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飛鳥U世界一周2007航海記

3.地中海1(黒海周辺)

2007.08.08. 掲載
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4月27日:ダーダネルス海峡
4月28日:イスタンブール、ドジ夫婦
4月29日:イスタンブールの地理、ボスポラス海峡
4月30日:オデッサ
5月 1日:コンスタンツア
5月 2日:ボスポラス、ダーダネルス海峡雨
5月 3日:ピレウス、デルフィ遺跡とアポロ神殿
    
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4月27日:ダーダネルス海峡

スエズからイスタンブールへの航路

エーゲ海→ダーダネルス海峡→マルマラ海→ボスポラス海峡→黒海

ボスポラス海峡周辺、下はマルマラ海、上は黒海

イスタンブール旧市街、金角湾を挟んで、上に新市街が少し見える

トルコの国旗

「ダーダネルス海峡」とはどこか、ご存知の方は少ないだろう。持ち込んだ地球儀には載っていないが、航路図が絶えずTVに表示されるので、私たちには分かる。ここはエーゲ海からトルコの内海の「マルマラ海」へ入る狭い海峡で、この内海から「黒海」へ抜ける通路が「ボスポラス海峡」である。こちらは、有名なので名前だけは知っていた。

ダーダネルス海峡の幅は一番狭いところで1200mしかなく、この短い距離で、ヨーロッパ大陸とアジア大陸が対座していることになる。ここを航行中は、行き交う船も多く見えたが、マルマラ海に入ると、また、一面の大海原に戻ってしまった。

イスタンブールが見えてきた午後2時ころ、ヘリコプターが飛来し、中村カメラマンが飛鳥と乗客を空撮するというアナウンスが入り、多くの乗客は11、12デッキに上った。爆音高くヘリコプターが右舷上方にやってきて撮影を始めたようだ。皆は手を振り、大喜びしている。私はというと、ビデオをズームアップして、ヘリコプター内で撮影している中村カメラマンの表情までバッチリ写しこんでおいた。彼が撮影した写真は後で販売されるらしいが、ビデオカメラを向けている白髪の男がいれば、それは私の可能性が高い(笑)。

イスタンブールに着岸するまで、洋上からブルー・モスク、アヤソフィア・モスク、トプカプ宮殿などをゆっくり眺めていると、ここはオリエントなのだという実感が湧いてくる。

ダーダネルス海峡

ヘリコプターが飛来

中村カメラマンが撮影、左側でビデオカメラを構えている白髪男が私

スルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)

アヤ・ソフィア大聖堂

トプカプ宮殿


4月28日:イスタンブール、ドジ夫婦

トルコと言えば、イスタンブール。イスタンブールといえば、フォア・ラッズの唄った「イスタンブール」や、庄野真代が唄った「飛んでイスタンブール」を思い出す。しかし、トルコのガイドさんは「ウシュクダラ」を唄った。イスタンブールのツアーで「トプカプ宮殿と旧市街1日観光(健脚コース)」を選んだが、街のイメージは、最初の2曲のようにハイカラではなく、確かに「ウシュクダラ」だった。

ブルー・モスクやトプカプ宮殿は、それぞれに見ごたえはあったが、正直感動するところは少なかった。ビザンチン帝国がオスマン帝國に破れ、首都の名がコンスタンチノープルから、イスタンブールに変えられたとき、アヤ・ソフィア大聖堂はモスクに改変されたが、壁に描かれていたビザンチン・モザイク画は、破壊されることなく、しっくいで塗りこめられた。そのため、6世紀の素晴しいビザンチン文化が現存しているという事実に感動した。

また、アヤ・ソフィアの隣にあるビザンチン帝国時代の地下貯水槽にも圧倒された。ここは、レンガでドーム型の天井を連ね、それを、236本の大理石の円柱が、28本づつ12列に整然と並んで支えている。まさに地下宮殿である。

イスタンブールの名所として、グランド・バザールという巨大な屋根つきショッピング・モールがある。ここでは5000軒もの店が密集しているという。値札がついていないので、交渉して値切り、購入するもののようだが、私たちの手に負えるものではない。時間つぶしに、この場所の大きさを調べて見たら、約200mほどのメインストリートに並行して10本の狭い道路があり、碁盤の目を乱雑にしたような構造ではないかと推定できた。一度見たら充分で、二度とは行きたくはない場所である。

以上どの建造物もしっかり写真に収めてあるので、帰国後ご紹介する予定にしている。

ところで、ドジ夫婦、何か隠しとるんと違うか?と思われた方は勘が鋭い!

