ジェラルディン・カミンズ(著) 浅野和三郎(訳)
発行所 潮文社 2005年6月15日 新装版
永遠の大道は近藤千雄が訳した版も存在しているが、これはその前に浅野和三郎が訳した古い文体の本を読みやすくしたものです。
目 次
解説
第1章 不思議な世界
第1節 挨拶
第2節 永遠の謎
第2章 七つの世界
第3章 夢幻界
第1節 第三界
第2節 記憶の国
第3節 冥府又は中間境
第4節 夢の国
第5節 肉の人
第6節 途中の休憩所
第7節 感官の牢獄
第8節 平凡人の境涯
第4章 意識
第5章 色彩界-第四界-
第1節 『魂の人』-形像破毀
第2節 形態の聖化
第3節 第四界の知覚
第6章 類魂
第1節 意識の集団
第7章 光焔界-第五界-
第1節 第五界への誕生
第2節 第五界の象徴
第3節 類魂の組織
第8章 光明界-第六界-
第1節 純粋理性
第9章 超越界-第七界-
第1節 神的実在の一部
第10章 宇宙
第11章 光焔界から
第12章 死の真相
第1節 冥府(影の世界)
第2節 記憶と死後の認識
第3節 眠る人、眠らぬ人
第4節 遺像又は殻
第5節 急死
第6節 頽齢者の死
第7節 因縁
第13章 心霊の進化
第14章 自由意志
第15章 記憶
第1節 肉体の内と外
第16章 記憶の本体
第17章 注意
第18章 潜在的自我
第19章 睡眠
第20章 思想伝達
第21章 幽明交通
第22章 幸福 普通一般の男女に対して
第23章 神は愛より大なり
解説
私がここに紹介せんとするのは、フレデリック・マイヤースと名乗る霊魂からの通信で、霊媒のジェラルディン・カミンズ嬢がこれを自動書記で受け取り、去る1933年を以って一冊の書物として出版したものである。その主要題目は、宇宙人生観をはじめ、死後の世界の組織、人体の構成、又幽明交通に関する理論等で、大体我々心霊学徒が何よりも関心を有する重要項目を網羅している。それ等の全部が必ずしも私の研究、又私の意見と符合するともいい兼ねるが、しかし殆ど他のいかなる類書に比しても私との悲鳴点が最も多い。実際私は最近数年来本書程の会心の作物に接したことがないのである。私が多大の興味を以って本書の紹介に当たる所以である。
但しそれがマイヤース自身筆を執って書いたものでなく、甚だ不便、不利益な状態の下に他界から通信されたもの・・・。イヤ寧ろ霊媒によりて翻訳せられたものであるから、所々に意味の不明なところ、又脈絡の混雑を来せるところもあるのは到底免れ難き数である。で、私の紹介は成るべく自由な態度で、これに取捨選択を加え、必要と見れば注釈又は評論をも試みようと思う。私はそうすることが、最もよく通信者の面目を読者に伝え得るのではないかと考える。
読者の中には、マイヤース並にカミンズ嬢につきて、親しみがない方もあるかと思うから、これから簡単にその紹介を試みる。
フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースは1843年、英国カムバーランド州のケスウィックに生まれた。父は同地の常任牧師であった。
1856年、彼は十三歳でチェルテナム専門学校へ入学したが、その天分、なかんずくその詩的天分は早く教師仲間の間に認められ、名誉賞を与えられること前後六、七回に上った。1860年、ケンブリッジ大学の特待生に選ばれ、その在学中何回となく名誉賞牌を受け、嶄然として同輩の間に頭角を現した。1865年、在学中の身を以って休暇を利用して北米に遊び、その際ナイヤガラ瀑布の下流を泳ぎ越して時人を驚かした。英国人でこの晴れ業を敢行したのは、マイヤースが先頭第一だとの事である。
1856年10月、卒業と同時にトリニティ大学の古典科講師に任命せられ、爾来四年間その職を守った。続いて教育本部の嘱託を経て、1872年、視学官に任ぜられ死の直前までその職を離れなかった。1881年以来は、居をケンブリッジにトしてそこに永住した。
マイヤースの畢生の心血は、二つの仕事に集中された。第一は文学、第二は心霊研究であった。
彼の詩篇は、最初は少数者間にのみ愛誦せられたが、後次第に崇拝者の数を増したその含蓄、その熱情、なかんずくその縦横の想像力と生一本の純真味とは、決して尋常の詩才にあらざるを示した。彼には又研究的論文も少なくない。特に彼の私淑せるギリシャ詩人ヴァージルに関する論文は最も有名である。又『英国文豪評伝』集中に収められたウァズウァース評伝も、又英国学者間に傑作として喧伝されている。
が、永久にマイヤースの名を後世に不朽ならしむるものは、恐らく心霊研究の開拓者としての功績であろう。彼が催眠現象その他一般心霊問題に興味を抱くことになったのは、1870年頃のことで、かくていよいよ1882年を以って、少数の同志と協力して、『英国心霊協会』を創立することになった。これが人文史上に、永久に大きな痕跡を残すべく破天荒の事業であることは、ここに贅言を要しない。面してその大事業の完成に最も多く貢献したのは、実にマイヤースその人なのである。
彼の『詩文集』の中には、研究協会創立の趣旨目的を述べた一文がある。その一節『今や一つの新発見の必要が迫った。-が、これはたった一人のコロムバスによって成就さるべき仕事でない。実に全人類の協心同力を要する神秘開発の大事業なのである。従来人々はあまりにも性急であった。又あまりにも自己中心に過ぎた。それでは神秘の扉の永久に開かるべきよしもない。この種の研究は、先ず何よりも科学的でなければならない。宗教的研究は第二段である。宗教の第一義は、人類の情念と宇宙の構成との調節である。従って現在我々の最も必要を感ずるものは、実に宇宙の内面組織の発見である。科学は今日に於いて漸くこの至難なる役目を果たすべき機運に到達したと信ずる』
マイヤースの健康は、1900年の秋頃から衰え、かくて翌1901年の1月17日、ローマに客死した。享年58歳であった。死に至るまで彼の一大関心事は、実に心霊研究事業の大成で、その熱心とその金鉄の覚悟とは、他の何人の追随をも許さぬものがあった。彼の手に成れる大著『ヒューマン・パアソナリティ』は、心霊学界の貴重なる文献として、又創業時代の最大の記念塔として、彼の名と共に永久に後世に伝わるであろう。
次にジェラルディン・カミンズ嬢につき一言する。彼女はアッシリィ・カミンズ医学博士の愛娘で、その生涯の大部分を愛○(?漢字が難しくて不明)で過ごしている。その教育は家庭的に行なわれ、専ら戯曲と近代文学とに力を注ぎ、科学だの、心理学だのの教養はない。彼女は職業的霊媒でも何でもないが、しかしよほど以前から自動書記の能力を発揮し、クレオファスと名乗る古代霊が憑りて、陸続歴史的事実を通信した。それは『ゼ、スクリップ、オブ、クレオファス』『アゼンスに於けるポーロ』『エフエザスの盛時』等何れも単行本として出版され、研究者の注意を惹いている。尚彼女を通じて霊界で、通信を送った死者は約五十人に上り、その文体筆蹟等が皆異なっているのが面白い。マイヤースの通信もそれ等の中の一つである。
彼女は自分の入神状態の模様をばかく描いている。-『私は左手で両眼を蔽い、卓子につきて静座統一をやる。と、間もなく一種の半酔半夢の奇妙な状態-覚醒時よりも却って何やら明るく感ずるような状態に陥る。時とすれば全ては自分の意識でどうすることも出来ない、一つのはっきりした夢の感じを与える。その際私は単なる見物人であり、又傍聴者であり、全然受身の態度で、他人の道具になっているに過ぎない。私の頭脳は謂わば果てしもない電信文を叩きつけられている、一つの機械にしかすぎない。筆記の速度が非常に迅いところを見ると、誰かが前以て準備してある論文の書き取りをしているようでもある。しかしその際単なる速記術以上の或る物が必要であるらしい。私の潜在意識は、何やら他人の通弁の役目を務めているらしい・・・』
何にしろ自動書記の速度がバカに迅いので、誰かが一人その傍についていて、紙配給をしてやらねばならぬそうである。
マイヤースの死は三十四年前のことなので、当時幼女であったカミンズ嬢は、勿論面識も何もない。又彼女はマイヤースの遺書を紐解いたこともないとのことである。で、両者の現世的関係は極めて薄く、ドウ考えても、彼女はただ非常に便利な道具として、マイヤースによりて選び出されたに過ぎないようである。マイヤースは或る時彼女を通じて、霊界通信に関する苦心談を述べているが、非常に良い参考になるからその一部を紹介する。-
『人間の潜在意識は、我々幽界居住者にとりて、中々取り扱い難いものである。我々はこれに我々の通信を印象する。我々は決して直接に霊媒の頭脳に印象するのではない。そんな事は到底不可能である。潜在意識がそれを受け取り、そして頭脳に伝送するのである。頭脳は単なる機械である。潜在意識は丁度柔軟な○(漢字が不明)の如きもので、我々の思想の内容を受け取ってくれ、そしてこれを言葉の衣装で包むものである。所謂十字通信が困難なのはこれが為である。思想の伝達には成功するとしても、これを表現する言葉は、主として潜在観念の受持ちにかかる。故にもし私がある文章の前半を甲の霊媒に伝え、残る半分を乙の霊媒に伝えたとしても、それは主として内容の問題で、言葉の問題ではない。勿論こちらは成るべく思想と同時にこれを盛るべき文字をも伝達しようとはするのであるが、実際の綴り方は、ドウしても霊媒の記憶から来るので誤謬も出来る。そして時とすれば、全然霊媒の用語のみで表現されてしまうこともある』
右の十字通信式の試験は、マイヤースの通信にも甚だ厳密に行なわれた。即ちカミンズ嬢と、レナルド夫人とが、別々に立ち別れて、同じマイヤースからの通信を受け取り、以って比較研究を行なったのであるが、その結果は至極満足すべきものであった。マイヤースの霊は二人の霊媒を通じて、少なくとも同一内容の通信の放送に、見事に成功したのであった。その詳細は『サイキック・サイエンス』誌上にその都度発表されているから、熱心家はつきて一読されたい。

第1章 不思議な世界
第1節 挨拶
私はこれから人間の所謂『他界』『彼岸』『死後の世界』などと称している、不思議な世界につきて、詳述を試みようとするのであるが、かくいう私とても、勿論知識と経験とに限りがある。私はただ私の観た事実を物語ろうとするだけのものである。もしも私の用語が冒涜的であったり、生前人の所説の単なる繰り返しであったりしたら、偏に諸子の肝要を希ふ次第である。
思うに私とあなた方(霊媒その他)とは、同一目的の為に働きつつあると信ぜられる。我々は人間の心霊的知識の総量に、何物かを加え得れば甚だ有り難いと念願しているのである。お互いにセンセーションを巻き起こすような目覚しい仕事は、我々の力量にないかも知れぬが、しかし少なくとも我々は、我々の思惟(しい)以上に限りなく展開されている、広大無辺なる世界の存在につきての知識を推し進めることに、多少の貢献は為し得るであろう。
私がこれから伝達しようとする所は、悉く私自身の他界における知識の発表である。私には私が知っている事実だけしか物語れない。霊魂がこちらの世界で自身を見出す境涯は、千種万様であるが、何れも皆生気躍如として働いている。実際霊魂は肉体を離れてこそ、初めて真に生きていると称して良いらしい。我々肉体の無いものから観れば、鈍重な肉体に包まれて酔生無死の物的生活を営みつつある地上の一部の人達の霊達は、果たして生きているか否かが疑わしい位のものである。
(評釈)これだけの所では格別マイヤースらしい面目は充分に現れていると言えぬが、しかしその純真率直な好学的態度は、さすがにやはりあの人かと首肯される。偏狭なる自己の小経験を以って全てを律せんとする頑愚な所有者の到底及び難きところである。
第2節 永遠の謎
人間は果たして何れより来り、何れに向かって去るか?-これは古来多くの驚くべきスペキュレエションの材料となった題目であるが、しかしながら、何故に人間が創造されたか、何故に物質的宇宙が、永遠に大空を横切りて旋転しつつあるか、又何故にその原質がただ姿を変えるのみで、毫末(こうまつ)も消滅することがないのか、等の諸問題を真正面から解決せんと試みたものは極めて少なかった。
『目的のなき大きな機械』-これは実に十九世紀の科学者達が、宇宙に向かって書き下ろした碑銘である。これには『何故か』の疑問を挟むべき余地がない。従ってそこには目的成就がない。物質のみが唯一の実在であり、そして運動と生命の、無気味にして単調なる機械的ドラマが、無際限に演出されつつあるということになる。
無論真理は何人にも捕え難い。が、右の不景気千萬な結論を下した人達に至りては極度に真理を捕え損ねていると思う。心が有形の物質を離れて立派に存在することさえ承認出来れば、生存の神秘に対して何等かの意義を発見することは、決して絶望ではないと信ぜられる。
先ず我々は出来るだけ簡潔な言葉で、この宇宙の永遠の謎に定義を下したい。不取敢我々は次の諸項を、学術的仮説として採用したい。即ち-
一、仮相と実相とがある。
一、大別すれば物質、魂、霊の三つの相がある。
一、表現あれば必ずその根源がある。
一、神とは即統一原理である。
一、物質は微より極微へと無限に分解する。
一、全て再び霊に返る。
右に述べた霊(スピリット)とは、結局大我から岐えた小我、個々の有する最奥の心のことである。小我には勿論個性がある。しかしそれは人間的意義の個性ではない。創造者と何等かの区分性を有っているという意味の個性心しかない。換言すれば、ただ本来の相違である。本源に繋がれている末梢なのである。
かの神秘論者は、好んで自己内在の神を説きたがるが、これは全然謬見である。『神』は無上の心であり、あらゆる生命の背後に控える大精神であり、一切の存在の出発点たる大本体である。宇宙の歴史に於けるあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる事件は、皆この大本体の中に含まれている。万能の観念はそこから生じた。然るに自己の霊を指して『神』とするのは許し難き僭越(せんえつ)である。
大我から岐れ出でたる、これ等無数の霊-小我は何れも皆同一物でない。そして我等の殆ど凡ては、最初は単純素朴なる萌芽でしかない。彼等が完成の域に達するまでには限りもなき表現形式をとりて、無数の経験を自己に集積せねばならぬ。それなしに完全なる智慧は到底獲らるべくもない。が、一旦全ての完了した暁には、彼等はここに初めて神的属性を獲得し、一切を超越して大我の中に入り、宇宙の大本体の一部となるであろう。
かるが故に宇宙萬有の出現の理由は、これを『霊の進化』という言葉に包含されると思う。不自由の中に、束縛の中に、自己の理想の完成を求むる所の発達が行なわれるのである。即ち霊は何等かの形を執ることによりてのみ、円熟大成を期し得るものである。我々の出生もこれが為であり、我々が幾多の世界、幾多の境涯を通過せねばならぬのも、又これが為である。同時に又物的宇宙に間断なく生長し、拡張して、一層充分なる活動の舞台を小我に与えるのである。
繰り返して言うが、萬有存在の目的は、程度と種類を異にせる各種各様の『物』の中に、『心』が進化を遂げることである。心は表現によりて発達するのであるが、宇宙は無限に拡張進展するから、心も同様に無限にその威力を増大し、かくて実在につきての真の観念が獲得される。地上に宿るところの小精神は、神の表現の中にありて最低級のものである。彼等は出来るだけ早く、有意義なる統体の一部たることを学ぶべきである。
(評釈)マイヤースが宇宙人生の目的を霊の進化と観じ、又心と物との相対関係も、いとも明瞭に道破したことは当然の事ながら、快哉を叫ばざるを得ない。従来欧米人士の言説には、しばしばこの点につきての誤謬があり、我々をして眉を顰(ひそ)めしむるものがあったが、ここに至りて初めて溜飲の下がるを覚える。又マイヤースが一部の神秘論者の迷妄を説破しているのも頗る痛快である。神は自己の内にあるだの、自己は神なりだのという言葉は、兎角秩序と階梯を無視し、従って進化の法則に外れた、精神的○(漢字不明)睡剤となる傾向が非常に多い。これを標語としている宗教者流、霊術者流、何れも揃いも揃って、皆純然たる穀粒しに終わるのを観れば、思い半ばに過ぎるであろう。マイヤースの所謂『神の表現の中にありて最低級』である所の地上の人間は、これからが勉強のしどころ、修行のしざかりである。然るに碌に勉強も修行もせず生青白い顔をして、自分は神だと済ましこむに至りては、全く以って沙汰の限りである。
第2章 七つの世界
次に述べる所は、各自の魂が順次に通過すべき世界の行程表である。
(一)物質界
(二)冥府又は中間境
(三)夢幻界
(四)色彩界
(五)光焔界
(六)光明界
(七)超越界
各界の中間には、悉く冥府又は中間境がある。それぞれの魂はこれで何れも過去の経験を回顧検閲して今後の方針を定め、或る者は上昇し、或る者は下降するのである。
第一の物質界は所謂物質的関係に宿りて、一切の経験を積む境地である。こうした経験は、必ずしも地球上の生活には限られない。或る者は数多き星辰の世界に於いて、同様の経験を積むのである。無論それ等の世界の住人の肉体は、地上の人間のそれに比して振動数の多いのも又少ないのもあるが、大体これを『物質的』という文字を以って表現して差し支えなき種類のものである。
第三の夢幻界というのは、物質界で送った生活と連関せる仮相の世界と思えばよい。
第四の色彩界に於いては各自は漸く間隔と絶縁し、主として意念によりて直接に支配せられることになる。ここではまだ形態が付随している。従って一種の物質的存在には相違ないが、しかしそれは非常に稀薄精妙な物体で、寧ろこれを『気』とでもいうべきであろう。この色彩界はまだ地球、又はそれぞれの星辰の雰囲気内にある。
第五の光焔界に於いて、各自の魂は初めて自我の天分職責を自覚し、同時に自己と同系に属する、他の魂達の情的生活にも通暁し得ることになる。
第六の光明界に於いて、各自の魂は初めて自我の本体-本霊から分れたる類魂(同系統の魂達)の智的生活に通暁し得、同時に地上生活を送りつつある、同系統の魂の情的生活にも通暁することが出来る。
最後の超越界は無上の理想境である。本霊並に本霊から分れたる類魂は、悉く合一融合して大我、神の意念の中に流れ込む。そこには過去、現世、未来の区別もなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり、実相である。
(評釈)死後のマイヤースも、やはり西洋の心霊家らしく、全てを七つの界に分類しているが、これには確かに多少の無理があるように思う。冥府又は中間境は各界の中間に必ず存在するという以上、当然この外に四つの界を殖やすべきで、表面的に強いて七つに並べたところで仕方がないではあるまいか。又夢幻界、色彩界、光焔界の区別も余りに煩瑣(はんさ)で、いささか分明を欠く虞はないか。夢幻といい、色彩といい、又光焔といい、何れも仮相であって、結局感情の歪みの所産に過ぎない。各自の区別はただ程度の相違に過ぎないようである。
