死後の世界
J・S・M・ワード [死後の世界] 解説
(ケンブリッジ大学ワード学士の驚くべき霊能)
(死後の世界の徹底的大探検)
J.S.M.ワード(著) 浅野 和三郎(訳)
出版社 潮文社 2006年8月1日 復刻版
霊界、それは人生の奥の院というに相応しい。英国の優れた知識人霊能者J・ワードによる驚異の霊界消息。
目 次
「死後の世界」について
一. ワード氏の人物とその霊能
二. 死後の世界
三. 著者が接したる霊界の人物
四. 著者の態度
五. 著者からの来信
「死後の世界」について
この文書は次の3部構成です(原本では、第1巻~第5巻あるようです)。
J・S・M・ワード解説(ワード氏の人物とその霊能)
叔父さんの住む霊界(ワード氏の叔父に当たり、且つ同夫人の父であるL氏)
陸軍士官の地獄巡り(霊界通信)
一. ワード氏の人物とその霊能
近年の欧米諸国にはそれぞれ特殊な方法を以って霊界の消息を探る者が雲霞の如く続出し、或る程度までその裏面の状況を知る事が出来るようになりましたが、しかしその中で燦然として群を抜くの観あるものは確かにジエ・エス・エム・ワード氏であろうと私は考えます。同氏はケンブリッジ大学のトリニティ・ホールのスカラァであり、バチェラア・オブ・アーツの学位を有しております。世界に霊媒は沢山ありますが、学識頭脳品格等が兼ね備わり一個のただの人間としても、押しも押されもせぬという者は殆ど見当たりません。この点のみでもワード氏は大いに注目に値します。
果たせるかな同氏の霊界探検は微に入り細に入りて條理整然、加えるにその文芸的手腕が侮るべからざるものがあり、幽界の状況は躍如として紙面に浮かび出るの感があります。同氏の著作は目下二部程出版されております。即ち『ゴーン・ウエスト』とその続編の『サバルタアン・イン・スピリット・ランド』がそれであります。
私が初めてこれに接したのは一昨大正十二年の夏で、その価値の甚大なるに驚嘆し早速これを本邦の読者に紹介したいと思ったのですが、たまたま例の大震火災が勃発して何もかも一切焼失しました。その後同書の再注文を発し、ようやく大正十三年の秋にこれを入手したような次第であります。既に私からは直接ワード氏と何回も交渉を重ね、前記二名著の翻訳紹介に関してはその快諾を受けてあります。
霊媒的素質は元来天稟(てんぴん)で、一の宿命であり、約束であるようです。ワード氏の場合に於いても別に同氏がこれを習得すべく努力したからその能力を得たという訳ではなく、寧ろ同氏の叔父に当たるL氏の霊魂がワード氏に霊媒的能力のある事を察知し、霊界の方から面倒を見て同氏をしてこの貴重なる通信を行なわしめたのであります。但しワード氏が多年心霊上の諸問題に没頭していたことは勿論であります。
同氏の霊界探検方法はこれを三種に分かち得るようです。即ち霊視能力、自動書記、並びに霊魂遊離の三つであります。
一、霊視能力――これは彷彿としてワード氏の心眼に霊界の一部が映ずるのでありまして、最初は氏自身も普通の夢かと考えたのですが、それが自分の叔父の死亡せる毎月曜に繰り返され、しかも全然明瞭正確、且つ連続的で、前回の夢の続きが次回に現れて来るのです。夢の中に見るものは主として霊界の状況で、前人未発の原野を縦横に探究し、そしてそれが悉く正確であったのです。
二、自動書記――ワード氏のは全然無意識の恍惚状態に入りてこれを行なうので、従って当人の意識は全然混入しておりませぬ。一部の心理学者などは直ぐにこれを潜在意識説などに帰着せしめんとしますが、それは無理であります。ワード氏自身も潜在意識説には大反対説を抱いております。氏は『ゴーン・ウエスト』の序文の中にこう述べております――「私も潜在意識なるものの存在は認めますが、しかし多くの場合に於いてこの言葉は科学者達が普通の物理的法則を以って説明し得ざる現象を説明するに使用する一つのカラクリです。科学者達はそれ等の現象が霊魂の所為であると認めることを嫌っているのです。
