目 次
一. 死の前後(上・下)
●死の前後 上
●死の前後 下
二. 酒亭(上・下)
●酒亭 上
●酒亭 下
三. 幽界の居住者
四. 交霊会の裏面(上・下)
●交霊会の裏面 上
●交霊会の裏面 下
五. 憑霊と犯罪(上・下)
●憑霊と犯罪 上
●憑霊と犯罪 下
六. 地獄の大都市(上・下)
●地獄の大都市 上
●地獄の大都市 下
七. 地獄の芝居(上・中・下)
●地獄の芝居 上
●地獄の芝居 中
●地獄の芝居 下
八. 皇帝に謁見
九. ダントン征伐(上・下)
●ダントン征伐 上
●ダントン征伐 下
十. 地獄の戦
十一. 皇帝の誘惑
十二. 魔術者と提携
十三. 自らが作る罪(上・中・下)
●自らが作る罪 上
●自らが作る罪 中
●自らが作る罪 下
十四. 真の悪魔
十五. 眷族(けんぞく)募集
十六. 地獄のどん底
十七. 底なし地獄
十八. 向上の第一歩(上・下)
●向上の第一歩 上
●向上の第一歩 下
十九. 地獄の第二境(上・下)
●地獄の第二境 上
●地獄の第二境 下
二十. 地獄の図書館(上・下)
●地獄の図書館 上
●地獄の図書館 下
二十一. 地獄の病院(上・中・下)
●地獄の病院 上
●地獄の病院 中
●地獄の病院 下
二十二. 救いの曙光
二十三. 愛欲の市(上・下)
●愛欲の市 上
●愛欲の市 下
二十四. 新たなる救いの綱(上・下)
●新たなる救いの綱 上
●新たなる救いの綱 下
二十五. 出直し
二十六. 地獄の新聞紙
二十七. 守護の天使との邂逅(上・下)
●守護の天使との邂逅 上
●守護の天使との邂逅 下
二十八. 第五部の唯物主義者
二十九. 睡眠者
三十. 第六境(上・中・下)
●第六境 上
●第六境 中
●第六境 下
三十一. 死後の生活の有無
三十二. 第七境まで
三十三. 地獄脱出
一. 死の前後(上・下)
●死の前後 上
ここに引き続いて紹介することになりますのは、読者が既にお馴染みの無名陸軍士官から主として自動書記で送られた霊界通信であります。この人の閲歴の大要は上編の第四章「無名の陸軍士官」と題するところに述べてあります通り、生前死後とも思い切って悪事の有りたけをやり尽し、最後に地獄のドン底へまでも堕ちて来た人物で、叔父さんの生活の平静高雅なのに比べてこれは又惨絶毒絶、一読身の毛のよだつようなことばかり続いております。あらかじめその覚悟でお読みになられることを希望しておきます。
最初の通信は1914年2月7日に始まり、同年9月12日を以って一先ず完結致します。書中「吾輩」とあるのは皆この無名陸軍士官のことであると御承知を願います――
吾輩は劈頭(へきとう)肝要な二、三の事実につきて説明を下し、所謂地獄とはいかなる性質のものか、はっきり諸君の諒解を得て置いてもらいたいと思います。(と陸軍士官が語り出す。句調は軍人式で、いつもブッキラ棒です)
地獄に居住する霊魂の種類は大体左の三種類に分かれる。
(一)人間並びに動物の霊魂。
(二)一度も人体に宿ったことのない精霊。
(三)他の界から来ている霊魂。
右の三種類の中で第二は更に左の三つに小別することが出来そうに思う。
(イ)妖精――性質の善いもの、悪いもの、並びに善悪両面を有するもの。
(ロ)妖魔――悪徳の具象化せるもの。
(ハ)変化――人の想念その他より化生せるもの。
ところで右の妖精という奴が一番多く、なかんずく幽界にはそいつが大変跋扈(ばっこ)している。大抵は皆資質が良くないと相場を決めてかかれば間違いはない。外は化生の活神(いきがみ)とでも言うべきものが奥の方の高い所に居る。それが人間の霊魂などと合併してしばしば人事上の問題に興味を持って大活動をやる。彼等のある者は一国民の守護を務め、ある者はそれぞれの社会、それぞれの地方の守護を務める。
あなた方も幾らか気が付いておられることと思うが、例えば英国の一の国民として考えた時にそれは一種特別の風格を具えていて、これを組織するところの個人個人の性格とはまるきり相違していることを発見するでしょう。この一時を見ても、英国を守護するところの何者かが別に存在することは大抵想像し得られるではありませんか。
ざっとこれだけ述べておけば人間の霊魂以外の霊界の存在物につきて多少の観念を得られると思う。吾輩が現在置かれて居る半信仰の境涯などには格別珍しいものは見受けられないが、上の方へ行くと色々ある。天使だの、守護神だのの中には人間の霊魂の向上したのもあるが、そうでない別口も沢山いる。一口に霊魂などと云っても容易に分類の出来るものではない。
さてこれから約束通り吾輩の死の前後の物語から始めるとしましょう。吾輩がストランド街をぶらついている時のことであった。一台の自動車が背後からやって来て、人のことを突き飛ばしておいておまけに体の上を轢いて行った。中々念が入っている。吾輩自動車位にやられるような男ではないのだが、その時ちとウイスキイを飲み過ぎていたのでね。ところでヘンテコなのはそれからだ。轢かれた後で吾輩は直ぐむくむくと起き上がった。頭脳がちと変だ。その中盛んな人だかりがするので、急いでその場を立ち去って役場へ向かった。例の専売品の契約証書に調印する約束が出来ていたからです。
役場の玄関へ着くと同時に吾輩は扉を叩いて案内を求めた。驚いたことには手が扉を突き抜けて、さっぱり音がしない。無論何時まで待っても返答がない。仕方がないから委細構わず扉を打ち開けてやろうとすると、何時の間にやら自分の体がスーッと内部に入っている。
「オヤオヤオヤオヤ!」と思わず吾輩が叫んだ。「今日は案外酔いが回っている。こんな時には仕事を延ばす方がいいかも知れん」
が、直ぐ眼の前に階段があるので、構わずそれを登って、事務室の扉を叩いた。しかしここも矢張り同じ事で、体は内部へ突き抜けてしまった。
●死の前後 下
見れば係りの役人は卓(つくえ)に寄りかかって吾輩の来るのを待って居た。側の卓には書記も居た。仕方がないから吾輩は脱帽して首を下げたが、無作法な奴があればあったもので一向知らぬ顔の半兵衛である。
「私は契約書の調印をしに参りましたが・・・」
吾輩がそう言っているのに奴さん依然として返答をしない。次の瞬間に書記の方を向いてこんなことを言っている――
「モー十分待ってみてもあいつが来なかったら事務所を閉めてしまおう」
「このつんぼ野郎!俺はここに来ているじゃないが!」
吾輩は力一杯そう叫んだが、先方では矢張り済まし切っている。色々やってみたが、先方はとうとう立ち上がって、吾輩が約束を無視したことを口をきわめて罵りながら室を出てしまった。
吾輩も負けずに罵り返してみたものの、どうにもしようがないので、諦めて室を出た。
「あいつは俺よりももっと酔っていやがる・・・」
吾輩は心の中で固くそう信じた。
再び限界の扉を通り抜けたと思った瞬間に何やら薄気味の悪い笑い声が耳元に聞こえたので振り返って見ると、昔吾輩の悪友であったビリーが其処に立って居た。流石の吾輩もビックリした。
「何じゃビリーか! とうに汝は死んだ筈じゃないか!」
「当たり前さ!」と彼は答えた。「しかしお前もとうとう死んじゃったネ。容易にくたばりそうな奴ではなかったがナ・・・」
「この出鱈目野郎! 俺が何で死んでいるものか。俺は少しばかり酔っているだけだ」
「酔っている!」ビリーはキイキイ声で笑った。「酔っているだけで扉を突き抜けたり、姿が消えたりしてたまるものか! お前がただ酔っているだけならあの役人の眼にお前の姿が見える筈ではないか」
そう言われて吾輩も成る程と思った。同時に自分の死骸を捜したい気になった。
次の瞬間に我々はストランド街に行っていた。するとビリーは其処で一人の美人の姿を見つけた。
「どうだいあの女は?」
彼は無遠慮に大きな声でそう吾輩に言った。
「これこれ汝はそんな声を出して・・・」
「馬鹿! 先方の女にこの声が聞こえるもんか! 俺は彼女の後をつけて行くのだ」
「付けて行ってどうする気なのだ? あの女はそんな代物ではない」
「馬鹿だなお前は!」と彼は横目で睨みながら、「お前ももう少しこの世界のことが判って来ればそんな下らない心配はしなくなる。俺は兎も角も行って来る」
次の瞬間にビリーは居なくなってしまった。
吾輩もビリーに居なくなられて急に寂しく感じたが、やがて自分の死体が気になった。不思議なもので幽界へ来てみると、犬のような嗅覚が出来て来て、自分の死体の臭気がするのである。
臭気を頼りに足を運ぶと、間もなく傷病者の運搬車に突き当って、それに自分の死体が積まれてあることが直ぐ判った。車は病院に行くところなので、吾輩もその車の側について歩いて行った。
やがて医者が来て我輩の死体を検査した。
「こりぁもー駄目だ!」と医者が言った。「中々手際よくやりやがった。どうだい、この気楽な顔は!」
吾輩は若しも出来ることならこの藪医者の頭部をウンと殴りつけてやりたくて仕方がなかった。
「可哀相に・・・」と言ったのは看護婦であった。
すると付いて来た巡査が言った――
「ナニ別に可哀相な奴じゃない。轢かれた時にすっかり泥酔していたのじゃから責は全然本人にあるのじゃ。ワシはこやつをよう知っとるが、何とも手に負えぬ悪党じゃった。こやつが亡くなったのは却って社会の利益になる」
その瞬間にケタケタ気味の悪い笑い声がするので振り返って見ると、そこに居るのは世にも獰猛な面構えの化け物然たる奴であった。
「一体きさまは何者だい?」と吾輩が訊ねた。
「フフフフ俺の事をまだ知らんのか?」とそいつが答えた。「俺は何年間かお前に付き纏っている者だ!」
「な・・・何だと・・・?」
「俺はお前の親友だ! お前の気性に惚れ込んで蔭から大いに手伝ってやっている一つの霊魂だ。まァ俺の後に付いて来い。少し方々案内してやるから・・・」
その瞬間に病院は消え失せてしまった。
二. 酒亭(上・下)
●酒亭 上
これは陸軍士官から送られた第二回の通信で、死後幽界に於ける最初の経験が例の露骨な筆法で物語られております。心理学者が頭脳を悩ます憑霊現象の裏面の消息がいかにも突き込んで描き出されておりますので、何人もこれには少なからず驚かるると同時に又深く考えさせられるところがあろうかと存じます――
吾輩は案内されるままに無我夢中で右の怪物の後に付いて行ったが、四辺はイヤに真っ暗な所であった。やがて気が付いて見ると無数の霊魂がその辺にウジャウジャしている。
「ここは一体何処なのかい?」と吾輩は案内者に訊いてみた。
「それよりか、お前は何処へ行きたい?」と彼が言った。「望みの場所へ、何処へなりと連れて行ってあげる」
「吾輩は何より酒が飲みたいナ」
「それならこっちへ来るがいい。酒の好きな奴に誂(あつら)え向きの店がある」
忽ちにして四周に罵(ののし)り騒ぐ群衆の声が聞こえた。と、其処には一個の怪物が多数の配下を率いて控えて居たが、イヤその人相だけはとても形容の限りでない。世の中で一番それに近いものといえば、へべれけの泥酔漢位のところであろう。下品で、醜悪で、ふやけ切っていて、そして飽くまで汚らしい。
詩聖ミルトンは堕落した天使の退廃的な壮麗さを「失楽園」の中に描いているが、そんな趣はこの怪物には微塵もない。そいつが眼球をグリグリさせると他の奴共が声を揃えて怒鳴り立てる――
「酒!酒を飲ませてくれい!」
「俺の後に付いて来い!」と右の怪物が言った。「酒なら幾らでも飲ませてやるが、しかし、きさま達はソノ前に一働きしなければいけねえ」
忽ち我々は大きな、しかし下等な一つの酒亭に入っていた。その場所は確かにロンドンの東端の何処かであるらしい。内部には下等社会の男も女も、又子供さえも居た。
イヤその室に漲(みなぎ)るジンやウイスキイの何とも言えぬ嬉しい香! ちと安ビールの香だけは感心も出来なかったが、勿論そんな事には頓着していられはしなかった。
吾輩は早速酒場に置いてあるビールの大杯にしがみついた。が、いくら掴んでも掴んでもドーしてもコップが掌(てのひら)に入らない。そうなると飲みたい念慮は一層強まるばかり、体中が燃え出しそうに感じられた。それにしても親分は一体どうしているのかと思って背後を振り返ると、彼は大口開いて吾輩を嘲り笑っていた。
彼は漸(ようや)く笑いを抑えて言った――
「ちと仕事をせんかい、このなまくら野郎が・・・」
「仕事をせいだって、一体どうすればいいのだ?」
「他の奴等のやっているところを見い!」
そう言われて初めて気をつけて見ると、他の連中は頻(しき)りに酒を飲んでいる男や女の体に絡み付いている。どうしてそれをやるのかは正確に判らないが、兎に角何らかの方法で、彼等の肉体の中にねじ込んでいるらしいのである。
するとベロベロに酔っ払った男の首玉にしがみついていた一人の霊魂が、この時忽ちスーッとその肉の中に吸い込まれるように消え去った。オヤッ! と思う間もなく右の泥酔漢はよろよろと立ち上がって叫んだ――
「こらッ! 早くビールを持って来んか! ビールだビールだ!」
仕方がないと言った風で一人の給仕女がビールを持って行ってやった。が、よくよく見るとかの泥酔漢の両眼から爛々(らんらん)と光っているのは本人のではなくして、確かに先刻入った霊魂の眼光であった。彼は盛んにビールを呷(あお)ると共にますます猛り狂った。とうとう酒場の監督が来て、その男の肩を掴まえて戸外に突き出そうとすると、泥酔漢はイキナリ大瓶を振りかざしてゴツンと一つ監督の頭を食らわしたから堪らない。監督の脳天は微塵に砕けた。
●酒亭 下
見る見る一大修羅場が現出した。
「人殺しーッ!」
酒客の大半は悲鳴を上げて戸外に跳び出した。霊魂の中には人間の首玉に捲き付いたまま一緒に出掛けたのもあったが、中には又それッきり人間を突っ放してしまったのもあった。
その時吾輩は初めてこれらの霊魂が二種類に分かれていることに気がついた。即ち明らかに人間であるのと、人間でないのとである。人間でない奴は種々雑多で、何れも多少動物じみていた。とても吾輩にそれを形容する力量がない。醜悪で、奇怪で、人間ともつかず、動物ともつかず、時とすれば頭部が動物で体が人間の化け物もある。中には単に頭部ばかりの奴もいるかと思えば、又何ら定形のない目茶目茶のヌーボーもいる。
そうする中にも、例の監督をやっつけた酔っ払いは相変わらずビール瓶を振り回している。と、吾輩の直ぐ傍で耳を劈(つんざ)くようなキャーキャー声で高笑いをする者がある。見るとそれは例の親分の霊魂が嬉しがって鬨(とき)の声を張り上げているのであった。
我々仲間もこれに連れて一緒になって喝采したが、無論何故喝采したのかは判らない。すると酔っ払いに憑いていた悪霊がこの時しきりにその体から脱け出しにかかった。すっかり脱け切ったと思った瞬間、酔っ払いはペチャペチャと地面に潰れた。
「あいつは死んだらしい」
と吾輩はビリーに言った。ビリーはいつの間にやら戻って来ていたのである。
「中々死ぬものか。ただ酔い潰れているだけじゃ。が、あいつは追っ付け断頭台の代物だネ」
「しかし監督を殺したのはあいつの仕業ではない・・・」
「無論あいつの仕業でないに決まっている。しかし裁判官にそんなことが判るものか。裁判官などというものは外面を見て裁判するものだ。日頃監督を怨むことがあったとか何だとか、理屈は何とでも付けられる。それとも貴公証人として法廷にまかり出てあいつの冤罪を解いてやったらドーだい?」
そう言ってケタケタと笑うと他の奴共奴共一緒になって笑った。
丁度その瞬間に警察官が出張して一同から事情を聴き取り、やがて酔漢はつまみ上げて運び去られてしまった。
「大出来大出来!」我々の親分が囃(はや)し立てた。「他の奴共もこれに劣らず大いに勲功を立てい!」
我々はそれから又大いに飲み始めた。そうする中に吾輩も見よう見真似で、ドーやら人間の体に絡み付いて酒を飲む方法を覚えてしまった。正当に言うと、それは酒を飲むのとは少し訳が違う。むしろアルコールの香を嗅いで歓ぶだけの仕事に過ぎない。が、とにかく豪儀である。豪儀であると同時に何やら物足りない。聖書にある死海の林檎そっくりで、手に取ると直ちに煙になる。が、そんな次第で幾日となく右の酒亭に入り浸った。そして終いには吾輩も本式の憑依法まで覚え込んでしまった。
吾輩は今憑依の方法を説明することは出来ない。よしや出来てもそうしようとは思わない。が、大体に於いてそれは現在吾輩がワード氏の体を借りて自動書記をやりつつあるのと同種類のものだと思えばよい――心配したまうな諸君、現在の吾輩はあんな悪い真似はモーしません。たとえしようと思っても、ワード氏の身辺にはちゃんと立派な守護神様が控えて御座る。その上叔父さんもついていなさる。
これで予定通り暫く休憩といたします。幽界の悪魔の酒の飲みっぷりは大抵こんなところでお判りでしょう。三十分程休んだ上で先へ進むことにしましょう。
三. 幽界の居住者
今度のは前回のとは少々趣が違って、ワード氏の口が動いて喋り出したのでした。無論口を使っているのは陸軍士官であります――
吾輩はこの辺で一つあの酒の親分の正体を説明しておきたいと思います。彼は所謂妖精ではない。又人間の想念が凝り固まって出来上がった変化(へんげ)でもない。彼は極度に飲酒を渇望する全ての人々の煩悩から創り出された一の妖魔であります。故に一旦世界中から飲酒欲が消え去った暁には、あんなものは次第に存在を失います。但し直ぐに消えはしません。何となれば人間界に飲酒欲が消滅しても幽界には暫時彼を供給するに足るだけの材料があるからであります。けれども人間が全然飲酒の習慣を廃した上は、我々幽界の者も結局酒の匂いさえ嗅げないことになりますから、自然かの妖魔とても栄養不良に陥ります。但しこれはひとり飲酒ばかりでなく一切の煩悩が皆その通りなのであります。
人間の想像で創り上げた悪魔は、それを創った人が右の想像を棄てると共に消滅しますが、困ったことには他の人が又後から後からそれを復活せしめて行きます。僧侶などの中には、どんなに悪魔を製造して地獄に供給した者があるか知れません。そんな悪魔はしきりに地獄の居住者を悩まします。しかし悪魔の存在を知らない者の眼には決してその姿が見えないのが不思議であります。
妖精というものは、それとは全然性質が違います。彼等は我々と同じく独立して存在します。ドーして妖精が最初発生したのかは吾輩には判りません。又妖精と云ったところで決してその全体が悪性のものばかりではない。中には快活で、気楽で、渓谷や森林に出入しているものもあります。そして無邪気な小児達の眼に時々その姿を見せるものでありますが、そんな事を白状すると子供達は笑われたり、叱られたりするので、段々黙っている癖がつき、その中妖精に対する信仰が失われて交通が途絶してしまったのです。
妖精には色々の種類がある。風の精、木の精、花の精・・・、その他数限りもない。吾輩は当分彼等の中で悪性のものだけについて述べることにします。が、悪性と云ってもそれには程度があります。又妖精とて進歩もするらしいのですが、その詳しいことは判りません。
時とすれば死者の霊魂は自分の遺族に未練を残してそれを護ろうとします。彼等にも偶(たま)につまらない注意や警告を与える位の力はありますが、しかし死の警告などをやるのは、実は皆人の死を嗅ぎつけて接近する妖精の仕業であります。彼等は死者の体からある物質を抽(ぬ)き出そうという魂胆があるのです。
あの吸血鬼の伝説・・・。夜間死霊が墓場から脱け出して寝ている人の血を吸い取るという話は稀には見受けますが、しかし幸い滅多に起こらないことです。又伝説に言っているような、あんな馬鹿げたことでもない・・・。
以上述べたところで、大体我々がこちらで邂逅(かいこう)す代物の見当は取れたと存じます。諸君の御親切に対しては感謝の言葉がありません。次回には又何か御報告致しましょう。吾輩のは皆乱暴極まる話ばかりで、Kさんの奥様はさぞお聴苦しくお思いでしょう。しかし吾輩としては申し上げるだけの事は皆申し上げてしまわねばなりません――では今回はこれで失礼致します・・・。
右の陸軍士官の物語が済むと、直ぐに叔父さんが入れ代わって右に関する批評めいたものを語りました。それはこうです――
Kさんの御夫婦には私からもお礼を申し上げます。しかし私の考えますところでは、陸軍士官のお述べになるところは大変大切で、恐らく我々の送る霊界通信中の白眉(はくび)だろうと存じます・・・
四. 交霊会の裏面(上・下)
●交霊会の裏面 上
続いて現れた陸軍士官からの霊界通信――
諸君は吾輩の手元から当分余り気持のよい通信に接しようと期待されると宛が外れます。諸君は事実を要求される。故に吾輩は事実を供給する。一体世間の人達が赤裸々の事実に接せられることは甚だ望ましいことで、ただ光明の一面ばかりを見るのみでは不足であります。是非とも暗黒面をも知っておかれる必要があります。
吾輩は既に飲んだくれの集まる魔窟のことを紹介しました。それから吾輩が何をやったか? ――今ここで一々それを書いてお目にかける必要はない。無論吾輩は酒亭に出掛けたと同様に娼家にも出掛けた。
酒の化け物があると同じく色欲の化け物もある。それは女の姿をした妖魔であるが、しかしその醜さと云ったら天下無比、どの点から見てもたまったものではない。いかに吾輩でもこの方面の状況を一々書き立てる勇気はない。兎に角酒亭で死海の林檎式の一種の満足を買い得る如く、殆どいなる欲情に対しても同様の満足を買い得る――イヤ満足ではない。何処まで行っても不満足である。それが我々に加えらるる天の刑罰で、真に渇望を充たし得る方法は絶対にないのである。
不満足な満足――流石の吾輩も酒亭や娼家の享楽が少々鼻について来ました。すると、いつも吾輩の案内を務める悪霊が吾輩に向かってこう言うのです――
「どうだい、一つ交霊会を冷やかしてみようではないか?」
吾輩は不審のあまり訊ねた――
「何の為にそんな場所へ行くのかね?」
「イヤ中々面白いよ、交霊会という奴も・・・」
「ただ面白いだけの事かね?」
「イヤ他にも理由がある。汝が現在有している体は半物質的のものだが、気を付けてちょいちょい手入れをしないと体が終いには亡くなって地獄へぶち込まれてしまうぞ」
「俺はまだ地獄へ堕ちてはしないのかね?」
「堕ちているものか。ここはまだ地上だ。本物の地獄に堕ちたとなると、まるで勝手が違って来る」
「そうかナ。それなら体の手入れを怠らないことにしようかナ」と吾輩が叫んだ。「しかしも少し詳しく説明して聞かせてくれ。吾輩も生きている時分にかつて交霊会というものに行ったことがあるが、見るもの聞くもの頓と合点の行かぬことばかり、てッきりただの詐術としか思えなかった」
「イヤ交霊会というものは大別して三種類に分かれるよ」と案内者が説明した。「もっとも互いに重なり合ったところがあるので、余りはっきり区別する訳にも行かないがネ。即ち
(一)善霊の憑る交霊会
(二)悪霊の憑る交霊会
(三)詐術
の三つだね。
その中で第一のは我々に歯ぶしが立たない。第三のは役に立たない。ただ眼の付け所は第二のヤツだ。これがこちとらの畠(はたけ)のものだ。正しい霊媒でも上手く行けば騙くらかして俺達の仲間に引き摺り込むことも出来る・・・」
「どうしてそんなことが出来るのかい?」
「その霊媒に欲が出て、霊術を利用して金子でも儲けようとした場合にその体を占領するのだ」
「そうすると霊媒は謝礼を取ってはいけないのかね?」
「そんなことはないさ! 霊媒だって牧師だって食わずに生きてはおられない。牧師が年俸四百ポンドを貰って妻子を養うからと云って誰も何とも言いはしない。平牧師から出世して監督にでもなれば年俸三千ポンド位は貰われる。しかしそれでも別に牧師の沽券が下がる訳でもない――ただ仮初めにも牧師ともあろうものが、同胞救済の為に力を用いず、朝から晩まで自分の位置や財産ばかりを目標にしていた日には直ぐに評判が悪くなる。霊媒だってその通りだ。何事も動機が肝腎だ。動機ばかりは誤魔化せない。一旦動機が悪くなったと見ると、その時こそ我々の付け込むところだ」
「けれども、そんなことをして何ぞ俺達の利益になるのかね?」
彼は横目で睨みながら、
「そりァなるとも! 先ず第一に我々はそうして自分の幽体を養う為の材料を手に入れるのだ。第二には権力だ。権力! お前の耳にはこの言葉がピーンと気持ちよく響いて来ないかい? 多勢の人間を思うままに引き摺り回すのは素敵じゃないか! なかんずく――」そう言って彼は一層毒々しく眼球を動かしながら「我々はこれを利用して昔の怨恨を晴らすことが出来る。それからもう一つ、たとえ一時の間でも人間の体に宿るということはありがたいじゃないか。こう考えた時に交霊会というヤツも満更(まんざら)ではなかろう。イヤまだあるある! 幽界で散々修業を積んだ者が、モ一度人間の世界に出しゃ張って大手を振って歩き回れる・・・。何と面黒い話じゃないか!」
●交霊会の裏面 下
吾輩もこの説法を聞かされてすっかり交霊会行きに賛成してしまった。そして間もなく他の一群の霊魂達と連れ立ちて交霊会の催されている一室に出掛けて行ったが、其処には一人の婦人が約十人ばかりの男や女に取り巻かれて座って居た。婦人の側には光り輝く一人の偉大なる天使が立って居たが、その天使は雲霞の如き悪霊共に包囲され、多勢に無勢、遂にみすみす霊媒の体を一人の悪霊の占領に委せてしまった。悪霊共はこれを見ると、どッとばかりに歓呼の声を上げ婦人の身辺に押し寄せて、前後、左右、上下からひしひしと包囲し尽して霊魂の垣根を作った。
「一体こりァ何をしているのかしら・・・」と吾輩が自分の案内者に訊ねた。
「ナニ我々はこうして天使の勢力を遮断しているのだ。いかに偉い天使でも悪霊の垣根は容易に突破し得ない。丁度我々が優れた霊媒を包囲する天使の垣根を突破し得ないのと同様じゃ。さァこれから憑依霊が仕事を始めるところだから気をつけて見物するがいい」
そういう中にも霊媒は言葉を切り始め、その席に居た一人の中年の婦人に向かってこんなことを言い出した――
「私はお前の妹のサリーです。私はどんなに姉さんに会いたかったでしょう」
これをきっかけに二つ三つ当人に心当たりのありそうなことを喋った。それを聞いて吾輩はすッかり感心してしまった。
「どうしてこんな事実を知っているのかしら・・・実に恐れ入ったものだネ」
「そりァ訳はないさ。あいつは何年となくこの霊媒に付き纏っていて、色々役に立ちそうな材料を平生から仕入れておいてあるのだ――さァ又始まった・・・」
見れば今度はその室に居た一人の男が霊媒に向かって質問を始めたところであった――
「私は何ぞ有益になる事を伺いたいのです。詰まりソノ実用向きの御注意を・・・」
「それではあなたの兄さんのジョージさんに訊いてみましょう」と霊媒が答えた。そして直ちにジョージという人物の態度をして言った。「ヘンリー、私は財政上の問題に関して一つお前に有益な注意を与えようと思うが、モちとこちらへ寄って耳を貸しておくれ。他言を憚(はばか)ることだから・・・」
そう言った彼は右の男の持っている、ある株券のことにつきてボソボソと低い声で注意するところがあった。男はそれを聞いて大変嬉しそうな顔をした。
「お前はそれで大成金になれる・・・」そう憑霊が付け加えた。
「あんなこと言いやがって本当かしら?」と吾輩が案内役に訊いた。
「本当だよ、今のは・・・。我々の仲間は時々嘘を言ってムク鳥をひっかけて歓ぶこともあるが、又時々は本当のことを教えてやって、どうしても我々を離れることの出来ないように仕向けて行くのだ。又人間というものは成るべく色々の欲望を満足させて堕落させておかないと、段々有意義な心霊上の問題などに熱中して来やがって、俺達の邪魔をするようになるものだ――ソレ又始まった」
今度は霊媒が一人の若い女に近付いた――
「今あなたが心に思っていることはよく私に判っています。先方の申し込みには早速応じなさい。受け合ってあなた方の結婚生活は幸福です。あの人について色々面白からぬ陰口を聞かされるかも知れませんが、皆嘘ですからそれに騙されてはいけません」
吾輩は再び質問を発した――
「ありァ一体何を言っているのかね・・・」
「あの若い女に目下結婚問題が起こっているのだネ。候補者の男というのは酔っぱらいの悪漢で、箸にも棒にもかからぬ代物だ。お陰であの女は今に散々苦労をさせられた挙句の果が堕落するに決まっている。そこで結局こちとらの食い物になる――さァ又始まり始まり! 今度霊媒の体に憑った奴はひょうきん者の悪戯霊だからきっと面白いことをやらかすに相違ない」
成る程今度は霊媒に新規の霊魂が憑って様々の悪戯をやり始めたのであった。中には毒にも薬にもならぬ仕打ちも混じっていたが、又中には性質の良くない悪戯もあった。しかし概して他の霊魂のように余り悪ズルいところがなかった。先ず手始めに室内の品物を動かしたり、投げつけたりする。次に室内の人達の頭をピシャピシャ叩く。次に物品を隠し、人々の懐中物さえ巧みに抽(ぬ)き取る。それが皆人間の方から見ればちっとも手を触れないでやることになる。最後に彼は其処に置いてあったテーブルを引っ繰り返し、座客の過半にとんぼ返りを打たせた。
やるだけやって我々は交霊会場を引き上げた。
道々吾輩の案内者はこう説明した――
「心霊現象といえば大抵あんなところが一番多いが、物質的な頭脳の所有者に霊魂の存在を承認させる為には、この種の方法以外には絶対に何物もない。その為に優れた霊媒や霊魂までも止むことを得ずこんな子供じみた曲芸をやって見せるのだが、見物人は大喜びで、初めて成る程ということになり、その勢いで嘘だらけの霊界通信までも感心して受け容れる。お陰で霊媒の体は目茶目茶になり、交霊会の評判はめっきり下落する。我々悪霊にとりての大禁物は純潔で且つ真面目な霊媒と心霊研究とである。そんなものはこっちの秘密を矢鱈に素っ破抜き過ぎて、人間を用心深くさせて困ってしまう・・・」
こんな記事を御覧になれば諸君は吾輩の趣旨が那辺(なへん=どのあたり)にあるかをお察ししてくださるでしょう。諸君のお気の付かないところに、別に隠れたる理由もありますが、それは次第に判ってまいりますから辛抱して最後まで読んで頂きます。
何しろ吾輩は我の強い人間で、段々堕落してとうとう地獄のドン底までも堕ちて行った者であります。人間というのは生前に悪事をすれば、その堕落せる人格は死後までも依然として継承され、堕ちるところまで堕ちてしまわねば決して承知が出来ないようであります。
が、諺(ことわざ)にもある通り、「一切を知るは一切を大目に見ることである」――一旦地獄のドン底へ堕ちた者がやがて又頂上まで登ることがありとすれば、その間に獲たる知識は自分自身にとりても、又一般世間にとりてもきっと大いに役に立ちます。格別の悪事もせぬ代わりに又格別の善事もせぬ弱虫霊よりも、この方が却って有効かも知れません。兎も角も吾輩はそのつもりで大いに活動します・・・。
五. 憑霊と犯罪(上・下)
●憑霊と犯罪 上
これは三月七日の午後九時五十分に出た通信で、憑霊と犯罪との面白い関係につきて例の陸軍士官が自己の体験を大胆率直に告白したものであります。法律上では単に故殺だの、謀殺だの、未遂だのと外面から頗る簡単に取り扱っておりますが、一歩その裏面に立ち入りて霊界の消息を窺いますと実に恐ろしい落とし穴やら術策やらが仕組まれてあるようであります。本通信の如きは特に心ある人士の精読に値するものと思考いたされます――
さてある日のこと、吾輩は一つの交霊会へと出掛けて行った。するとその場に居合わしたのが生前吾輩の内幕を素っ破抜くことばかりやっていた不倶戴天の仇敵であった。
「こいつ是非仇をとってやれ!」
吾輩は即座にそう決心した。モーその時分には吾輩も霊媒の体を占領して所謂神懸現象を起させる位のところまで腕が磨けていた。