かく考えた時に、やはり私の試みつつある分類法、即ち全てを物質界、幽界、霊界、神界に大別する方が、実際的に甚だ簡明直截(ちょくせつ)であるかと信ずる。試みにここに掲げた七つの世界を、私の分類法に割り当てたら、次のようになるであろう。
(一)物質界-(1)物質界(主として欲望の世界)
(三)夢幻界
(四)色彩界
(五)光焔界
(三と四と五)-(2)幽界(主として感情の世界)
(六)光明界-(3)霊界(主として理性の世界)
(七)超越界-(4)神界(主として叡智の世界)
冥府又は中間境は、要するにどっちつかずの過渡期であるから、これを一の独立界として取り扱わぬ方が正当であろうと思う。もしドウあってもそれを表示したいというなら、各界の中間にそれぞれ亜幽界、亜霊界、亜神界と言ったような名称のものを挿入すればよいかと思う。これを要するに各界の分類法は、取り扱うものの便宜上決められるもので、これを粗く分けようと、又細かく分けようと、それはめいめいの勝手である。決して数などに拘泥すべきではあるまいと信ずる。仏教徒の霊界通信の中には、超現象界を百八界に分類するものなどを見受けるが、これも無論本人の主観の現れに過ぎないと思う。
ここに甚だ面白いのは、マイヤースの類魂説である。彼は生前からこれを唱えたが、死後の通信にも依然これを主張している。類魂(グループソール)とは結局同一自我(本霊)の流れを汲める同系統の霊魂達を指すので、私の提唱せる創造的再生説は、又もやここに一の有力なる支持者を見出した訳である。尚この類魂につきては、先へ行って詳しい説明がある。
第3章 夢幻界
第1節 第三界
私は先ず新帰幽者の群・・・・私達の住む死後の世界の岸へと、昼夜のけじめなく押し寄せる、かの澎湃(ほうはい)たる生命の波浪につきて、定義を下しておきたいと思う。生と死とは、結局同一の意義を有つ。私は生だの死だのという言葉を聞くと、変な気持に襲われる。近頃の私はモウ大分言葉の無い、単に思想のみで生きる生活に慣れてしまったのである。
ごく大雑把にいえば、新帰幽者は大体三つの範疇に分けられると思う。即ち-
(一)霊の人(スピリットマン)
(二)魂の人(ソールマン)
(三)肉の人(アニマルマン)
無論これ等は更に幾つにも区分し得るが、兎に角右の三用語だけは銘記することが良いと思う。何となれば、その何れかに属することによりて、各自の前途の相場が決まる訳であるから・・・・。
これから私は各界の状況を分類する。
第一が取りも直さず地上生活。
第二が冥府と称せられる過渡の世界。
第三が地上生活の心影又は反射で生きている生活で、一部の人士はこれに『常夏の国(サマーランド)』などという名称を与える。が、私としてはこれを『夢幻界』と呼びたい。
第四は地上そっくりの形態を保持しているが、しかしその体質は、次第々々に精妙稀薄の度を加えつつある生活である。ここでは物質界との連絡が強い。
第五は精神的要素の勝った生活で、所謂類魂の中に混じり、同一系統に属する他の霊魂達のあらゆる経験-但しそれはただ情的行為だけに限る-に通暁する。類魂につきては別の機会に説明する。
第六は『時』の内と外とに跨る自覚の生活である。時の測定を形態を帯びて送った生涯を以って尺度とする。この中には極度に隠微な形態の生活、又程度の差こそあれ、要するに一種の私物の生活が含まれるのである。
最後に来るのが第七の境涯、ここで前進中の魂がその本霊と融合するのである。この至福境に於いて体はいよいよ超越の世界に歩み入り、不滅なる文字の意義が初めて判って来る。もうここでは物質とすっかり絶縁してしまい、又時とも絶縁する。そしてあらゆる生命の背後の大精神、神と合一し、又あらゆる世界の生活に於いて、汝と連繋を保っていた汝の本霊と合一する。
(評釈)大体前節の繰り返しのようなもので、別に言うべきこともない。但し帰幽者を三種類に分類したのはいささか良い思いつきであろう。結局『霊の人』とは超越味のある人、『魂の人』とは人間味の脱けない人、『肉の人』とは動物的本能の奴隷となっている人のことらしいが、成る程そう分類すればされないこともないらしい。
第2節 記憶の国
物的地球はあたかも鏡裏の映像に似ている。それは鏡面に投げられる影によりてのみ真実である。かるが故に、その認識は個々の視覚の性質次第で決まる。土塊に包まれたる地上の人間は、勿論一の仮相であるから、物の視方が非常に一方的で、地球をば単に迅速に回転する一の円球としか観じ得ない。肉体放棄後に於いても、彼は往々地上生活の根本的性質の実性を悟り得ないで、愚かにも生前の空夢に憧れる。で、これ等の霊魂が帰幽後に於いて逢着するものは、大体地上生活そのままの光景である。が、それは結局彼の記憶が造り出したる、一の夢の国に過ぎないもので、彼の地上生活を構成していた、様々の事件が、再びまざまざと彼の眼前に現れて来る。要するに彼は他愛もない嬰児であって、自分が置かれている新世界の現実が少しも判らないで、ポカンとして暮らしているのである。
この程度の嬰児霊が、往々うつらうつらとした夢見心地で、地上との通信を行なうことがある。彼等はしきりに自分の夢見つつある、記憶の国を物語るべく努める。が、勿論そんなものは地上の光景と全然同一である。一部の人士はこれに対して、『常夏の国(サマーランド)』という名称を与えるが、全く上手い名前である。兎も角も彼は肉体の羈絆(きはん)から離脱してはいるので、その心の働きが遙かに自由となり、自分の好みに応じて面白い記憶の国を捏(でっ)ち上げる力量を具えている。彼は本能的に地上生活の楽しかった箇所のみ寄せ集め、苦しかった箇所は皆省いてしまうから、ここに素晴らしい極楽浄土然たる別世界が出来上がる。彼の得意と満足とは以って察すべしである。が、勿論それは単なる夢の世界で、死後の世界の実現でも何でもない。暫くはそれで満足していられるが、やがて精神的自覚の味が来て、一切は烟散(えんさん)霧消し、自分の置かれている新しい環境に初めて目が覚める。従来霊界通信と称せられたものの大部分は、実にこの夢幻境の描写に過ぎない。
私はこの記憶の国からは夙(つと)に離れ去っているが、私達の境涯から眺めると、その世界は甚だしく非現実的で、謂わば映像の又映像と感ぜられ、面白くもおかしくもない。その幸福はのんべんだらりとした植物性の幸福、周囲の出来事に全然没交渉なる頑是なる小児の満足に過ぎない。
(評釈)交霊現象の実地体験者にして、初めてここに述べてあることがしっくり腑に落ちるかと思う。南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生疑いなしとか、キリストの前に懺悔さえすれば必ず天国に行けるとか、いうような暗示を受けて帰幽した霊魂達を呼び出してみると、彼等の多くは依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(あもう)で、マイヤースの所謂記憶の国、つまり単なる自己の空想で造り上げた単調気味の境涯に収まり返り、安価な自己陶酔に耽っていることを発見する。進んで悪事を働くよりか、これでもまだマシかも知れぬが、しかしそこに何等の進歩も、向上も、又努力も見出されない。宗教はアヘンだ、という言葉があるが、全く既成宗教の大部分にはそう言った趣が幾分無いともいえない。消極的の効能はあっても、積極的の働きは頗る乏しい。今後の人類、少なくとも国家社会をリードしようとする識見力量の所有者にとりて、そろそろ既成宗教があき足らなく感ぜられるに至った所以であろう。幼弱な自己陶酔に耽るには世の中が少し進み過ぎたようだ。
第3節 冥府又は中間境
冥府(ヘーズ)という言葉は、いささか不愉快な連想をもたらすかも知れぬが、実は一の準備的中間地帯と思えば何でもない。肉体の崩壊直後に於いて、何やら身体各部の一時的脱臼と言ったような期間が続く。私はイタリイで客死したが、その頃の私は非常に心身の倦怠を感じていた。それ故か冥府は私にとりて、至極結構な安息の場所、半醒半夢の薄明るい保養地であった。そして人間が熟睡によりて気力を回復すると同じく、私は冥府生活の期間中に、すっかり精神的又理智的能力を回復してしまった。全て各自はその性質次第で、冥府と称する顕幽両界の中間帯に於いて受ける影響が、それぞれ異なるらしい。
(評釈)大体よく死の直後の休養期を説明している。私が試みた無数の招霊実験の結果からいえば、その休養時代は人によりて中々長く、五年、十年、二十年になっても尚うとうと眠っている者が少なくない。それ等の霊魂は先ず適宜の覚醒法を講じてからでないと、地上との交通は不可能である。職業的霊媒の中には、誰でも直ぐに招霊し得るようなことを言うものもあるが、勿論それは嘘である。気をつけないと一杯喰わされる。
第4節 夢の国
右の冥府滞在中に、各自の魂はその不純性の幽的形態から離脱し、今度は夢幻界特有のエーテル体に宿ることになる。前にも述べた通り、ここは反映の反映、夢の地上生活を再び夢見る境涯であるから、ここに留まる限り、各自に平和と満足とを満喫し得る。が、この種の平和には早晩倦きが来る。何となれば楽しき夢の国には、何等の進歩も、又何等の変化も見出されないからである。試みに思え、見るもの、聞くもの悉く地上そっくりの境地である。成る程そこには金銭上の心配もなければ、又その日その日のパンを獲る為の苦労も要らない。そしてそのエーテル体は、太陽の光とも又違った一種の独特の和かい光で温められる。お負けにそこには元気も生命も充実し又何の苦痛も格闘もない。例えてみれば、それは丁度沼の中の生活である。あまり静寂で、そしてあまりに窮屈で、終いには誰でもウンザリして来る。誰でも奮闘、努力、強い刺激、広い眼界が望ましくなって来る。この自覚が起こった時こそ、彼の前進の合図である。昇るか、降りるか、兎に角いずれにか動き出すのである。
(評釈)前に述べた記憶の図の再説に過ぎないから、別に取り立てて言うべきこともない。しかしこの生活を沼の中の生活に譬えたのは、頗る面白い観方であると思う。
第5節 肉の人
肉の人とは結局原始人型の人間のことである。その種の人間は勿論、死後に於いてもその器量相当の境地を選ぼうとする。彼は濃厚鈍重な肉体に包まれた地上生活が恋しくて堪らない。従って彼の行先は、通例元の地球上であるが、稀に他の天体に向かうものもあるとの事である。数ある天体の中には地上よりも一層濃厚な物質の世界もあるらしい。
無論それ等の天体の或物には人類が住んでいる。しかし彼等の物質的肉体は、地上の『時』とは違った『時』に支配され、別のリズムの中に生きているから、身体各部の振動数が地上のそれよりも迅速であったり、又は緩慢であったりするので、必ずしも地球の人類の感覚には映じないであろう。私は彼等を指して人類と呼んだが、それは彼等の生活状態、又彼等の体的構造が大体地上の人間と同様に出来ているからである。
(評釈)他の天体の生物を説いている霊界通信は、他にも少なくない。ステッドの通信中にもそれが見出される。我々はこれに対して、暫く傍観の態度を執るより外に致し方がない。これは肯定すべき充分の資料が、まだ揃っていないと同時に、又これを否定すべき何等の学術的根拠もない。ただ現在として、この種の問題を認識するのが、時期尚早であることは確かである。理論的にも又実験的にも、一分一厘隙間のない死後の世界の存在につきてさえ、まだ心の眼を開こうとしない連中が、多数を頼んでしきりに愚論を逞しうする現在ではないか。他の天体にまではまだちょっと手が延ばされていない。
第6節 途中の休憩所
私は夢の国、記憶の国には進歩がないと述べたが、それには一面からいえば多少の語弊がある。実はただ進歩がないように見えるというまでの話である。冥府を過ぎてあの境涯に入った魂は、暫くの間至極平静な状態に置かれ、何等の煩悶も焦燥もないのであるが、やがて時が来ると、暫く潜んでいた欲望が、又もや暴れ出して折角の楽しい夢を破ってしまう。一時は肉の人にとりて、夢の国程結構な境涯はないように見える。何となれば一切の欲望が、何等の苦労も、何等の努力もなしに、易々と遂げられるからである。しかしその結果、飽満の感じの起こるのも又割合に早い。飽満の次に来るものは決まり切って倦怠であり、新しい生活がしきりに望ましくなり、こんな途中の休憩所が、たまらなく退屈に感じられて来る。要するに現世的空夢にも結局限度があることが判って来て、ここに進歩が遂げられる次第なのである。
多くの『肉の人』は、まだまだここですっかり解脱するまでには至らないであろう。夢の国で味わった快楽を、モウ一度地上の肉体に宿って、しんみり味わい直してみたいと考えるであろう。その結果彼は再び下界に降りる。が、それは上昇せんが為の下降である。夢の国に於ける十二分の経験の結果、彼の自我性の中の、より高尚な部分が呼び覚まされている。従ってその分霊が地上に再生するに際し、今度は『肉の人』ではなくて、『魂の人』になっているかも知れない。少なくともその動物性は、いつの間にやら飽くほど減らされており、従って生まれ変わった彼は、前世よりもずっと高尚な地上生活を営むことになるという次第である。こんな次第で『常夏の国』というのは、つまり地上生活の夢の世界、回顧の世界であり、決して冥府でも、地獄でも、又極楽でもないのである。徹底的に地上生活のおさらいをするから、日頃胸底に仕舞い込んであった一切の思想、感情、欲望等が充分に整理され、又満足され、ここに一歩向上の途へと進み得る段取りとなるのである。
(評釈)人為的の戒律は兎角『べからず』主義で固めてあるが、大自然の戒律は甚だ大規模に出来ているらしい。『やたらに抑えたところでとてもダメである。欲望などというものは、これを満喫させれば自然に収まるものだ・・・・』大体そう言った筆法であるらしい。そこへ行くと、人間界でも苦労人と言われる人達程、這間の呼吸を呑み込んでいる。そしてよく『若い内には道楽もちょっとは仕方がないさ。しかし深みに落っこっちゃいけないぜ・・・』などと忠告する。マイヤースの描いている『夢の国』の生活も、そう考えた時に、大いに意味がある。私自身の心霊実験から推定しても、死後の世界は、決して在来の宗教者流が描いているような、あんな一本調子の窮屈極まるものではないらしい。
第7節 感官の牢獄
諸子の環境は、見方によっては諸子自身の創造にかかると言ってもよい。何となればそれは諸子の神経、諸子の感覚が捕え得るだけの狭い、縛られたる環境だからである。諸子は決して精神的に充分まだ解放されてはいないのである。
もしも諸子にして自我意識を奥へ奥へと誘導し、五感とは全く絶縁した、形態抜きの純理の世界に入るべく自身を訓練することに成功したとすれば、物質の世界などは勿論、全部消えて見えなくなる筈である。しかしそれは現在の諸子には到底出来ない。それは今後無尽蔵の経験を積んだ暁に於いて、初めて期待さるることである。
兎に角諸子は、その死後に於いて高級の世界に進めば進む程、その智能は次第に増進し、物の形などは自分の意のまにまに、ドウにでも左右し得るようになる。換言すれば形の中に生命を宿す術が上手になるのである。調度彫刻師が粘土をひねりて、ある形像を造るが如く、諸子の心はよく形の中に生命と光とを集め、かくて自己の意念の欲するまにまに、自己の環境を造り上げて行くのである。勿論最初の諸子の意念は、地上の経験と記憶とに限られているから、折角造り上げたものも、結局地上に見出されるものの複写に過ぎない。それを離脱するには諸子の精神の発達向上に待たねばならない。
一言ここで注意しておきたい事は、この夢幻界の程度での諸子には、まだ意識的に自己の環境を造る能力が備わっていないことである。諸子の内的意念が類魂の中に伝わり、その援助で諸子の気付かぬ間に、自分の置かれる環境が、いつしか出来上がっていると言った次第なのである。諸子はまだまだ個人的束縛から脱し得ない。地臭を帯びた、不自由な魂であり、従ってその働きが頗る鈍いのである。
(評釈)各自の魂の向上発達する順序をば、正面に諄々と教えているところが甚だ嬉しい。現代人は最早かの旧式な既成宗教の愛用する無上道、又は気休め式暗示にはかからない。こんな風に説かれて初めて成る程と肯かれる。と同時にこの一節は、数ある霊界通信を紐解く者にとりても良い指針である。これを以って臨めば、霊界の通信者の発達程度がほぼ見当がつく。殊に末尾の夢幻界につきての注意などは、良い参考資料だと思う。私の入手した霊界通信にも同一時を伝えている。
第8節 平凡人の境涯
肉体に包まれて現世の旅を続ける男女は、言わば大地と大空との中間に懸けられた階段を昇りつつあるようなものである。彼等は二つの神秘-『生』と『死』との中間に彷徨っている。下方を覗くのも気味悪いが、上方を仰ぐのも又眼が眩む。で、通例は自己の踏みつつある足場にのみ注意を払って、踏み外さぬ用心に一生懸命である。従って彼等の中の最も優れたものでさえ、その眼界は通例極めて狭く、五、七十年の人生の行路の前と後とに広がれる地域につきては、殆ど何等考慮を費やすの余裕を持っていない。
死の関門を通過した無数の霊魂達とても又同様である。無論彼等にとりて人生の意義は遙かに高まり、且つ大規模にもなっている。が、旧態依然、彼等も尚神秘と神秘との中間に懸かっている。従って霊界の通信の多くは、単にその人の置かれたる身辺の実況の描写たるに留まり、深く人生を指導すべき、深みも鋭さも具えていないのを通例とする。
試みに私が一弁護士の傭書記の地位に自身を置いて、死後の世界の描写を試みたと仮定する。法律書記であるから、法律事務以外の事は殆ど何事も知らない。従ってよし彼が他界に目が覚めたところで、その報告する所は、結局現在の俗務の続き、もしくはその複写以外であることは出来ない。何となれば彼の心の眼には、それだけの感受性しか具えていないからである。無論長年月を閲する暁には、この人物にも霊的意識が開けて来るが、私の知れる限り、この種の人物は通例地上に向かって通信を送ろうとはせぬものである。彼は自分自身の心の貧しさをよく自覚している。彼には到底霊媒から借りた地上の用語を以って、死後の世界の驚嘆すべき状況を描写すべき力量がない。従ってこの種の人物は永久に沈黙を守り、死の黒幕に彼方からのくしびな響き-神の無限の想像の中に秘められたる内面の世界の音信-をば少しも漏らさぬことになるのである。
右の如き人物は、実に他の無数の平凡人の代表者である。彼は自己の特殊の業務の遂行には、少しも差し支えなき俗人の典型で、人生の窮極の目的が何であるかは、只の一度も考えてみる余暇もなければ又能力もない。目隠しされて目的地点に走る駄馬と同様に、彼の一生は揺り籠から墓場へと、ただ一筋に走ったまでである。その生涯は単調そのもので、何等目星き出来事もなく、月並極まる喜怒哀楽の繰り返しに過ぎない。が、研究題目として、こう言った人物の他界に於ける生活こそ大切であると思う。何となればこの種の人物が、人類の大部分を占めるからである。
所で、ここに疑問が起こる。この種の人物は死後一転瞬にして、偉大高邁なる大預言者になるか?それとも人間の所謂進化の法則に従いて、一歩々々向上の途を辿るか?
