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飛鳥U世界一周2007航海記

2.エジプト

2007.08.06. 掲載
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4月18日:ブリッジ見学、ヒエログリフ、伍芳
4月19日:イルカ、カジノ、アラビア海の夕陽
4月20日:スエズ運河、2回目フォーマル・ナイト
4月21日:紅海、細川先生の「イスタンブール」
4月22日:原副船長の「スエズ運河よもやま話」
4月23日:シャルム・エル・シェイク、カイロ
4月24日:カイロ充実1泊2日の旅 健脚コース
4月25日:スエズ運河を通過
4月26日:エジプト、ビール、アイーダ、スエズ
    
写真の多い「 写真集2.エジプト 」に移動する

4月18日:ブリッジ見学、ヒエログリフ、伍芳

マーレからスエズ、地中海までの航路

これまでは、記事を掲載した日付で前日の航海記を書いて来たが、書いている本人もややこしくなるので、今回からは日付通りの記事にすることにした。また、毎日記録は残しているが、それをまとめてUPする場合があっても良いだろう、もう、オマケの人生なんだから。

昨日、ブログにモルディブと誕生日のことをUPしたが、これまでの2週間の中で、一番長文になってしまった。

その後、松本先生の「ヒエログリフ文字教室(講義)」を受講すると、難しそうに見えたこの象形文字が身近に、感じられるようになった。

アルコール解禁日に飲んだビールは、なぜか少し苦く感じた。3ヶ月以上飲んでいなかったせいか、妻が心配、心配というので、気分が乗らなかったのか、よく分からない。2日目からは、本来のビールの味が戻ってきた。昨夜私の顔が赤かったのは、モルジブでの日焼けのせいだと分かって、妻の監視の目がゆるんだせいもありそうだ。

今日は、乗船以来一番ゆっくりくつろげた感じがする。久し振りに、6時前に早朝ジョギングをしたら、踵の部分が痛くなり、小さな水ぶくれができたので止めた。グランド・スパに浸かると、両腕がヒリヒリ痛む。モルジブの太陽は強烈だったのだ。現地ガイドの日本女性から、ここは日本の4〜5倍の強さの紫外線を受けるので、厳重に日焼け止めクリームで防御し、帽子、サングラスを着用するようにとの忠告を受けたのを思い出した。彼女の顔は、現地人に負けないほどの黒褐色をしていたが、彼女の言は正しかったのだ。

昨日に続いて「ブリッジ見学」が催された。飛鳥Uを操縦する超近代的なブリッジに、熊野神社のお守りが飾られ、立派な神棚も設けられている。その不釣合いが可笑しい。ブリッジの両脇のドアを開けると、見張り用デッキが海面上に突出している。この真下は大海原で、壮観だ。ここからは、飛鳥Uの船体の側面がよく監視できる。あのマラッカ海峡を航行中は、きっとこの場所が、海賊早期発見の最重要の場所だったのだろうと想像した。

その後、妻は芳村真理氏の「洋服のトレンド”モードを先取り”」の講演を聴くために部屋を出て行った。会場のハリウッド・シアターは超満員だったそうだ。驚いたことに、その中に男性も多数いたという。往年の芳村真理氏の現在を知りたいということなのかと推定したが、私はまったく関心が湧かなかった。

私はというと、昨日の続きの「ヒエログリフ文字教室」に参加した。先着30名のみ受付締め切りで、入れてもらえない人もかなりいたようだ。松本先生は、パピルスを配られ、テキストをもとに、このパピルスに自分の名前などを書くようにと仰る。

そこで、私は、NOMURA  ASUKA 2007年4月18日とヒエログリフで書き、色鉛筆で色付けをして、マジックペンで縁取りをしたら、カッコよく仕上がった。インストラクターの女性が回って来て、「きれい」と言ってくれる。松本先生も、「きれいに書けましたね」言われるので、私は有頂天なのだが、「これで間違っていませんか?」などと関係ない質問をしている。しかし、嬉しくて仕方がないのは、まる分かりだったかもしれない。

部屋に戻ると、妻も「きれい、私のも欲しい」という。明日も「ヒエログリフ文字教室」があるから、自分で書いてくれば良いものを、ヒエログリフは難しくて分からないから駄目というのだ。しかたがないので、これは、「NOMURA」だけだから、二人共通だと言うと納得した。早速、写真に撮ったので、帰国後、是非見ていただきたいと思っている。このパピルスに書かれた文字が、5000年を経た今も、そのまま残っているということは何と素晴しいことだろう。

夕食後、伍芳(ウー・ファン)さんのコンサートがギャラクシー・ラウンジで開かれた。彼女は、2000年前から伝わる、21弦の中国古筝で、中国の曲、日本の曲を演奏した。日本の曲では「赤とんぼ」「蘇州夜曲」などが弾かれた。この筝の演奏は、華やかでいて寂寥感が漂い、メロディーをトレモロで奏でる部分に少し違和感があったが、それは、この楽器の特徴なのかも分からない。また、2曲ほど演奏を終えると調弦をしなければならないのも、そのような構造の楽器なのだろう。

伍芳さんは、日本語が美しく、控えめでしとやかなので、すっかり聴衆を魅了してしまった。その上、舞台を去る姿勢が素晴しい。長身の背筋を真っ直ぐ伸ばし、凛とした雰囲気を漂わせている。最近の日本の若い女性は、背が高いが、その多くが、背を丸めて貧相だ。だから、この伍芳さんの美しい歩き方が目に焼きついている。

<メール>

◆MH | 21 Apr 2007 14:24:49
本船が西に進むにつれて時差が大きくなります。アメリカ東海岸では13時間。夜昼が逆転します。 余談ですが、日米貿易がうまく行ったのは、時差の加減もあると思います。日本から仕事の結果を米国に連絡して帰宅する頃には米国が朝出勤してきます。

