イエスの弟子達
霊界通信 イエスの弟子達

パウロ回心の前後

ジェラルディン・カミンズ(著) 山本 貞彰(訳)

THE SCRIPTS OF CLEOPHAS
By Geraldine Cummins
First published February 1928
PSYCHIC PRESS LTD.
London, England

目 次
模範とすべき霊界通信の白眉
序文

第1章 ペテロの試練
第2章 選ばれた弟子の横顔
第3章 マッテヤが選ばれる
第4章 ペンテコステ(五旬節)
第5章 ペテロの奇跡
第6章 大慌ての大祭司とペテロの奇跡
第7章 アナニヤとサッピラの物語
第8章 弟子たちの逮捕
第9章 弟子たちの救出
第10章 ヤコブの活躍

第11章 聖賢ガマリエルの介入
第12章 ガマリエルの説得
第13章 霊視家ヨハネと聖賢ガマリエル
第14章 サウロ、ステパノに敗れる
第15章 教会の発展
第16章 教会の政策
第17章 ステパノの奇跡
第18章 ステパノの殉教
第19章 不吉な影が忍び寄る
第20章 サウロ三人の若者を殺害する

第21章 サウロの失策
第22章 サウロの回心
第23章 パリサイ派とサドカイ派
第24章 パウロの信仰告白
第25章 サマリヤの魔術師、シモン
第26章 パウロと大祭司
第27章 ドルカスの物語
第28章 パウロの試練
第29章 ローマ総督と魔術師エルマ
第30章 残虐な領主ヘロデ
第31章 ヘロデの挫折と死

訳者あとがき


模範とすべき霊界通信の白眉
近藤千雄

 霊媒のジェラルディン・カミンズと訳者の山本貞彰氏については『イエスの少年時代』の冒頭で私が必要最小限の紹介をさせていただいた。本書では、編纂者による<序文>と訳者による<あとがき>で霊媒カミンズについて必要かつ十分な紹介がなされているので駄弁は控えたい。

ただ、死角となりがちな観点から一言述べさせていただけば、カミンズがもしも心のどこかに慢心を宿し、名誉心と金銭欲とに駆られていたなら、きっと新興宗教の教祖となり下がって、きらびやかな神殿をうち建て、歯の浮くようなお説教をのたまっていたことであろう。

が、神の道具としての霊媒の身分を弁えていた女史は、終生その立場を忘れることなく、神の僕としての使命に徹した。モーリス・バーバネル、ハリー・エドワーズ、エルテル・ロバーツ、その他スピリチュアリズムの多くの霊媒・霊能者についても同じことが言えよう。

こうした真の意味での〝神の使者〟はその謙虚さゆえに、とかく目立たぬ存在となりがちである。そして一部の理解者を除いて、その真価を知る者はきわめてまれである。しかし真理とはそういう人たちの存在があってはじめて地上に根づき、後世へ引き継がれて行くものなのである。

さて本書を読んで、まず編纂者の顔ぶれとその格調高い「序文」に圧倒される。彼らはただの編纂者ではなく、この霊界通信の真実性の〝証人〟なのである。

先入観をひとまず脇に置き、事実は事実として、自動書記の行われる現場に立ち会い、綴られた文章の内容の信憑性を学問的に徹底的に検討し、その上で〝正真正銘〟の折り紙をつけたのである。

霊界通信はまさしくこうした率直さをもって理知的に分析する態度、俗な言い方をすれば〝疑ってかかる〟ことが大切である。もとよりそこに偏見や邪心があってはならないが・・・。

それに加えてもう一つ大切なのは、その内容が果たして霊から教わるほどの価値のあるものかどうか、という判断である。その点においても本書は、編纂者にも訳者にも〝なるほど〟と思わせる圧倒的な説得力をもった事実の連続のようである。謎とされてきた聖書の欠落部分がみごとに埋められているというのである。

霊媒が勝手にそう主張をしているのではない。キリスト教の牧師や聖書研究家、それに心霊研究家が、それもたった一人や二人ではなく実に二十数名も証言しているのである。

こうした専門的な学識と良識とを兼ね備えた人たちによる鋭い分析と理解、そして山本氏の達意の訳文が、クレオパスという、一般の日本人にはなじみの薄い初期キリスト教時代の霊からの通信を、興味深くしかも信頼のおける読み物としてくれている。

山本氏は大小合わせて数冊からなるクレオパスシリーズの中から三つの大きい通信を選び、その中でも最も大きい一冊を二巻に分けられた。本書はその前半である。

その中で使途パウロの回心に至るいきさつが語られ、後半でその伝道活動が語られる。これが第二巻で、さらに第三巻でジュリアス・シーザーへの直訴がテーマとなって展開し、そして第四巻では暴君ネロの悪業とローマの大火というクライマックスを迎える。そこには映画化してもよさそうな人間味たっぷりのドラマチックなシーンが展開する。

訳者の山本氏は以上の四巻でイエスの弟子たちの聖書時代の真実の行状をテーマとしたシリーズとし、他方、既刊の『イエスの少年時代』と、これから手掛けられる『イエスの成年時代』の二巻でイエスの実像に迫るという雄大な構想をたてておられる。

すでに形骸化してしまった在来のキリスト教に訣別された山本氏が奇しくもこうした霊界通信の翻訳によって真実のキリスト像とその教え、その弟子たちの行状を日本に紹介することとなった。これはまさしく山本氏の信仰的復活というべきであり、氏の仕事がこれからさらに他の大勢の読者を蘇らせていくことであろう。

この歴史に残る画期的な訳業の完成、成就の日の到来を、心から待ち望んでいる。


序文
これは、紀元一世紀ごろクリスチャンに改宗したクレオパスと名乗る霊から送られた通信をジェラルディン・カミンズ女史が書き綴ったものである。本書は三巻よりなるクレオパスの書と称するぼうだいな原稿群の最初の部分が収録されており、それ自体ほとんど独立した完ぺきなものである。

カミンズ女史は、アイルランド、コーク州に住む故アシュレイ教授の娘で、スポーツ界と文学界にその名が知られている人物でもある。彼女はアイルランドでホッケーの選手であり、テニスをよくする運動家である。

同時に彼女はアイルランドの農民生活を描いた『彼らが愛した大地』(マクミラン社、一九一九年発行)著者であり、更にスーザン・R・ディ女史と二人で著した二つの演劇『破壊された信仰』(ダブリン市、アベイ劇場にて上演された)及び『狐と鵞鳥』(ロンドン、コート劇場にて上演)の劇作家でもある。

カミンズ女史はまた演劇関係の新聞論説に貢献し、文壇で話題となる小説や演劇の書評を掲載した。本書の内容から察するに、さぞかし哲学、宗教に造詣深いと思われるであろうが、多読家の女子は、バーナード・ショー、ゴールズワージー、ウィリアム・イェーツなど現代作家の作品だけに限られ、神学、神知学、哲学、キリスト教関係のものは一切読んだことがないということを銘記していただきたい。

本書『クレオパスの書』の一語一語が綴られるにあたって、生き証人として、E・B・ギブス女史が立ち会った。彼女は、音楽、園芸、旅行に関心を持ち、すでにニュージランド、北米、南米、インド、ギリシャ、日本、スイス等を旅行していたが、エジプトやパレスチナには行ったことはない。

ギブス女史は一九二三年の始め頃カミンズ女史と知り合った。しかも初代教会の歴史には全く関心がなく、更に教会に行ったこともなく、ましてや入信などとは全く無関係であった。

ギブス女史立ち合いのもとに霊感書記が開始されたのが一九二三年の十二月で、このときにはカミンズ女史の書記能力は極めて低く、せいぜい一五分くらいで力つきてしまう程度だった。暫くすると次第に時間が延長されて、邪魔が入らなければ二時間ぶっ通すことができるようになった。

二年後の一九二五年十二月になって、二時間二〇分(一四〇分)となった。普段のカミンズ女史は、書き直しが多く、二日間でやっと六〇〇から七〇〇語を生み出す程度だった。自動書記が始まると、女子は左手で両目を被い、肘を机の上におき、右手で鉛筆を握り、フールスキップ判(日本のB4)用紙の束の上にもっていく。

暫く入神状態が続き急速に鉛筆が走り出すと、実に明瞭な書体で一字の誤りもなく知的な原稿が出来上がる。そばに居る者が書き終わる毎に原稿をめくって新しい用紙にする。次第に休むことなく正確に書き綴られていく。

普段の女史の書記能力と較べてみて遥かに速い速度で記述されているのがわかる。一九二六年二月十六日には一時間三八分もの間全く休みなしで、二二三〇語が記述され、同年三月十六日には四人の立会人の目の前で、一時間五分の間に一七五〇語が記述された。(平均一時間に一六一五語)

あるときなどは、詰め書きで二六〇〇語が一つの訂正もなく記述されたこともある。書く速さや執筆時間は、肉体的精神的条件によってまちまちである。通常は邪魔が入らない限り、おおよそ一時間半を少し超えるぐらいである。

編纂者一同は、カミンズ女史と、彼女の記述に協力したギブス女史の私心のない誠実な人間性を大いに買っていた。そもそもこの記述は、ドイツのオーガスチン女子修道院に所属するアンナ・カタリーナ・エメリック修女が啓示を受け、ローマ・カトリック教会が神聖なものとして広く容認した『主イエス・キリストの謙遜な生涯と苛酷な受難、及び聖母マリヤ』という霊感書記と比較されることが多い。

一八三三年にその内容が出版されて以来、ドイツ語による出版物が多く発刊され、英語、イタリヤ語、スペイン語などにも翻訳された。

著名なカトリック系神学者や聖職者は、記された内容が真に事実に基ずいてるか、そして啓示として主張し得るかどうかについて詳細に吟味した結果、これは全く疑う余地のない真正な啓示の書であるという判断を下した。

このような決断によって、本書への認識も一段と強化された。本書の至るところに散見されている内容は、実に正確であることが実証された。そのいくつかの例を後に挙げてみよう。とにかく吾々編纂陣は、エメリック修女によるドイツ語の啓示書が優れた神学者によって真正なることを証明されたのと全く同じもの、あるいはそれ以上のものがカミンズ女史によって生み出されたものと思っている。

ある観点では、本書の方が更に強力な実証力を持っているであろう。エメリック修女が受けた幻は、詩人クレメント・ブレンターノによって記述された。その方法はまず表題だけを記述し、後から回想しながら物語を埋めるというやり方であった。彼が書き終えてから修女に読んで聞かせるのではあるが、この方法では啓示の内容が多少歪められる可能性をもっている。本書の場合、このような媒介人物によって歪められることはない。

カミンズ女史も編纂者も全く口をはさむことがないからである。さらに本書は記述されたメッセージである。従って実に厳格な検査や調査を加えることが出来るメリットを持っている。

編纂者は本書に特別な権威を与えようなどとは考えていない。さらに又原本そのものについて論評するつもりもない。たしかモートン・プリンス博士とその一派が言っているように、カミンズ女史の潜在意識に関する調査の問題はあるが、前述したように女史の受けた教育や関心事を知れば殆ど問題にならないと思う。

求められているものは、写本が正確であるかという一点である。記述内容は、「使者」(メッセンジャー)と称する霊によっておくられてきたものであり、「使者」はあくまでも著者ではない。

カミンズ女史にただ忠実に受け取ってほしいと願っているだけである。ときどき彼は他人が送ってよこす言葉を書きとめる書記役を果たす場合があり、送信するときにねじまげられやしないかと文句を言うこともある。しかし送信される言葉は直訳的なものではなく、むしろ言葉を媒介とする思想であり、作者の記憶の中に蓄えられたイメージである。

「もし霊の手によって綴られたものであれば、それはまさに古代の出来事に関して真実を伝えるものである」と本文の中で語られているごとくである。

通信のすべては、一人のクレオパス霊(クローパスとも言う)の指令によって送られてきたものであるが、この霊は、人間界からは遥かに遠い高次元の方であると言われている。事実この霊界通信ではクレオパス霊の指示によって七人の書記が動員されていると言われている。

彼らの働きによってクレオパス霊の古代語の清らかさや誠実味が余すことなく現代思想によって表現されている。使者は、他の写本のほとんどが消滅してしまった初代教会から始められていると述べている。それと同時に彼はクレオパス霊が一つの記録だけではなく、色々な記録を自分で一本にまとめ上げたものから引用しているとも言っている。

使者が質問を始めると、クレオパス霊は、あらゆる知識がつまっている記憶の樹から必要なものを引き出してきて書記に与え、書記は使者にそれを伝え、使者は女史の思考の中に入っていく。

女史の思考の海に漂っている多くの言葉を集めて物語を綴っていく。それはまるでよく磨かれた鏡のように、反射されていく。しかし女史の中に使いたい言葉が見いだせない時は、とても困ることになる。彼女の記憶の中にない単語や固有名詞などを伝えることはとてもむずかしいことである。時としてこのような困難にぶつかることがある。

後になって、使者からの通信により興味ある情報がよせられた。即ちこの記録のオリジナル(原文)はキリスト降誕後六〇年乃至七〇年の出来事が集められているとのことである。記録の作者はキリストの弟子たちを直接目撃した人々であって、その大部分はエペソかアンテオケで執筆されており、主としてギリシャ語で記されている。

所々にアラム語やヘブライ語も使われている。いずれにしても、使者によって寄せられた一連の事実に関して編纂者が判断の基準を示さねばならない。

使者が言うには、在世中に特殊な専門知識を身につけ、殊に東洋の言葉に造詣が深かったそうであるが、現在自分の考えを伝達するためにいわゆる人間の固い頭脳なるものを利用することはめったにないとのことである。

彼は非常に多くの旅をし、南の島々に住む野蛮人を対象に説教をし、ローマにもしばしば行ったことがあると言っている。唯一の問題は、彼が余り地上の諸条件を知らないように思われている点である。

例えば印刷の技術が発明されていることを知らないので、書記が沢山のコピーを書かねばならないとか、書記が書いたものに多くの誤字がないかを注意深く見守るようにと心配しているのである。しかし彼について最も称賛に与えすることは、彼が次のように語っている点であろう。

「我々は師なるキリストを仰いで生き抜いた兄弟のように、悲しみ、危機、驚異、清純の生涯をもう一度やり直すべきである」と本書に収録されている記録について究極的にどんな説明が加えられようとも、これは実に興味津々たる内容が盛り込まれ、示唆に富む記録である。

本書の接し方について読者は提供されている内容の証拠性よりも、内面的確信と対決されんことを勧める。ある方々は、これが超現実(霊界)からの通信であるとみなすであろうし、又ある方々は、殊に現代心理学の立場から、純粋に人間自身の産物であり、無意識に働いているテレパシーのようなものによるものと考えるであろう。

いずれにしてもこの記録の最初の部分を発刊するにあたり、編纂者一同は本書が多くの異なった興味を提供し、あらゆる観点から調査研究されるであろうと確信するものである。

本書は、原稿に忠実に印刷されているが、まれに本文が不必要な古語が多すぎてフレーズが乱れている場合には手直しされている。あるいは又、内容そのものに直接関係のない、くどい文章や、前述されたものの繰り返しなどは削除してあるが、多少なりとも本文の意味と関係しているものにはついては一切手を触れず、そのままの文体を保存するように努めている。

本書の内容についていくつかの説明を添えておく。

この記録は新約聖書中の『使徒行伝』及びパウロの手紙を補うものとして記されている。

具体的には初代教会の様々な状況が語られ、更にキリストの死んだ直後からパウロがアテネに向かってベレヤを出発した頃までの弟子たちの状況が記されている。(新約聖書使徒行伝一七・一五参照)本書の中で新約聖書が別に存在していることをほのめかしているが、本書はそれとほとんど関係がないようである。

少なくとも使者と称する霊は、在世中に聖書なるものが存在していることを知らなかった。彼は「私は、この部分に関する聖書の記述は全く知らない」と言っている。本書はまさに我々が知っている新約聖書の足りないところを補いかつ説明する材料を含んでいるだけではなく、聖書では得られない情報をふんだんに提供してくれるのである。

パウロの劇的回心(ユダヤ教からイエスに帰依すること)の経験について新約聖書では余り多くを記していないので、パウロの生涯を研究する者にとっては、実に興味深い資料を本書から得られると同時に使徒行伝九章<回心の記述>について非常に丁寧に詳述された本書の記録とを比較研究することができる。

新約聖書について銘記すべきことは、使徒行伝の最初の一二章の内容が九年にわたる経緯を語るのに、たった三〇日分の記録しかのっていないことである。

これは新約聖書の編集者が明らかに膨大な聖書の歴史的資料を漏らしていることになる。本書の記録がもし本当に信頼し得るものであるならばそれは使徒時代に関する知識について、非常に重大な貢献をしてることになる。

もしも媒介者としてのカミンズ女史の生涯と精神構造を以って説明しようとするならば、本書を記述した人間の推測力について何と理解したらよいのであろうか。小アジアのアンテオケに在住するユダヤ人社会の首長の名称について、すぐれた研究によると、「アルコン」というタイトルが正しいことがわかってきた。

クレオパスが当時の記録を語っている頃の首長のタイトルは、紀元一一年、ローマ皇帝によって町全体の機構改革が実施され、「エスナルク」から「アルコン」(archon)に変わったばかりであった。従って当時の記録に、殊に、パレスチナ地方に住む人による記録に「エスナルク」と載っていても許さるべきミスであると言える。

それなのに、その当時の比較的新しい名称の変更「アルコン」が本書に記されているということは、これ以外の多くのこまかい部分についても、この道の権威者を驚かせる程の正確な知識を伝える一例である。

このような細部にわたる正確な知識以上にすぐれていることは、当時の時代的情況を示唆する鋭い洞察力である。

十二使徒(イエスの弟子)の性格についても、それぞれの人間性を深く理解し、暖かい眼を以って描き出している。ユダのことにいたっては、現代作家も面目を失う程の明晰なタッチで描かれている。

ごく一般にユダは、貪欲からイエスを裏切ったと言われている。福音書の関係記事(マタイ伝二六・一四・一五。マルコ伝一四・十,十一。ルカ伝二二・三‐六。ヨハネ伝一三・二、二七、三十。使徒行伝一・十六‐二十五)をよく吟味してみれば、この考え方が全く正しいものではないことがわかる。

貪欲説は後世の推定であって、貪欲であった理由は一つも説明されてはいない。事実、何が彼を裏切りに追いやったのか説明することは実にむずかしいことである。しかしクレオパスの記録が示しているように、野心が断たれた失望感が理由であるとすれば納得がいくのである。

何もユダに限らず、リーダー格の三人の使徒(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)もユダに劣らず野心的であったようである。ペテロはイエスの一番弟子たることを求め、更にゼベダイ兄弟ヤコブとヨハネは、神の王国の栄光を求めイエスの右と左に座を占めようと願い出た。

(マルコ伝一〇・三十五‐三十七)これを見ても解るように、ユダだけが野心的であったとは言えない。

この記録は確かに聖書の内容を補い、役立つ説明を与えてくれるが、聖書を制定した教会の基準によって作られたわけではない。素直な読者の中には、魔術の存在や魔術の物語が出てくることに驚かされ、聖書に示されている聖霊の働きではないと反対する者もいるかもしれない。

しかしこの記録自体は、高遠な霊的、哲学的レベルから記されたものではない。時として、反感をかうような世俗的レベルを露呈することもある。使者は次のように言っている。

「キリストのメッセージは、無学な人々に送られたものである。即ち大衆のためのものである。だから私が運ぶこの記録に当時のパリサイ人やサドカイ人は耳をかさなかっただろう」

本書のすべての物語は、クレオパス霊の素朴な喜びを特徴づける、奇跡の物語である。彼にとってキリスト教は偉大な霊の力の働きによって出現したものと見ている。しかも同志を容認しないものを殺してしまう程の力が「同志」掌中にあり、彼らだけが呪術を用いることが出来た。従って、純粋な霊性については余り問われず、すべての敵を粉砕してしまう突発的な力の方が優先していた。このような魔術は、もちろん非常に低次な宗教的展開と言える。

このような現象は、正典として認められている新約聖書の中にも、使徒たちの行為として収録されている。使徒たちの本来の仕事は、純粋な霊的真理を多くの人々の心に叩き込むことであったのだ。

確かにこのような形のものが本書の中に見られるとしても、これが本書の価値を損なうと反対する者がいれば、それは非常に人間くさい。時として非キリスト教的感情の露出がかえって心理的裏付けや歴史的価値を持っていることを知らないからであろう。本書は正典として認められているものではなく、その価値を計測することはできないかも知れない。

しかし編纂者が本書を新約聖書と同じレベルにおいて判断していると考えることは、余りにも軽率である誹りを免れない。初期のキリスト教文書は新約聖書よりも遥かに確かな標準を示している。

最も伯仲している文書は、(1)アポクリファ使途伝(経外典)とか、紀元二世紀ごろまでの伝奇小説的なものであろう。銘記すべきことは、使徒時代のキリスト教でさえ、異教の考えや信仰と混合することは避けられなかった事実である。新約聖書には、迷信や冷淡な策略が無数にのせられている。ある意味で歴史的ではないとされている、アポクリファ(経外典)は、初代教会のキリスト教社会の内情を知るうえで非常に有効な手掛かりを提供してくれる。

一例をあげれば、本書が非常に有名な初期キリスト教伝奇小説(2)『クレメンスの書』と酷似していることである。

ここでは残念ながら、宗教哲学、道徳律、教会組織などについて両者の類似点について詳しく触れることはできない。また、全体の調子から推測して、どちらが先に記されたのか、あるいはどちらが複製なのかを判断することは不可能である。

魔術、妖術への信仰、魔力を行使すること、使徒たちに与えられ行使されていた顕著な魔術的パワーは、両者にも等しく取りあげられ、しかも、それらは教会が否応なしに直面させられた社会的情況であったと言っている。

原始宗教に関する最近の研究によると、世界のどの宗教形態も魔術的信仰をいだいていたことがより明らかになっている。いかなる外観を呈しているにせよ、かかる基本的な信仰形態は教会が対決し論駁しなければならなかったものである。

従って本書において華々しく展開される魔術の記述があっても、真実性を損なう論拠と見なす必要はない。それよりもどんな作者でも迷信とか詭弁とか非難されることなく、初代教会を黄金時代として自然のままに表現できたことを多とすべきであろう。

更に本書と、真正なものとして知られている初期キリスト教の小説が、様式の上でも酷似していることにおどろかされる。クレオパス霊は、文学的に生き生きと表現することに並々ならぬ努力を払っている。読者がどれだけ汲みとることに成功するかは別として、彼は意図的にロマンチックな、情緒的な物語をふんだんにもりこんでいる。

物語を活気づけるために一度ならず、ほんのりとした興味をそそるものを導入しようとしている。第三巻一章に描かれている一七五〇文字で綴られた文章などは、まさに美麗そのものであり、なかには、誇張や冗長なところもある。

彼は人物描写を好む。怒り狂ったり、狼狽するピリピの首長などを至極ユーモラスに描いており、対話の術にも長けている。彼はまたエピソード(挿話)単位に本書を組み立てて読者の興味を先へ先へと引っ張っていく。

本書に関して非常に興味をそそられることは、通信のために選びぬかれた霊媒が小説家であり、使者は彼女(カミンズ女史)の心に浮かぶイメージを最大限に利用しなければならないので、勢い彼の語ることが多くの小説を読んで洗練された表現方法を身につけた女史の形態をとることになる。

それで物語全体は、終始変わらない現代的表現形式となっていることに着目していただきたい。例外として欽定訳聖書(一六一一年刊行された英訳聖書)や古語が用いられることがある。従って本書の大部分は現代用語に変えられているわけである。しかし個々の物語の様式は、いわゆる使者の人格を通して伝えられたものである。

一般的に言えば、あたかも家族関係のように、本書と聖書に付属する外典や偽書との間には極めて緊密な興味ある類似性がある。

最近そのことに貴重な注意を向けた研究が、英国のチャルス博士及びドイツのカウチェ教授によって進められている。それなのに教会の権威によって承認された諸文書に付随した重要性があることを主張しようとしない。これはキリスト教の教義よりも、初期の教会歴史を研究する資料である。

たいていは口伝によるもので、信頼すべき口伝の内容が急速に通俗化していった。しかし、これは当時の一般大衆の宗教を知る上で重要な手掛かりと証拠を提供してくれる。もしも、クレオパスの書と他の諸文書との比較研究が始められるならば、かなりの驚くべき暗示に富む類似性が発見されるであろう。

しかもエズラ書(旧約聖書)やユダヤ人キリスト教徒によって記された福音書やグノーシス(3)文書など及びもつかぬ程詳細に、価値ある研究がなされるであろう。奇跡的要素の流行についてはすでに触れたように、キリスト教そのものが奇跡から出発していることをすでに弁明しておりながら、最高の現代的論評では、奇跡がイエス自身によって行われたという疑う余地のない事実を放置している始末である。

更にその上に純粋なユダヤ教やキリスト教の宗教的要素が徐々に薄らいできて、世俗的思想が強く浸透してきた。

これらの傾向は本書の中でも見られることは、すでに指摘してきたとおりである。粗末で懲罰式色彩の濃い異教的要素や主情主義的基調は、あらゆる種類の外典にも共通しており、その必然的結果として、キリスト教も世俗化していくのである。

クレオパス霊の書について考察を加えていると、ちょうど外典の研究をしている篤信家が壁にぶつかるのと同様に編纂者は、霊感とは一体なにを意味するものであるかという難問にぶつかる。

そしてこの文書がもっている重要性とは、初期の頃のキリスト教が何であったかということよりも、初期の主唱者たちがキリスト教をどのように見ていたかを明らかにすることではないかと確信している。注意深い読者ならば、迷信や誤った熱情の背景及び使徒や後継者を悩ませていた無知に強い印象をいだかれるであろう。

本書に出てくる初期の改宗者で、教会の首脳や教師になった者は、教化するために過度な行為を発揮してはいない。彼らは、ある程度の理解力を持っており、識者としての証を持っている。それは地上の容器(肉体)に蓄えられた宝である。

最後に編纂者一同は、この記録を努めて公平な形で公開する。即ち立証を申し立てたり、個人的動機やくだらないもくろみをもって出版するのではない。印刷の原稿を用意するに当たって、全体的に変更を加えたり、組み替えたりしていない。この短い序文の中で、読者に対して率直に事実の説明を加え、偏見の余地を与えないように努めた。

本書によって提起される諸問題にある程度当惑するであろうが、われわれは、わざと憶測や説明をほのめかすことを差し控えた。本書は、注目や調査に与えする作品であり、初期キリスト教の歴史及び文学において、思想的変遷あるいは高次元からの通信に関する専門家の調査を受けることに躊躇しないであろう。

一九二七年十二月二十一日
編纂者一同


(注1)
ギリシャ語のアポクリュフォスからきたもので、「隠されたもの」という意味である。聖典として入れられなかった経外文書をさし、旧約聖書からもれたものである。「旧約外典」は十四巻、新約外典は約二十巻がある。

(注2)
ペテロの弟子、クレメンス(ローマの初代司教)が、コリントの信者にあてた書簡。

(注3)
初期キリスト教時代の神秘主義的宗教思想、即ち霊界の神秘を重視するグループによって記された文書。


編纂者一覧
モード博士(ロンドン、ケンシングトン教区主教)
エスタレー博士(キングス・カレッジ、ロンドン大学、名誉教授/ヘブル語、旧約聖書学の権威者)
パーシー・デァマー神学博士(司祭)

ジョン・ラモンド神学博士(司祭)
ビスカテス・オットレイ(カンタベリー大聖堂、司祭)
フリーマン(ブリッスル大聖堂参事、司祭)

A・H・リー(司祭)
ドレイトン・トーマス(司祭)
フィールデング・オールド(司祭)
アルフレッド・リトルヘール(司祭)

プリンス博士(元心霊科学協会、会長)
エドワード・ラッセル氏
R・カミング博士

J・G・ミラー博士
G・R・S・ミード氏
クレスピニー女史(作家)

セント・クレア・ストバート夫人
バーバラ・マッケンジー夫人
マーシー・フィルモア嬢

エドワード・アリソン夫人(元米国心霊科学協会秘書)
スザンナ・デイ嬢
N・トムギャロン嬢
アンダーヒル嬢

編纂者一同へ
編纂者の一人、故W・O・E・エスタレー博士の見解が序文の中で非常に良くとりこまれている。英国の新聞、ザ・タイムスに掲載された同氏の死亡記事欄に、同博士は知識の無限の貯蔵庫の持ち主と述べられている。彼は英国における代表的なヘブル学者と言われている。

一九二五年十二月にエスタレー博士は、キングス・カレッジのヘブル語及び旧約聖書注解の名誉教授としてロンドンのグロトリアン・ホールにて『クレオパスの書』に関する公開講座を開催した。そこで次のように言った。

「比較的新しい称号であった「アルコン」という言葉を使っていることは、記録を書く側に極めて正確な知識を持っていることの片鱗をのぞかせるもので、この記録作成者は実に驚くべき人物である。私が今選んだほんのわずかな例証は、諸君にこの文書がもっている真実性が全く偶然ではないことを示すためである。

しかしどうか信じていただきたいことは、もし私が今、この種の例を文書の中から十分の一だけでもよいから列挙しようとするなら、諸君を夜中まで止めておかねばならないだろう」