もしも彼氏が死によりて一躍大預言者、又は大天才に早替わりしたとすれば、それは全然別人格であって、元の彼氏ではない訳であるから、死後の生存ということは成立せぬことになる。やはり彼氏は彼氏として、牛の歩みのノロノロした進化の道程を踏み行くのが当然であり、又事実でもある。死後の世界につきての彼氏の見解は元のまま狭く、又その好きも嫌いも元の通りの特色を帯びている。これを一言にして尽くせば、彼氏は死んでもやはり生前の彼氏なのである。この種の人物に向かって、高尚にして霊的な生活を望むのは、そもそも無理な注文である。彼氏は精神的にはまだおしめに包まれた幼児である。従って死後の世界でこの種の人物を取り扱うのは、丁度現世で赤ん坊を取り扱うのに酷似している。成るべく強い風にも当てないで、大事に看護介抱を加えてやると言った按配なのである。
死後彼等はまず過去の記憶の快き夢に浸るのを常とする。それが究極の目的でも何でもない。そうした期間に、次第に前進向上の英気と能力とを培養されるのである。
無論優れた霊魂-教会人はこれを天使等と呼ぶが、私から言えば単に賢い魂に過ぎない-はそういった下らない夢幻境に置かれるようなことはない。彼は稀薄精妙なるエーテル体に包まれて、広大無辺なる空間を縦横自在に駆け回り、驚くべき活発な生活を営むのである。が、普通平凡の霊魂達が、そうした境涯に置かれたら、一度に眼が眩んで気絶してしまう。
かくいう私などは、ホンの少しばかり普通よりも進歩した境涯に置かれて居るので、平生死の関門の所に控えて新来者の見張り役、案内役を務めることになっている。途中二、三の準備的境地を経て、やがて我々が新来者を案内するのは、決まり切って夢の国、記憶の国である。何人にも自分自身の中に、その地上生活の全部を回想し得る能力が備わっている。そして彼の渇望するのは日頃親しめる環境であって、決して現世離れのした瑠璃のうてなや、金銀の調度でも何でもない。平常見慣れた地上の山河-それが懐かしくて仕方がない。無論そんなものが実際的には幽界に存在しない。が、本人が望めば、それ等の幻影は自由自在に出来上がる。
それなら何人がそう言った幻影を造ってくれるのか。外でもない、それは優れた霊界居住者達の役目である。彼等は容易に、新来者が日頃地上で親しめる光景を具象化する能力を有っている。その原本は勿論新来の霊魂達の記憶の中に見出される。が、単に原本の複写に止めるというような、下手な真似は決してしない。或る程度までこれを理想化し、日頃地上で見慣れた光景に似てはいるが、しかしそれよりも遙かに美しい景色を造り、その中に新来者を置くのである。夢の国、記憶の国は決して実在の世界ではない。が、新来者自身にとりて、それは立派な実在境に相違ない。ここで彼は日頃愛せる親戚故旧とも会合して、情話を交えることにもなるのである。
前にも述べた通り、この夢の国、記憶の国こそ、実に平凡人の為に設けられた一の保育場である。弱々しい植物の若芽を育てる為の温床であり、そしてその園丁の役目を務めるのが、とりも直さず優れた霊魂界居住者-先達連なのである。
夢の国、記憶の国はかく大体に於いて地上生活の複写ではあるが、しかし又地上生活と相違した箇所もある。なかんずく顕著なのは業務の相違である。ここには地上生活に於けるが如き機械的の業務がない。地上生活にありては人間は肉体の奴隷であり、従って『暗』の奴隷であった。ところがここでは、食物並にその相当物件である所の金銭の要求が全然ない。ここでは食物に相当する無形の栄養素が、無尽蔵に存在している。これでは何人も『光』の従僕たらざるを得ない。換言すれば生計の為にあくせくしないで、極めてのんびりした気分で、恣(し)に心の糧を貪ることが出来るのである。
地上生活で一番恐ろしかったのは飢であった。ところが、その飢の心配が失せたというのは、何と素晴らしい特徴ではあるまいか!
が、食物以外にも、まだまだ考えねばならぬ大切な要件がある。飢の次に来るのが『性』の問題である。この性の要求までが、果たして肉体の崩壊と同時に消失したか?
これに対する私の答は大体に於いて『ノー』である。性欲は決して肉体と共に消失はしない。が、その発展の様式が変わっている。これはこの過渡期に於いて解決を要する最大要件の一つである。
性的欲望にも色々の種類があり、従って一般にも言われないが、ここに一例として、試みに地上生活中に淫蕩な性的経歴を有する男(又は女)の場合を挙げることにする。全て肉体を失った者の心の働きは、一層先鋭化するを常とするので、従って死後の淫蕩心は、生時よりも一層強烈である。そして淫蕩心は淫蕩心を呼ぶことが、地上よりは遙かに自由な為に、ここに性的楽園ともいうべきものが出現する。記憶の及ぶ限り、想像の及ぶ限りの淫蕩な相手が無数に集まって、痴態の限りを尽くすことが出来るのである。地上とは異なって金銭も要らない、努力も要らない、警戒も要らない、又見栄や外聞の顧慮も要らないのである。
それがあまりにも容易であり、安価であり、又豊富でもあるので、ここに必然的に襲来するのが恐ろしき飽満感である。飽満の極は決まり切って嫌悪となる。いかなるその道の猛者でも、最後には必ずウンザリする。努力の伴わぬ満足には決して永続性がない。ところが、ここに甚だ困るのは、厭で厭で堪らぬ淫蕩の相手が、容易に離れようとしないことである。糯(もち)にかかった小鳥のように、もがけばもがく程ますます粘着する。
こんな次第で、『夢幻界』の最終の状態は、ダンテの所謂煉獄的境涯である。およそ天下に何が苦痛だと言っても、飽満の苦痛程深刻なのはない。不満足も苦痛であるが、満足の苦痛は更にそれ以上である。
勿論これはホンの一例に過ぎぬ。全てを律する一つの通則というべきものはなく何人も『冥府』及び『夢幻界』に於いて、それぞれ異なった方式の試練に会うのである。で、中にはその欲望を満足すべき何等の機会を与えられないのもある。例えば冷酷にして利己的な人物の中には、往々暗く寂しい所に縮まり込み、欲望満足の快夢に耽ることを許されないでいるのを見出す。つまり死の打撃が、一層彼を内へ内へと追い込んだのである。『万事休す』-彼は死の瞬間にそう思い込んでしまった。従って彼は外界との一切の接触を失ってしまった。こんな人物はその陰惨な損失の観念が抜けない限り、いつまでも暗黒の夢魔の中から脱出し得ないであろう。
兎に角大概の人の魂は、暫くは夢幻の状態に生活するを常とする。人類の大多数はその死に際して、物質が実在であるという観念にあまりにも強く支配されている。彼等には新生活に対する心の準備が充分に出来ていない。彼等は猛烈に地上の生活を理想化したような境涯を望んでいる。かるが故に、彼等の生活欲というのは、結局過去の生活を生活することである。これでは私の所謂夢幻界に入るより外に途がないではないか。彼等は地上生活に於いて、上等な葉巻を喫(の)みたく思った。夢幻界では只でその葉巻が喫める。彼等は地上生活に於いて思う存分ゴルフを遊びたく思った。これも容易に夢幻界が満足させてくれる。が、これはただ最も強烈な地上の欲望が生める、空夢以外の何物でもあり得ない。暫くすれば、この果無(はかな)き快楽は彼等を満足し得なくなる。その時こそ彼等が考える時、新しき未知の世界を望む時である。かくていよいよ向上飛躍の準備が成りて、今迄の愉快なる、しかし甚だ茫漠たる夢が俄然として消える。
(評釈)帰幽後に於ける平凡人の境涯がどんなものであるかを、極力説明しようと試みているところが甚だ嬉しいと思う。霊媒を通じての通信のこととて、その表現法は頗る蕪雑で、冗漫であるが、マイヤースが何を言わんとしているかは充分に諒解される。兎に角一段の高所から達観する人物にして、初めて道破し得る貴重なる通信であることに何人も異存はないであろう。
第4章 意識
地上生活にありて、意識とは朝な朝な眼を覚ますと共に点もされる一つの燈火である。健康がすぐれぬ時にその光力は弱いが、年齢が若くて元気に富めば、その光は煌々と燃え上がり、眼に入る一切の物体に輝きを与えて、歓喜幸福の源泉たらしめる。
この毎日の意識は年齢と経験とによりて、色々に変化する。年々歳々意識は決して同一でないが、その微妙なる推移に気の付くものは、或は滅多に居らぬかも知れぬ。ところで、この人間の意識の本体、つまり物質の世界を見、聞き、又触れることを得せしむるものは一体何者か?他なし、それは『自我』なのである。この不思議な存在は、機会を見て別に説くが、要するに各種々々の諸要素の合計である。死んで肉体を棄てた時も、又死後幾つかの階段を経た暁に於いても、(無論その間に重要な変化を遂げるのは事実であるが)依然として支配権を握るのは自我である。彼岸に於ける自我は、肉体と称する一の王国をして、統一と均衡とを獲せしめた、一切の物的要素、肉、血、脳、細胞、複雑なる神経網等-を脱ぎ棄てた、一個の身軽な旅人である。そして、肉体の代わりとして、遙かに精巧な一つの形態を有っている。この形態にも又一種独特の立派な交通機能が備わっており、彼はこれを用いて、盛んに自家の精神的栄養物を摂取することが出来る。既に述べた通り、彼岸の居住者の有する機関は非常に稀薄であり、又微妙であるから、無論肉眼には見るよしもなく、地上の科学者達の提供する、どんな精巧な機械にもかからない。
ところで、この新形態にはどの部分が痛いとか、痒いとかいうようなことは絶対にない。精神の働が非常に加わりて、統制力を増した結果、精神的の苦痛は経験しても形態が精神を悩まし、形態が支配者の位地に立つというようなことは到底ないのである。これを観ても死の彼岸に於いて、いかに彼が重要なる進歩を遂げたかが明瞭であると思う。が、他方を観れば、彼の前途はまだまだ遼遠である。完成の目的地点に達するまでには、彼は無数の境涯を通過し、無数の生活を経験せねばならないのである。
ごく大雑把に言えば、彼がその長い生命の道程中に発揮すべき意識は二種類に分かれる。外でもない、甲はスピリット又は上魂、乙は自我性又は下魂である。そしてその何れにもそれぞれ異なれる表現形式があるのである。
或は又見方によりては、全てを意識の階段と考えても良いかと思う。即ち階段の一つ一つこそ、出発点から終点迄に至るまでに、彼が通過せねばならぬ、各種の生活の代表なのである。但しそこに果たして終点があるか、ないかは私には言い得ない。私が最終というのは、単に私の視界の局限を指すに過ぎないと承知してもらいたい。そして私の所謂下魂と称するのは、各階段にありての実際的、又は顕在的自我意識であり又スピリット又は上魂と称するものは、結局上方から射す光と思えばよい。この光は何れの階段をも照らし、一切のその中に包容する。かるが故に魂とは単に一部分であり、経験の収集者であり、あらゆる生命の背後に控える『神秘』の小なる代表者でしかない。
自我がこの意識の階段を上昇すればする程、ますます他の同類の魂達と接近する。一つのスピリット(上魂)によりて養われる類魂の数は、或時は千、或時は百、又或時は二十位しかないかも知れぬ。何れにしても、他の同類の魂につきての自覚は階段の上方に進めば進む程増大する。時とすれば、彼等は他の魂達の記憶の中に潜り入り、それ等の経験を洞察し、全てを自家薬籠中のものとなすことも出来る。然らば何故に上方に進むにつれて、心と心との感応道交の度が高まるのか?他なし統一原理である所のスピリットは、間断なくより大なる調和をもたらし、従ってより大なる統一をもたらす傾向を有っているからである。かくてこれ等種々雑多の個性の所有者達は、次第々々に、相交錯して、経験も心も一体となり、遂には従来夢想だにしなかった知能の水準線に到達する。
いうまでもなく意識の階段の下方に沈淪しているものは、尚人間的臭味を帯びた思想、習慣等から離脱しない魂の所有者達である。彼等の或者は地上生活中には非常な大学者であったのもある。が、知識は必ずしも賢者を造らない。偉大なるインドのヨガ僧、優れたる中国の大儒、神聖なるキリスト教の長老等にして、尚且つ長年月に亘りて、第三乃至第四の世界に停滞を余儀なくせしめらるるものがある。それ等の人達は所謂下魂の好標本で、従って幾多の弱点がある。彼等は地上に於いて抱懐せる思想の鋳型から脱け出づる力なく、旧態依然として昔の夢に捕えられ、多くの謬念謬想に膠着する。例えばインド僧はインド哲学の宿弊に捕えられて、いたずらに物と心との分離を夢み中国の儒者は中国思想の旧套を追いて、暗中模索式の宇宙観に耿るの類である。
一見すれば、彼等としては恰もその宿望を達したかの如く見える。が、事実は意識の階段の低部に固着しているに過ぎない。自分ではそれが涅槃であり、解脱であり、大悟徹底であると考えるであろう。豈(あに)図らんやそれはただ自分だけに通用する涅槃であり、解脱であり、大悟徹底である。彼は依然として自我性を有し、依然として地上生活中に造り上げた自己陶酔式の空夢にこびりついている。要するにそれは沈める沼の生活である。そこには退歩もないが又進歩もない。彼は少しも宇宙の物的様式との接触を有っていない。故に彼には単なる陶酔があるのみで、経験が乏しい。永久に自我の牢獄の裡に監禁さるる所以である。
私は既に述べた、階段の上部に到達した魂は、よく統一原理たるスピリットの裡に合同し、遂には差別世界の彼方に歩み入りて、神秘的実在と融合一致するであろうと。その時に、彼等はもとより形態を棄て、一切の外部表現を行なわぬことになる。が彼等はいたずらに自己陶酔式の観念に耽る代わりに、無形にしてよく有形の宇宙と接触を保ち、我等の想像だも及ばざる智的、又霊的の活動を続ける。この境涯こそ真の涅槃であり、真の天国である。彼等は細大漏らさず物的宇宙の秘奥に通じ、天体の変遷も、地球の歴史も、悉く彼等の叡智の鏡裏に映ず。之を要するに彼等は宇宙の一部にして、同時に又全部なのである。
意識の各階段を上より照らすスピリットは、結局神の思想の個性的一表現と観ればよい。このスピリットは、時としてその自身の中に縮まることもあるが、又時として神と魂との接触の役目をすることもある。私の所謂『霊の人』の出現はその結果である。開闢以来この種の人物の地上出現は、恐らく総計百人には達しまい。この種の人物の特徴は、肉体の中に包まれながら、よく直接に神からの強烈なるインスピレーションに接し得ることである。『霊の人』にして初めて永遠の真理を語り、又これを行なうことが出来る。この種の人は肉体の放棄後、しばしは冥府(ヘーズ)に止まるであろうが、『夢幻界』などには断じて停滞しない。迅速の各階段を突破して、容易に宇宙の実在の中に融合する。
(評釈)不自由なる霊媒を通じて受け取った霊界通信の常として、表現法は何やら舌足らずの言葉の如く、痒い所に手が届かぬ憾(うら)みは免れないが、その内容は誠の立派なものと思う。向上の途上に於いて、自我の発揮する諸々の意識を、多くの階段に譬えての説明は大変にうまい。殊に同類の魂達の相互の共通性を説いている点は、幽明交通の実際に触れた人達の、何れも共鳴する点であろう。同一自我(本霊)から分かれた多くの類魂達の感応道交とは、私の所謂霊の中継放送である。我々の背後の守護霊の知識と能力には限度がある。が、これを中継として奥へ奥へと霊的調査の歩を進むる時に、しばしば偉大深遠なる啓示に接することが出来る。我々心霊学徒は、出来るだけその方面の開拓に当たらねばならない。それで初めて神秘の扉が開ける。二十世紀人は、単なる小主観の揣摩憶測的遊戯三昧には、モウうんざりしている。
マイヤースがインド僧達の空夢を説破している辺も甚だ痛快である。『物と心との分離を夢みる』所にインド思想の始末に行けない迷妄がある。日本人中にもその影響を受けて、生きて現世の穀潰しとなり、死して幽界の厄介者となっているものが中々多い。『単なる陶酔があるのみで経験がない』とは実に至言である。口では偉そうなことを述べても、さて実際の仕事にかけて何も出来ないのでは、どうとも致し方がないではないか!真の心霊主義者は、決してそんな邪道に陥ってはならない。活社会の活事業にどれだけの貢献を為し得るか-それで人間の値打ちは決まる。
第5章 色彩界-第四界-
第1節 『魂の人』-形像破毀
夢幻界にありては何れも皆一種のエーテル体を有っているが、肉体に比すればそれは遙かに稀薄精巧である。そしてもしも汝が理智的、道徳的に発達しているなら、汝はいつしか、もっと意識の階段を昇りたいという欲求に駆られる。稀にそっくりそのまま地上に再生して、現世の葛藤を経験するものも絶無とは言わないが、それは寧ろ例外である。地上に向かうのは、単に中心の上昇意識から分裂した断片であり、一念であるにしか過ぎない。
さて右の上昇意識がやがて帯びるのは、従来よりも更に一段精巧な一種のエーテル体で、そしてその入り行く先は、地球付属の上層エーテル界なのである。エーテルという文字は甚だ拙いが、他にこの地球の稀薄なる放射体に命ずべき適当な言葉がない。何卒エーテルとは物質の祖先、つまりその根源素であると記憶してもらいたい。
ところで『魂の人』が、主として形態に包まれて生活する間は、まだ他界の所属であると覚悟せねばならない。無論それにも多くの階級、多くの表現形式があり、それぞれのエーテル体は皆その振動数が異なる。そしてそれが精巧であればある程精神的、理智的の透覚が鋭く、従って一切の思索想像の大極、神につきての把握力が加わって来る。
夢幻界の彼岸にありては、無論汝は物的地球の根源である所の一つの世界に生活する。これを一言にして尽くせば、この物的地球は、精巧なエーテル体に包まれた、優秀な魂の所有者達が生活する、他の一つの美しき世界の模写、甚だ醜く燻(くすぶ)った模写、でしかない。諸君は地上の画家達が試みる傑作の模写が、いかに原作の魂を捕え得ないかを知るであろう。寸法は正しい。色彩も線も立派である。が、その中に溌剌(はつらつ)たる生命が宿っていないので、これに対する時に、妙に気色が悪くなるものである。物的地球はつまりそれである。非常に優れた原作の下手な模写に過ぎない。時とすればそれは妙に歪み、ひねくれ、時とすればただ朦朧たる輪郭を示すに過ぎない。その中に何の生気もない。真生命はその中に少しも現れていない。
私が今述べた微妙な内面の世界には、某所に種々雑多の形態を具えた存在物があるが、遺憾ながら、地上にその類例がないので、これを言葉に言い現すことが出来ない。但し顕幽の風物間には、そこに多少の類似点がある。例えば花がそれである。但し内面の世界の花は形も、色も、又光も到底地上のそれの比でない。物的波動の中には、とてもそんな色や光は含まれていない。我々としても、単に思想でこれを言い現し得るのみで、とても言葉を以っていかんともする事は出来ない。何となれば人間の言葉は、我々にとりて既に時代後れであり、廃語となっているから・・・・。
但し上の世界に住む魂にとりても、まだまだ努力精進の必要があり、又地上の悲とは違った悲、地上の歓びとは違った歓びを味わうの必要がある。その悲しみも、歓びも共に霊的精神的のもので、地上人には想像し得ないが、兎に角この二つの練磨によりて彼等はこの世界の上境に導かれるのである。
第2節 形態の聖化
霊魂が意識の階段を降りる代わりに、成るべく上方に昇ろうと心掛けるようになると、従来とは打って変わった新しい知覚、新しい能力が授けられる。
地上生活にありては、平凡人の平凡なる自我は、主として肉体の欲求によりて支配せられ、霊的の閃きは、極めて稀に人間の頭脳の闇を照らす位のものである。それが自我に与える印象たるや甚だ微弱である。ところが第四界となると、ずっと強烈に魂の深部に透徹する。何にしろその知能が地上の人間よりは遙かに鋭くなっているので、感受性も加わり、又精神統一の力量も増している。その間地上生活の記憶などはしばしば放擲(ほうてき)され、専ら新しき世界の生活に没頭する。無論魂がまだ形態を離れぬ間は、宇宙の律動に服するので、従って彼は或る形式の『時』の支配を受ける。即ち『時』と『形』とが一つの象徴(シンボル)となって彼を支配するのである。
一面から言うと、この色彩界は『形像の破毀』の時代ともいえる。意識のこの階段に於いて、彼は無数の経験の結果、あらゆる物体のいかに夢幻的であるかを知り、次第に形態の統制が上手になって来る。最初は形態によりて左右され勝ちであるが、次第に上魂の活用によりて、任意に自分の姿を破毀し、同時に又一切の周囲の形態から離脱することをも覚えて来る。
無論器量次第で、各自の経験には雲泥の相違があるのは言うまでもない。優秀な『魂の人』はどしどし向上進歩するが、多くの平凡人は、生みのうねりが高くも又低くもなるように、容易に目立った進歩は出来ない。しかしそれでも幾分ずつは前進する。
さて優れた『魂の人』が何より先に感ずるのは、自分の置かれた世界が、千万無量の色と、光と、音との不思議な世界であることである。そこには人体とは全然異なった形態が見出される。それは想像だも及ばないような光と色との合成体で、その輪郭は意識の深所に印象された、その人物の過去の行為によりて様々に違う。したがってそこには、世にも珍怪不思議を極めた姿もあれば、又世にも優婉(ゆうえん)美麗を極めた姿もある。醜の極、怪の極、美の極、麗の極、それは到底筆舌に尽くす限りでない。