*ヒエログリフ文字
エジプトのあの文字ですね。漢字と同じく文字自体が意味を持つのかと思っていましたら、表音文字なのだそうですね。これを見つけた人は偉い!あの文字は誰が見ても象形文字です。

*ブリッジ見学
面白そうですね。熊野大社のお守りがあるとは船乗りのメンタリティーが変ってないことでしょう。一体に船乗りは迷信深いのです。例えば三毛猫のオスは船乗りに高く売れると言われました。遺伝上 三毛猫にオスは殆ど居ないのですが、天気を良く当てるのだそうです。

*伍芳さん
彼女の弾く21弦の古筝はリュートのようなものでしょうか。どちらも調律が大変なようですね。立 ち姿が優雅とは、一度お会いしたいものです。

ブリッジ見学

ブリッジに神棚が!

見張り用デッキから見た飛鳥U右舷(船尾方向)

ヒエログリフ文字教室での私の作品


4月19日:イルカ、カジノ、アラビア海の夕陽

飛び魚が海面を飛ぶのは数日前からよく見たが、イルカを見たのは今日が初めてだった。アラビア海を北西に向けて航行中のことである。右舷側にイルカの群を発見という船内放送を聞くや、ビデオを手にバルコニーへ飛び出すと、2〜3頭づつ、海中から飛び跳ねている。飛鳥Uは時速19ノットで航行中だから、どんどん後に離れて行くので、ビデオカメラを望遠にして、現れるのを待ち構え、何度か撮影に成功した。

午後から「ハリウッド・カジノ」が開かれた。前日各部屋に配られた「カジノ・チケット」をチップと交換して、カジノ遊びを楽しんだが、ルールがあまり分からない私たちは、瞬く間に全財産を失ってしまった(笑)。

部屋に戻ると「古代エジプト象形文字ヒエログリフ入門講座」の修了証が届けられていた。私の宝物がまた一つ増えた。

夕食は初めから第1回目組と第2回組みの2組に分かれていて、私たちは第1回組を選んだので、常にその順番になっている。クルーズの最初の夕食をご一緒したご夫妻とカジノで出会って、私がアルコール解禁と分かると一緒に食事をしながら飲もうということになった。この方達は2回目だと言われるので、内緒で2回目組に紛れ込むことにした。

キャビンで夕食の時間待ちをしていると、船内放送があり、日没が間もなく左舷で見られるという。それを聞くや否や、ビデオカメラとデジカメを手に最上階のスカイデッキに駆け上った。そこにはアラビア海に今まさに沈もうとする夕陽があった。美しい!素晴しい!

ビデオとデジカメにその美しい映像を収めることができた。これほど美しい夕陽を見たことがない。夕食を2回目に変えたことによって、こんなに幸運に巡りあえたのだ。聞いてみると、件のご夫妻も自主的に2回組に変更されたのだという。圧倒的に1回組みが多くて混みあうので、2回組に変更されたとのことだが、船の方もその方が望ましいので、黙認してくれているのだろう。

食事を終えて、3回目の星座観察に参加した。船のライトを消した中で満天の星を眺める最後の機会だからか、たくさんの人がスカイデッキに群がっている。2等航海士の楽しい説明を聞きながら、アラビア海の天空を眺めた。今日は、いろいろな自然を観察することができた。その上、ビールの味が昨夜から美味い。昼にはアルコールを摂らない、というこれまでの習慣をキッパリ変えた。幸せだ。

ここまで書いてきて、良いことばかりではなかったことを思い出した。14日夜の船内新聞で「かくし芸大会出場者募集」を知って、翌日申込みに行って、「マイ・ウエイ」を唄いたいと言ったら、面白い一芸を持っている人が望ましいという。誰かの物真似をして唄うとか、間に面白いな芸を入れるとかできないか?と尋ねられるが、そんなことができるはずはない。できないから、取り下げると言うと、申込みだけしておいてくれと言われるので、「ダメモト」で、一応申込み用紙に書くだけはしておいた。

その締切が終り、本日ご丁重なお断りの電話があった。そして、クルーズ期間中に紅白歌合戦も予定しているので、そちらにも応募できると気を使ってくれたが、もう応募はしない。もともと、歌が上手いと思って応募したのではなかったのだから、、、

自分は「マイ・ウエイ」をホントの人生の目標として生きてきた。それを終えて、今はオマケの人生に入っている。この飛鳥Uに乗船されている方の中にも、同じ気持の方が、たくさんいらっしゃるだろう。皆さん、オマケの人生をエンジョイしましょう!という呼びかけをするつもりだった。一人くらい、このようなクソまじめな話が入っても良いと思って応募したのだが、振られてしまった。しかし、お気遣いはご無用。いつもの通り、私はこれを「酸っぱいブドウ」にしてしまっている。

<メール>

◆MH | 21 Apr 2007 14:24:49
*マイ・ウエィ
大兄に賛成。この歌はシナトラに限ります。一寸衰えた声で歌うシナトラのマイ・ウエィは心に沁みました。人それぞれに人生があり、夫々にこれでよかったと歌い上げるべきと思います。

折角娑婆から遠ざかったのですから、船のスケジュールに縛られたりしないようにしてください。それこそ勿体無い。好きな時間に寝起きして、ビールを呑んで昼寝して、気が向けば航海日記を書き、メールに返事を出しでよろしいのではと思います。徹底的にサボって見て、必要に応じてスケジュールを繰り入れるのも一案です。

イルカのジャンプ(ビデオスナップ)