よし潜在意識説を最高価値に見積もってみたところで、私が得たる霊界の消息――各方面で研究の結果全然正確なりと認められたる消息の出所を説明することは出来ません。私はここに多くの実例中から一例を挙げます。それはPという人の霊魂から私に与えられた通信の一節ですが、それにはこうあります――
「私(Pの霊魂)は当地に於いて会合せる一友人の姓名を貴下にお知らせしますが彼は浸禮(しんれい・キリスト)教徒であって、その名をリチャルド・グレシャム・バーカーと言い、1807年10月20日の生まれであります。かつてノッティンガムの執行官であり、又バビングトンで或る炭鉱の支配人を務めたことがあります。彼は1892年6月21日を以って死に、その兄弟のジョンという人は二度ノッティンガムの市長を務めました」
右の霊界通信は百方調査の結果寸分事実に相違ないことが証明されました。この一事だけでも潜在意識説を打破するに充分です」云々。
三、霊魂遊離――これがワード氏の最後に発揮した能力で、『ゴーン・ウエスト』の一部にもそれがありますが殊にその続編たる『サバルターン・イン・スピリット・ランド』の全部は主としてこの方法で出来上がっております。
これは恍惚状態に於いて同氏の霊魂が肉体から離脱し、霊界の実地探検を行なうのであります。ワード氏の実弟のレックスという人は陸軍中尉で1914年4月欧州戦場で戦死を遂げましたが、ワード氏は恍惚状態に於いてしばしばこの実弟と霊界で会合し、常に相携えて種々雑多の実験調査に当たりました。
ワード氏の霊能はこれに至りて最高潮に達しているようで、記事の精確、観察の鋭利、又その描写の巧みなることは到底空漠たる普通の神憑りの産物と同日に談すべくもありませぬ。全編何処を通読しても仇や疎かな文字は見当たりませぬが、私はその中で特に本邦の心霊研究家にとりて多大の参考になる部分を、順次に紹介していきたいと存じます。
二. 死後の世界
ワード氏が試みたる死後の世界の探検を紹介する前に、これにつきての概念を先ずここに紹介しておくことが適当かと存じます。死後の世界と申してもそれは極めて概括的な名称で、その内容は千差万別、とても人智の究極し得る限りではないようです。人間が自分の居住する地球表面の物質世界をどうやら探究し得たのも最近のことに属します。
いわんや現肉体を以ってしては到底接触すべくもあらぬ無限に広く且つ深い死後の世界――それがどうして奥の奥まで探究することが出来ましょう。従来試みられたる霊界談なるものは、一番優秀なところで、ホンの霊界の入り口に立ってその内部の匂いを嗅いだだけです。ワード氏のは中々そんなものではなく、まっしぐらにその内部に突入して縦横無尽に駆け回って歩いているのであります。
ワード氏の探検し得たのは死後の世界の中で第七界と第六界とだけです。氏は第七界をアストラル・プレーン(幽界)と呼び、第六界をスピリット・プレーン(霊界)と呼んでおります。第六界の奥(若しくは上)には更に第五界第四界・・・第一界まで存在するものと信ぜられていますが、第五界以上にはワード氏の探検の手は殆ど届いておりません。
さてワード氏の研究に従えば第七界第六界共その内部は幾階段にも分かれます。第七界即ち幽界というのは或いは地界と云ってもよく、つまり地上の人間界までも含める物質並びに半物質の世界の総称で、其処に居住する者の特色は悉く一つの幽体を持っていることであります。
人間にも勿論幽体がある。右の幽体は死の瞬間に於いて肉体と分離しますが、地上を去ること遠ければ遠きに従いて、ますます精錬され、浄化されて行き、最後に物質的には消え去るのであります。幽界全体は全て時空の支配を受け、一定の場所もあるようですが、しかし地上の物質界の規則通りのみにも行かないようであります。
ワード氏は幽界を七つの境に分けています。即ち、
一、暗黒境 (地殻の極内部で、地獄に落つる霊魂の控所)
二、薄明境 (地殻の直ぐ内部で、凶悪なる霊魂の落ち行く所)
三、地上境 (現物世界)
四、夢幻境 (極微なる物質の存在する空想世界)