奥様は朝からなぜかご機嫌斜め。それは、私が元気になって心配がなくなったからか、それとも、ツアーに着る服装が決まらないからか、そのどれでもないのか、とにかくよく分からない。

ツアーのグループごとに集合し、いざ出発という時になって、乗船カードが見つからないと奥さまは騒ぎ出した。これがなければ、乗船も下船も入室もできない大切なカードなのだ。歩いてきたところを探して来るようにと命じられ、私は目を凝らして引き返していると、お礼をくり返している声が聞こえてきた。次のグループの方が拾って下さったのだった。

私たちのグループの皆様は、とっくにバスに乗り込んでいらっしゃる。恐縮しながら、唯一空いている最後部の座席に座った。さすがに、奥さまはこれに懲りたのか、ご機嫌は平常に戻ってくれたのでやれやれである。

就眠前に、二人でコンピュータ・プラザに出かけようとして、キャビンを出たのは良いが、忘れ物に気がつき、取りに戻ろうとしたら、乗船カードがない。部屋に置いてきたのだ。だから部屋に入ることができない。こんどの責任は私にあり、「私はドジをしない」と威張れたのはつかの間だった。

<メール>

◆MH | 2 May 2007 00:43:59
*ダーダネルス海峡
商売柄、地名はかすかに記憶がありますが、どこにあるやら見当もつきません。幅が1200米とは驚きました。すれ違う船同士手を延ばせば握手できる距離ですね(まさか!)

*乗船カード
日常生活に組み込まれてないものはとかく失くしたり、忘れたりします。本当に困ったらブリッジに隣組の船長さんもいることだし、心強い限りですね。

私も自動車の鍵を閉めこんだり、ホテルで締め出されたり色々ありました。ホテルはコネチカット州のホリディインで下着のまま廊下で立往生です。幸い男性が通り掛ってフロントに連絡してくれました。

*トルコ
この国にはどうしても行って見たいです。来年、高校の同級生が集団で行くはずです。これに乗ろうと思っています。イスタンブールは勿論ですが西の方へも行ってみたいです。トルコ軍楽隊を聞いてみたい。昔あれで攻めてこられたら怖かったでしょうね。

ブルー・モスク

トプカプ宮殿

アヤ・ソフィア大聖堂

アヤ・ソフィアのビザンチン・モザイク画

ビザンチン帝国時代の地下貯水槽(地下宮殿)

グランド・バザール


4月29日:イスタンブールの地理、ボスポラス海峡

イスタンブールの地理はややこしい。ここへ来るまでは、イスタンブールはトルコのヨーロッパ大陸側を言い、これは金角湾を挟んで西側の旧市街と東側の新市街に分かれる。そして、ボスポラス海峡を挟んでこれと対座しているアジア大陸側は、トルコの別の地方で、イスタンブールではないと思い込んでいた。ところが、ここはウスキュダルと言って、イスタンブールの一部だったのだ。

前日観光したアヤソフィアなどは、すべてイスタンブールの旧市街にある。飛鳥Uは新市街の港に停泊していたたので、橋を往復して、旧市街へ行き来したのだった。

私はイスタンブールよりも、イスタンブールをヨーロッパ側とアジア側に分断しているボスポラス海峡の方に興味がある。この海峡は、狭いところでは、その幅わずか500mしかなく、この前に通ったダーダネルス海峡の半分以下である。ボスポラス海峡には2本の橋が架かり、西側から順に第1ボスポラス橋、第2ボスポラス橋と呼ばれている。これによって、ヨーロッパ大陸とアジア大陸は陸続きとなっている。