ヒエログリフ入門講座修了証

シーザーに扮するキャプテンが胴元のブラックジャック

アラビア海の夕陽



4月20日:スエズ運河、2回目フォーマル・ナイト

松本 渉先生の講演「地中海と紅海を結ぶ4000年の歴史」は、これまでの松本先生の講演と同じで、大変勉強になった。紀元前521年にエジプトを支配したペルシアのダリウス1世が、紅海とナイル河を結ぶ運河を完成し、さらには紅海と地中海を結ぶ運河を作ろうとした。

それから約2300年後の1798年に、エジプトを征服したナポレオンは、この運河堀削の跡を見て、ここに再び運河を作ろうとして、技師達に測量をさせた。その結果、紅海の水位は地中海のそれより9cm高く、もしも運河を作れば、地中海に紅海からの海水が溢れこみ、大災害になると進言した。そこでナポレオンは仕方なく運河を断念したが、技師達の測量は誤りだった。

その約70年後の1869年に、フランス人のレセップスが、スエズ運河を開通させることになるまでの歴史を詳しく教えていただいた。私は松本先生のお人柄に惚れこんでしまい、飛鳥のショップに並べられていた先生の著作をさらに2冊購入し、またサインを頂いた。これで合計4冊購入したことになる。

この日は、2回目のフォーマルナイトだった。前回はいろいろドジをして、パーティーに遅れてしまい、かなり慌てたので、今回は少し早めに出かけた。めかしこんで行ったら、前の事情を知っている方から、今日はカマーバンド大丈夫?とからかわれ、大笑い。1回目は、乗船直後で、知った人も少なく、あまり気を使うこともないが、2回目となると、乗船客がかなり分かってくるので、服装はきちんとした方が良さそうだ。私は白のタキシードの上着に赤の蝶ネクタイ、妻は息子の結婚の時に作った黒のロングドレスを着用した。

2回目のフォーマル・ナイト

星の王子様の二等航海士



4月21日:紅海、細川先生の「イスタンブール」

飛鳥Uはアラビア海から紅海に入り、進路を北西に向け航行している。アラビア海も紅海もインド洋の一部で、インド洋は太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。五大洋という場合内は、これに北極海と南極海が加わる。このようなことは、今回の世界一周クルーズに参加するまでは、忘れてしまっていたことだった。

紅海の名前は知っていても、具体的には何も知らないのと同然だったが、数日間に亘ってここを航海している間に、いくつかのことを知ったので、これもご紹介しておく。

紅海の東はアラビア半島、西はアフリカ大陸である。英語でも Read Sea というが、なぜ赤なのかは諸説があるらしい。船内放送で、30数年前までは、紅海を北上する客船の左舷側のキャビンの代金は、右舷側よりかなり安かったとキャプテンは話していた。それは、紅海が北西に位置しているため、客船の左舷側は常に西南側からの強い日差しを浴び、クーラーが無かった時代には、耐え難い暑さだったからだと言う。治安があまり良くないので、紅海の沿岸沿いを避けて、真中を航行しているとのことだ。今度は海賊よりも、もっと危険があるのかも知れない。

TV放送されている航路図を見ながら、持ち込んでいる地球儀で調べると、エチオピアのすぐ近くだったり、サウジアラビアのメッカが、すぐ右側にあったりして、興味が尽きない。次はエジプトのシャルム・エル・シェイクに寄航するが、ここはシナイ半島の南端にある。モーゼのエジプト脱出の舞台になったところだが、今ではエジプト随一のリゾート地として有名だという。

午後は細川直子先生の「魅惑の都 イスタンブール」の講演があった。ビザンチン帝国の首都として約1000年、オスマン帝国の首都として約600年。民族が行き交い、その繁栄と興亡を見守ってきた都市イスタンブールを、歴史をたどりながら、その魅力を話された。



4月22日:原副船長の「スエズ運河よもやま話」

朝から、原副船長の「スエズ運河よもやま話」の講演があった。スエズ運河の航路図を使って、見どころを中心にいろいろ話され、撮影の参考になるところが多かった。飛鳥Uのスエズ運河通行料が約3100万円というのには、皆驚いていたようだった。

午後は芳村真理氏の「和服の魅力”今こそ着物を着よう!”」という講演があり、妻は出ていったが、私は興味がないので、キャビンに残ってこれを書いている。明日から、エジプト観光が始まる。楽しみだ。

<コメント>

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年4月23日 (月) 07時35分
BOWさん、楽しんでますね、こちらも読ませて戴いて楽しいです。是非書き続けて下さい。BOWさんの白のタキシード姿や奥様の黒いロングドレスなど、読むと同時に想像しています。どなたかにBOWさんのデジカメで写してもらっておいて下さいね。

地球儀を持ち込んでいるとは何と用意周到な、と驚きました。それにスエズ運河通行料約3100万円とは新発見です。もっともっと驚きをご提供下さい。お願いします。

◆投稿 BOW | 2007年4月23日 (月) 14時04分
ヒマジンスキーさん、こんにちは!
嬉しいコメント、励みになります。今朝シャルムエルシェイクに着きました。ちょっとしたカルチャーショックです。明日はピラミッドなど古代エジプト文明をこの目で見ることができます。スゴク楽しみです。

◆投稿 Muチャ子 | 2007年4月26日 (木) 02時43分
DrBOWさん
メチャクチャ、ご夫婦でエンジョイしていらっしゃるご様子が伝わってきま〜す!読んでる私も大発見に驚いたりワクワクしながら楽しんでいます!白のタキシード、黒のロングドレス、ツーショットでHPへ!お待ちしていま〜す。