この多彩の世界では、どの姿も皆極度の烈しさを以って振動している。これは心がそれ自身を直接形の上に現すからである。従って我々は、他人の思想を聴き取ることが出来る。最初は一時に一人だけだが、暫くすると、極めて分明に一時に多数の思想を聴き取り得る。或る意味に於いては、それは地上と同じく形態の世界であるが、ただこの形態の世界は、その規模が比較にならぬ程巨大であり、そしてこれを受け取る『魂の人』の性質次第で、いかようにも感ずる。慨して全ての物が、地上に比して遙かに流動性を帯び、非実体的である。
この多彩界を養う光と生命とは、地上のそれ等に比して遙かに純潔であり、その振動数も途方もなく迅い。従ってもしも『魂の人』が、強烈なる敵意を懐いて他を呪えば、光と色とで出来上がった相手の体は、或る程度壊滅もし兼ねない。なのでこの世界では、防衛光線を造る方法が講ぜられるのである。かつて現世生活中互いに憎み合ったりしたものが、もしもこの世界で会合したとすれば、必ず昔の憎念が呼び覚まされるので油断がならない。何となれば愛も憎しみも、共にその関係者を引き寄せる働きがあるからである。こうして各自は、永遠の綴織の中に、間断なくそれぞれ特殊の模様を織り込んで行く。
こんな次第で、各自はその世界に於いて、再び喜怒哀楽を経験するのであるが、無論地上の喜怒哀楽とは趣を異にする。それは一層精巧であり、又一層精神的であり、その欲求が大きければ大きい程、遂げられぬ時の失望も、又遂げた時の満足も共に比較にならぬ程強大である。
(評釈)私の所謂幽界生活の中堅ともいうべき境涯の模写である。説いて必ずしも尽くしているとは言い得ないが、心を潜めて玩味すれば、さすがに棄て難い箇所がある。この界の住人を光と色との合成体であると説き、他人の思想を聴き取ることが出来ると説くあたり、さすがに要領を得ていると思わせる。
第3節 第四界の知覚
以上説いた所は、ほんの超物質的生活の輪郭に過ぎない。詳しく言ったら、それは種々雑多の状態に分かれるのである。一例を挙げれば、ずっと上方に於いては、表現形式が幾通りにも分かれる。即ち一つの霊魂が沢山の姿を有っており、進むにつれて甲から乙へと移って行く。その間の消息は実に隠微を極め、よほどの超科学者でも、容易に真相は掴めない。ただそこには一つの動かすべからざる鉄則が厳守される。他なし汝が同一振動数の形態を有する者のみを感知し得る事である。故にもし異なる振動数の形態所有者と交通を試みようと思えば、自分自身を統一状態に導き、それと波長を合わせるより外に方法がない。そうしさえすれば、上の段とも下の段とも、臨時に交通が可能である。我々として下の方は冥府まで降りる。冥府の霧の中へ入って、そこで地上の人間とも接触するのである。これが為に我々は、しばしば地上人の夢の中に巻き込まれ、上層界に於ける経験の記憶を、一時喪失してしまうのは困ってしまう。よくよく調子の良い時でもなければ、興味ある、又有益な通信は送れない。我々は地上の記憶・・・、しかも往々他人の記憶の繭の中に包まれて、辛うじて平凡な事件を伝え得る位のことになる。それは丁度巣の内部で蜜に浸った蜜蜂が、半昏睡状態に陥ったのにそっくりである。
兎に角光明世界の居住者の近くはよほど鋭いものなのだが、残念ながら、その観念を地上人に伝える事は非常に困難である。幽界の住人からの発意的通信が少ないのも、主としてそれに原因する。大体地上人は、我々から観れば幽霊みたいなもので、よほどの信念と愛情を以って、真剣に求めてくれなければ、成る程と首肯されるような、はっきりした通信は送り得ない。念の為に断っておくが、地上の人間が確証を求むることは合法的である。これが為に他界の居住者の感情を害したり、苦悩を増させたりするようなことはない。
一体人間には、自分が一度も経験したことのない、新しい音、新しい色、又新しい感覚等を想像する力はない。従って我々が第四界で経験する無尽蔵の音も、色も、感覚も、人間には到底想像し得ない。地上の人間は半分眠って暮らすのである。人間が覚醒している時ですら、その意識には一分間に約四、五十回位の無意識の隙間が出来る。この点に於いて人間は、海峡の闇夜を照らす灯台にそっくりである。咫尺(しせき)を弁ぜぬ闇が海面を蔽うている。と、時に一閃の火光が大空を横切り、瞬間的に波間を照らす。人間の意識とは要するにそんなものらしく私には見える。肉体を棄て、意識の階段を上昇するに連れ、人間は次第に闇から脱出する。つまり光が一層強まり、且つ持続性を加えて来るのである。第四界に達すればもう随分明るい。無意識の間隙がずっと減少する。何となれば、その使用する機関が遙かに精妙の度を加え、又その智能の働きが遙かに敏活となり、かくて霊と魂、との結合が比較にならぬ程しっくりとなるからである。盲目の狗児(いぬころ)がそろそろ目が見え出すのである。私はもう一度闇夜の海面の譬喩を借りる。海面は殆ど間断なく灯台の光で照らされ、真っ暗闇の場面はもう滅多に見られないのである。光景一新という所である。従ってかの言葉と称する原始的な、粗末な音波を用いて、この比較にならぬ程鋭利俊敏な意識の世界に起こりつつある、千変万化の実相を伝える術もなかろうではないか!我々が経験しつつある活発々地の思念の強さ、激しさ-これに比すれば地上の人間の頭脳の緩慢なる運動、又現世的葛藤に臨みて巻き起こさるる粗雑な情熱などは、全然問題にならないのである。試みにナメクジやカタツムリの智的活動と、人間のそれとを比較してみるがよい。そうすれば大体第四界の精神的活動と、人間界のそれとの相違が判るであろう。
我々の空間に対する観念は、全然あなた方のそれとは違う。ここで無線電信の譬喩を持ってくれば、幾分かはその概念を獲られるであろう。我々はほんの一瞬精神を統一すればよい。そうすると我々の姿は忽ち出来上がり、そしてその姿は忽ち無限の空間を横切りて、自分と波長の合った友人の所へ現れる。距離の長短などは全然問題でない。そして我々はいとも容易に対話を交える。無論それは言葉でなくただ思想の対話なのである。会見が終わった時、又その姿から思念の生命(分霊)を抽出すれば姿は忽ち消える。無論こうした仕事の出来るのは、同一世界に属する住人間のみに限る。律動の合わないものとは、そう容易く仕事が運ばない。
私がこの念力の働きにつきての一小例を掲げたのは、我々がいかに一歩宇宙の大生命力に接近したかを示したく思ったからである。我々は次第にいかにして形態の内と外とに生くべきかを習得しつつある。我々は次第に念の流動性に気が付いて来つつある。我々はこの念が、いかに完全に一切の表現の培養素たるエネルギーと、生命力とを支配するかを理解している。
(評釈)前節で不充分と思われたところが、大分この一節で補充されている。念力のいかに不思議力を有っているかは、地上生活に於いても認知し得ないではないが、しかし念力の本場は、何と言っても死後の世界である。マイヤースのこれに関する説明は、ほぼ至れり尽くせりと言ってよかろう。なかんずく人間の意識をば、暗夜を照らす灯台に譬えたなどは非常に面白い。人間としては忌々しいが、しかしそれは確かに事実であろう。又霊界の居住者間に行われる通信法の説明も、非常に巧妙適切を極める。『死後愛する人達は同棲しますか』などという質問をしばしば受けるが、同棲と否とが他界にありて全然問題でないことは、この一節を味読すればすぐ氷解されるであろう。
第6章 類魂
第1節 意識の集団
類魂(グループ・ソール)はこれを単数と見れば単数、複数と見れば複数でもある。全てに共通する、『霊(スピリット)』の力によりて同系の『魂(ソール)』達が一つに集合するのである。これは多分前にも一度述べたと思うが、脳の中に幾つかの中心があると同一筆法で、心霊的生活に於いても又、一個の霊によりて結び付けられたる幾つかの魂があり、そしてそれ等の魂は、栄養素を右の霊から供給せられるのである。
私が地上生活をしていた時にも、私は勿論或る一つの類魂に属していた。が、自分以外の他の魂と、又全てを養う霊とは、悉く超物質の世界に置かれてあった。もし諸子が心から霊的進化の真相を掴もうとするならば、是非この類魂の原理を研究し、又理解してもらいたい。この類魂説を無視した時に、到底解釈し得ない難問題が沢山ある。なかんずく最大難件の一つは現世生活の不公平、不平等なことで、これは各自の生の出発点に於いて、既に宿命的に決められている。これを合理的に説明すべく、古来かの全部的再生説が唱えられていたのであるが、類魂説は更に一層合理的にこれを説明する。これによれば、現世生活は自分の生活であると同時に、又自分の生活でない。換言すれば、自分の前世とは、結局自分と同一系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事にもなるのである。
現在私の居住する超物質の世界には、無限に近い程の生活状態があるので、私はただ私が知っているだけしか説明出来ない。私は決して絶対に誤謬をせぬと言わないが、大体これから述べる所を一の定理と考えてもらいたいのである。
私は先に帰幽者を大別して『霊の人』『魂の人』及び『肉の人』の三つに分けたが、右の中『魂の人』となると、その大部分は再び現世生活を営もうとする所存は有たない。しかしながら彼等を支配する霊は、幾度でも自分自身を地上に出現せしめる。そしてこの霊が、上から同系の類魂達の結束を行なうので、霊的進化の各階段に置かれたる之等の魂達は、相互の間に盛んに反射作用を営むのである。かるが故に、私が霊的祖先と呼ぶのは、決して自分乃肉体的祖先のことでなく、実に同一霊によりて自分と結び付けられたる、魂の祖先の事を指すのである。同一霊の内に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、又千の場合もあり、その数は決して一定していない、各人各様である。仏教徒の所謂業(ごう)(羯磨(かつま))-あれはその通りに相違ないが、しかし大概は自分自身の前世の業ではなく、自分よりはずっと以前に地上生活を営み、そして自分の地上生活の模型を残してくれた、類魂の一つが作った業なのである。同じ筆法で、自分自身も又、自分の地上生活によりて、同系の他の魂に対しての模型を残すことになる。かくて我々は、何れも独立的存在であるが、同時に又、種々の界で連繋的に働いている所の、他の類魂の強烈なる影響を免れないのである。
仏教徒が唱導する再生輪廻説、あれは反面の真理しか述べていない。この反面の真理は、往々全体の誤謬よりも悪影響を及ぼすことがあるから警戒を要する。私自身は決して二度と再び地上に現れることはない。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上で制作した同一模型、羯磨の中に入ることになる。但し念の為に断っておくが、私の述べる模型は、仏教の所謂羯磨とは全然同一のものではないらしい。大体に於いて個々の魂は一大連邦所属の一王国と観ればよい。
私がかく述べると、論者或は言わん、『魂の人』にとりて一回の地上生活は充分でないと。が、我々がこちらの世界で進化を遂げる時に、我々は同一系統の魂達の記憶と、経験との中に入り込めるのである。我々は必ずしも自身で幾度も地上生活を繰り返さなくてもよい。
私はこの類魂説が、一般的通則として規定さるべきであるとは極言しまい。が、私が知れる限り、私が経験せる限りに於いて、それは断じて正確である。
それは兎に角、このスペキュレエション(諸子は恐らくそう呼ぶであろう)は、これを天才の場合に適用した時に甚だ興味が深い。我々よりも以前に地上に出現した魂達は、精神的にも又道徳的にも、自然我々に何等かの印象を与えるに相違ない。従ってある特殊の類魂の内部で、或る特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる。即ち幾つかの前世中に蓄積されたる一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となりて、一人の地上の代表者の所得となる。かの非凡な音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説以外に絶無ではないかと思う。
我々は死後の世界に於いて、次第に進歩を遂げれば遂げる程、一層この類魂の存在を自覚して来る。そして窮極に於いて、我々はその類魂の中に入ってしまい、仲間の経験を自己に吸収するのである。かるが故に、私の魂としての生活は当然二重である。即ち、一つは形の世界に於ける生活、他の一つは主観の世界に於ける生活である。
地上の人達は、私の提唱するこの類魂説を、直ぐには受け容れようとせぬかも知れぬ。彼等は恐らく死後の世界に於ける不壊の独自性に憧れるか、又は神の大生命の中に、一種の精神的気絶を遂げるのを理想とするか、大抵そうした傾向に出るであろう。ところが私の類魂説は、その中にこれ等一切の要素を含んでいる。我々は個性の所有者であると同時に、又全体の一員でもある。一部分であると同時に又全部分でもある。第四の世界(色彩界)から第五の世界(光焔界)に進むに従って、一つの存在の内面に於けるこの協調生活のいかに美しく、又いかに楽しきかがしみじみと判って来る。これによりて生命の深みと強さとは一段と加わり、これによりて地上生活に免れざる利己的精神-自己の物質的生命を維持する為には、間断なく他の物質的表現を破毀して行かねばならぬ、かの残忍酷薄性-からの解説が初めて実現する。
前にも一言した通り、第四の世界に到達した時に、各自は初めて類魂の真相が判りかけ、その結果ここに一大変化を遂げることになる。彼は一歩一歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際もしも彼が『魂の人(ソールマン)』であったとすれば、時としてとんでもない誤謬に陥り易い。これは非常に大切な問題であるから、詳しく説明を加えておく。彼が類魂達の智的並に情的の経験に通暁して来るのは結構であるが、時として類魂中の或る一部分に作りつけの雛型に逢着することがある。うっかりすると、彼はその雛形の中に嵌り込んでしまい、幾千萬年に至りて、一歩もその中から踏み出せない。右の『雛型』というのは、つまり地上生活中に築かれた宗教的信条と言ったような種類のもので、全ては迷信的空想が生み出した、単なる夢であり、幻であるから、勿論そこには何の進歩も発達もあり得ない。謂わば章魚(たこ)の触手に吸い付かれた形で、二進も三進も行かないのである。
かかる境涯が進歩の大敵であることは、ここに断るまでもないであろう。モウ一つ別な譬喩(たとえ)を引こうなら、それは一種の智的牢獄で、そこでは過去の地上の考が、金科玉條として墨守(ぼくしゅ)されているのである。向上の途に於ける魂達が、客観的にその境涯を考察するのは差し支えない。しかし断じてその中に引き留められたり、又拘束されたりしてはならない。
(評釈)マイヤースの通信中、この類魂の説明は特に重要無比の一節であるから、読者の精読を希望する。マイヤースも述べている通り、地上の人間生活にありて、何人も逢着する最大の疑問は、一見因果律を打破するような人間生活の不公平、不平等なことである。これを合理的に説明し得ざる哲学は、哲学としての価値がなく、これをきれいに解釈し得ざる宗教は、宗教としての役目を果たさない。なのでインド式の全部的再生説が提唱されたのでもあろうが、これには理論的にも、又実験的にも見逃し難き欠陥がある。同一の魂が再び胎児として母胎に宿り、下らない未成年期の二度の勤めを行なうということは、進化の法則違反であり、これを大自然の一般的法則と考える訳には行かない。又我々が霊媒を機関として他界を調査する時に、再生の為に籍を失ってしまったという実例にぶつからない。全部的再生説が総体の真理を掴んでいない証拠である。
なので全部再生説の反対論者は、今尚依然として『子供を創造するのは人間の父母だけの仕事である』と主張するのであるが、この父母万能説が、理論的に到底容認し難き欠陥を有していることは前述の通りで、その結果今日のような忘恩的、怨嗟的、自暴自棄的の危険思想の発生を促したのである。『誰も頼みもしないのに、こんな貧乏な家庭に自分を勝手に生みつけやがって・・・・』そう言った不平不満が現代の青年子女の精神的堕落の最大原因を為していることは確かで、そしてこれに対して、父母万能説は当然責任を負わねばならないのである。同時にこの説は、心霊実験の上からも確実に否定し得るのである。新時代の指導原理を以って任ずるものは、いまさら何の暇ありて、そんな非論理的、非科学的、又非道徳的な主張に未練を残していられよう。
不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。それは事実全部的再生説に訂正を加えたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実を言うと必ずしもこの文字を使わなくともよい。寧ろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかも知れない。私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体-所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂-所謂分霊は沢山あり、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。これ等の分霊中、普通地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い或る一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。即ち守護霊というのは、多くの分霊中の最も親密な一代表者を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動的関係にあることは言うまでもない・・・・。
以上が私の『創造的再生説』の梗概(こうがい)であるが、今マイヤースの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。ここに一個の中心の霊があり、それから幾つかの魂が分かれて、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。霊的進化の各階段に置かれたるこれ等の魂達の間には反射作用が行われ、謂わば連帯責任を有っているのである。なかんずくそれ等の類魂の中で、自分と最も関係の深い魂-霊的祖先がある。『自分の前世とは結局自分と同系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事になる・・・』マイヤースはそう説いている。
マイヤースは『守護霊』という文字を特に使用していないが、私の所謂守護霊説の内容は、マイヤースも立派にこれを認めている。自分の地上生活の模型を残し、自分の作った前世の業を伝えている類魂の一つ-これが私の守護霊以外の何者であり得よう。
私は無論マイヤースと同じく、この『創造的再生説』に固執するものではない。理論的又実験的にこれを打破し得るものがあったら、いつでも歓んでこれを撤回するに躊躇するものでない。殊にその名称などは、よりよきものが見つかり次第、いつでもそれに改めてよいと思っている。しかしながら、今日こうしてマイヤースの類魂説を紹介するにつけても、この説が恐らく今後人間界の定説となるのではないかと考えられる。
第7章 光焔界-第五界-
第1節 第五界への誕生
第四界の居住者が、やがて死の準備にとりかかる時期が来る。この死は人間の死とは全然違う。進化のこの道程に達した魂は、既に形態、外貌、幻像等の完全なる支配権を有っている。しかし支配権だけではまだ足りない。モウ一つ上の階段に進もうとするには、そこに一つの解脱が要る。外でもないそれは『形態の破毀』と称する、面倒な過程を首尾よく通過することである。ここでいよいよ外貌、形態、色彩、感情等への永の訣別を告げる。つまりそれ等のものが必需品として、又生活条件として、存在の価値を失うのである。
魂はここで又もや無意識状態に陥る。かくていよいよ第五界に誕生した時には、姿に包まれていた時代の性質の一部は同時に消え去っている。