吾輩の仲間には、相当腕利きの悪霊が沢山揃っていたので、そいつ達が色々と復讐手段を吾輩に提案した。命知らずのナラズ者に憑依し、相手を殺害させるのが面白かろうというのもあれば、それよりはむしろ相手を騙くらかして破産させるのが一番近道だと主張する者もあった。その外まだ色々の提案があったが、しかしそれ等の何れよりも遙かに巧みな方法がふと吾輩の胸に浮かんだ。吾輩のつけ狙っている男は、よせばいいのに近頃下拙の横好きで霊術弄(いじ)りを始めていた。勿論深いことは少しも判っていない。大体ただ好奇心という程度のものであった。吾輩のつけ込みどころはその点にあった。
夜となく昼となく吾輩は彼に付き纏い、その一挙一動をも見逃すまいとした。吾輩は機会さえあれば彼に損害を与えた。彼が博打をやれば、吾輩がその持ち札を相手に内通してやる。彼が事業をやれば、吾輩が仲間の胸に不安の念を起こさせる。手を変え品を変えて酷い目にばかり遭わせてやった――が、そんなことは吾輩のホンの序幕戦で、最終の目的は決してそんな生易しいものではなかった。
とうとう吾輩の待ちに待ちたる好機会が到着した。彼は自分の霊魂をその肉体から遊離させる修業を開始していたが、その頃漸くそれが出来かけて来た。これは吾輩に取りて真に乗ずべき好機会であった。吾輩は彼の霊魂が肉体から脱出した隙を見澄まして、空き巣狙いの格でその空ッぽの肉体へイキなり飛び込んでしまった。
「ハハハ」と吾輩はほくそ笑んだ。「借り物ではあるが、これですッかり元の通りの人間様だ!」
が、いよいよやってみると他人の体の居候も中々楽な職業ではなかった。体の方では大人しくこちらの言うことを聞こうとせず、ややともすれば追い出しにかかる。それを無理に強い意思の力で抑えつけるのだから一瞬間も油断が出来ない。幸い吾輩意思の強いことにかけては先方の比ではないので、ドーやら城を持ち堪えることが出来た。
イヤしかし気の毒であったのは先方の霊魂であった。外面から見れば元の通りの当人に相違ないが、豈(あ)に図らんや中身は吾輩で、当人の霊魂は気の利かない顔をして、始終体の外にぶら下がっていた。幽体と肉体とが生命の紐で連結されているので、離れてしまうことも出来ないが、さりとて体内に入ることも出来ないのである。イヤ吾輩随分思い切って彼の女房を虐めてやったものだ。蹴る、罵る、殴る、夜中に叩き起こす、無理難題を吹っかける・・・。とうとう女房は愛想を尽かして子供を連れて家出をしてしまった。その間にこちらは無理酒を飲む、道楽をやる、賭博をやる・・・。他人の体だから惜しくも何ともない。お陰でそいつの名誉も健康も滅茶苦茶に毀損させてやった。
●憑霊と犯罪 下
が、いつまでこんな事ばかりもしていられないので、とうとう最後の荒療治を施すことになった――他でもない、吾輩がその男の体を使ってある宝石商の店に入って幾粒かの宝石を盗んだ上にその主人を殺害し、そして首尾よく発覚して官憲の手に捕まるように仕向けたのである。吾輩は彼が謀殺罪として正規の手続きを以って刑務所に収容されるまで体内に留まって居たが、ここまで行けばモー用事はないので監房内で体から飛び出してしまった。それまで指をくわえてブラブラ腰巾着になっていた彼の霊魂は初めて自分の体内に戻ることが出来たが、随分気の利かない話で、その際吾輩は散々先方を嘲笑してやったものだ。
いよいよ裁判が開始された時に吾輩は人知れず傍聴席に出掛けて行っていた。当人はしきりに一切の罪状につきて何らの意識が無かったことを主張した。
無論それはその通りに相違ないので、彼の霊魂としては一切を承知していても、彼の物質的脳髄には何らの印象も残ってはしなかったのである。弁護士も又被告が一時的に発狂したのであると熱心に弁論した。が、裁判官は次の如く論告した――
「ある一部の人士は一切の犯罪を以って発狂の結果なりと主張する。しかしながら本職はこれを承認することが出来ない。本件被告の行動はそれを発狂と見做すには余りに工夫術策があり過ぎる。本件関係の証人等の供述に基づきて推断を下せば、被告は平生から憎むべき行為を重ね、最後にこの謀殺罪を犯したものである・・・」
そしてかかる場合にいつも来る判決――死刑の宣告を下したのである。
こうなっては吾輩の得意は以って想うべしである。が、その中予想外の小故障が起こらないではなかった。依然として無罪を主張する被告の宣言――こいつは左まで役にも立たなかったが、彼の女房が夫に対して同情ある陳述をなし、彼の平生の行動から推定してかの犯罪は確かに一時性の発狂の結果に相違ないと申し立てたことは中々有力なる弁護であった。
無論それが為に死刑の宣告が破棄されはしなかったが、しかしこの同情ある陳述が、今までただ反抗心とヤケ糞気分に充ち充ちていた夫の精神に善心の芽を吹き出させるのには充分であった。監獄の教誨師が又彼を信じて、百方慰藉(いしゃ)の途を講じたので、いよいよ彼は本心に立ち返り、生前の罪を悔い改めて神にお縋(すが)りする気分になった。結局彼の肉体だけは予定通りに殺し得たが、彼の霊魂はこちらの自由にならず、死刑が実施された瞬間に一団の天使達がそれを取り巻き、我々悪霊を追い散らして何処とも知れず連れ去ってしまった。言わば九仞(きゅうじん=高さが非常に高いこと)の功を一簣(いっき=一つのもっこ。また、もっこに1杯の分量。わずかな量のたとえ)に欠いた訳で、復讐の最終の目的は達せられずに終わったのである。
それだけならまだ我慢が出来るが、今度はあべこべに吾輩自身が危なくなって来た。丁度その時分から吾輩の体の加減が急にヘンテコになり、何やら奥の方からズルズル崩れるような気がして仕方がない。いかに気張ってみてもドーしてもそれを食い止めることが出来ない。流石の吾輩も驚いて自分に付き纏う悪霊に訊いてみた――
「近頃ドーも身体に異状があるが、一体どうしたのだろう?」
「ナニ地獄に落ちるンだネ」と彼は平然として答えた。「汝もモーそろそろ年貢の納め時が来たのだ」
吾輩びッくりして叫んだ――
「それでは約束が違うじゃないか! こんなことをしないと幽体が養われないというから吾輩は精出して人間の体に憑依していたのだ」
「それをやれば勿論一時は養われるさ。けれども無論長続きのするものじゃない。モー汝もいよいよ近い内に幽体とお分かれじゃ」
吾輩はがっかりして訊ねた――
「そうすると今度はどんな体を貰うのかね?」
「今度は霊体という代物だね。真の苦痛はそれから始まるのさ・・・」
こう言われて吾輩は初めてこの悪霊がいかに悪意を以って吾輩を呪いつめていたかに気がついた。その時の忌々しさ! 憎らしさ! とても筆紙には尽くせません。それからいよいよ吾輩の地獄堕ちとなるのですが、今晩の話はこれで止めておきます。
諸君、吾輩の通信中には至る所に大なる警告が籠もっているつもりであります。それ故何卒これを厄介物視せず、充分の注意を以って研究して頂きたいと存じます。今晩はこれでお分かれいたします・・・。
六. 地獄の大都市(上・下)
●地獄の大都市 上
これは三月二十八日午後九時半から現れた陸軍士官の霊界通信で、いよいよこの通信の大眼目たる地獄の第三部、憎悪、残忍、高慢の罪を犯した者の当然入るべき境涯の第一印象をば、例の端的な筆法で報告してあります。ある程度まで時空の支配を受くる幽界の状況とは俄(にわ)かに勝手が違いますからそのおつもりで玩味さるることが必要であります。
前回諸君にお分れした時に吾輩がとうとう地獄に墜ちかけたことを申し上げておきましたが、大体地獄という所は地上界とは多くの点に於いて相違しております――最初吾輩の体は暗い、冷たい、恐ろしい無限の空間を通じてドンドン墜落して行く・・・。最後に何やら地面らしいものにゴツンと衝き当たった。ふと気が付いて見ると其処には道路らしいものがある。兎も角も吾輩はそれに這い上がって、コツコツ進んで行ったが、ツルツル滑って間断なく汚い溝(ドブ)の中に嵌(はま)る。嵌っては這い上がる。這い上がっては又嵌る。四辺は真っ暗闇で何が何やらさっぱり判らない。が、吾輩の体は不思議な引力のようなものに引き摺られ、ある方向を指して無茶苦茶に前進を続ける――最後に吾輩は荒涼たる石ころだらけの野原に出た。
依然として闇の中をば前へ前へと引き摺られる。その間何回躓き、何回倒れたかはとても数え切れない。こんな時には誰でもいいから道連れの一人もあってくれればと頻(しき)りに人間が恋しくてしようがなかった。そうする中に次第次第に眼が闇に慣れて視力が少しずつ回復して来た。行く手を眺めると何やら朦朧と大きな凝塊が見える。暫くするとそれはある巨大なる市街の城壁で見渡す限り・・・。と言って余り遠方までは見えないが、兎に角何処までもズーッと延長した城壁であることが判った。幸い向こうに入り口らしい所がある。近付いて見ると、それは昔のローマの城門めいたものであるので、吾輩構わずその門を潜った。が、その瞬間に気味の悪い叫び声が起こり、同時に二人の醜悪なる面構えの門番らしい奴が、矢庭に吾輩に飛び掛って来た。
ドーせ地獄で出くわす奴なら、片っ端から敵と思えば間違いはあるまいと気が付いたので、吾輩の方でも遠慮はしない。忽ちそちらに振り向いて、生命限り・・・。いや生命は最初から持ち合わせがないから、そう言うのも可笑しいが、兎に角一生懸命になって、先方と格闘しようと決心した。ところが妙なもので、吾輩がその決心を固めると同時に二人の醜悪な化け物は俄然として逃げ出した。これがそもそも吾輩が地獄に就きての最初の教訓に接した端緒であります。地獄には規則も何もない。ただ強い者が弱い者を虐める。そしてその強さは腕力の強さではなくて意思の強さと智恵の強さであるのです。
吾輩は暫くの間何らの妨害にも接せず、先へ先へと進みましたが、モーその時には濃霧を通して種々の建物を認め得るようになりました。段々見ている中にこの市街には何処やら見覚えがあることに気が付いた――外でもない、この市街は古代のローマなのであります。ローマではあるが、しかしローマ以上である。かつてローマに建設されて今は滅びた建物が出現しているばかりでなく、他の都会の建物までがそこへらに出現している。無論それ等の建物は皆残忍な行為と関係のあるものばかりで、それ等の邪気が凝集してこの地獄の大首府が建設されているのであります。同じくローマの建物でも残忍性のない建物はここには現れないで、それぞれ別の境涯に出現している。全て地上に建設さるる一切の都市又は建物の運命は皆こうしたものなのであります。
憎悪性、残忍性の勝っている都市としてはローマの外にヴェニスだのミランだのが数えられる。そして呪われた霊魂達は皆類を以ってそれぞれの都市に吸引される。無論地獄の都市は独り憎悪や残忍の都市のみには限らない。邪淫の都市だの物質欲の都市だのと色々の所が存在しパリやロンドンは主に邪淫の部に出現している。但しこれはホンの大体論で、ロンドンの如きもそれぞれの時代、それぞれの性質に応じて、局部局部が地獄の各方面に散在していることは言うまでもない。
●地獄の大都市 下
立派ではあるがしかし極度に汚い市街を、吾輩は足に任せてうろつき回った。時々吾輩は男や女に出くわしたが、その大部分は地上と格別違った服装もしていない。ただそれがイヤに汚れてビリビリに裂けているだけであった。中には吾輩を見て突撃して来そうにするのもあったが、こちらからグッと睨みつけてやると訳なく逃げてしまった。こんなことを繰り返している中に、吾輩ふと考え付いた――
「今まで俺は人から攻撃されてばかりいるが今度は一つアベコベに逆襲して家来の一人もこしらえ、道案内でもさせてやろうかしら。ドーせ自分は厭でも諾でもここに住まわなければならんのだから・・・」
そこで吾輩はイキナリ一人の男に跳びかかった。先方はびっくり仰天、キャーッ! と悲鳴を上げて逃げ出したが、吾輩は例の地獄の奥の手を出し、ドーしても後戻りをするように念力を込めた。先方は飽くまで抵抗はしてみたものの、力及ばず、づるりづるりと次第にこちらへ引き寄せられて来た。いよいよ手元に接近した時に吾輩は自分の権威を見せる為に、ギューと地面にそいつの頭を擦り付けさせ、散々油を搾った上で、起きて道案内をしろと厳命した。奴さんオロオロ声を出して愚痴りながら、吾輩の命のままに所々方々の建物を案内して歩いた。
やがて家来が恐る恐る吾輩に訊いた。
「ここで昔のローマ武士の大試合がございますが御覧になられますか?」
「ふむ、入ってみよう」
早速昔の大劇場(コロシアム)と思わしき建物に入ってみると、座席は見物人で充満であった。そこで吾輩は忽ち一人の男の首筋を掴んで座席の外におッぽり出した。その次の座席には醜悪な容貌の女が座っていたので、こいつもついでに放り出してやった。我々二人は大威張りで其処へ座り込んだ。
試合は丁度始まったばかりであった。見ると自分達の反対側には立派な玉座が設けられてある。
「あそこが陛下の御座所でございます」と吾輩の家来がビクビクしながら小声で囁いた。
「ナニ陛下・・・。一体それはどこの馬の骨か?」
「よくは存じませぬが、兎に角あの方が皇帝で、この近傍を支配しておられます」
「そうすると地獄には他にもまだ皇帝があるのか?」
「そうでございます。王だの大将だのも沢山ございます」
「そんなに沢山あっては喧嘩をするだろうナ?」
「喧嘩・・・。旦那様は妙なことをお訊ねになられますナ。一体何時何処からお出でなされましたか?」
「そりァ又何故かナ?」
「でも旦那様、地獄に喧嘩は付きものでございます。ここは憎悪と残忍との本場でございます。我々は間断なくお互いに喧嘩ばかり致します。地方と地方とは鎬(しのぎ)を削り、皇帝と皇帝とはのべつ戦端を交えます。現に私共は近頃付近の一地方を征服しました。で、今日はその戦勝のお祝いに捕虜達を引き出して試合をさせるのでございます――あッ戦士達の出場でございます」
やがて試合が始まりましたが、流石の吾輩も臍(ほぞ)の緒切って初めてこんな気味の悪い見世物を見物しました。昔の試合に付きものの残忍さがあるだけで、昔の武士道的の華やかさは微塵も無く、ただ野獣性の赤裸々の発露に過ぎない。
又試合は単に男子と男子との間に限らず、男子と女子との試合もあれば、甚だしきは大人と子供の試合さえもあった。そしてありとあらゆる苦痛を与え、哀れな犠牲者達はヒイヒイキイキイ声を限りに泣き叫ぶのである。大体の光景は地上で見るのと大差はないが、ただ何時まで経っても死ぬということがないから、従って苦痛も長い。ノベツ幕なしに何時までもやり続ける――現在の吾輩はこんなことを書いたり読んだりするだけでも胸が悪くなりますが、当時はまるでその正反対で、極度に吾輩の残忍性、野獣性を挑発し、何とも言えぬ快感を与えたのでした。これは決して吾輩ばかりでなく、全ての見物人が皆そうなので、地獄の主権者がかかる見世物を興行する理由もその点に存在するのです――今日はこれで中止しますが、次回にはモ少し詳しく申し上げます・・・」
七. 地獄の芝居(上・中・下)
●地獄の芝居 上
三月三十日のはいつもの自動書記式通信ではなく、ワード氏の方から霊界の叔父さんを訪れ、その室で陸軍士官と直接面会してこの物語を聞かされたのでした。ワード氏は前にも透視法で陸軍士官と会っているのですが、相変わらずこの日もいかにも意思の強そうな、いかつい顔をしていたそうで、ただ以前に比べれば憎々しい邪気が余程減っていたということであります。
陸軍士官の話しぶりは例によってテキハキと、短刀直入的に前回の続きを物語っております――
さて御前試合もいよいよ千秋楽となって、観客がゾロゾロ退散するので、吾輩も家来を連れて演武場を出たのであるが、わざと城門の付近に陣取って所謂皇帝の退出するところを見物することにした。間もなく皇帝の馬車が現れたが、その周囲は大変な人だかりだ。そして意外にも丸裸の男女が沢山その中に混じっているのである!
吾輩は家来に訊いた――
「イヤに素っ裸の霊魂がいるではないか! 死んだ者は皆衣服を着ている筈だのに・・・」
「これが皇帝陛下のお道楽でございます。こうして多くの家来達を無理に裸にさせて、嬉しがっておられるのでございます」
「しかし幾ら裸にされたところで、幽霊同志では余り面白い関係も出来まいが・・・」
「御説の通りでございます。旦那様もモーすっかりお存知でございましょうが、肉体の無い者には肉体の快楽ばかりは求められはしません。真似事ならいくらでも出来ますが、それではまるきり影法師と影法師との相撲のようなもので面白くも可笑しくもございません。情欲だけは依然として燃えながら、それを満足せしむる体が無いのでございますから全くやり切れはいたしません」
そう言っている中に、大きな猟犬が幾匹となく側を走り過ぎたので吾輩は驚いた。
「地獄にも動物が居るのかね? 妙なものだナ・・・」
「ナニこれは本物の動物ではございません。皇帝の思し召しで、人間の霊魂が仮に動物の姿を取らされましたので、裸にされたり、又は子供の姿にされたりするのと何の相違もございません。皇帝は実に素晴らしい力量のあるお方で、我々を御自分の好きな姿に変形させ、甚だしきは家具や什器の形までも勝手に変えて面白がっておられます」
やがて皇帝の行列が自分達の前面を通過しましたが、イヤその騒々しさと、惨酷さと、又淫猥さと来た日にはまるきりお話にならない。そして行列の前後左右には間断なく悲鳴が聞こえる。これは種々雑多の刑罰法が時とすればお供の者に加えられたり、又時とすれば見物人に加えられたりするからである。なかんずく人騒がせの大将は例の猟犬で、ひっきりなしに行列中の男女に噛み付いたり、又見物人を皇帝の前に交えて来たりする。
皇帝はと見ると、大威張りで戦車に納まり返っているが、その面上には罪悪の皺が深く深く刻まれて、本来の目鼻立ちがとても見分けられぬ位、正に残忍性と驕慢性との好標本であった。が、生前はこれで中々の好男子ではなかったかと思われる節も何処やらに認められるのであった。
「一体彼は何者かナ? ローマのネロではあるまいナ」
「いいえ旦那様」と吾輩の家来が答えた。「私はあの方の名前を忘れてしまいましたが、ネロでないことだけはよく存じております。ネロはあの方の家来でございます。あの方に比べるとネロなどは屁ッぽこの弱虫です。幾度となく皇帝に反旗を翻しましたが、その都度いつも見事に叩き潰されてしまいます。けれどもネロも中々狡猾な男で、いつも監視者の隙を狙って逃げ出しては一騒動を起こします。そして捕まる毎に皇帝から極度に惨たらしい刑罰を受けます。イヤ、ネロ虐めは皇帝の一番お気に召した娯楽の一つでございます」
「そりァそうと貴様は皇帝が生前何という名前の人間であったか、きッと知っているだろうが・・・」
「イヤ私は全く忘れてしまいましたので・・・」
「この嘘つき野郎! なんでそれを忘れる筈があるものか! 真直ぐに白状せい!」
「白状するにもせぬにも全く存じませんので・・・」
「それならよし。俺がきっと白状させて見せる」
吾輩は例の地獄の筆法で、極度に恐ろしい刑罰法を案出し、一心不乱にそれを念じたから堪らない。家来の奴は七転八倒の苦しみ・・・。それこそ本当の地獄の苦しみを始めた。
が、いくら虐めても知らないものは矢張り知らないので、最後には吾輩もとうとうくたびれて家来虐めを中止し、それなら何処ぞ面白い場所へ案内せいと命じた。
「それでは旦那様劇場へ御案内いたしましょう」
とやっと涙を拭いて答えた。
「ふむ劇場・・・。それもよかろうが、一体ここではどんな芝居をやっているかナ?」
「そりァ素敵に面白いものでございます。地上で有名な惨劇は大抵地獄の舞台にかけられます。そして成るべく生前その惨劇に関係のある当人を役者に使って、地上で行なった通りを演じさせます」
「人殺しの芝居ばかりでなく、少しは陽気な材料、例えば若い男女の愛欲と云ったようなものは演じないのかナ?」
「景物にはそんな材料もございますが、御承知の通りここは人を憎むことと人を虐めることが専門の都市でございます。従ってここで演じる脚本の主題となるのは皆その種のもので、邪淫境へ参りませんと色情が主題となったものはありません――もっとも色情と残忍行為とは親類筋でございますから、ここの芝居を御覧になっても中々艶っぽいところも出て来る幕がございます」
「地獄にも新脚本が現れるかナ?」
「あまり沢山も現れません。しかも皆地上で演ぜられたものの焼き直しが多いのであります。もっとも地上には本物の惨劇が毎日演ぜられますから、こちらで材料の払底する心配は少しもございません」
「して見ると真の創作は地獄から出ることは無さそうだナ?」
「一つも無いように考えられます。地獄物は悉(ことごと)く輸入物か焼き直し物ばかりでございます」
●地獄の芝居 中
やがて我々は一大劇場の正面に出た。途中かなりの距離を歩いて来たが、その辺で見かけるどの建物も大抵皆近代式のものばかり、なかんずく劇場などときてはまるきり近頃のものだった。そのくせ汚れ切っていて、手入れなどはさっぱり出来てはしなかった。
が、見物人の多いことと云ったら全く凄まじい程で、押すな押すなの大盛況――我々は暫く群衆と一緒になって、門の内部まで入って見たが、其処は殆ど修羅の巷で、大概の観客はお互いに喧嘩をしている。ヤレ押したとか、押されたとか。ヤレ滑ったとか転んだとか。めいめい何とか勝手な文句を並べて騒いでいる。殊に切符売り場の騒動ときては尚更酷いもので売り手と買い手とがひっきりなしに罵り合っている。
いつまでもこんな騒動の渦中に巻き込まれていたのではとてもやり切れないので、吾輩は満腔(まんこう)の念力を込めて、四辺の群衆の抗議などには一切頓着なしに、家来の手を引っ張りながら、グイと真一文字に切符売り場へと突進した。家来の奴も吾輩の保護の下に大威張りで、道すがら幾人かを突き飛ばし、殊に一人の婦人の頭髪をひッ掴んで地面に投げ倒したりした。しかし鬼のような群衆は別にその女を可哀相とも思わず、倒れている体の上をめいめい足で踏み躙(にじ)った。
それから吾輩は家来と共に直ちに観覧席に突入して行ったが、ここでも又観客の大部分が罵り合ったり、叩き合ったり、乱痴気騒ぎ――自分達の直ぐ隣席の男女なども決して御多分に洩れず大立ち回りの最中であった。これが裏店社会の出身というのなら聞こえているが、この二人は元は確かに上流社会の者であったらしく、身に付けている衣服などは、汚れて裂けてはいるものの中々金のかかった贅沢品であった。それでいて大びらに喧嘩をやらかすのだから全く以って世話はない。そのうち男の方が女よりも強烈な意思の所有者であったらしく、とうとう女を椅子と椅子との中間に叩き伏せてしまった。そして自分の椅子をわざわざ引き摺って来て、女の体を足の踏み台にして、ドッカとそれに座り込み、女が起き上がろうとすると、上からドシンドシンと靴で踏みつけた。
やがて彼は自分達を認めると、手真似で前を通れと知らせ、且つこう付け加えた――
「構いませんから、上を踏んで行ってください。こんな餓鬼は敷物代用にしてやると、いくらか功徳になります」
そう言ってゴツンと靴で女の顎の辺を強く蹴たぐったのであった。
我々は言われるままに女の体の上を踏んで、内側の空席に赴いたが、その体は人間同様血もあれば肉もありそうな踏み心地で、しかも女は生きている時と同様に悶えながら泣き叫ぶのであった。無論女の方では生きている時にこんな目に遭わされている場合と全く同じな苦痛を感ずることには変わりはないのであるが、ただ足で踏まれるから痛いというよりも、足で踏まうとする意思の為に痛いのであった。
我々の次の座席には二人の婦人が座っていた。昔はこれでも綺麗な女であったのかも知れないが、何せ、彼等の面上に漲る悪魔式な残忍性の為に今では醜悪極まる鬼女と化していた。吾輩は感心して、二人の顔をジロジロ見比べていると、自分に近い方のが――後で聞くとそれはローズというのであったが、吾輩に向かって済ましてこんなことを言った――
「ちょいとあんたは私の顔ばかり見ていらっしゃるじゃないの・・・。そんなに私がお気に召して?」
「フン」と吾輩は呆れ返って叫んだ。「お前のような者でもいつか綺麗なことがあったのかも知れないが、今では随分憎らしい面つきをしているネ――イヤしかし地獄へ来て余り贅沢も言われまい。まァ我慢してやるから大人しく俺の言うことを聞け! ついでにそっちの女も一緒に来ないか。両方とも俺の妾にしてやる・・・」
「まァ随分勝手だわネ、この人は・・・。他人に相談もしないでさ! 誰があんたのような者と一緒になってたまるものかね、馬鹿馬鹿しい・・・」
吾輩はイキナリ彼女の両手を鷲掴みにした。
「これ、すべた! 顔を地面に擦り付けて謝れ!」
一瞬の間彼女は抵抗しようとしたが、勿論それは出来ない相談で、忽ち呻きながら吾輩の足下に泣き崩れ、顔を地面に擦り付けたのであった。
「これで懲りたら、」と吾輩が言った。「元の席に戻っていい。しかし今日から俺の奴隷になるのだぞ!」
続いて吾輩は他の一人に呼びかけた――
「きさまの名前は何と言うか?」
「ヴァイオレットでございます」
「鬼みたいな奴のくせに、イヤに可愛らしい名前をくっつけていやがるナ。兎に角俺の方が鬼として一枚役者が上だ。愚図愚図言わずに、早く降参する方がきさまの幸せだろう。ローズ同様地面に顔を擦り付けて謝れ!」
「は・・・はい」
吾輩の手並みが判ったとみえてこいつは不平一つ言わずに吾輩の命令を遵奉(じゅんぽう)した。
●地獄の芝居 下
暫く下らぬことを喋り合っている中に漸く芝居の幕が開いた。芝居の筋が発展するにつれて、観客の喧嘩口論が次第に鎮まって行った。
吾輩はここに地獄の芝居の筋書きを細かに紹介しようとは思わない。ざっと掻い摘んで言うと、ありとあらゆる種類の罪悪やら痴情やらが事細やかに我々の眼前に演出された後で、とど残忍極まる拷問の場面が開けるという趣向なのである。
すると、それまで大人しく見物していた吾輩の家来が、この時急に声を潜めて言った――
「御主人、ここえらで早く逃げ出した方が得策でございます。この芝居の終わりになると、拷問係がきッと観客を舞台に引っ張り出して、酷い目に遭わせますから・・・」
そう言ったか言わない中に、舞台の拷問係が一歩前に進み出でて我輩の家来を指差しながら叫んだ――
「コラッ奴! ここへ出い!」
家来は満面に恐怖の色を浮かべてガタガタ震えながら立ち上がったが、我にもあらず座席を離れ、舞台の方へと引き摺られ始めた。
吾輩はこれを見て大いに癪に障った。いかに虫けら同然の者でも家来は矢張り家来に相違ない。それを断りなしに引っ張り出されては主人公の面目にかかわる。吾輩は猛然として席を蹴って立ち上がった。
「ヤイ!」と吾輩は舞台に向かって叫んだ。「こいつは吾輩の家来ではないか! ふざけた真似をしやがると承知しないぞ!」
期せずして興奮の低い呻きが全劇場に響き渡り、観客一同固唾を呑んだ。
拷問係ははッたとばかり吾輩を睨み付けた。
「こらッ新参者! 新参者でもなければそんな口幅ったいことは言わない筈じゃ。イヤ貴様のような奴にはそろそろ地獄の苦い懲戒を嘗めさせる必要がある。さッさとこの舞台へ出掛けて来て身共と尋常の勝負を致せ!」
「何をぬかしやがる! 勝負をするならこっちへ来い!」
双方掛け合いの台詞が宜しくあって、忽ち猛烈なる意思と意思との戦端が我々の間に開始された。吾輩の長所は意思が飽くまで強固で、負けじ魂が突っ張っていることである。そればかりが吾輩の唯一の武器である。舞台から放射される磁力は実に強大を極めたが、吾輩は首尾よくそれに抵抗したばかりか、アベコベに敵を自分の手元に引き寄せにかかった。やや暫くの間勝負は五分五分の姿であったが、俄かに観客の間からドッと喝采が起こった。吾輩の敵が一歩ヨロヨロとこちらへよろめいたのである。しかし敵もさるもの、次の瞬間に再び後方に跳び退ると同時に、今度は吾輩の足元が危なくなった。吾輩の体は覚えず五、六寸前方へ弾き出された。観客は又もやドッと囃(はや)し立てる・・・。一時はヒヤリとさせられたが、即座に陣容を立て直し、一世一代の力量を絞ってグッと睨み詰めると、とうとう敵の隊形が再び崩れ出した。
「エーッ!」
一つ気合をかけるごとに敵の体はズルリズルリと舞台の端まで引き摺られて来た。其処で先方はモ一度死に者狂いの抵抗を試みたが、最後に敵は物凄い一声の悲鳴を挙げると共に、舞台下の囃子場(はやしば)の中に落ち込んだ。囃子連中はびっくりして四方へ散乱する。同時に歓呼喝采の声が観客の間からドッと破裂する。
それから先はいよいよこっちのもので、敵は起き上がって、一歩一歩に吾輩の座席を指して、器械人形宜しくの態で一直線に這い寄って来る。
意気地の無いこと夥(おびただ)しいが、それでも観客は気味を悪がって右に避け左に逃げる。
とうとう敵は吾輩の面前に来て跪いた。
暫くして吾輩が言った――
「舞台に戻って宜しい。吾輩も舞台に出るのだ」
もうこうなっては相手は至極大人しいもので、すごすご舞台へ引き上げると、吾輩も直ぐその後から身軽に舞台へ跳び上がった。
「こいつを拷問にかけるのだ!」
吾輩は彼の配下の獄卒共に向かってそう号令をかけた。で、獄卒共はせうことなしに今までの親分に向かって極度の拷問を施すことになったのであるが、イヤ観客の嬉しがり様は一通りや二通りのことでなく、手を叩く、足踏みをする、怒鳴る、口笛を吹く。流石の大劇場も潰れるかと疑わるるばかりであった。
散々虐め抜いた後で吾輩が舞台から降りかけると、忽ち観客の間から大きな声で叫ぶ者があった――
「君は皇帝に就くべしだ! 大至急現在の暴君に反旗を翻すがいい。我々大いに力を添える!」
これを聞いて吾輩もちょっと悪い気持ちはしなかったが、しかしあの強烈な意思の所有者と即座に戦端を開くということには躊躇せざるを得なかった。何しろ吾輩はまだ地獄へ来たばかりでさっぱりこの事情が判らないから、うっかりした真似は出来ないと考えたのであったが、同時に戦端開始はただ時期の問題であることを痛感せずにおられなかった。どうせ今日劇場で起こったことがいつまでも皇帝の耳に入らずにいる筈がない。耳に入るが最後、あんな抜け目のない人物が自家防衛策を講ぜずにぼんやりしている筈がない。
そこで吾輩が叫んだ――
「まァお待ちなさい。吾輩には地獄の主権者になろうという野心は毛頭無い。先方から攻勢を取らない限り、吾輩は飽くまで陛下の忠良なる臣民である」
そう言うとあちこちからクスクス嘲り笑う声が聞こえ、中には無遠慮に囁く奴があった――
「あいつ臆病だ! 恐がっていやがる」
「黙れ! けだもの」と吾輩は叫んだ。「もう一度批評がましいことを吐くが最後、貴様達の想像し得ない程の拷問にかけてやるぞ!」
「馬鹿を言え!」と見物席の一人が喚いた。
「俺達には皇帝がついていらァ。貴様達の手に負えるかッ!」
その瞬間に吾輩はそいつを舞台に引っ張り出して、獄卒共に命じて生きながら体の皮を剥がせた。
――イヤ皮を剥ぐなどと言えばいかにも物質くさい感じがしましょうが、外に適当な文句が無いから困るのです。観客の眼には皮を剥ぐように見え、当人も皮を剥がれるように感ずるのです。無論霊界の者に肉体は無いに決まっていますが、有っても無くても結果は同一なのです。
思う存分やるだけの仕事をやった後で吾輩は二人の婦人と家来とを引具して劇場を出た。
「何処かに手頃の家屋はあるまいかナ?」とやがて吾輩は家来に訊ねた。
「さァ無いこともございません。とりあえずそこの家屋はいかがでございましょう? あれには有名なイタリアの人殺しが住んで居ります。この方が古風なローマ式の別荘よりも却って便利かも知れません」
「ふむ、これでよかろう」