◆投稿 BOW | 2007年4月26日 (木) 14時44分
Muチャ子さん、こんにちは
お読みいただきありがとうございます。エジプトは期待していた以上の収穫がありましたが、期待していなかった災難にも遭遇しました。そのうちまとめてUPしますので、またのご愛読をお願いします(笑)

<メール>

◆MH | 23 Apr 2007 19:58:56
*エジプト
松本 渉先生とは統計学のあの先生でしょうか。目的地に向かいながら、そこの知識を聞くのは格別でしょう。特にエジプトは面白いのでしょうね。実は長女がアメリカで小学校6年生の時、エジプト美術を論文のテーマに選びました。それ以来その魅力から離れられないらしく何時かは何かを書きたいようですよ。

*パーティー
タキシードでロングドレスの奥方共々パーティに出るのは気持ちいいでしょうね。白と黒のコンビはなかなかですよ。船旅が長くなり知人ができると、おっしゃるとおり服装には神経を使いますよね。

*暑いキャビン
冷房がなければ左舷の船室は耐えられない暑さでしょうね。昔、日本の軍艦は冷房を軽視したそうです。気合で解決せい、です。南方での作戦では暑さでぼーっとなるでしょう。瞬間の判断を要求される戦争に勝てるはずもありません。昔話として笑っていますが、サラリーマン最後の会社で補給軽視、リスク概念の薄さと言う日本が戦争に負けた原因がそのまま残っているのを見て寒くなりました。



4月23日:シャルム・エル・シェイク、カイロ

エジプト国旗

エジプト北部

シャルム・エル・シェイクはシナイ半島の南端にある。飛鳥U世界一周クルーズの3番目の寄港地であることを知った時には、まったく知らないところだった。その上、名前が覚え難く、すらすら言えるようになるまで、何度もくりかえした。

ここに寄港して、朝日を浴びた荒涼たるシナイの岩山が連なる光景を目にした瞬間、人を拒絶しているように感じた。ここからカイロへ飛ぶ途中の飛行機からシナイ山を見たが、その印象はより強くなった。モーゼはユダヤの民を引き連れて、ここを通り、エジプトを脱出したというが、それがどれほど過酷な行程であったか想像できる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という強烈な一神教が誕生する背景には、このような厳しい自然があったのだろうということにまで、思いは飛躍した。

寄港した時に驚いたもう一つは、この港の岸壁のすぐそばにある高台に、半壊した建物がそのまま放置され、その高台から水面までの崖の部分は崩れかけたままの状態で、ゴミも散在していることだった。港の反対側の海には、数え切れないほどのきれいな白いレジャー船が浮かんでいる。そのアンバランスが不思議だった。ここは、エジプト唯一のリゾート地であるというのに、私たちなら醜く思って必ず取り除くものを、そうは思わずに放置しているのが現在のエジプト人の感覚かもしれないと思った。

その感想は、カイロをバスで移動している間、あるいはホテルやレストランや観光地に着いてからも同じだった。道端、ビルの屋上、川べりから川の中まで、ゴミがところを選ばず放置されているのだ。

カイロへ飛ぶ前に、このシャルム・エル・シェイクを散策する時間があった。この地はイタリア、フランス、ドイツ、イギリスから飛行機で3時間で来れるので、格好のリゾート地となっているとのことだが、ショッピング街は西部劇の町をこぎれいにした感じ、ビーチはハワイ調、昼食を摂ったシェラトン・シャルム・エル・シェイクもアメリカン風でオリジナルな魅力は少ない。

シャルム・エル・シェイク空港から、飛行機でカイロ空港へ向かう途中、先に書いた嶮しい不毛と思えるシナイ山を過ぎると、次は砂漠が続く。そしてカイロに近づいたころ、密集する中層集合住宅が現れ、それが途切れることなく続くので、ここが大都市であることが分かった。

カイロに到着して目にしたのは、米国風の清潔な高級高層建築が、猥雑なエジプトの街の中に点在する光景だった。

カイロで最も古いモスクであるアムル・モスクを訪れ、この中に座って、現地ガイドからイスラム教の話を聞いた。モスクは、規模の大小はあっても、構造は変わらないこと、なぜ毎日5回礼拝をするのか、礼拝する方向はメッカで、カーペットには一人一人方向を示す矢印の模様がつけられて、壁にはくぼみがつけられていることなどを話してもらった。その中で一番印象に残っているのは、エジプトはもともと全部がキリスト教徒だったのが、現在は11%となり、残りの89%はイスラム教であるということだった。イスラム教がなぜこのように広まったのか、そのわけをどちらの宗教にも偏らないで、客観的に知りたいと思った。

このガイドはバーサムさんと言い、カイロ大学を卒業され、生まれはアスワンダムの近くのヌビアだそうだ。古代エジプト人にそっくりの風貌で、古代エジプト文明を非常に誇りに思っていることが伝わってくる。私はすっかり惚れこんでしまった。彼は何かの話の中で、エジプトは2100年間植民地であったと漏らしたことがあった。そのことばに私は衝撃を受けた。これまで、そのような視点からの話を聞いたことがなかった。しかし、調べてみると3000年続いた古代エジプトの諸王朝が、紀元前525年にペルシアに支配されて以来、エジプトはいずれかの国の支配下に置かれてきた。エジプトが独立するのは1922年である。彼の言うことは正しかったのだ。

だから、現在のエジプト人は古代エジプト人の系統の人間以外に、イラン系、トルコ系など他民族が混在していることになる。彼は古代エジプト系と見ただけで分かるが、それが彼の誇りであり、また悔しさでもあるのだろう。現在のエジプト人の生き方が、2000年以上他国の植民地であったことの影響を受けていると考えて間違いはあるまい。

このモスクは観光案内にあまり出てこないが、写真やビデオの撮影が自由で、観光客はほとんどいない。だから、思う存分にモスクの中を撮影できた。絢爛華麗な有名モスクではなく、モスクの原点のようなこのモスクは美しかった。その映像を帰国したら紹介したい。

撮影に時間をとられて、ここを出るのがツアー一行の最後になってしまった。靴を受け取ると、預り代を請求された。1ドルを渡すと、妻の分も払えという。まあ、1ドルだから良いかと思って渡したが、先に出た人達は誰も払っていないことが分かった。私は良いカモにされたようだ。しかし、あの撮影料が2ドルと考えれば安いではないか!