一体全ての界の中間には、必ず一の沈黙時代、湮滅(いんめつ)時代がある。古代人はこれを冥府(ヘーズ)と呼んでいた。ここで魂は暫く中憩をやる。が、次第次第にその意識が回復し、底光する永遠の海の上に、過去の各界に於ける自己の一切の経験、自己の閲歴の骨子を為せる一切の光景が、歴々と写し出されて来る。彼は自己の有する統一原理、自己の霊(スピリット)の光で一々これを点検する。すると、その人の天分次第で、智的並に情的の種々の欲求がむらむらと浮いて来る。彼はその時、上昇か下降か、二つの中その一つを選ばねばならなくなる。つまり彼の霊が上からこれを促すのである。この際全ては前世に於ける経験の多寡によりて決まる。彼は絶対の意思の自由を許される。が、無理をすることは出来ない。止むに止まれぬ絶対必要の一途を選ばねばならない。『肉の人』ならば、夢幻界の入り口で、再び物質世界に下降するを常とする。又『魂の人』ならば、色彩界の入り口に達した時に、しばしば夢幻的形態の第一部に降るのもある。
しかしながら、もしも過去世の検閲が幸に満足すべきものであってくれれば、彼は意を決して第五界に上昇する。すると俄然として周囲の静寂が破れる。全てを包む猛烈なる心霊的暴風雨の中に、彼の色彩と形態とに対する欲求が微塵に砕かれ、そして同時に自分自身のある部分をも、一時放擲(ほうてき)することになる。但し一層完成した第六界に達すれば、その放擲されたる部分は再び自己に戻って来る。
(評釈)ここに至りて、地上の人間の想像はそろそろ貧弱を感ずる。何の形態も色彩も、又感情もない生活は、文字の上で理解が出来るとしても、実質的にはちょっと見当がとれ難い。マイヤースは自己の体験から、しきりにその真相を伝えようとしているらしいが、これだけの推薦では、殆ど何物をも我等に教えない。恐らくこれは何人にも至難の業であろう。
第2節 第五界の象徴
『生命の書』を書くのには、各章毎に多少の象徴法を採用する必要がある。なので自分は『光焔』の一語をこの第五界の表現に使用した。ここで魂は独り自己のみならず、その属する類魂の全てに通暁する。彼はやはり彼であるが、同時に又その他の全てでもある。彼は、最早人間の想像するような形の内には生活しない。が、彼は依然として一の輪郭の内に生活する。その輪郭はその所属の類魂の過去の一切の思想、感情等によりて作られるもので、言わばこの大集団を動かすところの大火焔である。
この第五界に住む時に、その経験はいかにも雑多であり、いかにも複合性を帯びているので、或る意味に於いては、何やら統一性を失ったようにも見える。彼の生活は言わば燃える火の生活である。絶大なる智情の飛躍もあれば、無限の自由と甚大なる不自由の交錯もあり、そして無辺際なる、種々の水平線の瞥見も伴い、要するに彼にとりて最も厳格なる訓練の時代である。思索の悩み、想像の呻き-ドウやら自己の心は存分に活動する暇なく、他の類魂達の烈しき生活の情熱が、その全身に燃え移ると言った生活。-要するに彼はかくして層一層、その統一原理たる霊(スピリット)の活動の中に近付きつつあるのである。
兎に角今までに全く類例のない、猛烈な幸福、歓喜、悲哀、絶望の感じが、彼の生命の中に注ぎ込まれて来るのであるが、それにも係わらず、彼は依然としてそれから離れている。彼は決してこの激越性の嵐の中に巻き込まれはしない。要するに彼はその嵐を自覚しているが、しかしその上を乗り切っていると言った状態である。
この意識の第五階段に於いて、魂は連続的に自覚している。そこには何の間隙も休息もない。彼は意識の諸々の階段に居住する類魂達の智情両面の生活に接触して、その苦楽に浸るのである。そしてその最高潮に達した時には、自我の出発点たる本霊の境域に迫りて、その光明に浴することも出来る。さればとて彼は決して自己の独立を失った訳ではない。彼は或る意味に於いて、自己の傑作の醍醐味に浸る所の独りの芸術家である。次第に進展し、変化する創作の新鮮味の中に、到底筆舌に絶する、かの一種不可思議なる至楽境を見出して、無上の幸福を満喫するのである。これは真の創造的天才者が、極めて微弱ながらも、その地上生活中に、時として味わうことの出来る境地である。
この第五界の境涯は人間の心を以ってして、よく想像は出来ても、到底如実に把握し得る状態ではない。ここに至りて自己の存在の意義が、初めてはっきりと腑に落ちる。神、宇宙、人生-その真面目が何やら彷彿として判りかけて来る。が、最後の神秘の解決は依然として一の宿題として前途に残される。
兎に角この第五界は、或る面白からぬ一面を有ちつつも、実に素晴らしい存在である。が、『魂の人』は容易にこの世界を後にして、第六界へと前進することは出来ない。それは彼一人の問題ではない。他の類魂が肩を並べて意識の同一水準線に達するまで、そこに待たねばならない。何となれば、それが永遠の織物に編み込まれるべき模様の完成を意味するからである。そうしておりながらも、彼は同系の他の幼稚な魂達-自分よりも遙かに濃密な物質に宿りて経験を積みつつある類魂-の情的生活に通暁する。これを要するに彼は自己を養い、自己を導く統一原理-本霊-の直属の全生活と密接不離の関係に置かれる。その関係は独り人間には限らない、同一系統の世界に属する一切の花、虫、鳥、獣その他の潜在生活とも共鳴するのである。
(評釈)私が言ったら、マイヤースの第五界は幽界の上層を指しているものと考えられる。この境涯の魂は地上に免れざる利己主義、個人主義からの、全部的解放を以って眼目としているらしく見える。それが日本神道の所謂和魂の大成であろう。枝葉の点に疑問は免れないが、大体に於いて首肯される説明振りである。なかんずくこの世界の居住者が、自分よりも進化の後方を歩みつつある類魂の情生活に通暁するということは、私の交霊実験の結果から見て、特に興味深く感ずる。これは蓋(けだ)し『生』の問題を合理的に説明すべき大切な鍵ではあるまいかと思う。
第3節 類魂の組織
類魂の組織構造は、是非共これを明瞭に理解しておくべきである。類魂の統轄体たる『霊(スピリット)』が、生命と光明とを賦与するものは、進化の様々の階級に置かれたる、各種各様の生物である。その代表的なものを挙げれば、草木、花、鳥、虫、魚、獣、並に人間の男女などである。つまり本霊はたった一つで、様々の世界、様々の意識の階段に於ける魂達を養うのである。尚本霊の威力は他の天体の生物にも延びる。何となれば霊としては、ありとあらゆる形式に於ける、無尽蔵の経験を積まねばならぬからである。これ等の魂達は次第次第に進化し、そして最後に融合する。目的の完成は、所属の一切の魂達がこの第五界に達した時である。かくていよいよ彼等全てが、個性即全性、差別即平等の実相に徹底したとなれば、彼等は直ちに第六界に前進する資格が出来る。その時こそ一切の紐の断れる時、一切の心の糟粕(かす)の放棄せらるる時で、所属の魂達の間に思い切った淘汰改易が行なわれる。彼等は肩を並べて再び冥府入りをやる。そしてその状態に於いて、後に見棄てた過去の閲歴の全てを回顧点検する。
(評釈)マイヤースはあくまで『霊(スピリット)』の一語で押し通しているが、とりも直さず、それは私の所謂自然霊の一つ、日本の神道で言えば地の経綸に当たる神々の一柱である。日本神話の天孫降臨なども、この見解に基づく時に初めてその真義が判って来る。枝葉の点につきての疑問は別として、私はこの見解一つでも、マイヤースの霊界通信が容易ならぬ価値を有っていると思う。
第8章 光明界-第六界-
第1節 純粋理性
光は多くの色から成立するが、しかし無色である。霊(スピリット)は多くの魂から成立するが、しかし喜怒哀楽の心の模様の上に超越している。かかるが故に、霊は当然白色を以ってその象徴とする所の第六界に属する。
意識のこの階段に於いて、最も勢力あるは純粋理性である。人間界に知られている情緒煩悩等は、ここには影も形もない。白色こそは、完全に均整の保たれたる純理の表現である。この最終の経験の要領に入り行く魂達は、悉くこの均整の所有者である。彼等には形態上の智慧、その他無尽蔵の秘密の智慧が備わっているが、そは偏に不自由なる境涯の下に、幾回となく地上生活を繰り返し、幾千萬年かに亘る多大の星霜を閲して後、初めて獲得された経験の集積なのである。彼等は善と悪との知識と共に又善悪を超越した、彼岸の知識をも具えている。彼等は勝利者なるが故に、正に人生の君主である。彼等は今や何等の形態をも必要としない。彼等は単なる白光として存在することが出来る。彼等はいよいよ神霊の域に到達したのである。
この第六界の存在の目的は、一神即多神、一霊即多魂の統一同化の完成であるといえる。いよいよこの目的が達成されたとなれば、個々の生命を包含せる霊は、首尾よく彼岸の神秘の中に歩み入り、以って人生窮極の目的たる無上智の進化を成就する。
(評釈)ここに至りてマイヤースの通信は、結局深遠なる東洋思想とぴったり一致してしまっている。霊界通信もここまで来れば、全く見上げたものと思う。この際心ある人士の甚深なる反省考慮を希望して止まぬ。世界の神国を以って自任する日本の思想信仰界は、あまりにも低級卑俗、同時にあまりにも非論理的、非科学的の空言浮辞に耽り過ぎてはいないかと思う。
第9章 超越界-第七界-
第1節 神的実在の一部
ここで再び上昇か下降かの選択の必要が起こる。第六界の上層に達した魂が果たして大飛躍をなすの準備があるか。果たして『時』の世界から『無時』の世界へ、『形』の存在から『無形』の存在へ移り行く準備があるか。これは実に一切の問題の中で、最も困難なる問題である。初めてこの難問題に直面した時、よく肯定的答案を与ふべき準備ある魂は、真に数える程しかない。
私はこの第七界が、『有形から無形への通路』であると言ったが、しかしこの『無形』の意味を曲解してはならない。私の所謂無形とは、形態を以ってそれ自身を表現する必要のない存在の意義である、と解釈してもらいたい。兎に角第七界に入る魂こそは、真の彼岸に入るのである。彼は神、宇宙の本体と一体になるのである。
但し宇宙の本体との合同は、決して寂滅を意味する事と考えてはならない。汝は依然として独立的存在である。汝は言わば大海の一波浪である。汝は漸く実在の中に歩み入りて、あらゆる外形の迷を放棄したのである。が、汝の霊には、物質界並にエーテル界に於ける、永い永い経験の結果として、或る不可知の要素が加味されている。そればかりは何物にもかえられず、又何事を以ってしても滅ぼし得ない、一の貴い特質である。
事実、第六界から第七界への進入は、物的宇宙からの脱出である。汝は独り『時』の流れの外に脱出したのみならず、又宇宙の最後の物的存在からの脱出でもある。が、或る意味に於いて、汝は依然として宇宙の内部に留まっている。汝は全体の一部、換言すれば神の一部として、丁度太陽のような働きをしている。汝の光は物的宇宙の瀰漫するが、しかし汝の霊は、完全に物質から離脱して、永遠の大霊の中に君臨している。宇宙に即して、しかも宇宙と離脱するということが、恐らく人生一切の努力の最終の目標であるらしい。
私は今極度に切り詰めた言葉で、永劫の時の中に起こる人生を描き、かの不可思議なる『無時』の観念を伝えるべく試みた。もしも汝が神的実在の一部として、一旦彼岸に歩み入ったとすれば、汝は神の想像の全部に通暁する。汝は一秒時として無自覚でいることなく、地球の歴史の一切は、悉く汝の意識の中に入る。同様に汝は一切の天体の歴史にも通暁する。宇宙の萬有は、全部汝の偉大なる想像の中に包含される。過去、現在、未来、あるもの、あったもの、あるべきもの-これを要するに生命の全体が、永遠無窮に汝の薬籠中のものとなる。
真の彼岸、真の超越界は到底筆舌に絶する。これを書こうとするさえ、傷心の種子である。
『召さるるものは多く、選ばれるものは少ない』-これは実に至言である。地球生命の存続中に、彼岸に到達するものは極めて少数である。ある一群の魂達はよく第六界に達するが、多くはそこがとまりである。その中特殊の使命を帯びて、物質の世界に降るものもある。要するに『無時』の彼岸に歩み入るには、彼等は尚無力であり、不完全なのである。
(評釈)ここに至りてマイヤースの通信は、いよいよ大飛躍を試みている。私の訳筆は成るべく一字一句をありのままに伝えるべく努めたので、自然読みにくい所が出来たかと思うが、玩味されたなら、彼の言わんとする所は、ほぼ推測に難しくないと思う。私としては、この際わざと蛇足的説明を控える。
第10章 宇宙
仏教徒は宇宙を夢幻視し、泡沫視する。成る程その中に張り詰めてある蜘蛛網に引っ掛かり、その中の全てを支配する法則に拘束され、その中に充ち充ちている物質、又は超物質的エーテル体に制御せられている間は、宇宙は夢幻的であり、非真実的であるに相違ない。
夢幻は虚偽を意味し、欺瞞を意味する。魂がそれ自身を何等かの形態の中に表現する以上、当然その形態の為に拘束されない訳には行かぬ。彼は形態の牢獄の中に監禁された囚人である。従って到底真理は掴み得ない。私が挙げた七大世界の中で、最初の五つの世界は、結局形態の世界であるから、その視界は勿論局限されている。丁度目隠しを施された馬と同じく、彼は自己の環境につきて、極めて不完全なる観念を有するに過ぎない。自分の前面に展開されたる、特殊の道路しか見えないという所に、非真実性の主因が存する。仏教徒が宇宙を夢幻視するのは、或る意味に於いては全く正しいと言える。
しかしながら涅槃の中に入りて寂滅を遂げるのが、それが人生至高の目標であると主張するのは当たらない。少なくとも、その主張には危険が伴っている。釈迦の真意もそこにはないらしく思われる節がないではない。彼は宇宙からの離脱、換言すれば宇宙の非真実性から離脱した、無条件の存在を以って目標としているらしい。
事実、我々が第七界に於いて、大本源の無上意思と一体となった時にのみ、初めて宇宙の真実性を悟り得るのである。宇宙が魂(ソール)を拘束し、霊(スピリット)を拘束している間は、宇宙の真実性は判らない。首尾よくその拘束から離脱して、純粋叡智の絶対自由の中に住するに及びて、初めてその真実性を悟り得る。
一旦その境涯に到達したとなれば、我々は全体としての宇宙の真面目が掴めるのである。隠の極、現の極、小の極、大の極、一切の見透しがつく。全体的観念と同時に、局部的経綸が判って来る。その時我々は一の預言者でもあれば、又一の賛美者でもある。全ての生命、全ての経験は自家の所有に帰する。物的宇宙も真実であるが、同時にその奥に控えている他の反面-心的宇宙も又真実であることが判る。我々は決して寂滅に帰したのではない。我々はただ全体的調和の中に自我性を没却したまでである。我々は神の創造の賛美者たる資格に於いて、依然として個性を有っている。
我々は物的宇宙の局部的経綸に当たる所の、無数の霊達から、大小一切の相(すがた)につきての完全なる印象を受ける。かかるが故に、我々は初めて真正の意義に於いて生きているのであって、断じて涅槃的失神状態に捕えられてはいない。我々は現在の宇宙の破壊、創造、生命、寂滅-これを要するに、永遠に亘りて行なわれる一切の宇宙の経綸につきての瞑想の中に、世にも活発なる生活を享受しつつあるのである。諸子は『宇宙』という言葉の中に含まれる、二次的存在を忘れてはならない。その会得さえ出来れば初めて生命の真義が掴める。
宇宙には物的原子と同時に、心霊的原子がある。心霊的原子は物的原子の内にも、又外にも存在して、生命の種々相を造る。物的原子がどこまで微細に赴いても、その中には必ず心霊的原子が宿りて、これを左右する力を有っている。最後にこの心霊的原子は、物的原子から脱出して、宇宙の大本体の中に帰するが、これは決して滅亡を意味しない。それは一にして同時に多、全体にして同時に個体なのである。
かかるが故に、宇宙が夢幻的であるというのは、結局汝が宇宙の張り詰めている蜘蛛網、形態の中に捕われている事を意味する。一旦これ等の遮蔽物の外に超脱しさえすれば、宇宙は徹頭徹尾真実性を有っているのである。
(評釈)ステッドの通信中に、こんなことが書いてある。『私達は現在欧州に起こりつつある、諸々の運動を観望しているが、それは丁度芝居を見物する気持である。幽界から観て初めて事物の真相が判る。事件の起こりは、常に大衆の動きであって、故人の働きではない。運動の頂辺に立つ人達は、全然周囲の事情によりて左右され、その他の群衆に比して、格別善くもなければ又悪くもない。ただ一層目立つだけのことである。天下公共の仕事に於いて、全部の人間は自分以外の或る力-先天的に人類に具えつけられている、或る力と考えとによりて、勝手にこき使われる操り人形に過ぎない・・・』これは現世の楽屋ともいうべき幽界から、欧州の国家社会の動向を覗いて見た感じであるが、もし我々が宇宙最奥の楽屋-マイヤースの所謂第七界に歩み入れて、座附の脚本作者である神と一体となり、以って宇宙の内部を覗いて見たとしたら、恐らく同様の感を催すに相違ないであろう。踊る訳者も、それを観ながら泣いたり笑ったりする見物人も、共に皆脚本作者の方寸の裡から湧き出でた操人形、夢幻といえば夢幻であるが、真実といえば真実である。マイヤースの説明は、ほぼその間の消息を伝え得て遺憾なきに近いと思う。
第11章 光焔界から
この通信の発送人たる一個の死者、取りも直さずかくいう私は、二十世紀の初に地上生活と離れてから後も、引き続いて人間界との接触を失うことなく、歩一歩科学の発達を辿り、世界大戦の推移を極め、以って最近の世界的経済戦にまで及んでいる。彼は地上生活を送っている生身の知己、友人の内部意識と連絡を保っているお蔭で、地上の人類の精神上の変化に通暁している。彼は十九世紀人士が物的生活に満足していたに反し、最近の二十世紀人士が、超現象世界の確実なる認識を、心から求めていることを知っている。悲しい哉地上の人間の魂は、極めて稀なる機会に於いてのみ、他界との接触に成功することが出来る。彼等の到達し得る最高の入神状態と言ったところで、多寡が知れている。これを補充するにはやはり、他界の居住者からの指教に待たねばならぬ。私は夢幻の世界を後に、現在漸く色彩の世界に突入したに過ぎないが、しかしそこから覗けば、どうやら人類進化の最後の目標-超越界の真相までも判る。同時に我々は、心掛け次第で、下方は地の世界にまで降り、自分を愛する人達又は精神的に自分と共鳴する人達と、立派に交通を試みることが出来る。
こんな次第で、我々は、現在地上の人達を悩ましつつある不思議な不安の原因と、その不安の背後に秘められたる目的とをよく知っている。かかる不安が地の世界を襲っているのは、決して偶然ではない。そこには厳然たる必要、確乎たる目的があるのである。
私が今こちらの世界からこうして通信を送るのも、結局生前死後に亘りて、人間の踏みて行くべき大道につきて、何等かの暗示を与えたい微衷に外ならぬ。
(評釈)現代の世界人類を悩ます大きな不安-その原因並に目的の発見が、実に現在地上の人類に課せられたる大々的宿題である。我々心霊学徒からいえば、その解決の鍵は、手近に転がっていると思われる。外でもない、それは『人間の視野の拡大』である。マイヤースの通信も、詮ずる所これを説いているに過ぎない。ところが現代人の大多数は、今尚成るべく眼を瞑って物質界以外を見まいとする。これでは永久にこの大々的不安の除かるるよしもない。
見よ洋の東西に於いて、最近しきりに提唱さるる大小の打開策を、曰く平価切り下げ、曰く金輸出禁止、曰く軍縮会議、曰く外交工作、曰く不戦条約、曰く何々・・・。あえて無用というではないが、惜しい哉その視野は、何れも物質的現象世界に限られている。これでは到底根本的なる局面の打開は出来ない。何となれば地上の物質界は、決してそれだけで独立した存在でなく、そこに起こる所の大小無数の出来事は、悉く超現象的内面の世界から操縦されているからである。マイヤースの述べている通り、かかる不安が地の世界を襲っているのは、決して偶然ではなく、そこには厳然たる必要、確乎たる目的があるのである。
かく考える時に、現代の不安を除かうと思えば、先ずイの一番に人間の視野を超現象の世界、換言すれば霊の世界、神の世界にまで広げねばならぬことは、火をみるよりも明らかである。ここに心霊科学の研究の必要が起こる。全ては心霊科学の研究が開始されてからの話で、それ以前の千の工夫、萬の計画も、到底徹底的打開策とはなり得ないであろう。
霊とか神とかいえば現代人の大多数は二の足を踏むが、これは主として既成宗教者流、又霊術者流の罪である。彼等の多くは、学術的素養もなければ、又純真なる心情の所有者でもなく、神とか霊とかいうものを、単にペテン、ゴマカシの材料に使った。その弊害たるや実に大きい。現に日本国内には、今尚そうした弊風が盛んに行なわれて、識者をして愛想を尽かさしめている。神や霊が無いのでもなければ、又神や霊が悪いのでもない。これで飯を喰っている職業的宗教者流、霊術者流が悪いのである。
この多年の弊害を打破し、純学術的基礎の上に立ちて、超現象世界の探究を進めつつあるのが実に近代心霊研究で、今日に於いては既に立派な一の学問となっている。これでこそ、人類は初めて迷信の弊害から完全に脱却し得ると同時に、又健全なる思想、信仰の樹立を期する事も出来るというものである。要するに現代世界の不安は、世界の人類が心霊事実に気が付かず、たとえ気が付いても、目前の小利小害に引きづられて、愚図愚図煮え切れない態度を持している為に外ならぬ。諸外国は兎に角、肝腎な日本国民の自覚は、果たして何の日に来るであろうか?