我々は早速玄関の扉を叩くと、一人の下僕が現れて吾輩に打ってかかって来たが、そんな者は見る間に地面に投げ飛ばした。
「こいつの顔を踏み躙(にじ)ってやれ!」
吾輩が号令をかけるとローズは大喜びでその通りをやった。それから大理石の汚れた階段をかけ上って大広間に入ってみると、そこには多数の婦女共に取り巻かれて主人が座っていた。吾輩はイキナリ跳びかかって、そいつを窓から放り出し、家も什器も婦女も下僕もそっくりそのまま巻き上げて自分の所有にしてやった。
先ず今晩の話はこれ位にして置きましょうかナ・・・。
八. 皇帝に謁見
四月六日の霊夢の記事で、前回に引き続いての陸軍士官の物語であります――
吾輩は地獄で遭遇した一切の出来事を詳しく述べ立てる必要はないと考える。兎に角吾輩が着々と自分の周囲に帰依者の団体を作ることに全力を挙げたと思ってもらえば結構です。無論吾輩の命令は絶対で、又彼等もよくそれに服従した。が、吾輩は成るべく部下の自由を拘束せず、勝手に市内を歩き回って、勝手に人虐めをやるに任せておいた。その結果、以前強盗や海賊であった者、手に負えぬ無頼漢であった者などがゾロゾロ吾輩の旗下に馳せ参ずることになった。吾輩の勢力はみるみる旭日昇天の勢いで拡張して行ったが、最後にのっぴきならぬ事件が出来した。外でもない、皇帝から即刻出頭せよとの召喚状を受け取ったことである。
吾輩はその時何の躊躇もなく、一隊の部下を引き具して直ちに宮城に出掛けて行った。
我々が謁見室と称する、華麗な、しかし汚れ切っている大広間に入ると同時に、かねて待ち構えていた皇帝は玉座から立ち上がった。玉座は一の高見座で、その前面に半円形の階段が付いているのである。その時彼は満面にさも親切らしい微笑を湛(たた)え、吾輩を歓迎するような風をしたが、勿論腹の底に満々たる猜疑心を包蔵していることは一目で判った。
ここいらが地獄という不思議な境地の一番不思議な点で、一生懸命お互いに騙しっくらを試みる。そのくせお互いの腹は判り過ぎる程判り切っているのである。騙せないと知りつつ騙しにかかるというのが実に滑稽であると同時に又気の知れないところなのである。
皇帝はおもむろに言葉を切った――
「愛する友よ、御身が地獄に来てからまだ幾ばくも経たないのに、早くもかばかりの大勢力を張ったとは実に見上げたものである」
吾輩は恭しく頭を下げた――
「全く陛下の仰せられる通りでございます。この上とも一層勢力を張るつもりでござる・・・」
「皇位までもと思うであろうがナ・・・。しかし、予め注意を与えておくが、それは決して容易の業ではない。恐らく永久にそんな機会は巡って来ぬであろう――イヤ両雄相争うは決して策の得たるものではない。お互いに手と手を握り合って、余が現在支配する領土の上に更に大なる領土を付け加えることにしようではないか? 他日若し止むことを得ずんばアントニイとオクタヴィアスとの如く、一開戦を試みて主権の所在を決めることも面白かろう。しかし現在のところでは、かの賢明なる二英雄と同じく、互いに兵力を併せて付近の王侯共を征服することに力を尽くそうではないか?―― つきては余は御身を大将軍に任ずるであろう。さすれば御身はかのダントンと称する成り上がりの愚物を征服して先ず御身の地歩を築くがよい。彼ダントンは前年大部隊を引き連れて地獄に降り、当城市から遠からぬ一地域を強襲して小王国を築き上げた。地獄ではその地方を「革命のパリ」と呼んでいる・・・」
吾輩は一見してこの人物の腹の底を洞察してしまった。彼は吾輩と公然干戈(かんか=戦争)を交えることの危険を知っていると同時に、又吾輩が独立して彼の城市内に居住することの剣呑なことも痛切に感じているのである。
そこで右に述べたような計略を以って一時彼の領土の中心から吾輩を遠ざけようとしているのであるが、その結果は次の三つの中の一つになるのに決まっている。即ち吾輩が戦争に負けてダントンの捕虜になるか、戦争が五分五分に終わって共倒れになるか、それとも吾輩がダントンを叩き潰してその王位を奪うか――何れにしても彼の為には損にはならない。最後の場合は単に一つの敵を他の敵と交換するだけに止まるように見えるが、吾輩が交戦の為に疲弊するというのが彼の眼の付けどころなのである。
吾輩はこの計画がよく見え透いてはいたが、表面にはこれに同意を表しておくのが好都合に思えた。吾輩の方でも公然皇帝と戦端を開くことは危なくて仕方がない。万一戦闘に負けた日にはそれこそ眼も当てられない。これに反してダントンとの勝負にかけては充分の自信があった。一旦ダントンを撃破してその兵力を吾輩の兵力に付け加えた上で、一点して皇帝を攻めることにすれば、現在よりも勝てる見込みは余程多い。
咄嗟に腹を決めて吾輩は答えた。
「陛下の寛大なる御申し出は早速お引き受け致します」
「おおよく承諾してくれて嬉しく思う。以後御身は余の股肱(ここう)の大将軍である」
皇帝は直ちに大饗宴を催し、部下の重立ちたる者をこれに招いたが、吾輩がその正賓であったことは云うまでもない。
やがて運び出された御馳走を見ると実に善つくし美つくし、ありとあらゆる山海の珍味が堆(うずたか)く盛り上げられてあったが、いよいよそれを食う段になると空っぽの影だけである。食欲だけは燃ゆるようにそそられながら、実際少しも腹に入らない地獄の御馳走ほど皮肉極まるものはない。
しかし哀れなる来賓は、皇帝御下賜(ごかし)の御馳走だというので、さも満足しているかの如き風をしてナイフやフォークを働かせて見せねばならない。実に滑稽とも空々しいとも言いようがない。流石に皇帝は苦々しい微笑を浮かべてただ黙って控えている。吾輩とてもこの茶番の仲間入りだけは御免を蒙って、ただ他の奴共の為すところを見物するに止めた。
御馳走ばかりでなく、地獄の仕事は皆空虚なる真似事である。饗宴中には音楽隊がしきりに楽器をひねくったが、調子は少しも合っていない。ギイギイピイピイ、その騒々しさと云ったらない。しかし聴衆はさもそれに感心したらしい風を装って見せねばならない。
饗宴が終わってから武士共が現れて勝負を上覧に供した。暫く男子連がやってから、入れ代わって婦人の戦士達が現れ、男子も三舎を避ける程の獰猛な立ち回りをやって見せた。
吾輩はこの大饗宴に付属した色々の娯楽をここで一々紹介しようとは思わない。そんなことをしたところで何の役にも立ちはしない。ただ何れも極度に惨酷であり、又極度に卑猥であったと思ってもらえばそれで結構である。
九. ダントン征伐(上・下)
●ダントン征伐 上
さて皇帝の饗宴が終わると共に吾輩は部下の数人に命じて義勇軍募集の宣言書を発布させましたか、地獄という所はこんな仕事をやるには実に誂(あつら)え向きの場所で、これに応じて東西南北から馳せ参ずる者は雲霞の如く、忽ちにして幾千人に上りました。吾輩は直ちにこれが隊伍を整え、市街を通じて旅次行軍を開始したのであります。
途中からも風を望んで参加する者が引きも切らず、瞬く間に又幾千人かを加えた。漸くにして到着したのは郊外の荒野原――通例地獄の大都会の付近にはそんな野原がつきものなのです。ここで吾輩はお手の物の陸軍式にすっかり各部隊の編成を終わりましたが、集まったのは真に文字通りの烏合の衆で、あらゆる時代、あらゆる国土の人間がウジャウジャと寄って集った混成部隊・・・。
古代ローマの武士もいれば、中世の十字軍や野武士もいる。一方には支那の海賊、他方には英国の冒険家、トルコ人、アラビア人、ブルガリア人、その他各国のならず者、暴れ者・・・。こんな手合いが極度の興奮状態に於いて血に渇いて喚声を張り上げるのは結構でしたが、時々仲間同志の喧嘩をおッ始めるには手を焼きました。
大骨折りで吾輩は全軍の整理を終わった。編成法はここに詳しく申し上げる必要もないと思うが、要するに成るべく同種類のものを以って一部隊を編成する方針を執り、その結果、中世の騎士軍、古代ローマの戦士軍、又海賊軍、トルコ軍と云ったようなものが沢山出来上がった。その各々が有為の将校によりて指揮されているのであるからその戦闘力は中々以って侮れない。一番の欠点を言えばそれが全然訓練の不行届な点であったが、その欠点は吾輩の任命した将校の圧倒的意思の力で補われた。又吾輩自身も間断なく発生する反逆者の抑圧に忙殺され通しであった。
兎も角も吾輩の意思が御承知の通り飛び離れて強固であるので、この烏合の大軍団・・・。左様総数二十五万余人に上る大軍の統率を完遂することが出来たのであります。
さて、いよいよ前進となりましたが、イヤその途中の乱暴狼藉さ加減ときたら全く天下一品、いかなる家屋でも乱入せざるはなく、いかなる住宅でも略奪せざるはない。但し地獄の略奪振りには一の特色がある。奪うことは奪っても、直ぐに飽きが来て、奪うより早く棄てて顧みない。
ダントンの領土に接近した時に吾輩は直ちに偵察隊を派遣して敵状を探らせた。間もなく味方は敵の数人を捕えて戻って来た。
見ればそれ等の捕虜というのは皆フランス革命時代の服装をしている者ばかりでした。吾輩は彼等の手から色々の有利な材料を得た。無論彼等は言を左右に托して吾輩を欺こうと試みたが、霊界では心に思っていることを隠せないから、そんなことをしても何の役にも立たなかった。
彼等が地上に住んで居たのはフランス革命時代で、ある者はダントンの味方であり、又ある者はその敵であったが、何れにしても彼等には共通の一つの道楽があった。外でもない、それはギロチンを愛用することであった。但しギロチンの本来の目的は出来るだけ迅速に、そして出来るだけ安楽に人間を殺すことであるのだが、それでは甚だ興味が薄いというので、地獄に於けるギロチン使用法にはちょっと新工夫が加えられていた。
無論地獄ではいかにやりたくても人を死刑に処することだけは出来ない。地獄で出来るのは成るべく多大の苦痛を与えることだけである。で、彼等は犠牲者をギロチンの台に載せるに際し、頭部の代わりに足を正面に持って来る仕掛けにしてある。ギロチンの刃は上下に動いて足から先にブツリブツリと全身を刺身のように切り刻んで行く。切られれば、地上に於いて感ずると同様の苦痛だけは感ずるが、切れ切れの部分は直ちに又癒着して行くから、繰り返し繰り返し死の苦痛を感ずるだけで、死ぬるということは絶対にない――イヤ諸君、人間というものは何て判りの悪いものでしょう。生きている時には馬鹿に死を怖れるが、実を言うと死は寧ろ人間の敵ではなくて味方なのである。死の伴わざる永久の苦痛! 吾輩は地獄へ来てから、モ一度死にたいと何遍祈願したか知れはしません。
それはそうと吾輩は敵状の報告に基づいて作戦計画を立て、いよいよ敵地に突入した。自らも手当たり次第に攻略を試み、敵地の人民などは散々虐めた上で奴隷となし、家屋の如きも悉く破壊することにした。ただ一つ困るのは霊界の家屋の非実質的なことで、我々がその付近に居る間こそこちらの思う通りに壊れているが、他の地点に前進してみるとそれ等の建物は何時の間にやらニョキニョキと元の通りに起立している!
既に我々自身が一の形に過ぎない。それと同様に、建物も又一の形であるから、こればかりは破壊し得ない。こちらの意思がその所有者の意思よりも強固であれば家屋の形は一時消滅するように見えるが、破壊しようという意思が消滅すると同時に家屋は忽ち原形に復してしまう。要するに霊界は意思の世界、想念の世界で、物質抜きの形だけの所だと思えば宜しい――イヤしかしこんなことはあなた方ももう叔父さんから聞かされて百も御承知でありましょう。
●ダントン征伐 下
さていよいよ戦争の話でありますが、――我々が敵地に乱入すると同時に敵の軍隊も又向こうの山丘に沿いて集合した。ざっと地理の説明をやると、皇帝の領土と敵の領土との中間には一の展開した平原がある。余り広いものでもないが、それが二大勢力間の一つの障壁たるには充分で、恐らくダントンの強烈なる意思の力で創り出した代物かも知れません。もっともその地帯の幅はいくら、長さはいくらということはちょっと述べにくい。霊界にも物質界の所謂空間と云ったようなものが存在せぬからです――が、兎に角それは相当に広いもので、二つの大軍が複雑極まる展開運動を行なうには差し支えない。地質は想像も及ばぬほど磽かく(こうかく=小石などが多く、地味がやせた土地。また、そのようなさま)で、真っ黒に焼け焦げ、ザクザクした灰が一杯積もっている。
山は二筋ある。ダントンは向こうの山を占領し、我々は手前の山を占領して相対峙した。空は、地獄では何時でもそうだが、どんよりと黒ずんで空気は霧のかかったように濃厚であるが、こんな暗黒裡にありてもお互いの模様はよく見える。
味方の重砲は三個の主力に分かれた―― ナニ地獄の戦にも大砲を使用するかと仰るのですか―― 無論ですとも! 人間が間断なく発明しつつある一切の殺人機械が地獄に行かずに何処へ行きましょう? 半信仰の境涯だとて、まさか大砲を置く余地はありません。兵器という兵器はその一切が地獄のものです。ところで、ここに甚だ面白い現象は、地上に居る時に、小銃その他近代式の兵器を使用したことのない者は霊界へ来てからまるきりそれを使用することが出来ないことです。地獄の兵器は単に形です。従って兵器が敵に加える損害は精神的のものであって、ただその感じが肉体の苦痛にそっくりなだけです。
で、地上に居た時、一度も小銃の傷の痛みを経験したことのない人間には殆どその痛みの見当が取れません。従って他人に対してその痛みを加えることも出来なければ、又他人によりてその痛みを加えられる虞(おそれ)もない。生きている時分に小銃弾の与える苦痛を幾らか聴かされていた者には多少の効き目はあるとしても、真に激しい痛みを自らも感じ、又他人にも感じさせるのには、是非とも生前に於いて実地にその種の痛みを経験した者に限ります。
同一理由で、地獄に於いてもっとも凶悪なる加害者は、地上に於いて惨めな被害者であった者に限ります。若し彼が誰かに対して強い怨恨を抱いて死んだとすれば、自分の受けたと同一苦痛をその加害者に報いることが出来るからです。かの催眠術などというものも、つまりその応用で、術者自身が砂糖を舐めて、被害者に甘い感じを与えたり何かします。なかんずく神経系統の苦痛であるとこの筆法で加えることも、又除くことも出来ます――が、地上に於いてはその効力に制限があります。それは物質が邪魔をするからです。しかし、モちと研究の上練習を積めば催眠療法も現在よりは余程上手い仕事が出来ましょう。ついでにここに注意しておきますが、この想念の力なるものは他人を益するが為にも、又他人を害するが為にもどちらにも活用されます。昔の魔術などというものは主としてこの原則に基づいたもので、例えば蝋人形の眼球へ針を打ち込むということは、単に魔術者が相手の眼球へ念力を集中する為の手段です。そうすると蝋人形に与えた通りの苦痛が先方の身に起こるのです。
ですから、こんなことをやるのには、無論相手の精神――少なくともその神経系統をかく乱しておいて仕事にかかる方が容易であるが、しかし稀には先天的に異常に強烈な意思の所有者があるもので、そんな人は直接物質の上に影響を与える力量を有しています。最高点に達すれば無論精神の力は物質を圧倒します。地球上ではそんな場合は滅多にないが、霊界ではそれがザラに起こります。
兎に角右の次第で、地獄の軍隊は生前自分の使い慣れた兵器を使用します。大砲や小銃をまるきり知らない者にはそんな兵器はまるで無用の長物です。
ところで、ここに一つ可笑しな現象は、地獄に大砲はあっても馬がないことです。馬は動物なので各々霊魂を持っている。大砲その他の無生物とは違って単に形のみではない。従って矢鱈に地獄にはやって来ない。
但し馬の不足はある程度まで人間の霊魂を臨時に馬の形に変形させることによりて除くことが出来た。無論これは吾輩が皇帝の故智を学んで行なった仕事で、敵のダントンが其処へ気が付かなかったのはどれだけ味方に有利であったか知れなかった。一体人間の霊魂をたとえ一時的にもせよ、その原形を失わしめるということは中々容易な仕業ではない。何人も馬や犬の姿に変えられることを大変嫌がる。何やら自分の個性が滅びるように心細く感ずるらしい・・・。事によるとダントンには、人の嫌がる仕事を無理にやらせるだけの強大なる意思力がなかったのかも知れません。
十. 地獄の戦
間もなく戦争は真剣に開始された。この戦争の烈しさに比べると、今まで観せられた御前試合などはまるで児戯に近いもので、何しろ地獄の住民というのは生前ただ戦闘ばかりを渡世にしていた連中なのでありますから、従ってそのやりっぷりが猛烈である。が、外面的には地獄の戦争も地上の戦争も余りかけ離れたものでもない。地獄の武器や軍装が目茶目茶に不統一であるのがちょっと目立つ位のもので・・・。
兎に角ダントンは中々の曲者で余程巧妙な戦法を講じた。古代の甲冑に身を固めた味方の騎士隊の突撃に対して、彼が密集部隊を編成し、その大部分に大鎌を持たせたところなどは敵ながらも上手いものであった。古代の騎士は大砲だの小銃だのの味を知らない。従ってそんな近代式の兵器は彼等に対して殆ど効能がない。早くもそれを看破して鎌という、騎兵にとっての大苦手を持ち出したなどは、返す返すも機敏というべきものであった。
無論敵にも砲兵隊の備えはあったが、しかしそれはフランス革命時代の旧式極まるもので、味方の新鋭の兵器にはとても及ばなかった。もっとも味方が烏合の衆であるのに反して、敵が飽くまで団結力と統制力とに富んでいたのは、ある程度まで兵器の欠陥を補うには余りあった。
詳しくこんなことを述べれば際限もないが、地獄の戦況などは格別の興味もあるまいと思うからただその結果だけを報告するに止めます。味方は敵よりも人数が多く、又大体に於いて獰猛でもあった。ですから長い間の戦闘――殆ど幾年にも亙るべく見えた悪戦苦闘の後で、吾輩はとうとう敵の左翼を駆逐することに成功し、やがてその全軍をば山と山との中間の低地に追い詰めて三方から挟撃する事になった。敵は全然壊滅状態に陥り、莫大な人数が捕虜になった――吾輩が早速右の捕虜を馬に変形させて、部下の馬になった者と更迭させたなどは、全然地上の戦争に於いては見られない奇観でした。
それから味方はダントンの領土内に侵入して略奪のあらん限りを尽くした――うっかり言い落としましたが、ダントンの軍隊の少なからざる部分は婦人であって、そいつ達は男子よりも寧ろ味方を悩ました。従ってそいつ達が勝ち誇った我が軍の捕虜になった時に、いかに酷い目に遭わされたか――こいつは言わぬが花でありましょう。その外敵地の一般住民に対する大虐待、大陵辱――そんなことも諸君の想像にお任せすると致しましょう。
ただここに不思議なことは、地上に於いて略奪を逞(たくま)しうすることが、一種の快感と満足とを伴うのに反し、地獄に於いては全然それが伴わないことです。地獄の略奪はただの真似事・・・。言わば略奪の影法師であります。いくら奪い取ってもその物品は何の役にも立たないものばかり、例えば奪った酒を飲んでみても、さっぱり幽霊の腸(はらわた)には浸みません。夢で御馳走を食べるよりも一層詰まらない。夢ならまだいくらか肉体との交渉があるが、地獄の住民にはまるきり肉体との縁もゆかりもないのです。
地獄で現実に感ずるのはただ苦痛だけ、快楽はまるでない。これが地獄の鉄則なのだから致し方がありません。
無論戦勝後吾輩は直ちに王位に就くことは就いた――が、驚いたことにはダントンの以前の部下は大部分何処かへ消えてしまった。何故消えたのか、その当座は頓と訳が判らなかったが、後で段々調べてみると、ダントンの没落が彼等をして一種の無情を感ぜしめ、こんな下らぬ生活よりはもう少し意義ある生活を送りたいとの念願を起こすに至った結果、向上の道が自然に開かれたのでした。詰まり神はかかる罪悪の闇の中にも善の芽生えを育まれたのであります。
この辺で私の物語は暫く一段落つけることにしましょう。丁度ワード氏が地上へ戻るべき時間も迫ったようですから・・・。
十一. 皇帝の誘惑
叔父さんがワード氏を書斎に迎えて二言三言挨拶をしている中に、もう陸軍士官が入って来て早速その閲歴談を始めました。これから彼の地獄生活に更に一大転換が起こりかける極めて肝要の箇所であります――
さて前回は吾輩が新領土を手に入れて王位に就いたところまでお話しましたが、実際やってみると王侯たるも又難いかなで、ただの一瞬間も気を緩めることが出来ない。間断なく警戒し、間断なく緊張していないと謀反がいつ何処から勃発せぬとも限らないのです。
早い話が地獄の王様は歯を剥いている一群の猟犬に追い詰められた獲物のようなもので、ちょっとでも隙間があれば忽ち跳びかかられる。我輩はあらん限りの残忍な手段を講じて、謀反人を脅かそうと努めたが、何を試みても相手を殺すことが出来ないのであるからいかんとも仕方がない。刑罰を厳重にすればする程ますます彼等の憎しみと怨みとを増大せしむるに過ぎない。
そうする中に皇帝から使者があって、吾輩の戦勝を祝すると同時に凱旋式への出席を請求して来た。これを拒絶すれば先方を怖れることになる。これに応ずればその不在に乗じて反逆者が決起する。何れにしても余り面白くはないが、兎も角も吾輩は後者の危険を冒して皇帝の招待に応じて度胸を見せてやることに決心した。
さて部下の精鋭に護られつつ、威勢よく先方に乗り込んでみると、先方もさるもの、極度に仰々しい準備を施して吾輩を歓迎した――少なくとも歓迎するらしい振りをした。儀式というのは無論例によりて例の通り、単に空疎なる真似事に過ぎない。楽隊はさっぱり調子の合わぬ騒音を奏する。街区を飾る旗や幟(のぼり)は汚れ切って且つビリビリに裂けている。吾輩の通路に撒かれた花は萎み切って悪臭が鼻を撲(う)つ。行列の先頭を飾る少女達までが、よくよく注意して観ると、その面上には残忍と邪淫との皺が深く深く刻まれていて嘔吐を催させる。
皇帝自身出迎えの行列と出会った上で、我々は連れ立って武術の大試合に臨んだ。それが終わると今度は宮城に行って、大饗宴の席に列したが、例によって空っぽの見掛け倒し、何もかも一切嘘で固めて、本当の事と云えばただ邪悪分子があるのみである。
「時に」と皇帝はおもむろに吾輩をかえり見て言った。
「王位を占むる苦労も中々大抵ではござるまいがナ・・・」
吾輩はからからと高く笑った。
「全くでございますが、しかし陛下のお膝元に居るよりは気が休まります」
「そうかも知れん――が、間断なく警戒のし続けでは、中々大儀なことであろう。その点に於いては余とても同様じゃ。で、その気晴らしの為に余は時々地上に出かけてまいることにしておる。ここで目まぐるしい生活を送った後で地上へ出張するのは中々いい保養になる・・・」
これを聞いて吾輩の好奇心はむらむらと動き出した。
「地上へ出張と仰られますが、どうしてそんなことが出来るのでございます。一旦幽体を失った以上それは難しいかと存じますが・・・」
「まだ若い若い・・・」と彼は叫んだ。「モちと勉強せんといかんナ! ――しかし御身が現在までこれしきの事を知らずにいたとは寧ろ意外じゃよ・・・」
彼は暫く吾輩の顔を意味ありげに見つめたが、やがて言葉を続けた――
「どんな地獄の霊魂でも、若しも地上の人間と連絡を取ることさえ工夫すれば暫時の間位は仮の幽体を造るのはいと容易いことなのじゃ。上手く行けば物質的の肉体でも造れぬことはない。人間界でこちらと取引を結んでいるのは男ならば魔法使い、女ならば先ず巫女と云った連中じゃが、無論彼等に憑るのは大抵は妖精の類で、本当の地獄の悪魔が憑るようなことは滅多にない――もっとも我々が魔術者と取引関係をつけるには余程警戒はせねばならぬ。魔術者などという者は皆意思の強い奴ばかりで、うっかりするとソイツの為に絶対服従を命ぜられる」
「どうして彼等にそんな威力があるのでございます?」
「我々が部下に号令をかけるのと別に変わることはない。つまりただ意思の力によるのじゃ。で、下らぬ弱虫の霊魂は訳なく魔術者の奴隷にされる――もっとも我々のように鉄石の意思を有している者は、アベコベにその魔術者を支配して自己の奴隷にしてしまうことも出来んではない。そうなると実にしめたものじゃ・・・」
そう言って彼はツと身を起こし、
「それはそうとこれから一緒に芝居でも見物することにしようではないか?」
それっきり皇帝は魔術の件に関してはただの一言も触れなかった。しかし彼がそれまでに述べただけで吾輩の胸に強烈なる印象を与えるには充分であった。
「不思議なことが出来るものだナ! 自分も一つやってみようかしら・・・」
吾輩はこんな考えに捕えられるようになってしまった。
当時吾輩が何故この仕事の裏面に潜める危険に気が付かなかったのかは自分にも時々不思議に感ぜられることがある。皇帝がこの問題を提出したのは我輩を危地に陥れようという魂胆に相違ないのであるが、その胸底の秘密を吾輩に悟らせなかったのは矢張り先方が役者が一枚上なのかも知れない。
勿論当時の吾輩とて皇帝に好意があろうとは少しも考えてはしなかった。
「こいつァ人を地上に追い払っておいて、その不在中に謀反人の出るのを待つ計略だナ」
そこまでのことは察した。しかし吾輩は強いてそれを問題にしなかった。
「謀反人が出たら出たでいい。戻って来て叩き潰すまでのことだ・・・」
そう考えた――ところが、皇帝の方では確かにモ一つその奥まで考えていた――吾輩が地上へ降って悪事を行なえば、その罪の為にもう一段地獄の奥へ押し込められ、刃に血塗らずして楽に厄介払いが出来る・・・。
さすがの吾輩もそこまで洞察する智恵がなく、保養もしたいし、地上も懐かしいし、新しい経験も積みたいしと云った風で、とうとう地上訪問の覚悟を決めてしまった。
間もなく吾輩は自分の領地に戻ったが、果たして予期した通り、国内は内乱の進行中で、一部の謀反者がダントンを牢から引き出して王位に担ぎ上げていた。吾輩がさっさとそんな者を片付けて、一味徒党を再び監獄にぶち込んでしまったことは云うまでもない。吾輩の地上訪問はそれからの話である。
十二. 魔術者と提携
陸軍士官の告白はここに至りてますます深刻味を加えてまいります。魔術に関する裏面の消息が手に取るように漏らされて、心霊問題に携わる者の為にこよなき参考の資料を供してくれます――
それから吾輩は直ちに生前魔法使いであった者を物色し始めた。自分の領土内にも案外そんな手合いが沢山居ることは居たが、大概はちょっと魔法の一端をかじった位の者ばかりで、所謂魔法使いの大家であった者は地獄のもっと深い所へ墜とされているのであった。
が、散々探し回った後で、やっとのことで一人、かつて魔道の大家の弟子であったというのを見つけ出した。そいつは、実地の経験は少しもないが、ただ魔道の秘伝だけは生前その師匠から教わっていた。そして地上の魔術者と連絡を取る方法なるものを吾輩に伝授した。
その方法というのはつまり一つの呪文を唱えることである。地上の魔術者が唱える呪文と霊界で唱える呪文とがぴったり合うと、そこに一つの交流作用が起こって感応が出来る・・・。秘伝は単にそれだけで、やってみれば案外易しいものであった。
兎も角も吾輩が、そうして連絡を取ることになった。魔術者というのは一人のドイツ人で、プラーグの市端に住んで居る者であった。そいつは中々の魔術狂で、既に死者の霊魂――勿論幽界のヤクザ霊魂ではあるが、そんな者を呼び出す方法を心得ており、又少しは妖精類とも連絡を取っていた。が、それでは段々食い足りなくなって、近頃は本物の地獄の悪魔を呼び出しにかかっていた。待ってましたと言わんばかりに早速それに応じたのが吾輩であった。
さて例の呪文と呪文との流れの中に歩み入り、こちらの念を先方の念に結び付けてみると、不思議不思議! 自分は無限の空間を通じて地上に引っ張られるような気がして、忽然として右のドイツ人の面前に出たのであった。
神秘学研究者――そう右のドイツ人は自称しているが、成る程不思議な真似をしている男には相違なかった。先ず輪を作って自分がその中央に立つ。輪の内面には三角を二つ組み合わせて作った六角の星型がある。その周囲には五角形やらその他色々の秘密の符号が描いてある。室内の火鉢からは何やらの香料の煙が濛々と舞い上がる。
室そのものが又真っ暗で、四方の壁も床も石で畳んであるところから察すれば確かに一の穴蔵らしかった。壁に沿いてはミイラも容れた木箱やらその他二、三品並べられてあった。
吾輩の方からは先方の様子がよく見えたが、先方はまだ吾輩の来ていることに気がつかぬと見えてしきりに呪文を唱え続けた。吾輩は成るべく早く先方が気のつくようにと意念を込めた。
ふと気がついてみると、輪の外側には、少し離れて一人の婦人が恍惚状態に入っていた。
「ははァ」と吾輩は早速勘付いた。「我々はこの女の肉体から材料を抽き出して幽体を製造するのだナ」
吾輩は直ちに右の婦人に接近して幽体製造に着手すると同時に、ますます念力を込めて姿を見せることに努めた。間もなく魔術者は吾輩を認めた。吾輩の姿はまだ普通の肉眼に映ずるほど濃厚ではないのであるが、先方がいくらか霊視能力を有していたのである。
みるみる魔術者はさッと顔色を変えて恐怖の余り暫くはガタガタ震えていたが、やがて覚悟を決めたらしく、きッと身構えして叫んだ。
「命令じゃ、もっと近寄れ!」
「大きく出やがったナ」と吾輩が答えた。「吾輩は何人の命令も受けぬ。頼みたいことがあるならそれ相当の礼物を出すがいい」
吾輩の返答には奴さん少なからず面食らった。悪魔を呼び出すのには、古来紋切り型の台詞があって余程芝居気たっぷりに出来上がっている。ところが吾輩はそんな法則などを眼中に置いていないのだから、相手がマゴつくのも全く無理はない。
暫く躊躇した後で彼は再び言った――
「然らば汝の要求する礼物とは何物なるか?」
相変わらず堅苦しいことを言う。こんな場合に普通の応答としては「汝の魂を申し受ける」とか何とか言うのであろうが、吾輩別に魔術者の魂など欲しくも何ともない。さてそれなら何と返答をしようかと今度は吾輩の方で躊躇したが、漸く考え出して叫んだ――
「それならお前の方で何を寄越すか?」
「余の魂をつかわす」と早速の返答。
それを聞いて吾輩は嘲笑った――
「お前の腐った魂などを貰ったところで仕方がない。吾輩はモちと実用向きの品物が欲しい」
「然らば」と彼は一考して「汝に人間の体を与えてつかわす。それなら便利であろうが・・・」
「そんな芸当が出来るかね? 吾輩は幽体さえ有してはいない・・・」
「苦しうない。先ず汝に一個の幽体を造ってつかわす。幽体を造っておいて、次に肉体を占領するのが順序じゃ」
「そいつァ豪儀だ! 是非一つやってくれ・・・」
魔術者の言葉は決して嘘ではなかった。さすがに神秘学の研究者と名乗るだけあって、彼は中身なしの幽体の殻だの、稀薄に出来上がった妖精だのを沢山引き寄せる力量を持っていた。で、吾輩はそれ等の中から然るべき妖精を一匹選り出して吾輩の元の姿に造り替えた。それから今度は霊媒に近付き、魔術者からも手伝ってもらって、本物の物質的肉体を製造することに成功した。
吾輩は思わず歓呼の声を挙げた。一旦地獄へ落ちた身でありながら、も一度肉体を持って地上に出現することが出来たのであるから嬉しくて堪らない筈だ。
「ドーかね君、人間らしく見えるかね?」右顧左眄しながら叫んだ。
「ああ中々立派な風采じゃ!」
「外出しても差し支えないものかしら・・・」
「さァそいつは受け合われないが、兎も角も出掛けてみるがよかろう」
そこで吾輩は石段を昇って晴天白日の娑婆に出てみた――が、その結果は不思議であると同時に又頗(すこぶ)る不愉快でもあった。吾輩の体はゾロゾロと溶けて行くのである。
「ウワーッ! 大変大変!、 助け舟・・・」
急いで穴蔵に駆け込んで行って物質化のやり直しをする始末!