夜はナイル川ディナー・クルーズになっていた。大きいクルーズ船の中で、食事をしながら、ベリーダンスや民族舞踊を見るのだが、食事がまずく、手際が悪く、踊りもくどく、船内から見る夜景にも厭いてしまう。エジプトでは生水、生ものは絶対に摂らぬようにくどいほど聞かされてきているので、用心をしたつもりだったが、どうも、この時の食事のどれかが悪かったようだ。それは翌日の午後になって判明した。

宿泊したホテルはコンラッド・カイロで、小泉元首相も泊まったというだけあって、なかなか立派だ。キングサイズのベッドが二つ、これなら寝相の悪い私でも安心して寝られる。バルコニーから眺めると、右手にはナイル川が流れ、高層ビルが目立つ。左手を見ると、中層のアパートメントハウスが密集している。その屋上は瓦礫が山をなしている。その中にパラボナアンテナが多数見える。これがエジプトの姿なのだ。集合住宅はあまり上等ではないようだが、非常に数が多い。そのかわりというか、日本で見る青テントはまったく目に付かない。

カイロの街の交通も先進国とはまったく違っている。片道3車線4車線の広い道路も多いが、車が無茶苦茶に多い。呆れたことに、この道路に信号がほとんどなく、あっても守られていない。日本であれば、この状態では渋滞で身動きがならないのだが、それが案外スムースに動いていくのが不思議だった。交通事故を一度も目撃しなかった。現地ガイドも交通事故は滅多にないと言う。おまけに、横断歩道がほとんどなく、道のどこでも人は車をすり抜けて通る。それが、老人も歩行不自由な人も、女も子供もするのだから、なんと要領が良い人たちばかりなのだろうと感心してしまう。

クラックションを良く鳴らすが、車の運転がうまく、天才的と思えるほどだ。運転が上手いという以上に、車の渋滞を防いでいるのが、交差点毎に配置されている警官だと思われる。最低2人以上、多いところでは数人の拳銃を所持した警官が、臨機応変に処理をしている。

交通渋滞を防いでいるもう一つの対策は、市内の道路のスピードを制限する箇所に、楕円形の隆起が作られていることだと思った。これも有効な方法である。こうしてみると、私たち先進国のやり方ではなく、この地に合った方法で問題を解決しているのだと推定できる。ここはシンガポールのまさに対極にあると思った。

車は日本車も多いが、韓国車もかなり目に付いた。欧州車も多い。新しい車は少なく、だから、パンクしたタイヤの交換、他の車による牽引、ボンネットを上げている車、人間が押しながら移動させている故障車など、3〜40年前に日本でもよく見かけた場面によく遭遇した。

食事のことも、エジプトでは下痢になるから注意するようにと、多くの旅行経験者やシップドクターから言われてきた。それにも関わらず、私たち夫婦は下痢に見舞われたのだが、これは必ずしも不衛生のためではないと思う。そうではなくて、こちらの人たちの食事が私たちに合わず、ちょうど牛乳アレルギーの人が牛乳を飲むと必ず下痢をするのと同じように、ある種の食べ物に対して体が拒絶反応をしていると考えた方が、うまく説明できる。

自分達の価値基準で判断し批判するのは簡単で理解し易いが、それは合理的ではない。違う生き方をする多くの人たちが、それで問題なく満足しているのなら、それは尊重すべきだろう。私たちの基準を押し付けることなど大きなお世話なのかもしれないと思った。ただし、観光立国を目指すなら、私たちに合う物を提供する義務はある。政府や観光に携る人たちの指導が肝要になる。

私は古代エジプトに魅かれて、エジプトに来たのであり、現在のエジプトには端から関心がなかったのだが、長々と現在エジプト談義を書いてしまった。野次馬根性というか、すぐ本筋から脱線してしまう性癖に、我ながら呆れてしまう。

この日は良く歩いた。万歩計は11000歩を示していた。

シャルム・エル・シェイクの港から眺めた、荒涼たるシナイの岩山

ゴミが放置され、むき出しのままの岸壁

シャルム・エル・シェイクの目抜き通り

カイロのアムル・モスク

コンラッド・カイロホテルのキングサイズのベッド

ナイル川沿いは高層ビルが立ち並ぶ

すぐ裏から中層のアパートメントハウスが密集

屋上は瓦礫が山をなしている



4月24日:カイロ充実1泊2日の旅 健脚コース

私たちの選んだツアー「カイロ充実1泊2日の旅(健脚コース)」は、その名の通りの健脚コースで、午前8時に集合し、帰船したのが23時だから、平均年齢70歳にとってかなりきびしいものであった。

まず、ギザの3大ピラミッドを見て、クフ王のピラミッドではその中に入り、河岸神殿、スフィンクスを見た後は、ダハシュールでピラミッド群(屈折ピラミッドや赤のピラミッド)を、メンフィスではスフィンクスやラムセス2世像を、そして最後のサッカラでは、階段ピラミッドとそのコンプレックスを見た。