エスタレー博士が最後にこの講座を閉じる言葉は、次のようであった。

「初期の教会が、この新しい宗教を前進させるためには、特徴ある信仰を明確に述べ伝える必要があった。今やクレオパスの記録の中に、私は、我々の手元に伝えられた総ての初期キリスト教文献と共通の性格を見いだしているばかりではなく、当時教えられていた教理も一致していることを発見している」

神学博士W・P・パターソン主教

ダビット・モリソン教授及び有志一同


第1章 ペテロの試練
私はキリストがよみがえった直後の驚くべき事柄を伝えるために参った者である。

イエスの弟子たちは、しばらくの間ひどく悩まされていた。それは誠に地獄のような苦しみであった。しかし互いに隠忍自重して、努めて明るく振る舞っていた。十一人の弟子たちは、それぞれ残忍な悪霊に責められていた。

彼らは聖なるお方をお迎えするために、祈りと瞑想に専念するように師(イエス)より言われていた。それで彼らは内からも外からも様々な試練にさらされていたのである。

そんなある日のこと、サンヒドリン(最高司法庁)及び大祭司(最高権限者)から数人の使者がおしのびで三人の弟子のところにやってきて、金貨やたくさんの贈り物を彼らの目の前に積み上げた。当時ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、信者の指導者として共同生活をしていた。三人は、一体これにはどんな意図が隠されているのかを話し合っていた。

夕方になって使者はようやく口を開き、「今よりキリストの名を口にして民衆の間に彼の教えを広めるようなことをしたら、当局の怒りを買うことになる」と言った。使者は大祭司が望んでいる事柄を伝え、「この金貨は、三人の指導者ペテロ、ヤコブ、ヨハネに贈られたものである」と言った。

ペテロは使者の言葉を聞きながら、師が最後に自分に言い残された言葉を思いうかべていた。

「私の小羊を養いなさい」(ヨハネ伝二十一章十五節)。この言葉は、まさに、このような情況に直面した時に最も大切な意味があることを知った。もし三人の羊飼い(指導者)が団結しなければ、多くの信者は散りじりに離散してしまうことは分かりきっていた。

ペテロは人間的にとても脆(もろ)いところがあったので、使者の言葉に少なからず動揺していた。もしも大祭司の意向に刃向かえば、どんなに痛い目にあわされるかを思いうかべていた。彼はヤコブとヨハネから少し離れて座っていた。

彼の心が揺らいでいることを察知した使者は、ペテロのところに近寄り、甘い言葉をささやいた。「私の小羊を養いなさい」という声が心に響きわたり、昔イエスを裏切った時に師が彼に見せた顔を思い出していた。その瞬間、彼は地上に卒倒した。ヤコブとヨハネは、彼が気絶したのかと思い、急いで彼を抱き起した。

ペテロは二人の手をふりはらい、大祭司の使者に向かって、「ここから出て行け! グズグズしてたらたたきつぶしてやるぞ!」と怒鳴った。使者は動こうとしないで、逆にペテロを脅し始めた。

それで生来気短なペテロは逆上し、使者の頭を殴りつけ、その部屋から追い出してしまった。「主の御名に誓って悪霊なんかの言うなりになるもんか!」と怒鳴り散らした。

ヤコブとヨハネは怒り狂っているペテロの手と口を押さえ、ほかの人々に知られないように努力した。突然ペテロは駆け出した。二人は彼の後を追い掛け、ついに暗い部屋の中で泣いている彼を見付けた。罪の苛責に苦しんでいたのである。彼は師の意に反して再び失敗し、指導者として全く恥ずかしいことをしてしまったことを嘆くのであった。

彼はヤコブとヨハネに対し、自分はもう異邦人にキリストを伝える資格はないので、他の弟子の家来にしてくれないかと懇願した。それをきいた二人は静かにペテロに行った。
「人間は誰でも心ひそかに恐れているものに腹を立てるものです。あなたは大祭司の使者に恐れをなしたので怒り狂っただけのことですよ。

でも大きな誘惑に打ち勝ったのですから、その罪は許されています。もう二度と失敗しないようにして下さい。このことは誰にも言いませんから、大祭司の使者がきたことも、あなたが怒り狂ったことも知られずにすむことでしょう」。

シモン・ペテロは、もう二度と怒り狂うことはしないと二人に固く誓った。三人は、そこから誰もいないところに行き、しばらくの間ペテロの罪を清める祈りをなし、師の約束(聖霊の降臨)の準備を続けた。

ペンテコステ(訳者註─五旬節といってイスラエル人が毎年行う三大祭りの一つで、麦の収穫を感謝する。さらに二個のパンを初穂として神に捧げる。イエスの時代には、十三歳以上の男子は全てエルサレムの神殿に参拝するのが義務であった。イエスは弟子たちに自分が去った直後には必ず聖霊を各人にさずけると約束した。それで教会はその日を以て教会の誕生記念日とした)

を数日前に控えた頃、三人の指導者は群れのところに戻ってきた。そして以前に申し合わせていたように、二階座敷が用意されていた。ペテロの心は非常に燃え上っていた。彼の罪は許され、二人の同僚に支えられていたからである。

そんなわけで、ペテロは怒りの罪を乗り越えることによって弟子の誰よりも最初に大きな奇跡を成し遂げることになったのである。それについては、聖書の使徒行伝、三章一節より十節に記されているとおりである。

ペテロのたった一言で全身麻痺の乞食が立ち上がり、神を称えながら神殿へ歩いて行ったのである。もし、この奇跡を聖書で読む時は、あの怒りの罪が許されたことに由来するものであることを覚えておいてもらいたい。

第2章 選ばれた弟子の横顔
聖霊降臨に関する証言は、弟子たちによって違っている。一人一人の精神構造や霊性に違いがあるからである。

一人として全く同じように造られている者はいないのである。御多聞にもれず、イエスの十二人の弟子も千差万別で、互いに違った者どうしで組み合わされることによって、一つの立派なパターンができあがるように選ばれていたのである。

師であるイエスは、安全に水上を運行する船は、一本の木材だけではなく、多くの木材を必要としていたことを承知していた。それで彼は意図的に十二人を選んだのである。霊的資質に優れているというだけではなく、この船は早晩彼の教えを満載して、異邦人の所へ運んでいく任務を帯びていたのであった。

第一の弟子は、『ヨハネ』である。彼が選ばれた理由は、一点の曇りのない透明な魂という容器に、純粋な霊の炎が燃え盛り、永遠に関する幻を見ることができたからである。彼は無知な人々に目に見えない多くの徴を与え、霊的知識を教えることができた。

第二の弟子は、『ヤコブ』である。彼はこの世俗な知識を豊富に持っており、冷静な判断をくだすことができる人物であった。彼はあらゆる点で工夫することに優れていたので、生活面や対人関係において他の弟子が大いに助けられていたのである。

第三の弟子は、『ペテロ』である。彼は一口に言えば、情熱家であった。彼の強烈な気質は、地上のすべてを焼き付くし、荒野の茨をも吹き飛ばしてしまう程の気概を持っていた。彼の人間的弱点もまた選びの対象となった。人は犯した罪を悔い改める時、何倍もの良い働きをするものである。これは主イエスに対する忠誠心につながっているのである。

第四の弟子は、『アンデレ』である。彼の長所は何事にも動じない胆力であった。その様は、あたかも夕べの湖面のように滑らかであった。

第五の弟子は、『ピリポ』である。彼は学識があり、柔軟性をふんだんに持っていたので、相談事があるたびに大いに役立ったのである。更に彼は、異国に対する恐れを持たず、諸国に関する知識や理解も豊富で、地の果てにまで出掛けて行くことができる人物であった。

第六の弟子は、『バルトロマイ、又の名をナタナエル』である。バルトロマイという名前は、彼がエジプトで生まれた時につけられたものであり、彼がユダヤ人社会に住みついてからナタナエルと呼ばれるようになった。彼は才知に優れ、教えることや布教することに大変熱心であった。しばしば挫折するのであるが、更にそれを乗り越える情熱をもって癒されるのであった。

第七の弟子は、『マタイ』である。彼は用心深く、口数が少なかったが、霊的なことに関しては非常に敏感であった。従ってどんなささいな疑問点でも応答できる人物であった。

第八の弟子は、『トマス』である。頑固が彼の代名詞である。まるでロバのようであった。いったんこうと決めたら自分の考えや主張は絶対に変えようとしない。しかし彼には思考力と強靭な独立心が備わっていたので、後日になって一人前の指導者として活躍し、イエスに対する信仰を固く保つ人物であった。

第九の弟子は、『アルパヨの息子ヤコブ』である。暖かい心の持ち主で、多くの弱い者の味方となった。彼の魂は同情心であふれていた。けれども生来小柄で、指導者としての力量はなかった。どちらかと言えば良き従僕であった。

第十の弟子は、『カナン人のシモン』である。働きが敏捷で、生き生きとしていた。不信な気持ちを粉砕する程の説得力を持っていた。しかし精神的には深みはなく、ときとして三人の指導者(ヤコブ、ペテロ、ヨハネ)から強引に知恵を引き出そうとした。それで三人のリーダーは、なるべくこの弟子から離れ、自分の努力で霊の知識を引き出せるように配慮した。

第十一の弟子は、『タダイ』である。彼は生来の分裂病者であった。ある時はとても用心深く冷静で、行動に適切な判断を下すことができた。しかし時として荒々しく熱狂的になり、めちゃくちゃになることがある。しかしこの性質が選びの対象となった。後日彼は獰猛な人々への布教に直面した時に、彼らに生きる灯を与え、焚火の残り火のような温もりを与え続ける役割を担ったのである。

最後は、『ユダ』である。決して彼を裁いてはならない。彼こそ別な目的のために選ばれたのである。最初イエスが彼と出会った時、この気難しい気質の男を、いつまでも縛っておくことができない人物であることを見抜いていた。

師を慕っている間は忠実であるが、師をとりまく連中をねたむようになるであろう。まさに彼は、自分の強い欲望によって師を裏切る者の一人として選ばれたのである。

裏切りというのは、昔から低い人間の徴候として運命ずけられてきたもので、愛の変形(類似)としてどこにでも見られるのであるが、実に不健康で、魔性の愛にほかならないものである。ユダの死後、彼の魂は暗闇の中にうごめいていて、悲哀と苦渋の中であえいでいるのである。

しかし自分の強烈な師への思慕が、あのような裏切りにつながっていたことを悟って悔い改める時が来るであろう。彼は決して金のために裏切ったのではない。彼は、ただ、師の一番弟子に他の者を任命した師への憎しみのために裏切ったのである。ユダは三人のリーダーの一人になりたかったのであるが、これを拒否されたのである。

第3章 マッテヤが選ばれる
十一人の弟子が何度も協議を重ねたが、まだ結論に達することができなかった。そこで彼らは納得がいくまでしばらくの間状況を見守ることにした。十二弟子は、師から霊感祈願の訓練をある程度受けてはいたものの、人間に適用する訓練は受けていなかった。それで彼らがその時どのようにしたかを伝授しよう。

まず彼らは一緒に集まり、一つのテーブルを囲んで座った。無言のうちに互いが手をつなぎ合い、光を求める祈りを心の中でとなえた。しばらくして手をはなすと、確かな兆しが現れた。それを何と表現したらよいかわからないが、とにかく光り輝く体(霊体)のようなものが十一人の肉体から出現したのである。

するとその光の体が次第にまざりあって肉眼には一つの純白な円柱のような形になり、彼らの頭上を越えて霧の中に消えていった。

一時間後、身動きひとつしないで導きの祈りを続けていた。これは人間の昏睡状態とは全く違うものである。もし眠っているとすれば誰かが夢を見て体を動かすとか、うわごとを言う筈である。やがて十一人の体が動き出した。

それはちょうど人間が死ぬときに霊体が肉体から離脱する際に見せる身震いであった。この場合は、離脱した霊体が再び肉体に舞い戻った時の身震いであった。体の震えが止んでから、彼らは深く息を吸い込んだ。それから一人ずつ立ち上がり、無言のまま部屋から出て行った。

ヨハネが一番最後に部屋から出ていった。彼は心身とも疲れきっていた。他の弟子もそうしたように、彼は誰からも煩わされないような静な場所を探した。もしこの時に誰かと接触しようものなら心身ともに傷つけられていたであろう。

新しい一人の弟子を補充するために、このような集まり(watch)があったということは誰にも知られていないことである。まして異邦人には、この無言のひとときを通じて十一人の弟子の心に「マッテヤ」というスペルが綴られていて、イスカリオテのユダの後継者の名前が知らされていたなどとはツユ知らぬことであった。理性には伏されていても、霊には見えていたのである。

十二番目の弟子の名は、あの光の体が弟子たちの体から抜け出した時に与えられていたのである。このことは頭では分かるものではない。従って規定に従ってくじを引くときに自然に引き出され明確になったものである。

これは決して協議を重ねて決められたものではない。例の集まりによる成果だったのである。この場合はどうしてもこのような集まりを開き、不思議な「光の体」の合体を必要としていたのである。そこでは、もはや十一人の弟子ではなく、全て一人になっていたのである。純白な一本の柱のようなものになれたお蔭である。

第4章 ペンテコステ(五旬節)
さて、ここでは聖霊降臨によって臆病風にふかれていた無知な人々が、いかに素晴らしい証言者となって師の教えを伝える者になったかをお話しよう。

ペンテコステの前夜は、それぞれが御互いに離れ離れになっていた。十二人の弟子はみな孤独の境遇に身を置いて悪霊の大軍から猛攻撃を受け、熾烈な戦いを展開していた。誰一人としてこの奇妙な戦いを避け得る者はいなかった。うすきみの悪い妖怪が襲ってきて大切な信仰心をもぎ取ろうと狙い撃ちするのであった。

その中にあって、ヨハネとペテロの二人だけがこの呪われた戦いをたやすく切り抜けることができた。ペテロが最後に悔い改めてからというものは、全く別人のように変わってしまい、彼の魂はまるで夜明けに咲いた花のように馨しかった。

そんなわけで、その夜は弟子たちにとってとても長く感じられた。しかし一人も戦いに敗れるものはいなかった。悪霊の大軍は早朝になってすっかり力を失っていた。一同は水で体を清めてから二階座敷に上がり、しばらくの間、師なるイエスに思いを馳せていた。彼らは立ったまま日の出を眺め、祈りをしながら心を清めていた。

最後の晩餐のとき、イエスが命じられたように、一同は聖卓を囲んで座った。つまりイエスを記念する行事である。彼らは聖体(イエスの体を象徴するパンのこと)に近寄った。一つのパンをみんなで分けあった後、一同は互いに手をつなぎ、師の約束された聖霊が降下するのを待っていた。突然不思議な変化が起こった。

部屋中が真っ暗になり、気体のようなものが彼らを覆った。光は吹き消され、どよめきが起こった。強い風が渦巻き、嵐のように彼らのまわりを吹き荒れた。光があらわれて舌のような形をした炎があらわれ、まるで真っ赤な花が咲いたように一人一人の弟子の頭上に灯った。

彼らの体は驚きにワナワナと震えていた。しかし恐怖ではなかった。ある者の目には、それが野に咲く百合の花のように純白のように映り、他の者には師の流された血のように真っ赤に映った。純白は清純をあらわし、赤は救いの徴であった。

十二人弟子は一瞬肉眼では見えない巻物が広げられているのを見た。その中にこれから起こることが記されていて、異邦人が必ず師の御言葉を受け入れることを告げていた。それが余りにも早い速度だったので、ある者はそれを覚えることができなかった。しかし霊の目で捕えていた。一同は言いようのない喜びにみたされていた。

更に頭上に止まっていた炎の花が空中高く昇り始めた。その時に、今まで分からなかった師の言葉が、まるで昼間の輝きのようにはっきりと意味をつかむことができた。

風は止んだ。十二人の頭上にあった炎も見えなくなっていた。二階座敷は静まりかえっていた。各々は今まで味わったことのない強烈な気力がみなぎっていることを感じた。

最初に沈黙を破ったのはペテロであった。彼はすっくと立ち上がり、大声を張りあげて預言者の言葉を話し出した。まるでスラスラと巻物でも読んでいるようであった。最初に預言者ヨエルの言葉(旧約聖書中の小預言書で、神の裁きが到来しつつあることを警告した)を引用し、神を知らない異邦人のために告げられて御言葉を語った。

『若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。そして多くの不思議と徴とがおこるであろう。〝日は闇に、月は血に変わるであろう〟とヨエルが言ったことは本当に実現するであろう。しかし私にはそれがいつ実現するかは分からない。聖霊の炎が燎原の火のごとく広がり、多くの夢や幻が与えられ、イスラエルの神の素晴らしい働きが示されるであろう。

その日を待ちなさい。イエスの再臨の日ではなく、アブラハムの子孫に約束された土地のように、異邦人に与えられる「約束の光」がやって来る日を待ちなさい。その日に、異邦人は霊の浴場で水浴を楽しみ、人々の魂を覆っていた闇は全く一時的に肉体を包んでいたものであることを悟り、人間は死んだ後もなお生きながらえるものであり、霊の炎を完全に消し去ることはできないことを知るに至るであろう。

私が今日、霊の目で見せられた巻物に記されていた人間の生死に関する内容について話して聞かせよう。これから先何世代もわたって、戦争や堕落が起こっていくが、キリストの霊が良き時代でも悪い時代でも人々の心に宿るようになり、少しずつ彼らを変えていくであろう。

しかし、又キリストの名を語ってサンタが大あばれする時がやってくるであろう。しかしお互いにしっかりと結び合っているならば、悪に巻き込まれることはない。霊言というものは、全く平等に与えられるものであって、誰よりも多くを所有できるというものではない。それは共通の宝物である。

我々十二人の弟子は、定められた日に霊の命令によって、どこにでも出かけて行こうとしているのである。(使徒行伝二章十七節──二十節参照)

聖霊を受けた後、弟子たちはエルサレム近郊に住むことになった。その理由は、この町には地の果てから多くの人々が集まっていたからである。彼らは鳥のようにイエスの教えを運んでくれるのである。弟子たちは張り切って遥かな異邦の地で働く準備をしていた。ペテロは雄弁に語り、弟子たちは聖霊の息吹を全身に受け、喜びに満たされていた。

第5章 ペテロの奇跡
さて、私は大きな力がペテロに与えられたことを話してみよう。

大祭司の家来が彼の所にやってきたときに、ペテロはイスカリオテのユダに劣らない失敗をやってしまったことは、前に述べた通りである。時として人間の弱点から、健全で頑強な精神が芽生えることがある。ペテロはまさしく心からの悔い改めによって、霊の力をいやが上にも発揮することになったのである。

聖霊降臨の日には、まだ誰にも霊力が与えられなかったのに、いちはやく彼には霊力がみなぎり、いの一番に口を開くことになったのである。

弟子のすべてに聖霊が満たされてから、一斉に立ち上がり、様々な国から商売をしにやって来た者や、過越の祭りにエルサレムへやって来た群衆に向かって話し出したのである。この時期には、親戚縁者が親しく再開するために遠くからはるばるやってくるのである。聖霊降臨もこの好機が選ばれた訳である。

群衆が最も度肝を抜かれたのは、十二人の弟子たちが全く無学であったのに、聞く者が属している国言葉で話し出したことであった。群衆の多くは外国からエルサレムに来ていた人である。

イエスの教えを自国語で聞けるとはまさに驚きであった。そんな訳で、弟子たちから聞いた「生命の君」(イエス)についての知識は、周りの国々にまで伝えられるようになったのである。


さて、ペテロはこの時期のエルサレムには、あらゆる遠いところから集まってきていることを知っていたので、主なる祈り、奇跡を行う力を乞い求めた。やがて彼の内部に霊力が満たされ、ついに「美しの門」(神殿回廊の門の一部で)、全然歩けなかった肢体障害者を治すことになったのである。この出来事はすぐに町中の話題になった。

しかしこんなことで驚いてはならない。これから行われようとしている奇跡のほんの始まりにすぎないのである。ペテロは続く七日の間、義憤が爆発したように、熱病で弱っている者を治し、生来の盲人の目を数多く直したのである。

この時に行われた癒やしは、ペテロの生涯はもちろんのこと、十二人の弟子たちの生涯にとって最も多く為された奇跡であった。なぜなら、この時ほど十二人の弟子が心を一つにしていた時がなかったからである。彼らの話によって、多くの人々の信仰が強められた。

この時の彼らの信仰は実に謙虚で純粋であった。ペテロは又多くの苦痛を取り除いてやった。彼の影に触れるだけでも病が軽くなり、危篤の病人が回復するのであった。このようなわけで、ペンテコステの祭りに続く数日は、実に「癒しの日々」と呼ばれていた。

ついに祭司やサドカイ派(ユダヤ教の一派で、パリサイ派と宗教的、政治的に対立した)の連中が協議を始めた。

その結果直ちに弟子たちの口を封じ、祭りが終わるまで監獄に入れて監禁しようということになった。そうすれば特にペテロが病人や瀕死の人々を治すことができなくなり、話題が広まることを防ぐことができるであろうと考えた。

この時期に、大祭司やサドカイ派の人たちが直接弟子たちに手を出さなかったのは、エルサレムにいた群衆が、暴動や流血沙汰を起こさないようにと配慮して、群集が散るまで待っていたからである。

第6章 大慌ての大祭司とペテロの奇跡
ここでは十二人の弟子たちの活躍振りを紹介してみよう。何しろ彼らの活躍はめざましく大木のように成長して全地にその影を覆う程になったのである。彼らの奇跡が余りにも目覚ましかったので、大祭司と神殿の総代が次のようにつぶやいた。

「これ以上続いたら、我々は手も足も出なくなってしまう」

彼らは懸命にペテロの行方を探し、彼を掴まえることができたが、犯罪人として扱うことができなかった。そこで彼らは神殿に近い大祭司の家にペテロを留め置くことにした。

大祭司は博学な人であったが、霊的な賜物は与えられていなかった。彼は昔から奇跡を起こしたり、病人を癒す力が欲しいと熱望していた。彼の名はアンナスであるが、一般にはハナンという名で知られていた。

神殿の総代は、キリストの教えが大衆の間に広がっていくのを恐れていた。それに対して大祭司は、あの無学な男が多くの病人を癒しては一身に栄光を集めているのが羨ましかった。

そこで、ある晩のこと、ペテロを呼んで言った。

「ペテロ君、どうだろうかね、ひとつこの神殿の中でうんと勉強してみたら。そうすれば、サンヒドリン(最高司法庁)の議員にでも取り立ててやるんだが。もしおまえさんが病人を治す奇跡の秘密をわしに打ち明けてくれれば何でも好きなものを進呈しようじゃないか」

ペテロは答えて言った。

「この御力は、私達の師イエス・キリストからいただくもので、私自身の力ではないんですよ。私は卑しい罪人にしか過ぎません。そのような私を主が選んで下さって、岩のくぼみのような私に御力の水をいっぱい注ぎ込んで下さったのです。それで渇いている者の喉を潤し、瀕死のものたちに生命力を与えるのです」

大祭司はペテロの言っていることを信じないで、あざけるように言った。

「おまえは、その力を隠者かエジプト人から教わったのであろう。おまえの手の一撃あるいは空中から癒しの気体を取りこむ術は決して奇跡ではないのだ。おまえは、きっと誰か賢人からそれを盗み取ったのだ」

ペテロは冷静に聞いていた。ハナンはペテロを責めて彼の顔をたたきのめした。しかしペテロは平然と構えていた。

夜通しハナンは怒り続けていたが、ついにペテロに哀願した。お願いだからおまえの秘密の力を賢者たちには教えないと約束してくれ、とも言った。夜があけてから、大祭司の頭にあることがひらめいた。もしも、ペテロを長老会議にひきずりだしたなら、恐れをなして、秘密をしゃべるかもしれないと考えた。

そこでペテロは使徒の代表者として長老たちの前に立たされた。当時の長老は大きな権力をにぎっており、巧妙な弁舌と凄みのきいた顔付とで、みんなに恐れられていた。

ぺテロは、彼らの面前に立たされても、何の質問もうけず、しばらくの間沈黙が続いた。

霊の恵みに満たされていたペテロは、おもむろに主イエスのことや、どのように死から蘇ったのかについて語りだした。長老たちは途中で止めさせようとしたが、ペテロは話しを止めようとしなかった。彼はさらに、自分は全く無学の者ではあるが、心の中にある神殿に貯えられている内的神秘の知識を持っていることを示した。ペテロは雄弁に訴えた。

「私はこのためにこそ大衆に訴えたいのです。私を行かせてください。そして、イエス・キリストの霊の光を一人でも多くの人々に広めたいのです」

長老たちは彼を黙らせようとして、彼を牢獄へ移した。ちょうどその時、外で騒ぎが起こった。牢獄の入口の近くで当時エルサレム在住のローマ人の娘が卒倒したからである。娘は寝台に寝かされた。まだ年が若いのに、手足が動かなくなってしまった。歩行不能者を治したことを信じない長老たちは、ペテロをあざ笑って言った。

「この娘を治してみろ! そうすればおまえが無駄口をたたいていた霊の恵みとやらを信じてやろうじゃないか」

しかし大祭司はそれを許さず、なおも牢獄の中に留置した。議論の末、彼らはクジを引いた。結局ペテロは失敗するだろうと思うものが大勢をしめ、直ちにペテロを娘の所に連行した。ペテロは両手で彼女の手を取り、彼女の目を覗きこんだ。彼女には信仰があり、ためらわずにペテロの顔を見上げた。

少女は言った。
「先生! 私は、あなたが願えばきっと治して下さることを存じております」

長老たちはみんな周りにやってきて、彼がしくじってうろたえるのを待っていた。しばらく沈黙が続いたが、突然、硬直した少女の体が動き出し、激しく震えた。まるで霊が少女の体の中に突入したようであった。彼女は大声で叫ぶと寝台から立ち上がり、ペテロの足元にひれ伏した。

「先生! 私は元気になりました!」

ペテロは再び両手で彼女の手を取り、地上から立ち上がらせてから言った。

「お嬢さん、私のような罪人を拝んではなりません。あなたを立ち上がらせた方は、〝生命の君〟と呼ばれるキリスト様なのです。治したのは私ではありません」

長老たちはびっくり仰天した。それと同時にローマ人の怒りをかうことを恐れた。それで彼らは、このことには全く関係がないという態度をとることにした。

少女はペテロを父のところに案内したいと申し出たが、ペテロは断った。

「私の仲間が待っていますので」と彼は言った。

群衆はペテロに挨拶しようと彼の周り集まってきた。この奇跡はまたたく間に鳥が飛ぶように早く広まった。お蔭でこの日にペテロは、イエスの教えについて多くのことを語ることができた。

さて、長老たちは、ペテロが大勝利をおさめ、ローマ人の少女を癒し、彼らを黙らせてしまったので、群集の動向を恐れた。長老たちの最後の頼みは、群集がペテロを責め立てることであったが、それとは逆に、彼らはユダヤに預言者が現れたと宣伝したのである。

長老たちは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を呼び出しこれからはあの犯罪者(イエスのこと)について一切口にすることは相成らぬと厳重に命じた。その理由は、早晩大きな騒動が起きて殺される羽目になるということであった。三人の弟子は口をそろえていった。

「そんなことはできません。誰もこれを止める力はありません。我々はただ聖霊がお告げになることを運ぶ器にすぎません。ですから渇きを覚えている人々にひろく行き渡るようになるでしょう」

三人の弟子は、ひどく当惑している長老たちのところから帰って来て、他の弟子たちと共に、更に徳を高めるために一生懸命に祈った。当時の教会という小舟は吹けば飛びそうな脆い状態であった。静けさの中に一陣の風が吹いてきて、地上が大きく揺れ動いた。ある弟子は、その中に師の面影を見た。

ペテロと主に愛された弟子(ヨハネ)は、これによって弟子全体が神に祝されており、主によって選ばれた道をつき進んでいることを感じとった。

第7章 アナニヤとサッピラの物語
アナニヤとサッピラという人物に関して、余り多くのことが記録されていないのは、それほど重要性がないと考えられていたからであろう。

そもそも十二使徒は、師より総てのものを共有するように教えられていた。ある者にとっては、とても辛いルールであり、ともすれば不満の種となった。そこでペテロは信者全員に招集をかけ、洗礼を受けた者はみんな集まった。

ペテロは口を開き、みんなキリスト・イエスに在って一つになるためには、このルールに従わなければならないと言明した。これに対して最も不満を持っていたアナニヤが呼び出され、文句があるなら自分の考えを言うように促された。彼は困ってしまい、ただ一言、みんなの意思に従うと答えた。ペテロは言った。

「この件に関しては、意志の問題ではなく、キリストへの忠誠が問われているのだ」

ペテロの放った言葉には強い響きがあり、アナニヤは臆病であったので弱々しい声で自分の全財産を捧げると約束した。

これで騒ぎは解決し、信者たちは全財産を十二弟子の所に持ってきて、一日に必要な分だけをうけとった。このことはたちまち評判となり、ある者はあざ笑ったが、たいていの人は、このやり方が徹底すれば誰も飢えたり不足することがなくなると言った。中には悪意に満ちた連中がいて、みんなが楽をしたがっているなどと悪宣伝をした。

ペテロに恨みをいだいたアナニヤは、ついに全財産を売る順番がやってきた。彼の財産は大きく莫大な金になった。アナニヤはイスラエルの議員のところに行って彼の不満をぶちまけた。