第12章 死の真相
死につきての感想は、我々のような他界の居住者・・・しばしば或る方法を以って地上に戻りこそすれ、最早すっかり地上からは籍を削られてしまっている、我々別世界の旅人と、今尚地上に生活しつつある人間との間には、そこに当然或る程度の隔たりがあるに相違ない。我々にとりて、死は単なる偶発的一事象・・・いささか懐かしみはあれど、別に辛くも悲しくもない、単なる人生の一挿話でしかない。しかしながら地上の人間には、恐らく死は永遠の世界への道中に於ける、一夜の宿りとも感ぜられるに相違ない。
その一夜の宿りに対する感想は、人によって決して同一ではないであろう。或人には熱に浮かされた輾転反側(てんてんはんそく)の一夜であり、他の人にはひっきりなしに悪夢に襲われる恐怖と不安の一夜であろう。そうかと思えば、又他の人には、すやすやと心地よき熱睡の一夜でもあろう。が、兎に角、この宿りには、本来静止と安息とがいつもつきもので、最後は何人も皆、そうした空気の中に誘い込まれる。但しその状態は決して永続はしない。肉体を離れた魂には、やがて新しい朝が明けるのである。そしてその身辺には、必ず彼と因縁のある他界の住人、つまり彼の宿命の模様の中に織り込まれている、大小、新旧、善悪、美醜、様々の霊魂達が見出されるのである。
さて私としては、進んで死の問題の政究に入るに先立ち、是非ともここで従来思想の混線の種子であった、一つの言葉の意義を明らかにしておきたい。外でもない、それはディスカアネエト・ビーイング(肉体から離脱したる者)という文字である。これは単に肉体からの離脱を意味するものであって、決して一切の形体からの離脱を意味するものでないことを承知してもらいたい。何となれば、彼岸の旅客が第六界に達するまでは、彼は必ず何等かの形体、何等かの自己表現機関を使用するからである。
これ等の形態は、細別すれば非常に多種多様であるが、我々の当面の問題としては、ここにただ四種類だけを挙げれば事足りると思う。即ち-
(一)複体(ダブル)-統一作用を営むところの一の媒体で、普通はこれをアストラル・ボディと呼ぶが、自分としてはこの名称を用いたい。
(二)幽体(エセリックボディ)
(三)光体(シェーブオブライト)又は本体(セレステイアルボディ)
最後の二つは、上層の世界に於ける魂の有するもので、観念次第、意思次第で、その形態は千変万化する。
ところで、諸子は既に他界の居住者達の通信によりて、『死』の秘密は、結局自己の纏える外被の振動する速度の中に見出されることを知っておられると思う。地上の人間は、何によりて自己の環境を知り得るか?他なし彼の肉体が、或る特殊の速度で振動しているからである。試みに汝の肉体の振動速度を変えてみるがよい。その瞬間に大地も、男も、女も、その他一切の物体も、全部汝の視界から消失し、同時に汝自身も又彼等の視界から消失する。かるが故に死とは、単に振動速度の変化である。従ってこの変化を遂げるが為には、一時的の中断又は休止が必要である。何となれば、魂は或る一定の振動数で動いている一つの体から、異なれる振動数で動いている他の一つの体に移るの準備をせねばならぬから・・・。
言うまでもなく、新生活の移動には、何等急激の飛躍、急転直下式の変動を必要としないのであって、従って、是非ともそこには一の中間地帯が設けられて然るべきである。その中間地帯こそ、前にも述べた通り、かの所謂冥府(ヘーズ)の生活なのである。キリストでさえもが、無論この境涯を経ている。
ここで我々は第一の疑問に逢着する。医師が既に臨終を宣告し、そして近親の人達が、変わり果てたる遺骸の傍で、故人のありし日の面影を偲びて、哀悼の涙にむせびつつある時、死者の魂は一体いかなる形態をとりて、自分自身を表現しつつあるか?あれほど親しかった、あれほど懐かしかった魂が、そのまま消滅してしまうとは、どうしても信ぜられない。何人も本能的に、どうしてもこれが万事の終わり、一切の結末とは考えたくないのであるが、実際又それが正しい直覚なのである。
人間は地上の全生活中、既に複体なるものを携帯していたのである。この複体こそは、奥深き内部精神と、物質的脳髄との連絡機関であって、非常に大切な役目を有っている。汝が眠りに落ちる時、汝の意識は最早少しも汝の肉体を支配しなくなる。これは一時的の休止と言わんよりも、寧ろ全部的の断滅と言った方が当たっている位である。何故に然るか?他なし睡眠中汝の魂が肉体を離れて、複体の内部に移っているからである。肉体はこの間に生命の維持に必要なるエネルギー、つまり生命素ともいうべきものの補給を受ける。そうした事実は昔の人達にも天然自然に判っていた。古来睡眠は飲食物以上に大切であるとされているが、それは正にその通りに相違ないのである。
自分は今人間生活のこの境地につきて、詳述を試むべき余白を有たぬが、兎に角諸子としては、この複体なるものが、もしこれを可視状態に導くことが出来れば、外形的に全然肉体と符合するものであることを承知してもらいたい。そして複体と肉体とは沢山の細い紐と、二條の銀色の紐とを以って互いに結び付けられている。右の二條の紐の中一つは下腹部に、他の一つは脳に連係されているが、それは驚くべき弾力性に富んでいるので、睡眠中にいくらでも必要に応じて延長する。これ等大小の紐は、人が静かに死する場合には、極めておもむろに切断され、そしていよいよ重大なる二本の紐が、下腹部と脳との連絡を失う時こそ、とりも直さずそれが死なのである。
魂が肉体から逃れた後にも、時として生命が、体内の一部の細胞内に留まることのあるのは、周知の事実である。この現象はいつも医学者にとりて難問題であるが、しかしこちらからいえば、その説明は頗る簡単である。即ち紐の一部が切断されぬ為に、複体が肉体から完全に離脱し得ないのである。魂はこの途中の引っ掛かりの為に、少しも肉体的には苦しまない。ただその間肉体の周囲の事物が識別されるので、精神的には多少苦悶を免れないかも知れない。何となれば、枕辺に泣き悲しむ親族や、友人の姿をば、虚心で見ることが出来ないであろうから・・・。が、一般的通則としては、一時間乃至二、三時間にして、魂は地上の把握からの完全なる離脱を遂げるのである。
諸子が死者の枕辺に見守る時、諸子は少しも肉体から離脱直後の魂の安否につきて、懸念するには及ばない。何となればその時分に、魂は普通半睡眠状態にあるからである。かの一切の心身の苦悩、かの一切の悪夢幻想等は、魂が複体への移動以前に起こる現象である。死の瞬間に於いては、急激なる変死の場合等は例外として、その意識は通例平静なのである。それは朦朧たる一種の安息である。そして時とすれば、自分に先立ちて帰幽した親しき友人親戚の面影に接するのである。
いうまでもなく、死後の境涯は人によりて驚くべき相違がある。一生の間にただの一度も心から他を愛した経験の無いものは、冷たき自己の残骸から離れると同時に、孤影悄然として、地上のそれとは比較し難き、濃厚にして鈍重なる闇の世界に滑り込むのである。
さりながら、このような絶対的孤独は、極めて少数の人物にのみ適用される。よくよくの利己主義者、又は残忍性の所有者は、この極刑に処せられるであろうが、しかしそれは何れも、比類稀なる人非人にのみ限られる。
普通の男子も女子も、その死に際して、何等の苦痛を味わわぬが通則である。彼等は既にその肉体からすっかり分離しているので、肉体はいかにも苦しみ、悩んでいるらしく見えても、本人の魂そのものは、単に睡気に襲われるのみで、風に漂う鳥と同じく、右に左に、西に東に、ただ当てもなく、うつらうつら漂蕩するような感じである。
今まで病床にありて、散々呻吟を続けた後で、この半醒半夢の状態は、寧ろ一種の慰安、一種の休養でさえもある。かるが故に死者の外面的苦悩に対して悲しむ必要は少しもない。彼は既に完全に苦しみから免れ、見ゆる世界と、見えざる世界との中間に羽ばたきをしながら、言うに言われぬ一種の満足-心の平静と新たなる知覚とに恵まれた、一種の快感に浸っているのである。
かくして魂はやがてすっかり複体の中に収まり、少時の間は物質的遺骸の上に彷徨する。その内人間はきっとこの瞬間の模様を、写真に撮ることが出来るようになるであろう。それは乾板の上に一片の白い雲、蒼白きエッセンスとして記録されるであろう。機械的には、いかにそれが発達しても、到底それ以上に帰幽者の姿を捕える力はないであろうが、勿論我々他界の居住者には、もっとはっきりその姿が判る。そして通例彼の身辺には、出迎えの友人や親戚等が打ち集っている。
(評釈)格別これはと取り立てて言う程、斬新卓抜な材料もないが、しかし簡単な叙述の中に、かくも死の前後の真相を伝えているのは流石と思われる。マイヤースはここでもディスカアネエト・ビーイングの文字を捕えて、心と物との不離の関係を説いているが、これは誠に初学者に対して、親切な心遣いである。霊(スピリット)というような文字に捕えられて、今尚多くの人々が、死後の世界をばひたすら抽象的、又平等的に取り扱わんとする傾向を免れないが、これは心霊問題を取り扱うものにとりて、真っ先に注意すべき事柄である。この幼稚な勘違いの為に、いかに多くの無益の論争が続けられて来たことであろう。
さてマイヤースは、超物質的エーテル体をば、複体、幽体、霊体、光体の四種類に大別しているが、内容からいえば、全然私の意見と一致していると言ってよい。ただ私としては、複体が要するに一の中間的存在で、それ自身独立せる機関でないところから、これを肉体又幽体の付属として取り扱い、強いて表面に持ち出すことを避けたまでである。私としてその存在を認めない訳ではないから、くれぐれも左様御承知を願いたい。
マイヤースが、『死』を以って振動速度の変化であると定義を下したのは、簡単にして要領を獲ている。最初この仮説を提唱したのは、クルックス卿であったが、爾来他界からの通信は、皆これを肯定することになっている。今日では恐らく動かぬ定説であろう。
マイヤースか臨終の際に起こる肉体的苦悩状態を以って、何等懸念の要なしと教えているのは蓋(けだ)し正当な、そして有益な忠言である。他の数ある心霊実験から言っても、この事実に萬々間違いはなきものと断言できる。これにつけても、現代の医学者が、到底助かる見込みのなき病人の肉体に、カンフルその他の注射を濫用するのは、甚だ感心出来ないと思う。薬液の注射は一時的に肉体の機能を刺激し、その結果、複体と肉体との分離を困難ならしめる。死者の側からいえば、随分難有迷惑な感がせぬでもあるまいかと痛感せられる。
第1節 冥府(影の世界)
私は冥府に於ける複雑極まる状況の十分の一をも、ここに伝えることは出来ない。私はただ一標本として、地上で月並な生活を送れる、普通人の行動を辿って見るに止めよう。
この影の世界に於ける魂の滞在期間は、めいめい異なっている。血族的又は霊的の親しき人達の姿に接し、中にはそれ等と多少の交渉を開いた後で、彼は一種の平和な休息状態・・・自分の過去の経歴の断片が、何の関与も、又恐怖も誘わずに、殆ど無意味に、チラチラ眼に映ずる半睡半夢の状態に於いて、几帳の蔭にでも横臥しているような生活を経験するのである。それは丁度睡魔を誘う真夏の午後、陽光下に煌く景色をば、うつらうつらと眺め入るのにも似ていよう。彼は全然全てから隔離された、夢幻の境に於いて、自分の行動をも、又自分の経歴に関与した他の人達をも、いとど心静かに見物し、又批判しているのである。
これを一言にして尽くせば、この冥府の生活は一の『蔭芝居』といえるであろう。無論この芝居見物の反応は各人各様である。或者はこれにつきて、殆ど何等の記憶をも有っていない。他の或者は飽くまで平静閑寂な環境に引きづられて、一向ポカンとして、何を見ても嬉しいとも悲しいとも感じない。が、それにも係わらず、浄化作業は着々として進展を続け、そのエーテル体は、粗末な外殻の中から次第次第に脱出する。つまり丁度肩から古外套をかなぐり棄てるような按配に、いつしか魂は地上から持ち越しの殻を、かなぐり棄ててしまうのである。全ては上方から射す霊の光がしてくれる仕業で、自力の仕業ではないのである。
兎に角、向上の旅客が、一旦その外殻-自分を地上に繋ぎ止める絆ともいうべき、その古外套を放棄したとなれば、彼はいつしか第三界(夢幻界)に進入して、完全なる意識を回復する。そしてこの綺麗に掃除された複体こそ、彼が次の世界で運用する機関となるのである。
この影の世界に於ける作業は地上の時間で、通例三、四日で終了するが、尋常でない一部の男女の中には、もっともっと長い期間冥府に滞在し、不気味な恰好をして、ノソノソと顕幽の境界付近を歩き回り、そこで色々の妖怪変化-人間の苦悩の種子を蒔き散らし、人間の理性をくらますのを天分としているところの、不思議千万なる幽的存在物-との交渉を開くのもある。しかし、そんな事は、よくよく心懸の悪かった人達の自業自得で、普通の帰幽者達は、少しもそれ等の怪物に煩わされることなく、何の苦痛も煩悶もなしに、夕闇の迫るが如き夢の世界を、安穏無事に通過するのである。
(評釈)帰幽後何人も通過すべき、一種の中間的準備時代の簡単な記述である。これが果して一般通則と認めて良いか否かは、今の所ではまだ充分の資料が集まっていないが、大体これに類した経験が、死の直後に伴うことは争われないようである。
第2節 記憶と死後の認識
生理学者に従えば、記憶は単なる脳髄の所属であるとされる。実際脳の一部に傷害を与えれば、今まで健全であった人が、精神的には忽ち空虚の廃物となり、過去に起こった何等の経験をも思い出すことが出来なくなる。
が、事実を言えば、この不幸な人は少しも過去を忘れたのでもなければ、又理性を失ったのでもない。脳の機関の一箇所に故障を起こした為に、その智慧も、記憶も、これを外面に表現することが出来なくなったまでである。内的には、彼は依然として理性もあれば記憶もある。換言すれば肉体の模写である。彼の複体の中には、その生涯の間に起こった一切の経験、一切の事実を立派に記帳しているのである。
記せよ、この複体は彼の誕生から死に至るまで、連続的に彼の魂の宿舎を以って任じ、その点肉体よりは遙かに忠実な、そして遙かに大切な用具であることを。
人間の見解からいえば、過去の記憶こそは、その本人に相違なきことの認識の為に、何より大切な要素である。ところがこの認識は、死によりて少しも失われるものでない。何となれば魂はその記憶の中枢をば、死後の機関であるところの複体の内部に置いてあるからである。勿論その外殻は、冥府生活中に放棄されるから、複体の概要部のみが個性の維持、記憶の保存に当たる。
尚複体は冥府滞在中に大改造、大整理の結果、驚くべき新威力を獲得し、為に魂は丁度繭を破った蝶のように、生気溌剌(はつらつ)たる元気と、洋々たる希望とを以って、夢幻界の新生活に入るのである。
実際又夢幻界は、これ等の希望の満足にはあつらえ向きの世界なのである。
(評釈)死後個性の存続と否とは、実に神霊主義の生命のかかる所で、従って近代心霊研究者達は、霊媒を機関として、この実証の確立に全力を挙げた。説明法は幾通りもあるが、しかし何と言っても最も有力なのは、本人の生前の記憶が、果して死後にも残存しているか否かの問題である。所が、東西各地の霊媒達は、この点の証明に関しては既に立派に成功した。八十年間の努力のお蔭で、今日ではその証拠が山積している。パイパー夫人たった一人の実績のみでも、沢山だといえる位である。この事実から帰納すれば、マイヤースがここに述べる通り、我々の記憶は、肉体よりも寧ろ複体の方にその中枢を置いている事が確かである。
第3節 眠る人、眠らぬ人
『全てのものが眠りはせぬが、全てのものが変わる』とは、死後の生活につきて聖書の教える所である。これは自分の所見と一致する。全てのものが眠りはせぬということは、つまり多くのものが眠るという事である。然らばそれ等の所謂『眠る人』は一体いかなる世界、いかなる境涯に置かれるのか?