「君」と吾輩が言った。
「太陽の光線に当たってヘロヘロと溶けるような体は有り難くないナ。モちと何ぞマシなものを造ってくれんか?」
「仕方がなかったら」と彼は囁いた。「生きている人間に憑依することじゃ。それなら溶ける心配はない――この人造の体じゃとて、気をつけて暗闇の中ばかり歩いておればちっとも溶ける心配はないのじゃが・・・」
こんな按配で吾輩はこの魔術者とグルになってますます悪事を企むことになった。
十三. 自らが作る罪(上・中・下)
●自らが作る罪 上
吾輩とグルになった魔術者の一番好きなものは(と陸軍士官が語り続けた)一に黄金、二に権力、三に復讐――この三つが彼の生命なのである。さればと云って女色なども余り嫌いな方でもない。彼の手元にはいつも十余人の女の霊媒が飼ってある。そいつ達は彼に対して悉く絶対服従、魂と同時に肉をも捧げる。
吾輩はこの男の為には随分金儲けの手伝いもしてやった。仕掛けは極めて簡単である。我々は平気で金庫でも何でも潜り抜けることが出来る。それから内部の金貨を一旦ガス体に変えて安全地帯に持ち出しておいて更に元の金貨に戻すのである。しかしこの仕事は優しいようにみえて中々強大なる意思の力を要する。下拙な霊魂にはちょっと出来る芸でない。もっと易しいのは睡眠中の誰かを狙ってそいつの体の中に潜り込み、所謂夢遊病者にしておいて、ウンと金貨を持たせて都合の良い場所へ引っ張り出すことである。無論そいつは夢中でやっている仕事だから、翌朝眼を覚ました時に、前夜の記憶などはさっぱり持っていない。
そりゃ成る程この仕事にも時々失策はある。夢遊病者が追跡されて捕縛されたことは一度や二度に留まらない。無論そいつ達は窃盗罪に問われる――が、魔術者の方では呑気なものだ。誰も窃盗の御本尊がこんな所にあろうとは疑う者がありはしない。いわんや肉体のない我々ときては尚更平気なもので、仕事が済んだ時にただ先方の体から脱け出しさえすればそれでよい。そうすると当人の霊魂がその後へノコノコ入って来て、窃盗罪の責任を引き受けてくれる。
金儲けの為に働いたと同様に、吾輩は復讐の為にも随分働いてやったものだ。あの魔術者は一切の宗教が大嫌いで、機会さえあれば僧侶に対して復讐手段を講じようとする。
初めの中は格別念入りの悪戯もやらなかった。魔術者の手先に使われている奴は皆妖精の類でそいつ達の得意の仕事は室内の椅子を投げるとか、陶器類をぶち砕くとか、眠っている人の鼻をつまむとか大概それ位のものにすぎない。ところが、その中次第次第に魔術者の注文が悪性を帯びて来て、相手の男を梯子段から突き落とさせたり、又その家に放火をさせたりするようになった。
仕事があんまり無理になって来ると、妖精共の大半は御免を蒙(こうむ)って皆逃げてしまい、多年彼の配下に使われていた亡霊までが大人しく彼の命令に従わなくなった。もっともそいつ達は、公然反抗すれば魔術者から酷い目に遭わされるので、滅多に口には出さない。ただ不精無精に仕事をやるまでのことであった――ナニその魔術者がどんな方法で亡霊虐めをやるのかと仰るのですか? それは例の意思の力です。強い意思で亡霊達に催眠術をかけてやるのです。大概亡霊という奴は意思の薄弱な輩で、そいつ達を虐めるのは甚だ易しい。主人の魔術者から一目置かれているのは先ず吾輩位のもので、吾輩はアベコベに魔術者の牛耳を執る位にしていました。その代わり働き振りも又同日の談でない・・・。
それはそうと吾輩主人の為に働くと同時に又自分の利益を図ることも決して忘れはしなかった。自分の体を物質化して生きている時と同様に酒色その他の欲望を満足させる位は朝飯前の仕事で、そんな時の穴蔵の内部の光景と云ったら真に百鬼夜行の観があった。魔術者の使っている十人余りの女霊媒の外に、物質化せる幽霊が又十人余りもいる。そいつ等が人間並みに立ったり、座ったり、話をしたり、笑ってみたり、歌を唄ったり、又舞踏までもやらかす。とどのつまりが筆や口にはとても述べ難き狂態のあらん限りを尽くす・・・。
が、そうする中にも吾輩の幽体は間断なく補充して行く必要があった。元来が自分のものでなく、ホンの一時的の借り物なので、いかにも品質が脆弱で分解し易くてしようがない。おまけに悪事ばかり働いているから一層弱り方が激しい。いくら人間に憑依して補充してみてもそんなことでは中々追いつかない。これには吾輩もほどほど困ってしまった。
●自らが作る罪 中
その中吾輩は魔術者からある一人の男を殺してくれという注文を受けた。何でもそいつがこちらのしている仕事を感づいたので、生かしてはおけないことになったのだそうな。
「宜しい、引き受けた・・・」
吾輩は二つ返事でこれに応じた。そんな際に於ける吾輩のやり口は大抵いつも相場が決まっている。午前一時か二時かという熟睡時刻を見計らい、枕元に立って一心不乱に意念を込めるのである。
――すると吾輩の幽体が赤黒い光を放ちつつ朦朧と現れる。
更に一層念力を凝らすと、あっちにもこっちにも色々様々の妖怪変化がニョキニョキ現れて、
「この外道をやっつけろ!」
「こんな奴は八つ裂きにしてやれ!」
などと勝手次第な凄文句を喚き立てながら、間断なく凄まじい威勢で跳びかかって行く・・・。無論それは一の脅かしに過ぎない。何ぞ余程の手掛かりでもなければ、肉体のない者が容易に人体に傷をつけることは出来るものでない。けれども先方ではそんなことを知らないから本当に生命でも奪われるかと思って七転八倒する。
その弱味につけ込んで吾輩は声高く叫ぶ。
「己アンナを忘れたか? アンナの怨みを思い知れ! 我々はアンナから頼まれて汝を地獄へ連れに来たのだ!」
無論吾輩はアンナから頼まれたのでも何でもなく、又その女が果たして地獄に墜ちているかどうかも知ってはいないのである。が、聴く方の身になってみると気味は悪いに相違ない。
「許してくれっ!」と相手は悲鳴をあげる。
「こんなに年数が経っているのにまだ罪障が消えずにいるとはあんまり酷い・・・あんまり執念が深過ぎる・・・」
こちらは益々調子に乗って囃(はや)し立てる――
「アンナが呼んでいる! アンナが待っている! お早くおじゃれ! 急いでお出で!」
そう言って何回となく襲い掛かる。眠る暇などは一瞬間も与えない。翌晩もその通り、翌々晩も又同じ事――おまけに時々耳元に口を寄せてこんな脅かしを試みる――
「コラ! いい加減に死んだ方がましだ! 早く自殺せんか! 貴様の救わるる見込みは全くない! うっかりすると気が狂うぞ! 気が狂うよりか潔く自殺してしまえ! 自殺するついでに誰か二、三人殺して冥土の道連れを作れ! 折角だから忠告する・・・」
御親切な忠告もあればあったもので、これでは誰だって堪りっこはない。
「アンナアンナ! 許してくれ!」先方は呻吟する。
「俺は若気のあまりあんな真似をしたのだが全く済まなかった。堪忍しておくれ・・・」
この機を狙って一人の幽霊は早速アンナの姿に化けてベッドの裾にニューッと現れ、怨みの数々を並べ立てる。とうとう男はヤケクソになってベッドから跳び下り、鏡台の剃刀を取るより早くブツリと喉笛を掻き切ってしまう。
主人の魔術者が吾輩の大成功を見て歓んだことは一通りでない。この勢いに乗じて、もう一人、日頃憎める若年の僧をやっつけてしまおうということになった。右の僧は彼が悪魔とグルになって悪事を働いていることを看取し、公然攻撃を開始したので、我々の方から云えば当然容赦し難き代物なのである。
我々は早速彼に付き纏い、手を変え品を変えて悩ましにかかったが、先方が道心堅固なのでどうしても格別の損害を与えることが出来ない。百計尽きて吾輩は情事仕掛けで相手をひっかけてやる計画を立てた。村で一番の器量よしの少女――吾輩はそいつに憑依して、僧に対してぞっこん惚れさせることにした。彼女は何週間かに亙りて僧の後を付け回し、最後に懺悔にかこつけて僧の前に跪いて思いの丈を打ち明けた。ところが、この道にかけても案外堅い僧侶で、女の申し込みを素気無く拒否してしまった。女の方で悔し紛れに、今度は僧に対して盛んに悪評を触れ回した。
この機に乗じて我々は夜な夜な僧を襲撃し、彼の耳元で盛んにこんな嫌がらせを囁いた。「コラッ! 偽宗教の偽信者! 今に見ろ、汝の化けの皮は剥がれるぞ。汝の恥は明るみに曝け出されるぞ。それが厭(いや)なら早く自殺せい! 汝のような売僧は自殺するに限る!」
が、いかに罵ってみても彼は純潔な生活を送りつつある立派な僧で、従って我々の呪詛の言葉を聞いてもさっぱり驚かない。我々が数週間に亙りてこんなことを続けている中に、先方ではとうとう気がついてしまった。
「ああ読めた! 汝達はかの魔術者の手先に使われている悪霊共じゃな。よしよし私が今より魔術者を訪問して戒告を与えてやる・・・」
年若き層は手に十字架を携えて敢然として魔術者の住居に向かった。折りしも真っ暗な晩で、冷たい雨がポツリポツリと彼の面を打ち、時々稲光がしてゴロゴロと物凄い雷鳴が聞こえた。
吾輩は勿論僧の後に付き纏い、一生懸命彼の耳元で脅かし文句を並べた。
「汝、偽善者、見よ神は怒りて汝を滅ぼすべく電火を頭上に注ぎつつあるではないか! 見よ空は黒ずんで汝の呪はれたる運命を睨みつめているではないか! 死ね! 死んで地獄へ行け!」
しかし年若き層はビクともせず、ひたすら道を急いで魔術者の住居に辿り着き、コツコツと扉を叩いて案内を求めた。扉は内部から開かれたが、しかし暗い廊下には誰も居ない。彼は構わず奥へ進んで、第一室の扉を開きにかかったが錠が下りている。第二室も又そうであった。我々霊魂が先回りをしてこんなイタズラを試みていたのである。が、最後の室の扉だけはワザと錠を下ろしてない。
僧はそれを開けて内部に入ると魔術者は薄暗い燈火をつけて彼の来るのを待っていた。年若き層は居丈高になって室の中央に突き立ちながら言葉鋭く魔術者を面罵した――が、魔術者の方ではフンともスンとも一言も発せず、ただジッと相手の顔を睨めつけていると、次第次第に僧の言葉は途切れがちになり、何やら物に襲われそうな面持ちをして、締まりのない格好をしてボンヤリ其処に立ち竦(すく)んでしまった。
●自らが作る罪 下
俄然として魔術者が口を開いた――
「この馬鹿者! 何だってここへ来やがった? 汝はこれでいよいよ滅亡じゃ!」
そう言って何やら呪いの文句を唱えた。同時に我々悪霊が寄ってたかってこの憐れな僧に武者振りついた。
再び魔術者が叫んだ――
「明日こそいよいよ汝の罪悪の広く世間に暴かれる日じゃ! 俺の配下に二人の婦女がいる。そいつ達が、汝と出来合って、ここを密会の場所にしていたと、そう世間に自首して出る――今度こそいよいよ汝の急所を押さえた。いよいよもう逃げ道はない。生意気にも汝は俺の神聖な仕事にケチをつけ、悪魔と交通している、などと世間に言い触らした。不埒者めがッ!」
僧は血涙を絞って叫んだ――
「嘘だ嘘だ! そんな事は真っ赤な嘘だ! 拙者は何らの罪悪も犯さない。拙者は冤罪を社会に訴え併せて汝が悪魔と取引していることを公然社会に発表してやる」
「フフフフフどこにそんな戯言を信ずる馬鹿者があるものか! コレ大将もう駄目じゃ駄目じゃ! 余りじたばたせずに大人しく往生したがよかろう」
散々嘲りながら何やら重い物を僧に叩き付けたので、僧は気絶して床の上に倒れた。
「まだ殺すのは早過ぎますぜ!」と吾輩は魔術者を制止した。
「すっかり世間の信用を墜さしてからがいいです・・・」
「ナニ殺しはせぬ。こうしておいてこいつの体につけている品物を二つ三つ奪ってやるまでのことじゃ。先ず髪の毛が二、三本、それにハンカチ、時計の鎖にブラ下げている印形・・・。そんな品物を二人の婦女に渡しておけば色情関係のあったよい証拠物件になる」
「それよりは」と吾輩が入り知恵した。「この坊主と女とを実際に引っ付けてやりましょう」
「成る程そいつァ妙じゃ!」
魔術者は大喜びで吾輩の提議に賛成した――が、その瞬間にパッと満室に注ぎ入る光の洪水で何もかもオジャンになってしまった。イヤその光の熱さと言ったら肉を溶かし、骨を焦がし、いかなるものでも突き透さずにはおかない。後で判ったが、この光は僧を守護する大天使から発するところの霊光なのであった。
いつの間にやら天使は現場に近付いて、威容厳然、ラッパに似たる朗々たる声でこう述べるのが聞かれた――
「神は抵抗の力を失える人間が悪魔の誘惑にかかるのを黙認している訳には行かぬ。これまで汝をして勝手にこの人物を苦しめさせたのは彼に対する一の試練であったのじゃ。彼をして首尾よくその誘惑に打ち勝たせん為の深き情けの神の鞭であったのじゃ。されど汝の悪事もいよいよ今日きりじゃ。汝の不義不正はその頂点に達した。即刻地獄の奥深く沈め! 同時に地獄から逃れ出でたる汝悪霊、汝も又地獄に戻れ! 汝が前に墜され居たる所よりも更に一段の深さまで・・・」
そう述べる間もなく火焔は吾輩の体を焼きに焼いた。魔術者も又一とたまりもなく死んで倒れた。彼の霊魂は迅速にその肉体から分離し、そしてその幽体は烈々たる聖火の為に一瞬にして消散し去り、赤裸々の霊魂のみが一声の悲鳴を名残に、何処ともなく飛び去ってしまった。同時に吾輩も又無限の空間を通して下へ下へと計り知られぬ暗闇の裡に転落したのであった。
最後にやっとある地点に留まり着いたが、それは吾輩のかつて君臨せる王国でもなければ又かの憎悪の大都市でもないのであった。そんな所よりはもっともっと下方、殆ど地獄の最下層に達していた――が、其処でどんな目に遭ったかという話は何れ又機会を見てお話しましょう――
ワード氏はその時質問を発しました――
「ちょっとお訊ねしますが、あなたが地上に出て来る時に体の色が赤黒かったというのはありァ一体どういう訳でございます?」
「それは多分」と叔父さんが傍から言葉を出しました。「霊衣の色が赤黒かったのじゃろう。お前も知っとる通り霊衣というものはその時の感情次第で色が色々に変わる。赤黒いのは言うまでもなく憎悪の色じゃ」
「それはそうと陸軍士官さん、あなたのお話は先へ進めば進むにつれて段々途方途徹もないものになってまいりますナ」とワード氏が重ねて言いました。
「なかんずく今回の魔術者の物語ときてはいかにも飛び離れていますから、果たして世人がこれを聞いても信用するでしょうか? 近頃魔術などというものはまるで廃れてしまっていますから、恐らくこんな話を真面目に受け取る者はないでしょうな・・・」
「イヤ世人が信用するかせんかは吾輩少しも頓着せん」と陸軍士官が答えました。「吾輩の物語は一から十まで皆事実談じゃ。この話をしておかんと吾輩次の物語に移る訳にいかん。吾輩がこの魔術者とグルになったればこそあんな地獄の最下層まで落ち込むことになったので・・・」
「そうじゃとも」と叔父さんが再び言葉を挟みました。「世間の思惑を心配して事実を曲げることは面白うない――しかし今日は時間が来た。お前は早う地上へ戻るがよい・・・」
次の瞬間にワード氏は意識を失ってしまいました。
十四. 真の悪魔
これは1914年5月18日の霊夢で現れた実録です。いよいよ地獄のドン底生活の描写が始まります――
さて自分の居所が大体見当がつくと同時に吾輩は早速その辺をあちこちぶらついてみたが、イヤ驚き入ったことには、今度の境涯は以前の境涯よりも更に一段と品質が落ちる。闇の濃度が一層強く、そして一望ガランとして人っ子一人見当たらない。
が、だんだん歩き回っている中に、忽ち耳を劈(つんざ)くものは何とも形容の出来ない絶望の喚き声である。オヤ! と驚いていると忽ち闇の裡から一団の亡者共が疾風の如く駆け出して来た。そしてその直ぐ後から遮二無二追いかけて来たのが一群の本物の悪魔・・・。
悪魔にも本物と偽物とある。幽界辺でおりおり邂逅(かいこう)したのはありァ悪魔の影法師で決して本物ではない。即ち悪魔を信ずる者の想像で形成される、ただ形態だけのものである。ところが、地獄の底で出くわす悪魔と来ては、正真正銘まがいなしの悪魔で、幽界辺りのお手柔らかな代物ではない。想像から生み出された悪魔には蝙蝠(こうもり)の翼だの、裂けた蹄(ひづめ)だの、角の生えた頭だのがつきものであるが、地獄の悪魔にはそんなものはない。彼等は人間の霊魂ではなく、とても想像だも及ばない恐ろしい族、つまり一種の鬼なのである。
彼等は手に手に鞭のようなものを打ち振りながら人間の霊魂の群を自分達の前に追い立て追い立て行く。
「こらッ往生したか!」鞭で打ってはそう罵るのである。「本当の神というのは俺達より外にはない。汝達が平前神と唱えているのはただ汝等の頭脳の滓(かす)から出来た代物だ・・・」
そんなことを叫びつつ、段々こちらへ近付いて来て、鬼の一人が忽ちピシャリ! と吾輩の顔を殴りやがった。吾輩もかねて地獄のやりッ振りには慣れているので、早速ソイツに武者振りついてみた。が、どういうものか今度はさっぱり力が出ない。幾ら気張ってみても、ただ目茶目茶に殴られるばかり、さすがの吾輩も今度ばかりは往生させられてしまった。忌々しいやら口惜しいやらで胸の中は張り裂けそうだがいかんとも致し方がない。もがきながら地面にぶっ倒れると、今度は誰かが錐(きり)のようなものを吾輩の体に突き通すので思わず悲鳴をあげて夢中に跳び起きる。イヤその苦しさ! とうとう吾輩も他の亡者共と一緒に、何処をあてともなく一生懸命駆け出すことになってしまった。
これからが真の恐怖時代の始まりであった。先へ先へと我々は闇の空間を通して駆り立てられ、ただの一歩もただの一瞬間も停まることを許されない。終いには『自我』が体の内部から叩き出されるような気持がした。無論我々は逃げるのに忙しくてお互い同志言葉を聞くことも出来ない。躓く、倒れる、起きる、走る――ただそれだけである。仲間は男もあれば女もある。大抵は衣服を着ているが、どうかすると素っ裸のもある。衣服はあらゆる時代、あらゆる国土のもので、ただの一枚としてボロボロに引き千切れていないのはない。
我々は陰々たる空気を通してお互い同志の顔位は認めることが出来たが、しかし我々の通過する地方がどんな所であるかはさっぱり見当が取れない。ただ一途に鬼共の鞭から逃れたいと思うばかりで、無我夢中で闇から闇へと潜り入る。
我々の背後からは鬼共の凄文句が間断なく聞こえて来る――
「どうだい。これでもかい! これでもかい! 呵責は重く褒美は軽い。走れ走れ永久に! 汝達の前途は暗闇だ。汝達は永久に救われない。汝達の犯した罪は何時まで経っても許されない。汝達は神を拝まずして悪魔を拝んだ不届き者だ!