「あなたはキリスト教のルールをご存知ですか? 親子二代が汗水たらして築いた全財産を取りあげて、この国を倒そうと狙っているやからなんですよ。これは陰謀です。彼らはこの企みを隠すためにキリストという名を騙(かた)っているのです。巻き上げた金は乞食やドロボーにくばって味方を増やしているんです」

アナニヤの言い分を聞いた議員たちは互いに相談して、もう少し様子を見たいと言って取り合わなかったが、アナニヤが派手に造反を重ねるので、にっちもさっちも行かなくなってしまった。彼は気の弱い仲間を集めては不満の種をばらまき、ペテロ打倒の反乱を実行しようとした。

いよいよ予定されていた集会が始まろうとしていた。この場で彼はペテロと対立するつもりでいた。ペテロはすでにアナニヤが大きな態度でものを言うであろうと察知していた。

アナニヤは嘘つきというよりも更にたちが悪く、まるで草むらに隠れている毒蛇のような者であることも承知していた。

アナニヤに言いふくめられていた年輩の信者が、自分の全財産を弟子の足元に持ってきて、不満の火ぶたを切った。ペテロは大声をあげて叫んだ。

「アナニヤよ! さあ、ここにきて、お前の全財産をだしなさい!!」

アナニヤは、自分の差し出す分はとても少ないと言った。臆病な彼はわなわなと震えながら答えた。ペテロの鋭い視線を浴びてひどく狼狽した。ヤコブやヨハネは、アナニヤの心に悪魔が占領していることを知らなかった。ただペテロだけが霊の働きによって彼の裏切りを察知し、この集団を腐らせてしまう原因となることを知っていた。

もしこのような枝を切り取って焼き捨ててしまわなければ、樹木そのものが腐ってしまうのである。烈しい霊気がペテロを捕らえた。ペテロは、群れの立派な指導者であった。

一匹の狼が今や羊全体をむさぼり食おうとしていた。ペテロの心の中に義の炎が燃えさかり、彼の中でいやが上にも燃え上がった。

アナニヤの体のまわりに、突然冷たい空気が立ち込めてきた。それはまるで葬儀の時に使われる「きょうかたびら」(棺覆い)のように、彼をすっぽり包み込んでしまった。彼は次第に息ができなくなり、その場で死に絶えてしまった。

不満の声はどこへやら、部屋中は静まりかえった。アナニヤが全財産をごまかして、ほんの一部しか持ってこなかったことをペテロが見抜いたので、みんなは大いに恐れた。気の弱い信者たちは、アナニヤの悪行を知っており、だれ一人として口をきく者はいなかった。

そこでペテロは、改めて全財産を互いに分け合うルールがどんなに大切であるかを話して聞かせ、これを着実に実行することができれば、必ずこの地上に天国を実現すると訴えた。

この大事なルールに反抗したアナニヤは、天の王国実現を阻む悪魔の故に死なねばならなかったのである。

さて、彼の妻サッピラは美しい女であった。彼女は金使いが荒かった。それで彼女は夫を誘惑し、全財産を弟子に提供するなら、もう夫を愛さないと言っていた。ペテロはこの時も霊の力によって、この女の美しさに目がくらんで、アナニヤが正道をふみはずしてしまったことを知ることができた。

彼女は、おしゃべりと美貌を売り物に気の弱い信者たちの心を毒していたので、彼女をも滅ぼさねばならなかった。

サッピラは、きっと自分の夫が群れのリーダーとなって、大いなる勝利を収めてると思い、さっそうと会場に入ってきた。ペテロの顔を見て驚いた。ペテロの一言によって、彼女もたちどころに卒倒し、信者の面前で息絶えてしまった。若者たちが彼女の亡がらを運び去り、裏切り行為で息絶えた夫と同じ墓に葬られた。

初代教会では、この物語がしばしば語られた。それは、ペテロに癒しの奇跡よりももっと大きな霊力が与えられていて、彼が信者の頭として選ばれた者であることを示すためであった。

アナニヤとサッピラの死は、広く伝わっていった。中傷する者はいなくなり、権力者たちは彼らの動向を見守った。信者の数は日ごとに増えていった。それで財産を共有することは、彼らを支配する権威の一つとして受けとめられるようになった。ペンテコステの祭りの前までは、ペテロはそれほど恐れられてはいなかった。

彼は単に病気を治す預言者ぐらいに思われていて、権力者の間では彼についての評価が一致していなかった。

大祭司ハナンはひそかに領主、長老、商人たちを集め相談した。彼らはそろって弟子や信者の財産を共有しているのは、反乱を起こし国の権力を握ろうとしているのではないかと恐れた。このルールは、兄弟愛に基づくキリストの教えからきていることを知らず、反対に陰謀を隠す悪質なベールであると思いこんでいた。

そこで彼らは、キリスト教という新しい宗教をたたきつぶそうということで意見が一致した。しかし一般の民衆は、ペテロにもっとたくさんの奇跡を起こしてほしいと願っていた。イスラエルの議会は、ペテロを裁判にかけるために、サンヒドリンよりも強力な体制を作った。

領主や長老だけではなく、異邦人の力も投入した。このようにして権力者たちは、満を持してペテロと弟子たちを監禁した。

第8章 弟子たちの逮捕
アナニヤとサッピラの死によって信者の間に恐怖が広がった。物に執着のある者たちは互いに言った。

「これは実に厳しい掟である。へたをすると、我々も殺されてしまうかもしれない」

アナニヤとサッピラの件について世間では、彼らが財産の一部をごまかしてペテロに嘘をついていたので殺されてしまったと言い触らされていた。しかし真相は、アナニヤが大祭司と結託して教会を潰してしまおうという陰謀であったことを誰も知らなかった。ただ一人ペテロだけが、霊的洞察力によってこれを見破ったのである。

さて、その頃、ヨハネと称する者が三人もいた。長老ヨハネ、神秘家ヨハネ、そして学者ヨハネの三人とも聖者と仰がれていた人物であった。後世になって、この三人の聖者は同一名であったので、ごちゃごちゃになってしまった。

現今の聖書に多くを書き残しているのが神秘家ヨハネであるのに、長老と学者のヨハネと混同されている。

この三人の中で、学者ヨハネは学識が災いしてか、頭が混乱しペテロに攻め寄って抗議した。

「あなたがなさっていることは大変良くありません。弊害が大きいのです。絶望と隣り合わせにある恐怖心を煽ることは、死に値する罪であると思いませんか」彼は続けていった。

「私達の師キリスト様がなされた奇跡をお考えください。それによって汚れた霊どもが体内から追い出されて行ったではありませんか。あなたがアナニヤとサッピラになさったことは、殺害としか言えないじゃありませんか」

ペテロは動じなかった。しかし同時に、彼らをどうしても納得させなければならないこともよく承知していた。させなければ大きな誤解を生んで、多くの者を惑わせてしまうからである。

ペテロは答えて言った。

「霊の御導きが私の内側からわき起こってきて、あの二人の罪人を手厳しくやっつけてしまうよう誘導されたのです。彼らは、ひそかに弱いキリストの群れを破壊しようとたくらんでいたからです。それで私は主イエスの教えに従って、あの二人を抹殺したのです。その教えというのは、あなた方も主イエスから直接お聞きになったはずです。

『もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ込まれるより、片目になって命に入る方がよい』とね」(マタイ伝十八──九)

学者ヨハネは頭を下げ、ペテロを疑ったことを謝った。彼は、このことに関しては神の知恵に頼らず、人知に頼ったからであった。しかしこの教えには充分注意を払う必要があったことは言うまでもない。『片目を抜き出してすてなさい』という教えを真理に基づいて行われなければ、それこそ健康なものまでももぎ取ってしまう危険があるからである。

さて、ペテロはなおも多くの病人を治し、弟子たちは神殿の庭でイエスの教えを説いていた。それで続々と多くの人々が信者となり、聖霊の炎によって、いやが上にも燃えていた。その勢いには、大祭司でさえ為すべきすべを知らなかった。

弟子たちは、毎朝、日の出に祈ることにしていた。その時には、戸を全部閉めて、師イエスと共に祈り、常に新鮮な気持ちでイエスと共に過ごすのだった。この時だけは、一般の人は同席しなかったので、かえって兵隊が襲うのにとても好都合だった。

イスラエルの兵隊は戸をこじ開けて侵入し、槍でおどしながら弟子たちを留置場まで連行していった。彼らを牢獄に閉じ込めてから、神殿の総代は誰一人として刃向う者はいなかったことを大祭司に報告した。権力者たちはみんな喜んだ。これで、国が滅ぼされる心配がなくなったと思ったからである。

第9章 弟子たちの救出
ペテロと弟子たちは、狭い地下牢に投げ込まれていた。そこは不潔で薄暗く、いったん閉じ込められたら、人間の力では絶対に出ることのできない頑丈な戸がはめられていた。

ペテロは静かに祈ることを命じ、みんなから少し離れたところに座って、聖霊を呼び求める祈りを始めた。彼は聖霊の御助けにより、あの頑丈な戸が開かれる事を願い求めた。すると、前にも述べたことがあるように、例の光の体(霊体)が現れ、肉眼にかすかに見えるような形となってペテロの肉体の表面を覆った。

そのとたんペテロの体が地上に投げ出されて気絶してしまった。身動きひとつしなかったので、みんなは死んでしまったのかと思い近付こうとしたがペテロは死んでいないと言い、そこを動かないで静に祈り続けるように指示した。

霊の力は実に偉大なもので、我々に驚異の目を見はらせることがある。ペテロの体から、光の体と、それを覆っている複体(肉体と霊体とを結合させている接着剤のようなもの)が現れ、天使はそれと合体し、異常なパワーが溢れていた。天使はいきなり頑丈な戸をこじ開け、獄吏が騒ぎ出さないように、その場で立ったまま眠らせた。

戸が開かれても弟子たちはじっと動かないでいた。すべてペテロの指示に従っていたからである。

救出の段取りがすべて完了すると、天使の姿が消えた。冷気が辺りを覆い、体が震えた。聖なるお方の臨在を身近に体験したからであろう。それは鳥が飛ぶような一瞬の出来事であった。ペテロは立ち上がって、みんなについてくるように命じた。

彼らは前に進み、深く眠っている獄吏の横をすり抜け、牢獄の門の下をくぐり抜けて外に出ることができた。もう夜が明けていた。ペテロは体が大きく震えていた。余りにも偉大な奇跡をやってのけたからである。彼は油断せず、そのまま神殿へと進んで行った。多くの人は、弟子たちがそこにいるので非常に驚いた。

ペテロと弟子たちは、大声を張りあげて主を賛美し、主の教えを宣べ伝えていた。

第10章 ヤコブの活躍
当時の教会は、様々な誤解と不信が渦巻いていた。商人は教会の教理がむずかしく、金持ちから財産を巻き上げるたくらみだと誤解していた。また、祭司や長老は、自分たちの権威の座が揺らいでしまうのではないかと心配した。

「あの連中は、一体どうなるんだろうか」とお互いにささやいた。

「あいつらが、我々に代わって祭司になり、例の犯罪人(イエスのこと)の馬鹿げた話をして民衆をだますつもりなのだ。あいつらの秘密の力は、古代エジプトのものを盗んできたにちがいない。

それもエジプトの墓から癒しの秘密を盗んできたのだ。エジプトの墓には、モーセの時代に君臨していたパラオ(王)の亡がらが安置されており、頭の下に巻物があり、そこに秘密が記されているそうだ。

モーセもそこから秘密を教わり、それにイスラエルの神の力を加えたそうだ。でも、やつらの秘密の力とやらは、どうやら悪魔の仕業かもしれないな」

こんな風に、人々が集まるところでは、とりとめもないことが噂されていたのである。

さて、獄吏は選びぬかれた者ばかりで、弟子たちは牢獄の中に居るものとばかり思っていた。軍の将校が牢獄に急行して報告を受けた。

「夜明けにここを通った者は一人もおりません。我々は一晩中見守っておりました」と獄吏は報告した。
この報告を聞いて、神殿の総代は内心よろこんだ。彼はひょっとしたら奇跡が起こっているかもしれないと心配していたからである。

彼が牢獄に来て、中に入ってみて驚いた。なんとそこには人っ子一人見当たらないではないか。まるで砂漠のようであった。獄吏も中に入って驚いた。彼らは一睡もしないで見張っていたことを主張した。総代は頭に血がのぼった。

弟子たちは、もう神殿の庭で神の教えを説いており、更に聖霊のお助けによって牢獄から救出されたことを民衆に語っていた。総代は急いで将校を神殿に走らせた。彼らが神殿の庭に近付くと民衆は彼らに言った。

「おまえたちがこの聖人に手出しをしたら承知しないぞ! 石の雨を降らせるからな!」

一瞬そうぜんとなった。そこでペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が両手を挙げて静かにするように民衆を促した。静かになったところでペテロは総代に頭を下げて頼んだ。

「せっかくのチャンスですから、長老たちに教会の教えについて語ることを許して下さい。そうすればあなた方の手を煩わせないで自主するつもりです」と。

総代もそれがよかろうと言ったので、彼らは急いで集会所に行き、イスラエルの長老も同席した。

一同が中に入ると、戸が閉められ、権力者たちの態度が急変した。出方によっては告訴して、直ちに裁判にかけてやると脅された。

そこでヤコブが叫んだ。

「そんなことをしてごらんなさい。民衆が黙っちゃいませんよ!」

集会所の外では民衆が喚声をあげていた。権力者を憎む怨嗟(えんさ)の声であった。彼らは将校を押し退けて戸を破らんばかりの勢いであった。

大祭司が立ち上がる前に、弁護士が厳しい口調で弟子たちを非難しはじめた。

「おまえ達は国家を転覆させる陰謀をひそかに企てていた。それには、お前たちの仲間で陰謀に反対したアナニヤという良き証人がいる。彼から全財産を巻き上げようとし、貿易商からは物品をことごとく巻き上げ、商人からは倉の中のものを出させようとした。しかも共有財産の一部を乞食や泥棒に施して暴動を起こさせようとしていた。これはまさに国家の転覆を狙った陰謀である」

ヤコブは彼のずるい話法をよく承知していたので、彼は弁護士にアナニヤが財産提供に関する文書を彼に見せたのかと質問した。

彼はただ口頭でそれを聞いたと答えた。

ヤコブは大祭司に向かって言った。

「アナニヤを地獄から呼び戻してください。そうすればこの件に関する証拠が得られるでしょう」

弁護士がすかさず言った。

「おまえ達がその男を殺してしまったではないか」

ヤコブは叫んだ。

「嘘が自分を殺したのです。あんたも口をすべらして、彼の後に続かないように気をつけるがよい!」

この言葉に弁護士は身震いした。この聖人なら本当にそれができるかもしれないと思ったからである。それでもう二度と口を開かずおしだまってしまった。彼の両手は震え、顔面は蒼白となっていた。

ヤコブは落ち着きはらって語り始めた。一同はイスラエルで最もずるい弁護士を黙らせてしまったことに驚いた。ヤコブは雄弁に語りだした。まず財産の共有についての教えを説いた。

彼はキリストの言葉を引用し、これは国家の法律のようなものではないことを述べた。『カイザルのものはカイザルにささげなさい、しかし神のものは神にささげなさい』と言った言葉である。ヤコブは言った。

「イスラエルの人達よ、心に聖霊を迎えず、キリストの教えを受けていない者同士が、どんなに共有しようと努めても、失敗するであろう。せっかくの平等分配も空しくなってしまうであろう。それは欲望が前提になっていて、真理の御霊をもたないからである。それはただ混乱と騒ぎを招くだけである」

それにひきかえて、キリストの教会は、天の御国というイメージを目指しており、一人一人の心の中に「生命の君」(イエス)の教えをしっかりと持っている。その上イエスは地上に天の御国をうち建てて、霊による喜びが心の中に溢れるようにして下さったのである。

イエスに従う生活を始めると、ひとりでに美と真理の霊に導かれるようになるのである。

国家は国家であり、すべての人は国家の法律に従うべきである。しかし、心のうちに、キリストの恵みを持ち、真理の御霊に導かれるならば、御互いが本当の兄弟のようになり、心から財産をわけあうことができるのである。

彼らは平安に満たされ主の働きのためには超自然的な力が発揮されるようになるのである。このように教会の人々は、キリストの教えたルールを守り、慈愛にみち、貧しい兄弟たちを助け、すべてのものを愛によって分かち合っているのである。

世の中には、様々な組合や団体があるだろう。それらはみんな民間の権威者によって運営されており、それぞれの組合や団体には財産や役人がいるものである。

しかしキリストの教えに支えられている教会には、そんなものは無く、全く自発的に運営されている。教会には個人を縛りつけるような束縛はなく、男も女もみんな持ち物をなかよく分け合っているのである。持ち物だけではない。

様々な働きについても分け合っているのであるが、知恵の霊に満たされている聖徒が采配を振るっていて決してねたみが起こらないように配慮されているのである。人間にとって本当に必要なルールとは、野獣のように(欲望だけで)生きることから向上して、イエス・キリストの真理に生きようとすることである」

以上がヤコブが語った趣旨である。彼は聴衆に対して国家と教会を混同してはならない点を明確にした。

すなわち国家は、国民全体を保護するためにあるものであり、国民の共通の意思や願いに基づいて事を処理するところである。しかし教会は、内面生活(心)のために存在するもので、天の御国というイメージのもとにあるものである。従って教会は、決して国家をひっくりかえすような陰謀などとは関係なく、むしろ国家を強くするために存在していることを示したのである。

ヤコブの明確な説明によって、信者は満足し、市民として果たすべき貢物をカイザルに差し出す準備をした。

第11章 聖賢ガマリエルの介入
ガマリエルは、正しく高潔な人物で、ギリシャ人の中で教育を受けたので、感受性とか情熱によって偏ることをひどく嫌い、厳正な理性によって常に真理を得ようとする努力家だった。

ガマリエルはユダヤで評判になっているイエスの徒輩(やから)を新しい政治組織とはみなさず、盗んできたものを共有する窃盗団ぐらいに思っていた。しかしヤコブの熱烈な演説を聞いてから、彼の顔色は急変した。

彼の説いている教会なるものが、とても平和的で素晴らしい目的を持っていることが解ったからである。更に感動したことは、この一団が国家に反逆するどころか、逆に国家のためになることを知ったばかりではなく、この一団がとても質素な暮らしをしていることがわかったことである。

これは、ひょっとすると、秩序と筋道を大切にするギリシャ哲学の思想を、無知な人間どもの生活の場に取り入れようとしているかもしないと考えた。それでガマリエルは、大祭司の耳元でささやいた。

「彼らは実に高度な哲人たちですよ。これは裁くどころか、歓迎しなければなりませんぞ」

ペテロの驚異的な奇跡に度肝をぬかされていた大祭司ハナンは、民衆から非常に尊敬されている聖賢ガマリエルに、この一団を責め立ててもらおうと強く期待していただけに、彼のささやきを聞いたとたん子供のように脅えてしまった。

「あなたは彼らの邪悪な教えや、最高に権威あるサンヒドリンをめちゃくちゃにけなしていることをご存知ないからです」

とハナンは言った。そしてやおら立ち上がり大声を張りあげた。

「イエスと名乗る一人の男が、人々を扇動してモーセの律法に逆らわせようとしたのだ。しかも自分のことを、神の子、救世主であると言ったのだ。奴はただの人であり、ローマ総督は平和な社会をとりもどすために奴を捕え、死刑にしたのだ。奴のやっていることが余りにも邪悪なために、おお! このことを全く知らない諸君よ!

どうしてこんな奴のことを許して権威あるサンヒドリンを殺人呼ばわりさせておくのか。我々は二度とこんな気違いのことを口にしないように命じておいたでないか。

それなのに奴らは彼の教えを広め、奴のことを真の神の子であるとエルサレムじゅうにふれまわり、あげくのはてはサンヒドリンを悪者にしている。私は、奴が神と称した冒pを許すわけにはいかん。神は唯一にてましまし、我らの先祖イスラエルの主であらせられる。しかも救世主はまだおいでになっておらんのだ」

ペテロは立ち上がり、長老たちに向かって言った。

「私達は断固とした証拠を持っています。この大祭司とその仲間たちは、我らの生命の君、救世主を殺害したことです。そしてその君は、神の右に座しておられ、しかも聖霊を派遣して世界のすべての人々に真理と福音を伝えようとしておられるのです。

彼はエッサイ(ダビデ王の父)の名の子孫としてベツレヘムに生まれ、昔から言われていたような予言者としてこの世に現れたのです。彼は、以前には誰も語らなかった罪の許しと、互い愛し合うことを教えたのです。

しかもイエスは、奇跡と徴をもって自ら神であることを示したので。彼は死人を蘇らせ、悪霊を追い出し、多くの病人を癒しました。彼は地上に唾をはき、それを手にとって泥をつくり、盲人のまぶたに塗りながら言いました。

『さあ、シロアムの池に行って目を洗いなさい。そうすれば直ちに見えるようになるだろう』と。

生来の盲人が言われた通りにやってみると、本当に見えるようになり、それからはイエスのことを救世主と仰ぐようになりました。(ルカ伝十三章四節、ヨハネ伝九章十五節参照)それなのに、あなたがたの目はいまだに開かれず、なおも彼らの救世主をあざ笑っています。

かつてイエスが自らあなたがたの所におもむいて、モーセの律法に関する教えを述べ、霊による知恵をもって丁寧に解説し、究極的には、人間はみんな兄弟姉妹であり、上も下もなく、ただ唯一の神の御意のみを求めなければならないと教えられたではありませんか。

それでもあなたがたは、我らの救い主をあざけっておられる。私達は彼の悲惨な死を目撃した証人なのです。

あなたがたはイエスを殺したように私達をも捕えて殺そうとしています。あなた方がどんなに私達を迫害しても、生命のある限り私たちはイエスの名によって、真理を証明していくつもりです。そのためにこそ我らが師は、神の御霊(聖霊)を遣わされたのです。これが師が救い主であることを示すもう一つの徴です。

私には一つも学問はありません。けれども師が遣わした聖霊の御力により私も病人を癒し、牢獄の戸を開けることができたのです。

イスラエルの人々よ! そして長老のみなさん! お願いです。ふさがれているみなさんの目がひらかれますように、そして、あなた方が十字架にかけたイエス・キリストを信じるようになって下さい!」

長老たちはもう我満ができなくなり、ペテロに演説を止めさせようとし、怒り狂った動物のようにペテロを殴りつけた。ガマリエルだけは冷静であった。彼は長老たちの振る舞いを軽蔑しながら長老たちの中に割って入り、彼らをなじった。

「あなたがたは、まるで野蛮人のようだ! 野獣のようにてこずらせている。酔っ払いのようにわめくことを止めなさい! 客を奪われた売春婦のように大声をあげるんじゃない。長老たちよ! 野獣のようなぶざまなまねを止めて、人間らしく振る舞いなさい」

祭司や商人たちは、ガマリエルの声を聴いて恥じ入った。彼らはあざけることを止め、自分たちの席に戻り互いにささやき合っていた。

学識のあるガマリエルは外に待機してた護衛を呼び、長老が適切な判断を下すまで使徒の身辺を守るように命じた。

第12章 ガマリエルの説得
集会所がきれいに掃除されてから、長老たちは静かに着席した。ガマリエルは一人一人にペテロとヤコブの話について感想を聞いた。一人ずつ立ち上がっては弁解を始めた。彼らは異口同音に十二使徒を責め、彼らの教えは邪悪で、毒麦のようであると主張した。ガマリエルは一人一人の意見に耳を傾けていた。

しかし誰一人としてガマリエルの心中を読みとれる者はいなかった。彼の額は滑らかでシワがなく、彼の瞳は澄んでいた。

大祭司は心ひそかに聖賢ガマリエルがきっと長老たちの意見に賛成してくれるものと勝手に想像し、最後に立ち上がって堂々と自分も長老に同意する発言をした。

「諸君たちもご存知のとおり、彼らの犯罪行為は尋常なものではない。ひそかに国家の転覆をはかり、我々の座をくつがえそうと狙っているのである。何と言っても許せんことは、イエスの肉体が生き返ったなどとぬかした上、キリスト(救世主)であると吹き込んでいることである」

大祭司の話が終わってから、ガマリエルは立ち上がった。

「ここにおられる兄弟、長老の方々よ、彼らがキリストと称している男は死にました。私には、そんな人間とは関係ありません。それよりも私たちが判断を下さねばならぬことは、その人の教えがどんな結果を生むかにあるのです。

まず始めにヤコブの話に触れてみましょう。彼は、この救世主が人間性についてとても賢い理解を持っていたことを示してくれました。即ち、人間とは半ば動物的であり、半ば霊的存在であると。

人間が動物的に生きて自分の食物だけを追い求め、親族や他人のことには一切おかまいなく生き続けていくならば、現体制下では必ず貧乏人が飢え、大飢きんが発生します。キリストと称する男は、このことを見通していたようです。

もし霊の力によって動物的生き方を止めて、霊的に生きるようになれば、秩序を回復して、すべての所有を分配し、余剰分は倉に蓄えて、飢饉のときに備えると言っているのです。皆さん、これはユダヤにとって大いなる救済でありますぞ! 彼らはこのような組合をつくろうとしているのです」

長老の一人が言った。

「あなたは、あのナザレ人の弟子のようだ!」

他の長老たちが彼をあざけて言った。

「あなたは、あいつらの仲間になったのですか」

ガマリエルは答えて言った。

「そうではない! 私がどうして仲間なのですか。私は結果をもって判断しなさいと言っているだけです。この人たちは、師イエスが模範を示したように動物的側面をくつがえすことができないかもしれません。

師が与えた知恵に従おうと努力し少しでも真理に近づこうとしても途中で挫折してしまうかもしれません。あの連中はたしかにイエスの教えを繰り返し語り告げるでありましょう。しかし自分たちの預言者を殺してしまった責任を大祭司になすりつけ、自分たちの教師を木に吊るした人々への復讐をはかるかもしれません。

更に多くの人々を扇動して、かの師が教えたこと、『敵を愛しなさい』とか、『あなた方を憎む者を祝福しなさい』という言葉に反するようなことを始めるかもしれません」

ガマリエルは学識のあるギリシャ人について学んだので、非常に理性的な人物であった。それで反対者も賛成者も彼の説得によってみんな黙ってしまった。ガマリエルが言いたかったことは、キリストの教えは霊的なものではあるが、その弟子たちは師のように振る舞えないであろうということであった。

ガマリエルはみんなに向かって言った。

「私は決してキリストの弟子ではありません。今ここで、私は弟子たちのことにふれ、彼らをどうしたらよいかを考えているところです。まさか彼ら十二人をローマ総督にお願いして、木に吊るしてもらうことはできないでしょう。彼らはすでに多くの奇跡を起こしています。殊にローマ人の娘の病気を治したことは、総督の耳に入っています。

ペテロと称する者が、その娘の病気を治し、ベッドから立ち上がらせたことを。だからこそ、この十二人は、普通の人と全く同じように考えてはなりません。霊力を内に秘そめている人たちなのです。もしかしたら彼らも人間の動物的側面に打ち勝って、ついに神の子として真理を語ることができるようになっているかもしれません。

イスラエルの諸君! この連中に対する言動にはよくよく注意を払ってもらいたいのです」

大祭司ハナンが言った。

「あいつらが我々を潰そうとしているのだ。どうしてあなたは、こんな連中を神などと言うのですか、判断を誤ってはなりませんぞ!」

ガマリエルは答えて言った。

「私はただ、あの十二人をしばらく間、見守っていたいと申しているのです。時がたてば、彼らが神からのものか、人からのものかが分かります。昔、チュウダという男が現れた時、人々は彼を予言者だと申しました。

そして多くの者が彼に従っていきました。しかし間もなく彼は見放されてしまいました。彼は向こう見ずで自分の名誉だけを求めていることが分かったからです。更に、ユダスという男が現れました。

重税で苦しんでいた民衆に訴え、ローマに刃向かうように扇動しました。ユダスも神の名によって彼らに語り、何の恐れもいだく必要がないと言いました。しかし、彼に従った者は散され、彼は殺されてしまいました」

ガマリエルが演説している最中に、外で群衆の大きな叫び声が上がった。彼らは声を揃えて、使徒たちを釈放し、我々の手に返せと叫んでいた。彼らは十二人の使徒に自由を与え、民衆のためにもっと奇跡を起こしてもらいたいと強く要求した。

彼らの叫び声は長老たちの心を脅かした。長老たちは互いに顔を見あわせながら群衆の怒りを恐れた。

群衆の叫びが止んでから、ガマリエルが再び語った。

「十二人の弟子たちを直ちに解いてあげなさい! そうして彼らを自由に泳がせておくのです。彼らが単に人からの者であれば必ず散されるでしょう。しかし神から遣わされた者であるときは、あなた方の方が吹き飛ばされてしまうでしょう。なぜなら神に対して逆らうことになるからです。しばらく見守ることです。

だから平和のうちにここから出してあげるのです。それが神の御心に沿うものであるかどうかを見届けることです」

大祭司ハナンと長老たちは、何の罰も与えずに釈放したくなかった。なぜなら、民衆は弟子の勝利をたたえ、イエスが本当にメシヤであると言わせたくなかったからである。そこで十二使徒は、鞭打ちの刑だけで釈放された。弟子たちは、刑罰に処せられるほど神に認められたことを喜び合い、自由の身となった。