鳥類が空に棲むのと同じく、これ等の魂は地球を包囲するエーテル界に生息する。その世界こそ取りも直さず私の所謂夢幻界である。この世界の特質は争闘及び努力の絶無なことで、従ってそこには真の創造がない。多数の人類は、かかる境涯を以って何よりも願わしき理想の生活と考え、地上生活を送りつつある時代から、その境涯を渇望した。つまりそれが彼等の所謂天国、又は極楽なのである。従ってそれ等の人達は、死後夢幻界に達した時に、心からそれに満悦し、世界の最後・・・聖書の所謂『最後のラッパが鳴るまで』そこに淹留するのである。この聖書の言葉は、無論これを譬喩的に解釈せねばならぬ。古代にありて、それは一種特殊の意味を有っているのであるが、近代に入りて、その意義が失われたに過ぎぬ。自分の観る所によれば、第三界に住む者はこれを『眠る人』と称してもちっとも差し支えないと思う。何となれば、何等意識的の争闘も努力もない生活、これが一種の睡眠でなくて何であろう。
無論それは文字通りの睡眠ではない。それは多くの点に於いて、地上の生活と類似した現実性を有っている。異なるところがただ一つある。つまり、奮闘抜き、真剣味抜きの絶対的気楽さがそれで、そこでは一切の欲求が、単に思うだけで達せられてしまう。従って下の地上界、又は上の色彩界で生きるのとは、全然生き方が違う。これを一種の睡眠者と称して差し支えない所以である。
が、聖書の言葉が示す通り、死者の或る者は決して眠らない。換言すれば、彼等は断乎としてこの酔生夢死の夢幻の生活を排斥するのである。彼等の求むるものは争闘であり、創造であり、努力であり、向上である。その結果或る者は地上に再生し、或る者は一層意義ある生活を味わうべく、意気軒昂として色彩の世界に入る。
(評釈)マイヤースの説くところは、大体事実に近いようである。我々がいかに霊媒を用いて幽明交通を試みても、これはと感心する通信には容易に接しない。多くは夢の国、御伽噺の国からの音信かと感ぜられるようなものばかりである。殊に既成宗教のアヘン的観念に捕えられて死んだ善男善女の他愛なさ加減ときては、全くお話にならない位である。これが恐らく現在多数の人類の相場であろう。我々が決して死者を買いかぶってはならない所以である。よほどの傑物にして、初めて観るべき通信、観るべき警告を地上の人類に伝え得る。
第4節 遺像又は殻
遺像又は殻とは死の直後に於いて、一時帰幽者を包む生前の形見で、それはあたかも着古した衣服に比すべきである。やがて彼はそれを脱き棄てるが、殻は依然として幽界に留まるから、彼はこれを拾い上げて再び着用することも出来るのである。
世の中でしばしば耳にする幽霊談-あれは大体これ等の遺像の仕業に外ならぬものと思えば大過ないのである。つまり生前に於いて巻き起こされた意念の名残が動因となりて、これ等の殻を躍らせるのである。例えば急死を遂げた乱暴者、宗教戦に一生を捧げた昔の僧尼、屠殺業者、又は殺人犯などと言ったもの共の霊魂が、何かの機会にふと生前の回顧に耽ると、たとえその観念はほんの一時的の極めて微弱なものであっても、過去世の因縁の絆に繋がれている為に、よくこれ等の遺像に感応して一脈の生気を与え、ノソノソと昔馴染みの建物、又は土地の辺を徘徊させるのである。
但しここでくれぐれも銘記すべきは、自我の全体が、決してこの覚束なき昔の殻の中に舞い戻って来て、無意味な行動をとらせるものでない事である。この種の幽霊は、言わばただ昔の衣装が、ちょっとした幽的思念の刺激によりて、人騒がせの曲舞を演ずるだけのものである。
無論いかなる規則にも多少の例外はあるもので、一切の幽霊現象が、ただ一つの規則の中に包まれはせぬであろう。しかし普通の幽霊現象の大部分は、結局強烈なる記憶の糸に引かれた昔の一念が、一旦放棄した自分の遺像を媒体として、無意味に現れるものに過ぎないことは確かである。
(評釈)幽霊現象は、日本にも西洋にも数々ある。それは決して幻錯覚の産物でも何でもない。が、それ等の幽霊の多くは、ただ無意味に出没行動するだけで、一向面白くも可笑しくもない。これに対して恐怖心を起こして、大騒ぎを演ずるは実に愚の極みである。マイヤースの説明は、この点につきてほぼ遺憾なきに近い。幽霊恐怖患者は大いに安心して可なりである。但し幽霊などに出られては、迷惑だと思うものがあらば、幽界の政庁に頼んで霊的駆除法を講じてもらえばよい。求むるに道を以ってすれば、それしきの事は朝飯前の仕事である。
第5節 急死
時とすれば、帰幽者の中には、自分の死を知らぬものがある。こんな事をいうと、いかにも信じ難く思われるか知れぬが、しかしある特殊の場合には、それが実際の事実なのである。
この不可思議なる認識不足の原因は、実にその人の過去の経歴中に見出される。もしも彼が強烈なる物欲の奴隷であり、金銭に対する執念に燃えつつ帰幽したとすれば、他界の居住者の姿を、ちらと瞥見(べっけん)した位では容易に承服出来ず、自分は未だ断じて死んでいないと、あくまで頑張りながら、盲滅(めくら)法界に自分の家を捜し、財宝金銭を捜して、幽界の闇路を駆け巡るのである。時とすればそれ等の幻影が、自分の直ぐ前面に現れる。しめたと思って追いすがれば、プイと消えて跡形もない。消えては現れ、現れては又消え、後にはただ焦燥と失望とが残る。こういった利己主義者は、暫く顕幽の境界辺に滞留を余儀なくせられ、物欲が消滅するまでは、決して自由が与えられないのである。
中には又ほぼこれと同じく、暫時冥府に滞在を余儀なくせらるるものもあるが、幸いにして、それは寧ろ例外に属する。それは元気旺気で、無鉄砲で、そして相当道楽もやった若者の急死の場合に起こる現象である。自分にはとんと死ぬ気持も何もない、血気盛りに、無理矢理にその肉体からもぎ離された、甚だ気の毒な連中のこととて、地上生活と幽界生活の相違が容易に腑に落ちない。従ってそのエーテル体が、あまりにも急激な変動の打撃から回復するまでは、一時人事不省の状態に陥ってしまうのである。
しかしながら、前にもいう通りこれ等は例外で、大部分の男も女も、丁度渡り鳥の如く冥府を通過し、その間に、折りふしここかしこで、自分よりも前に帰幽した親戚朋友と会ったり、又一時的の幻影にぶつかったりして、小休憩を行なうのみである。彼等の入り行く新世界は、言ふまでもなく、例の努力の要らない夢幻境で、主として現世生活の繰り返しの如き、一種の生活模様を編み出すことになる。
第6節 頽齢者の死
頽齢者(たいれいしゃ)=心身の能力が衰えてしまうほどの高齢。老齢。
頽齢者は、地上を去る前に、或る程度記憶が衰え、理解力も弱っているので、傍からこの状況を目撃する者は、死後の世界とは、結局ヨボヨボの耄碌(もうろく)者の集り、生気と興味との稀薄なる生活を送る所と考えたがるが、これは魂と頭脳とを混同した間違った結論である。魂、つまり本人の自我は、決して耄碌などはしない。耄碌したのは独りその肉体である。肉体が非常に老衰すると、エーテル体の頭脳と、物質体の頭脳とを繋ぐ所の太い紐が破損するので、本人がまだ生きている時から、魂は止むことを得ず複体の方に引き移ってしまう。しかしそうした場合にも、エーテル体と肉体との他の部分を繋ぐ第二の紐、その他がまだ立派に存在するので、死ぬ訳にも行かないのである。こんな具合で、一見心抜きの残骸としか見えない老翁も老婆も、その中身は依然として活発な生命の保有者なのである。彼或は彼女は、単に少しばかり奥の方へ退却しているというに過ぎない。これを気の毒がるのは寧ろお門違いである。何となればこの退却こそ、実は第二の生活への躍進の門出なのであるから・・・。
(評釈)自我とその媒体との混同の結果、いかに多くの無用な論争が、従来世間で行なわれていた事であろう。肉体は現世で使用すべき機関であるから、時節が来れば勿論老朽して、次第に役に立たなくなる。が、肉体が役に立たなくなったからとて、彼には尚幽体もあれば、霊体もあり、又本体もある。自我意識を発現せしむるに何の差支えもないどころか、上に行く程媒体が一層精妙自由になるから、死後に於いてこそ、初めて真に高尚な享楽も出来、活動も出来るというものである。マイヤースの筆は非常に簡潔であるが、極めて要領を獲ている。
第7節 因縁
野心の彼方に、ありとあらゆる利己主義の彼方に、もがき争い、又飽くことを知らざる欲求の彼方に、永遠の強き力を以って、因縁の魂と魂とを引き寄せる不可思議の存在-愛がある。愛は死よりも強く、失望をも征服し、その他有限の世界に見出される物という物は、悉くその敵でない。愛こそは正に一つの立派な宇宙的原則である。それは未来永劫、汝の為に織り出されつつある『因縁の図案』の背後の力である。
普通人にとりて、死は恐怖の種子である。死は一見いかにも寂しそうに思われるからであろう。が、死の真相に通ずれば、恐る恐る必要は少しもない。因縁の人達、換言すれば自分の愛する人達との永久の別離は、何等根底のなき一片の杞憂に過ぎない。死後彼が何所へ行こうとも、彼は永久にその所属の活動範囲から脱出する事は出来ない。一時的の行方不明は或は免れぬにしても、自分の生涯の模様の中に織り込まれたる因縁の人達、過去に於いて愛し、愛されたゆかりの魂は、未来に於いて必ず又巡り合うべき運命を有っているのである。
言うまでもなく、未発達の原始的人物の愛は、浅薄にして偏狭であるを免れない。彼等には全身全霊的真愛が、向上の第一義であることを理解するだけの心の深みがない。換言すれば、彼等には真愛の中に永生の種子が宿っていることを会得する力がない。そう言った幼弱な魂は、しばしば強烈なる憎悪と怨恨との捕虜となり、第三界に行ってからも、依然としてそのままの争闘を繰り返している。そしてうっかりすれば、彼等は再び地上に再生して、そこで又もや昔日の怨みを晴らそうとする。仏家の所謂修羅道とはこれを指すのであろう。これを食い止めるのは、勿論精神的の進歩向上、愛の法則の普及浸潤以外に何物もない。で、何人も愛の法則を会得することが先決問題である。それさえ出来れば、そこに死の恐怖の必要は何所にもない。何となれば、よしや彼が一足先へあの世へ旅立ったとしても、彼と同一因縁に結ばれた人、従って彼の真の同属が即座に彼に結び付き、死の彼岸に横たわる大々的冒険の指導者となってくれるからである。
死は寧ろ汝の友人であり、又汝の救済者である。何となれば、地上の愛につきものの闇と汚れとは、死と共に煙散霧消するからである。
(評釈)愛とは結局心と心との共鳴であり、感応である。従ってその人の発揮する愛を以って、人生に於けるその人の相場づけが決まる。
第13章 心霊の進化
私がまだ地上に居った頃は、強固なる『愛(ラブ)』の礼讃者であった。新約聖書の中で、聖ポールは別に『慈悲(チャリティ)』と訳してよい言葉を使っているが、しかし大体それは、『愛』という言葉と同意義に見られるのであった。ところが今日死後の世界に生活してみると、これ等両語の何れもが、しっくりと我々が伝えんとする全意義を表現するに足りないことを感ずる。それは右の両語が多年に亘りて、人間の有限の心によりて狭く解釈せられ、甚だしく歪んでしまっているからである。
一部の人士にとりて、『愛』は単に男女間に発生する所の情熱を意味するに過ぎない。他の一部の人士にとりて、それは意気投合せる二つの魂、親友の間に発生する交情を意味する。最後に愛は広く同胞間の親善関係、人類愛を意味するのである。
が、これ等の観念は、何れも尚理想を距(へだ)てることが遠いかと思われる。いかに優れたる男も女も、未だかつて神の認める所の、かの崇高深遠なる愛の全貌を把握することは出来ないかと考えられる。私がこちらの世界から、地の世界の状況を通覧し、幾千年かに跨る世界の歴史を回顧する時に、私はドウあっても、この際一つ適当な新語、一段又一段と意識の階段を上昇すべく、我等の心霊(サイケ)を刺激する所の、魂の根本的欲求を過不及なく言い現す所の、そして入手によりて汚されないところの、新用語の必要を感ぜずにはいられない。
そもそも進歩とは、取りも直さず叡智が加わることである。そして叡智とは結局、『真理に対する正しき判断』を意味する。
何れの界にありても真理の観念は、その界特有の生活状態、魂が帯びる所の形態によりて、必然的に制限されるを免れない。魂が更に一段の飛躍を遂げて、秋の木葉の散る如く、一切の形態を棄つるに及べば、その時には真理の把握が更に一層拡大する。
人間の住む鈍重な物質世界に於いて、今日尚最も神聖であり、又最も神聖視されている用語は、蓋し『真理(ツルース)』という文字であろう。で、キリストが福音書の中で使用せる、所謂『愛』の内容を一番よく表現する言葉は、この真理という文字ではあるまいかと思考される。但しその中に『正しき判断』の意味も加わらなければ、無論完全とは言われない。
この際我々がよく考えてみなければならないのは『叡智』という言葉である。何となれば、この崇高なる言葉の中にこそ、明らかに、男女間の高尚なる愛も、智的友愛も、人類愛も、又かの透徹せる洞察力も、悉く包含されるからである。全てこれ等の性質は、真理を悟り得る男女の特質で、彼等が何れの界に置かるるにしても、常に鈍重なる物質界に下降するよりも、一層精妙高潔なる上層界に前進、向上すべき魂の欲求に駆られる。他なし叡智がその原動力となっているからである。
『汝の敵を愛し、汝を苦しむる者を祝福せよ』という含蓄に富める言葉は、これを実生活に適用せんとする純真なキリスト教徒にとりて、確かに難題中の難題に相違ないが、ただ叡智の力があれば、これを行為の上に実現し得ると思う。何となれば、右の思想は確かに叡智の内に含まれ、真理に対する正しき判断さえ出来れば、これを実生活の上に表現することも、決して困難でないのであるから・・・。
あの素朴なる農夫でも、又あの卑賤(ひせん)なる労働者でも、もしもこの精神的、霊的の悟りの力さえ有っていれば、彼等は正しく賢者と言ってよい。キリストの所謂『愛』というのは、確かにこの鋭い悟りの力、叡智のことである。
叡智こそは、正に愛に向かって形と生命とを与える光であり、正に隠れたる愛の源泉であり、又正に向上前進の最高の刺激物であり、これを要するに『心霊の進化』は、専らこの叡智によりて遂げられる。
(評釈)キリストの山上の教訓中に、たまたま『愛』という文字が使用された結果、無批判的に『愛』という言葉を濫用するものが続出し、欧米人士は、正に愛の熱病に罹っていると言ってよい。日本にも、これにかぶれたものが中々少なくない。仔細に彼等の使用する愛の内容を検討するに、めいめい勝手放題を極め、正にマイヤースの分類した通りである。『愛』の宣伝の為に、多少社会人生に裨益(ひえき)をもたらした点もあるには相違ないと思うが、しかしその弊害たるや実に大きく、甚だしきは、低級なる動物的本能の無茶苦茶な行動奨励の種子にさえなる傾向がある。マイヤースの意見も、まだ充分具体的に代用の新語を提示するまでに至らないが、確かに『愛』の濫用者にとりて、一の有益なる苦言に相違ないと思われる。
第14章 自由意志
『自由意志』という言葉は、使用者が異なれば、その意味が異なって来るように見える。一部の人士にとりて、それは出来るだけ自己の特殊の欲望、又は出来心を遂行することであるらしい。又他の一部の人士にとりては、何等かの岐路に立った時に、自己の見地から考えて、最も正当と思われる方向を自由に選ぶことであるらしい。
言うまでもなく、各人はそれぞれ特殊の人生の行路を辿りつつある。が、一体何者がその選択に当たるのか?これを一言にして尽くせば、肉体と霊魂との総和がそうさせるのである、というより外ないであろう。肉体といい、霊魂といい、その現れは種々雑多であるが、その根元はただ一つである。彼等は長年月の間に徐々として進化を遂げ、以って現在の定形を為すに至ったもので、その中には、一切の遺伝的要素も含まれていれば、又多くの心霊的、精神的の影響も加わっており、有限な人間の心を以ってこれを観れば、殆ど無尽蔵に近い。境遇、友人、仇敵、親族等、一として彼の一生の行路を決める為の、内的要素でないものはない。かるが故に、もしも諸君にして、自己存在の性質を考えたなら、いたずらに自由意志の行使を叫んだところで、結局出来ない相談を持ちかけているに過ぎないことを悟り得るではないか?
人間とは単に多くの男女、生きている人達と、死んでいる人達とが、多勢寄ってたかって造り上げた、一の創造物に過ぎないではないか?