イヤイヤこの世に神は無い。神があるなどとは人間の拵(こしら)え上げた真っ赤な嘘だ。悪があるから善がある。悪が根元で善は影だ。この世に善人などは一人もない。キリストの話は神話に過ぎない。本当にあるものは我々ばかりだ。もがけ! 泣け! 諦めろ! 汝達の幸福の日はもう過ぎた。死後の生命などは汝達の為にはない方がよかった。地上に於いて我々は汝達に仕えた。汝達は今後我々に仕えるべき順番だ・・・」
こんな種類の悪罵嘲笑が間断なく我々の耳に聞こえて来る。無論彼等の述べるところは大抵は嘘で、言わば我々をがっかりさせる為の出鱈目に過ぎない。しかしその言葉の中には極小量の真理も含まれているので人を惑わせる魅力は充分にある。
これまでの吾輩は一目で先方の胸中を立派に洞察する力量を有していたものだが、どういうものか今度の境涯へ来てからはさっぱりそれが出来なくなってしまった。付近にいるのは何れも意思の強烈な奴ばかりで、自分の思想を堅固な城壁で囲んであるので、いかに気張ってみてもそれを透視することが出来ない。
とうとう吾輩は鬼の一人に向かって叫んだ――
「何時までもこう追われてばかりいてはとてもやり切れない。追われる代わりに追いかける役目にはなれないものかなァ?」
「訳はないさ」と彼は吾輩の顔をピシャリと叩きながら叫んだ。「もう一つ上の境涯へ行って百人の霊魂をここまで引き摺って来ることが出来さえすれば、その功労で直ぐにその役目になれる。こんな容易な仕事はない。引っ張って来た奴等には皆悪魔を拝ませる・・・」
「でも、どうして上の境涯へ行けるだろう?」
「俺達の方で案内してやるよ。が、向こうへ行ったからとて到底俺達の手から逃げられはしないぞ。ただ俺達の仕事の下働きをやるだけだぞ・・・」
とうとう吾輩は悪魔に弟子入りをすることになってしまった。
十五. 眷族(けんぞく)募集
で、他の霊魂共が、永遠に終わることなき追撃を受けつつある間に、吾輩のみただ一人後に残ることを赦されたのである。
吾輩の道案内に選び出された鬼というのは吾輩などよりずっと身長が高く、闇の中から生まれたらしいドス黒い体を有していた。が、そいつはものの二分と決して同一格好をしていない。のべつ幕なしに顔も変われば姿も変わる。初めは何やらフワフワした黒い衣服を着ていたように見えたが、見る見る内に素っ裸になった。その中又も一変して山羊みたいなものになった。オヤオヤと驚いている中に更に大蛇の姿に化けた。
その次の瞬間に彼は又もや人間の姿に立ち返ったが、実は人間というのは大負けに負けた相場で、いかに人相のよくない人間でもコイツのように醜く、憎々しい、呆れ返った容貌の者は広い世界にただの一人も居はいません。眼と云ったら長方形で、蛇の眼のように底光りがしている。鼻と来たら鷲の嘴(くちばし)のように鈎(かぎ)状を呈している。大きな口に生えた歯は何れも皆尖って象の牙のように突き出している。悪意と邪淫とが顔の隅から隅まで漲り渡り、指端はまるで爪みたいに骨っぽい。総身からは闇の雫がジメジメ浸み出るように見える。そうする中に彼の姿が又もや変わって今度は真紅な一本の火柱になったが、ただ不思議なことにはそれから少しも光線というものを放射しない。
右の火柱の中から「俺の後を付いて来い!」という声が聞こえた。そこで吾輩と動く火柱とが連れ立って進んで行った。間もなく闇の中から調子外れの賛美歌のようなものが聞こえ出した。段々近付いてみると、其処には山らしいものがあって、その山腹の穴の中に沢山の幽霊がウヨウヨしていた。吾輩の案内者はここで再び半分人間臭い姿を取って一緒に穴の中へ入り込んだ。
鐃(にょうばち=にょうはつ、法会に用いる2種の打楽器)やらラッパやらが穴の中でガチャガチャ鳴ると、それに混じりてもの凄い叫喚声やら調子外れの賛美歌やらが聞こえる。間もなく我々の前面には大きな玉座が現れ、その直ぐ傍では、猛火の凝塊と思わるる大釜が物凄い音を立てて炎々と燃えている。玉座の上に座っているのは気味の悪い面相の大怪物で、件の釜の中に投げ込まるる男女の子供達が、熱がってヒイヒイ悲鳴を挙げるのをさも満足げに見守っている。言う迄もなく地獄の猛火は尋常の火とは訳が違うが、しかしそれに炙られる感じは地上の火で炙られるのと何も変わりはない。
「どいつも皆子供の姿をしているが、実際子供なのかしら・・・」と吾輩が不審の眉をひそめた。
「そんなことがあるものか!」と案内の鬼が答えた。「あいつ等は全部皆成人なのだが、無理矢理に子供の姿に縮小されて悪魔の犠牲にされるのだ。本物の鬼というものはしょっちゅう管内を捜し歩いて、捕まえた奴は全部釜の中に放り込むのだ。本当の子供はただの一人もこんな境涯へ来ていはしない――さァ其処へ鬼が沢山やって来た!」
そう言っている中に猛烈な叫び声が付近に起こった。すると果たして一群の鬼共が穴の内部に突入して来て、吾輩をはじめ、そこいらに居た全部の者を悉(ことごと)く大釜の中に叩き込んだ。
実際それが燃ゆる火なのか、それとも鬼の念力で火のように熱いのかはよく判らないが、兎に角その時の苦痛と云ったらお話になりはしない。
漸(ようや)くのことで鬼共が何処かへ消え失せたので、我々は釜の中から這い出した。それから他の連中は最初の通り御祈祷を始めたが、吾輩はそんな事は御免を被って案内者の方に近付いた。
彼は尖った歯を剥き出して笑った――
「どうだ、中々この刑罰も楽ではなかろう。余程奮発して沢山の眷族を引き連れて来ないとまだまだこんなお手柔らかなことでは済まないぞ!」
「連れて来るよ来るよ!」とさすがの吾輩もいくらか慌てて「吾輩いくらでも連れては来るが、しかしどうしてそう沢山の眷族を欲しがるのだ? 幾ら連れて来たところでただそれを虐めるだけの話じゃないか?」
「当たり前だ。俺達には人間が憎いのだ! とても汝達には想像が出来ないほど憎いのだ! 汝達も他人を憎むことを知っているつもりだろうが、そりゃホンの真似事だ。俺達の本業は人を憎むことだ。俺達は心から人間が嫌いだ!」
そう叫んだ時に彼の全身は忽ち炎々たる火の凝塊になってしまった。彼が再び人間の姿に戻ったのはそれから暫く過ぎてからのことだった。
「さァこれからいよいよ汝の仕事だ!」
彼はそう吾輩を促し立てて大急ぎで前進した。何やら山坂でも登るような感じであったが、果たして坂があったのかどうかは勿論判りっこはない。
突然彼は吾輩を捕まえて虚空遙かに跳び上がったように感ぜられたが、ふと気がついて見ると、其処はかつて吾輩が住んでいた上の境涯なのであった。
案内者はここで吾輩に向かって厳命を下した。
「コラ汝は何時までもここに居続けることは相成らんぞ。汝の体はもうすっかり汚れ切って重量が殖えているからここに居たところで決して良い気持はしない。こんな所で行方を晦(くら)まそうなどとはせぬことだ。そんなことをすれば、直ぐにひッ捕まえて極度の刑罰に処してくれる。俺にもここは居心地がよくないから下の境涯へ戻っているが、しかし汝がここで何を考え、何を働いているか位のことはチャーンと判っているから気を付けるがいいぜ・・・」
それっきり案内役の鬼はプイと姿を消してしまった。吾輩はホッと一息つくはついたが、しかし執行猶予の期間は幾らもなかりそうなので、早速仕事に着手することにした。
段々調べてみると、この付近は所謂吝嗇(りんしょく=ケチ)国というものらしく、他所から自分の所有する黄金を奪いに来はせぬかと、ただそればかり心配している。そのくせ地獄に本物の黄金のあろう筈がない。よしあったにしたところで、地獄で黄金は何の役にも立ちはせぬ。それにもかかわらず生前から持ち越しの欲気と怖気とに悩まされ続けている。
吾輩は彼等の癖を上手く利用して自己の目的を達すべき妙計を考えた。ある奴には、悪魔を拝めばいくらでも黄金を貰えると言い聞かせた。又ある奴には、悪魔に縋(すが)れば決して所有の黄金を他人に奪われる心配はないと説明した。兎に角大車輪の活動のお陰で、吾輩はかなり優勢の眷族を糾合することに成功した。吾輩は早速そいつ達を唆(そそのか)して悪魔供養祭の執行に着手した。
最初はいくら祈願をこらしても悪魔の方で受け付けてくれる模様が見えなかったが、暫くして感応があり出した。何やら強い無形の力でグイグイ引っ張られるような感じ・・・。他の連中にはそれが何のことやらさっぱり訳が判らなかったが、吾輩は忽ち、いよいよ来たナと感づいた。この引着力は、相互の間に一の精神的連鎖が成立しつつあることの確かな証拠で、それは引力の法則と同様に次第次第に勢いを加えて行った。最後に自分達の立っている地面が足の下からズルズルズルズル下方に向かって急転直下、奈落の奥深く沈んで行った・・・。
十六. 地獄のどん底
我々がいよいよ呪われたる約束の地に落ち着くと同時に、たちまち無数の鬼共が前後左右からバラバラと群がり寄った。
「兎も角もこれで褒美の品にありつけるな・・・」
吾輩が独り笑壺に入ったのはホンの一瞬間、褒美どころか、あべこべに一人の鬼からこんな引導を渡されてしまった――
「汝は悪魔の役割を横取りしやがって、人間をこんな所へ連れて来たが、よく考えてみるがいい。俺達と汝達とは種類が違う。汝達にはそんな事をやるべき権能は少しもない。俺達は人間を憎んでそれを虐めるのが天職だ。汝達は元々人間の部類で、これを憎んだり虐めたりすべき権能を持っていない。汝は単なる利己心から汝の同胞を裏切ったのだ。俺達の仕事とはまるきり畑違いだ。馬鹿にするない。人間がいかに鬼の真似をしたからとて本当の鬼になれてたまるものか! 俺達の天性と汝達の天性とは根本的に違っている――コラ畜生! さっさと自分の仲間の所へすっ込め!」
吾輩は這う這うの体で自分の誘惑して来た亡者共の群に戻ったが、それはホンの一瞬間に過ぎなかった。吾輩の彼等に約束したことがまるきりペテンである事がバレると同時に何れもカッとムカッ腹を立て、総勢一時に武者振りついて吾輩を八つ裂きにしようとした。イヤそれから引き続いて起こった夢魔式の争闘と云ったら全く目も当てられません。一方では鬼の鞭で一同前へ前へと追い立てられる。追われながらも仲間の亡者はズタズタに吾輩の体を引き裂きにかかる・・・。吾輩の体は何回引き裂かれたか知れない。少なくとも何回裂かれたような気持がしたか知れない。その癖死ぬことも出来ず、生きながら死の苦しみを続けるばかり・・・。
漸(ようや)くのことで吾輩はちょっとの隙間を狙って彼等の間から脱け出して死に者狂いに逃げた。すると彼等も死に者狂いになって直ぐ後から追い掛けて来た。
それから何処をどう通過し、何事をどうやったのかは記憶にさえも残っていない。ただ悪夢に襲われた時とそっくりそのまま、前へ前へと疾駆するらしく感ずるばかり・・・。そうする中に又もや急転直下式に下方に向かって墜落し始めた。終いにはジタバタもがく気力もまるきり失せてしまって、勝手放題に下へ下へ下へ下へと、未来永劫届く見込みの無かりそうな奈落に墜ち込んで行ったのであった。
何年間、何十年間その状態を続けたかは判らないが、それでもとうとう吾輩の墜落事業が中止さるべき時期が到着した。吾輩の体は何やら海綿みたいな物体の中に埋没してニッチもサッチも動けなくなって来た。無論それはガッシリした堅い地面ではないが、さりとて又ジクジクする泥田みたいな所でもない。
地球上には先ずそれに類似のものがまるきり見当たらない――もっともそりァその筈で、右の海綿状の物体というのは地獄名物の闇の凝塊なのです。嘘だと思ったら行って御覧なさい。実際それは触覚に感ずる濃厚体ですから・・・。
兎に角この海綿状の黒霧が吾輩の墜落を食い止めたのである。が、それは決して踏んで踏み応えのある代物ではない。前後左右何処もかしこも皆フワフワしていて、頭の上も足の下も堅さに於いて別に相違がない。音もなければ光もなく、一切皆空の、イヤに寂しい、情けない、気持の悪い境地である。絶対の孤立、絶対の無縁――ただ人間の仲間外れになったばかりでなく鬼にさえも見離されてしまった孤独境なのである。
これが運命に逆行して必死の努力を試みた吾輩の最後の幕なのであります。あ~あの時の寂しさ、物凄さ・・・。
十七. 底なし地獄
吾輩にはとても地獄の最下層の惨たらしい寂しさを伝える力量はない。体験以外にその想像は先ず難しそうに思われるから一切余計な文句を並べないことにしますが、しかし吾輩の為にはそれが何よりの薬でした。あんな目に遭わされなければ吾輩はとても本心に立ち返るような根性の所有者ではないのでね・・・。
最初吾輩には何ら後悔の念慮などは起こらなかった。胸に漲(みなぎ)るものはただ絶望、ただ棄鉢(すてばち)・・・。すると忽(たちま)ち自分自身の生前の罪障が形態を作って眼前に浮かび出でて吾輩を嘲(あざけ)り責めるのであった――
「汝呪われたる者よ。眼を開けてよく見ておけ。汝は我々を忘れていた。最早汝には何ら希望の余地もない。汝はその生涯を挙げて悪魔の駆使に任した。人間の皮を被った中の一番の屑でも最早汝を相手にはせぬ。汝を見棄てることの出来ないのは我々のみだ。出来ることなら我々とても汝みたいな者とは離れたいのだが・・・」
一応その場面が済むと今度は入れ代わって闇の場面が現れた。全然寂滅そのもののような暗黒である。叫ぼうと思って口を開けてみても声は出ない。闇が口の中に流れ込んで栓をするような気持である。
「彼等の口は塵芥もて塞がるべし・・・」
胸の何処やらにこの文句の記憶が残っているらしく思われたが、文句の出所を探す気にもなれない。兎に角寂しくて堪らない! 情けなくてしょうがない! たとえ鬼の鞭に打たれながらも、上の境涯の方がどれほど恋しいか知れないと思えたが、それすらもう高嶺の花であった。
とても歯ぶしの立たない絶対の沈黙! 吾輩にはとてもその観念を伝え得る詮術はない。あなた方には上の境涯で八つ裂きの呵責に遭う方がよっぽど辛かろうと思えるかも知れませんが、決して決してそんなものではないです。
こうして幾世紀、幾十世紀かの歳月が荏苒(じんぜん)として経過するように感ぜられた。『永遠の呵責』――あの気味の悪い文句が吾輩の胸の何処かで鳴り響くように思われた。『ここに入りたる者はすべからく一切の希望を棄てよ』――このダンテの文句なども吾輩の耳に響いて来た。
然り一切の希望の放棄! 吾輩はしみじみとその境涯の真味を味わいながら、独り法師で幾世紀、幾十世紀の長い長い歳月を苦しみ抜いたのである。が、最後に、バイブルの中の文句が俄然として吾輩の乾燥した胸に浮かび出た――
「神よ神よ、汝は何故に我を見棄て給えるか?」
吾輩はその瞬間までこの恐るべき文句の真意が判らずにいた。そんな事は頓珍漢な不合理だと思っていた。が、この時初めて電光石火的に、神は全ての人間の苦痛――然り、地獄のドン底に墜ちて居る人間の苦痛をも知って御座るに相違ないと気が付いた。キリストの十字架磔刑の物語などは信ずるも信ぜざるもその人その人の勝手である。しかし神様だけは人間の苦痛の一切を知っておられる――この事のみは吾輩断じてそれが事実である事を保証する。
最初この考えが吾輩の胸に浮かんだ時には格別それを大切な事柄とも思わなかった。が、段々時日が経つにつれてこれには何かの深い意味がこもっている事のように思われて来た。吾輩は考えた――若しも神が人間の苦痛を知って御座るなら、愛の権化である神は人間に対して多少の哀れみを抱かるる筈である。無論神は矢鱈に我々を助ける訳には行くまい。枯れる樹木は枯れねばならぬ。しかし若しも神様が何処かにおいでになる以上、必ず吾輩のことを憐れんでいてくださるに相違ない・・・。
次第次第に新しい感情が吾輩の胸に湧き出して来た――吾輩はどうしてこんなに馬鹿だったのだろう。何故もっと早く後悔して地獄から逃れることに気が付かずにいたのだろう? 後悔しさえすればきっと神から許される・・・。
が、待てよ、地獄というものは永久の場所ではないのかしら・・・。果たして地獄から脱出することが出来るかしら・・・。
吾輩は考えて考えて考え抜いた。挙句の果には何が何やらさっぱり訳が判らなくなってしまったが、しかし何を考えるよりもキリストの事を考えるのが一番愉快なので、吾輩はそればかり考え詰めるようになった。公平に考えて当時の吾輩にはまだ中々純粋たる後悔の念慮などは起こってはいなかった。が、兎も角も自分は余程の馬鹿者で、詰まらなく歳月を空費したものだと感ずるようになっていた。
「イヤ」と吾輩は叫んだ。「吾輩は借金だけは綺麗に返さねばならない。下らぬ愚痴は言わぬことだ。吾輩は生きている時分にもそんな真似はしなかった。今更世迷い言の開業でもあるまい・・・」
そうする中にも、過去に於いて吾輩が他人に施した多少の善事――数は呆れ返る程少ないが、それでもその一つ一つが、他の不快感極まる光景の裡(うち)にチラチラ浮かび出て、吾輩の干乾びた胸に一服の清涼感を投じてくれた。それからもう一つ懐かしかったのは早く死に別れた母の記憶・・・。
「今頃母の霊魂は何処にどうしておられるだろう・・・」
母は吾輩のごく幼い時分に亡くなったが、しかしその面影ははっきり胸に刻まれていた。その母から教えられた祈祷の文句――どういうものか吾輩にはそればかりはさっぱり思い出せなかった。他の事柄は残らず記憶しているくせに、祈祷の文句だけ忘れてしまっているというのは全く不思議な現象で、世間で呪われた者に祈祷が出来ないというのは或いは事実なのかも知れないと思われた。
兎に角自分でも気が付かぬ中に吾輩はいくらかずつ祈祷でもしてみようという気分、少なくとも善い事をしてみようという気分になりかかって来たのであった。
この一事は実に吾輩に取りて方向転換の合図であった。それからどうして地獄を脱出することになったかは、これから順序を追って述べることにします。
吾輩は一先ずこの辺で一服させてもらいます。いよいよ墜ちるところまで墜ち切って、これからは上へ昇る話です。人間に取りて第一の禁物は絶望である。神の御力はどこまでも届く。善人にも悪人にも死ということは絶対に無い。永劫の地獄生活は死に近くはあるが死ではない。心が神に向かえば地獄の底からでも受け合って脱出することが出来る。吾輩が何より良いその証人である・・・。
十八. 向上の第一歩(上・下)
●向上の第一歩 上
これは1914年5月25日に見た霊夢の記事ですが、陸軍士官は相変わらず席に着くなりワード氏にこの物語をして聞かせたのでした――
幾ばくの間吾輩がかの恐ろしい地獄の闇に閉ざされていたかはさっぱり見当が取れませんが、しかし自分にはそれが途方もなく長い年代に跨(またが)るように思われた。が、兎に角最後に吾輩は一の霊感に接した。吾輩の呂律の回らぬ祈祷でも神の御許に達したらしいのです。
「神にすがれ。神より外に汝を救い得るものはない・・・」
そう吾輩に感じられたのである。
が、神に縋(すが)るという事は当時の吾輩に取りて殆ど奇想天外式の感があった。吾輩の一生涯はいかにして神から遠ざかろうか――ただその事ばかりに惨憺(さんたん)たる苦心を重ねたものだ。なんぼかんでもその正反対の仕事をやるのにはあまりに勝手が違い過ぎるように思えて仕方がなかった。
吾輩はとつおいつ思案に暮れた。どうすれば神に近づけるか? どうすれば海綿状の闇の中から脱出出来るか? 自分は既に呪われたる罪人ではないか?
すると最後に新しい考えが又吾輩の胸に閃いた――
「祈祷に限る・・・」
一旦はそう思ったが、しかし矢張り困った問題が起こった。吾輩はさっぱり祈祷の文句を覚えていない。祈祷のやり方さえも忘れてしまった・・・。
散々苦しみ抜いた挙句に、丁度一の霊感みたいに吾輩の口から「おお神よ。我を救え・・・」という一語が吐き出された。
一度言葉が切れてからは後は楽々文句が出た。吾輩は同一文句を何回となく繰り返した。
それから続いてどんな事が起こったか。又どういう具合に地獄のドン底から上方に出抜けることになったか――これを地上の住人に判るように説明することは実に容易でない。何より当惑するのは適当な用語の不足で、地獄の経験を言い表す文句を見出すことは実に至難中の至難事であります。
それはそうと、祈祷の効験は誠に著しいもので、何とも言い知れぬ一種心地良き温味がボーッと体中に行き亘って来た。それが段々強烈になって、最後には少々熱過ぎる位・・・。とうとう体に火がついたようになってしまった。祈れば祈るほど熱くなるので、暫く祈祷を中止したりした。
熱さに続いてはやがて又一の新しい妙な感じに接した。それは吾輩の体の重量が少しずつ軽くなることで、同時に自分は海綿状の闇の中をフワリフワリと上の方へ昇り始めた。あんなお粗末な祈祷でも吾輩の体にこびりついた粗悪分子を少しずつ焼き尽くし、その結果自然に濃厚な闇の裡(うち)には沈んでおれなくなったらしいので・・・。
昇り昇って最後に吾輩は闇を通して黒いツルツルした岩が突き出しているのを認めた。地上とは大分勝手が違うから説明しにくいが、地獄の底は言わば深い闇の湖水で、四方には物凄い絶壁が壁立しているのだと思ってもらえば大体見当がつくであろう。
兎に角吾輩はこの黒光りする岩を認めるや否や、溺るる者は藁一筋にも縋(すが)るの譬(たとえ)に漏れず直ちにそれにしがみつこうとしたが、それが中々難しい。幾度となく足を踏み滑らして尻餅をつくのであった。
祈祷の有り難味はもう充分判っているので、吾輩は再びそれに頼った――
「おお神よ、首尾よくこの闇より逃れるべく御力を貸し給え・・・」
そう述べるより早く吾輩が今まで乗っていた闇の湖水が急に揺す振れ出して、大きな浪が周囲に渦巻き、吾輩を一と呑みにしそうな気配を見せた。が、予想とは反対に、吾輩の体は浪の為に岩の上まで打ち上げられてしまった。吾輩みたいな者でも、芽を吹き出した信仰のお陰で黒く濁った地獄の水に浸っているのには重量が不足になったものらしい・・・。
●向上の第一歩 下
岩の上も随分暗いことは暗いが、しかしもう触覚に感ずる程の闇ではなかった。が、周囲の状況が少しずつ判るにつれて吾輩は返って失望の淵に沈まない訳には行かなかった。吾輩の打ち上げられた岩というのは、千尋の絶壁から丁度卓のようにちょっぴり突き出たもので、いかにその付近を捜して見ても其処から路らしいものはどこにも通じていない。この時も我輩又例の奥の手を出して祈祷を始めることにした。
暫くの間何の音沙汰とてもないのでがっかりしかけていると、吾輩の視力が次第に加わって来たものか、左手の崖に開いている一つの孔(あな)が眼に入った。どうやら片手だけはそれに掛かりそうなので、散々足場を探した後で、やっとのことでその孔に縋(すが)り付くことが出来たが、その孔は案外奥の方が開け、暫くトンネル様の箇所を通って末は狭い谷に出抜けている。
こんな風に述べるとあなた方は地獄はイヤに物質的の所だなと感ぜられるかも知れませんが、しかし我々超物質的の者にとりて超物質的の岩はさながら実体のあるように感じられるのです。そりゃ無論、何処やらに勝手の違ったところはないのではないが、しかしとてもその説明はしかねる。ワードさんはちょいちょい霊界探検に来られるから大体の見当はおつきでしょうが一般の方には事によると腑に落ちないところが多いかも知れません・・・。
それはそうと吾輩は非常な苦心努力を重ねて歩一歩右の谷を上へ上へと登って行った。暫くして崖の中腹の一地点に達すると、其処から馬の背のような岩が崖に沿いて延長しているので、吾輩はその岩の上を辿ることにした。
が、やがてその岩もつきてしまったので、吾輩は再び絶望の淵に沈んだ。これ程までに苦心したとどのつまりは矢張り失敗なのかと思うと、最早立っている根気も失せて一旦はベタベタと地上に崩れた。
そこで色々考えてみたものの結局何の工夫も浮かばない。せうことなしに又祈祷を始めることになったが、余り度々のことで格別の希望をこれに繋ぐ気にもなれなかった。が、不思議なもので、祈祷をやると幾らか精神が引き立って来て、終いにはとうとう又起き上がって出口を探してみる気分になった。
と、俄かに雷のような轟然たる響きが起こって、巨大な岩の塊が崖の壁面から崩れ落ち、それが狭い谷の上に丁度橋を架けたような按配にピタリと座った。橋の彼方がどこへどう通じているかは無論自分の居所からは見えはしないが、こうなったのは確かに自分の祈祷の効き目に相違ないと感じられたので、大骨折でこのギザギザした橋を上り始めた。随分危ない橋で何度か下の隙間に墜落しそうになったが、構わず前進を続けた。
やっとの思いでその頂点まで達してみると、その向こう側の渓谷はごろ石だらけの難所であった。其処を歩くには随分骨が折れ、寸前尺退、いつ果つべしとも思えなかったが、吾輩は歯を食いしばって無理に前進を続けた。この時ばかりは平生の負けず嫌いが初めて役に立った。
が、これが最後の難関であった。出抜けた場所は随分石ころだらけの荒地ではあったが、割合に平坦なので、思わずはっと安心の吐息をついた。吾輩は地獄のどん底から二段目の所まで逆戻りしたのである。しかし吾輩の胸には同時に又新たな心配が起こった――「自分はここで又あの恐ろしい鬼共に追い立てられるのではないかしら・・・。若しそうであるならやり切れないな・・・」
が、いつまで経っても何事も起こらず、又何者も出て来ない。すると又別な恐怖が胸に湧き始めた――「自分は折角地獄の底から出るは出ても、矢張りあのイヤにガランとした無人の境に置き去りを食うのではないのかしら・・・こいつも実に堪らない・・・」
自分は一時途方に暮れた。「吾輩の祈祷が受け容れられたと思ったのはあれは当座の気休めで、神様は皮肉に吾輩をからかっているのではないかしら・・・」
散々煩悶に煩悶を重ねたものの、兎に角闇が幾分薄らいでいることだけは確かなので、この事を思うと幾らか又希望の曙光が煌(きらめ)き出すのであった。
十九. 地獄の第二境(上・下)
●地獄の第二境 上
これは6月1日の夜の霊夢で陸軍士官から聞かされた物語の記録です。例によりて理屈抜きで単刀直入的に自己の体験の続きを述べています。
吾輩は何処を目標ともなしに、ごろ石だらけの荒野をとぼとぼと歩き出した。暫くすると遠方に微かな物音がするので兎も角そちらの方へ足を向けた。すると、直にその物音の正体が判り出した。外でもない、それは鬼の鞭に追い立てられる不幸な者共の叫び声なのである。吾輩はがっかりして足を停めた。今更あの痛い目に遭わされてはやり切れないが、さりとてまるきり仲間無しの孤独生活も堪ったものではない。
「ハテどうも困ったものだな・・・」
頭を悩ましている間もなく、俄かに一群の亡者共が、例の大勢の鬼共に追い立てられて闇の裡(うち)からどっと押し寄せて来たので、吾輩は否応なしにその中に巻き込まれて一散に突っ走らざるを得ないことになった。
暫く駆り立てられてから自分はどうにかしてこの呵責から逃れる工夫はないものかと考え始めた。
見ると吾輩の直ぐ側を走って行く一人の男がある。吾輩はよろめく足を踏みしめながら辛うじて件の男に話しかけた――
「ねえ君、何とかしてここから逃げ出す工夫はないかしら・・・」
「そ・・・そいつが出来れば誠に有り難いが・・・」
すると鬼の一人が早くも聞き咎めた――
「ふざけた事をぬかす奴がいやがるな、この中に・・・覚えていやがれこの畜生!」
一言叫ぶ毎に鬼は我々二人を鞭でビシャビシャ殴った。
殴る、走る。走る、殴る。まるで競馬だ。が、吾輩はそうされながらも四辺に眼を配った。すると路は次第にデコボコになり、向こうの方に高い崖が突き立っている。その崖の所々に隙間があるのを認めた時に吾輩は仲間の男に囁いた。
「あれだあれだ!」
自分達は成るべくそちらの方に近寄るように工夫して走り、いよいよ接近したと見るや矢庭に岩の割れ目の一つに逃げ込もうとしたが、鬼の一人が忽ちそれと感づいて後から追跡して来た。こっちも死に者狂いに走ってみたが、無論鬼には敵わない。忽ちむんずとひっ捕まえられてしまった。
しかし吾輩は怯まず、仲間の男に入れ知恵した。
「神様に祈れ祈れ! 地獄の中でも神様は助けてくれる・・・」
入れ知恵したばかりでなく、自分から早速その手本を示した。
「おお神よ、我を救え!」と吾輩は叫んだ。「キリストの為に我を救え!」
「黙れ!」と鬼が怒鳴った。「神様が何で汝を助けるものか! 神様は正しい事がお好きだ。最初汝の方で神様をはねつけたのだから、今度は神様が汝をはねつける番だ。黙れ! 何をどう祈ったところで聴いてくださるものか! 神様だって忙しいや。汝のような謀反人の無心などを聞いている暇があってたまるものか。無益な仕事はさっさと止して、大人しくこっちへ戻って来い!」
それに続いて、例の恐ろしい鞭が、ピシャリピシャリと我々の体を見舞った。吾輩はそれに構わず一心不乱に祈祷を続けたが、仲間の男はとうとう我慢し切れなくなって、元来た方へ逃げ戻った。大勢の中に混じっておれば、幾らか鬼の鞭を避けられると思ったからで・・・。
その瞬間に吾輩はふと崖の直ぐ下に黒光りのする、イヤに汚らしい池があることに気がついた。吾輩は一瞬の躊躇もなしにその池の中に跳び込んだ。
●地獄の第二境 下
その池の水が何であるにしても、少なくともそれが以前地獄の底で経験した闇の固形体でないことだけは明白で、どちらかと言えばギラの浮いた地上の汚水に一番よく似寄っていた。
吾輩は兎も角もこの池を泳ぎ越そうとした。すると鬼も続いて水の中まで追い掛けて来て、吾輩が少しでも水面に顔を出しかけるとビシャビシャ鞭で打つ・・・。イヤその苦しさと云ったらありません。が、一心に神様を念じながら屈せず前進を続け、首尾よく対岸までこぎつけた。
それから吾輩は絶壁の真下に蹲(うずく)まりて祈願を込めた。と見れば、吾輩の腰の周囲に一條の細い紐がかかっている。なおよく調べて見ると、それは沢山の環を繋ぎ合わせて拵(こしら)えた一本の鎖で、その環というのが、つまり吾輩が生前積み来たれるホンの僅少の善行のしるしなのであった。それまで吾輩はそんなことにはまるきり無頓着でいたが、かくと認めた瞬間にどれだけ吾輩の胸に勇気が湧き出でたか計り知られぬものがあった。
かかる中にも、いつしか接近せる鬼は背後から吾輩をビシャビシャ打った。が吾輩はそんなことには少しも頓着せず、急いで腰の鎖を解いた。鎖は心細いほど細いものだが、しかし長さは予期したよりも遙かに長かった。
吾輩はその鎖の一端をワナに作り、雨のように打ち降ろさるる鬼の鞭を堪えて断崖の面を調べにかかった。間もなく眼に入ったものは壁面からヌッと突き出した岩の一角、しかもその上には狭い一條の畦(うね)がついている。