午前7時に飛鳥Uはイスタンブールを出航し、黒海へ向かう。出航直後にこのボスポラス橋を渡るので、その前後をビデオと写真に記録しておきたい。そう思うと、眠りは浅く、2時、4時、6時と目を覚ましては時計を確認していた。普段なら、7時頃まで熟睡するのだが、まるで子どもだ。

そして、7時から9時まで、船首と船尾を往復し、左舷右舷を右往左往し、嬉々として撮影に夢中だった。ボスポラス橋だけなら、これほど時間はかからない。ところが、それに続く景色が何とも素晴しかったのだ。海、空の青、緑の丘、白い壁、赤い屋根、それらが作り出すハーモニーの連続に、ワー、キレイ、キレイ、キレイとボキャブラリーは貧弱になり、興奮はいや増し高まる。この景色をまったく予想していなかったので、これは大きなオマケ、そう、プレミアムだ。

どれほどキレイな景色だったかは、もちろん肉眼で眺めたものが一番だが、残念ながら私の貧弱な脳は、それを長く保存することができない。そこで、いつもの通り、肉眼の記憶に代わるものとして、ビデオと写真に取り込んでおいた。帰国後ご紹介したい。

モルジブの珊瑚礁の島々は、これまで見たことのない自然の美しさだったが、このボスポラス海峡で見た景色は、自然と人間の作ったものが渾然一体となって作り出す美しさだった。

このボスポラス海峡の風景を眺め、撮影を行いながら、これはクルージングでしか体験できない醍醐味の一つだと思った。夕食で相席となった方は、定年退職後絵を始められたそうだが、この方もまったく同じ感想を話され、ほんとにキレイだったですね、と話はつきなかった。

飛鳥Uはボスポラス海峡を通過し、黒海に入った。そこはまた大海原の世界。時おり、イルカが姿を見せるが、元気がないのか、ジャンプは小さい。

飛鳥Uの着岸している新市街から、金門湾を介して眺めた旧市街

第1ボスポラス橋

第2ボスポラス橋

どこまでも続く美しい風景

トルコ大統領官邸


4月30日:オデッサ

イスタンブール→オデッサ→コンスタンツァへの航路

ウクライナの国旗

飛鳥が黒海に入るのは今回が初めてである。そのためか、寄港地のオデッサやコンスタンツアについての船内情報が乏しく、オプショナル・ツアーもそっけない感じがしていた。オデッサは、シャトルバスを利用して、自分の足で街を散策するだけで充分で、見るべきものは「ポチョムキンの階段」を除いては何もない街という雰囲気だった。

それを魅力一杯の街に変えたのは、前日の小林和男氏の講演だった。「エカテリーナ・ポチョムキン・オデッサ〜オデッサが歴史を変えた〜」という演題で、NHKの元モスクワ支局長は、オデッサとロシア革命との関わり、不世出の優れた音楽家を数知れずオデッサが輩出した背景を、音と映像を駆使して、明快に話されたのだった。これを聞く前と後では、オデッサの魅力度は10%から80%くらいに飛躍した人が多かったのではないかと推定する。音楽好きには、それが95%に昇った人もいたのではなかろうか?

飛鳥Uは本当に良い講師を選ばれている。これまでの松本氏や細川氏の講演も非常に良かったが、今回のは、それに輪をかけた感じがした。惚れっぽいのは私の性分、アスカショップに置かれていた著書を全部(3冊だが)衝動的に購入してしまった。もちろん、これにもサインを頂いた。

午前7時に入港したオデッサ港の客船岸壁は、大きくオシャレだった。バルコニーから下を見ていると、知らない人が手を振って、大声を出している。ウクライナ在住の日本人が、知人を出迎えに来ているのだろうと思って、ほかに目を向けると、どうも「のむらさ〜ん」と言っているように聞こえる。まさか、そんなはずはあるまいと思いながら、よく見ると、JTBの Fujimoto さんではないか!