その中で一番印象に残っているのは、これまであまり紹介されていなかった階段ピラミッドへの入口通廊と、それに続く列柱で、ギリシャ建築の原型はここにあるのではないかと思った。今から4650年も前にこのような精巧な技術が存在していたということには、もう驚嘆するより仕方がない。

個々のピラミッドの説明や感想などは、画像なしではとうてい不可能だ。だから、それらは帰国してから豊富な写真を使って改めてご紹介しようと思っている。

この世界最古のピラミッドである階段ピラミッドとその複合体を、ツアーの最後に見たのは本当に良かった。ここからは、アラビアのロレンスの舞台となった大砂漠を眼下に眺めることができる。そして、はるか彼方に点在するピラミッド群は、ギザの大ピラミッド群にはない静寂があった。

ギザのピラミッドとスフィンクスは夜間ライトアップして、「音と光のショー」が行なわれると聞く。しかし、それは4000年前の人間の叡智に対する冒涜のように私には思える。ピラミッドは、美しいもの、珍しいもの、不思議なものという類のものではないのだ!

コンラド・ホテルで夕食を済ませ、午後6時半から8時まで、エジプト考古学博物館を見学した。これは飛鳥U貸切で、約350名が、それぞれの現地ガイドの説明を受けながら、全館を見て回った。普段なら駆け足で、チラッと見るところを、ゆっくりと見ることができるのだから、飛鳥Uのすごさを実感した。ただ、残念なのはカメラとビデオカメラの撮影が禁止されていて、入館の前に預けておかなければいけないことだった。

やはり、有名なツタンカーメンの黄金のマスクはすばらしかった。若くして急死した無名の王の副葬品ですら、これほど立派なものばかりだとすると、ラムセス2世のように長命なファラオの副葬品はどれほどのものだったのか想像もできない。それにしても、ほとんどの副葬品が盗掘されているところから、盗みもまた古代から続く人間の性である事実を認めざるを得ないのは皮肉である。

この後、バスでポートスエズに停泊中の飛鳥Uの許へ帰りついたのが午後11時過ぎだった。もう皆はくたくたで、この時は、だれもが飛鳥Uを我が家のように恋しく思ったようだった。その中でも、私たち夫婦は特別その思いが強かった。

妻は昼食時から腹痛と下痢に見舞われた。それまで生ものは一切とらず、ホテルで歯磨きもミネラルウォーターを使うほど用心をしてきたので、最初のうちは「心配ばかりするから、腹が痛くなったり、下痢をするんと違うか、過敏性腸症候群やろう」と言っていたが、夕食後からは私も腹が痛くなり、下痢になってしまった。結局は妻の方が敏感だったということになる。私は生ものを除いては、それほど制限をしなかったせいか、遅れて症状が出て、長く続く。お腹だけは自信があったのに、有馬温泉での食中毒以来どうも調子が悪い。

この日の万歩計は13000歩だが、太腿はかなり痛い。

<メール>

◆MH | 28 Apr 2007 23:13:32
シンガポール以後、イスラムの国が続きます。人類の歴史で最も早くひらけた国の一つ、エジプトに遂に上陸ですね。

先ずはこの国が2100年もの間、外国の支配化にあったとは不肖にして知りませんでした。紀元前3000年から数学、幾何、化学、天文学などの文化、都市やピラミッドの構築、正確な暦、精緻な工芸品と目もくらむような文明を持ちながら、以後現在に至るまで一体この国は何をしていたのか、 不思議に思っていましたが、植民地の歴史を知るに及んで納得しました。イスラム教も好むと好まざるに関係なく征服民族から押付けられたものでしょう。

現代エジプトは大兄の「猥雑」と言う表現そのままでしょうね。それは恐らく現代のアジア諸国に共通する現象と思われます。猥雑の原因の一つに、他国による支配の歴史があるでしょうね。シンガポールは例外中の例外です。英語をしゃべる家庭に生まれ、ケンブリッジ大学で歴史に残る秀才と言われたリー・クワン・ユーがイギリスが残した都市機能を利用して独裁的に作り上げた街がシンガポールです。でもここも一皮剥けば何が出ますやら。

ピラミッドについては、帰国なさってから映像を見せてください。何せ見たことがないものでどうコメントしていいのか判りません。エジプト考古学博物館を貸切で見るとはなんと豪勢な!

腹痛と下痢はお気の毒でした。日本人は大体やられるようですね。中毒ではないのでしょう。早く治ってよかったですね。

クフ王のピラミッド(ギザの大ピラミッド)

クフ王のピラミッド衛星写真

ギザの3大ピラミッド

河岸神殿の通廊

スフィンクスと2つのピラミッド

スフィンクスの横顔

スフィンクスの衛星写真

絵になるスフィンクスとピラミッド

絵になるスフィンクス

ダハシュールの屈曲ピラミッド

屈曲ピラミッドの衛星写真

ダハシュールの赤のピラミッド

赤のピラミッドの衛星写真

メンフィスのスフィンクス

メンフィスのラムセス2世像

サッカラの階段ピラミッド

階段ピラミッドの衛星写真

アラビアのロレンスの舞台となったサッカラの大砂漠

エジプト考古学博物館



4月25日:スエズ運河を通過

今日はスエズ運河を通過する日だ。ピラミッドなどの文明が5000年前の人類の叡智であるとすれば、このスエズ運河は、近代の人類の叡智を象徴するものだと思ってきた。その二つを連日この目で見て、写真とビデオに保存できたのは、私にとって至福に近いものがある。腹の調子が悪い、太腿が痛いなどということは全く気にならず、数え切れないほど、キャプテンズ・ビーチに出かけては、スエズ運河を自分が好むだけ、何度も写真とビデオに収めた。