五、執着境 (地上の習慣が脱け切れざる霊魂の留まる世界)
六、超執着境 (食物、睡眠等の地上の習慣を放棄せる霊魂の居住地)
七、大成境 (第六界、即ち霊界に進むべき霊魂の居住地にしてその幽体は甚だ稀薄となる)
幽界の第五境、第六境等の状況はワード氏が後から発表した『サバルタアン・イン・スピリット・ランド』の中に極めて巧妙精細に描かれていて、真に実地探検の名に背かぬものがあると信ぜられます。
次に第六界即ち霊界というのは幽界を通過したる者、言わば幽界の過程を卒業したる霊魂が入り行く世界で、善霊にしろ、悪霊にしろ皆その幽体を失っております。その特質を挙げれば
一、物質が全然消失していること
二、空間が全く存在せぬこと
三、時間も殆ど存在せぬこと(但し年代的の順序だけは存在す) 等であります。
即ち霊界は場所の名称ではなくして寧ろ状態の名称であります。ですから霊界に入るということは場所から言えば同一場所に居るのかも知れないのです。
霊界に在りては思想が全てであります。思想それ自身が形態を成して各自の眼に映ずるのであります。物質世界に在りては思想と形態との間に相当の距離があります。例えば甲の作った思想が乙という彫刻家によって一の肖像と化するまでには、相当の時間労力を要し、加えて思想と実物との間に多少の相違が生ぜぬとも限りますまい。霊界に在りては思想即ち形態であり、実物であるのです。
ワード氏の探究によれば霊界は左の四つの境に分かれております。即ち
一、信仰と実務と合一せる境
二、信仰ありて実務の伴わざる境
三、半信仰の境
四、無信仰の境――地獄
既に述べた通り、この四つの区別は無論状態の区別であって場所の区別ではありません。故に趣味性行が異なれば同一地上にありても霊的には別世界の居住者であるかも知れず、これに反して趣味性行を同じうすれば地上の人間と死後の世界に住む者との間にも交通感応が可能である筈であります。
右の四境の中、下の二境、即ち『半信仰の境』と『地獄』とは、それぞれこれを代表する所の二つの霊魂――叔父さんのLと無名士官とによって詳しく本文に紹介されておりますからここに繰り返す必要を認めません。
ただ上の二境、即ち『信仰と実務と合一せる境』と『信仰ありて実務の伴わざる境』とにつきては詳しいことがまだ著者によりて発表されておりませんから、暫くその概念だけをここに紹介しておきたいと存じます。
『信仰ありて実務の伴わざる境』――これは『半信仰の境』よりはずっと明るく、夏の日の午前八時頃の英国の明るさに似ているといいます。この境に入る者は信仰心は強いが、ただいくらか偏狭で頑固で、そして信仰はありても実行はそれに伴い得ない連中であります。
この境の最下部に居る霊魂は自分の属する宗派観念に固く捕えられ、ややもすれば狭隘(きょうあい)なる団体を作りてそれに引き籠る傾向があります。その顕著なる弱点は自分免許と退嬰保守とで、視界が自分の置かれている環境以外に殆ど延びません。
ただ下の『半信仰の境』を経てこの境に上って来た者はこの種の弊害から脱却し、多くは公平綿密にこの境に見出さるる種々の信教を研究し、各教の内に包まれた肝要な真理のみを抽出しようと努めます。
ワード氏の肉体を借りてこの境の状況を通信した霊魂中にPというのがあって色々有益な啓示をしております。中で面白いのは神々は沢山存在していてこれを崇拝する者の祈願に応ずると述べてあることであります。そしてPはエジプトの某神殿でオシリス神が出現したこと、インドの某神殿では軍神カルティケーヤが司宰していること等を報告しています。
Pは又信仰の境域にある図書館の模様を述べています。これ等の図書館は何れもその規模が広大で、殆ど都市を欺くばかり、そしてその内部は三部に分かれているそうであります。
第一部には地上で消滅した書籍ばかり集めてあるが、勿論一部分は地獄の方へ行っているから、それは地上に現れた全部の書籍ではないのだと言います。