第13章 霊視家ヨハネと聖賢ガマリエル
ローマ帝国がユダヤを支配していた頃は、一般的にギリシャのアテネに留学し、ギリシャの知恵を習得する者が少なくなかった。なぜならば、ギリシャは彼らにとって異教文化ではあっても、理性に関する鋭い学問が進んでいたからであった。ガマリエルの切れ味はことに鋭く、モーセの律法に関して話すときなどは、彼の右に出るものはいないと言われるほど、ギリシャ仕込みの実力を発揮した。

ペテロが彼の師イエスの教えについて語った時、ガマリエルは霊についての考え方がまるでギリシャで学んだ学者が語っているように思った。だからこそこの分野に無知であった長老たちを混乱させてしまったのである。

ペテロは人間について、闇とか光とか、霊と肉というたとえで説明した。彼の話がまだ終わらないうちに、どうやらこの十二使徒は、モーセの律法に背いていないことが分かってきた。だから彼らを迫害することが、全く焼け石に水のように思えてならなかった。

ガマリエルは、サドカイ派とパリサイ派の間に解釈上の争点になっているモーセの律法について多角的な説明をした。彼はキリストの教えにかなり魅力を感じ始めていた。

しかしヨハネと話した時、自分はとてもついて行けないと言った。みんながイエス・キリストのようになれればクリスチャンになってもよいが、それは夢物語であると言った。彼はヨハネに言った。

「イエスの教えは完璧であるが、誰もそれを完全に守れるものはいない。人間はとかく転び安く、キリストが歩んだ道から遠く離れ、迷い出るものです。私はイエスの教えを学びましたが、あれは天使のための教えであって、人間のためのものではありません。見えざる王国の教えであり、人間の目に映る王国のものではありません」

霊視家のヨハネは答えて言った。

「イスラエルの大指導者であられるガマリエル様、太陽は光を放ちますが、私達の目にその光線が見えないのと同じです。あなたは、彼の教えが目に見えない王国のためとおっしゃいました。まさにその通りであります。

師が教えて下さった天の王国とは、肉眼には映らないものであります。でも私達はそれを何とか地上に実現させようと努力しているのです。それはたしかに目には見えませんが、それは眠りから目をさました時に、思い出せない夢のようなものです。でもその夢は大切なものであり、実現させねばならないのです。

私達は神の子にはなれないかもしれません。しかし神の似姿を形作る努力はできると思います」

ガマリエルは首をふって悲しそうに言った。

「あなたはまだ若く、希望にあふれておられる。しかし間もなく私のように年をとるでしょう。しおれた草のように体もいうことをきかなくなります。その時に自分がいだいた夢は空しいものであり、厳しい現実だけが残ることを知るようになるでしょう」

ヨハネは笑いながら言った。

「もしあなたが、ほんのしばらくの間、私達と一緒にお暮しになれば、私達の師が示された未来像をお見せできるのですが。すべての異邦人がキリストを拝み、もろもろの国の人々が彼を崇め、彼の教えを学ぼうとすることがお分かりになることでしょう。私が霊視したことは必ず実現するのです」

「あなたに示された幻を疑うわけではありませんが、私には、とてもついていけないのです、若い予言者さん。もし、そうなったとしても、いずれ多くの人々が、天使は別として彼の教えについていけなくなるでしょう。さて、私はこうしていられないのです。サウロという若者が私を待っていますので。

私は彼に話してやらねばならないんですよ。真の知恵とは、我らの父祖の律法の中に見いだすことができることをね。彼はどうやら、それに気付いたらしいのです」

ヨハネは内心悲しい思いをしながら聖賢の前から立ち去った。ヨハネはガマリエル程の偉大な聖賢が味方になって、キリストの教会が大きく飛躍することを願っていたからである。

さて、身心共に強壮な若者、サウロ(後のパウロ)が、ローマからやってきて聖賢ガマリエルの門下に入り、モーセの律法や神殿の密儀について学ぶこととなった。ガマリエルの心の中は、ヨハネのことやキリストの言葉で溢れていた。

それで彼は若者サウロにこのことを語って聞かせた。ついに、若きユダヤ人に啓示が与えられた、という意味のことを語ったという。ガマリエルは、キリストのことを弁護し、サウロに対して、キリストの教えの美しいこと、そしてそれらは教会という建築物を建てる石材となるであろうと語った。

若者サウロは、当時、自分自身の考えから、キリストの弟子たちは神殿やモーセの律法に刃向かうふとどきな連中であると思っていた。ガマリエルはもの静かにヨハネの語った言葉を用いながらキリストのことを語り弁護したので、かえってサウロの心を硬化させ、聖賢ガマリエルへの反感をつのらせる結果となった。

そんな訳で、サウロのクリスチャンに対する憎しみは強まるばかりで、誰からやっつけたらよいかを真剣に考えるようになった。そしてついに、ユダヤ全土をひっくりかえすような迫害を加えて、キリストの教会を亡きものにしてしまおうと決意するに至った。

ガマリエルは、弁証法に長けていたので、とても議論を好んだ。それで彼は、若者サウロが余りにも議論が下手なことを自覚させようとした。ガマリエルは、一方では心情的にキリストを信じ、他方、理性では彼の教えを否定していた。

彼は若者サウロが怒り狂っているのを知ってからは、二度とキリストのことを口にしなかった。つとめて、モーセの律法に関する話を続け、彼の理性を養おうとした。

さて、私にはヨハネやガマリエルについての幻が多く与えられている。後になって若者サウロは、キリストについて語ったガマリエルの言葉によって、自分が大人げなく感情的になったことを思い出し、反省したことをつけ加えておこう。つまり、以上のような次第で、彼がクリスチャンを迫害したのである。

第14章 サウロ、ステパノに敗れる
サウロはユダヤ人として割礼(神とアブラハムとの間の契約の印として出生直後の男子に行われる包皮切開手術)を受け、モーセの律法によって教育された。少年時代はローマに住んでいたが、青年になってからイスラエルの律法や信仰を学ぶため親族を頼ってユダヤにやって来た。

サウロはとても烈しい気性で、反対されると烈火のごとく怒り、彼の記憶に焼き付けられてしまうのである。

彼は確固たる自信を持ち、御師ガマリエルから聴いたヨハネの言葉を何度もこね回しているうちに、ついに迫害を加える意志を固めた。彼の怒りは絶頂に達し、まだ名も無い若者でありながら長老たちの前で、イスラエルの主なる神やモーセの律法を思う熱意を示し、地位と権力を獲得したのである。

土の下に植えられている種は見えなくても、時期が来ると地上に成長し、実を実らせるものである。ヨハネの言葉も例外ではなかった。ガマリエルと話し合ったことは、悲しむべき結末であったように見えたが、実はそうではなく、ひとつの実をみのらせることになったのである。それは結果として外国にイエス・キリストの教えを広めることになったからである。サウロによって計画された迫害は、多くのユダヤ人クリスチャンを国外に追い出してしまった。

彼らはあちこちで土地を耕し、種をまき、十二使徒のようになって活躍し、暗黒のうちに苦しんでいる人々にキリストの教えを聞かせ、光明を与えることになったのである。このように使徒たちの背後には、見えない神の御手が働いていて、彼らのつき進む道を導いて行ったのである。

最初のうちは、イエスの教えを外国に住むユダヤ人に伝えていたが、次第に地の果てまでイエスの言葉を伝えるためには、先祖から伝えられた習慣をかなぐり捨てなければならなかった。

さて、サウロは数人の金持ちや長老たちとクリスチャンの動きについて話し合った。彼は毒がイスラエル全土に広がらないうちに雑草のようなクリスチャンを除いてしまうことを提案した。

サウロは又どんどん増えている信者のなかに、ステパノという若者が言いふらしていることを耳にした。なんでも、キリストを十字架で殺してしまった報復として、近いうちにエルサレムを滅ぼしてしまうように信者に命じているとのことである。どんな努力をしても、人間の語る言葉というものは、悪い尾ひれがつくものである。

サウロの耳に入った時には、かなりねじまげられていた。それでサウロは、余りにも激しい性格だったので、無意識のうちにクリスチャンを絶滅させようと逆上してしまったのである。サウロは金持ちや長老たちに向かって言った。

「この人達は、灼熱の太陽のようにエルサレムを焼き払おうとしているのです。その火は砂漠の熱気のように家を焼き払い、神殿をも滅ぼしてしまうでしょう」

彼は声を低くしてささやくように語り出した。彼らの背後には、ローマ帝国がひそかに手をかしていて弟子たちに金を渡していること、そしてエルサレムを滅ぼしたら、もっと大金を支払うとの約束ができていること、更に、反動分子をとっつかまえて奴隷に売りとばし、その金をローマに運んでいるなどと語った。

サウロはローマから最近やってきて、ユダヤの高官たちと親しくしているということで、多くの者はサウロの言うことを信じた。密室でささやかれることは千里も走るのたとえのように、この話はエルサレム中の噂となって広がっていった。しかも、この話は誰が最初に吹き込んだのかを知っている者は殆どいなかった。

しかしこれはローマ人の耳には入らなかった。それはユダヤ人の中でしか語られず、互いに不信感を持っているローマとユダヤとの間に心の障壁があったからである。

更に、誇りという悪霊がサウロを虜にしてしまった。彼がガマリエル門下たちと別れを告げた後、ある会堂(ユダヤ教の礼拝所)に入ってみると、一人の若者がキリストの教えを説いていた。この若者はステパノと言って、キリストの光に浴し、日々熱心にキリストの教えを説いていた。

サウロがガマリエルの言葉に刺激されていなければ、おそらくステパノなどには目もくれなかったであろう。しかし悪霊に手引きされ、更に、ガマリエルの言葉が耳にこびりついていたことも手伝って、サウロはこの髭なしの若者を見据えていた。

そこでサウロは聴衆のど真ん中に割って入り、ステパノをにらみつけながら、彼の説いている教えはモーセの律法と矛盾する邪説であると言いだした。ステパノは、むかし神殿でモーセの律法を本格的に学び、キリストの教えに接するまでは、神殿に仕える祭司になろうと準備していたので、誰よりそれを知っていた。

それで彼はサウロに対して堂々と反論を加え、むしろキリストの教えこそ、神から与えられた古い信仰(モーセの律法)の上にかぶせられた王冠のようなものであると説明した。

サウロはエルサレム在住のユダヤ言葉や、荒々しい気質のことを余り知らなかった。おまけに彼らは、ローマ人が競技場でのスポーツに血をわかせるのと同じように論戦を楽しむ習慣を持っていた。

それで聴衆はサウロが早口でステパノを罵倒し感情的になっているサウロには好感を持たなかった。彼らはサウロのことをあざ笑った。それでサウロは逆上し、手をふり上げてステパノの頭をたたいた。聴衆は大声をあげてサウロは論争のおきてを破ったとわめき、サウロをつかまえて、彼の着ている紫色の衣服を引き裂き、地上に投げ捨てた。

サウロはあわてて逃げ出し、通りかかった友人に助けられて難を逃れることができた。

この時からステパノに対する憎悪は大きくなり、いつかエルサレムの人々の目の前で、彼をやっつける計画を虎視たんたんと狙うようになったのである。

第15章 教会の発展
ステパノとサウロの論争は、十二使徒の投獄事件の直後に起こったつかの間の出来事であった。使徒たちはステパノの健在を喜び、神を賛美した。

かなりの歳月が流れる間に、サウロのささやかな話は民衆の間に伝わっていき、十二使徒から離れていく者が続出した。彼らは十二使徒をローマの密使と思い込むようになった。悪い噂が口から口へと伝わっていく半面、キリストの教会は、どんどん栄えていき、信者の数は増えていった。多くの信者は、公然とメシヤを称えることを恐れていた。

それで大祭司を始め、体制の指導者を最も混乱させたものは、ヤコブとペテロが信者たちに説いている教えであった。即ち、キリストの信仰は新興宗教ではなく、むしろ在来のもの(モーセの律法)が開花した宗教であるという教えであった。

多くの人々が、毎日、十二使徒のもとにやってきて、入信しては自分の全財産を使途にさし出すのであった。ついに十二使徒は財産管理に手が回らなくなり、本来の仕事(布教)ができなくなっていた。

当時のエルサレムでは、外国からやってきたユダヤ人は、レベルが低いとみなされていた。例えば、クレテ島、リビア、ギリシャなどからやってきたユダヤ人は、本国在住の同胞から軽蔑されると思いこんでいた。

これは実に馬鹿げたことであった。にわかに教会が盛んになったのに乗じて、数人の女達が使徒のところにやってきて、外国からやってきたユダヤ人にも権威ある役職を与えてくれと要求した。

権威をやたらに行使することの過ちを深く心配したヤコブは、かねてから、どうすればみんなが幸せになれるかと考えていたので、同胞に対しては、そのうち立派に奉仕のできる人を選ぶ考えがあることをほのめかした。そしてキリストの教会における真の権威というのは、主人になることではなく、しもべとして人々に仕えることにあることを教えた。

知恵に溢れているヤコブの説得に彼女たちは恥ずかしくなり、使徒たちに謝った。それからというものは、キリストの教会のルールは、人々に奉仕するものであると知るようになった。

さて、外国からやってきた同胞の不平を処理するために、十二使徒は会議を招集した。一同が集まって様々な意見を交換してから、ヤコブが立ち上がって言った。

「同胞の皆さん! 主イエスが御互いに分け合ったように、私達も互いに総てのものを分け合おうではありませんか。私達には数人の会計担当者が必要です。それも家事に精通した誠実な人でなければなりません。更に会計担当のもとに、婦人の一団をもうけ、主として病人に仕え、必要欠くべからざる奉仕の業に従事し、絶えず聖霊と知恵の御言葉によって多くの人々に光明をもたらす組織を必要としているのです」

ヤコブの言ったことにみんなが賛成し、それこそ教会の本当に礎(いしずえ)であるという点で一致した。

ペテロは、この二つの組織(会計担当者と婦人の団体)に選ばれた男女は、すべて独身を維持し、その任に当たっている間は、純潔を守る誓約をたてねばならないと主張した。ペテロは言った。

「もし夫や妻がある者は、キリストの教会に対して熱心に仕えることは難しい。教会よりも、夫や妻を愛するからである」

ヤコブはペテロの主張に真っ向から反対した。

「それは、とんでもないことである。その任にあたるものにとって結婚こそふさわしいものである。結婚しているからと言って奉仕の働きが鈍るとでも言うのでしょうか。心の中に喜びがあふれている者こそ熱心に働くことができるのではないでしょうか」

ある者はペテロに賛成し、ある者はヤコブに賛同した。そこでヨセフが十二使徒に呼ばれ、知恵に溢れている彼の判断を求められた。

ヨセフはおもむろに口を開いて言った。ユダヤ人だけならば成功するだろうが、外国からきたユダヤ人や異邦人がいては、到底むりな話である。後日、改めて話し合うことが必要であると言った。彼が異邦人のことにふれると、反対意見が出された。異邦人は本当にキリストの福音を受け入れているか甚だ怪しいものである。

だから彼らを受け入れる時は、一旦改宗者(ユダヤ教徒)として受け入れ、モーセの律法をたたきこむべきであると主張した。ユダヤ人の多い社会では、どうしてもモーセの律法を学んで割礼を受けることが要求されたのである。

そんな訳で、この日には、収入役(会計担当者)だけがとりあげられ、くじを引いた。その結果、ピリポ、ステパノ、ニコラスなど、全部で七人の者が選ばれた。七人の若者は鍵が渡され、彼らの名前が全教会に知らされた。彼らの主な仕事は、会計と書記役であった。書記の仕事は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブのもとで記録をとることであった。

第16章 教会の政策
七人が選ばれてから、エルサレムの教会では規定に関する難しい問題がおこった。一部の者は、商売で得た儲けは自分で確保すべきであると言いだした。そんなことを許せば、ずるがしこい漁師や大工は、他の同志たちと共有しないで利益を独占し、教会の損失になってしまう。そこで、七人と相談し、彼らに対して返答した。

「大工は仕事のために道具が要るであろう。又、漁師は網や舟などのために金が要るであろう。商売道具は当然欠かせないものである。

それで、これらの必要なものを買い入れる金は、すべて選ばれた七人をとおして支払われることにしよう。同志たちよ、もし商売をするものが、めいめい自分勝手な金を持つことになれば、財産の共有形態が崩れてしまうことになる。

教会には、商売人ばかりではなく、乞食も酒飲みもおり、更に健康な者や病人もいて、互いに協力し合って生かされていることを知ってほしい。同志の結束を強めるためには、それぞれ違った能力を持っている者たちが、お互いに協力して大きな力になるように仕向けなければならないのである。

ときには、ギリシャ人がゲームに景品を添えているように賞品も必要であろう。それぞれが仕事に熱を入れるためである。しかし同志諸君! 決して怠けてはならない。今回選任された七人は、決して諸君を苦しめるようなことはしない。彼らは諸君の面前において十二使徒の吟味を受け、彼らも正当な理由を述べ、総てのことが正しく処理されていくのである。そのためにこそ使徒たちが七人の頭に手を置いて祈ったのである」

手を頭に置いて祈ること(按手)は、大切な任務を他人に委託することを意味する習慣であった。多くの記録には、聖霊がこの七人に降ったとあるが、そんなことがあるはずはない。

信仰があり、心清ければ、誰にでも聖霊が充満しているものである。『神の国は、あなた方の内に在る』とキリストは教えている。それはほかでもない、聖霊を心の中に招き入れる仕組みのことを意味しているのである。人間が勝手に聖霊を他人に招き入れるようなことは許されていない。

人間は、ただ、訓練し、魂に必要なものを準備してやり、聖霊が招き入れられるように整えてやれるだけである。選ばれた七人は、確かに善良で、心が清く熱心であった。与えられた職務にも熱心であった。しかし聖霊に満たされていた者は、ステパノ、ピリコ、ニコラスの三人であった。

聖霊が心に訪れると、まるで別人のようになり、心の輝きが一段と増すのである。とりわけ、最もひんぱんに聖霊が訪れたのは、ステパノであった。ピリコとニコラスの場合には、一陣の風のように時々訪れるのであった。

第17章 ステパノの奇跡
七人の中の第一人者であったステパノは、ヨハネに愛されていた。ヨハネは自分に与えられた啓示についてステパノに話して聞かせることができた。当時は、外国の言葉で話すことや、病気を癒すなどの不思議な力は、十二使徒だけに与えられていた。ステパノは聖霊のお助けによって、強力な説得力を身につけたいと望んでいたので、ヨハネの話に熱心に聞き入っていた。ピリコやニコラスも同様であった。

ある蒸し暑い夜、彼らは一心に祈り続け、悪霊と戦いながら、聖霊を受け入れる心の準備をしていた。夜が明ける頃、イエスが命じた聖餐(ミサ)を行っていた。パンを割き、ぶどう酒を分かち合っていた。彼らは手をつなぎ、テーブルを囲んでいた。深い静けさがあたりを覆った。

一瞬の風が部屋の中を通り過ぎるやいなや、小さな炎のようなものが空中に現れた。ステパノ、ピリポ、ニコラスは異音(※)を語り出した。ヨハネは終始この三人に霊の光が与えられるように祈り続けていたが、突然、死人のように体を横たえ、彼の霊体の誘導によって聖霊が三人の者に訪れた。

ピリコとニコラスは、異言を語る力は与えられたが、ステパノには、さらに大きな霊の光が与えられていた。彼は、直ちにそこから出掛けていくように命じられ、暗黒の中で救いを求めている者を見いだすように言われた。

まだ夜が明けたばかりなので、町の中は殆ど人影が見られず、ステパノ自身も何をしてよいのか分からなかった。町の城壁づたいに、曲がりくねった道をたどって、陽が天空の真上にあがるまで休みなく歩き続けた。すると、ある一軒の金持ちの商人の所へやってきた。

この商人のことは聖書にも載っていないので、説明しておこう。彼は、十二使徒をやっつけようとして、長老たちを抱き込んで扇動していた者である。彼は教会の信者が増えることを、とても恐れていた。もしかしたら自分の財産を全部取られてしまうのではないかと思ったからである。

この商人の名前はギデオンと言って、それはとてもあくどい事をしていた。陰で散々悪いことをしているくせに、周囲の者や長老たちの前では、善良な聖人を装っていた。彼の妻がキリストに帰依したことを知って、ひどく怒り、信仰を続けていくならば、家から出て行くようにと脅した。

彼らのたった一人の子供が、高い熱をだし寝込んでしまったので、妻は夜も昼も子供のそばに付いて見守っていた。

ちょうどステパノが聖霊を受けるために祈っていた夜のこと、ギデオンはぐでんぐでんに酔っ払って家に帰り、スラム街からいかがわしい男や女を引き連れてきた。彼らは病気で寝ている子共の部屋の階下で、一晩中どんちゃん騒ぎをしていた。夜明けごろ、病気の子供は、大声をあげ、身を震わせながら死んでしまった。

母は途方に暮れ、階下に降りていき、大声で淫らな話をしている連中に向かって、止めるように言った。この上の部屋で、今、子供が死んだことを告げた。

そこにステパノが家の中に入ってきた。内面の声の命ずるままに、どんちゃん騒ぎをしている部屋を通り抜けようとした。妻は、この人は夫が連れてきた人ではないことを感知したが、苦悩に満ちた妻の目には、彼が何者であるかが分からなかった。ステパノは、厳しい声をあげ、直ちに騒ぎを止めるように命じた。

そこに居合わせた者は、笑う者もなく、馬鹿話をする者もいなかった。ステパノの声が、余りにも霊力に満ちていたのでシーンとなってしまった。

彼は子供が死んだことを語り、父親と仲間に、すぐ上の部屋に来るように命じた。みんなが集まってからステパノは、妻の両手を取り、彼女に言った。

「主は本当に求める者のために自分を遣わされたこと、もし彼女が心から主を信じるならば、死んだ子供を再び生き返えらせるであろう」と。

父親は泣きわめき、胸をたたきながら叫び出した。

「おまえなんかに、そんなことはできっこない、オレの息子はオレから離れて行ったのだ。罰があたったのだ」

ステパノは静かにするように命じたので、再び部屋の中はシーンと静まった。ステパノの体から、聖霊の光が放ち始め、子供の前身をつっぽり包みこんでしまった。この若者は、ゆっくりと子供の体を抱き上げ、耳元で何やらささやいた。その言葉は恐怖におののきながら見守っている者たちには聞こえなかった。

突然、子供が体を動かした。すかさずステパノが叫んだ。

「主イエス・キリストの名によりて、お前の霊が再びこの体に宿りなさい! そして元気になりなさい!」

子供はスックと立ち上がり、ほほ笑んだ。ステパノは子供をベッドの上にねかせてから、みんなの方を向いて言った。おまえ達は、もう二度と悪いことをしないで、主イエス・キリストによる救いにあずかりなさいと。ステパノは妻をいたわった。彼女の夫は、どうして奇跡が起こったのか知らなかったけれども、ステパノの足元にひれ伏して、彼を預言者と呼んだ。

ステパノは部屋をきれいにしてから、罪深い夫を呼び入れて言った。子供が生き返ったのは、我らの主イエス・キリストの御力によるものであると語って聞かせた。そして教会のことや、キリストの教えが多くの人々を救っていることを聞かせた。

これは、ステパノによって為された最初の奇跡である。これを目撃した者は、総て信仰を受けいれ、教会の仲間に加わり、キリストの信仰を広める熱心な働き人となった。

(※)訳者注─初期キリスト教において聖霊を受けた法悦状態で発する意味不明の言葉による祈り。一種の霊言現象。使徒行伝二章三~四節参照。

第18章 ステパノの殉教
ギデオンは妻と息子を連れて神殿に行き、心から悔い改める話をした。以前の彼は、のんだくれであり、淫乱婦の所に入りびたりであったことや、彼の息子が死んで、再び生き返らせてもらったことから、すっかり心を入れかえて、主なるイエス・キリストの御恵みにあずかっていること、更にイエス・キリストが、神の人ステパノを遣わして、罪の許しと不思議な奇跡を現し、主の無限な哀れみを施してくれたことなどを話した。

聴衆の多くは祭司であった。祭司たちは彼の悪事を知らず、むしろ高く評価していたのであった。

祭司たちはステパノにイエス・キリストの福音を聞かせて欲しいと懇願するようになった。それで多くの人々の要請により、ステパノは会計担当の職務を辞めて、会堂で主の教えを伝える仕事に専念するようになった。

主の教えは、多くの人々の間に広まっていった。そして彼によって、多くの奇跡が起こされたのであった。ステパノが会堂に入ると、席は満席になり、外に溢れるほどであった。

ときどき彼は、会堂から外に出て話すこともあった。

サウロはこのような光景を見て、苦々しく思った。彼のステパノに対する憎しみは、ステパノの名声が高まるにつれて増大していった。ついにサウロは、あたりかまわずステパノの悪口を言いふらした。奴は教会の連中と一緒にエルサレムの転覆を狙っているのであると。長老たちや商人たちは、サウロの話を信じたが、熱狂的な群衆を恐れた。

「おれたちが手を出そうものなら、たちまち石の嵐が吹き荒れて、おれたちは殺されてしまうだろうよ。馬鹿なやつらがすっかりステパノの奇跡を信じているんだからね」

そこでサウロは、はるばるエルサレムの神殿に巡礼にやってくる外国在住のユダヤ人をつかまえ、教会の悪口を聞かせ、このまま放置すればモーセの伝統的信仰が滅ぼされてしまうと訴えた。

キリキヤ、リビア地方(小アジア)からやってきたユダヤ人は少し違っていた。彼らはエルサレムに住んでいなかったので、彼らの財産は外国に在り、したがってエルサレムの住人のような恐怖感はなかった。彼らはステパノの説教に感動し、帰依する下地を持っていたのである。

さて、サウロの計画を実行する時がやってきた。ステパノは、大いなる神の力と勝利の勢いにのって多くの病人を癒していた。サウロは虎視たんたんと彼のやっていることを監視していた。

ひねくれた連中は、彼の説くモーセの律法を勝手に解釈し、平気で乱用していた。彼らはステパノにつめより、ナザレのイエスは神であるかないか返事しろと言った。ステパノは勿論そうだと答えた。すると彼らはステパノを非難し、モーセの律法によれば神は唯一であって、たくさんの神がいるはずはないと口汚く罵った。

ステパノは更に、聖霊という神がいることを話して聞かせ、自分はその聖霊の御力によって死んだ子供を生き返らせたのであると言った。

ステパノは彼らに反論を加え、主イエスは、予言者によってその到来を予告されたお方であることを強調した。彼らは従来の儀式や慣習などを根拠に反論したが、ステパノは、人間が罪から救われるためには、主イエス・キリストを信じる必要があると主張した。

このような議論がおこなわれている間に、サウロによって選ばれた者たちが群集の中にもぐりこんできた。この連中はクリスチャンを恨み、公然とキリスト教を口にするものを逮捕しようと待ち構えていた。

この連中は、サウロから金や衣服などで買収された者で、合図が出れば即座にステパノを掴まえて、大祭司の所へ連れていくことになっていた。一人の外国からやってきたユダヤ人がステパノとの論争に負けたのをきっかけに、待ち構えていた連中が立ち上がり、口汚くステパノを罵った。

悪霊の使者であるとか、神に不敬を働いたとか言って、彼の顔を殴り始めた。ステパノは全く抵抗をしなかったので、彼らはますますひどく彼に暴行を加え、顔につばをはきつけた。ステパノは、主イエスのために受けた懲らしめを喜んでいたのである。彼らはステパノを計画どおりに大祭司の所に引っ張って行った。

ステパノは、公式の場で裁判を受けなかった。なぜならば、彼らは一般大衆の反乱を恐れていたからである。

大祭司の前でステパノを罵る役割は、キリキヤ人であった。ひと通り簡単な裁きが終わってから、ステパノは答弁を開始した。彼は、その中で、キリストの教えは根本的にはモーセの教えと全然違わないこと、それどころか、キリストこそ代々の預言者たちによって語られた、神に選ばれた者であると主張した。

従ってその教えを守るクリスチャンは、従来の伝統的信仰を破壊するものではなく、むしろそれを強め、昔の予言者たちの言葉を成就させるものであると弁明した。

このようなステパノの弁舌は力強く、最もサウロの恐れていたものであった。サウロは彼を罠にかける良い方法はないものかとしきりに考えていた。正当な議論で彼に勝つことができなければ、残った方法はただ一つ、奇跡でやっつけるしかないと判断した。これは実に危険な賭けである。

もしかすると、かえって、彼を称えさせることになるかもしれないからである。しかしサウロの憎しみは絶倒に達し、もうこれ以上引き下がることはできなかった。

彼はステパノにたいして丁寧な口調で話しだした。彼は、聖霊なるものがどのように働きかけ、癒しの奇跡ができるかを尋ねた。ステパノは答えて言った。それは、ただ、聖なるお方の御恵みによるものであり、今後も多くの病人や、死にかけている人を癒し続けるであろうと。そこでサウロはステパノにしばらく席をはずすように促した。

そこでサウロは、一人の男をみんなの前に連れてきた。その男は肉体は腐れかかっており、手足は殆ど半分ぐらい無くなっていた。見るからに汚れていて見苦しかったので、長老たちは顔をそむけた。