一番関心があったのは、運河へ入る時点と、すれ違い、運河から地中海へ出る地点だった。すれ違いの方法は、紅海から地中海へと北上する船団が優先し、南下する船団は途中のラージ・ビター・レイクで待機して待つことになっていた。南下する船が全部揃うまでは、ここで停泊して待つ。この時の南下船団は13隻だった。全部がそろったのが確認されてから、北上許可が下り、飛鳥IIを先頭に船団が北上していく。左舷側(西側)は、ナイル川の恵を受けた肥沃の緑の土地が続くのに対して、右舷側(東側)はシナイ半島の砂漠ばかりが延々と続く。

運河がエジプトにとって重要な場所であることを示す明白な証拠として、約100m間隔で小銃を持った兵士が番小屋の中に立ってこちらを注視していた。人懐こく手を振る者も多い。昨日のカイロでも、いたるところに小銃を持った兵士がいて、検問も行なっていた。私たちのバスにも2人の警官が乗り込んでいた。このように、エジプトは平時においてもテロに対して厳戒態勢であるようだ。

スエズ運河を出る少し手前でムバラク平和橋の下を通過した。この橋の橋脚の高さがクフ王のピラミッドと同じ約140メートル、日本政府の無償援助工事で、鹿島建設、日本鋼管、新日本製鐵の手によって建設された。水面から橋桁までの高さは70メートルあり、「日挨友好大橋」とも呼ばれているそうだ。

写真を撮っている時は元気だが、それが終わるとトイレに直行となる。この時の排泄物は猛烈なオイルサーディンの臭いを随伴するのだ。この臭いがうすれ始めたころから、腹の調子は快方に向かった。今回のエジプトの下痢の原因が、汚染されたものを食べたためではなく、食べ物が身体に合わなかったためだと診断した根拠の一つが、このオイルサーディンの臭いだった。この嗅診という診断法は原始的に思えるかもしれないが、意外と役に立つことがある。20年前に、「嗅診の効用」というタイトルで医療エッセイを書いたことがある。今回の例も、その一つに充分値すると思う。

古代エジプトとスエズ運河を、この目で実際に眺め、それを詳細にビデオと写真に記録することができた。この3日間は、私にとって、世界一周クルーズの最も大切な期間となるであろう。

<コメント>

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年4月27日 (金) 21時17分
この記事が出るまでに日数がかかったので、エジプトでは書くことが山ほどあったのか、それとも体調を壊しておられるのではないかと心配したが、記事を読んでどちらも当っていたことを知った。文末にある『嗅診の効用』も興味深く読ませて戴いた。明日からのGWを控え、落着いて読書?することができた。

先日、妻のパスポートができているのを受け取りに行くのに横浜は大桟橋の旅券センターへ付き合い、最上階の中華レストランで食事をした。眼下に国際客船ターミナルが見えた。ここへ飛鳥Uが着くのは未だ2ケ月以上後になる。

◆投稿 BOW | 2007年4月28日 (土) 03時00分
ヒマジンスキーさん
ご心配いただきありがとうございます。どちらもアタリとは、相変わらず冴えていますね!読書いただき誠に、ありがとうございました。まだ2ヶ月残っていますが、ご愛読のほど、お願い申し上げます。

紅海からスエズ運河へ入る少し手前

スエズ運河の左舷には建物が並び、右舷は砂漠

スエズ運河通峡を記念にツーショット

南下船団が揃うのを待つラージ・ビター・レイク

ムバラク平和橋(日挨友好大橋)に近づいた

地中海への出口が目前に迫る



4月26日:エジプト、ビール、アイーダ、スエズ

夕食で相席となった老夫婦の奥様が、私たちを見てニコニコされている。妻は「前にもご一緒しましたね」と話しているが、私はあまりよく覚えていない。ビールを飲み始めると、「この前は、手術で4ヶ月間アルコールが飲めなかったのが、昨日から飲み始めて美味しいと、ほんとうに嬉しそうに飲んでいらっしゃいましたね。よほどビールがお好きなのだと思いました。」と仰るのだ。そんなことを言ったのか、このおしゃべりめが!と思いながらも、好意的な目をされているので、嬉しくなって饒舌になってしまった。

ビールといえば、エジプトのピラミッドはこれまで奴隷が建設したものとされてきたが、今では農閑期の公共事業によって作られたというのが定説となっているそうだ。その報酬は、ビールとパンと玉ねぎだったという。ピラミッドとビール、ビール発祥の地はエジプトと聞いて嬉しくなった。これで、エジプト絵画、ヒエログリフ、ピラミッドのほかに、ビールまで、私の好きなものがエジプトに連なっているのだから愉快だ。

エジプトはイスラム教国だから、エジプト人は飲まないのだろうが、エジプト産のビールはいくつかあるようで、私はその内の「ルクソール」と「ステラ」という銘柄のものを飲んだが、あっさりしていて美味かった。

エジプトにつながるもので、もう一つ好きなものがある。それは、オペラ「アイーダ」で、オペラの中では一番好きだ。カイロ市内をバスで通っている時に、現地ガイドがオペラハウスを教えてくれた。また、サッカラのピラミッド群のそばに、鉄骨の枠組みがあり、4年に1度、ここで「アイーダ」の上演があるとの説明を受けた。

また、この航海記を読んで下さっているH氏が、「アイーダ」は、スエズ運河開通を記念して建てられたカイロの大歌劇場の、開場式のために作曲されたことをメールで知らせて下さった。博識の彼だが、「エジプトは2100年間植民地であった」という現地ガイドのことばに、私同様驚かれたようで、いろいろ疑問に思っていた謎が解けると、私と同じようなことを書かれていた。