第二部には霊界で出来た書籍ばかり集めてあるが、地上の書籍とは大いに趣を異にしている。一言にして尽くせば皆絵本なのであります。即ち思想が絵画の形を以って示されているのです。
第三部は殆ど書籍として取り扱い得ざる性質のもので、活動写真のような一の心霊書なのです。即ち大きな部屋に舞台のようなものを設けてあると其処へ事件やら人物やらが歴々と現れて活動する。
これ等の書籍・・・寧ろ活動書の作者は特にそれに任命された学者達の仕事だということです。日本の青年霊媒後藤道明氏が出入往来を重ぬる瑞景閣(ずいけいかく)の模様などを聞いてみてもそれと大変類似の点が認められます。
次に『信仰と実務と合一せる境』――これは殆ど何人も死後直ちに入るという訳には行かぬようです。ここに入る者は単に強き信念を有しているだけでは不充分で、よく偏狭な精神から超脱し、尚その上に人類愛を事実の上に発揮し得た者でなければなりません。要するにその信仰が実際の行為の上に表れ、生きている時から聖者と呼ばれた人でなければとてもその資格がないようであります。
従って大抵の霊魂は死後の修業を積んでから初めてこの境に入って来るが、その歩みは頗る遅い。そして入ってからも随分長年月の間ここに留まらねばならぬようです。この境の光線は熱帯地方の真昼位で、あまり進歩していない霊魂にはとても明るさに堪えぬといいます。
色々の宗教は段々上の霊界に進むにつれて統一されて行きますが、但しその統一という意義は全ての教義をゴチャゴチャにして混沌不鮮明なる信仰に導くという意義ではなく、各宗教の有する真理の部分だけを抽出し、虚偽の部分を棄てて、一大組織体を構成することのようです。
この境に居住する霊魂は主としてその同胞、なかんずく地獄に落ちている者を救済することに従事し、間断なく其処へ降りて行くようです。十四世紀に死んだアムブロースという僧はその一身を殆ど全くこの仕事に捧げましたが、最後にその望みが叶って『火の壁』を通過して上の界へと消え去りました。
その際彼の忠実なる愛犬は、主人の後を追い、敢然として『火の壁』を突き抜けて行き、同時に一人の婦人――それは彼の愛人であったが、僧であるが為に地上で結婚し得なかったのです――も共にこれに続いたといいます。
さて右の第六界と第五界とを限る『火の壁』ですが、それは一体何であるか?
ワード氏もこれに明答を与えていません。ある霊魂はそれを『第二の死』と呼びます。そして人間が死を畏れる如く、霊魂のある者はこれを畏れますが、ただ人間の死が不可抗力で来るのに反し、第二の死は霊魂の自発的覚悟で求められるのであります。
第二の死は霊魂の形態に影響はするが、しかしこれが為に霊魂の実在が破壊さるる訳ではないようであります。火の壁を通過して上の境に居住する一人の天使がPに向かって左のように述べております。
「第六界に下りている間は、自分は天使の姿をしているが、それは自分の元の姿ではなく、又地上に居た時の姿でもない。ただそうしようと念じてその姿を創るまでである。姿は自分の念じる通りになる。動物の姿になろうと念じれば直ちに動物になり、火焔の形になろうと念じれば直ちに火焔になる・・・。
いわゆる悪魔と称する者にも、この力は具わっているが、その秘密はこれより以上に漏らすことは出来ない。兎に角火の壁の彼方のことは説き聞かす限りでないが、個性の失われぬことだけは保証する・・・」
第五界以上のことは第六界の居住者にとりて殆ど全然不明であるらしく、又其処から降りて来る守護の天使達も断じて秘密を漏らさぬようであります。一部の人達は火の壁を通過すると同時に霊魂はもう一度物質界に戻りて復活するのだと信じているようですが、それは必ずしも全部ではないようであります。
宇宙間は全て七つの界に分かれていると言われていますから、上の方の界へズンズン向上する霊魂も必ず存在するに相違ないと思われます。火の壁の所から地上へ復活を命ぜられるのは恐らく下根の霊魂で、もう一度地上に降りて改造を要する者でありましょう。
三. 著者が接したる霊界の人物