ステパノが再び護衛に連れられて入ってきた。完全にわなが仕掛けられていた。サウロは彼に向かって命令した。

おまえが詐欺師とか神を冒pした者と言われたくないならば、この男の腐った手足を聖霊とやらで、治してやるのだ。大勢の人々の前で、それをやるのだと。群衆はサウロの言葉を聞いて一瞬緊張し、へとへとに疲れきっているステパノの方を見た。

彼は体ぢゅうをふりしぼって長時間キリストへの教えを話した直後であったので、体力も気力も衰えていた。

果せるかな、聖霊の力は彼の体に宿らず、何の徴も現れなかった。これができなかったならば、必ず教会に対して危害が加えられることになると直感した。多くの信者は信仰を失い、彼も殺されてしまうと思った。しかし、この時ばかりは、どんなに努力してもうまくいかなかった。

ステパノは一心に祈りを求めたのであるが、何の応答もなく、疑いの気持ちが濃くなるにつれてますます聖霊の働きは彼から遠のいていった。手を病人の体の上に置き、父と子と聖霊の御名によって清くなれと言っても、らい病人の体には何の変化も現れなかった。群衆はこの様子をじっと身動きもせず見入っていた。

奇跡がおこる瞬間を待っていたからである。サウロはこのようなステパノの様子を見据えながら口火をきった。

「この男は、いまだに、らい病人ではないか、一体どうしたというのか。あちこちの会堂や市場の広場で大きな口をたたいていたお前の神はどこに行ってしまったのか」

ステパノは再びらい病人を癒そうと努力するのであるが、一向に効果が顕れなかった。男の手足は、依然として腐ったままであった。ステパノは大祭司に言った。

「私はどうやら失敗したようです。力が湧いてこないのです。でも私は詐欺師などではありません。あなたがたは徒(いたずら)に不思議と奇跡をみたがる邪悪な時代に生きています。あなた方のうちに悪霊が住んでいるからです。我らの先祖が昔外国の捕虜となった時、イスラエルの神は何ひとつ奇跡を起こされませんでした。それを嫌われたからです。

あなたがたは、彼らと全く同じように心がかたくなになっており、先祖が予言者たちを迫害したのと同じことをしようとしているのです。だから、あなたがたはキリストを殺してしまい、それでもまだ飽き足らずにいるのです」

ステパノの言葉に怒り狂った大祭司、サウロ、及び彼らのとりまき連中は、ステパノを掴まえ、群集の前から外へ引きずり出した。ステパノは外に出された途端、よろよろと歩きながら倒れてしまった。彼のそばにいた一人の男が、手で彼をたたきながら言った。

「奴の体は燃えている。まるで火のように燃えている!」

彼の顔からは、炎のような光が輝いており、周りの者を照らしていた。その輝きはこの世のものとは思えなかった。

ステパノから恐怖と疑いの心が消えて無くなり、再び霊の力が彼の体に宿ったからである。ステパノは、主イエスが彼を見捨てなかったことを知って大いに喜び、今や、自分は主イエスのために命を捧げる時がきたことを悟った。

一切の苦悩は消え去り、聖霊の訪れを感じた。この様子を見ていた群衆の烈しい怒りは、彼への同情と変わっていった。

ステパノは、天空を仰ぎ見、彼の右手は彼を罵る者を祝福するために向けられた。彼は主イエスを身近に感じた。

主イエスが神と共におられる御姿を見た。彼は恐怖を感じて静かになった群衆をなおも祝福し、かれが今天に何を見ているかを語った。群衆はどよめき、互いにささやき合った。

「彼は、やはり神の人だ。おだやかにここから出してやろうじゃないか。見ろよ! 霊の光が彼の体をつつみこんでいるじゃないか!」

群衆の気持ちが大きく変化したことを察知したサウロは、買収しておいたものたちを呼び集め、示し合わせていたことをやれと命じた。彼らは一斉にステパノをめがけて石の雨をふらせた。選ばれた七人の中で、最も若かったステパノは、なぶり殺す者たちを祝福しながら息を引き取った。彼の魂は、あたかも一羽の鳥が空中に舞い上がるように人々の視野から消えて行った。

投石のために買収された連中は、殺された者の顔をのぞき込み、主イエスによってえらばれた者の一人を殺してしまったことを知って苦しんだ。群衆の怒りが消えて冷静になってから、彼らはステパノの遺骸を道の上に置き、サウロの姿を探しながら叫んだ。

「お前がやったことは、良くないぞ! おれたちは、この件については関係ない!」

群衆は自分たちの上着を脱いでステパノの遺骸にかけてから立ち去った。金で買収された者たちは、心中おだやかではなく、とても恥ずかしい思いをした。ステパノが壮絶な殉教の死を遂げた時、彼らも神を見たからである。

第19章 不吉な影が忍び寄る
ピリポはステパノをとても愛していた。ステパノが集会所から連れ出される頃、ピリポは遠く離れた所で彼のために祈っていた。衣の裾を誰かが引っ張ったので、ふり向くとニコラスが立っていた。「すべてが終わったよ。彼は眠っている」と言った。

ピリポが目にしたものは、群集が立ち去った後に路上に残された流血とサウロの姿であった。サウロはまるで魂が抜けた抜け殻のように突っ立っていた。その側にどろまみれになっているステパノの遺骸が横たわっていた。

迫害者は、始めのうち喜びの表情をあらわしていたが、彼の買収した連中が自分の上着をステパノの足元にかけ、恥辱に満ちた顔つきでうなだれながら立ち去っていく様子を見てから、険しい顔付に変わった。

怒号が止み、人々はひそひそと話し合っていた。空はどんよりと暗くなり、恐怖の念が覆っていた。ピリポは死体のそばに駆け寄り、そこにひざまずいて大声を挙げて祈った。愛する兄弟の霊を御手に受けて下さいとイエス・キリストに呼ばわっていた。

サウロがやってきて、残酷な口調で祈ることを止めろと言った。しかしピリポとニコラスはサウロのひどい言葉には耳もかさず、最後まで丁寧に祈り続けた。ピリポはその時聖霊に満たされ語り出した。

「さあ、我が愛する兄弟を墓に葬ろうではないか。いつの日か、お前は、何て悪い事をしたのかと気がつくであろう。兄弟の死は、かえって私たちの信仰を一層強めてくれたのだ」

サウロはピリポの口を平手で殴りつけた。

「消え失せろ! この男の死体は、杭(あな)にでも埋めてしまえ! 葬式など言語道断だ! こいつは犯罪人なんだ、どうしても墓に葬るというならば、お前も同じ犯人として牢獄にぶち込んでやるからな!」

ピリポは答えて言った。

「兄弟よ、あなたは自分の犯した罪を悔い改めなさい。あなたは決して主キリストのお恵みから遠く離れているのではありません」

居合わせた連中は、サウロの言葉を無視して、ピリポとニコラスに手をかし、ステパノの遺体を運び出した。サウロが止めることができないと分かると、彼はピリポをにらみつけながら言った。

「おまえらの勝手にするがよい! 早く消えちまえ! そのうちおまえらのような雑草をユダヤの地から根こそぎ抜き取って絶滅させてやるからな、覚えておけ!」

ステパノは丁寧に葬られた。その夜は弟子たちみんなが集まり協議した。実はヨハネに夢で一つの幻が与えられていた。たくさんの羊が丘の上で散らされて行き、一匹の狼がどん欲に追い掛けまわしている。

そして一匹の子羊がかみ殺されてしまった。彼はこの幻によって、ステパノの死は、いよいよ教会が迫害されることを予告しているものであることを述べた。そこで使徒たちは、エルサレムに止まるべきか、それとも立ち去るべきかの選択に迫られた。

彼らはみんな決死を覚悟した。アテネからやってきたお金持ちのユダヤ人が、一刻も早くここから立ち退いて、身の安全をはかるように薦めてくれたのであるが、賛成しなかった。

臆病な兄弟たちのことを考慮して、立ち去ることを主張する者もいた。十二使徒が投獄されて殺されてしまったら、残された者はどうするかと議論した。しかしここに止まることは、主キリストの御意志であると結論を下した。

前に選任された六人(ステパノが殉教したので七人ではなくなった)が使徒の前に呼び出された。ピリコとニコラスは、再びステパノの殉教の模様について語った。使徒は、この二人に今の職務を止めさせ、サマリヤ地方(エルサレムの北方、パレスチナの中央部)で布教するように命じた。

サマリヤ地方は遥かに安全であると思ったからである。使徒は、この二人が当局からにらまれているので、早晩逮捕されるのではないかと考えたからである。

サマリヤへ行くのには、もう一つの理由があった。それは、シモンという男がキリストと称して誤った教えを広めていたからであった。一刻も早く本当の教えを説いて、教会を発展さる必要があった。そんなわけで、蓄えられた金は、安全な場所に移すため、エルサレムからはずれた田舎に山をみつけ、洞穴に保管された。そして当番の者が日々必要な分だけを取り出すことにした。

使徒は、迫害が迫っていることを察知して、恐れている者たちに、早急にエルサレムを離れるよう警告した。二十人程の人々が一同に集まり、旅立つ前に十二使徒から祝福を受けた。彼らは目指す土地にいるユダヤ人にたいして、イエスの福音を述べることを約束した。

迫害が迫っていることは、霊によって事前にヨハネに知らされていた。その他の者は誰も知らなかったのである。

サウロはひそかに計画を練り、時が熟すまで、クリスチャンを重罪人として抹殺することを秘密にしていた。サウロの怒りは、ステパノの死ぐらいでは納まらなかった。かえってクリスチャン撲滅の意欲を大きくかきたてる結果となった。

サウロは大祭司やサンヒドリンの議員たちと話し合った。結論として、エルサレムの住人はペテロやキリストを信奉する者たちが次から次へと病人を治し、奇跡を起こしているのを見ているので、彼らを迫害することを許さないであろうというのが共通の意見であった。しかしついにステパノが奇跡に失敗したことが話題になった。

誰でも知っているらい病人を治してくれることを期待していたのに、彼は失敗したということを、ローマの総督に報告しようではないかとサウロが言い出した。

「あいつらは、みんな陰謀をたくらんでいるのだ! 持ち物をみんなで共有しているところを見ると、奴らはやっぱり盗んだ獲物を分配している盗っ人にちがいないのだ。

そのうち奴らはエルサレムに火をつけ、火事場泥棒でもやるつもりなんだろう。奴らはなんでもキリストが三日のうちにエルサレムを破壊してしまうという物騒なことを話しているそうじゃないか。さあ、みんなでローマ総督の所へ行って、奴らの陰謀をせん滅する許可をもらってこようではないか」

長老たちはサウロの提案を喜んだ。そして総督の臨席を要求することになった。その結果早速サウロにクリスチャンを撲滅する権限を与えることになった。まさに、サウロの思うつぼであった。

サウロはまだ若造でユダヤに来てまだ日が浅かったにも拘らず、彼はサンヒドリンで幅をきかすようになった。

彼はキリストの教会をたたき潰すだけでは飽き足らなかった。彼はそれ以上の権限を要求した。会堂では、いつもステパノとの論争に敗れ、ステパノの勝利によって傷つけられていた。しかし何よりもサウロをぶちのめしたのは、ステパノの最期の瞬間であった。霊の光につつまれた最期の顔は、まさに勝利に輝く征服者のそれであったからである。

サウロはローマ総督に対して事の次第を雄弁に語った。臆病な総督は、ローマ人の入れ知恵もあって、ついに迫害の許可をサウロに与えた。ローマ人をそそのかして悪い噂をばらまいたのは、実にサウロであった。陰険な網がひそかに張り巡らされ、キリストの教会を撲滅するための諸準備が整えられていった。

第20章 サウロ三人の若者を殺害する
サウロの狙いは、教会の根を絶やすことであった。しかし彼は使徒たちに直接手を下すことはできなかった。

死刑を宣告する権限はユダヤ人にはなく、ローマ総督だけに与えられていた。サウロは七人の収入役を取り調べるために役人を派遣した。収入役は、教会の金を管理していたので、彼らを痛めつければ信者たちは力を失い、教会は麻痺状態に陥ってしまうだろうと考えたからである。

ピリポとニコラスは、やみ夜に乗じてエルサレムを脱出した。彼らは乞食に変装していたので、間道に設けられた関所を難なく通り過ぎることができた。後に残された選ばれた若者はプロコロ、テモン、パルメナであった。

この三人も生気溢れる若者であった。彼らは主の仕事に熱心に励んでいた。彼らの主な仕事は、もっぱら信者の名簿を作ることであった。教会は迫害が始まってから、当局の目をくらますために、選ばれた若者の代理をする他の七人を選び、金銭の管理にあたらせた。彼らは主の仕事に熱心に励んでいた。

彼らの主な仕事は、専ら信者の名簿を作ることであった。教会は、迫害が始まってから、当局の目をくらますために、選ばれた七人の若者の代理をする他の七人を選び、金銭の管理にあたらせた。ピリポとニコラスがサマリヤへ向けて旅立った夜、代理の七人は三人の若者と会合し、仕事の引継ぎを行った。

引継ぎを終わったころは、すでに夜も更けており、三人は別々の道を通ってエルサレムを出発した。

ちょうどその夜、サウロはクリスチャン撲滅の全権を得て、夜が明けてからエルサレムの域壁の外側に警備兵を配備した。パルメチ、テモン、プロコロの三人は何の変装もしないで出発した。夜中に出かけるのであるから無事に行けるだろうと思ったからである。三人には数人の仲間がついて行った。

サウロは片っ端からクリスチャンを掴まえていた。もちろんこの三人も捕らえられた。捕えられたクリスチャンに対して、サウロは犯罪人キリストの教えを捨てて、モーセの律法を守ると約束するならば、今すぐ自由の身にしてやると説得した。臆病な者を除いてみんなサウロの説得に応じなかったので、彼らは公衆の面前でムチ打たれ投獄された。

サウロは、プロコロ、テモン、パルメナを呼んで難題を吹っ掛けた。サウロは謝罪と金を要求した。三人は彼の卑しい行為を軽蔑して言った。

「あなたは、若さで蛮勇をふるっておられるが、明日は逆転して、私達から金を貰うようになるでしょう」

このような三人の振る舞いは、サウロを少なからず驚かせた。彼らは非難めいたことを一切口に出さず、暗黒の中にいるサウロの魂が救われて、主なるキリストに仕えることができるようにと、ひたすら大声で祈るのであった。

彼は、止めさせようとしても、彼らには全然聞こえなかった。サウロは怒って、彼らを別々に投獄してしまった。

三人は散々ムチで打たれ、裸のまま縛られ、砂利の上に座らされた。太陽が照り付ける頃になると、鞭で打たれた傷痕がうずいた。三人は喉が渇いても一滴の水も与えられなかった。このようにあしらわれたのは、この三人が始めてであった。陽が沈むと再び牢にぶち込まれた。

このような苦しみは、彼らを愛する者たちの想像を絶するものであり、生き残る見込みは全くなかった。朝がくると、縛られている綱が弛められ、サウロの前に引き出された。サウロはこの世の楽しい事など話して聞かせてから、彼らの師キリストを犯罪人と宣言し、更に教会内部の情報を教えてくれれば、解放してやると言った。

しかしこの三人の若者は、ひたすらサウロの魂の救済を祈り続けるのであった。彼らの目は、信仰の光で美しく輝いていた。しかし彼らの苦痛は、日ごと増大し、昼は焼け付く太陽のもとにさらされ、夜は、足もとの蛇などに悩まされた。

プロコロはついに倒れ、彼の霊は肉体を離れた。サウロは牢にやってきて、胸が高鳴るのを覚えた。残された二人も降参するかもしれないと思って、縛っている縄をといてやった。しかし二人は、か細い声で口を動かしてるので、サウロは耳を口に当ててみた。彼らからはなおも、サウロの魂の救済のために祈っていたのである。

彼は怒り狂って、暗い牢の中を大股で歩いた。町では、専らサウロが一人のクリスチャンを殺してしまった、それは大変良くない事であると噂されていた。

残った二人、シモンとパルメナも大声をあげ、体を大きく震わせ帰らぬ人となった。牢番たちは、この様子を見て制服を脱ぎ捨て、自分の職務を放棄して、一晩中、使徒の一人を探し回り、使徒のタダイを見つけるや否や、自分たちにも洗礼を受けさせてほしいと言った。

「とにかくですよ、わしらは知らぬ間に天使に仕えていたのですよ! あの方たちは不滅だよ。あんたがたがキリストとやら言っている大先生をわしらは信じるよ!」

この言葉を聞いた使徒タダイは、自分たちの職務や制服を投げ捨ててきたのを知って、直ちに仲間の使徒の所へ連れて行った。彼らは洗礼を受け、その後、熱心に主イエスを述べ伝える者となったことは言うまでもないことである。

さて、三人の若者が死んでから、牢番たちはみんなちりじりになり、サウロの怒りを恐れてエルサレムから離れた所に逃げてしまった。

大祭司とガマリエルは、サウロのところへやってきた。ガマリエルは三人のクリスチャンが殺されたと言う噂を耳にしたと言った。サウロは自分のせいではないと頑強に否認した。

「奴らは牢番と結託したんですよ。クリスチャンに買収された牢番は、奴らを逃がし、自分たちはエルサレムから消えちまったんです。わしの知っちゃことじゃありません」

ガマリエルは、迫害する事の愚かさを話した。しかしサウロは益々心を硬化させ、クリスチャンに敵意を燃やすようになった。サウロは殺した四人の若者にたえずつきまとわれ、悩まされていた。

四人の若者は、彼の夢の中にも姿を現した。ステパノ、プロコロ、テモン、パルメナの四人の若者は、常に彼の魂がキリストによって救われるように祈っているのであった。サウロの心は一瞬も休まることなく、四人の若者の訪れにおびえていたが、クリスチャンへの迫害の手はゆるめなかった。

彼は自分の行為は絶対に正しいと確信していたからである。しかし、内心、クリスチャンたちは罪と死を克服しているに違いないと気付いていたのである。それは、まるで、クリスチャンというトゲが体にささっているかのようであった。口ではみんなに、キリストは悪魔に見入れられた魔法使いであると罵っていた。

第21章 サウロの失策
サウロと長老は、クリスチャンの頑固さに閉口していた。サウロを慕っているハナンは奴らが危険な反乱をたくらんでいることをローマ総督に吹き込もうではないかと言いだした。

彼らは早速ローマ総督のところにおしかけ、クリスチャンたちは遠からずエルサレムに火をつけ、どさくさまぎれにローマの兵隊におそいかかり、ユダヤから追い出そうとしている、と言った。当時のローマ人は、特にユダヤの青年層の動きに注意を払っていたので、彼らの言うことに耳を傾けた。

しかしクリスチャンとはかかわりたくなかったので、総督は代案を提示した。それはユダヤ人の中から評判の良い人を数人選び、彼らにクリスチャンを処理する権限を与えようとするものであった。

そこでサウロとハナンは、彼らの中からクリスチャンを嫌っている者を数人選び、生殺与奪の権限を与えた。選考は投票によって行われた。更に総督から何度も念を押されたことは、使徒には絶対に手を出さないことであった。総督の親戚筋からも絶対に使徒には手だしをしないようクギをさされていた。

その親戚筋とは、かねて使途ペテロが、死んだ娘を生き返らせたローマ人の父親であった。彼は任務を終えてローマへ帰る時に、総督に念を押してユダヤから帰って行った。ローマではなかなかの権限を持った人である。

総督は、大祭司とサウロに対して、再三使徒には手出しをしないように勧告していた。使徒は群れの指導者であるから、彼らにムチを当てたり投獄などしたら、それこそ本当に暴動が起きるかもしれないと警告した。大祭司とサウロは、いやいやながらこの命令に服し、下っ端どもを相手にすることになった。

専ら神殿内でキリストの説教をしている者たちを掴まえては、治安妨害罪ということで死刑を宣告した。しかしサウロの権限は、日ごとに増大していった。それと共に、クリスチャンが金持ちや商人に対して、彼らの財産を強奪する陰謀をたくらんでいるという噂が広まって行った。サウロは手あたり次第に噂の種をばらまいていったからである。

彼は、会堂や家の中からクリスチャンを強引にしょっぴいて回った。多くのクリスチャンたちが無実の罪を着せられて殺されて行った。クリスチャンを撲滅するのに熱中している時は、サウロにとって四人の亡霊から逃れられる時であった。サウロによって始められた教会への迫害はますます激しくなっていった。

若い母親がイエス・キリストを信ずる告白をすれば、乳飲み子までも容赦なく牢獄にぶちこんだ。牢獄には、女子供が溢れるように詰め込まれたので、多くの弱い人々は牢獄の中で死んでいった。

それでもクリスチャンたちは、死を恐れなかった。老いも若きも困難をいとわず、むしろムチ打たれることを光栄とし、飢えや渇きに喜びをあらわすという光景が見られた。これは実に不思議な事であった。

祭司や長老たちが牢獄を訪れるたびに、彼らのイエス・キリストに対する立派な信仰心が読み取れるのであった。

迫害者は途方に暮れた。投獄や死刑の宣告をもってしても、彼らの信仰心を打ち砕くことができなかったからである。その上牢獄にはこれ以上詰め込むスペースがなくなってしまった。そこで長老はサウロに言った。

「おまえのやり方は失敗だ。依然として使途たちは教えを説き、信者たちは教えに忠実に従っているではないか」

サウロはかえって居直り、更に強力な権限を与えて欲しい要求した。大部分のクリスチャンは他の町に逃げ去り、そこからエルサレム在住のクリスチャンに金や食料を送っていた。

ダマスコ(シリアの首都、ベイルートの東57マイルの地)には相当数のクリスチャンがいて、キリストの教えを熱心に伝えていたので、多くの人々を夢中にさせ、まるで、枯れ葉に火をつけたように広がって行った。この分では、間もなくイスラエルの神への信仰者は居なくなってしまうように見えた。

それで大祭司と長老はサウロに公文書を発行し、ダマスコはもちろんのこと、ユダヤ全土においてクリスチャンを迫害する権限を与えることになった。

サウロは公然とは使途に手をだせないので、別な方法で十二使徒をやっつけるワナを工夫した。彼が雇い入れた数人の男にクリスチャンを装って彼らの中に潜り込ませ、使徒たちがやってくる集会の時と場所を探らせた。

使徒たちの目下の働きは、教会内部に発生した新たな問題、即ち苦しめられている同志を救い出すことであった。

そのために相談や祈りの時を必要としていたのである。サウロはそこに目をつけ、多額な金で買収した者に集会の時刻を探らせた。その時こそ、使徒たちを殺すチャンスになるかもしれないと考えた。買収した若者たちを集め、ぶどう酒を振舞いながら、教会の奴らを刀で切り殺すようにそそのかした。

この仲間にアゾルというリーダーがいて、大変気が短く、ぶどう酒がそれに拍車をかけたので、直ちに仲間を引き連れて十二使徒の集会所に向かった。サウロの下僕が彼らを案内した。

真夜中になって、いよいよ復讐ができる時がやってきた。若者の気性を知り抜いていたサウロは、門の所で彼らに冷ややかに言った。これはとても危険な仕事であり、自分は血を流すようなことは好きではない、と伝えた。彼らはますます興奮し、刀を振り回しながらサウロに約束した。

キリストなんかと言う極悪犯罪人と共謀者の首をひっさげてエルサレムにかえってくると息巻いた。

若者の足音が消えてから、サウロの心は躍った。憎たらしい奴らが今晩死んで葬られると思うだけで体がぞくぞくしてくるのであった。なおも彼は空想に耽っていた。キリストの教会を全滅させれば、権力はおれのものになるのだ。

それは何と痛快なことか、その途端、例の四人の若者の幻が彼の前に再び現れた。この若者はいつもと同じように彼の魂の救いのために祈っているのである。この祈りは彼にとって、物凄いちょう笑として聞こえてくるのである。

彼は大声で叫びながら空中を殴り始めた。まるで人影をたたき潰そうとしているかのようであった。しばらくして彼はひざまずき、今度こそイスラエルの神に、この計画が成功するように祈った。

猛毒がユダヤ人全体をだめにするまえに、サソリの巣をねこそぎ粉砕してしまうことを願った。彼は立ち上がりながら快感を覚えた。十二使徒が今夜殺され、キリストの息がかかったものがすべて消えうせてしまうと思うと、たまらなく嬉しかった。サウロはこれでステパノにも勝てたし、夜も昼間も、のべつ亡霊に悩まされることもなくなると思った。

その夜は月がこうこうとして輝いていて、若者を照らしていた。彼らは十二使徒が集まっている秘密の場所に近付いた。

使徒たちは一同に会し、聖霊の導きにより、教会の行く手を示してもらうことが必要であった。使徒は祈り続け、聖餐(ミサ)にあずかった。彼らはみんな手をつなぎ合い、肉体に聖霊が宿ることを祈り求めた。

この夜は、殊にペテロ、ヤコブ、ヨハネに霊力が加えられ、事前の刀剣で武装した者たちがやってきて、彼らを皆殺しにする時間が迫っていることが予告されていた。

アゾルと仲間十人の若者が入口の戸をたたいた。何の返答もなかった。彼らは勝手に戸をあけ、中に押し入った。

内部の静けさがアゾルとその仲間を圧倒した。若者たちは、まるで山にでも登る時のように歌を歌ったり、大声で話し合っていたのであるが、余りにもただならぬ雰囲気に圧倒されてしまい、ただ黙ってお互いの顔を見つめあっていた。じっとしているのももどかしく、若者たちは抜き身の刀をふりかざしながら部屋の中に突入すると、突然、彼らの体がこわばってしまい、麻痺し、まるで神殿内に飾られた偶像のように棒立ちになってしまった。

恐怖の目で十二使徒を見詰めると、彼らは手をしっかりとつなぎながら、テーブルを囲んで座っており、テーブルの真ん中には、聖餐用の杯(カリス)が置いてあった。部屋の中は薄暗く、霧のような異常な蒸気が杯から舞い上がっていた。

その蒸気が、ゆっくりと侵入してきた若者の体を包みこんだと思うと、蛇が絡みついたように彼らの体を締め付け、ついに息が詰まってしまった。使徒たちは依然として身動きもせず、ひたすら聖霊の訪れを祈り求めていた。

この事があってから、エルサレム中はこの話で持ちきりであった。ある者は、獅子の子ユダ(アブラハムの孫ヤコブの第四子で、ライオンのように強かったと言われていた・・・創世記四十九章参照)が現れて十二使徒を護ったのだと言い、ある者は、人間の目に見えない四匹の野獣が飛び出して十二使徒を護ったのだとか、様々なうわさがとびかった。この時、若者が本当に見たものは、彼らを縛りつけた不思議な蒸気と、聖霊にしっかりと護られた十二人の使徒たちであった。

その後、若者たちの心はバラバラになっていった。彼らが這いずるように部屋から出てきた時の顔は、もはや人間ではなく、野獣のような顔付きであった。狂気が彼らを被い、死神に取り付かれたように一目散に町へ逃げていった。

この出来事をアゾルは一部始終サウロに話して聞かせた。仲間もみんな手を引いてしまったことを付け加えた。

サウロの打撃は大きかった。しばらくの間この若者が言っていることが信じられなかった。ついに彼は、教会の根を絶やすことに失敗したことを知って悶々とした。ようやくサウロは、彼らを護っている力がこの世のものではないことを悟った。彼は当時、誇り高い人間で、自分の知恵は長老たちよりも優れていると自負していた。

使徒殺害計画の話はたちどころに広がって、様々な尾鰭がついた。しかし、ここで示されたものが真相であることを付け加えておく。

サウロはエルサレムでの夢が破れ、長老からは責められ、商人からはあざけられ、ついにダマスコのエレアザル宛ての親書をたずさえて早々にエルサレムを立ち去った。エレアザルはクリスチャンをとても憎んでいる行政官で、サウロには大祭司からダマスコにいるクリスチャンを撲滅する総ての権限が与えられていた。

第22章 サウロの回心
さて、私は暗黒と冷酷のうちに閉ざされていたサウロの魂が、主イエスの教えによって息を吹き返したことをお伝えしよう。これは、まさに全人類にとって有益であるからである。

この話は、人間がどんなに多くの罪を犯しても、どんなに邪悪なことをしても、聖霊のお恵みによって浄められれば、予言者、教師となり、異邦人に真理を伝える器に選ばれることを示すものである。

サウロと数人の者がダマスコに向かって出発した。時は、旅行の季節ではなかったので、沿道には人影が少なかった。サウロは太陽の暑さにヘトヘトになっていた。何日も眠らずに歩きとおしたからである。その上、出がけには、長老たちからエルサレムでの失敗を責められて頭にきていた。ガマリエルも彼に言った。

「お前は、キリストを根絶しているどころか、信奉者があちこちにうろついているではないか。急いで手を打たなければ、お前の方がやられてしまうぞ!」

そんなわけで、サウロはくさりきっていた。まるで嵐で折れ曲がった樹の枝のように彼の魂はすっかり参っていた。

彼に殺された四人の若者が、彼のために祈っている姿が目に焼き付いて離れなかった。彼も同行の者も一口も口をきかず、目だけが血走っていた。

ダマスコに近付いた時、同行の者が殆ど同時に倒れてしまった。彼らは大きな叫び声を聞いた。見るとサウロは両手を挙げ、体は地上に倒れていた。サウロのまわりには誰もいなかったので、同行の者が救助しようと近付いていくと、穏やかな声が響いてきた。