後でお聞きすると、こちらの現地ガイドのアシスタントをするために、一昨日からこちらに来られているとのことだ。これでもって、私たちのオデッサ好感度はますます高くなった。

午前中「車窓からの市内半日観光」に参加して概略を知った上で、午後から徒歩で街を歩いた。飛鳥Uの停泊しているすぐ横に、あの名画「戦艦ポチョムキン」で有名な「ポチョムキンの階段」があり、これを登りきった所から市内は始まる。あのリヒテルが、アルバイトでピアノを弾いていたという「オペラ・バレイ劇場」は修復工事中だったが、素晴しかった。そのほか海洋船舶博物館、オデッサ考古学博物館や街全体がオシャレで落ち着きがあり、明るく、行き交う人はおだやかで、美人が多く、良い街だった。「黒海の真珠」と言われるのが分かる気がする。

街を歩いていると、船に戻られる途中のキャプテンに出会った。ふたりが交わしたことばは奇しくも同じで、「キレイな街ですね、ビックリしました。」だった。ここは横浜市と姉妹都市提携を結んでいるそうだ.横浜市は飛鳥Uの母港ではないか。来年からの飛鳥U世界一周クルーズで、オデッサの評価が高くなることは間違いあるまい。

乗組員もたくさん上陸して街を散策する姿をよく見かけた。ポチョムキン階段では、キャビン・スチュワーデスのグループに出会った。私たちのデッキ担当の人もいる。頼まれて彼女らのデジカメのボタンを押し、私のデジカメでも、妻も一緒に入った写真を撮らせてもらった。私の部屋を担当のDさんがいないので尋ねてみると、当直で出られないのだそうだ。かわいそうに!

このオデッサも、これだけ魅力のある場所だとは予想していなかった。だから、これもプレミアム、オマケのご褒美である。やはりオマケは嬉しい(笑)。

オデッサ港の客船岸壁

現地ガイドのアシスタントをするFさん

ポチョムキンの階段

オペラ・バレイ劇場

海洋船舶博物館

オデッサ考古学博物館

ポチョムキン階段でキャビン・スチュワーデスたちと一緒に


5月1日:コンスタンツア

ルーマニアの国旗

飛鳥Uは、午前7時にルーマニアの唯一の港コンスタンツアに入港した。この都市の名前は、コンスタンチヌス帝が自分の妹の名前に改称したことに由来し、ルーマニア(Romania)はローマ人の国の意味で、もともとはローマ人が建てた国らしい。

この港の海は黒っぽくて、それを見た妻は「だから黒海なのだわ」と言ったが、当っているようだ。なぜここの海の色が黒いかというと、表層水と深層水の循環が少いために、深層水では酸素不足となり、嫌気性菌が繁殖する。この菌によって硫化水素が発生し、それが海水中の鉄イオンと結合して、黒色の硫化鉄となるためだと言う。表層水には充分酸素はあるので、生態系に異常はなく、漁業も盛んであるとのことだ。

コンスタンツアも、オデッサと同じく横浜市の姉妹都市である。この港はオデッサよりもずいぶん大きいが、客船用岸壁は小さく貧弱だ。それに比べて、貨物船用の岸壁は膨大で、クレーンが林立している。しかし、そのほとんどは稼動せず、ペンキは剥がれ、ゴースト・タウンの様相を呈している。港に人影はほとんどなく、活気がまったく感じられない。直感的に、この国の現在の状況を理解できたと思った。

シャトルバスを利用して、観光地である旧市街を歩いたが、その印象はますます強くなった。壊れた建物が多く、ここでも人影はまばらで、生活が行なわれているのか疑問に思うところも多かった。車の大部分は、これで動くかと思うほどのくたびれた古いタイプである。しかし、街は清潔で、ゴミの放置は見られなかった。そのほかに印象に残ったのは、ルーマニア正教のトミス主教教会とカジノの建物だった。