何回もやり損ねをした後で、とうとうその岩角にワナを引っ掛けることに成功した。そして細い鎖を頼りに、片手代わりに絶壁を登り始めた。
「どうぞこの鎖の切れませぬよう・・・」
吾輩はこの時ばかりは今迄にも増して真剣に祈念を神に捧げたのであるが、不思議なもので鎖は見る見る太くなるように思われた。暫しの間鬼は依然として背後から吾輩を打ち続けたが、やがてその鞭も届かなくなり、最後に辛くも例の壁面の畦まで辿り着いた。が、四辺は真っ暗がりで、何が何やらさっぱり判らず、鎖はと思って後を振り返って見たが、いつしかそれさえ消え失せていた。
暫時はただ絶望の吐息を漏らしていたものの、その中良い考えが少しずつ湧いて来た。つまり役にも立たぬ絶望の非を悟り、兎も角もここまでの救護に対して神に感謝する気持になったのである。
これで気分が幾らか落ち着くと共に、吾輩は再び起き上がってそろりそろりと前進を始めたが、踏み行く路がイヤに狭く、いつ足を踏み外して千尋の絶壁を転がり落つるかと寸刻の油断も出来なかった。
それでも道幅は先へ進むに連れて次第に広くなり、あまり苦労せずとも歩けるようになった。
「イヤ何事も強固な意思の力に限る」と吾輩は早くも得意になりかけた。「強固な意思さえあればどんな仕事でも成功する。大抵の人間なら、これ程の目に遭えばがっかりして匙(さじ)を投げたであろうが、憚(はばか)りながら吾輩はちと品質が違う。どんなものだい・・・」
そう思うと同時にふと爪先を軽石にぶっつけて足を踏み外し、ゴロゴロと絶壁を矢を射る如く転落し始めた。が、あまり遠くも行かない中に岩と岩との亀裂の中に頭部をグイと突き込んだ。
七転八倒の苦しみを閲(けみ)した後、やっとの思いで亀裂から脱け出して元の場所へ辿り着くは着いたが、それからは、幾らか前よりも清浄な気分になり、気をつけながら前進を続けた。その辺の道路はガラガラした焼け石ばかりの箇所もあれば、ギザギザした刃物の刃のような箇所もあり、そうかと思えば割合に平坦な歩き易い箇所もあった。
最後にある一つの洞穴の入り口に出たので吾輩は構わずその中に歩み行ったが、不思議なことには穴の内部の方が却って外部よりも明るい。こいつァ変だと思いながら一つの角を回ってみるとそこに待ち伏せしてた四人の奴が出し抜けに飛び掛って来て吾輩を殴り倒し、縄でグルグル巻きにしてしまった。
その際無論吾輩は全力を挙げて彼等と格闘を試みたのであるが、以前この境涯に居た時とは違って吾輩の力量がめっきり減っていたには驚いた。悪一方の時には地獄で大変幅が利くが、善性が加わるにつれて段々力が弱くなる。その代わり一歩一歩に上の方へ昇って行く。
今回はこれだけにしておきます。これでつまり吾輩はもう一度地獄の第三の境涯まで盛り返したのですが、前回は他人を虐めて大威張りであったに引き換え、今度はアベコベに他人から虐められる破目に陥ったのであります。
イヤ今日はこれで失礼します。これから学校へ行って授業を受けるのですが、学問という奴は馬鹿に難しいので吾輩大弱りです・・・。
二十. 地獄の図書館(上・下)
●地獄の図書館 上
1914年6月8日の夜陸軍士官の口から漏れた地獄の第三境の体験物語ですが、学問研究の美名にかくるる人間界の高尚な魔的行為のいかに憎むべきかが遺憾なく窺われます。これから続く二、三章は現代の読書子に取りてこよなき参考と考えられます。
早速前回の続きを物語ります。
吾輩を捕まえた四人の奴等は盛んに吾輩を殴りましたが、その言い草が振るっている――
「別に汝を殴りたい訳ではないが、こうして見せないと、どちらが強いか判らないからな・・・」
実を言うと吾輩も以前地獄に居た時にはこれと同じようなことをして来たのだ。で、あんまり口惜しいので一旦は一生懸命反抗してみたのであるが、どうも今度は勝手が違ってさっぱり思うように行かない。別に吾輩の意思が弱くなった訳ではないが、ただ悪事を働かそうとする意思がめっきり弱ったので、これでは喧嘩をするのに甚だ不利益に決まっている。しかし吾輩の為にはこれが却って薬なので、地獄で幅が利くような時代にとても救われる見込みはないに決まっている。
随分久しい間吾輩は四人の者から虐め抜かれたものだが、漸(ようや)くのことでちょっとの隙間を見つけて逃げ出した。後から四人が追跡して来たものの、悪事を働く意思の弱くなったと反比例に吾輩の逃げる意思が強くなったお蔭で、難なく彼等を置き去りにすることが出来た。
吾輩はそれから幾週間かに亙りて小石まじりの闇の野原をひた走りに走ったが、その間殆ど人っ子一人にも会わず、万一会った時には努めてこちらで避けて通ることにした。最後に吾輩は一個の大きな建物に突き当たった。段々調べてみるとそれは思いもよらず一の図書館であることが判った。吾輩はこう考えた――
「自分はどうにかしてこの地獄から脱出するつもりだが、それには今の中に出来るだけ地獄の内幕を調査しておいて、やがてそれを地上の学界に報告したいものである。それには図書館とは有り難い。全く注文通りの代物だ・・・」
少々薄気味は悪いが、思い切って建物の内部に入って見ることにした。と、入り口の所で忽ち人相の極度に悪い一人の老人にぶつかった。
「吾輩は図書館の内部を見せて頂きたいので・・・」仕方がないからそう吾輩から切り出した。
「見せてやるよ」と老人が答えた。「利口な者は皆ここへやって来る。一体地獄で有力者になろうと思えば、誰でもここへ来て勉強せんと駄目じゃ。人間界でもその通りじゃが・・・」
「全く御説の通りです――ところでお尋ねしますが、その図書館の蔵書は憎悪一方のものばかりですか? それとも他の科目、例えば愛欲ものなども混じっているのですか?」
「主に憎悪もの、残忍ものばかりじゃが、勿論愛欲ものも少しは混じっている――しかし純粋の愛欲ものを調べようと思えば愛欲の都市の付近に設けている同市専属の図書館に行かにゃならん。お前さんなども其処へ出掛けて行って、も少し勉強したがよかろう。損にはならんぜ・・・」
こんなことを喋りながら自分達は図書館の内部に歩み入ったが、それは途方もなく広大なもので、組織は三部門に分類されていた。即ち――
一、書籍部
二、思想学部
三、思想活動部 である。
書籍部には憎悪、残忍に関する一切の専門書が網羅されていた。例えば宗教裁判の記録、毒殺の手引書、拷問の史実並びに説明書と云ったようなものである。ただ其処に生体解剖等に関する医書が陳列されているので吾輩は不審を起こした。
「一体地獄に持って来る書物とそうでない書物との区別は何で決めるのです?」と吾輩は一冊の医書を抜き出して質問した。「例えばこの生体解剖書ですが、こりゃフランスで出版されたものです。この種の書物は全部地獄へ回されるのですか?」
「イヤそうは限らないよ」と老人が答えた。「地獄に来るのと来ないのとは、その書物の目的並びにそれに伴う影響によりて決まるのじゃよ」
●地獄の図書館 下
老人は鹿爪らしい顔をしてなお諄々(じゅんじゅん)と説明を続けた――
「一体著者の目的が真に社会同胞の安寧幸福を増進せんが為であるならたとえそれが生体解剖の書物であろうがそれは決して地獄には来ない。しかし多くの学者、なかんずく大陸の学者が生物を解剖するのは、解剖の苦痛がいかなる作用を生体に及ぼすかを調べてみたいという極めて不健全な好奇心から出発するのが多い。これは社会同胞に対して何らの公益もなく、又その種の書物の出版は徒(いたづら)に他人に同様の好奇心を促進させることになる。そんなものが地獄の所属となるべきは言うまでもあるまい。それから又、ある一部の科学者のやる実験じゃが、よしやその動機は善良であるにしても、その執るところの手段方法が愚劣を極むる場合が少なくない。そんなものを発表する書物も矢張り地獄の厄介になる。他人に迷惑をかけるだけの代物じゃからな・・・」
「そう致しますと、大概の生体解剖学者連が死んでから落ち着く場所はこの近傍ですな?」
「随分多勢の生体解剖学者がこちらへ来ているよ――が、お前さんが想像する程そんなに沢山でもない。生体解剖学者などという者は大抵は冷血動物に近いが、その中のかなり多数は純然たる学究肌で、少々眼のつけどころが狂っているという位のところである。で、彼等の欠点は暫く幽界で修業している中に大抵除かれるものじゃ。お前さんも知っとるじゃろうが、生前彼等の手にかかって殺された動物は幽界でその復讐をやる。そうすると大概の学者は、これではいかんと初めて眼が覚めて前非を後悔する・・・」
「何ぞ罪障消滅の方法でもありますか?」
「そりゃあるよ・・・。あの動物虐待防止会などという会がちょいちょい人間界に組織されたり何かするのはつまりその結果じゃよ。が、全体あの学問の為にという奴が随分曲者で、どれだけあの為に地獄が繁昌しているか知れたものじゃないな・・・」
「地獄では科学者達をどんな按配に取り扱っています?」
「そりゃ色々じゃよ。解剖学者などはこの図書館から遠くもない一つの病院に勤務している・・・」
「エッ病院・・・」と吾輩びっくりして叫んだ。
「そうじゃよ――もっとも地獄の病院という奴は患者の治療が目的で経営されているのではない。例の神聖な学問の研究が目的でな。イヒヒヒヒ。お前さんも一つ自分で出掛けて行って見物して見るがいい。若し自分の体を解剖されるのがさほど怖くないなら・・・イヒヒヒヒ」
会話はこんなところで一先ず切り上げておいて我々は図書館の第二部に進み入った。ここは色々の思想が悉く絵画の形で表現されているところで、その内容は勿論憎悪・残忍その他に関係しているものばかりであった。例えば人体に苦痛を与える為の精巧無比の器械類但しは霊魂や幽体の攻道具の図解等で、よくもこんな上手い工夫が出来たものだとほとほと感心させられるようなのがあった。
が、一番酷かったのは第三部で、拷問にかけらるる人物の苦悩の順序などが、事細やかに、例の活動写真式に眼前に展開されて行くのであった。
老人がこんなことを吾輩に説明した――
「他人を苦しめようと思えば、どんな方法を用いればどんな苦痛を起こすものかを学理的に知っておくことが必要じゃ。苦痛の原理を知らないでは、こちらに充分の意思が起こらんから従って先方に充分の効果を与え得ない。ここで調べておけば先ずその心配はなくなる・・・」
吾輩が見物した多くの絵画の中に人間の生体解剖の活動写真があったが、いかに何でもそいつは余りに気味が悪くて、とてもここで説明する気分にはなれない。
これ等を見物している中にさすがの吾輩も段々胸持が悪くなって来た。吾輩も随分無情冷酷な男で、時々酷い復讐手段も講じたものだが、しかし苦痛の為の苦痛を与えて快(こころよ)しとする程の残忍性はなかった。矢鱈に他を苦しめて嬉しがる――そんなイタズラは吾輩にも到底為し得ない・・・。
二十一. 地獄の病院(上・中・下)
●地獄の病院 上
暫くして吾輩は図書館を後に、ガランとした一つの荒野を横切ると、そこには果たして所謂地獄の病院が建っていた。図書館もかなり気味の良くない代物であったが、病院と来た日には尚更とてつもない所であった。兎に角門を潜って玄関口に入って見ると、広いことも馬鹿に広いが、汚いことも又古今無類であった。
「地上の病院とは少々勝手が違うな」と吾輩は考えた。「地上の病院はちと潔癖過ぎるが、こいつぁまるでそのあべこべだ」
汚い廊下を進んで行くと、図らずも一つの手術室に突き当たった。其処には一脚の手術台が置いてあって、その上に一人の男が横たわっていた。手や足がイヤにしっかり縛られているという以外には格別の異状も認めなかったが、やがて一人の医者が来て、その患者の中枢神経の一つに対して恐ろしく痛い手術を開始した。切開される患者の悲鳴、それを凝視する見物人の悦に入った顔付き――いかな吾輩にもそれを平気で見ている気がせぬので、こそこそ部屋を逃げ出して、今度は解剖室へ入って行った。
ここでは生きている男と、それから女とが解剖に附せられつつあった。一個の切り刻まれた体が放り出されると、そいつは再び原形に復する。原形に復したと見ると他の医者が再びそれを切り刻む。何回同じ惨酷事が繰り返されるか知れない。
ある一つの解剖台では、一人の婦人が若いお医者さんの手にかかって今しも解剖されつつあった。婦人の方では悲鳴を挙げて赦してくれと哀願するのでさすがの医者もちょっと躊躇いかけて再びメスを取り上げた。
見るに見兼ねて吾輩がそこへ歩み寄った――
「一体この婦人は何者で、又あなたはどういう訳でそんなにこの婦人を苦しめるのです? 何かあなたに対して恨みを買うような事でもしたのですかこの女が・・・」
若い医者はすまし切って冷淡に答えた――
「僕が何でこの女の身元などを知っているものですか! それを知りたいなら、あなた自身で勝手に女に訊いてみるがいい」
仕方がないから吾輩は婦人の方を向いて姓名を訊ねた。すると彼女は手術をちょっと待ってもらって吾輩の問に答えた――
「私ニニイて言いますの。元はパリの花柳界に居たのですがね、あるユダヤ人の囲い者にされて三年ばかりその男の世話になっていましたの」
「厭(いや)な奴だね、ユダヤ人などの世話になって・・・」
「私だって厭でしたわ。厭で厭でしようがないから時々口直しに役者買いなどをしたのですワ。ところがある日一人の若い俳優と密会している現場に踏み込まれ、骨の砕ける程ぶたれた上に家から叩き出されてしまったの・・・。
私旦那も怨んだけれど、意気地なしの情夫のことも恨みましたわ。だって、私の事をちっとも庇(かば)ってもくれないで、兎みたいに風をくらって逃げちまったんですもの。それで私は是非この二人に怨みを返してくれようと固く決心したのです。
そうする中に丁度うまい機会が回って来ました。私がその次の懇意になったのはアパッシ(市内無頼団)の団長で、ちょっと垢抜けのした紳士くさい好男子・・・。ずるくて、残忍で人を殺す位のことは何とも思っていないで、私の仕事を頼むのにはそりゃ全く誂(あつら)え向きの人物でした。私は早速ユダヤ人の話をして、あそこへ入れば金子は幾らでも奪えるとけしかけてやりました。
とうとうある晩ユダヤ人の家に押し込むことになって、私がその案内役を引き受けましたの。無論そのユダヤ人はこの上なしのしみったれで、家には泊まり込みの下男が一人と、他に通いの下女が一人雇ってあるだけです。
住居はパリの郊外の、辺鄙(へんぴ)な、くすぶったような所です。
団員の一人が先ずその下男というのをひっぱたいて気絶させておいて、それからどっとユダヤ人の寝室に飛び込んで、爺さんをグルグル巻きにして猿轡(さるぐつわ)をかませてしまいました」
「酷い事をしたものだね」と吾輩も感心して叫んだ。
●地獄の病院 中
「私の方では」と解剖台の女は言葉を続けた。「無論あのユダヤ人が所持金の殆ど全部を銀行に預けてあることをチャーンと承知しています。けど、元々復讐をしてやりたいのがこっちの腹ですからガストンにはそうは言いません・・・」
「ガストンて、君の情夫の名前かね?」
「当たり前だわ」と彼女は済ましたもので、「ガストンにはユダヤ人がどこかに金子を隠してあるように言い聞かせてあります。
「お前さん何を愚図愚図しているの! さっさと白状させておやんなさいよ!」そう私が言ってユダヤ人の眼の前で散々拳固を振り回して見せてやりましたの。
そうするとみんなが寄ってたかって猿轡(さるぐつわ)を外し、同時に一人の男が短刀をユダヤ人の喉元に突きつけました。
「コラッ早く金子の所在地を白状しろ!」とガストンが激しく叫びます。
「金子は残らず銀行に預けてあります。家にはホンの二百フランしかありません。下座敷のタンスの一番上の引き出しに入っています・・・」
とユダヤ人が本音を吐きます。
「この嘘つきめっ! 家の何処かに二万五千フラン隠してあるくせに!」と私が叫びます。
「これこれ、お前はニニイじゃないか?」とユダヤ人がびっくりする。
「当たり前さ」と私が答える。「今夜はいつかの仇を取りに来たのだからね、愚図愚図言わないで早く金子を吐き出しておしまいよ。そうしないと後で後悔することが出来るよ」
「と・・・とんでもない奴に見込まれた・・・」
ユダヤ人の爺さん、何やらくどくど文句を並べかけたので、私はいきなり、爪先で先方の顔をガリッと引っかいて、
「済まなかったわネ」
と言ってやりましたの。痛がってユダヤ人が喚き立てようとしましたので、ガストンが早速又その口を猿轡で塞いじまいました。
「どうもべらぼうに暇潰しをしちゃった」とガストンが言いました。「その炭火をここへ持って来い!」
仲間の数人と私とで爺さんを捕まえて、爺さんの素足を炭火の中にくべると、他の二、三人がしきりにそれを吹き起こす・・・間もなく炭火は紫の火焔を立ててポッポと燃え出して来ました。爺さん苦し紛れに一生懸命体を捩(よじ)りましたが、勿論声は出はしません。
そうするとガストンが、「ここいらでもう一度吟味するかな」
と言いますから、両足を火の中から引っ張り出してやりましたが、両足共こんがりと狐色に焦げていましたわ。口から猿轡を外しておいてガストンが叫びました――
「金子を出せ! 早くせんと許さんぞ!」
爺さん蚊の鳴くような声で、
「金子が若しここに置いてあるなら直ぐに出します。金子さえあったら、こ・・・こんな酷い目にも遭わずに済んだであろうに・・・か・・・堪忍しておくれ・・・」
しかしガストンはそれを聞いてますますむかっ腹を立て、手荒く猿轡を爺さんにかませておいて、
「こいつの言うことは本当かしら・・・」と私に訊くのです。
「嘘ですよ!」と私が叫ぶ。
「そんならもう一度火にくべろ!」
再び火炙りの刑が始まりました。が、俄(にわ)かに見張りの男が室内に駆け込んで来てけたたましく叫び立てる――
「早く早く! 警察から手が回った!」
さぁ大変だというので、一人は扉を開けて逃げる。一人は窓から跳び出す。一人は雨筒をつたって降りる――けど私はガストンの腕を押さえて言いましたの――
「馬鹿だねお前さんは! こんなものを生かしておくと直ぐ犯人が判るじゃないの!」
「全くだ!」
そう言ってガストンは振り返ってユダヤ人の喉笛をただ一刀にひっ切りました。
私達はその場は首尾よく逃げ延びましたが、それから間もなくガストンはある晩酔った弾みに私のことをナイフで刺し殺したんです。それから段々順序を踏んで、御覧の通り只今はこんな所でこんな酷い目に遭わされているのでございますの・・・」
●地獄の病院 下
この長物語を聞いて吾輩はニニイに向かって訊ねた――
「君は、ユダヤ人の事をあんな酷い目に遭わせて気の毒には思わんかね?」
「気の毒? 何が気の毒なものですか! あれ位の事をしてやるのは当たり前だわ――しかし何ぼ何でもこの解剖室に置かれるのはまっぴらですわ」
吾輩は今度は若い医者に向かって言った。
「それにしてもあなたはこの女を苦しめて何が愉快なのです? そりゃこの女は今は随分醜いことは醜い。犯した罪悪の為にさっぱり器量が駄目になっている――しかしこれでも矢張り女です。個人として何もあなたに損害を与えた訳ではないじゃありませんか。なぜこんな酷い目に遭わせるのです?」
「それでは」と医者が答えた。「この女の代わりに君を解剖してあげるかな」
「吾輩は御免被る! それにしても君は解剖するのが愉快なのかね?」
「愉快なのかって? ちっとも愉快じゃないさ。そりゃ最初は他人の苦しがるのを見ると一種の悪魔的快感を感ぜぬではなかった。自分が詰まらない時に他人を詰まらなくしてやるのは何となく気が晴れるものでね・・・。しかし、暫くやっているとそんな虚偽の楽しみは段々厭(いや)になる。現在の我々は格別面白くも可笑しくもなく、ただ器械的に解剖をやっている。自分の手にかける犠牲者に対して可哀相だの、気の毒だのという観念は少しも起こらない。我々は死ぬるずっと以前から、そんなしゃれた感情を振り落としてしまっている。のみならずここに居る者で憐憫に値する者は一人もいない。何れも皆我々同様残忍性を帯びた者ばかりだ。兎に角地獄という所は何をしてみても甚だ面白くない空虚な所だ。ここでは時間の潰し様が全くない。イヤ時間そのものさえも無いのだから始末に行けない・・・」
そう言い終って、彼はプイとあちらを向いて、グザと解剖刀をば婦人の胸部に突き立てた。
吾輩は思わず顔を背けその部屋から出ようとすると、忽ち三、四人の学者共が吾輩を捕まえた。
「今逃げ出した奴の代わりにこいつで間に合わせておこうじゃないか」
そう彼等の一人が叫ぶのである。
「冗談言っちゃ困る!」
吾輩は怒鳴りながら命懸けで反抗してみたが、とうとう無理矢理に解剖台の上に引き摺り上げられ、しっかりと紐で括り付けられてしまった。それから解剖刀で体の所々方々を抉り回されたその痛さ! イヤとてもお話の限りではありません。
が、そうされながらも吾輩は油断なく逃げ出すべき機会を狙いつめていた。
間もなくその機会が到来した。二人の医者の間に何かの事から喧嘩が開始された。天の与えと吾輩は台から跳び下り、一心不乱に神様に祈願しながら玄関さして駆け出した。
一人二人は吾輩を引き止めにかかったが、こんな事件はここではしょっちゅうありがちの事と見えて、多くは素知らぬ風を装って手出しをしない。とうとう吾輩は戸外へ駆け出し、それから又も荒涼たる原野を生命限り根限り逃げることになった。
が、暫くしても、別に追っ手のかかる模様も見えないので、やがて歩調を緩め、病院に於ける吾輩の経験を回想して見ることにした。
吾輩が当時痛感したことの一つは、地獄の住民が甚だしく共同性、団結性に欠けていることであった。暫しの間は仲良くしていても、それが決して永続しない。例えば吾輩の逃げ出した際などでも、若し医者達が、どこまでも一致して吾輩を捕まえにかかったなら到底逃げおうせる望みはないのである。ところが一旦逃げられると、そんなことはすっかり忘れてしまって、やがて相互の間に喧嘩を始める。現に吾輩が病院に居る間にも一人の医者がその同僚から捕まえられて解剖台に載せられていた。
ある一つの目的に向かって義勇的に協同一致する観念の絶無なこと――これは確かに地獄の特色の一つである。
イヤ今日の話はこれで一段落としておきます。左様なら――
語り終わって陸軍士官は室外に歩み出ましたので、ワード氏も叔父さんに暇乞いをして地上の肉体に戻ることになったのでした。
二十二. 救いの曙光
この章の前半は1914年6月13日に出た自動書記、又後半は同22日の夜の霊界訪問の記事であります。心の光と闇との深刻な意義がよくよくここに味わわれます。
さて吾輩は病院で酷い目に遭わされてから、ますますこんな境涯から早く脱出したくてしようがなくなった。そこで吾輩はごろ石だらけの地面に跪いて一心不乱に祈祷を捧げた。と、最後に救いの綱がようやくかかったが、しかしその手続きは全然自分の予想とは違っていた。
吾輩が最初に認めたのは一点の光・・・。然り、それは正真正銘の真の神の御光であった。あのイヤに赤黒い、毒々しい地獄の火とはまるきり種類の違った、白い、涼しい、冴え渡った天上の光なのであった。その懐かしい光が次第次第に自分の方に近付いて来る・・・。
ふと気が付いて見ると、それはただの光ではなく、一人の人の体から放散される光明であることが判った。こりゃきっと天使だ――そう思うと同時に思わず両手を前方に突き出して、心からの祈祷を捧げた。
が、天使の姿が歩一歩自分に接近する毎に自分は激しい疼痛(とうつう)を感じて来た。清き光がキューッとばかり吾輩の魂の内部まで突き透る・・・。とても痛くてたまらない。とうとう吾輩は我を忘れて悲鳴を挙げた――
「待・・・待ってください! 熱ッ! 熱ッ!」
するとたちまち銀のラッパの音に似た朗々たる言葉が響いて来た――
「汝の切なる願いを容れ、福音を伝えん為に出て参った者じゃ。全ての進歩には苦痛が伴う。汝とてもその通り、汝の魂を包める罪悪の汚れを焼き払う為の苦しみを逃れることは出来ぬ。地獄に留まる時は永久の苦悩、これに反して天使の後に従う時は一時の苦悩、そして一歩一歩向上の道を辿りて、やがては永遠の光の世界に出抜けることが出来る・・・」
「お伴をさせて頂きます」と吾輩は嬉し涙に咽(むせ)んだ。「近頃の私は痛い目には慣れっこになっております。どうぞ御導きください。私の身に及ぶ限りの事は何なりともいたします・・・」
「宜しい導いてつかわす。離れたままで余の後について来るがよい。光は闇を照らす。されど闇は光を包み得ない・・・」
吾輩は遠く離れて光の所有者の後に従った。途(みち)は段々爪先上がりになって、石だらけの山腹を上へ上へと上り詰めると遂に一草一木の影もなき山頂に達した。山の彼方を見れば、其処には渺茫(びょうぼう)たる一大沼沢(しょうたく)が横たわり、その中央部を横断して、所々途切れがちに細い細い一筋の路が見え隠れに延びている。四辺には濃霧が立ち込め、ただ件の道路の上が多少晴れ上がっているばかり・・・。
光の主はこの心許なき通路をば先へ先へと進んで行った。吾輩はその身辺から放射する光の痛さに耐えかねて、ずっと後れて行くのであるが、しかしそのお蔭で足元だけははっきり照らされるのであった。
と、俄(にわ)かに闇の中から凶悪無惨な大怪物が朦朧と現れ出でた。「こいつは憎悪の化現だな」――吾輩は本能的にそう直感したのであるが、そいつが我々の通路を遮って叫んだ――
「一度地獄の門を潜った者が逃げ出すことは相成らぬ。元来た道へ引き返せっ! それをしないと沼の中へ投げ込むぞ!」
けれども光の主は落ち着き払ってこれに答えた――
「妨げすな。汝はこのしるしが判らぬか!」
そう言って片手に高く十字架を掲げた。すると悪魔はジリジリと後ずさって、とうとう道路から追い立てられ、沼の上をあちこちうろつき回った。
が、光の主が通り過ぎたと見ると、怪物はたちまち吾輩の方向に突進して来て我々二人の連絡を断ち切った。
恐怖のあまり吾輩は後ろを向いて逃げ出したが、光の主が引き返して来たので、怪物は又もや沼の上へと逃げ去った。
その時吾輩は初めて光の主から自分の手を握られたが、イヤその時の痛かったこと! まるで活きている火の凝塊みたいに感ぜられた。そのくせ後で調べてみると、この光の主というのは霊界の上層からわざわざ地獄に降りて来て救済事業に従事している殊勝な人間の霊魂に過ぎないのであった。
が、暫く過ぎると吾輩の体から邪悪分子が次第に燃え尽くし、それと同時に痛みが少しずつ和らいで行った。
とうとう無事に沼沢の境を通り過ぎ、とある一大都市の門前に出た。
「これが所謂愛欲の市じゃ」と吾輩の案内者が説明してくれた。「地獄に堕ちて愛欲の奴隷となっている者は悉くここに集まっている。金銭欲、飲食欲、性欲、そんなものがこの市で幅を利かせている。汝はこの都市を通過して一切の誘惑に打ち勝たねばならぬ。若しそれに負けるが最後、汝は少なくとも暫しの間この境涯に留まらねばならぬ。これに反して若しも首尾よく誘惑に打ち勝てばすらすらと上の境涯に昇り得る。但し上の境涯に昇るにつけては、自分だけでは済まない。他に誰かを一人助け出すべき義務がある――イヤ余はここで汝と別れる。憎悪の市から人を救うだけが余の任務なのじゃ・・・」
二十三. 愛欲の市(上・下)
●愛欲の市 上
吾輩は自分を救ってくれた恩人と別れて、思い切って愛欲の市の城門を潜ると、其処には一人の女が、薄気味悪い面相の門番を捕まえてふざけ散らしていた。その女も無論碌な器量の持ち主ではない。元はこれでも美しかったのかも知れないが、今では悪徳の皺が深く深く刻み込まれているので、一目見てもゾッとする程であった。
それから暫く市内を歩いてみたが、頓と要領を得られないので、吾輩はギリシャ風の服装をしている一人の男に行き会ったのを幸い、呼び止めて質問を開始した――
「もしもしこれは何という市です?」
彼は怪訝な顔をして吾輩を見つめていたが、やがて答えた――
「一体お前さんは何処から来なすった? いかなる野蛮人でもコリンスを知らない者があろうかい! あの有名なコリンス湾も其処に見えてるじゃないか!」
そう言って彼は薄汚いドブ池みたいなものを指さすのであった。
吾輩はこれを聞いて呆れ返ってしまった――
「君達はあんなドブみたいなものを風光明媚なコリンス湾と見立てて歓んでいるのかね? 冗談じゃない・・・」
「そう云えばホンにちとさっぱりしていないようだね、理屈はちっとも判らないが・・・。近頃は天気などもどうも何時もどんよりしている・・・」
「オイオイいい加減に止してくれ。ここは地獄だ。地獄だからこんなに汚らしい・・・」
「デタラメを言ってくれては困るよ」と相手の男は吾輩の言葉を遮って叫んだ。「我々が不老長寿の秘伝を発見したものだから神々がお腹立てになってこんなにこの市を汚くしたのだ。お前さんは知るまいが、我々は何時まで経っても死にっこなしだ。ワシなどは何千年生きているのかとても勘定などは出来はしない。が、あんまり長生きも考えもので、死ねるものなら死んでみたいような気にも時々はなるよ。いつもいつも同一事ばかり繰り返していると面白みがさっぱりないからな・・・」
吾輩は先刻恩人から聞かされたことを思い出して、
「それほど嫌なら何故ここから逃げ出さないのです? 吾輩と一緒にもっと気持のよい境涯へ行こうじゃないか?」
「ウフフフフ」と彼は笑い出した。「お前さんは余程の田舎者だね。さもなけりゃそんな馬鹿げた考えを起こす筈がない。此処を出るが最後生命が亡くなる。世の中は矢張り生命あっての物種だ。ワシだって本当はまだ死にたくはない・・・」
「でも君はもうとっくに死んでいるじゃないか! 一遍死ねば二度と死ぬる心配はない」
「死んでいるものがどうしてこう生きていられるかい。馬鹿馬鹿しい! お前さんは狂人だね。黙っていないとみんなから石でもぶっつけられるぜ・・・」
そう言って彼はプイと行ってしまった。仕方がないから吾輩は独りで往来をブラブラ歩いて行ったが、この辺の建物の大半は朽廃してしまって不潔を極め、元の面影などはさっぱり残っていない。生前吾輩もしばしば廃墟のようなものを目撃したことがあるが、地獄の廃墟は一種それと趣を異にせるところがあった。何処やら妙にむさ苦しく、頽廃気分が濃厚で、画趣風韻と云ったようなものが微塵もない。例えば場末の大名邸を改造して地獄宿か酩酒屋でも開業したと云った按配式なのである。
吾輩がこんな感想に耽っている間に、それまでガランとして人っ子一人通らなかった街路がにわかに飲んだくれの浮かれ男女で一杯になって来た。そいつらがわっしょいわっしょいこっちへ押し寄せて来て、いつの間にやら吾輩もその中に巻き込まれてしまった。