「サウロよ! お前は、どうして私を迫害するのか」

このような声が三度くりかえされた。そして三度目に、ようやくサウロは答えた。しかし彼の言うことは支離滅裂で、何を言っているのか分からなかった。そして再び穏やかな声が響いているのを同行の者が耳にした。彼らは一体誰がサウロに話しかけているのか辺りを探したがそのような者は見当たらなかった。

周辺には一本の樹もなく、視野を遮るものもなく、ただ一本の道路が走っているだけであった。それで彼らは恐怖に襲われ、サウロを起き上らせながら言った。

「先生、一体どうなさったのですか。あの変な声は何者なんですか。先生、私達に教えて下さい!」

サウロは目を開いて彼らを見上げながら叫んだ。

「真っ暗だ! お前たちの声は聞こえるが、何も見えないんだ! 主が私に話しかけたのだ。私は、私が迫害している、キリストをこの目で見たのだ!」

彼は今見たばかりの幻について語って聞かせた。同行の者は言った。

「先生は、頭がいかれちまったんじゃないか、ともかく、ご機嫌をそこねないようにしようぜ」

彼らはダマスコのユダスの家にサウロを運んだ。それからエレアザルを探し、先生は病気になってしまったと言った。彼らは、とにかく数時間か、あるいは一晩過ぎれば良くなると思っていた。

次の日になってもサウロの目は何も見えず、急に襲った暗黒の世界はなによりも恐ろしいものであった。彼の霊性は健全でなかった上に、良心の戦いをあまりしなかったので、常に怒りの感情に支配されていた。

三日の間彼は、暗黒の世界に横たわったままで、食物は一切のどを通らなかった。その間彼は、人間の存在の深さをずっしりと感じとっている。この苦難に耐えることによって少しでも主イエスに償いが出来るならば、たといこのまま死んでもよいと考えるようになった。

しかし時として彼に襲い掛かるものは絶望であった。彼は自分が犯した悪事を何とか払いのけたいと強く願っていたからである。彼が迫害した人々は、みんなこの世を去っていった。今一番恐ろしい事は、イエス・キリストを信じる言葉を表明できずに死んでしまうのではないかということであった。

三日目に変化が現れた。彼の耳元で、再びあの声が響いてきた。その声は、彼が異邦人のために主の福音を伝える道を選ぶか、それとも、彼のために備えられている道を拒むかどちらかを選ぶように、とのことであった。彼の霊は躍った。受け入れる用意はできていると叫んだ。

再び見えるようになるならば、声の命じる使命を果たすために、地の果てまで参りますと答えたのである。

「お前が私の重荷を背負って行こうというのなら、お前の行くべき道を指示しよう。それまでは誰とも口をきいてはならない!」とその声は彼に告げた。

一晩中、これから起こる未来の幻が次々と与えられた。それはとても奇異なものではあったが、今の彼には、その意味を十分に理解することができた。ところが幻の中に、彼が十二使徒殺害の密約を結んだ若者たちが出てきた。

彼らは一晩中サウロを呪い続けた。彼らはサウロを殺すまでは、眠ることも食べることもしないと誓い合っていた。

サウロが多くの人々に、キリストこそ救世主であり、死人から復活したことを懸命に訴えているサウロに憤慨したからである。ほかの幻も次々とは現れては消えていった。それらの幻は、全部彼を責めるものであり、彼が縛られ、ムチで打たれ、唾をはきかけられ、たたかれるといったものばかりであった。

更に幻は、どんどん展開し、ついに荒野で飢えに苦しみ悶え、教会を敵視する者から死の苦しみを受けるのであった。

自分の残酷な死に様が現れ、辺地で殉教の死を遂げるのである。すべての苦悩や災難は、主イエス・キリストのためにこそ身に負うものであることが示された。

一連の幻が終わると、なおも暗闇が続き、再び例の声が響いてきた。

「サウロよ! 選びなさい! お前はこの重荷が背負えるか。おまえを待ち受けているものを見たであろう。再び見えるようになった時、お前は課せられた人生を歩むか、それとも、今の苦しみから逃げるために、死の道を選ぶか」

サウロは答えて言った。
「主よ、私の答えは定まっています。私に光を与えて下さい。そうすればあなたに従って参ります」

声は二度と聞かれなかった。その夜のうちに、アナニヤという者がユダスの家へやってきて、サウロの顔と目の上に手を当て、見えるようになれと祈った。見よ! たちどころに彼の目は開け、アナニヤの顔が目に映った。サウロは直ちに洗礼を受けたいと懇願した。自分は大罪を犯した人間であることを悔いており、主イエスに帰依したいと熱心に願った。

昨日までのサウロは、死んでしまった。彼のかたくなな心は砕け、心に平和が訪れた。彼はキリストに仕える者となった。奉仕の中に真の自由を見いだし、霊の憩いを得たのである。

サウロが一心になって悔い改めている頃、主イエスはアナニヤに語りかけ、直ちにユダスの家に行ってサウロと名乗る人の目を開くように命じた。アナニヤは主の言葉どおりに実行したのである。アナニヤを通して霊の力はサウロの両眼を開き、罪深い魂をすっかり癒してしまった。

このようにして、キリストの教えにまったく触れなくても、一人の男が、幼子のような単純な信仰によって救われたのである。昔、神殿で学び、パリサイ人として学問をおさめた者が、主イエスの教えの中に真の知恵を見いだしたのである。

以上が、サウロの心が癒された物語である。彼が洗礼を受けた時、周りの者がサウロに、これから何という名で読んだらいいのかと尋ねた。彼は答えて言った。

「私は卑しい人間です。名乗る値打もない男です。しいて名付けるとすれば、若き日の私に魂が小さく臆病で、愚かであったことを表すものにしたいのです」

それで彼は自ら、『パウロ』と名付けた。(訳者注─ラテン語のpaullusをギリシャ語化した言葉で、〝小さき者〟〝小柄な人〟を意味する。ちなみにサウロとは、ヘブル語でシャーウールと発音し、〝望まれた者〟という意味である)

後に彼が、異邦の地で布教に専念している時、みんなは彼のことを先生と呼んでいた。そう呼ばせることによって、彼は主イエスの前では小さな存在であること、そして兄弟の誰よりも最も卑しい者であろうと努力したのである。

第23章 パリサイ派とサドカイ派
パウロは、多くの理由で主イエスに選ばれた器であった。少年時代には、タルソ、キリキヤ(小アジア)で成長した。

青年期に入ってローマに行った。それで彼はユダヤ以外の外国のことをよく知っていた。彼の父は、厳格なパリサイ派に属する者で、息子の彼を最も厳格な戒めによって教育したのである。だから彼は子供の頃から父の信仰を熱心に学んできたので、その派の教えに従って、死んでも生きることを信じていた。

もしも、復活を全然信じないサドカイ派の家で育ったならば、主イエスの信仰を受け入れることは、なおさら難しかったであろう。一般のパリサイ派の人々は、キリストが肉体も共に復活して、十二使徒の前の現れたことを信じなかった。

ただ、イスラエルの神だけは信じていた。その神は、自らの喜びのために世界を創造し、そして自ら破壊する方であると信じていた。古い時代に活躍した予言者の中から、偉大な預言者が再び現れると信じていた。

彼らの信仰によれば、何人かの偉大な教師は再生するが、一般大衆は、死ねば地獄へ行き野の草のように最後は枯れて無くなってしまうと考えていた。彼らは死後に関する考えはほとんど持っていなかった。祭司や学者は聖人だけが死なないと信じていた。トウモロコシの実は一つであるが、たくさん集まって一本の実となる。

予言者や学者は世に出るが、時の流れには逆らえない。花がしぼんで種がばらまかれるように、彼らも同じような運命をたどる。これが人の生命の原理であると主張する。人は死に、そして生きる。

だからサドカイ派の人々にとって、不妊の女は責められ、子をもうけない父親は非難されると思っていた。

要するにユダヤには二つの思想が存在していたのである。人間の復活を信じていたパリサイ派に対して、サドカイ派の予言者が「一切は空である」と叫んだように、人の生きる目的は何もなく、ただ空しく流転するのみであるという思想が存在していたのである。このように考えていた人々の心には、ただ苦しみと絶望があるだけであった。

第24章 パウロの信仰告白
ダマスコでは、多くのクリスチャンがいて、教会が次第に大きくなっていったが、これという指導者や説教者がいなかった。そのうえサウロがダマスコにやってくるとの噂を聞いて彼らは震え上がっていた。彼によってエルサレムでは多くのクリスチャンが殺されたことを耳にしていたからである。彼らは集まってどうしたらよいかを相談した。

ある者は海岸に向かって移動し、いつでも海から逃げられるようにしたらどうかと言った。しかしここで商売をしている者や家族を持っている者は、今の仕事を止めて他国に行って飢え死にしてしまうことを恐れた。

多くの信者たちは絶望のどん底につき落とされてしまった。彼らは胸を打ち、天を仰ぎながら迫害が来ないように望んだ。彼らは口をそろえて主に祈り求めた。どうかこの苦しみの杯(カリス)を取り除き、迫害が起こらないようにと必死に祈り続けた。

そこにアナニヤが現れて言った。

「私は今あのサウロと一緒にいたのです」

大きな嘆息が流れた。一同の者はついに最後の時がやってきたと思った。なぜなら彼らが最も恐れていた名前を耳にしたからである。アナニヤは、いやに落ち着いた態度でみんなをなだめ、声を震わせながら、たった今起こったばかりの奇跡のことを話して聞かせ、ついに、サウロはイエス・キリストを信じる仲間になったのだと言った。

するとそこにパウロが入ってきて、罪の告白(ざんげ)を始めた。並み居る兄弟たちの面前で、自分はみんなと同じ信仰が与えられた者であり、しかも、その末席につく者であることを告白した。

あまり突然のことで、一同は信じられず、恐ろしさのあまり、逃げ出してしまい、アナニヤとパウロの二人だけになってしまった。パウロは大いに失望して言った。

「誰も私を信用してくれない! まるでらい病人扱いだ! きっと私はすてられてしまう!」

アナニヤは彼に勇気を出して会堂に行き、主イエスに出会った時のことを話すように勧めた。パウロが会堂にでかけて、みんなに呼び掛けた頃は、すでに祈りが終わった直後であった。

過去のことしか知らず、クリスチャン撲滅のために彼がくるのを待っていたエレアザルは、会堂内に入りパウロが叫んでいるのを見て、そこにくぎづけになってしまった。何と驚いたことに、あのパウロが人々の前でナザレのイエスのことを話し、いかにイエスが彼の不信仰をあばき、盲にしたかを説明していたからである。

更にパウロはエレアザルの面前で、公然とイエスへの信仰を告白した。ついにエレアザルは、この若いパリサイ人の頭がおかしくなったと思い、群集の中をかき分けて彼の所にやってきた。そしてお前はキリストを信じるなどと、すごく悪い夢を見せられて、すっかりだまされているのだと言った。パウロは答えた。

「兄弟よ、だまされているのは、あなたの方ですよ。あなたこそ目前の真理を疑って、神を欺いているのです。救世主であるキリストは木にかけられ、同胞のユダヤ人によって裏切られたのです」

さて、これがきっかけとなって、一大騒動が起きた。エレアザルは、会堂の役人に向かって、悪霊に取り付かれてしまったパウロを逮捕せよと命じたからである。居合わせた人々は騒然として口々に罵り始めた。

「こいつが大祭司に選ばれたサウロだ!」

一方では詐欺師だとののしり、他方ではタルソのサウロは味方であると弁護した。彼らが大騒ぎをしている間に、パウロはその場所からすり抜けて出ていったので、役人が群集を解散させた時には彼はもういなかった。

その後パウロは何度も会堂にでかけて行っては、キリストへの信仰を証明し続けたので、ダマスコのクリスチャンたちは、もはや彼を疑わなかった。次第に彼らはパウロを歓迎するようになり、目前に迫ったエレアザルの迫害に対して彼の助けを求めるようになった。

そんな時、エレアザルがパウロを殺そうと企て、家来がパウロを探し回っているという情報が入ってきた。

パウロはそれを喜んだ。ついにキリストのために自分の命を捧げることができるので、直ちにエレアザルの面前に立とうと言った。しかしアナニヤや他の兄弟たちは彼に言った。

「友よ、生きることは死ぬことよりもむずかしいのです。主イエスはあなたを召してエルサレムへ行かせようとしておられるのです。そこであなた自身がクリスチャンを捕えようと仕掛けたワナを取り外すのです。今や多くの兄弟たちは、あなたが仕掛けたワナにかかって毎日殺されているのです。

くどいようですが、あなたが仕掛けたものです。だからこそ、これからは、あなたが作り出した野獣を絶滅させるのです」

彼らは家の床の下にパウロを隠してしまったので、エレアザルの手のものが町中を探し回っても見つけることができなかった。エルアザルはこれに腹をたて、町の総ての門に見張りをたて、門から出入りするものを片っ端から尋問した。夜になって門が閉まり、人の往来がなくなると、荷物類は塀の上をとうして運搬されるのが習わしになっていた。

そこで、彼らは籠を用意し、その中にパウロを入れて、夜中に塀の上から地上に吊り下ろし、ダマスコからエルサレムへ向かわせたのである。

第25章 サマリヤの魔術師、シモン
ここでサマリヤのシモンを紹介しておこう。主イエスが在世中、シモンという男が悪霊を使って不思議な業を見せ、素朴なサマリヤ人をひきつけていた。この霊は、彼が命じると石の雨をふらせた。シモンは、このように悪霊と結託して金儲けをしていた。彼は又、恐ろしい姿を使っては、女たちを脅していた。

女たちはシモンが動物を使って恐ろしい姿に化けさせていることを知らなかった。それで、彼らはシモンに金をだして追い払ってもらうのである。ある者は現物で支払った。どうやら金持ちが狙われていたようである。

しかしシモンには病気を治すことができなかった。人々が病気になってシモンに頼んでも、彼はそれを断った。

悪霊から、病気だけは神の霊力に頼るしかないことを教えられていたからである。シモンはエルサレムに行き、主イエスがなされた奇跡の数々を知った。彼はイエスを探し回ったが、すでに十字架にかけられたことを聞いて、イエスに会えないことを知り、再びサマリヤへ帰ってきた。しかし彼は、キリストを慕っているものが抱いている信仰の深さに驚き、彼は、これほど人々を引き付ける力が欲しいと思った。

ペンテコステが過ぎた頃、シモンはこのサマリヤにもひそかにキリストをメシヤと信じている者が少なくないことを知った。そこで、彼は意を決して荒野に行き、魔術の訓練を始めた。

髭はのび、頭の毛は長くなり、ヤギ皮で身を包み、羊飼いの杖をもって歩いていた。悪霊を完全に手なずけてからサマリヤへ帰ってきた。彼はそこで第一声を挙げた。

「私は、あなた方が知っているとおり、エルサレムで十字架にかけられた者である。かねて私は必ず死人から蘇り、再び生きると言った者である。サマリヤの人々を愛するが故に、先ずはあなたがたに私自身を示してからエルサレムへ行き、メシヤの使命を果たすつもりである」

単純な人々はシモンの話を聞いて、彼を本当のイエス・キリストであると信じてしまった。続々とイエスを信じる者が彼の所にやってきて、彼を拝み、彼の足元に捧げ物をおいて、〝我が師〟と呼んだ。彼の名声は遠くまで広がり、病人、肢体不自由者、視力障害者などが治してもらうために彼の所へやってきた。しかし彼は言った。

「邪悪な時代に生きる者よ! あなた方は予言者たちを殺した悪人である。私は神の子であって、そのようなことをした邪悪な人々の病気を治すことはしない」

彼らは、このメシヤが怒って、この地に飢饉や疫病をはやらせたら大変だと恐れた。そこで多くの者は彼に許しを求め、たくさんの贈り物をさしだして、どうか怒りをしずめ、足の不自由な人々が歩き、盲人が見えるようにしてほしいと願った。シモンの目的は、巨額の金を手に入れたら、よその土地へ行き、名前を変えて商人に化け、富と奴隷を手に入れようということであった。

さて、この噂がエルサレムにいる使徒の耳に入った。何でもキリストがサマリヤに現れて、盛んに布教をしているが、本当の主イエスのようではないとのことであった。そこで使徒は、ピリポをサマリヤへ派遣した。

ピリポはシモンを見つけてから、彼をなじって言った。

「私はかの主イエスと共に働いていた者です。イエスの名をかたるとは、何と恥知らずなことでしょう。即刻、悔い改めなさい! さもないと聖霊がおまえをたたき、地上の砂のように、おまえの体は砕かれてしまうでしょう!」

ピリポは若く見えたので、シモンは何だ青二才のくせにとくってかかった。シモンの家の外に大勢の人々が集まってきた時に、ピリポは群衆に言った。

「私は真実を伝えるためにここにやって参りました。シモンはあなたがたをだましているのです。この人はキリストでもなんでもありません。私は直接主イエスを見ています。この人は魔術師でしかないのです。だから奇跡を起こせないばかりか、キリストの教えすら教えることができないのです。

試しに彼に奇跡をやらせてごらんなさい、きっと何もできないはずです。私のように、主イエス・キリストに従う者の中で、最も末席を汚す者でも、聖霊のお助けによって、病人を治すことができるのです。私は無名の男ですが、主イエスの立派なしもべです。

ですから主イエスの力にあやかって、私にも病人を癒すことや、悪霊を追い出すことができるのです」

シモンの家のまわりに集まった群衆は、ピリポの言葉に感動し、ぜがひでも病人に手を置いて治してもらいたいと懇願した。それで、シモンの目の前で彼らの要請に答え、一人の女から悪霊を追い出し、生まれつき目の見えなかった少年の目を開け、中風に悩んでいた老人を立ち上がらせ、求める者すべての者の病を治した。

シモンは恥ずかしくなってピリポの足元にひれ伏して言った。

「私はキリストではありません。私はみんなをだましてまいりました。でも、私には、かすかながら悔い改める気持ちが残っています。私も主イエス・キリストを信じます。主は天に昇り、神の右に座しておられることを信じます」

ピリポはこのようなシモンに同情し、二人きりで話し合った。シモンの苦悩があまりにも大きく、ついに彼はピリポの足元に全財産を持ってきた。シモンは教会に受け容れられ、ついに洗礼を受けた。

私はシモンについて更に付け加えたいことがある。たしかに彼は、この時、本心から悔い改め、大いに恥じ入ったのである。そして一時は彼の心は無欲になったのであるが、風のように豹変してしまった。その理由は、一つには、ピリポの霊力があまりにも強く働いて、恐れをなしてしまったからである。

しかしながら、一旦悪霊に散りつかれた者は、なかなか悪霊と縁を断つことができないものである。たしかに一度は、シモンのずるい性質は取れたのであるが、誘惑されると、俄に悪い欲望が再び頭をもたげ、とくに、静かな時にそれを感じるのであった。

使徒ペテロがサマリヤにやってきた。ピリポが聖霊の御力により多くの病人を癒し、信者が増えたことを耳にしたからである。シモンは、主イエスに仕えていた。別な弟子がサマリヤにやってくることを聞いたとき、もしかしたら、この弟子から聖霊の力を金で買い取れるかも知れないと考えた。

シモンはペテロに金を差し出して、自分にも使徒が使っている秘密の力を譲ってくれないかと懇願した。ペテロは厳しい口調で彼に言った。

「おまえは、死に与えする男だ! 金と共に消え失せてしまえ! おまえの体は直ちに地上からはててしまえ! おまえはよくもまあ、聖霊を汚す大罪を犯したものだ!」

そのとき以来、誰もシモンを見た者はいなかったと言う。

第26章 パウロと大祭司
パウロがダマスコにいる間、エルサレムではクリスチャンに対する迫害が次第に大きくなっていた。大祭司は、まるで牛が溜池の水を飲み干すような勢いで教会をつぶしにかかっていた。

牢獄はクリスチャンでいっぱいにふくれあがり、毎日、裁判官は数人ずつ死刑の宣告を言い渡していた。使徒たちは、すでに町の中での布教はできなくなっていた。厳しい監視が始まったからである。このような恐怖が蔓延して教会は圧迫を受け、使徒たちは、もはや脱落した弱い者を助けることができなくなっていた。

それで彼らは、ひたすら主に祈り続け、長老や大祭司による迫害によって、信仰が破られ、散りじりにならないようにと強く念じていた。当時、多くのクリスチャンは、クレテ島、キリキヤ地方、あるいは、キプロス島やアンテオケなど、安全な地域へ逃げていたからである。

その頃、大祭司ハナンの耳に、とんでもない情報が飛び込んできた。サウロがダマスコの会堂で、イエス・キリストが神の子であると堂々と布教しているという知らせであった。

この噂がまたたく間にエルサレム中に広がった。中間派の長老たちは、この異端者撲滅運動は、やたらに騒ぎを引き起こすだけでは意味がないと言い出した。この噂はたちまちローマ総督の耳にも入った。総督は大いに心配して、大祭司ハナンに対してキリストの信奉者の取り扱いを誤れば、天罰が下るのではないかと警告した。しかしハナンはそれに耳をかさなかった。

さて、パウロはダマスコの城壁から籠で吊り下げてもらい、商人に変装して旅を続け、エルサレムの商人のところへ行った。町に入った時は、すでに夕方になっていた。彼はまず神殿に入り、一時間ほど祈っていた。彼は最初にメシヤを憎む人々の面前に出て、自分のあやまちを告白しようと決心した。

この時間帯には神殿内にはほとんど人影がなく、ひんやりとして、薄暗かった。パウロが熱心に祈っていると、次第に勇気が増してきた。だが、その時、一条の光が輝いた。

陽光があるはずはないし、神殿内に灯っている火でもなかった。神の臨在を現す炎であった。炎は燃え尽きることを知らず、赤々と周囲を照らしていた。炎の中央から声が響いてきた。

「パウロよ! 直ちにエルサレムからひきあげなさい。会堂に入って布教をしてはならない! ユダヤ人に福音を伝えるためにお前を選んだのではない。おまえは、異邦人のために選ばれたのである。日が暮れないうちに門を通ってこの町から去りなさい。悪者が毒蛇のように路上で待ち伏せしているからだ。重ねて言っておくが、お前は異邦人のために私が選んだものである!」

パウロは心の中で戦った。まだ霊の放った御言葉に従おうとしなかったからである。彼は迫害の先兵として働いたこの町で布教し、自分の大きな過ちを人々に示し、彼らの心をキリストに向けさせようと望んでいた。彼は叫んだ。

「主よ、たった一回でも会堂で布教をさせて下さい。そしてダマスコ途上の幻を語らせてください。人々の面前で、自分が卑しかったことを話し、あなたの名を知らせ、信じさせたいのです。どうか今、私を行かせてください」

「だめだ、パウロ! おまえの言葉は平和ではなく、剣となるであろう!」

若い弟子はくりかえし懇願したが声が答えた。

「おまえが今自分の罪を告白したいと言っているが、謙遜な気持ちからではなく、お前の自尊心から出ているのだ。おまえは、そのことを苦難を味わうことによって、もっと良く知るようになるであろう。どうしてもお前が行きたいと思うなら行きなさい。そのかわり、決して聖霊の助けなどを願ってはならない」

炎のような一条の光は空中に舞い上がり、神殿の内から消えていった。パウロ一人が残されていた。

彼はそこから十二使徒の所へ行った。使徒たちは誰も彼が悔い改めたことを信じなかった。

逆にパウロが、このように自分を低くして罪を懺悔するかのように見せ掛けて、何かをたくらんでいるワナではないかと恐れた。パウロはヤコブの足元に身を投げ出して懇願した。そのときのヤコブは聖霊と共に居なかったので、ことの真相を見破る力が働かず、ただ恐れるばかりであった。その時ペテロはエルサレムにいなかった。

ペテロ以外の使徒たちは、もはやエルサレムでパウロの手によって殺される時がやってきたと思った。しかし彼らはそこから逃げようとはしないで、固い結束のもとで、死を選ぶ決意を持っていた。エルサレムは、何と言っても、師なるキリストが死んだ聖なる都であったからである。

パウロは悶々として苦しんでいた。主は夢の中に現れて彼に言った。

「今すぐ大祭司のところへ行きなさい。そうすればそこでお前が何をなすべきか聖霊が指示を与えるであろう。そのことにより、教会を縛っている拘束を緩めることになるであろう。急ぎなさい! その時に我が子ら(クリスチャン)に一つの徴を与えるであろう。即ち、おまえが、異邦人のために私が選んだ器であることを知らせるためである」

それから、パウロは腰の帯をしめ、夜明けごろ大祭司が部屋で一人居るときに訪ねることができた。大祭司ハナンは、パウロがエルサレムにきていることを知らなかったので、彼の姿を見て非常に喜んだ。かつてのパウロは、どの腹心の部下よりも忠実であったので、内心、この若者ならば、きっと総督を説得できるにちがいないと思った。

折りも折り、大祭司は総督より迫害の件で心が休まらないとの伝言を受けたばかりであった。

パウロは総督に会見し、自分の過ちを告白してから、長老たちに迫害を止めさせる命令を下す権限を要求した。総督は大いに驚くと同時に、真実を知ることができたことを喜んだ。しかし彼は、サンヒドリンや大祭司がどうでるかが心配であった。そこでパウロが言った。

「ハナンが私の言うことに賛成するならば、やってもよいがね。もし、長老や祭司たちが迫害を続けたいというなら、私はそれを止めることができない。彼らの中にはローマで幅をきかせるものがいるからね」

総督は板挟みになって苦しんでいた。彼は正しい人であったので、ユダヤ人がクリスチャンを迫害しているのは、ねたみによるものと見抜いていたからである。

パウロが大祭司の部屋へ再び入って行った。彼は無言で、平安であれ、との挨拶をパウロに送った。ハナンはダマスコ途上で彼の身の上に何が起こったのかを知ってはいたが、口にしなかった。彼は裁判官に対してクリスチャンを裁判にかけ、どのように教会を潰すかなどの指令を出したことを話した。

更に十二使徒は、悪霊の力を利用して魔術を行っているなどと言った。パウロはもう黙っていられなくなり、口早にダマスコ途上で見せられた幻のことをしゃべった。パウロはこの老人を説得してキリストのことを解かってもらえると思っていた。ハナンはパウロに言った。

「おまえは夢を見ているのだ。さもなくば、強烈な太陽の熱にあてられてしまったのだよ。私はそんな幻なんか信じないね。だいいち、モーセの教えに全然合致していないじゃないか」

パウロは一瞬自分の努力が無駄であったかと思った。しかし霊の力が働いて、どうしたらこのずる賢い大祭司に真理を現したらよいかが示された。パウロは大祭司に言った。

「お望みなら、この部屋でダマスコ途上で示された奇跡と全く同じような奇跡をご覧に入れましょう」大祭司は快く承知した。どうせ彼にそんなことができないと思っていたからである。

部屋の中は夜明け前で、まだ薄暗かった。彼は大祭司ハナンのために奇跡を現してほしいと心の中で祈っていた。すると、彼らの目の前に不思議な幻が現れた。長く、緑色をしたものが壁のまわりに渦を巻いていて、鼻がつぶれそうな悪臭を放ち始めた。よく見ると、二つの真っ赤な目がついていてギラギラ光っていた。

ハナンはその正体がサタンと呼ばれている古い蛇であることが解った。蛇は音一つたてないで二人をにらみつけていた。グロテスクな頭が大祭司の方へ近づいていった。恐怖がハナンの全身をとらえ、金縛りにあったように体を動かすことができなくなった。助けを求める叫び声すらたてることができなかった。パウロは言った。

「もしあなたがキリストの弟子たちを解放しなければ、この蛇はあなたを呑み尽してしまうでしょう。蛇の腹の中に横たわり、地獄へ行くことになるでしょう」

再び沈黙が続いた。すべての生き物が死に絶えたと思うくらいに静けさが続いた。蛇はなおも大祭司の方へ近付いていった。今にも大祭司を呑み込もうとする瞬間姿が消えた。そして雷鳴が轟き、閃光がきらめき、人間の発するどよめき声となった。部屋はユラユラと動き、二人の者は顔を被いながら神の助けを求める叫び声を挙げた。

パウロはぶるぶる震えながら口を開いた。もしも大祭司がなおも迫害を続けるならば、たちまち大祭司は死んでしまうと言った。ハナンはヘデロのことを思い出していた。

ペテロがどのようにアナニヤを死に至らせたか、このずるい祭司は恐れていた。彼はキリストがエジプトで会得した秘密を弟子たちに教えこんだものとばかり信じていた。彼はその力には敵わないと考えていたので、ついに屈服し、総督の所へ行くように命じた。

大祭司もついにパウロの要求を受け入れ、クリスチャンに対する迫害を中止し、すべての囚人を解放すると伝えた。総督は早速命令を下し、クリスチャンはすべて牢獄から出て、自分の家に帰るように指示した。

長老の一部は、キリストや信奉者をひどく憎んでいた。司法関係の長老や、神殿に深くかかわる長老たちがそうであった。この人々はクリスチャン解放の報を聞いて驚いた。裁判官たちは大祭司に詳細を聞き出そうとしたが、大祭司はしなびた野菜のように生彩を失い、先刻味わった恐怖におびえて口もろくに聞けない状態であった。