教会の中に入ると、薄暗い灯りの許で祈る老女、黒い服を着た神父らしき人に跪いて、懺悔をしているかのように見える人、多くのイコンの像などが見えた。何か息苦しくなる雰囲気がある。かって、共産党支配下のもとでは、これらの人たちは弾圧されたのだろうと思った。

海岸沿いに立派な白い建物があり、「CAZINO」の名前が書かれていた。チャウチェスク政権下では、ここは私物化され、政府要人しか入ることが許されなかったところだと言う。

ルーマニア人は、ダキア人とローマ人の混血のラテン系が9割近くを占めているそうだ。陽気なラテン系の人たちが、このようにおとなしく控え目でいるのは、あのチャウチェスク共産党独裁政権の影響が、まだ残っているということだろうか? 経済が破綻し、停滞したままであるということだろうか?

あの使われていない巨大な港湾施設は、分不相応な無用の長物のように見える。無計画に投じられた膨大な設備投資が、経済を疲弊させてしまったのだろう。猛烈な資本主義の競争世界にあって、このような過去の負の遺産を背負って、経済を建て直すことは、容易なことではないだろうが、その可能性を信じたいと思った。

このコンスタンツアに来て、今までの寄港地とはまったく違うものを見ることができ、それについて考えることができたことを良かったと思っている。

夕食時には、飛鳥Uはまだコンスタンツア港に停泊していた。フォーシーズンズで夕食を摂っていると、すぐ目の前で数頭のイルカが海面を飛び跳ねている。魚をとっているのだろうか? それが10分近く続いた。このようなことができるのは、クルーズならではであろう。相席の方々とルーマニア談義が弾み、ビールは格別に美味かった。

オデッサでは、NやRを逆向きにしたロシアの文字で書かれていて、読めなかったが、コンスタンツアは、さすがローマ人の作った国だけあって、アルファベット文字そのままで、例えば看板に「GROUPE SOCIETE GENERALE」とイタリア語と同じ語順で書かれているのを見つけ、嬉しくなった。

今日で神戸を出港してちょうど4週間が過ぎた。これからはヨーロッパに入り、ほぼ毎日のように別の場所に寄港することになる。洋上が多かったこれまででさえ、瞬く間に時間が過ぎ、退屈などする閑がなかった。これからはどんな毎日が待っているのだろう。楽しみだ。

飛鳥Uは午後8時にここを出港し、黒海を逆行して、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を通過して、エーゲ海に入り、ギリシャのピレウスへ向けて航行する予定である。

<コメント>

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年5月 2日 (水) 18時04分
やはりジェットで飛んで行く旅行と違ってクルーズは港がベースになるのだなと痛感しました。神戸育ちにとっては嬉しい、まるで足が地についたような感じになりますね。ルーマニアの港湾施設の錆び具合が凄く参考になる現地報告です。続編をどんどんお願いします。

BOWさんはイルカがあまりジャンプしなかったとコメントされていますが、イルカに対して申し訳ないように思います。きっと我々がよく目にするイルカショーでは餌を高いところにかざしてジャンプさせるので彼らもがんばるのに違いありません。空中に餌のない大海ではあまりジャンプしても意味がないとの判断があるのではないでしょうか。イルカのジャンプは小さいのが普通というヒマジンの新説です。

◆投稿 BOW | 2007年5月 3日 (木) 03時09分
>クルーズは港がベース
 同感!