スエズ運河を出て地中海に入ると、なぜか、波は高くなる。地図で見る地中海から、頭の中ではここを瀬戸内海のように感じていたが、実際はなかなか広い。ここでも時々イルカを見た。 エーゲ海に入ると、右手にロードス島が見える。2001年夏、明石夫妻との楽しいエーゲ海クルーズが甦ってくる。特にこのロードス島 では、いろいろなことがあったので懐かしい。

この夜、私が出演申し込みを断られた例の「隠し芸大会」が開かれた。それを見に行かなかったのは、ご想像通りだが、腹を立てたからではない。ヒマジンスキーさんに「連休前の読書」と書かれてしまった前回の膨大なエジプト記録をまとめていたからである。

しかし、気にはなるのでTVの生中継を音声だけ聞いていたが、あれに出演できなくて幸運だった。その大きな理由は、出演することになれば、エジプトを思う存分に記録できなかったし、それをまとめることもできなかったこと、小さな理由は、私が出演するには場違いだったことが分かったからだ。

<コメント>

◆投稿 yakky | 2007年5月 1日 (火) 07時54分
初めてのメールです。
飛鳥II世界1周航海記を楽しく夫婦で拝見させていただいてます、パソコンを開けたら夫婦で更新されているか、チエック(楽しい記事を有難う御座います)

私達も海外・国内旅行が好きで(現在はハード旅行)すが、70歳を越えたら飛鳥Uで世界一周クルーズしようと計画中です。

アイーダを劇団四季で観ましたが、スエズ運河開通を記念して建てられたカイロの大歌劇場の、開場式のために作曲とは知らなかったです。(アイーダは感動でしたが歌手が?)

色々と勉強になる記事が多く、将来に乗船するクルーズに夢が膨らみます。次のメッセージ を首を長くして待っています。

ところで、飛鳥Uより発信されている、大須賀氏のエッセイ写真入が4月24日(エッセイ43)より途絶えていますが?何か有ったのですか?心配しています。宜しくお願いします。

◆投稿 yakky | 2007年5月 1日 (火) 12時00分
日本は5月1日AM12時です。本日 6枚 49まで更新されました。有難う御座いました。

◆投稿 BOW | 2007年5月 1日 (火) 14時40分
yakkyさん、はじめまして
嬉しいコメントで書きたい意欲が増します(笑)
予想外の美しい景色に出会い、2日間興奮しっぱなしでした。次にUPします。しかし、こちらは映像を送れないので、帰国したら存分に載せたものに改変しようと考えています。その時も、よろしくお願いします。

◆投稿 monarisa | 2007年5月 1日 (火) 17時09分
BOWさん!はじめまして
飛鳥U世界一周航海記を毎日楽しみにしております。さて、本日コメントを拝見!何と私達夫婦と同じ様な人がいるものだと感心しておりました・・・「よ〜く・よ〜く見ると」何と我が旦那さまの書き込みではないですか。

そのコメントに『書きたい意欲が増します・・・』と返信を頂きました。こちらこそ有難うございます。日に何度となくパソコンを開けては「BOWさんがUPされたよ〜」とか「今日の何時にイスタンブールを出発だから・・・」とか盛り上がっています。私達はまだ世界一周旅行はかなわない身ですが、BOWさんの旅日記で世界一周の雰囲気を味わせて頂いています。私としては“本音の部分”が特に気に入っているのですが奥様の感想はいかがですか?「そんな事まで書かないで〜〜〜」って声が聞こえてきそうです。

◆投稿 BOW | 2007年5月 2日 (水) 15時57分
monarisa さん、はじめまして
ご夫婦でご愛読、感謝感謝です。私の愛唱歌のひとつが「モナリサ」ナットキングコールです。

>奥様の感想はいかがですか?
 もう諦めているようで、文句も言いません(笑) よろしく

<メール>

◆MH | 29 Apr 2007 00:31:38
スエズ運河と来れば思い出す事が二つあります。一つはスエズ紛争。1956年イギリスが中東支配を諦める事になります。このあとスエズ運河が荒廃して大型船が通れなくなり、掘削工事の国際入札がありましてね。日本から「五洋建設」英語名ペンタ・オーシャンがスエズ丸と言う掘削船を建造して現地に持ち込みアピールして見事落札したと記憶します。当時は元気な経営者がいました。 次に「アイーダ」 色んな手違いでスエズ開通と結びつけられなかったけど、運河掘削が作曲の動機になったのは事実です。

さて、わが野次馬BOW氏がおっとりカメラで撮影に入ったのは頼もしい限りです。私もスエズ運河なるものがどういうものか見たいです。左舷に緑の土地、右舷に砂漠。地質は両舷とも似たようなものでしょうから、将来砂漠に水をやれば緑の土地になるのでしょうか。

すれ違いの方法もよくわかりました。飛鳥Uを先頭に北上する船団は壮観でしょうね。

日本が作ったムバラク橋。いいですね。海外援助はその国の国民の役に立つものでなければいけません。橋は一番役に立って目立ちます。人材養成などという援助はともすれば有力者の懐に援助金が消えてしまいがちです。

下痢について大変役立つ情報をいただきました。実は手術後食事を減らすように指導されています。結果便秘勝ちとなりガスに異臭が出始めました。思いついたのが呑むと下痢をしていた牛乳です。見事便秘が解消してガスも殆ど無臭になりました。

◆MH | 2 May 2007 00:43:59
*ビール
エジプトでは公共工事の支払いの一部はビールですか。いいですね。老若男女問わず呑んでいたのでしょうね。今は昔でしょうが、なかなか良い国です。解禁となったビールを呑む大兄のえびす顔は老夫婦に印象的だったのでしょう。このメールを作りながらこちらもビールを呑んでいます。


<2007.8.6.>

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