それでも、ようやく口を開き、今までのいきさつについて要点だけを語った。長老たちは興奮して、大祭司ハナンを責めたが、ハナンは彼らと議論を交える気力がなく、呆然と座っているのみであった。じっと口を結んだまま、あの恐怖に身を震わせ、ついに下僕の腕の中に倒れてしまった。

ちょうどその時、ダマスコの王アレタスの支配下に置かれていたダマスコの総督から情報が入り、パウロはダマスコから逃げ出したこと、及び彼は極めて悪質なスキャンダルの主人公であったという報告であった。

ダマスコの総督と親戚関係にあったエレアザルがパウロを掴まえようとしたが、彼はすでに身を隠してしまった、とも伝えられた。そこで再び長老たちは相談し、翌日、総督の所へ行って、クリスチャンの迫害を再開してもらうよう懇願することになった。

翌日になって、長老たちが集まっていると、そこに聖賢ガマリエルが姿を現した。彼は非常に悩んでいることがあった。ローマから、ある情報が秘かにかれのもとに届けられていた。

それによると、ローマ皇帝はユダヤ地方をローマ帝国の領土にし、エルサレムの神殿にカイザルの像をうちたて、反ローマ分子のユダヤ人に対し、真の支配者は誰であるかを示したいとのことであった。カイザル(ローマ皇帝の称号)は、ユダヤから税金が非常に少ないことに腹をたてていた。

それで頑固なユダヤ人から、皇帝の当然の権利として相当額の税金を取り立てるべきであると考えていた。ガマリエルは、いつユダヤ人に重いくびきがかけられるのかを日ごろから恐れていた。これほど恐ろしい脅しはなかったのである。

長老たちはガマリエルに並々ならぬ尊敬を払っていた。ことに彼の先を見る目の鋭さには舌をまいていた。それで彼らはガマリエルの言うことに耳を傾けた。

ユダヤ人がユダヤ人を迫害してもよいか! 兄弟同士が争ってもよいか! これこそわが国民を分裂させる邪悪な行為である。我々はこんなにもひ弱で不健康なのか! それこそローマの恰好な餌食となるであろう。ローマは今互いに助け合い、一つの目的に向かってつき進んでいるのだ。

長老、及びユダヤの人々よ、ただちにクリスチャンへの迫害を止めようではないか! そうすれば、我々はもっと強くなり、今きたらんとしている大嵐に立ち向かうことができるである!」

誰一人声を出すものはいなかった。誰もこの聖賢と争うものはいなかった。

パウロは十二使徒から祝福を受けたかった。使徒たちの所へ行って師なるキリストについて勉強したいと申し出たのであったが、誰一人としてパウロと口をきこうとしなかった。未だにパウロが信じられず、又何かをたくらんでいるのではないかと思っていたからである。やむを得ずパウロは朝早く会堂にでかけて行き、キリストの福音を伝え始めた。

彼はダマスコ途上で見た幻のことや、悪霊から救われた体験を語った。そこにはクリスチャンは一人もいなかった。

なぜなら、迫害の初期から会堂には、槍や棒を持った監視がいて、キリストのことを話す者はすべて殺されてしまったからである。パウロは大胆にキリストのことを語り、自分のような大罪人でも許しを与えてくれた慈悲について証言した。

会堂に集まっていたユダヤ人は、彼を掴まえて引きずり出そうと思ったが、すでに総督からキリストのともがらには手出しをしないように、そして同胞のユダヤ人として自由を認め、法律によって護られていることが宣布されていたので、ただ、傍観しているのみであった。

パウロは演説を終えて会堂から出ていくとギリシャ系のユダヤ人たちは彼の後をつけて行った。人気のない所までくると、彼らはパウロに襲い掛かり、棍棒を振り回しながら、もし、おまえが自分は間違っていたキリストは神の子などではないと宣言しなければ、なぶり殺してやると脅した。パウロは主イエスを拒むようなことはしなかった。

それで彼は四十回も棒で体をたたかれたのである。彼は気絶して路上に倒れ、死人のように動かなくなったので、彼らは非常に恐れた。ちょうどそこへ、同じ会堂から出てきてパウロの後をつけてきたバルナバという男は、この光景を見て、パウロの苦悩と主イエスへの信仰に深く感動し、群集が去ってから彼を解放した。

近くの井戸から水を汲んできて、彼の傷口を洗い、近くに住んでいたケパというクリスチャンの家へ連れて行き手当てをした。

パウロの傷は次第に良くなり、手足に力が入るようになったところで、バルナバは十二使徒の居る所へつれて行き、彼がいかに、キリストのために殉教しようとしたかを彼らに話した。(※)ついに十二使徒は、彼を祝福した。

パウロに襲い掛かったギリシャ系ユダヤ人たちは、パウロが本当に死んだかどうかを確認するために再び現場に戻ってみると、彼の姿はどこにも見当たらず、パウロは生きていると察知した。それで彼らは、パウロを生きたままでエルサレムからは絶対に出さないと誓い合っていた。

ある晩に、一人の乞食が物乞いをしながら、エルサレムから出ていった。体をカマのようにねじまげていたので、誰もその乞食がパウロであるとは気が付かなかった。彼はカイザリアに行き、そこからタルソへ向かった。

(※)訳者注-十二使徒について

パウロが当時エルサレムで実際に会うことのできた使徒は、ヤコブとペテロの二人だけであった。その他の使徒は、それぞれの役割を果たすために、エルサレムを離れていた。彼らがエルサレムに居ない時には、『十二人制』という代理の者が使徒の役割を代行し、そのメンバーは百四十四人居たと言われている。

百四十四という数字は、ちょうど十二の十二倍である。これは訳者自身の推測であるが、おそらく、十二人の者が一カ月毎に交代していたものと思われる。原書では、(Twelvetosit)と記述されているので、当時の教会制度では、常に十二人の合議制をとっていたものと考えられる。


第27章 ドルカスの物語
海に面した、ヨッパという町に、一人の評判の良い商人がいた。彼は厳しい戒律をよく守る、会堂の長老の一人であった。彼の名は、レビと言って、一人娘を持っていた。娘の名は、ドルカスといい、父の友人からとてもかわいがられていた。

彼女がまだ若い頃、町に住む有力な商人から結婚を申し込まれたのであるが、彼女は神様に一生を捧げることを願っていたので、独身を通していた。父は世継ぎが欲しいので、しつこく結婚を薦めていたのであった。

ドルカスが中年になった頃、父のレビはエルサレムに行き、神殿で礼拝し、長老たちとモーセの律法について話し合うことになった。彼は先祖から伝えられた信仰を心から愛していた。かつてモーセの時に、石の板に刻まれた戒め(十戎のこと)に沿って、右にも左にも曲がらないようにと努力した。

ドルカスは、先祖伝来の信仰に対して一目を置いていたが、ヨッパの若者たちは、この戒めに従っていないように感じられた。彼らはおっちょこちょいで、陰では悪いことを平気で行い、未婚者は密通し、陰ではモーセの律法を犯してたのである。つまり彼らは偽善者であった。それで彼女は誰とも結婚する気になれなかったのである。

彼女は先祖から伝えられた信仰から次第に遠ざかってしまった自分のことを考えていた。しかし、どうしても信じる気にはなれなかった。

ドルカスは一心にイスラエルの神に祈った。どうか、このような人々に怒りを発し、滅ぼしてしまうことのないように懇願した。

彼女は父と一緒にエルサレムに行った。夕暮れになって父の友人と一緒に歩いていると、突然普通の人とは全く違う一人の男が現れた。彼は背が高くスラリとしていて、額に王の徴を持ち、その歩く姿に威厳がただよっていた。

彼の瞳は美しく穏やかで、満面に平和がみなぎっていて、この世のはじめから人類が味わった総ての不幸を一身に背負ったような生き様を感じさせる人物であった。彼の前に多くの人が集まってきた。彼は偉大な領主のような威厳を持っていたが、身につけているものは貧しく、履いている靴は破れ、上着はボロボロであった。

ドルカスは彼を見上げ、先生! と叫び、足元にひれ伏した。ドルカスは彼がキリストであることを知らなかったが、彼女の霊はそれをよく知っていたので、このような挨拶をしたのである。

キリストは道路から少し離れた所に立ち、彼のまわりには多くの人々が取り囲んでいた。それは、蠅の大群のように、あちこちから集まって来た。ドルカスは彼の足元に座り、たとえ話による彼の話を聞くことができた。

それは、どんな人の内にも霊が宿っていることを知らねばならないこと、そして、それを見つけることができない者は、本当の自分自身を失ってしまう、という教えであった。彼は、とても分かりやすく真理を伝えた。

ドルカスの父は、彼女をせきたてて群衆の中から連れ出してしまったので、彼女は二度とキリストにお目にかかることはなかった。

日が暮れてからドルカスは、キリストが話してくれたことを思い出していた。翌日に神殿に行ってみると、庭で一人の若者がキリストの福音を述べ伝えているのを聞いた。その時に初めて彼女は、あの方の名前(イエス・キリスト)を知り、彼を信じる者となった。それ以来、二度とキリストを見ることはできなかったが、ひそかに彼の教えを学んでいた。

公然とは、キリストの教えを学ぶことはしなかった。父が余りにも祭司や長老と親しくしており、キリストを信奉する者のことをひどくけなしていたからである。父からは、キリストはモーセの律法を破壊しようとしていると聞かされていた。

更に、歴代の予言者を見くびり、自分を神であると言い出す不埒(ふらち)な奴であるとも言っていた。彼女はささやかな抵抗を試み、キリストが神でなければ、神と共にいる方であると主張すると、父は憤然として彼女の口をたたいて黙らせた。その時から彼女はキリストのことを話さないようになった。

ヨッパに帰ってから、ドルカスはキリストの教えを心のうちに秘め、彼女の生きる支えとした。ヨッパの状態は日ごとに悪化していた。ドルカスは彼女の同志であるクリスチャンのことで大いに心を悩ました。クリスチャンは目の仇にされ、悪口を浴びせられ、町中からクリスチャンは放逐されていった。

年老いたドルカスの父は、ますます頑固になっていた。ドルカスが女たちにキリストのことをしゃべったということが父にもれた時、二度と同じことを繰り返したら、家から追い出してしまうと言い出した。

鳥が遠くから種を運んできて一粒の種でも、肥えた土地に落ちると多くの収穫が得られるものである。乞食が施しを貰いにドルカスの所へやってくると、彼女は施し物と共に、キリストの教えをこっそり伝え、信じさせてしまうのである。

このようにしてキリストの福音は、ヨッパにいる謙遜な人々に伝わっていったが、金持ちや偽善者はキリストのことを知ることはできなかった。

ドルカスは善良な女たちを集め、服をこしらえては貧しい人々に与えていた。そして裁縫する女たちにキリストの教えを伝え、絶対に夫たちには話さないように命じた。もしかして、そこから父の耳にでも入ったら大変だったからである。

ある日のこと、ドルカスや女たちが縫い上げた服を貧しい人々に与えてから、彼女達は心をあわせて祈り、キリストの言葉を味わっていた。ドルカスが声をかけて集まってきた人々は、若者や親戚ばかりではなく、遥かエルサレムからヨッパにやってきた商人もいた。彼らは数日の間、父の家に止どまっていた。

折りも折り、悪い報せが町中に伝わった。キリストが木に吊るされて殺され、数日後に墓からよみがえって多くの弟子たちの前に現れている、という情報であった。父はそれ見たことか、大罪人の末路とはこんなものだとナザレのイエスのことを散々けなした。ドルカスは冷静に聞いていた。彼女の心は真理という宝に包まれていたからである。

いよいよエルサレムに迫害が始まろうとしていた頃、迫害の波がヨッパにも押し寄せてくるという噂がひろまった。

それで一時は、信仰の灯が消されてしまうのではないかと心配した。最後は女たちと乞食だけが主を信じる者となるのではないかと考えていた。

日ごとに殺されていくクリスチャンのことを悲しみ、その様な尊い殉教者を悪し様にあざける父の言葉を耳にするたびに心は痛んだ。彼女は日々祈り、恐怖と疑惑と闘い、ついにそれらに打ち勝つ時がやってきた。

エルサレムで迫害が中止されたという報せがヨッパに伝わった。それでドルカスは神の哀れみに感謝した。もうこれで教会は滅ぼされる心配が無くなった。しかしヨッパでは、金持ちのユダヤ人や商人たちは、ますます悪にそまっていった。ドルカスはそのことを父に話すと、それは女の口出しすることではないと言われた。

そしてしばらく静観していれば、自然と良くなっていくであろうから、決して悪人を軽蔑してはならないと言った。

しかしドルカスはひそかに心を痛め、ヨッパに使徒の一人を派遣してほしいと祈った。堕落したヨッパの人々を救いたい一心からであった。彼女の祈願はなかなか聞き入れられず、町中に熱病が流行した。ドルカスもやがて熱病にかかるのではないかと覚悟していた。彼女は乞食たちと一緒に、熱病に侵された信仰の友を助けて歩いた。

熱病の流行が峠を越した頃、ドルカスはすっかり疲れてしまい、ついに彼女も熱病にかかり、危篤状態になった。父親のレビも同じように熱病にかかっていた。ドルカスの病は重かったにも拘らず、意識ははっきりとしていた。

彼女はまだやりとげねばならないことがたくさんあったので、もっと生きながらえたいと望んでいた。介抱する女に彼女の深い悲しみを語った。このヨッパの町にキリストへの信仰の芽生えが見られないことを嘆いたのである。自分がその大役を果たすために選ばれた筈なのに、と嘆くのであった。

与えられた役目を果たさずに死ぬことは、大変大きな罪なので、死んでも死にきれないと言って悲しむのであった。

さてエルサレムには、再び平和は訪れていた。ペテロは、エルサレム以外の町に住んでいる信者たちの様子を伺っていた。迫害を逃れるために多くのクリスチャンは、エルサレムからあちこちに散らばってキリストの福音を伝えていた。それで十二使徒は、それぞれの地に在って活躍している信者を助けてやらねばならなかった。

町や村ごとに組織をつくり、エルサレムを中心に使徒から様々な指令を与えた。ペテロは教会を作ったり、熱弁をふるって信者たちを教育するのに忙しかった。

ペテロは祈りと信仰と愛をまし加えるように励まし、自己の精神力に頼らず、むしろ、霊の働きを求めるように教えた。

それは最も確かな教えであった。人間の精神力は、信仰と兄弟関係にあるもので、信仰に導かれている時にのみ本来の力を発揮し、神の目に正しいと思われることを為すものである。従って、信仰と理性は互いに働き合ってキリストの真理を見いだすことが出来るのである。

この場合、キリストの真理とは、あなた方のために死んで下さった、ということをペテロは説いて信者たちを励ました。

ペテロはルダという小さな町にやってきた。そこには指導者が一人も居ないので信仰を疑っている者もいた。それで彼はしばらくの間ルダに滞在し、霊の御助けを得て、信仰を疑っている者に対して奇跡を示すことができるように祈り求めた。すると、ある朝のこと、一陣の風が吹いてきて彼の周りを舞い回った。

その途端、この世のものとも思えぬ喜びがこみ上げてくるのを感じた。ペテロはその家から出て、導かれるままに数日の間歩き回り、あるクリスチャンの家に入った。彼は八年の間、病気に悩まされていた。

体が石のように堅く、思うように動かすことができなかった。彼の名は、アイネヤといって、信仰のおかげでキリストの教えを知ることができた。ペテロが入ってきたときに、彼は大声をあげて叫んだ。

「私は、長いあいだ、あなた様がおいでになるのを待っていました。おお! なんと八年もの間、この聖なる予言者の訪れを待ちわびていたのです。どうかあなた様の中に宿っておられる霊の御力によって私の体を癒してください。そうすればこの堅い体は再び立ち上がって歩くことができるでありましょう」

そこでペテロは手を彼の頭の上に置きながら言った。

「立ち上がりなさい! そして床を取りあげて歩いてごらんなさい!」

アイネヤのまわりに大勢のクリスチャンが集まってきた、彼らは、日ごろアイネヤの言っていた信仰を疑っていた。彼は必ず信仰によって病気が治ると言っていたからである。ところがどうであろう、彼の目の前でそれが現実となったのである。彼は自分のベッドを片付け、歩き出したのである。彼らは口を揃えて叫んだ、

「ペテロは神様だ!」

そして彼の足元にひれ伏して奇跡に感謝した。その中にはヨッパからきていた商人がいて、早速この素晴らしい出来事を伝えた。

さて、ドルカスは信者となった乞食たちに看取られて、息を引き取ろうとしていた。乞食たちはルダでの素晴らしい奇跡のことを聞いて、きっとこの聖なる予言者ならば、この忌まわしい疫病をドルカスから追払ってくれるに違いないと考えた。そこで足の速い二人の男がルダに向かって走り、何としてもペテロを捜しだし、ドルカスの所へ連れてこようとした。ドルカスの容体は悪化し、彼女を愛する者たちが周りに集まった。

ドルカスの父が死んだので、ドルカスの寝ている部屋へ人々が集まってきた。彼女の顔には主のもとへ召される喜びというようなものは全然見られなかった。彼女の祈りが実現しなかったからである。

枕辺にいる者たちの目には、ありありと彼女が苦しみもがいているのがわかった。まるで囚人が牢獄の戸をたたいているようであった。彼らは彼女を慰める術もなく、ただ無言で見守るしかなかった。ついにドルカスは息を引き取った。

彼らは埋葬の支度を始めた。清潔なリネンの上に亡がらを安置し、葬式用の香料をもってきた。そこへペテロをルダに探しに行った二人の者が帰ってきた。ペテロも一緒であった。ペテロはここに来る途中、自分は神の御手のうちにある喜びを感じていた。ペテロはキリストを信奉する女が横たわっている部屋に案内された。

彼はドルカスを一目見て、彼の内に宿っている霊力によって、彼女が何を強く願っていたかを察知することができた。更に彼は、彼女の霊体が肉体のそばに居て、再び肉体の中に入っていくのがわかった。

ペテロは聖霊の光を彼女に注いだ。するとたちまち肉体が癒され、ドルカスの霊が肉体に戻り、彼女の肉体は神の住まう神殿となった。(※)

聖なる予言者(ペテロ)を見守っていた乞食たちは、ペテロとドルカスの周りに霧のようなものが漂っているのを見た。
そしてただ一言、ペテロが「タビタ(ドルカスの別名)よ! おきなさい! おまえの祈りは聞かれました!」と言った言葉が聞こえただけであった。するとどうであろう、深い眠りについていた彼女の体は動き出し、みんなの目の前に座りニッコリと笑った。彼女にはもう疫病の影もかたちも見られなかった。肌は生き生きと色づき、りんりんとした声でペテロに挨拶をした。

目撃した人々は大いに驚いて、ドルカスの親戚の者たちはこのことを町中にふれまわった。口から口へと人々の間を風のように伝わったので、ドルカスを馬鹿にしていた連中も大勢彼女の家に押しかけ、ペテロの話を聞きにやってきた。ペテロが人々の前に現れ、とうとうと話しを始めた。

霊の力が彼を助け、キリストのことを証言し、十字架上で犠牲になったキリストのお蔭で人間は救われたことを説いた。キリストをあざけった者たちは、その非を悔い改め、信仰を嫌っていた連中はきそってペテロから洗礼を受けたいと申し出た。

このようにして生き返ったタビタは、主が彼女の望みをかなえて下さったことを知った。彼女が生き返ったことによって、堕落していた人々はキリストの名を信じるようになった。

売春婦は宝石類や美しい洋服などをペテロの足元に置き、商人は多額の献金を捧げ、年輩の女たちはどぎつい化粧や洗髪などを止めてしまった。ドルカスの父のような厳格なパリサイ派の人々もキリストが犯罪者であったという考え違いを改め、ペテロに懺悔して主イエスの教えに従った。ペテロは長い間ヨッパに滞在し、教会づくりに努力した。

ペテロが去ってからは、一人も宣教者がいなかった。しかしドルカスは休みなく教会の働きを続け、女たちを教育しては彼女の夫たちにキリストの教えを伝えさせた。ドルカスはこのように活躍して、ついに死んだ。

彼女の愛した町ヨッパは、彼女の願っていたように、清潔な町となり、彼女の死に顔には平和の微笑がうかんでいた。主のために多くの人々を信仰に導く努力をした女は、ドルカスが最初であった。このことは聖書に記されてないので、私がそれを補足したのである。

(※)著者注-ドルカスが死から生き返ったことについて、ひとこと付記しておかねばならない。

聖書では、ペテロがすべての人々をドルカスの部屋から出したと述べているが、本当はそうではない。余りにも多くの人が部屋の中に溢れていたので、やむを得ず部屋から出したことは事実であるが、乞食や親戚の人々は部屋の中に残っていたのである。それでペテロの奇跡の一部始終を目撃することができた。私は、その時に彼らが見た、ありのままの情景を伝えているのである。


第28章 パウロの試練
バルナバ(クプロ島出身の使徒)は、ある目的をもってアンテオケに行った。彼はパウロに好意をよせていたが、どうしてもパウロの消息がつかめなかった。それで懸命にパウロを捜し回った。

彼はパウロの生まれ故郷タルソへ行ってみた。そこにはおらず、何でも荒野へ行ったらしいとのことであった。バルナバは何日も彼を探し回ったが見付けることができなかった。しかしそれにはめげず、方角を変えて捜してみた。

彼はついに荒野の中に小屋を見つけた。その中には人間というよりは骸骨のようになったパウロを見いだした。すっかり骨と皮になった彼は、弱々しく挨拶をし、今までの生活について話しだした。

「私はサウロなのか? パウロなのか?」とバルナバに言った。

「私はしばらくの間、霊に満たされていたのだが、再び暗黒に満たされてしまったのだ。両眼とも見えてはいたのだが、肉体はすさみ、キリストへの憎しみがうちに芽生え、次第に増大していくのを感じた。それで私はタルソを逃れ、人間どもから逃れ、以前のサウロに舞い戻ってしまったのではないかと恐れ続けてきたのだ。

この砂漠のど真ん中では悪霊におそわれ、昔のように殉教者の血に飢えてくるのだ。クリスチャンどもをいじめて迫害していた頃の快感が思い出されてくるのだ。

私は毎日のように古き人アダムであるところのサウロと格闘しつづけ、もう一度大祭司や長老たちと組んでクリスチャンを迫害しようかという気持ちになってしまうのだ。でも兄弟バルナバがここにきてくれたので、本当に助かった。私はやはりキリストと共に在る信仰と希望が欲しいのだ」

バルナバは答えて言った。

「我が友パウロよ! 聖霊がここに導いてくれたのだ。おまえの求めているものはわかっている。だからこそ私はここに来たのだ。おまえは、どうしてもサウロと戦わねばならないんだよ。でも、これは、おまえにとって良い準備になるんだ。おまえが大きな目的を果たすために選ばれた証拠なんだ。

聖霊が必ずおまえを引き起こし、奮い立たせ、おまえの強い所、弱い所を学ばせ、古き人アダムをやっつけてしまうのさ。父と子と聖霊の御名によって命じる! 悪霊よ! この男から出ていけもう二度とパウロに付きまとうな!」

パウロは大きな声をあげながら言った。「私の霊が再び戻ってきた」と。

それから数日の間、そこでバルナバと二人で過ごした。パウロには新しい力が与えられ。勇気づけられた。これが彼にとって最後の試練となった。それからというものは、彼の意思は巨人のように強かったのである。

彼は早口でしゃべりまくり、教会の敵方を引っ掻き回し、着実な信仰とイエス・キリストと共に在る喜びによって、あらゆる困難、迫害、苦しみを乗り越えて行ったのである。

パウロはこの時の試練をとても恥ずかしがった。しかしそれを知っている者はほとんどいなかった。彼が自分から己の罪深いこと、そして教会では、自分が最も卑しい者であるとうことを話すときには、いつでもこの時の経験を思いめぐらしていた。この体験は、彼の最も大切な友人であるバルナバにしか語らなかったのである。

第29章 ローマ総督と魔術師エルマ
ルキオ、シメオン、マナエン(※)の三人は、パウロ、バルナバ、マルコがアンテオケにやってきたことを歓迎した。彼らは互いに協力して働いた。それで教会はとても盛んになり、霊の命ずるままにさらに手広く伝導するため、新たに三人を選んだ。その結果、パウロ、バルナバ、ヨハネ(マルコのこと。使徒行伝、十二章二十五節参照)が選ばれた。

一週間彼らは瞑想を続けた。彼らは食を断ち、肉体を神の宿る神殿にふさわしく清め、神の燃えさかる炎を蓄えるように準備した。十日目になってから、ルキオ、シメオン、マナエンの三人は、彼らの頭に手を置いて旅の安全を祈り、祝福を与えてから三人を見送った。

神の尊い使者として三人が最初に逗留したところは、クプロ島サラミスであった。その地域は、マナエンがキリストの福音を伝えた所であった。かなりのユダヤ人が住んでいたからである。

彼らの活動範囲は広く、朝早くから夜遅くまで三人は活躍した。多くの人々は彼らの話に耳を傾けた。彼らは単一民族ではなかった。遠くからやってきた商人や、東西を結ぶ貿易をする者、あるいは高貴なローマ人や、遥か彼方にあったスペインからやってきた者もいた。

単純な異教徒たちは、キリストの教えをすぐには呑み込めなかったが、熱心に聞いていた。彼らはバルナバやパウロに言った。

「この教えは、まるで山から流れてくる水を全部のみ込んでしまう大河のようだ。私たちの国にはたくさんの神が居るが、どれもみんな、もめごとが多くてちっとも心が休まらない。その上、戦争、病気、飢餓、不幸を持ってくるんだから本当にたまったものではない。人の幸せをねたんだり、他人の収穫を盗もうとするんだ。

できたら、私達の国であるスペインにきて、こんなろくでもない神々を追い出して、あなた方の教えで幸せにしてください。あんなけちな神々で毎年悩まされるのはもううんざりです。

あなた方が来てくだされば、闇が光の前から消えさるように、けちな神々はメシヤの前からにげてしまうでしょう」

パウロは、ユダヤ近隣での伝道が終わったら、地の果てなるスペインへ行こうと約束した。スペインからやってきた人々は、メシヤこそ唯一の全能の神であるとの確信をいだいて舟に乗り、去っていった。

その後三人の兄弟は、悪名高いパポス(タプロ島西岸の町)へ行くことにした。サラミスからはずいぶん遠くにあり、昔は無数の売春婦がはびこっていた。大地震によって壊滅したことのある町であった。当時の人々は余りにも罪深い生活をしていたので、町が再建されてからも相変わらず悪霊が思いのまま暴れ回っていたのである。

そのもとを作っているものは、彼らの宗教であった。波の泡から生まれたと言われる女神がそれであった。

美しい女神の像をつくり、男どもの色欲をかりたてていた。ある日のこと、裸の男女の一群がやってきて、女神に捧げ物を置き。見るに堪えない不浄な祭儀をやっていた。若い男も女もビーナスの女神を拝む時に行う祭儀であった。

これを見たパウロは烈火のごとく怒り、彼らの持ってきた捧げ物を放り投げ、大声をあげながら、神の天罰がくることを告げた。前に大地震があったことを思い出した彼らは、パウロの予言を非常に恐れた。

彼らはパウロを神々からの使者であると思ったからである。群衆はパウロの所に集まってきたが、何の害を与えようとせず、彼の言うことに耳を傾けていた。パウロは必死になって神の教えを説いた。パウロは、彼らが手に持っていた小さな女神像を取りあげて破壊したが、神殿に祀られていた像には手をつけなかった。

彼は無用な争いを起こすよりは、彼らの注意力を少しでもイエス・キリストに向けさせる方法を選んだからである。彼らは三人には何の危害も加えなかった。三人は人々から恐れられ、毎日のように熱心に伝道し、悪いことを止めさせようと努力した。

ここでは、教会を作るつもりはなかったが、ユダヤ人だけのグループには、メシヤの福音を伝えた。彼らはそれをとても喜んだ。

ある日の朝、パウロが群集に説教をしていた時、地方総督のセルギオ・パウロがそこを通りかかり彼の話を聞こうとした。セルギオは長年のあいだ神を見いだそうとして学んできた男で、しかもエルサレムでの出来事を耳にしていた。

ペテロが治したローマ人の娘は、彼の親戚であったからである。セルギオ・パウロはバルナバやパウロに自分の家にきて、もっと詳しくキリストの教えを聞かせて欲しいと言った。ついに主の教えを真に理解できる人が現れたのである。セルギオ・パウロはこれこそ霊の真理であると受け止めたのである。

パウロは話しを続けた。
彼はローマの知恵について語り、過去から現在に至るあらゆる賢人のことに触れ、結局、生と死に関する神秘について説き明かしてくれた者がいないことを話した。

セルギオは又、東方世界に住んでいた時にも満足できるものを見いだせなかった。彼は魔術師と言われている一人の男を知っていた。その魔術師は、目に見えない不思議な力を持っていたのであるが、彼の目にはどうしても中身の腐ったクルミのようにしか思えなかった。

この魔術師は、何の教義も持たず、永遠の知恵を語る言葉すら持っていなかった。しかしパウロの話には、今までに聞いたこともない知恵が溢れ、まるで生命の木に成った果実のように新鮮であった。