>ルーマニアの港湾施設の錆び具合が凄く参考
 予想外のコメントに意を強くしました。

>イルカ新説
 イルカのジャンプは小さいのが普通という卓見に脱帽。ここでイルカ君に謝罪します(笑)

<メール>

◆MH | 3 May 2007 00:57:13
大兄のメールを楽しみにしています。しかし無理はしないようにしてください。我々の身体は年齢相応に弱くなっています。

*ボスポラス海峡
両岸の絶景を見るクルーズが数本、現地で出ているそうですよ。本当に綺麗な景色なのでしょうね。 海峡にかかる第二ボスポラス大橋は日本が架けました。私が勤めていた会社も参加しましてね。

ところがここを狙っていたのがイギリス。日本がODAがらみで取ったので、なんだかんだのいちゃもんをつけて来ました。結局、資材の一部をイギリスから調達する事で決着しました。

次は橋ではなくてトンネルを掘っているのではないでしょうか。もしそうならこれも恐らく日本ですよ。津軽海峡のトンネルが終わり、英仏海峡も終わりました。世界最高の技術者が余っています。神戸製鋼のでかいシールドも残っていますしね。

*オデッサ
今はウクライナ領ですね。小生の旧守備範囲ですが、恥ずかしながら「ポチョムキンの階段」とフォーサイスの「オデッサファイル」しか知りません。当時は格別の用事がない限り旅行できませんでした。音楽関係の人材が輩出したとか。港町共通の国際性でしょうが、たしかこの街にはユダヤ人が多いと記憶します。飛鳥Uにとっては第二の母港ですね。

*コンスタンツァ
飛鳥Uにはオデッサ同様、第二の母港ですから、ツアーに組み入れたのではないでしょうか。おっしゃる通り、共産政権の頃無理して作った港でしょう。一体に共産主義者は駅だとか役所だとかに殊更に金をかける癖があります。ルーマニアにとっては港もショーウインドーの一つだったのでしょう。この国との取引で面白くない思い出が色々ありました。我々はこの国を「ズルマニア」と言っていました。しかし自分たちでチャウセイスクを追い払ったのは立派ですね。ルーマニア製の乗用車に「ダキア」と言うのがあったように記憶します。

貨物船用の岸壁にクレーンが林立

トミス主教教会の入口

教会内のイコン

教会をバックに、フィリピン人スタッフと

カジノ


5月2日:ボスポラス、ダーダネルス海峡雨

今日の7:00〜9:00に、ボスポラス海峡を再び通過することが、航路図で知らされている。もう一度あの美しい景色とニ大陸を結ぶ橋を眺めて記録できると思うと、やはり眠りは浅くなる。ところが、あいにく今日は雨だった。シンガポールでのスコールを除いては、4週間まったく雨がなかったのが不思議なので、今日の雨はいたしかたない。

12デッキに上がったが、カメラを傷めるだけなので、キャビンに戻り、バルコニーから撮影することにした。普通なら、ここから連続で撮影することはしない。それは、右に左に、まえうしろへと、自在に行き来して撮影したいからである。だから、このような定点撮影?は新鮮である。そこで、雨にけぶる景色をしっかり記録した。

16:00〜18:30に通過のダーダネルス海峡も同じく雨。この最も幅が狭い1200mの個所を通過する際に、キャプテンは放送した。「ここでは、船の追い越しは禁止されています。」対向船はあるが、すれ違いは構わないらしい。

昼食がざる蕎麦と知って、いそいそとフォーシズンズへ出かけた。妻はソバ・アレルギーだが、チラシ寿司と交換することにしている。ウエイターに、二人同じものを注文したが、しばらくして、ウエイター長が妻のそばに来て、「そば大丈夫ですか?」と尋ねるのだ。700人以上の乗客が利用するこの場所で、妻のソバアレルギーを覚えているとは大したもの。「貴方は年をとってもポニーテールだから、目立つんと違うか?それで、覚えられやすいんやろ」とは言ったものの、ちょっとおかしい。といって、VIPではもちろんない。

すぐ、その理由が分かった。ウエイターの一人が、妻のソバ・アレルギーを覚えていて、注意をしてくれたのだった。彼の名はALDEN、可愛い童顔で、まだ日本語に慣れていなくて、初々しく、私たちは彼が好きだ。彼がソバ・アレルギーを覚えていてくれたのを知って感激した妻は、「You are very exellent staff, I think so.」とブロークン・イングリッシュで話していた。

