったでしょう」
女神の破壊の力が、自らの騎士に向けて、放たれた。
半神は、聖洞騎士がしたように、敢えて避けない。
聖洞騎士の生身の体が、切り裂かれる。
銅の谷の始祖は、無垢な微笑みを曇らせることをせず、女神の華奢な肢体を抱いた。
「貴方は、いつも、私の言うことを聞いてくれない。これだけは、聞いてください。こぼれた水は、戻せません。でも、貴方の為に、いつか父を取り戻しましょう。だから、人を滅ぼしてはなりません。父の血は、半神となった私と、人の子として生まれついた弟に、受け継がれ、その末裔の中に残されています。その血の交錯が、いつか、父の器にふさわしい者を生み出すでしょう。今、私たちが、こうしているように」
女神の赤銅の瞳が、見開かれた。
憎悪しかなかった女神の中に、別の感情が芽生える。
「あの子を?」
「ええ。皮肉なことにというか、当然というか、父の血は、人の子の王の血筋と、分かちがたく絡み合っています。彼の血筋を守らねば、父の蘇りも、ないでしょう。彼の血筋は、罪滅ぼしのように、父の血を守ってくれています」
女神は、美しく微笑んだ。
「あの子に会えるのね」
半神は、あやすように、腕の中の女神へ囁いた。
「そう遠い事では、ありません。今は、深淵でお眠りなさい。いついかなるときも、私が貴方を守ります」
赤銅の双眸の上に、瞼が降りた。
半神が、愛しげに微笑む。
銅の谷の女神は、再び深淵の眠りに落ちた。
ついで、半神の心も、翔け去った。
神々が去り、二人の祭主は、その場に、くずおれた。
「アシェイル……」
満身創痍の聖洞騎士は、守護すべき祭主の名を呼んだ。
漆黒の髪の少女は、腕の中で身じろぎもしない。
女神の微笑みを写した、優しい顔が、赫い月光に晒される。
それは、遠い昔に死んだ娘の抜け殻だった。
いつも、どこか脅えているようだった祭主は、至福の微笑みを見せて死んだ。
……死の眠りに戻った。
やがて、その遺骸は、こんどこそ反魂されることもなく、朽ちて行くだろう。
私は、彼女を守ったのだろうか、殺したのだろうか。
生まれて初めて、涙が頬を伝う。
もう、アシェイルは、いないのだ。
守るべきものは、いない。
「アレク。行くぞ」
呪われた公子が、高飛車に言った。
振り返ったアレクシアは、呆然と問い返す。
「何故……」
「砦が傾いてる。すぐに崩壊するぞ。脱出しないと、巻き込まれる。死にたいのか」
巻き込まれたからといって、何だろう。
すべてのしがらみが、今度こそ無くなった。
そう、死んでもいいかも知れない。
答えるのも、おっくうだった。
公子が、怒鳴った。
「アレク、立て。立たないと、これしきで腰が抜けたと、一生せせら笑ってやる。セイラン!お前もだ。無駄に死ぬのは、許さん。外を見ろ。まだ敵が残っているぞ。城主が、惚けていてどうする。攻め込まれれば、城下の住民は、妹どころが、親兄弟から自分の命まで奪われるのだぞ。死ぬなら、戦って死ね!」
セイランは、のろのろと顔を上げた。
「私には、もう何もない」
「嘘をつけ、バナディと、新妻をどうする。私は?私なぞ、親は、年に数度式典で、顔を見るだけ、兄弟はなし、残された肉親は、叔父貴とセイランだけみたいなもんだ。私を残して逝くか」
「私は、貴方を殺すところだったんです」
公子は、笑った。
「知ってるけど、でも、言ったろう。何があっても、従兄弟だと」
ピリス男爵は、小さな従兄弟を抱き寄せた。
ウィストリクが、複雑な顔で、それを眺める。
アレクシアが、思わず呟いた。
「四人目の過保護……」
公子は、従兄弟に、きつく抱き締められながら、じたばたしている。
あれは、傷に響くだろう。
「後で、やりなさい。後で」
ウィストリクに促されて、愁嘆場が切り上げられ、やっと脱出の途につく。
聖洞騎士は、走りながら、公子に声を掛ける。
「人の子の王の祭主なわけか。お前は」
「馬鹿をいうな。人間は、子孫に乗り移れるほど器用じゃない。女神様に、合わせただけだ」
アレクシアは、階段を踏み外しそうになった。
あの修羅場が、全部『合わせた』だけなのか。
「それより、アレク。あの『半神』は、本物?アレクの芝居じゃなくて?」
目眩がした。
これは、冒涜どころじゃない。
人の子の王が、こんな奴なら、半神は取り敢えず、たたっ斬っておくべきだったのではなかろうか……
その夜。
デモナゼン砦の半分は、砂塵と化して散り、残された半身が支えを失って、耐えかねたように崩れた。
土煙と轟音の中で、澄んだ鐘の音がなり響く。
続く怪異に、人々は脅えた。
戦意など、とうに吹き飛んでいたが、事情を知らぬ後方の指揮官の指示によって、戦いは行われた。
こうして、怪異による夥しい死傷者も、戦死として処理されることとなり、真実は葬られた。
残ったのは、デモナゼン城郭の残骸と、幾通りもの恐怖譚である。
それすらも、いつしか、砂に埋もれ、忘れ去られるだろう。
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