オヤッと驚く間もなく、二人の女が左右から吾輩の首玉にしがみつくと、一人の男がいきなりコップを突きつけて葡萄酒らしいものを並々と注いで口元にもって来た。何しろこんな御親切は当時の吾輩に取りて真に所謂空谷の響音、久しい間ただ辛い思い、苦しいことのやり続けで、酒と女とには渇き切っている最中なのだから、無論悪い気持のしような筈がない。とうとう勧めらるるままに一杯振る舞い酒を飲んでしまった。
すると忽ち四辺にはどっと歓呼喝采の声が破裂した――
「やぁ飲んだ飲んだ! 仲間が一人殖えたぞ殖えたぞ!」
飲んだ酒は無論美味くも何ともない。酸っぱいような、苦いような、随分ヘンテコな味である。そして飲めば飲む程ますます渇を覚える。吾輩はヤケクソになって矢鱈にそれを飲んだが、さっぱり陶然として酔った気持にはなれなかった。ただ酔ったつもりになって滅茶苦茶に騒ぎ散らすだけのことであった。それから続いて起こった馬鹿馬鹿しいその場の光景、これは到底お話するがものはない。ただ想像に任せておきます・・・。
●愛欲の市 下
言うまでもなく境涯の主なる仕事は酒と女であって、必ずしも残忍性を帯びてはしない。無論稀には残忍な行為も混じる。色情の結果しばしば喧嘩などもしかねない。しかし余りに惨酷な行為をやると、治安妨害者としてコリンス市から放逐されて憎悪の市へと送り届けられる。無論一度や二度の突発的な喧嘩位では追放処分にならないが、それが段々常習性を帯びて来ると、快楽主義の市民は決してそれを黙過しなくなる。
コリンス市で奨励されることは暴飲、暴食、利欲並びに淫欲――なかんずく淫欲はその中の花形で、ありとあらゆる形式の不倫行為が極度に奨励されるのである。
コリンス市の女という女はみな売春婦の類で、いかなる娯楽機関もその中心は皆女である。が、吾輩はここいらで黒幕を引くとしよう。言わずにおくところは想像してもらいたい。ただ一言ここに断っておきたいことは、我々が何をやっても頓と満足を得られぬことである。燃ゆるような欲望はありながら、それを満足すべき方法は絶対に無い。
兎に角吾輩は一時コリンス市の風潮にすっかり被れてしまった。それは幾らか恩人の忠告を忘れた故ではあるものの、主として吾輩に好きな下地があったからである。こんな生活は甚だ下らないものには相違ないが、しかし地獄の底の方で体験した恐怖の後では中々棄て難い趣があったのである。
その後段々調査を遂げてみると、地獄にはこのコリンス市の外にも愛欲専門の市は沢山あった。吾輩が実地探検しただけでも、パリみたいな所、ロンドンみたいな所は確かにあった。無論コリンスといい、又その他の市といい、愛欲のみが決してその全部ではない。色々の所が切れ切れになって地獄の他の部分、又は霊界のずっと上層に出現しているのである。
暫くふらついてから吾輩はロンドンの一部らしい所へ迷い込んだ。其処には種々の盗人共が巣を食っていて、お互いに物品の盗みっくらをしていたが、不思議なことには隣人の物品を盗み取ることに成功すると、その物品は忽ち塵芥に化するのである。こんなところを見るにつけても吾輩はしみじみこの空虚な世界が嫌になって来た。ここでは何をやっても真の満足を得ることがなく、真の人生の目的らしいものはまるきり影も形もない。
が、地獄の中で初めてこの境涯から教会らしいものの設備がある。その司会者というのは地上に居た時分に怪しげな一つの宗派を起こした男で、最初の内は中々上手に愚民をたぶらかし、散々うまい露を吸ったものだが、やがてその陋劣(ろうれつ)な目的と邪淫の行為とが次第に世間に広まりホンの少数の有り難連を残してさっぱり無勢力になったという経歴の男なのであった。
死後この境涯に置かれてから、彼は生前と同一筆法を用い、コケ脅しの詭弁や人騒がせの予言をもって人気取策を講じ、盗人、山師、泡沫会社の製造人、その他色々の無頼漢などを糾合することに成功した。それ等の中には吾輩の昔の知人なども混じっていて大変吾輩の来たことを歓迎してくれた――イヤしかしその教会の説教と云ったら実にヘンテコなまがい物で、神を汚し、神を傷付けるようなことばかり、そのくせ、説教者自身は故意にそうしようとするのではなく、自分ではせいぜい正しい事を述べるつもりであるのだが、やっている中にいつしか脱線するらしいのであった。その教会で歌っている賛美歌などときては実に猥褻極まる俗謡に過ぎなかった。
聞くにつけ、見るにつけ、吾輩はますますこの境涯に愛想を尽かしてしまって、一時も早くこんな所から逃げ出したくてしようがなくなった。そうする中に、ある日吾輩がパリの広場を通行していると、沢山の群衆が一人の人物を取り囲んで盛んに悪罵嘲笑を浴びせているのを見出した。よくよく見ると右の人物は体から後光が射して、確かに天使の一人に相違ない。で、吾輩は嘲り笑う群衆の中に混じってその説教に耳を傾けた。彼は熱心に神の恩沢を説き、かかる邪悪な、そして空虚な生活の詰まらないこと、一時も早く悔い改めて、この暗黒界を脱出し、光明の世界を求めねばならぬことを説明した。
するとこの時群衆の中から怒鳴り出した者があった――
「馬鹿なことをぬかしやがれ、この嘘つき坊主めっ! 俺達は嘘つきの玄人だい。汝達に騙くらかされてたまるかい。汝が講釈(こうしゃく)を叩いているキリスト教では、一旦地獄に堕ちた者は永久に救われないと教えているじゃないか。今更悔い改めたところで間に合うものかい! 下らないことをぬかしやがるな!」
すると又他の一人が叫んだ――
「汝はこの辺にいる他の坊主共より看板が一枚上だ。汝の姿は天使みたいだが、こいつぁ俺達からお賽銭を巻き上げる魂胆に相違ない。つい先達も一人の奴が出て来やがって、金子を出しぁ救いの綱がかかるなどとお座なりを並べ、馬鹿者から散々大金を絞り上げておいて姿をくらましやがった。ヤイ汝達の手にはもう乗らないわい・・・」
この男の言っているところは事実には相違なかった。吾輩も実際そんな詐欺師に会ったことがある。が、偽物と本物との区別は吾輩には一目見ればよく判った。ここにあるのは正真正銘の天使に相違ないので、吾輩は群衆の四散するのを待って早速その傍に歩み寄った。
二十四. 新たなる救いの綱(上・下)
●新たなる救いの綱 上
「私にはあなた様が真の天使であらせらるることがよく判ります」と吾輩は言いかけた。「ついてはここから連れ出して頂けますまいか? もうもうウンザリです、こんな境涯は・・・」
「真心からそう思うなら救ってあげぬではないが・・・」
「勿論真心からでございます!」
「それならあなたはここに跪いて神様に祈祷なさるがよかろう。祈祷の文句を忘れているといけないから私が一緒についてあげる・・・」
吾輩は辺りを見回すと、広場にはいつしか又沢山の人だかりなのでちょっときまりが悪かった。が、又思い返して言われるままに地に跪き、天使の後について祈祷を捧げた。
それが済むと天使は叫んだ――
「それでよい。さぁ一緒に出かけましょう。今後他から何と誘惑されても決してそれに惑わされてはいけませんぞ」
我々は急いで市を通過したが、途中で多少の妨害に遭わぬではなかった。我々が街端に来た時である、二人の男が矢庭に前面に立ち塞がって叫んだ――
「これこれ汝達は一体何処へ逃げ出すつもりだ?」
「そなた方の知ったことではない」と天使は凛々たる声で、「そなたはそなた、こちらはこちら・・・」
「ところがそうは行かない」と先方が叫んだ。「それを調べるのが俺達の仕事だ。汝みたいな性質の良くない代物がちょいちょい俺達の仲間を誘拐して困るのだ。汝達の囈言(れご=うわごと)然たる説教にはもうウンザリした。余計な世話は焼かないで、その男を俺達の手に渡してしまえ。そうしないと後悔することが出来るぞ」
吾輩の保護者は片手を高く頭上に差し上げて厳然として叫んだ――
「邪魔すな! 汝呪われたる亡者ども!」
すると二人は精一杯の大声で叫び出した――
「間諜(かんちょう=スパイ)だ――! みんなここへ集まって来い!」
瞬く間に群衆が八方から馳せ集まって威嚇的の態度を執り出した。
が、私の保護者はきっと身構えて、片手を差し上げながら精神を込めて言い放った――
「邪魔すな! 最高の神の御名に於いて去れ!」
そして何の恐れる気色もなくヅカヅカ前進されるので吾輩もその後に続いた。群衆はなだれを打って後ずさった。口だけには強がり文句を並べているが、手出しをする者は一人もいない。強烈なる意思の前には反抗する力は失せてしまうものらしい。
が、いよいよ大丈夫といささか気を緩めた瞬間に、一人の女が群衆の中からいきなり飛び出して来て、吾輩の首玉にしがみついた。見ればそいつは生前吾輩が堕落させた女で、飽くまで吾輩を自分のものにする気らしいのである。さすがの吾輩もこれには大いにへこたれていると、天使が近付いて女の両腕をQdまえて首からもぎ離してくれたので、女は悲鳴を挙げて群衆の裡(うち)へと逃げ込んだ。
入れ代わって今度は最初の二人が吾輩の喉笛へ飛びついて来た。今度は吾輩も大いに勇気を鼓舞してそいつ達を地面に投げつけたが、起き上がって又飛びつく。持てあましているところへ、又も天使の助け船・・・。天使の方では先方の腕に軽くちょっと指で触れるだけであるが、触れられた箇所がたちまち火傷みたいに腫れ上がるのだから堪らない。キーキー叫んで逃げてしまう。
それっきり乱民共は遠く逃げ去って近寄らなくなったので、我々は無事にその場を通過した。間もなく差し掛かったのはだだっ広い田舎道・・・。もっとも田舎道と云ったところで、木もなければ草もなく、花もなければ鳥もいないガラン堂の小砂利原、ただ家がないのが田舎くさいというだけで、田舎らしい気分は少しもなき殺風景極まる地方なのである。暫く其処を辿って行くと、遙かの彼方に星の光のようなものが微かに見え出した。
吾輩がびっくりして訊ねた――
「ありゃどなたか他の天使なのでございますか?」
「そうではない」と天使が答えた。「あれは救済の為に地獄に往来する天使達の休憩所から漏れる光で、我々は今彼処(かしこ)を指して行くのじゃ。暫く彼処で休憩して力をつけておけば、地獄の残る部分が楽に通過されるであろう。彼処が下の境涯と上の境涯との境目なのじゃ」
●新たなる救いの綱 下
次第次第に右の光は強さを加え、自分達の足元がほのぼのと明るくなって来た。辿り行く道は甚だ狭いが、大変によく人の足で踏みならされていた。
「誰がこんなにこの道を踏みつけたのです?」と吾輩が訊いた。
「これは地獄に堕ちている霊魂達を救い出すべく、あちこち往来する天使達が踏みつけたのじゃ。実は地上の暦で数え尽くせぬ永い歳月、天使達は救済の為にここまで降りて来ている。キリストの地上に現れるずっと以前から引き続いての骨折りじゃがな・・・」
「そうしますと死後の世界は耶蘇(やそ)期限の開ける前からこんな組織になっていたのでございますか?」
「そうじゃとも。が、その時分には地獄に堕ちる霊魂の数が現在よりも遙かに多数であった。大体に於いて人間が死ぬる時に無智であればあるほど、その人の精神的方面が発達していない。精神的方面が発達していなければいない程その人の幽界生活は永引き、そして兎角地獄に堕ち易い傾きがある。しかし人類発達の歴史に於いて、智的方面の進歩が、ともすれば精神的方面の進歩を阻害するような場合も起らんではない。そんな際には早晩文化の頽廃(たいはい)を来たす虞がある。
例えばギリシャ、ローマの文明がそれじゃった。あの時代には理性が勝ち過ぎて精神方面の発達がそれに伴わなかった。故にその頃の地獄には神を信ぜず、来世を信ぜざる人間の霊魂が充満していた。その古代文明が没落すると共に、一時文運の進歩は遅れたる観があった。が、しかし西欧の人士はその間に於いて却って精神方面の発達を遂げることが出来た。事によると同様の災厄がもう一度人類を襲うべき必要に迫られているかも知れぬと思う――が、神は飽くまでも慈悲の眼を垂れ玉い、又我々とても霊界から新たなる心霊の光を人心の奥に植えつけるべく努め、あんな災厄の再び降らぬように力を尽くしている。
人類の初期、所謂原始時代にありては、殆ど一切の死者の霊魂の落ち着く先は幽界と地獄とに限っていたものである。それは精神的に発達した者が少なかった為である」
「それは少々不公平ではないでしょうか?」と吾輩が言葉を挟んだ。「無智な者が無智であるのは当然ではないでしょうか?」
「イヤ決して不公平ではない。それはただ大自然の法則の発露に過ぎない。一生の間ただ戦闘その他の残忍な仕事に従事していた者は、死後に於いても長い期間に亙りて同様の行動を執るに決まっている。死んで余程の歳月を経過せねば中々翻然として昨非を悟るというところまで進み得るものではない。
死後の霊魂に取りて最大の誘惑は憑依作用である。よくこの誘惑に堪え得た者は、恐らく幽界生活中に次第に心霊の発達を遂げ、やがて霊界に向かって向上の進路を辿るであろう。ところが原始民族というものは兎角死後人体に憑依したがる傾向が甚だ強い。その当然の結果として地獄に堕ちる」
「そういたしますと、人間は生前の行為によりて裁かれるのですか? それとも又死後の行動によりて行先地を決められるのですか?」
「それは一概にも行かぬであろう。老齢に達してから死ぬ者はその幽体が消耗しているので幽界生活を送るべき余裕がない。従って生前の罪によりて地獄の何処かへ送られる。青年時代若しくは中年時代に死ぬる者は、これに反してその幽体がまだ消耗せずにいるのみならず、同時にその性格も充分発達し切っておらぬ。地上に出現して憑依現象を起すのは多くはこの種の霊魂で、つまりそうすることによりて生前し足りなかった自分の欲望を満足しようとするのである。憑依現象中でこの種のものが一番性質が良くない」
「イヤお蔭様でよく判りました」と吾輩が叫んだ。「私などは酒と色と、それから復讐心との為に、生きている人間の体によく憑依したものですが、最後のヤツが一番罪が深く、そのお蔭で私は地獄のドン底まで堕とされてしまいました・・・」
「全くその通りじゃ―― 一体ある人間の生活状態と、死後その者の犯し易い罪悪との間には中々密接な関係が或る。淫欲の盛んな者が死後に於いて人間に憑依するのは、主にその淫欲の満足を求むる為で、従ってそんな人物は最後に地獄の邪淫境に送られる――おおいつの間にやらもう休憩所へ着いている・・・」
そう言われて見ると、成る程我々の直ぐ面前には質素な、しかし頑丈な一つの建物があった。入り口の扉は極めて狭く、窓はただの一つも付いていない。ただ扉の上にちっぽけな口が開いていて、遠方から我々を導いてくれた光明はつまりそこから放射されていたのであった。
天使がコツコツ扉を叩いて案内を求めると同時に内部から扉が開いて、それからパッと迸(ほとばし)り出づる光の洪水! 天使は吾輩の手を執って引っ張り込んでくれたらしかったが、吾輩は眼がすっかり眩んでしまっているので何が何やら周囲の状況が少しも判らなかった。ただ背後で扉の閉まる音がドシンと響いただけであった。
二十五. 出直し
1914年6月29日の夜、ワード氏は地界から一気呵成に霊界に飛躍し、其処で叔父さんと陸軍士官とに会いました。例によって陸軍士官は地獄巡りの話の続きを始めました――
吾輩はあの休憩所で何をして暮らしていたか、余りはっきりした記憶がありません。何せ光が馬鹿に強いので、其処に居た間殆ど盲人も同様でした。が、そのお蔭で幾らか心の安息を得た。地獄の他の建物と違って、あそこに入っていると妙に平和と希望とが胸に湧き出るのです。
あそこでは又、誰だか知りませんが、ひっきりなしに吾輩に向かって心を慰めるような結構な談話をして力をつけてくれる者があった。お蔭で、すさみ切った吾輩の精神も次第に落ち着いてくると同時に、何とも言えぬ気持のよい讃美歌――従来地獄で聞かされた調子外れのガラクタ音楽とはまるで種類の違った本物の賛美歌が、吾輩の心の塵を洗い落としてくれたのであった。
最後に吾輩を案内してくれた天使がこう言われるのであった――
「あなたの身も心ももう大変回復しかけて来たから、もう一度下の邪淫境に立ち戻って仲間の一人を説得してこちらへ連れて来ねばなりません。そうすればあなたが前年突き放した大事の御方に会われることになる・・・」
この逆戻りが規則であってみれば致し方ない。吾輩は再びあの邪淫の市に下って行ったのであるが、お恥ずかしい話だが、こんなイヤに明るい休憩所に居るよりか、暗い邪淫境の方が当時の吾輩にはよっぽど気持よく感ぜられたのであった。
が、あちらへ行っていざ自分の味方を一人見つけようとしてみると、その困難なるには今更ながら驚かされた。散々捜し回った後で、やっと地獄の生活に嫌気が差して来た一人の女に巡り合った。
「なぜあなたはこんな境涯から逃げ出そうとはなさらないのです?」と吾輩は彼女を口説き始めた。「あなたの様子を見るに確かにここの生活が嫌になっている。ここにはただの一つも真の快感というものがない。いずれも皆空虚な影法師である。いかに淫事に耽ってみたところでそれで何物が得られます?――一時も早くこんな下らない境涯から脱出してもっと気のきいた所へ行こうではありませんか! 吾輩が案内役を務めますから、あなたは後から付いてお出でなさい。道連れがあったらそんなに心細いこともないでしょう」
「でもねぇ、そんなことをして何の役に立ちますの?」と彼女は中々吾輩の言葉に従おうとはしない。「あなたも御存じの通りここは地獄でしょう。地獄の蟲(むし)は永久に死ぬることなく地獄の火は永久に消ゆることなしと言うじゃありませんか。無駄ですから止めましょうよ・・・」
「地獄の火が消えようが消えまいが我々がここから脱出出来ないという方はない・・・」
「でもねぇ、私達は永久に呪われた身の上じゃございませんか。生きている時分に私達は死後の世界のあることを夢にも思わず、地獄のあることなどは尚更存じませんでしたわ。兎角浮世は太く短く・・・。そんなことばかり考えていましたわ。今になってはその間違いがよく判りました。矢張り正しい道を踏んでいればよかったと思われてなりません。死んで全てが消え失せてしまうなら結構でございます。が、中々そうじゃないのですもの・・・。矢張りお説教で聞かされた通り、ちゃんと地獄がこの通り立派にあって、其処へ自分が入れられているのですもの・・・。しかし何も彼ももう駄目です。今更死にたいだって死なれはしません」
「イヤ地獄があることはそりゃ事実に相違ないが」と吾輩躍起となって説いた。「坊さん達の言うように、それが決して永久なものでも何でもない。イヤ地獄そのものは永久に存在するかも知れないが、何人も永久にその中に留まる必要はない。吾輩が何よりの証人です。今こそ吾輩こんな所に来ているが、その以前には地獄のずっと低い境涯へ堕ちていたのです。一旦地獄の底まで降りた者が、ここまで登って来たのだから確かなものです」
「マアそれなら地獄の中にも他に色々変わった所がありますの? 私そんなことちっとも知らなかったわ」
「ある段じゃないです。下にもあれば上にもある。これから大いに上に登って行くのです」
彼女はじっと吾輩を見つめながら、
「どうもあなたの仰ることは事実らしいわ。しかし随分不思議な話ね・・・」
「まあいいから一緒にお出でなさい」
「お伴しましょうか。しくじったところで目先の変わるだけが儲けものだわ。こう毎日同一事ばかり繰り返しているのでは気が滅入ってしようがありゃしない・・・」
二十六. 地獄の新聞紙
我々二人は連れ立って、成るべく目立たぬように市を通過した。折々呑んだ暮れ連が酒亭から街路へ跳び出して来る。中には知らん顔をしているのもあるが、中には又一緒になって騒ごうと、しつこく自分達を引っ張るのもある。又たまには、我々の周囲に輪を作って踊り狂う奴もある。一番手こずったのは四人連れの乱暴者で、同伴の婦人をとっ捕まえて、嫌がるのを無理に連れて行こうとしやがった。吾輩は後を追いかけて、忽ちその中の二人を殴り倒してやると、他の二人はびっくりして女を放り出して逃げた。ついでに言っておくが吾輩の連れの女の名はエーダというのである。
段々歩いて行くと、ある所では一群の盗人が一軒の家に押し入ろうとしていた。又とある人混みの市場を通ると、其処では一人の男がしきりに大道演説をやっていた。何を喋っているのかと思って足を停めて聞いてみれば、地獄から天国までの鉄道を敷設するのでこれから会社を起こす計画だと言うのであった。
聴衆の多くは天国などがあってたまるものかと罵っていたが、それでも中には、他愛もなくその口車に乗ってこれに応募する連中も居た。
ある所には又一つの新聞社があった。折から丁度朝刊が発行されたところなので、念の為に一枚買い取って眼を通して見ると、先ず次のような標題が目についた――
△二人の宣教師の捕縛――これは他の地方から入り込んだ間諜の動静を書いた記事で、平和のかく乱者として厳しく弾劾してあった。
△地獄の侵入者――これは死んで地獄に送られた人々の名簿で、特に知名の人達につきてはその会見記事が掲載してあった。
△徳義の失敗――これはエスモンドという作者の新作劇で、近頃大評判であるとの紹介記事。其の外競馬だの、新会社の設立だの、駆け落ちだのの記事が掲載されていた。
いよいよ市を脱出するとエーダは急に心細がり出した。
「まぁ何て寂しいところでしょう!」彼女は戦慄して「あたし怖いわ! 戻りましょうよ」
「馬鹿な!」と吾輩が叫んだ。「こんな所で兜を脱ぐようなことでどうなります! 一緒にお出でなさい。アレあすこに光明が見えるじゃないか!」
休憩所から漏れる一点の光明はいくらかエーダの元気を引き立てるべく見えた。
「ホンに何て綺麗な星でしょう! 私死んでからただの一度も星を見た事がありませんわ」
彼女は震えながら言うのであった。「早くあすこまで行きましょうよ」
我々は一歩一歩にそれに近付いたが、やがてその光が烈しくなると彼女は又も躊躇い出した。
「アラ痛くてたまらないわ! 近寄れば近寄る程痛くなるわ」
「なんの下らない。これ位の我慢が出来なくてどうなります! 吾輩などはまだまだ百層倍も辛い目に遭って来ている。あの光のお蔭で体の塵埃が少しずつ除かれて行くのだ。有り難い話だ・・・」
吾輩が一生懸命慰め励ましたので、彼女もやっと気を取り直し、とうとう休憩所の入り口まで辿り着いた。
その光の為に我々は一時盲目になったが、しかし親切な天使達の手に握られて無事に室内に導かれた。
それから彼女と引き離され、吾輩だけただ一人その建物の中で一番暗い部屋に入れられた。後で調べてみると、この部屋の暗いのは窓が開け放たれ、其処から戸外の闇が海の浪のように、ドンドン注ぎ込むからであった。
二十七. 守護の天使との邂逅(上・下)
●守護の天使との邂逅 上
その時闇を通して強く明らかに何やら聞き慣れぬ不思議な音声が響いて来た。それは何処やらラッパを連想させるような一種の諧調を帯びたものであった。耳を澄ますとこう聞こえる――
「我が兒(こ)よ、余は汝が一歩一歩余に近付きつつあるを嬉しく思うぞ。多くの歳月汝は余に遠ざかるべく努めていた。されど余は暫しも汝を見棄てる事なく、何時か汝の心が再び神に向かう日のあるべきをひたすらに祈っていた――ただ余の姿を汝に見せるのはまだ早きに過ぎる。余の全身より迸(ほとばし)り出る光明は余りに強く、とても現在の汝の眼には耐えられそうにもない」
「ああ天使様!」と吾輩は叫んだ。「私が神の御前にまかり出ることが出来ないのは、神の御光の強過ぎる為でございましょうか?」
「その通りじゃ。何人も直に神の御光の前に出ることは出来ぬ。されど何事にも屈せずたゆまず飽くまで前進を続けて行かねばならぬ。余の声をしるべに進め! 進むに連れて余の姿は次第に汝の眼に映るであろう」
そうする中に休憩所の天使の一人が室内に歩み入り、吾輩の手を取りて入り口とは別の扉を開けて戸外に連れ出してくれた。ふと気が付くと、遙か遙か遠い所にささやかな一点の星のような光が見え、次の声が其処から発するように感ぜられた――
「余に従え! 導いてやるぞ」
吾輩は少しの疑惑もなしに闇の中をとぼとぼとその光を目当てに進んで行った。すると守護神――これは後で判ったのですが――は間断なく慰撫奨励の言葉をかけてくださった。路は険阻な絶壁のような所についていて、吾輩は何回躓き倒れ、何回足を踏み滑らしたか知れないが、それでも次第に上へ上へと登って行った。丁度路の半ばに達したと思われる所に、とある洞穴があってその中から一団の霊魂共が現れて、吾輩目掛けて突撃して来た。そいつ等は下方の谷間に吾輩を突き落とそうとするのである――が、忽然として救助の為に近付いて来たのはかの道標の光であった。それを見ると襲い掛かった悪霊共は悲鳴を挙げて一目散に逃げ去った。
最早心配なしと認めた時に吾輩の守護神はいつしか元の位置に帰っておられたが、その為に吾輩もほっと一息ついたのであった。何故かというに、吾輩の体も敵程ではなかったが、光に射られていくらか火傷をしていたのであるから・・・。
その中に路はとある大きな瀑布(滝)の所へ差し掛かった。地上のそれとは違って、地獄の瀑布はインキのように真っ黒で、薄汚いどろどろの泡沫が浮いている。そしてその付近の道はツルツル滑って事の外危険である――が、何人かが人工的にそこえらに足場を付け、しかもひっきりなしに手入れしているらしい模様なのである。吾輩はその時まで成るべく口をつぐんでいたが、とうとう思い切って守護神に訊ねてみた――
「一体ここの道路を誰が普請するのでございますか? どうしてこんなに手が届いているのでしょう?」
すると守護神は遠方からこれに答えた――
「それは地獄の中に休憩所を設けておらるる天使達が義侠的にした仕事じゃ。ここの道路は地獄の第四部と第五部とを繋ぐものでこれを完全に護るのが彼等の重大なる任務の一つじゃ。下の境涯に居る霊魂共は隊伍を組んで、飽くまでもこの道路を壊しにかかっているから油断などは少しも出来ない・・・」
●守護の天使との邂逅 下
吾輩が続いて訊ねた――
「そんな悪い事をするのは真の悪魔なのですか、それとも普通の人間の霊魂なのですか?」
「それは普通の人間の霊魂なのじゃ。彼等は地上の悪漢同様自分達の仲間が彼等を離れて正義の道に就くことを嫌うのじゃ。汝の今述べたような真の悪魔などというものは、地獄の最下層以外には滅多に居るものではない。地獄の上層にいるのは先ず大抵人間の霊魂であると思えば間違いはない」
「それなら自殺した者は何処に居るのでございますか?」
「そんな者は大抵地獄の第三部、憎悪の境涯に行っているが、たまに第四部にいるのがあるかも知れん。又幽界にいる時分に、その罪を償ってしまって地獄に堕ちずに済む者も少なくない」
「それはそうと天使様、何やら光明が段々強く、行き先が明るくなってまいりました。これはどうしたのでございます?」
「我々は段々光明の地域に近付きつつあるのじゃ。のみならず休憩所の天使達が、我々の近付くのを知って、我々の為に神に祈願を込めてくださるのじゃ。光というものは実は信念そのものである。故に我々の為に祈りを捧げてくれる者があれば、その信念が光となって我々を導いてくださる」
次第次第に光は強さを加え、終いには眩しくてしようがなくなった。が、幸いにも吾輩の人格にこびりついた最劣悪部は既に燃え尽くしてしまったものと見え、この前よりも痛みを感ずることが少なかった。
間もなく我々は休憩所に辿り着き、その入り口の階段を登り詰めて扉の前に立った。守護神は手さえかける模様もなくするすると扉を突き抜けて内部へ入ったが、しばしの後扉は内部から開かれ、吾輩も誰かに導かれて室内に歩み行った。
言うまでもなく室内は極度に光線が強いので、吾輩は一時すっかり盲目となってしまったが、それでも慣れるにつれて次第に勝手が判って来た。聞けばここに駐在する天使達の任務というのは、一つには例の瀑布の付近の道路の破壊されるのを防ぎ、又一つには第五部の居住者がうっかり道に踏み迷い、第四部の方に落ちて来るのを監視する為でもあった。
ここで一言付け加えておきたいのは、第五部の住民から排斥された者が、時とすればその境界線にある絶壁から第四部に突き落とされることである。第五部は大体に於いて大変に格式を重んずる所で、規則違反者と見れば、決して容赦しない。この休憩所はそんな目に遭う連中をも出来るだけ救うことにしているのである。
なおこの休憩所の前面にはインキ色の真っ黒な川が流れているが、その川に掛かっている橋梁の警備もまたこの休憩所の天使達の手で引き受けているのであった。
二十八. 第五部の唯物主義者
さて吾輩は又も守護神に導かれて、橋を渡って対岸の哨所に入った。が、ここではちょっと足を停めただけで、再び濃霧の立ち込めた闇の戸外に歩みを運んだ。
しばらく一つの大きな汚い河流の岸を歩いて行くと、やがて一大都会に到着した。これは世にも陰湿極まる所で、見渡す限り煙突ばかり、製造所やら倉庫やらがゴチャゴチャと建ち並んで、その間にはゴミだらけの市街が縦横に連なっている。何処を見てもむさ苦しく、埃くさく、そして工場の内外には職工がゾロゾロ往来している。吾輩は足を停めて職工の一人に訊ねた――
「一体君達は何をしている?」
「工業さ、無論・・・」
「製造した品物はどうするかね?」
「売るのだね無論・・・。しかし妙なことには、幾ら売っても売っても其の品物は皆製造所へ戻って来やがる。こんなに沢山倉庫ばかり並んでいるのはその為だ。ここではひっきりなしに倉庫を建てていなけりゃ追っつきゃしない。邪魔でしようがないから一生懸命に売り飛ばしているんだが、それでも何時の間にやら一つ残らず品物が戻って来やがる」
「焼いてしまったらよかろう」と吾輩が注意した。
「焼いてしまいって・・・。そりゃ無論焼いている。一遍に大きな倉庫の十棟も焼くのだが、しかし矢張り駄目だね。直ぐに全部がニョキニョキと戻って来る。こいつばかりはしようがない・・・」
「それなら何故製造を中止しないのかね?」
「ところがそれが出来ない。不思議な力がここに働いていて、どうしてもひっきりなしに働いて働いて働き抜かなければならなく出来ている。休日などはまるでない。馬鹿馬鹿しい話だが、これも性分だから何とも仕方がない。生きている時分だってこちとらは労働以外に何にも考えたことなんかありゃしなかった。のべつ幕なしに糞骨折って働いたものだ。その報酬がこれだ。せっせと同一仕事を繰り返し繰り返しして、一年、二年、五年、十年、百年・・・。何時までも休みっこなしだ」