ここで、フィリピン人のスタッフのことを書いておきたい。4月9日のブログで、「サービス担当はほとんどフィリッピン人のようで、一生懸命働いている姿を見ると、少し胸の傷む思いがする」と書いたが、思い違いだったことが間もなく分かった。彼らは、大学でサービスについて専門に学び、30倍もの競争率を経て、この飛鳥Uのスタッフになったエリートだったのだ。以前フィリピンに飛鳥が寄港した時、一族郎党が岸壁を埋め尽くしたと、リピーターの船客が話してくれた。まさに「故郷に錦を飾る」状態だったと言う。彼らにとって、飛鳥Uで働いていることは誇りなのだ。

彼らと親しくなると、子どもが3人いるとか、妻に電話で100回「I love you」と言ったとか、上陸した寄港地で、蒐集しているディッシュ(皿)を買うのが楽しみだとか、乗船生活をエンジョイしているのがよく分かる。

小林和男氏の講演があったが、今回も立ち見、補助椅子が出る盛況だった。夜にはペニー・マティスン(Penny Mathisen)のコンサートがあった。元オペラ歌手、元ミュージカル歌手で、現在客船で歌っているとのこと。今夜で2回目である。声がよく通り、歌も上手い方だとは思うが、過去の思い出話、自己感傷のせりふが多く、サービス精神に欠け、面白くない。おまけに、横に座った老夫婦の夫君が、歌に合わせて手を振るのだが、まったくテンポが無茶苦茶なので、もうたまらない。止めてくれと思っているうちに、コンサートは終わった。素晴しい催しの多い飛鳥Uだが、これはいただけなかった。

第2ボスポラス橋

第1ボスポラス橋

ダーダネルス海峡


5月3日:ピレウス、デルフィ遺跡とアポロ神殿

コンスタンツアからピレウスへの航路

ギリシャの国旗

午前8時にギリシャのピレウス港に入港した。ここは地中海航路の玄関口、それにふさわしく、大きくて立派な港だ。多くの客船が停泊している。それを見て、いよいよ、これからヨーロッパが始まるのだという気持になる。ここは2001年のエーゲ海クルーズで乗船したところで、その前夜、明石先生ご夫妻と、ここで海鮮料理を食べながら「ウゾ」という松脂の匂いのする酒を飲んだことを思い出す。

オプショナル・ツアーでは「デルフィ遺跡とアポロ神殿1日観光」を選んだ。ここは片道3時間もかかる遠いところにあるが、アテネは前回のクルーズで、2日間観光しているので、遠いのを承知でこちらを選んだのだった。このツアーは、すでに何度かアテネを訪れている方が多く、いつもと違ってバス1台の、こじんまりしたグループになった。

ピレウスのターミナルを出るところで、エーゲ海クルーズの日本人ガイドに出会った。あの時はギリシャ人と結婚するとこんなに黒くなるかと思ったが、今回は別人のようで、若い頃は美人だったのだろうと想像できる変わりようだった。少し立ち話をしている間にツアーの一行は消えてしまっている。オロオロしている私たち夫婦を見て、タクシーの運転手が笑いながら、指差して遠くを歩いている一行を教えてくれた。

アテネの街は6年前と様変わりし、大都会となり、市電が走り、高速道路が完備している。ギリシャの全人口の3分の1、400万人がここに集中していると言う。一つには、3年前のオリンピック開催が関係しているのだろう。天候は晴れ、デルフィはアテネの北西180kmにあるが、そこまでの道中で見るギリシャの風景は、アテネで見たものと違っているので、まったく退屈しなかた。途中、かってのミケーネ文明の中心地だったミケーネ地方を通り、エディップスやスフィンクスの舞台となったテーベの街も通過した。

デルフィは予想していた以上に素晴しかった。ここは、古代ギリシャ人がアポロの神託(神のお告げ)を求めて各地から集まり、賑わった聖地であるとのことだ。背後に嶮しい山、眼下に見下ろす深い谷、遠くコリント湾が見える。聖地の場所にふさわしいと思った。