ワード氏が霊界並びに幽界に於いて接触した人物は余程多数に上りますが、多くの場合に於いてその人の名誉を重んずる為に生前の実名をすっぱ抜かず、単に略字のみが使用されております。
第一に紹介せねばならぬ人物は同氏の叔父にして同時に妻君の父なりしL氏で、この人は1914年1月5日に死亡したのであります。ワード氏が霊界探検を行なうに至りましたのは主としてこの叔父の斡旋にかかり、常にこの人の霊魂が霊界でワード氏を引き回しております。
余程世故にも長け、又頗る事理を解せる好老紳士らしい人ですが、生前は余り信仰問題を歯牙にかけず、死後余程マゴついた様子が見えます。当人もこれではいけないと気が付いたので、生前の罪滅ぼしの為に、自分の甥が霊媒的天分を豊富に有しているところに着眼し、これを媒介として現幽交通の途を講ずることになったのであります。ワード氏は霊界に於いて色々の人物に面会しますが大抵この叔父さんが側に付いていて顧問役兼案内役を勤めていてくれます。この人は主として霊界の第一段目――半信仰の境地につきて説明役を受け持っております。
次に重要なる霊界の人物はワード氏の実弟なるレックス中尉であります。この人は前にも述べた通り1916年オランダの塹壕戦で戦死し、その霊魂は他の多くの戦友の霊魂と同じく幽界(アストラル・プレーン)の第五段の執着境から進んで第六段の超執着境に居住しております。従ってそれ等の境地の状況はもっとも詳しくこの人によりて調査探究せられ、それが兄のワード氏に報告せられ、ここに霊界文学として前後に匹儔(ひっちゅう)を絶てる大文字を作成しております。
ワード氏の母――この人が又レックス中尉が戦死したと同年の秋に帰幽し、幽界の第六段目に於いてレックスと邂逅(かいこう)し、非常に有意義なる幾多の経験を重ねております。ワード氏は叔父の霊魂と相携えてしばしば母や弟と面会し、飛んだ所で不可思議なる一家団欒の楽しみを味わっているのです。
小説に似てしかも小説でなく、空想に見えて決して空想ではなく、人間界に出現せる文字の中でおよそこれ位奇抜で意味深長で、そして興味津々たるものは滅多に見当たりません。
地獄並びに幽界は罪悪方面の体験者としては匿名の某陸軍士官がおります。この人は生前に於いて大変な悪漢で、殺人、誘拐、詐欺その他色々の悪行を重ね、監獄にも入れられたことがあり、又かつてインド、日本等にも来ているそうです。死後は地獄に堕ち、非常に辛い目に遭っていますが、後悔悟して罪滅ぼしの為に霊界で目覚しい大活躍を開始したのであります。叔父の霊魂の紹介によりワード氏はこの人の霊魂と交通往来し、幾多の豊富なる珍材料を手に入れております。
なお外に霊界の第二段目にいるPだの、霊界の最上境にいる某僧侶だの、又幽界の平凡な所にいるAだのというのがあり、その他チョイチョイ顔を出す者が沢山ありますが、それは記事を読む内に次第に判ってまいりましょう。
四. 著者の態度
ワード氏は霊界探検の続編『サバルターン・イン・スピリット・ランド』に長い序文を書いております。そして自分の立場から心霊問題につきて中々詳しく意見を書いておりますから、その一部を紹介しておくことに致します――
「私の弟の死は我々を取り巻く所の「未知の世界」と更に新しい一つの連鎖を作ることになりました。弟の行ったのは霊界ではなく、幽界の方ですから、自然私の注意は後者に集注されました。幽界は当時戦没者の霊魂で充満し、全然変調を呈していましたが、それが却って後に生き残っている我々に取り一層興味深く感ぜられるのであります。
私は自身で一年の内に近親の者を三人まで失っているのですから、過ぐる五ヵ年の戦役中、いかに多くの人達が悲しい思いをなされているかはよくお察しすることが出来ます。私には読者の多くの方々に恵まれていない一つの長所があります。私は幽界へ出掛けて行って、目の当たり死者の霊魂とお話が出来るのです。それでありながら私は人の死を世にも辛いものと感じます。然らば私のような真似の出来ない方々の悲痛は更にいかばかり深いでありましょう!