「君達は生きてる時分にはただ物質のことばかり考えていたに相違ない。そのせいで地獄に来ても同じような事をさせられるのだ」
「なに地獄だって! 地獄だの、極楽だのというものがこの世にあってたまるかい!」
「それなら此処は何処だと思うのかね?」
「知るもんか、そんなことを・・・。又知りたくもねえや。此処には寺院がありゃ僧侶もある。お前みたいな阿呆に話をする時間はねえ。どりゃ仕事に取り掛かろう」
そう言ってその男は工場へ入って行った。
吾輩はやがて大きな広場に来たが、そこには寺院が三つもあった。一つは英国国教、一つはローマカトリック、他の一つは反英国国教の所属であった。吾輩は先ず英国国教派の寺院に入ってみた。一人の僧侶がしきりに説教を試みていたが、随分面白くない説教で、要点は主として他宗の排斥と寄付金の募集とであったが、それを社会の改良だの、下層社会の救済だのという問題に結び付けて長々と述べ立てるのであった。
会衆はと見るとお説教などに頓着している者は殆どない。隣席の者を捕まえて、ベラベラと他人の悪口を並べるのもあれば、近所に来ている人の衣服の批評を試みるのもある。その他商売上の相談をやる者、議論をやる者等種々雑多で、僧侶の声などは殆ど聞き取れない。
余りに馬鹿らしいので、吾輩は其処を出て他の二つの寺院へ入ってみたが、何れも似たり寄ったりで、面白くもなんともなかった。
次に吾輩の出掛けたのは市の中で売店ばかり並んでいる一区画であったが、全体の状況は少しも製造場と変わってはいなかった。人々が買い物に来ることは来るものの、支払った金子は皆その買い主に戻り、又売った品物は皆その売り主に戻って行くのであった。
余りに不思議なので吾輩はとある商店の主人に向かって訊いた――
「あなたの売る品物は何処から来るのです? 製造所から仕入れて来るのですか?」
「いやこれ等の品物は皆私と一緒に此処へ付いて来たのです。何れも皆私が死んだ時に店に置いてあった品物ばかりですが、そいつがどうしてもこの店から離れません。見るのももうウンザリしますがね」
「それなら商売を辞めたらいいでしょうに」
「冗談言っちゃいけません。商売を辞めたら仕事が無くなってしまいます。私は子供の時分から品物を売って一生暮らして来た人間ですからね・・・」
彼は吾輩を極端な分からず屋と見くびって、プイと向こうを向いてしまった。そして一人の婦人に新しい帽子を売りつけたが、無論その帽子は右の婦人が店を出て三分と経たない内にキチンと自分の店へ舞い戻って来た。
その次に吾輩は市会議事堂へ入ってみた。そこでは議員達がしきりに市の改良策について火花を散らして論戦していたが、いくら喋々と議論したところで、いずれその結果は詰まらないに決まっているので間もなく又其処を出てしまった。
とうとう市街を通り抜けて郊外に出たが、相変わらずそれは一望がらんとした荒地で、廃物ばかりが山のように積まれ、草などはただの一本も生えていなかった。
二十九. 睡眠者
我々は暫く歩いて行く中に、やがて一つの洞穴に達した。見ればその内部には沢山の熟睡者がいた。試みにそれを呼び覚まそうとしてみたが、とても起きる模様がない。
この一事は少なからず吾輩を驚かした。今までの所では、地獄に住む者でただの一人も眠っている者を見掛けたためしがない――肉体がないから従って睡眠の必要はないのである。
で、不審の余りその理由を守護神に質問してみた。もうこの時には自分と先方との距離はそう遠くもなかったのである。
守護神は悲しげにこう答えた――
「我が兒(こ)よ、これ等は生時に於いて死後の生命の存続をあくまでも頑強に否定すべく努めた人々の霊魂なのじゃ。何れも意思の強固な者ばかりで、若しも信仰の念さえあったなら、相当に世を益し人を助けることが出来たであったろうに、ただその点だけ魂の入れどころが違っていたばかりに、人を惑わし、同時に自分自身も死後自己催眠式に昏睡状態に陥ってしまったのじゃ。この眠りは容易には覚めない。彼等は幾代幾十代となくこうして眠っているであろう。その間に器量から云えば、彼等よりも遙かに劣り、中には地獄の底まで沈んだ者でも前非を悔いてずんずん彼等を追い越して向上して行くであろう」
「こりゃ実に恐ろしい御話です。呼び覚ます方法はないものでしょうか?」
「多大の年代を経過すれば自然とその呪いの力は弱って来る。その時天使達が降りて来て何かと骨を折ってくだされば、彼等の長い長い夢も初めて覚めるであろう」
その内我々は断崖絶壁ばかり打ち続ける地方に到着した。暫く崖の下をさ迷うていると、行く手に一條の狭い、ツルツルした階段が見え出した――と、丁度その時唐突に一人の男が空中から舞い下がって来てすぐ自分達の前に墜落した。が、その人はそのまま飛び起きて闇の中に逃れ、何処ともなく行方を失ってしまった。
「あれは一体何者でございますか?」と吾輩がびっくりして訊ねた。
「あれは上の第六境で、規律を破った為に追放された者じゃ。第六境の居住者は大変風儀品格を尊重する人達で、若しもその禁を犯して彼等の怒りを買えば、忽ち追放処分を受ける。第六境の居住者の最大欠点は、自己ばかりが飽くまで正しいものと思い詰めることで、しきりに自己の隣人を批判して讒謗誹毀(ざんぽうひき)を逞しうする事が好きじゃ。いや然しもうあそこに休憩所の光が見え出した。いかなる種類の人間が第六境に住んでいるかは汝自身で調べるがよかろう」
我々はそれで話を切り上げ前面の長い長い階段を一歩一歩に登りかけたが、イヤその苦しさと云ったらなかった。しかし灯台の光は次第次第に強く我々の前途を照らした。無論その光は身に滲みて痛いには相違なかったが、ここぞと覚悟を決めてとうとう天使達の設置してある休憩所まで辿り着いてしまった。
三十. 第六境(上・中・下)
●第六境 上
これは1914年9月5日に現れた陸軍士官からの自動書記式通信であります。
さて我々は暫く右の休憩所で一息入れてから再び前進を続けた。四辺は相変わらず霧の海、その中を右へ右へと取って行くと、間もなく一大都市の灰色の影がチラチラ霧の裡(うち)に見え出した。大絶壁に臨める側には高い城壁が築いてあったが先刻一人の男が第五境へ突き落とされたのは、右の城壁に築いてある塔の一つからなのであった。
市街の家屋は大部分近代風のもので、ロンドンの郊外の多くに見受けられるように、上品振ってはいるが然りまるきり雅趣に乏しいものであった。が、街路は割合に立派で、掃除もよく行き届いていた。地獄で清潔らしくなるのは此処から始まるのであった。
ふと吾輩はここに劇場のあることに気が付いた。入ってよいかと守護神に訊ねたところが、よいと云われるので早速入った。但し守護神の方では戸外に待っておられた。幸い入り口の所に一人の男が居たので吾輩は早速それに言葉をかけたが、先方はジロジロ吾輩の顔を見ながら言った。
「私はまだあなたのことをどなたからも紹介されていませんが・・・」
「べらぼうめっ!」吾輩が叫んだ。「こんなところで紹介もへちまもあるもんか!」
「これこれあなたはとんでもない乱暴な言葉をおききなさる。それでは紳士の体面を傷つけます・・・」
先方はいやに取り澄ましている。仕方がないから吾輩も大人しく謝って、どんな芝居がここで興行されているかを訊ねた。
「演劇は市民の風儀を乱さぬ限りどんなものでも興行しています。但し野卑なもの、不道徳なものは絶対に興行しません。これはひとり演劇に限らず、音楽その他も皆その通りです」
「イヤー」と吾輩は叫んだ。「風儀をかれこれやかましく言う所は、地獄の中では此処ばかりだ!」
相手の男は苦い顔をした――
「どうもあなたは口の聞き方が乱暴で困ります。この世に地獄などと云うものはありません。あっても此処ではありません」
「下らんことを仰るな。この界隈は皆地獄の領分の中です。立派に地獄に居るくせに、居ないふりをすることはおよしなさい。吾輩は憚(はばか)りながら地獄の玄人だ。そんな甘い手には乗りませんよ」
「もしもし」と彼が言った。「あなたは一体どちらの方で、何処からお出でなすったのです?」
仕方がないから吾輩は簡単に自分の身の上を物語った。すると先方は次第次第に吾輩から遠ざかり、やがて吾輩の言葉を遮って叫んだ――
「それだけ伺えばもう沢山です。あなたは大ほら吹きか、それとも余程の悪漢です。あなたが何と言ってもここは地獄ではありません。多分私達は地上の何処かに居るでしょう。何れにしても従来私は悪漢と交際したことがないから今更それを始める必要はないです。これで私はあなたに別れますが、ついでに好意上一片の忠言をあなたに呈しておきます――外でもないそれはあなたがここで下らない話を何人にもなさらぬことです。さもないとあなたはあの城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!」
そう言って相手の男はプイと何処かへ行ってしまった。
そこで吾輩は兎も角も劇場に入った。内部では丁度一の喜歌劇を演じていましたが、イヤその下らなさ加減ときたらまさに天下一品、音楽は地獄の他の部分ほど乱調子でもないが、しかし随分貧弱なもので、俗曲中の最劣等なものに属した。脚本の筋などときてはまるきり零、全体が平凡で、陳腐で、無味乾燥で、たった一と幕見てうんざりしてしまった。他の見物人だってやはり弱り切っているらしかったが、それでも彼等は我慢して尻を据えていた。
其処を出かけてその次の一つ二つ音楽会を覗いてみたが、その下らないことは芝居と同様、とても聴かれたものではなかった。早速又逃げ出して今度は絵画展覧会を覗いてみた。もう大概相場は判っているので、最初から格別の期待もせぬから、従って失望もしなかった。が、子供の落書きにちょっと毛の生えた位の代物ばかりを沢山寄せ集めて悪く気取った建物の内部に仰々しく陳列してあった。
●第六境 中
もうこんなものの見物にはウンザリしたので吾輩は守護神の所に立ち返り、それに導かれて市街の中央部をさして出掛けた。すると、其処には煉瓦造りのゴシックまがいの碌でもない寺院があったので試みにこれに入ってみた。
丁度内部では祈祷が始まっている最中で、でっぷり太った一人の僧がねばねばした偽善者声を出して何か喋っているので先ず吾輩の癇癪に触った。お祈りの文句などはただベラベラと器械的の述べるのみで、熱は少しもない。全てがただ形式一遍、喋る方も聴く方もお互いにお茶を濁しているに過ぎない。
彼の説教の内で耳にとまった文句の二、三を少し紹介するとこうだ――
「親愛なる兄弟姉妹諸氏、あなた方は私を助けてこの大都市の裡(うち)に何ら悪徳の影も潜まぬように力を尽くして頂かねばなりません。若し裏面に於いて何らかの不倫の行為に耽っている者があらば、その真相を徹底的に暴き出すことが必要であります。たとえそれがあなた方の親友であり、又親族でありましても容赦なく弾劾することがあなた方の責務であります。若しあなた方がこの大事業に一臂(ぴ)の力を添えられようと思し召さるるなら何時でも私の所にお出でになり、疑わしいと思われるところを御遠慮なく私に密告して頂きます。悪事の跋扈横行ほど恐ろしいものはないのですから、常にそれを双葉の中に刈り取ることの工夫が肝要であります。私は常にあなた方の味方であります。悪徳駆除の為には如何なる手段も選びません。
ここに一例を申し上げておきます。あなた方の御友人の某夫人が近頃寺院に参拝しない。どうもその方がある紳士と姦通の疑いがある――そんな場合にはあなた方はその方に同情するフリをするのです。そうして成るべくその人をおびき出して自白させるのです。同時に彼女の夫には密かに警告を与え、なかんすぐ私まで一切の事情を報告して頂くのです」
こんな調子で暫く論じ立て、最後にこう結論した――
「兎にも角にも罪悪の証拠充分なりと見ればそんな社会の公敵に対して何らの慈悲恩恵を施すべきでありません。一時も早くかの城壁の塔より永久返ることのない大奈落に突き落とすべきであります―― つきましては明日皆様と一堂に会して大宴会を催し、その際寺院改良に宛つべき資金の調達を試みたいと存じます。何とぞ公共の為に皆様の御出席を希望いたします」
飛んだ説教もあったものだ。吾輩が寺院を出ようとすると、聴衆は密かにこんなことを語り合っていた――
「牧師さんはいつもいつも寺院改良の為だと云って資金の募集をやるが、一体あの金子はどうするのでしょうな?」
「そりゃ無論自分の懐中にねじ込むのでさ。少なくともその大部分を・・・」
「私もそう思いますね・・・。しかしあの金子は何に使うのでしょうな?」
「二重生活をすると金子がかかりますよ――御承知の通りあの人には妻君の外に囲い者がありますからね」
吾輩はそれだけしか聴かなかった。が、翌日の大宴会というものには是非出席してみようと決心した。で翌日は都合をつけて、少し早目に寺院に出かけて行ってみると、大会堂には牧師が控え、その周囲には彼を崇拝する婦人の一団が早やぎっしり集まっていた。牧師が何か一言喋れば、何れも先を争ってそれに調子を合わせ、そして隙間を見計らって誰かの告げ口をする。中には随分口にするにも耐えないような悪口も混じっていた。
ようやくのことで、吾輩はある機会を見付けて牧師に話しかけた――
「牧師さん、私は折り入って一つの簡単な問題についてお訊ねしたいのですが、一体あなたさまはキリスト教を心から御信仰なさいますか? それとも博学な高僧達の多くと同じくそれをただ一篇の神話と御考えになられますか? つまり神、天国、地獄などというものが果たしてあるものかないものか、御腹蔵のないところを伺いとうございます」
彼は両手を組み合わせ、例のねばねばした口調で答えた――
「そりゃ信仰という言葉の意味次第であります。牧師というものには大責任がありますから、滅多に心弱き者を躓かせるような事は言われません」
色々と言を左右に托して逃げを張ったが、吾輩が追窮して止まないので、とうとう彼は本音を吐いた――
「イヤ個人として言うならば、私はキリストの物語を一つの神話・・・甚だ美しき一篇の神話と考えます。聖ポールをはじめ、古代のキリスト教徒は恐らく皆そう考えたに相違ありません。キリストの事跡は一大真理を教えたところの一つの象徴であります。丁度エジプト人がオシリス神の死と復活とを説くようなもので、教育のあるエジプト人がオシリス神の実在を信じていたとはどうしても思えない。あれは単なる一つの寓言に過ぎません。不幸にも無智無学の徒はこれ等の寓言を字義通りに信仰し、中世時代に及んで、それが一般の信仰となってしまった。近頃になってから、我々は次第に真理に目覚め、迷信の滓(かす)の中から脱却しつつある――が、勿論我々は大きな声でこれ等の事実を一般人に聞かせることは出来ません。若しもそんなことでもしようものなら恐らく牧師の職を棒にふることになるかも知れません・・・」
「そうしますと、若しもキリスト教義の全体が単なる寓言に過ぎないとすれば、教会の必要は何処にございましょうか?」
「そりゃ大々的に必要があります。本来教育というものは偉大なる道徳的勢力の源泉であるべきで、今後は恐らく一切の迷信的分子から脱却することになりましょう。が、現在ではまだそうするのは早過ぎます。大多数の民衆の為には取るにも足らぬ寓言比喩をも政策上使用せねばなりません」
「では天国、地獄、神などは実際は存在せぬと御考えですか?」
「その点に関しては私は明答を避けたい。或る人々にとりては、神の観念を有することが必要である。さもないと道徳的法則を遵守せぬことになりますからな。が、私一個の私見としては、必ずしも神はないものと断定もせぬが、又神を必要かくべからざるものとも考えない。私はこの世界が幾つかの法則で支配され、なかんずく道徳的法則が何より貴いものであるように思います。道徳的法則を破る者は早晩その法則によって懲戒を受けますから、必ずしも万能の創造者が必要とは認められない――いやしかし私はこんな事を一般民衆には公言する訳ではありません・・・」
「けれども」と吾輩が彼の雄弁を遮って言った。「何も神を万能の専制君主と見なす必要はないでしょう。神は一切を見通すところの賢明なる審判者であって、あなたの所謂法則なるものはつまり神から発するもの、神が整理さるるものではないでしょうか?」
「それはそうかも知れない。しかし淡白に言うと、天国だの地獄だのというものはあれは皆嘘です。各人の受ける賞罰は、つまり疾病の有無、又は社会の待遇等によりて決まるもので、決して天国だの地獄だのがあって賞罰を与えるのではない。私の地位としては死後の生活がないと公言することを憚(はばか)るが、しかし実はあんなことは到底信じられない」
●第六境 下
吾輩は呆れて一瞬間牧師の顔を凝視した――
「それならあなたはどうして此処へお出でになっているのです?」
「イヤ私は何やら妙なことでここへ来たのじゃ。私は病気にかかり、やがて意識を失った。その間に頗る不思議な、そして気味の悪い夢を見せられたが、勿論ここに取り立てて述べるだけの価値はない。夢は五臓の疲れに過ぎんからな・・・。やがて回復してみるといつの間にか私は此処へ来ている。しかし妻は来ていません。人に訊いてみたが誰も詳しい事を知っている者がない。その内この教区の前任者が不思議なことでプイと行方不明になったので、私がその代わりに教区を預かることになって、今日に及んでいるのじゃ。何人も前任者は死んだものとしているが、兎に角この土地の生活状態には何やら不可解な点が多い。ここでは誰も死ぬ者がない。従って葬式の必要もない。ただ人の知らぬ間に体が消滅するのじゃな。多分衛生当事者が密かに死体を処分するものかと思うが、そんなことは私の職務外のことじゃから深く訊き出しもしません。何分私の受け持っている教区は市の中央部にあるので、朝から晩までかかり切りにかかっていても間に合わぬ位多忙でな・・・」
「あなたはこちらで結婚でもなさいましたか?」
「無論しました。元の妻は私の病中にてっきり死んだものとしか思われないから、私は何の躊躇するところもなく再婚しました。勿論私はもう老人で別に結婚はせずともよいのじゃが、しかし妻がいてくれんと教区の事務遂行に関して大変差し支えが生ずる。欲を言えば今度の妻がもう少し手腕があってくれればと思うが、まぁしかし人間は大抵のところで諦めるのが肝要でな・・・」
「して見ると、あなたは現在地獄に落ちておられる事にまだお気がつかれないのですか?」
「これこれあなたはとんでもないことを仰る!」
仕方が無いから吾輩はここが地獄の一部分であること、又死後吾輩が色々の苦い経験をなめたことを物語ってやった。彼は極めて冷ややかに吾輩の話を聞いていたがやがて口を挟んだ――
「イヤもうそれで沢山沢山! 私がもしただの人間であったならこのまま黙っては済まされないところじゃが、身分が身分じゃから、ただこれだけあなたに言って聞かせる――外でもない、それは私があなたの話を全部信用しないということじゃ。今日はとんでもない人に会って時間を浪費してしもうた! あなたは嘘つきか、それともあなたの人相から察して、余程の悪漢かに相違ない。一刻も早くこの市から立ち去って下さい。慈悲忍辱の身として私からは告発はせぬ事にするが、若しこれが他の人であったら決してあなたみたいな人物を容赦せぬに決まっている・・・」
彼は吾輩をうっちゃらかしておいて、やがて近付いた二人の婦人に吾輩のことをベラベラ説明し始めた。吾輩もこんな所に永居は無用と早速寺院から飛び出してしまった。
三十一. 死後の生活の有無
1914年9月7日の霊夢に、ワード氏は陸軍士官と会ってその物語の続きを聞きました。
陸軍士官はその際例の調子で次の如くに語ったのであります――
地獄の第六境の都会をぶらついている内に、吾輩は一の学術協会らしい建物を見つけた。内部を覗いて見ると、其処には何やらしきりに討論が行なわれていた。討論の議題は『死後の生活の有無』というのでした。
一人の弁士は左の如く論じ立てた――
「人間が死後なお生存するということにつきては其処に何らの確証がない。成る程或る人々はこう論ずる――我々は一旦死んだ。然るに今尚かく生きているのであるから、死後生命が存続することの証左であると。が、これは論理的でない。我々は今なお生きている。故に我々は初めから死なないのである。我々は皆重い病気に罹った。病気から回復してみると、辺りがこんなどんよりと曇った世界に一変していた――単にそれだけである」
「それだから」と他の一人が言葉を挟んだ。「我々は死んで地獄に居るに相違ない」
「もっての外の御議論です」と最初の弁士が叫んだ。「我々は病気以前と同様気持ちよくここに暮らしている。私は地獄の存在などは少しも信じない。よし一歩を譲りて地獄が存在するとしても、此処が地獄であり得ないと云うことには諸君も賛成されるに相違ない。牧師達は我々に告げます。地獄は永久の呵責の場所で、ワシも死する能(あた)はず、火も消えることがないと。然るにそのような模様は微塵も此処にないではないか。成る程下らない心配、下らない仕事が連日引き続くので退屈ではあります。けれどもそれは地上生活に於いても常に見出すところである。我々は所謂天国の悦楽をここに見出し難いと同時に、所謂永久呪われたる者の苦痛も見出し得ない。この点が我々の死んでいないことの最も有力なる証左である。若し死後の生活などと云うものがあるならば、それは地上の生活と全然相違しているべき筈である。此処の生活は我々の若かりし時の生活とは相違しているに相違ないが、肉体を離れた霊魂の生活としては余りに具体的であり、実質的である。諸君、我々は死後生命の存続を証明すべき何ら有力なる確証を持たぬという私の動議に御賛成を願います」
それに続いてその反対論が出た。が、それは随分つまらない議論で、至極平凡な論理を辿り、自分達は確かに一旦死んでいる。現在の住所が何処であるかは不明だが、多分煉獄であろうなどと述べた。すると清教徒(ピューリタン革命)達はそれに大反対で煉獄などというのはカトリックの寝言だと反駁し、議場は相当に混乱状態に陥った。
やがて次の弁士が立ち上がって一の名論? を吐いた――
「私は自分の死んだことをよく死っております。そして現在我々の送りつつある生活をただ一場の夢と考える者であります。人間の頭脳なるものは生命が尽きたと称せられる後に於いても、暫時活動を持続する。しかし最早肉体を完全に統御する力はなく、その期間に於いて一種の夢を見るのである。従ってその状態は永久続くものとは思えない。我々が地上にいる時でも、随分長い夢を見ることがあった。夢の中に幾日、幾週を経過したように考えた。しかし、覚めてみるとたった五分間ばかりの転寝に過ぎなかった。かく述べると諸君は言うであろう――それなら我々は単に頭脳の生み出した一の幻影に過ぎないのかと――その通りです。ここには都会もなく、議場もなく、あるものはただ自分だけであります。私はただ夢を見ているだけであります。幾ばくもなくして私の頭脳は消耗し、同時に夢も又消えるでありましょう。御覧なさい、現在我々は地上に居った時と全然同様な仕事を器械人形の如くただ何回も繰り返しているに過ぎません。死後の生命なるものはただ死しつつある頭脳の一場の夢に過ぎません。しかしこんなことを述べるのは、つまり自己の空想の産物に向かって説法をすることなのであるから甚だつまらない。私はもう止めます」
そう言って彼は陰気な顔つきをして座についた。
満場どっと笑い崩れた。
その時吾輩が飛び出して叫んだ。
「諸君、私は御当地を通過するただ一介の旅客にすぎません。けれども若し諸君が私の言葉を信じて下さるならば、私は死後生命の存続することを証明し、天国の有無は兎に角、地獄は確かに存在し、そして此処が地獄の一部分であることを立証してあげることが出来ます。此処よりももっと下層に行けば人々はいかにも地獄に相応しい呵責を受けております。一度私が死んでからの波乱に富んだ閲歴をお聞きになってもらいましょうか?」
が、皆まで言い終わらぬ内に満場総立ちになって怒鳴り出し、その中の数人は城壁の塔から吾輩を放り出すぞと威嚇した。仕方が無いから吾輩はよい加減に見切りをつけて建物を立ち出でると、一人の男が吾輩の後に追いすがって言った――
「イヤあなたが只今仰った事は皆道理に適っています。あなたは地獄の各地を通過して、最後にここを脱出さるるお方に相違ありません。ついては私のことを同行しては頂けますまいか?」
吾輩がそれに答える前に彼の守護神が姿を現して言った――
「我が兒(こ)よ、余は汝を導いて、愛する友の喜んで助けを与える美しき境涯に入らしめるであろう。余は汝の胸に救助を求める精神の宿るまで、止むことを得ず差し控えていたが、今こそ再び立ち返りて汝の将来を導くであろう」
右の人物と天使とは相連れ立ちて何処かへ行ってしまった。
三十二. 第七境まで
それから吾輩は守護神に導かれて市外に出た。途中幾つかの町や村を過ぎ、とうとう一つの山脈の麓に達した。吾輩はその山を喘ぎ喘ぎ登って行ったが、登るにつれて道路はますます険阻になった。やっとのことでその頂上に達して見ると、前面の直ぐ近い所に休憩所が建っていた。それは今までの何れよりも大きく、美しく、巍巍(ぎぎ)として高く空中に聳(そび)え、そして最高層からは一大光明が赫灼(かくやく)として闇中を照らした。
しかし最後の一と骨折らずには地獄を脱け出ることは許されなかった。吾輩は俄然一群の乱民に包囲され其処の絶壁から下に突き落とされんとしたのである。
が、吾輩ももうこれしきのことでは容易に勇気を失わない。満腔(まんこう)の念力を集中して打ちかかる者共を右に左に投げつけた。同時に吾輩の守護神が全身から光明を迸(ほとばし)らしつつ側に立っていてくださるので、とうとう悪霊共は恐れ慄(おのの)きつつ敗走した。
光は吾輩にとりても非常な苦痛を与えたが、歯を食いしばってそれを耐えた。そしてよろめきながら漸(ようや)く休憩所の玄関まで辿り付くと、内部から扉が開いて、誰やらが親切に吾輩の手を取りて引き入れてくれた。戸外にはなお敗走した乱民の叫喚の声が微かに聞こえた。
その時何処やらで吾輩の守護神が言われた――
「我が兒(こ)よ、余は暫く姿だけ隠しているが、いつもすぐ傍に付いているから安心しているがよい・・・」
それから吾輩は其処の親切な天使達に導かれて薄暗い部屋に入って休息したが、光明が強くて眼が開けられないので、それがどんな風采の人達なのかはさっぱり判らなかった。
間もなく吾輩は其処の病院に入れられて一種の手術を受けた。それは吾輩の汚れた体から邪悪分子を除去する為であった。その手術が済むと、驚いたことには吾輩の体は目茶目茶に縮小してちっぽけな赤ん坊の大きさになってしまっていた! それから段々体格を築き上げていって、間もなく学校へ通学し得るところまで発達した。その学校で御目にかかったのがPさんで、吾輩は大変御面倒をかけたものです。当時学校中の最不良少年は吾輩であったが、それでもPさんはどこまでも吾輩を見捨ててはくださらなかった。
Pさんは学校を退かれるに臨み、是非後について上の世界に昇って来るようにとしきりに勧められたので、吾輩もとうとうその覚悟を決めましたが、後の物語は次回に申し上げます――
ワード氏は早くその先を聞きたかったが、止むを得ず別れを告げて地上の肉体に戻りました。
三十三. 地獄脱出
1914年9月12日、陸軍士官はワード氏の肉体を占領して、自動書記の形式でその身の上話の結末をつけました――
その内吾輩が学校を出る時節が到着した。又してもあの闇の中に潜り込むのかと思うと恐ろしくてとても堪らぬ気がしたが、怯む心を取り直して思い切って案内を頼んだ。
さて我々が地獄から出るのにはあのLさんが往来した楽な道路を取ることは許されない。絶壁の側面についている大難路を登らねばならぬのであるが、それは大抵の骨折りではないのです。
我々は休憩所を出てから右に折れ、暫く幅広き山脈に沿うて進んだ。一方は第六境に導くところの深い谷であり、他方は見上げるばかりの絶壁である。闇は今迄よりも一層深く感ぜられたが、恐らくそれは在学中光明に熟(な)れた為であるらしかった。
我々がとある洞穴の前を通りかかった時に醜悪なる大入道が飛び出して叫んだ――
「止まれ! 何人も地獄から逃げ出すことは相成らぬ!」
が、彼が吾輩に手を触れ得る前に守護神が振り向いて十字を切ったので、キャーッ! と言いながら悪臭粉々たる洞穴の中に逃げ込んでしまった。
それからの難行は永久に吾輩の記憶に刻まれて残るに相違ない。登って行くのは殆ど壁立せる断崖であるが脚下の石ころは間断なくズルズルと滑り落ち、一尺登って一丈も下がる場合も少なくない。
その間に守護神はいかにも軽そうにフワフワと昇って行かれ、いつも二、三歩ずつ吾輩の先に立ちて、その体から放射する光線で道を照らしてくだすった。
やがて止まれと命ぜられたので、吾輩は喜んでその通りにした。我々の到着したのは一の狭い平坦地であった。吾輩の両眼は其処でしっかりと包帯で縛り付けられた。守護神はこう言われた――
「汝の弱い信仰では半信仰の境涯の夕陽の光もまだ暫くは痛いであろう・・・」
それから再び前進を続けた。が、とある絶壁に突き当たった時にいよいよ何としても登れない。すると守護神はこう言われた――
「恐れるには及ばぬ。余が助けてこの最後の難関を通過させてつかわす。これでいよいよ汝の長い長い地獄の旅も終わりに近付いた」
次の瞬間に吾輩は、守護神から手を引いてもらってとうとう絶壁の頂点の平坦地に登り詰めてしまった。
が、其処の明るさ、眩しさ! 包帯をしているにも係わらず、その苦痛は実に強烈で、さすがの吾輩も地面の上をゴロゴロと転がったものだ。それから後の話はあなた方がもう御承知だ。Pさんが来て我輩をLさんに紹介してくださる・・・。Lさんの周旋でワードさんの体を借りて地上との交通を開く・・・。意外なことになってしまいました。
これで吾輩の通信事業はいよいよ完結を告げました。吾輩はこれから他の霊魂達と共に幽界へ出動せねばなりません。幽界では国家の為に生命を捧げた軍人達の救済に当たるつもりであるが、幸い吾輩は幽界の事情も地獄の状況も充分心得ていますから、相当目覚ましい働きをし得るつもりです。その内には昔の戦友などにも会えるかも知れません。
Pさんは又々地獄に降りて救済事業に当たられ、僧侶さんは既に『火の壁』を突き抜けて第五界へと進級され、今又吾輩が幽界に出動することになりましたから、Lさんの所は当分寂しくなる訳です。
これで皆さんにお別れ致します。