デルフィ遺跡を訪れる前に、デルフィ博物館に入場した。ここは遺跡からの出土品を展示している。その中でも特に惹かれたのは、黄金の冠をつけたアルテミスArtemisの頭部とアポロApolloの頭部、それに青銅の御者像だった。

19世紀末に発掘された神殿跡の遺跡は、大部分が失われているが、かっての栄光を想像することはできた。前回のクルーズで、スニオン岬のポセイドン神殿跡を見て感激したが、ここではそれ以上の大きなもの、たくさんのものを見ることができた。ここを選んで正解だったと妻も納得している。

夜には、ギャラクシーラウンジで、ギリシャ民族舞踏団「オルフェウス」によるローカルショーが催された。これまで何度かローカルショーはあったが、どれも見ていなかった。しかし、このステージは見たくて、ビデオカメラを持参した。これまでのリサイタルやショーはビデオ撮影禁止だが、今回は許されている。

この民族舞踊も、ギリシャ音楽も、素晴しいもので、楽しく、心が弾む。サービス精神があり過ぎるほどで、時にはビデオを撮りながら一緒に唄っていたり、カメラがリズムに合わせて動揺するほどだった。それに比べて、前夜のペニー・マティスンは、何とお高くとまっていたことだろう。

<コメント>

◆投稿 SACHI | 2007年5月 7日 (月) 08時39分
はじめまして
‘アントワープ 飛鳥’でヒットし感激!!家事の合間 やっと全部目を通すことが出来ました。飛鳥のフォトエッセイとは一味違ってワクワク倍増   (*^_^*) ただ今乗船中の両親(三重県生まれ横浜在住。父79歳母はまもなく78歳)は「どんなことを感じているんだろう」とか「お食事を一緒にする機会はあったかしら」とか想像しております。たぶん両親も 賑やかにドジを重ねながら飛鳥を楽しんでいると思います。宜しくお願いします。このページの事を両親にメールで伝えてみます。なかなか返信はありませんが

◆投稿 BOW | 2007年5月 7日 (月) 10時29分
SACHI さん、こんにちは
乗船客のご家族からのコメント、驚いたり、嬉しかったり、ありがとうございます。ご両親様とは、いまのところ同席できていないと思いますが、まだまだ2ヶ月もあります。きっと、近い内にご一緒できると信じています。お話できるのを楽しみにしています。どうかよろしくお伝え下さい。

<メール>

◆MH | 5 May 2007 23:42:47
*黒海
黒海と地中海は潮の干満で水が出たり入ったりしていると思いますが、ドナウ川が運ぶ淡水と干満で入ってくる海水の差引きで黒海の塩分は濃淡いずれに傾いているのでしょう?10カ国以上を通ってきたドナウが運ぶ有機物はとてつもない量になると思います。大河の河口付近に油田が見付かるという話を聞きましたが、さもありなん。

*蕎麦アレルギー
小生の花粉症と同様、奥方には辛いものでしょう。お見舞い申し上げます。友人の一人が蕎麦アレルギーでしてね。食事の時は蕎麦とは全く関係がない店を選ぶようにしています。

*フィリピン人スタッフ
飛鳥がフィリッピンに寄港した時、一族郎党が埠頭に出迎えたと聞き、嬉しくなりました。船底で苦労した先輩船員の話は今は昔です。後輩は飛鳥で高給を得て一族を支えているのでしょう。

*ギリシャ
昨年手術の前に同級生20人とギリシャに行くチャンスがありましたが、執刀医に叱られてオジャンです。惜しい事をしましたが執刀医の言うほうが正しいのは言を待ちません。さはさりながら大兄のレポートを拝見しながら、うーん残念。


黄金のアポロ像

黄金のアルテミス像

青銅の御者像

アテネ人の柱廊

シフノス人の宝庫

アポロ神殿

アポロ神殿

世界の中心、大地のへそと言われた石


<2007.8.8.>

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