長時間パウロの足元に座り、この人から一言も漏らしてはならないとばかり、熱心に聞き入っていた。パウロがついに話し終わった時、セルギオはついに心底から信じることができるようになり、キリストが我が師と仰いでいく決心を固めた。それでパウロは翌日彼に洗礼を施すことになった。

さて、このパボスに魔術師エルマという男が住んでいた。かのサマリヤにいた魔術師とは違い、生まれながらの悪党であったので、文字どおり悪霊に仕える家来であった。

エルマは悪魔の呪文をとなえては忌まわしいことを平然と行っていた。そのエルマがセルギオのところにやってきて大いに腹をたてた。パウロが若い男女に対してとんでもないことをしたと言うのである。おまけに、総督までがろくでもない予言者の言うことを信じた、とあざけった。

「パウロという男は何もできないやつですよ、奴には知恵もありませんしね。奴はすこしぐらい霊と話せるだけでね、総督閣下! 奴をここへ呼んでもらえば、私は強力な霊の力で奴を困らせてやりましょう。なんだったら、奴を黙らせるような力を見せてやろうじゃありませんか。私が主人だということを見せてやりたいですね」

セルギオは過去に、この男には散々ひどい思いをさせられたことがあるので、ぜひともパウロの教えをふきこんで、悪党のエルマを黙らせたいと思った。

そこでパウロをエルマの家に連れて行き、暗黒の主と光明の主と戦わせることになった。エルマは夕方の時刻を設定した。その日の朝早くから、とうてい筆舌では著せないような不浄な祭儀が行われ、悪霊を身の周りに寄せ集めた。

いよいよ陽が沈むと、訳の解らぬ言葉を言い始め、地底の地獄から悪魔の大王と言われたベルゼブルを呼び出し、ぞっとするような怪物がゾロゾロとつながってきた。それらは、まことに恐ろしい光景で、誰一人としてそこから逃れることのできる者はいなかった。

約束の時間がやってきたので、セルギオは魔王のために作られた祭壇のある部屋へ入っていった。パウロもセルギオの後について行った。パウロはすでに心の準備はできていて、地獄の王との戦いを守ってくれる霊の力が備わっていた。その部屋全体は青く光っていて、祭壇の周囲は、うすぼんやりとしていた。

それは悪魔どもが待ち伏せするために覆われたベールのようであった。セルギオが魔術師エルマに挨拶をしようとした瞬間、布のようなものが彼の顔を覆い、頭からすっぽりかぶされてしまった。異様な恐怖がセルギオを襲った。

他方パウロは、終始口をきかず、悪霊との戦いを始めていた。セルギオは布の端をつかんで頭からふり払い、目の前で、パウロに襲い掛かろうとしている怪物を見た。彼の全身は恐怖で震えていた。悪霊どもが祭壇の周辺から飛び出して立っているパウロを捕まえようとした。

しかしどうしてもパウロの身のまわりを包みこんでいる霊の鎧を突き破ることができなかった。パウロには敵わないと知ると、セルギオを目掛けて襲いかかったので、セルギオは口から泡をふきだしながら倒れてしまった。

魔術師エルマは驚いて、彼に飛びついた妖怪を引き離そうとしたが、どうしてもできなかった。エルマは全身汗だくになり、懸命にセルギオを救おうとしたが、できなかった。

そこでパウロが身をかがめ、倒れている総督の頭をピシャリと叩きながら口を開いた。

「父と子と聖霊の御名により、直ちに出ていけ! 二度とこの男に入ってはならぬ!」

悪霊は直ちにセルギオから出ていった。そしてキリストと共なるこの兄弟は、エルマをにらみつけながら叫んだ。

「悪魔の子よ! 汚れた霊よ! おまえの目を何にも見えなくしてやろう! おまえの邪悪な根性がとれるまで盲人でいるがよい!」

エルマの目は、たちどころにふさがれてしまった。暗黒の世界は、逆にエルマに襲いかかり、悲痛の叫び声をあげながら部屋から出て行った。辺りには、清らかな光がパウロを照らしていて、まばゆいばかりにパウロの体を包んでいた。

すっかり気をとり直したセルギオは、パウロの足元にひざまづいて言った。

「私はあなたの神を信じます。私をお救いください。こんな悪霊とかかわっていた私をお許しください。二度とこんなもので身の破滅を招かないようにしてください。あなたの目に映る私は、罪深い者です。どうか、そのような私をお助け下さい」

パウロはセルギオの話を止めさせて言った。

「あなたは悪い人間ではありません。ただ、無知であったにすぎないのです。真理を学んで下さい。そうすれば知恵が与えられます。エルマのような魔術師などに惑わされるようなことはなくなるでしょう」

セルギオはエルマの目がつぶれてしまったのを目撃した。彼は、聖霊のみが善き働きをして下さるということを知ったのである。セルギオは、この時から真理に関するあらゆるものを勉強し、洗礼を受け、イエス・キリストを信じる群れの中に加えられたのである。

(※)訳者注-三人の者について使徒行伝一三章では次のように説明している。
〇ルキオ・・・・・・・クレネ人であった。
〇シメオン・・・・・・別名ニゲルと呼ばれていた。
〇マナエン・・・・・・領主ヘロデの乳兄弟であった。
なおサウロの名がパウロと改められたのは、使徒行伝一三章九節からである。


第30章 残虐な領主ヘロデ
当時のユダヤ領主ヘロデは虚栄心が強く、知恵に乏しかった。彼は、何とかユダヤの人間で偉大な人物であるという名声が欲しかった。そこで彼はマナエンという男に近付いて、さもキリストの教えに理解があるような態度を示した。

純真なマナエンは、極秘の情報であると前おきして、教会の内情について語った。彼らは十二人による協議制で運営していること、とりわけ、三人の使徒が神の子の真理を司る者として尊敬されていること、その訳は、この三人が常時聖霊に満たされているからなどと打ち明けた。

それでヘロデは、教会を取り仕切っているのはヤコブであり、十二使徒の第一人者であることを知った。その次にペテロという使徒がおり、主として説教をして信者の群れを養っていること、更に第三番目に霊能に優れたヨハネがいて、彼の内面は、まるで鏡のように偉大な神の真理を掲示するということも知ることもできた。

ここでヘデロは、この三人の指導者を捕まえてしまえば民衆から喜ばれると考えた。更に彼は、自分がキリストの位置を占めれば、三人の指導者は自分の意のままに動かすことができるとも考えた。

そうすれば自分は、地上に再来したメシヤになれる筈だと。しかし何をさておいても、手初めに神のように崇められている三人の指導者を捕まえなければならないと考えた。実に卑しい彼の心は、愚かと言うほかはなく、民衆から神と崇められていると自惚れていたのである。

当時、教会には、ヤコブと名乗る者が二人いて、一本の茎に咲いた二輪の花のように見られていた。しかし使途ヤコブが良く知られていて、第二のヤコブの存在は余り知られていなかった。第二のヤコブは、非常に仕事熱心であったが、すぐ自惚れて有頂天になる性格であったため、執事職には選ばれなかった。

さて、ヘロデの家来どもは、教会組織のある地域を中心に、使徒の頭ヤコブを捕えようと捜し回った。ところが同じヤコブでも第二のヤコブを捕まえてしまった。このヤコブは、噂によると、エフタイムという人の息子であったらしい。

捕らえられたヤコブは、ヘロデがキリストのことを知りたがっているということを知り、内心ほくそ笑んでいた。なぜなら、ひょっとすると、この領主ヘロデを教会へ連れて行って、クリスチャン仲間に紹介し、自分がこんな偉い人を導いた偉大な教師であることを威張れるかも知れないと考えたからである。

第二のヤコブは、辞を低くして頭をさげ、甘い言葉で挨拶した。彼は、教会が領主の知恵を求めているなどとおだてあげたので、ヘロデはとても喜んだ。有頂天になったヤコブは立ち上がり、まるで自分は賞賛の光の中を羽ばたく鳥であるかのように語った。

怒ったヘロデは叫んだ。

「神に選ばれたメシヤとは誰であるか知っているのか! このたわけめが! 木に吊るされて殺された、あのならず者のキリストのことをごたごたしゃべるでない! おまえの前に立っている吾輩こそ神の子メシヤであるぞ! 頭が高いぞ!」

それからヘロデは口早に自分の考えを述べた。エルサレムにあるすべての教会は、ヘロデをメシヤとして拝み、大工の子、ナザレのイエスのことは二度と口に出さないようにしてやるとしゃべりまくった。

そこでヤコブは自分の自惚れがたたって危険に追い込まれていることを察知した。と同時にキリストのために殉教の死を遂げられるかかもしれないことを喜んだ。ヤコブはあくまでもイエス・キリストへの信仰を固く守ること、更に己を神とするような大罪人である領主ヘロデは大馬鹿者であると言った。

ヘロデはカンカンに怒って即座に殺そうと思ったが、思い止まった。それは大勢の目の前で、教会の頭(かしら)の首をはねるほうがはるかに効果的であり、人気が得られると思ったからである。

そこで次のようなお触れを出した。

≪十二使徒の頭を死刑にする。そうすればキリストの呪いが取り除かれるであろう≫

大勢の人々が集まったところで尋問を受けた。おまえは本当に教会の頭であるヤコブであるかと。彼は、そのとおりであると答えた。ヘロデの家来は、剣で彼を切り殺した。ついに彼はイエス・キリストを信じる兄弟のために殉教した。

エルサレムでは、ヤコブの死を喜ぶ者が多かった。これでキリストの呪いが取り除かれたといって喜んだ。彼らはキリストのことを本当のメシヤとは思っていなかった。

次にペテロを捕まえようと領主は追っ手を出した。ペテロは神殿の庭でキリストの教えを説いていた。それでごく簡単に逮捕し、牢獄に入れることができた。ペテロはヘロデの前に引き出された。ヘロデはメシヤとして挨拶してもらえるものと思っていた。メシヤでなければ、少なくとも、神々の一人として彼の前にひれ伏して拝むように促した。

ペテロは全身を縛られていた。それで手足を動かすことができなかった。口だけがきける状態であった。しかしペテロは即座にキリストの信仰を堂々と主張した。ヘロデは怒り、ペテロにさるぐつわをはめさせ、牢獄にぶち込んだ。

ヘロデは第三の指導者ヨハネを捜したが見つからなかった。一人ぐらいは当分の間生かしておいて、彼らの言う復活祭(キリストの復活日)の次の日にでも血祭りにあげ、自分が神であることを示そうと考えていた。その方が民衆の野獣的欲求を満足させられると思った。ペテロの死刑もこのように実施しようと計画した。

大観衆の前に、銀の帯を締めて現れ、みんなが大声を張りあげて自分を神として崇められることを想像していた。

いよいよ死刑執行の前夜がやってきた。ペテロは薄暗い地下牢の中に閉じ込められていた。重いどっしりとした戸が閉められ、星のひかりさえ通さぬ程であった。ペテロは鎖で空中に吊るされていた。もしかしたら仲間が助けに来るかもしれないとの噂がたったので、たくさんの護衛が見張りをしていた。二人の護衛がペテロの両脇を固めた。

さて、私は前に、霊体(光の体)のことに触れたことを覚えておられるであろう。それは、別な言葉で言えば目に見えない人間の像ということができるであろう。その霊体には、あなた方が肉体と言っている物質に近いものでできている一種の覆いを着けている。もちろん人間の目には見えないものである。

人間の内面にあるこの二つのものを、僅かではあるが自由に操作できる人がいる。ペテロもそのうちの一人であった。

さて、エルサレムにいるクリスチャンは、休みなく祈り続け、聖霊が天使を遣わしてペテロを救出してくれるように願った。多くの人々から熱心に寄せられる熱烈な願望が渦巻き、大きな力を引き寄せる源となっていった。

クリスチャンたちの祈りは聞かれ、ついに主の天使は仮眠をしているペテロのもとに現れた。ペテロは仮眠というよりは、気絶をしていたと言ったほうが当たっていた。彼の霊体と覆いが肉体を離れた。肉体は死人のように横たわっていた。

両脇にいた護衛は、翌日死ぬことが分かっているにも拘らず、グッスリと深い眠りについている肉体を見て驚いた。

彼らの周りに霧のようなものが立ち込めてきた。二人の護衛はまるで土くれでできているかのように動かなくなった。びくとも動かなかった。霧が輪の形となって彼らを囲んでしまった。

突然一つの星が現れ、その光が延びてきてペテロの居る所を照らしだした。主の天使がペテロの肉体に触れた。するとペテロの肉体が動き出した。絡みついていた鎖がプツリと切れてしまった。護衛はなおも不動のままであった。ペテロの霊体は、依然として肉体の外にあった。彼の肉体は眠り、夢を見ていた。

ついに天使の働きによって、霊体が彼の肉体を動かし始めた。重い戸が開かれ、天使がペテロの前を通り過ぎていった。天使の招きによって、ペテロも天使の後に続いて出て行った。それはまるで夢の中で見知らぬ道を歩いているようであった。

星の光がペテロを照らし、主の天使が彼を道路の所まで誘導した時、天使の姿は見えなくなっていた。ペテロは夢中になって、ある門の戸をたたいた。それがどこの家の門であったか彼には全く分からなかった。その家には、ペテロのために大勢の兄弟が集まって祈っていた。

一人の若い女の子でローダという子が、門の戸をたたいている音に気がついて戸口のところに行き、少し間をおいてから戸を開けた。するとペテロが入ってきたのでみんなは歓声をあげた。ペテロはみんなを静めてから言った。

このことを早速、あるところに隠れているヤコブに知らせるようにと。一人の若者がヤコブのところに向かった。ヤコブはペテロが死刑になったら、自分もヘロデのところに行くと言っていたからである。

ペテロは変装をし、髪の毛や髭をそりおとした。ヘロデの家来に捕まらないようにするためであった。もう一人の兄弟と共にペテロはその家を出て行った。二人はエルサレムの門から無事脱出することができた。エルサレムを出さえすれば、どこにでも安全な隠れ家を見付けることができた。

陽が昇るまえにエルサレムを脱出したのは、ペテロだけではなく、他の使徒たちもみんな出て行った。

第31章 ヘロデの挫折と死
領主ヘロデの送った栄光の日々について話しておこう。

ヘロデは夜中に目を覚ますと、外で動物が歩いている足音が聞こえてきた。彼は昔の楽しかった頃のことを思い出していた。銀色のロープ(裾の長い衣服)に身を包み、ペテロを死刑にした後で、群集の前に現れ、彼らが自分を神として拝んでいる様子を夢見ていた。

しばらくしてヘロデは一人の奴隷を呼び、部屋に明かりを持ってこさせ、祭りにでかけるために着替えをした。彼の最大の好みは、盛装することと、家来たちのお世辞を耳にすることであった。

盛装した自分の姿に灯の光が当たってキラキラと光り輝いているのを見て満足した。しかし、それとはなしに目をテーブルの上に置いてある羊皮紙に向けてみると、驚いたことに、それが血のような色で文字が記されていた。きっと名だたる律法学者が書き記したものであろうと思い、読んでみて肝を潰した。それには、

≪ヘロデよ! おまえに災いあれ! 岩の間に身を隠し、砂塵の中に隠れよ! 天の大神の恐怖が迫っておる。砂漠へ行け! 直ちに汝の顔を覆え! 神の怒りがおまえを撃ち、虫けら同然にならんうちにな!≫

と記されていた。

それを見たヘロデは気違いのようになり、その羊皮紙を八つ裂きにし、部屋の護衛に当たっていた家来を刀で切り殺してしまった。犠牲者の血を見て彼の怒りが和らいだ。ヘロデの世話をする家来がやってきて、歯が浮くようなお世辞を並べたて、羊皮紙のことは余り気にしないように説得した。その上ローマ皇帝よりも更に偉大な生き神様として崇められるようになる、とも言った。

夜が明けるとヘロデは、別室に行き、王の貫録を示すことができるような身支度をした。そこへ早馬が報せをもってきた。何でも誰かが神殿の庭で、人々に演説をしているという報せであった。神殿に集まっている連中は、ヘロデに殺されたヤコブの親戚、縁者であった。

彼らは群衆に向かって、ヘロデが殺したヤコブはエフライムの息子であって、十二使徒の一人ではない、従ってヘロデは罪もない人間一人を殺してしまったと言い触らしていた。ヘロデはおかしなことをいうものだと思っているところに、サンヒドリンの一議員である長老がやってきて、あらゆる証拠を示しながら本当のいきさつを説明した。

即ち、ヤコブはエフライムの息子であったこと、しかも十二使徒のヤコブとは良く似ていたこと、それで多くの人々が騙されていたことなどを話した。ヘロデは返す言葉も無く、すっかり逆上してしまい、未だ夜が明けたばかりなのに、全身から汗が吹き出していた。

さて、獄中のペテロの護衛たちは、全身が硬直したまま、主の天使が姿を消し囚人が獄から出て行くまで静止していた。目が覚め、元気をとりもどすや否や、ペテロを縛っていた鉄の鎖が切断され、土牢の中が空っぽなのに驚いた。

外を見張っていた者たちを集め、前後の事情を聞いても誰一人として見張り人の前を通り過ぎた人はいなかったこと、昨夜はみんな一睡もしないで見張っていたことを主張した。誰一人としてペテロの姿を見た者は無く、おまけに道路にはサンダルの足跡さえ見付からなかった。

いよいよペテロが死刑になる時間が迫ってきて、大勢の人々がペテロの死刑を見物しようと集まってきた。言ってみれば、死刑の祭典であった。ヘロデのもとに急使がやってきて、昨夜のうちに武装した、天使によって囚人全部が盗まれてしまったと伝えた。

様々な噂が流れ出した。ヘロデは、どうしてペテロが厳重な牢獄から逃れることができたのか、見当もつかなかった。

そこで彼は苦肉の策として、護衛どもがペテロと結託して囚人を逃がしてしまったと、言い触らした。護衛たちを人身御供にする考えであった。

領主の館である宮殿の外側で、大騒ぎが持ち上がっていた。飢えた人々が大声で叫んだ。

「ペテロを返せ! ペテロはどこにいる! 天使がペテロをさらっていたというのは本当なのか! この館の中にいるのなら、おれたちに会わせろ!」

余りにも大きな騒ぎが起こったので、ヘロデの身代わりにプラストという男が護衛に囲まれながら、姿を現した。その騒ぎでヘロデは口から泡を吹きながら狂人のようになっていた。ヘロデは抜き身の剣をあたりかまわず振り回していた。

プラストが言った。
「クリスチャンどもが夜中に押しかけて、護衛をやっつけてペテロをつれだしてしまったのだ」

そこで群衆は、昨夜の模様を知っているクリスチャンのところに駆け付けて、事の事実をすべて耳にすることができた。ここで大いなる奇跡が起こった。神は群衆をクリスチャンの味方にしたのである。群衆は雪崩のようにヘロデの宮殿を取り囲み、大声でののしった。

「おまえは、おれたちにパンの代わりに石をくれやがった! ヘロデをここに突き出せ!」

彼らはますます激しくののしり始め、民衆をだまし続けてきたヘロデを出せ、叫び続けた。護衛たちは暴徒と化した群衆を蹴散らそうと、流血、喧噪、怒号が渦巻き、まさに修羅場となった。このようにして、ヘロデが夢見ていた栄光の日は終わった。

ヘロデは、その日から病人のように寝込んでしまった。プラスト以外とは誰とも口をきかなかった。怒りと恥とがまじりあった感情に抗しきれず、又、民衆が自分についてこんなにもひどく思っていたことを知って非常に驚いた。

彼の心にはいつも神になりたいという卸しがたい欲望があった。ただ神として崇められ、拝まれるだけでよいと願っていたのである。そのような虚栄の虫がヘロデの魂を蝕んでいたので、昼も夜も休まることがなかった。そこでヘロデは領主としての権力を悪用して、無数に残酷なことを行った。

ツロとシドンの民衆に対しては多額の税金を収めないなら皆殺しにしてやると脅し、不作の年であったにも拘らず食糧を全部巻き上げてしまうのであった。そこで大いに苦しんだ民衆は、プラストを買収して領主の怒りを和らげるよう懇願するのであった。買収されたプラストは、ヘロデの弱点をよく知っていたので、一計を案じてヘロデに言った。

「我が主よ、民衆は何と言っても、あなた様を神であると言ってます。私もそう信じています。

そこで、近日中にローマ皇帝の名誉を称える集会が予定されておますので、その時に、神である貴方様が、立派な銀のロープをお召しになって劇場の高座にお座りになれば、民衆は堂々たる貴方様を見て、カイザルのことなんか忘れてしまい、貴方様を神として崇めることでしょう」

ヘロデは彼の甘言を耳にして大変喜んだ。特にカイザルが卑しめられて自分が崇められることを思ってみただけでもゾクゾクとして落ち着かなかった。

いよいよ集会の日がやってきた。ヘロデは泡を吹きながら卒倒した忌まわしい日以来着なかった銀の衣服を身に纏った。今日こそは、自分が大神の子孫であるメシヤたることを示せると思った。劇場内には多くの異邦人もいた。

ローマ人の国籍を持つ者や、様々な国からやってきた人々がいて、色々な国ことばが飛交い、ヘロデの入場を待っていた。

又カイザルの名代も入場することになっていた。プラストは数百人の者を買収して、ヘロデが入場したら、神として崇め、地上にひれ伏し拝むように言い付けておいた。

いよいよ領主ヘロデが民衆の前に姿を現し、彼の右の手を民衆に向かって差し延べながら高座に座った時、大きな叫び声がもちあがった。

「ヘロデ王、万歳! ヘロデ王、万歳! おお、聖なるお方、貴方こそ私達の神であらせられます。私達の感謝と尊敬を心からお捧げいたします」

異邦人以外の人々が顔を輝かせて、同じように叫んだ。プラストに買収されていなかった人々も大声につられて、彼を神だと思うようになった。太陽の光線が銀の衣服に反射して、ヘロデの身辺を輝かせていたことも大いに効果があった。このような言語道断な冒pが堂々と展開されていた時、突然天罰が下った。

彼の全身はワナワナと震え出し、色あせ、顔は紫色に変わり、後方にいたプラストの腕の中に卒倒し、あえなく息を引き取ってしまった。

ヘロデの死は、代々にわたって、自分を神とした者の最期を示す象徴として語り継がれていった。これによって人々は、肉体は土に帰るものであり、霊魂は天使の導きによって新しい生活に入っていくこと、しかも、霊が清らかであれば、神のところまで行けることを学んだのである。

訳者あとがき
本書を訳し終えてしみじみと感じたことは、本物と言われ続けてきた新約聖書の影が薄くなったことである。実を言うと長年教会にたずさわってきた自分が、何故もっと早くこれに気が付かなかったかと考えてみた。聖書は余りにも人物を神格化しすぎたり、大事な部分を端折(はしょ)ったりしている。しかも肝心な霊的知識は稚気に過ぎている。

代表的な例を挙げてみよう。聖書はイエスの復活と昇天に全力を傾注して新約の要としている。しかしクレオパスはそんなことにはほとんど触れていない。余りにも教説が幼稚と思えたからであろう。

人間イエスは、十字架で殺され、一般人の一人としてユダヤ式に葬られたにも拘らず、死んだ直後のことを、病的と思える程に美化し、幼稚な形で神格化してしまったのである。スピリチュアリズムの立場から見れば、霊の抜け殻である肉体は例外なく土や灰になるのが当然であり、旧約聖書でさえ、冒頭で(創世記)銘記している原理である。

それを殊更に、イエスは肉体ごと復活したと大騒ぎすることは余りにも幼稚で痛々しい。愛する人を失った者たちの深い悲しみの反動として、イエスを埋葬した墓にまつわる一連の幻想が、復活、昇天となって現れたものであると考えられる。

イエスご自身が口癖のように弟子たちに教えたことは、『私を信じる者は、たとい死んでも生きる』であった。

最も重要な生命現象の仕組みを懇切丁寧に教えているのである。肉体は土や灰になり、肉体の主人公である霊は肉体を離れ、霊界に於いて新しい生活を開始する、という明快な原理である。

このような本質を彼らが良く理解できなかったとすれば、我々の周囲でよく見受けられるように、死にまつわる悲しみと混乱が生じたとしても決して不思議ではあるまい。イエスはこのようなことを決して望んではいなかったと思う。

言葉では表現されてはいないが、クレオパスの記録は、そのことを鮮明に感じさせてくれる。イエスの死にまつわる幼稚な幻想物語を云々するよりも、『イエスが明らかにした真理(霊と真実〈まこと〉)』がどのようにして伝えられていったかという最も大切な事柄を検証する歴史として取り上げている。

クレオパスの視点に注意をはらって読んでいただきたい。その視点とは、イエスの後に従った弟子たち(使徒)、ことにパウロの正体をありのままにさらけ出していることである。

聖書では、パウロを伝道者の英雄のように描いているが、彼の全行動の因果関係は漠然として要領を得ない。

何故ステパノをあれほど憎んだのか、何故大祭司と組んだのか、何故エルサレムにやってきたのか等々、聖書の記述ではまったく不明である。クレオパスは、その肝心なパウロの人間像の裏表に容赦なく光をあてながら、イエスが心から知って欲しいと望んでいた真理を浮き彫りにしていく。

イエスの霊は、パウロが使命を果たし終えるまで執拗に手綱をゆるめず、しかもパウロが過去に蒔いた種を一つ残らず刈り取らせる試練の連続の中に、師と弟子、(イエスとパウロ)の強い協調関係(パートナーシップ)がにじみ出ているのである。痛々しいパウロ、情けないパウロ、いやらしいパウロ、異常的パウロといった赤裸々な人間像をさらけ出している。だからこそ、イエスの真理が一層際立って光り輝いている。

クレオパスの記録には、当時のことを「成る程」と思わせる説得力がある。聖書のような無理なこじつけや、押しつけがましい教条的表現がないからであろう。その点でも聖書は大半の魅力を失っている。つまり読んでもおもろくない。クレオパスが提供した記録は分量が多くて、とても一冊には治まらない。おそらく四冊くらいになる計算である。

だからこそイエスの真理を学びたい者にとっては貴重な資料になる。パウロを英雄視させるためのものではなく、教会を創設した功績を弟子たちに与えるためのものでもない。新鮮なイエスの真理を学びとらせるためのものである。

現今の教会は、皮肉にもイエスが葬られた翌朝、墓にやってきた女たちに天使が言った言葉、『あなた方は、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。その方はそこにはおられない』(ルカ、二四‐五)の通りになってしまったのである。

最後に一つ触れておきたいことがある。

この霊界通信を受けて記述したカミンズ女史は、序文でも編纂者が触れているように、キリスト教とは全く無縁のアイルランド人である。聖書を読んだこともなく、パレスチナに行ったこともなく、教会とは全く無関係であった人物が、どうして専門家をも驚愕させる史実が書けるのだろうか。

彼女の記述をチェックする証人として同席したギブス女史もまた然りである。ギブス女史も全く教会とは無縁の者である。世間には霊示された内容の信憑性をチェックしようもないいいかげんなものが氾濫している。

それなればこそ本書の真価がますます高められるというものである。その筋の多くの専門家によって内容がつぶさにチェックされているからである。その点で心底から敬服させられることは、『霊界通信の威力』である。

微力ながら同じ著者の「イエスの少年時代」を翻訳した時にも同じことを感じさられた。しかし本書は単なる偉人伝ではなく、多くの人間が、様々な場所で実際に行動した記録が中心であって、その歴史性にかなりの重点が置かれているだけに、いいかげんな霊示ではすまされない性格を持っている。

時代的背景、地名、人名、社会的構造、生活様式など、あらゆる分野の専門家(主として神学者、歴史学者、言語学者等)が知識を寄せ合っても、未だに分からないことが少なくないのに、たった一人の女史の手でどうしてこのような記述が出来るのであろうか、本物の霊界通信の偉大さに、ただただ敬服するのみである。

このような形で霊の実在を信じることができることは実にすばらしいことであると思う。超常現象や奇跡によって霊界のことを信じる者は少なくないであろうが、どうしても霊現象に対して正しい識別能力に欠ける傾向があるように思われる。分かりやすく言えば、ミソもクソも一緒くたになっているのではないかということである。

そこへ行くと確実に存在したカミンズ女史と誠実に生きた彼女の生涯を知ることによって、人智では測り知ることのできない霊の偉大さに直面させられ、自然に受け入れられるようになる、つまり、理性でしっかりと受け止め、理解できる道が備えられているということに大きな喜びを感じるのは、私だけであろうか。霊界の深いご配慮に感謝している。

欧米で過去に一大センセーションを巻き起こしたといわれる本書の日本版を世に送り出すことができることを光栄に思う。日本ではセンセーションを引き起こす素地があるかどうかは知らないが、少なくともイエスの真理を真剣に求めている真の〝求道者〟のためには少なからず貢献できると信じている。

今春出版された『イエスの少年時代』の姉妹編として大いに役立つと思う。真理は、水と同じく、低きに流れていくものである。イエスの名言中の名言であるように、幼子のようにならなければ、天国に入ることはできない。

幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い(マタイ、18‐3)であるから、あらゆる先入観、あらゆる偏見、あらゆる教説をいったん棚に上げ、偉大なる霊覚者クレオパスの提言に耳を傾けていただけるならば私の本懐である。このような高貴な文献を贈呈して下さった近藤千雄氏、並びに出版の労を惜しみ無くとって下さった潮文社の小島社長に心から感謝する次第である。
昭和六十二年八月 山本貞彰