私が本書を発表するに至った動機は、私と同様の不幸な境涯にある方々にいささかでも慰安を与えたいと感じたからであります。私は弟の死ぬるずっと以前から死者は決して死ぬものでないことをよく存じていました。しかし死者が幽界でどんな風の生活を送っているかは当時の私にはよく判りませんでした。幽界の事情はA氏の霊魂並びに陸軍将校の霊魂からの消息によりて少しばかり判っているだけで、私の知識は主として霊界の方に限られていました。戦闘状態の幽界につきては何らの知識もありませんでした。
私の著した「ゴーン・ウエスト」の売れ行きが莫大であったと同時に、多数の読者から奨励の手紙を恵まれたところから察すれば余程同書が世間の注意を引いたことは判ります。一体我々が死後の世界の真相を世間に発表するについては、一般の普通人並びに各既成宗教の牧師達からの非難攻撃を覚悟してかからねばなりませぬ。
時には愚物として嘲られ、時には又妖術者として排斥されます。甚だしいのになると少々キ印ではないかと疑われます。が、これは新しい真理が最初是非とも遭遇せねばならぬ道程であります。とは云え、私はまるきり普通平凡な人間であります。即ち身を実業界に置き、複雑なる現世的事務を処理して行くことによりて生計を立てている所のただの人間であります。為替相場の変動、原料の仕入先、ドイツ人の貿易発展策、貿易上の統計表――これ等が平生私の関与している問題で、私がこんな事柄につきて論文なり、報告なりを書きますと、方々の貿易雑誌商業雑誌は喜んで採用掲載してくれます。
私はここに自白しますが、単に金銭上の見地から云えば心霊上の書物を書くよりも、南米に於ける英国貿易の進展策とか何とかいうものを二つ三つ書いた方が遙かに有利なのであります。私は謝礼を目的とする職業霊媒ではないのであります。読者諸君が、私と会食でもなさる場合に、若し私が何も申し上げなかったならば、他の多くの多忙なる事務的の人間と何ら相違点のないことを発見されるでありましょう。
果たして然らば、世の所謂批評家達が私の頭脳の健全を疑わるるのは謂れなきことではありますまいか? 普通の明晰健実なる実業的能力が、心霊現象を研究する時に限りて混乱を来たしたり、詐欺的方面に馳せたりするという理屈があるでしょうか? 若しこの霊界消息が真実でなく、又悲しみに充ちたる現世界の人達に何の役にも立たぬものと感じたなら、私は断じて自分自身にとりて絶対に神聖なるこれ等の文書を公表はしなかったでありましょう。
それはそうと私の筆に成れる死後の生活の描写――これが果たして不自然なものでありましょうか? 私の見る所ではこれは絶対に合理的であり、我々が幼児頭脳の中に注入された天堂地獄等の空漠にして嘘らしき物語よりも比較にならぬほど有力なものであると感ぜられます。
在来の既成宗教は死後の生活につきて何ら合理的な物語を我々に教えない。その点に関してはローマカトリック教が一番結構だと存じますが、その教える所の多くは私が入手しつつある通信によりて初めて証明を与えられます。之を要するに、公平に言えばローマカトリック教は一時かつて門戸を開いたが、後再び之を閉ざし、往時の預言者達がもらした所は後の人達によりて曲解されたり、誤解されたりして見る影もないものになってしまったと言うべきでありましょう。
大体において既成宗教は人類の口から発せられる最も痛切な質疑――死後我々は何処に行くか! という問に対して何らの解答を与えていない。我々は暗黒よりい出て暗黒へ帰る。何処より来たり、何処に行くか殆ど判らないというのが実際の事実であります。
既成宗教にして人間の痛切なるこの質疑に答えることが出来ない以上宗教家以外の者がこの要望に当たるより外致し方がありますまい。我々は既に科学的眼光をもって「自然」の秘密を暴きました。これと同一筆法で「死」の最大秘密を暴こうではありませんか。この仕事は既に己に着手されております。日毎に真面目なる研究者の数は加わり、日毎に新しい発見が現れつつあります。若し宗教者流がこの大事業に参加協力することを拒むならば、遺憾ながら真理に目覚めたる我々のみで勇往邁進しようではありませんか。
今や新しき黎明が開けつつあります。そして至重至貴の知識が吾人の掌理に帰しつつあります。外でもないそれは死後の姓名の連続ということの信仰にあらずして実証であります。
霊界通信に対してしばしば耳にする所の非難の一つは、各自の描く所に相違点があるということです。しかしながら批評家達が広くそれ等の諸書を通読するならば、重要なる諸点に於いて悉く一致しており、ただ部分的の相違があるに過ぎないことを発見するでありましょう。この「未知の世界」は広大無辺であります。不一致の点が存在することは寧ろ当然でありましょう。若し火星の住民が我が地球に数人の特派員を送り、地球の住民の状況を無電で報道せしめたと仮定するならば、火星の新聞紙は恐らく霊界通信に対すると同様の酷評を下すでありましょう。
試みに火星の新聞記事の模様を忖度(そんたく)するならば恐らくこんな按配ではありますまいか――近頃地球探検に出掛けたと称する迷信家連の手に成れる通信なるものは実に荒唐無稽、辻褄の合わぬこと甚だしきものである。数人の通信は殆どその各部分に於いて矛盾している。甲の通信には地球は一の砂漠で水が無いとある。乙の通信には地球は草木の鬱生した、ジメジメした林野だとある。丙の通信には地球は一の氷原で、その住民は毛皮を着ているとある。そうかと思えば丁は地球の住民は黒ン坊で陋屋(ろうおく)に住んでいると言い、戊は機械類や運輸交通機関の完備している大都市の模様などを面白く述べている。人間が空中を飛ぶなどという報告があるかと思えば、地上の人間は黄色で、殆ど機械類など所有せず、下らない村落生活を営んでいるなどとも報告する。てっきりこれは詐欺にあらずんば狂人の戯言に過ぎない・・・。
ところが、事実は火星の特派通信員が、それぞれサハラの砂漠、ロンドン、コンゴー、支那、グリーンランド等の各地に着陸して見聞したままを報告しただけのことで、記事の相違していることが却って極めて合理的なのであります」
私はこのワード氏の言説に余程もっともなところがあると感ずる者であります。ワード氏も職業宗教家達や新聞記者達の態度には余程手こずっている様子が見えますが、この点に於いては英国でも日本でも余り相違はないようです。
五. 著者からの来信
ついでに1914年2月18日の日付でワード氏から訳者に送られた長文の書簡の一節を左に抄訳して読者諸氏に御紹介いたします――
「・・・日本国にも貴方のような心霊研究の熱心なる鼓吹者があって、その人から懇篤なる手紙を頂くことは私にとりて誠に光栄至極であります。私の直感では、地上に数ある国土の内で、何か卓抜優秀な心霊事実を世界に供給するものの一つは必ず貴国であらねばならぬと存じます。私は貴国の心霊研究者達が営利売名の横道に入らず、世界の人類の先頭に立ちて貴重なるこの新興の学問の大成に貢献せられんことを切望して止まぬものであります。
ここに取りい出て私から御注意するまでもありますまいが、貴国に於いて心霊研究を遂行するには出来るだけ帰幽せる貴国の先輩者達のお気に召す宗教的儀式を尊重することが肝要と存じます。例えば日本の死者達の多くは生前必ず神道若しくは仏教の信者であったでしょう。従って神道ならば祝詞、仏教ならばその経文又は題目などを唱えるのが、きっと彼我の間に共鳴的通路を造ることになりましょう。
若しも日本の心霊研究者達が西洋流に賛美歌でも唱えたなら却ってあべこべの結果を孕むに相違ないと存じます。顕幽両界の交通は大部分精神の感応の結果です。故に何はともあれ、先方との意気投合が必要条件です。世間の心霊研究者のある者は全然この点を無視してかかるようですが、実験実修からお進みになられた貴方としては必ず私の意見に御賛成くださる事と確信して疑いませぬ。
私の二著書が老練なる貴方の手により日本語に翻訳紹介せられ、日頃私が敬愛する貴国民の間に流布するということは誠にこの上なき歓びであります。お望みならば序文でも書いて送りましょう。同じく心霊上の研究と申しましても、我々欧米人のやり方と東洋流のやり方とはその趣が余程相違しているでしょう。この際私の著書がどちらのやり方にも堪能なる貴方の手によりて紹介されるというのは幸福と言わねばなりません。
残念なことには私は東洋方面はラングーンまでしか行ったことがありません。が、いつか美しい貴国の地を踏む機会があることを信じます。貴国の被りたるかの大災厄に対しては同情に堪えませんが、貴国民が鋭意その回復に努められているとの事故、日ならず元の通りの繁栄を見ることと信じます。なお復旧工事は出来るだけ日本建築の特色を保存し、西洋諸国の山河を傷付けつつあるような、あんな醜悪な造営物を避けられることを切望して止みませぬ・・・」