従って我々は、主としてそれ等の人達の感化影響の犠牲者であり、宿命的に我々の内部に樹植されたる傾向に、大人しく服従すべく余儀なくされているのである。換言すれば、一切の人類は、或る意味に於いては単数であり、他の意味に於いては複数なのである。世界開闢以来の人類の歴史、又人間の性格は、間断なしに増大しつつある、一つの大きな網と思考してよい。そしてこれ等の仕事に対して、一切の責任を有するものは、取りも直さず宇宙の萬有の根源を為している所の神であり、造物主である。
既に神が唯一の創造者であり、造物主である以上、一個人の性格がいかなる形式をとりて進展するかは、その人間の出生以前から、神には判っている筈である。何となれば一切の建築図案は、赤子が母胎に宿る以前から、神の想像の中に描かれているからである。
が、自分の魂をどんな所に造り上げるか?換言すれば汝の魂が人生の苦楽に対して、いかなる反射作用を起こすかは、それは汝の自由意志の範囲に属する。艱難に遭遇してまだまだ奮発するか、それとも意気消沈して淪落(りんらく)の一路を辿るか、それは全然汝の思うがままで、それがとりも直さず、汝の地上生活の重要素となるのである。やがて汝は肉体を既に帰幽し、私の所謂類魂の一員となるのである。が、その時汝の造った魂の鋳型は、汝に続いて地上に生まれんとする類魂中の、若き魂の未来に対して、深刻な影響を与えることになる。
神は勿論類魂の宇宙生活を監視している。そして彼等の発達に応じて、神は人類生活の将来を計画する。が、大体の輪郭は、最初神の想像の中に描かれたる図案に従うのであって、変更を加える所は、よくよく枝葉の点に過ぎない。
(評釈)私の所謂宇宙間の連動装置、個人、守護霊、自我の本体等の切っても切れぬ関係が、多くは別の言葉で表現されている。言い回しに多少迂遠な箇所も見えるが、その大体の趣旨には、何人も恐らく首肯しなければなるまいと思う。
第15章 記憶
第1節 肉体の内と外
自分はここで、記憶の種々相につきての所見を略述して、諸君の参照に資したい。
先ず第一に、諸君はまだ肉体に包まれている人間に起こる所の記憶の真相を知りたいであろう。自分はこれから、自分の心霊眼を以って目撃する所を述べることにするが、真っ先に働くのが意志である。即ち諸君は、トム・ジョーンズならトム・ジョーンズという姓名を記憶しようと決心し、右の影像に意念を集中する。するとその影像から肉眼には見えない所の、極めて精妙な幽的物体が、自分の所に引き寄せられる。科学者に言わせたら、右の幽的物体は電気よりも微妙な、しかし電気と同性質のものであるという定義を下すであろう。
ところで、もしも意志の力が充分強烈であれば、今度は右の幽的物体が働いて、何やら一種流動性の液体らしいものに、必要な印象を与えることになる。この流動性の幽的液体は、容易に物質を貫通することが出来るので、前記の幽的物体の援助の下に、脳の細胞と接触を開き、以ってこれに感応を与える。
即ち人間の意志は、これ等二種類の要素の援助によりて、トム・ジョーンズの影像をば、脳細胞に連結せしむることになるのである。従って幾百万とも知れぬ小影像が、同時に幾百万とも知れぬ脳細胞の中に印象されている訳であるが、物質に包まれた人間の空間的観念は、甚だ歪曲されているから、そうとは少しも気付かずにいるのは、是非もなき次第である。手っ取り早くいえば、諸君は自分の周囲に、一の巨大なる蜘蛛網を想像してもらいたい。その全ての糸が、丁度電線が電信を運ぶような具合に、記憶又は思想の影像を脳へ運び込む仕掛けなのである。
要するに全ての仕事は、皆それぞれの材料を使用することによりて遂行されるのであるが、困ったことに、人間界には右の材料、例えば印象を受け取る所の幽的流動体に附すべき用語が、まだ出来上がっていない。致し方がないから、暫くこれを幽泥(クレエ)とでも呼んでおこう。この幽泥こそ、実に思想が構成される所の原料なのである。無論それは、人間界で考えるであろうような材料でも何でもないのだが・・・・。
兎も角もこう言った一種の幽泥が、耳目その他の感官によりて伝達される所の、一切の印象を受け取る材料であり、そしてその材料と脳との連絡は、諸君の意志の作用がこれを営む、という次第なのであるが、ここで諸君は当然、然らば意志とは何ぞや、という疑問を起こすであろう。そもそも意志とは、諸君の体外に在る所の自我の本体から、諸君の体内に向かって注ぎ込まるる所の、エネルギーが主体であるのだが、勿論それには、物質的脳細胞の働きも加わっている。
意志と物質的肉体とは、決して没交渉ではない。が、今も述べる通り、意志の源泉は自我の本体であって、これが実に無限の微妙なる幽的原子の実像であり、そしてその原子は、お粗末な地上の機械-肉体の死によりて、少しも影響を受けないのである。ここで原子というのは、こちらの世界に居住する自分の言う言葉で、地上の諸君から言ったら、それは恐らく一種の流動体らしく見えるであろう。兎も角も諸君を構成する中枢体は、諸君が地上生活を送っている限りは、一の複合物たるを免れないものと思ってもらいたい。それは物質的なものと、非物質的なものとの連合体である。物質的の肉体は、勿論物質としての素質上、或る物的欲望を有っている。物的欲望は汝自身ではない。が、欲望は汝を支配する。
何となれば物質的なものは、或る程度非物質的なものを圧倒し、脳細胞の内部に起こる所の指揮判断に、強力なる干渉を加えるからである。元来脳細胞は非常に鋭敏で、いくらでも外来の刺激に感じ得る。又汝の意志なるものは、元来一の物体と言わんよりは、寧ろ一の運動であるから、それが間断なく働いて、一切の影像を合同し、整理し、そしてそれ等の影像に付着せる幽紐を、脳に接触せしめようとする。が、あくまで忘れてならないのは、全てが相持ちの働きであることである。これが肉体に包まれている、人間に起こる所の記憶の実相で地上の人間には容易に会得されぬかも知れぬ。
次に肉体を離れてからの記憶となると、それは全然別問題である。死後の人間は、地上の影像から非常にかけ離れて来る。何となれば、脳細胞と称する物質的媒体に依りての連絡が、失われてしまうからである。言わば連絡の紐が切れてしまうのである。かくいえばとて、無論一旦印象された影像が、破壊されるという意味ではない。彼等は依然として存在する。が、手続きがすっかり違って来る。我々は一種の統一状態の下に、是非モウ一度逢いたいという意志の力で、所期の影像を造り出すのである。地上に居った時は、非常な努力と困難とに打ち勝ちながら、影像を自分の手許に引き寄せたのであるが、今度は引き寄せるのでも何でもない。我々はそれに必要な方法を講じさえすればそれでよい。そうすると、自分の望む影像が、比較的容易に目撃し得るのである。
但し我々が霊媒によりて通信する時は、又全然趣が違う。それは至難中の至難事である。我々はそれ等の影像から、全然絶縁してしまっている。故に霊媒にして我々の記憶が要求する事柄を吸収するだけの、心霊的能力を具有するにあらずんば、我々は、到底諸君が求むる所の、証拠物件を提供する事が出来ないのである。普通人にはこの特殊の能力がない。元来この能力なるものは、人間の肉体そっくりの形態を有し、そして人間を取り巻いている所の、一つの無形の流動体の過剰物ともいうべきものなのである。
兎に角、そうした場合に、影像は全然頭脳の外部・・・・肉体の外部にあるのだが、ただ無形の紐で、こちらの体と連絡を取っている。我等は多少触覚には感じないではないが、よほど意念を集中するにあらずんば、滅多にその形態を認めるまでにならない。よし多少は成功しても、通常意識には到底上って来ない所の、沢山の影像があることを忘れてはならない。イヤ、ドウも説明が困難で、果たして自分の意味が通じたか否かが危ぶまれる。
さて記憶の解釈に移るが、それは丁度海に譬えられると思う。記憶は汝を包囲しており、そしてそれは海の水の如く逃げ易い。地上生活をしている時の我々は、丁度手に小さいバケツを提げて、海水を汲まんとする子供にも似ている。その中に掬い上げる砂の数は幾何もない。そして何の雑作もなく、我々は再びそれを地面に撒き散らしてしまう。が、我々の背後には、一望渺茫(びょうぼう)たる海面が、依然としてうなりを立てて海岸を打っているのである。
兎に角諸君は、記憶をばこの大海の如きものと考えてもらいたい。記憶は年がら年中それ自身を地球に投げ出している。従って記憶が諸君を包囲している状態は、正に水蒸気が包囲しているのに似ている。地上生活をしている間にも、諸君は不知不識の間に、この目に見えない記憶を、どれだけ吸い取っているか知れない。
そして、或る一国が他の一国よりも湿気に富み、雨量が多いように、或る一人は他の一人よりも、多量の記憶を吸収する。無論記憶は人間の頭脳によりて濾過されるので、必然的にその人の色彩を帯び、個性を具え、最後に恰も一の独創物であるが如き形態をとりて、その人の意識に上って来る。が、しばしばそれは何とひどい非独創物、取るにも足らぬ焼き直しに過ぎぬものであろう。
蓋(けだ)し普通の凡人は、生者の頭脳から放射された、手近に転がっている記憶の残滓のみを収集するに過ぎない。大思想家と言われる者にして、初めて人間性の深部に潜める、真の強力なる記憶を吸収する資格を有っている。迅速に放擲(ほうてき)されるような記憶には、決して永続性はない。永遠の生命ある記憶は、常に精妙なる努力、情熱性のものに限る。
見様によりては、人間は一の発電所のようなもので、間断なく新規の記憶を発生せしめ、そして間断なくこれを発送している。人間が個性に固着しようとするのは、そこに無理ならぬ点もある。が、間断なき崩壊に堪えて後まで存続するものは、実はよくよく根本的なる自分-つまり自己の核心のみであることを忘れてはならない。
記せよ、人生の行路に於いて、我々は精神的に絶えず死しつつあるのである。換言すれば、秋毎に草木がその葉を振り棄てるが如く、我々は年々歳々、絶えず我々の記憶を振り棄てるのである。従って、我々は著しく変わって行くのである。試みに生まれて漸く十歳のトム・ジョーンズと、春風秋雨六十年の星霜を重ねたトム・ジョーンズとを、鼻突き合わして座らせて見るがよい。彼等はどんなにはにかみ、どんなに意思の疎通を欠くことであろう。が、心胸の奥深い箇所には、何やら一種不可思議の共鳴、何やら一種名状することの出来ない、感応と言ったようなものがむらむらと発生し、外面的相違の甚だしきに係わらず、十歳の少年と六十歳の老人との間には、丁度磁石と鉄との間に起こるような、妙な親しみが感ぜられるに相違ない。何故そうなるかは、恐らく本人達にも判らないであろう。彼等の間には、記憶の共通点などは殆ど存在しない。彼等は言わば赤の他人に過ぎない。が、両者を結びつくる、深い深い人格の核心が両者をして、どうあっても会心の親友たらしめずんば止まないのである。
これと同様の事柄が、数十年の間隔を置いて、幽界で再会する親子、兄弟、夫婦、朋友等の間にも起こる。外面的事実の記憶からいえば、彼等の間には殆ど何等の共通点もない。が、彼等の間には、そんな記憶よりも遙かに遙かに深い共通の或る物があるので、一瞬にして相互の認識が可能である。愛と憎、沈着と性急・・・そう言ったような、人間性の根底に横たわる所の一切の本質は、歳月の経過位で容易に変わるものでない。この基本的知識さえ残っていれば、相互の認識はおろか、場合によりては、古い古い関係の復活も出来る。但し後者は、双方の魂が、本質的に不可分的関係に在る時に限ることは言うまでもない。
兎に角私自身につきていえば、私は死後決して一ヶ所に足踏みしていなかった。私は外部的に大いに変化し、進化し、新しい葉も付ければ、又新しい花も付けた。が、内部的には依然として少しも変わらない。かるが故に、私の記憶の一部分が埋もれた位のことで、私の妻や子供達が、私を認識し得ないという心配は毛頭ないのである。
私は今私の地上の記憶が埋もれてしまったと述べたが、それは決して永久に放棄されてしまったという意味では少しもない。ただ現在の自分にとりて、地上の記憶が何の用途もないままである。自分は今第四界に於いて、新規な形態の経験を積むことによりて、新規な印象を造り出そうと精進努力中である。しかし、第四界と第五界との中間境に達した暁には、私は再び地上の記憶のおさらいをせねばならなくなる。
(評釈)少々難解かも知れぬが、記憶に関する内面的説明として、これ程力瘤の入った、又これ程懇切丁寧なものは滅多に見当たらない。従来の心理学的説明などは、この説明の前には、全く影が薄いと謂わねばならぬ。
マイヤースは肉体のある人間の記憶と、肉体のない幽界人の記憶と、それぞれ区別して説いているが、これは私の霊的実験から考えても、正にその通りに相違ないと思う。人間の記憶力は、いかに優れていても、多寡が知れている。これはその手続きが非常に面倒な為である。そこへ行くと他界の居住者は、その運用する媒体が自由である為、実に素晴らしい威力を発揮する。これは心霊実験の実証する所であるから、議論の余地がない。
それからマイヤースが、意志に下した定義は甚だ卓見である。自我の本体から人間の体内に注ぎ込まれるエネルギーが、その主体であるというのは、私もこれを承認するものである。我々が深い精神統一に入る時に、合流合体するのは、実に自我の本体(守護霊、本霊)である。抽象的概念論者は、直ぐそこで宇宙の大霊、神、絶対等を持ち出したがるが、それは事実に反し、又理論にも反している。内面の世界は一段又一段と、奥深く階段を為しており、そうお易く最後の窮極に達し得るものでない。実をいうと、自我の本体との合体さえも至難中の至難事で、うっかりすると、幽界の入り口辺に彷徨する低級劣悪な人霊、自然霊、又は動物霊に共鳴する。
それから、マイヤースが、地上生活の記憶の価値に対して下した見解も甚だ痛切である。欧米の心霊家の一部は、外面的の証拠材料(エヴィデンシャルマター)の収集を以って、殆ど心霊研究の全部と考えようとするが、あれは余りに偏狭な考えである。証拠材料も結構だが、しかし人間性の内面には、それ以上に有力な宝玉的存在が潜んでいることを忘れてはならない。
第16章 記憶の本体
『記憶の本体』と言おうか、『大記憶』と言おうか、それとも詩的表現法を用いて『記憶の木』とでも稱(たた)えようか、それは何れにしても、世界の発端から現在に至るまでの細大の歴史は、悉くその中に潜在的に保存されていることは確かである。既に潜在的に保存されているのであるから、人間でも霊界の住人でも、潜在意識を以ってこれに臨まなければ、この歴史を読むことは出来ない。人間に潜在意識がある如く、霊界居住者にも勿論潜在意識がある。換言すれば、精神統一状態に於いてのみ交渉を起こし得る所の、『より深い自我』がある。それを極度に奥深く掘り下げると、結局大我-世界意識と合流するが、そこには過去、現在、未来の事柄が悉く記憶されているのである。
かく述べると諸君は反問するであろう。『未来の事件はまだ起こっていないのではないか、それがどうしてエーテルの上に印象付けられているのか?』が、それは既に神の想像の中に生まれているのであるから、人間の所謂未来は、神からいえば過去である。換言すれば、全ては神のプログラムの中に規定されているのである。但し未来の歴史を読むことは、人間にとりて至難の業であることはここに言うを待たない。神がたった一度きり考えて、二度とは考えない事であるから、未来の記憶が、無形無時のエーテル体の上に残されている印象は、決して深くない。それは通例極めて幽玄微妙である。かかるが故に、よほどの優れたる内観的聴力を具えたる人のみが、その余響を捕え得る。これに反して過去の記憶は、人間のお粗末なる主観が、間断なくそのおさらいをやっているから、従ってその印象がエーテルの中に鮮明なる印象を造り、第六感者にとりて、比較的容易にこれを捕えることが出来るのである。
私はここで、この『記憶の本体』が、諸君の所謂死者、つまり永遠の生命を有する、我々霊界居住者に対して、いかなる意義を有するかを説明しておきたい。霊界居住者は一切の過去の記憶から離れて住まうとすれば、それはその人の随意である。つまりすっかり過去を忘れてしまうことが出来るのである。が、彼等は『記憶の本体』から因縁の糸を手繰り寄せて、過去の人格を再現せしむることも、又同時に可能なのである。その場合には、すっかり過去に再生したようになる。但し死者が地上の人間と交通を試みるには、この仕事は中々容易でない。時とすれば、過去の生活のホンの一小断片のみを、記憶の倉庫から抽出して、ちょっとの間、これを皆様にお目にかけ得る位に過ぎない。
この事に関連して、ここで是非諸君の注意を促したい一の大切な事柄がある。外でもない、それは我々幽界居住者も、又地上の諸君も、右の『記憶の本体』の中には、皆同一の項に記載されていることである。で、我々が霊媒を通じて、地上の諸君と交通しようとせば、その準備として、丁度俳優が脚本のおさらいをやるように、先ず自分の過去の役割のおさらいをしておかなければならない。ところが通例幽界居住者はこの準備をしていないので、いざ準備に際して、性急な質問でも受けると、大いにヘドモドすることになる。要するに我々は、消え失せてしまっており、又消え失せてしまわずにいる。この二重性はちょっと説明に困難を感ずる。根本的にいえば、我々は現世に於いて愛する妻、子、親達に訣別(けつべつ)を告げた時と、全然同一人格である。我々は生前嫌いであった事物人物に対しては、依然として不快の感情を有し、又生前愛好せる事物人物に再会した場合には、昔の愛情が油然として湧き出るのを感ずる。が、もしも『人格』という言葉が、我々の現世的記憶、物質的知識の総計を意味するものとせば、その時は、我々は大いに変わっている。何となれば現世の我々は『記憶の本体』の中から、そう言った昔の記憶を復活せしむるに過ぎないからである。しかし我々は、依然として昔の心情、昔の性向を保有している。我々の性格の中の絶対必要でない部分、もしくは付随的な部分のみが、死と共に失われている。これを要するに永久に残る記憶は、情緒的のもので、それは源を創造的生命の中に発し、我々の魂の主要部を構成しているのである。
(評釈)宇宙の内奥には過去、現在、未来を通じての細大の事物が、只一つの遺漏もなしに全部保存されている。換言すれば、一切の記録(レコード)が出来上がっている、という事は仏教思想中にも見出され、決して今に始まった考え方ではないが、我々が現在敏感な霊媒を用いて、超現象世界を探れば探る程、どうもこの考えが正しいように推断したくなる。例えば北村霊媒の背後に控えている、月真と称する古代僧の霊魂によると、彼は数十年前、乃至数百年前に死んだ人達の姓名はもとより、その生死年月日、性格、職業、等を細かく報告してくれる。どうしてそんな仕事が可能かと月真に訊くと、霊界の記録につきて調査するのであると答える。間部子爵の所には、祖先伝来の詳しい過去帳があるので、それと月真の報告とを一々対照して見たが、実によく符合しているのを発見して、我々は感嘆これを久しうした。『小桜姫の通信』なども、確かに数百年前の過去の時代の、正しき絵巻物であると認むべき証拠が、随所に見出される。かく考えた時に、マイヤースの通信は、確かに嘘を言っていないと思う。尚マイヤースが、未来の出来事も、結局神の過去の記憶の中に見出される、と述べているのは確かに至言である。神の想像の記録の中には、大は天下国家の治乱興亡から、小は一草一木の栄枯盛衰に至るまで、悉く確定されているに相違ない。悲しい哉、物質の世界に出頭没頭する鈍眼凡骨者流には、その記録の一端をすら読破する力がないので、一寸先は暗闇、泣いたり、笑ったり、悲しんだり、憎んだりして、覚束なきその日その日を送っている。これは神界が秘密を厳守する訳でも何でもないらしい。神界はいつも明けっ放しなのであるが、ただ明きめくらの人間に、それを捕える霊能がないまでである。この点は心霊学徒としては、よくよく留意すべき事柄であると思う。似非非霊術者流、又は宗教者流は、何ぞ秘密の呪文や、何等かの戒律でも修むれば天地間の秘事が掴み得るようなことを述べるが、これは単なる客引きの好餌に過ぎない。純真無垢の深い深い内観以外に、天地間の神秘は永久に掴めない。
第17章 注意
自分はここで、『注意』の定義を下しておきたい。生理学的にいえば、注意とは或る特殊の神経の力をば、或る特殊の脳細胞に向けることである。例えば自分がヴェニスの聖アマクの影像を想起しようとすると、その時自分としては、ヴェニスの記憶に関係ある、特殊の脳細胞に神経力を向けるのである。すると、かつてヴェニス生活中に作られた影像が復活して来て、一時的に一つの『人格』を造る。その間背景には、無論絶えず意志の力が全てを支配している。勿論これはヴェニスに限ったことではないので・・・。さて右の人格の諸要部であるが、自分の観る所によれば、これ等は意想外に複雑した連想、又は記憶の網によりて造られていると思う。つまりそれ等の要部の一つ一つが、魂の柔軟な原料中に深く刻まれた、基本的経験の連続から出発しているものと思う。
我々帰幽者の『心』は、これを一つの網と考えてもらいたい。網には沢山の小中心があり、これ等の小中心から色々の思想、色々の記憶が放射されている。そしてそれ等のどの小中心も、注意を地上の物質界に向けることが出来る。勿論我々は、根本的には一つの纏まった人格である。しかし我々が、或る特殊の事物に精神を集中する時に、我々は分割されて二つのものになる。つまり我々は、本体と分霊との二つになるのである。我々が再び一つに纏まろうと思えば、我々は地上の諸君から離れて、よほどの遠路を戻って来ねばならない。私は今『遠路』と言ったが、勿論これは距離を意味するものでない。それは結局気分の問題であり、同時に又二つであり、又もっと多くでもあり得る。これは独り我々帰幽者に限ったことではない。地上に住む諸君だとて同一である。諸君の体は謂わば小宇宙で、その中には無数の小生命が宿っているが、しかしこれを統轄する心はたった一つである。私とすれば帰幽後に於いて、自分というものの正体が、初めてよく判って来た。つまり私というものは、より大なる魂の一部分でしかないのである。自分は自分にして同時に自分でなく、自我の本体の中の沢山の中心より糸を引いて、地上に於ける自分の経歴を織り出していたのである。
私は先に生理学的見地から『注意』につきての定義を下し、それは或る影像と関係を有する所の、特殊の脳細胞に向けられたる、一の神経力の流れであると言った。ここで諸君は疑うであろう、幽界居住者には、物質的の脳が無い筈ではないかと。が、待ってもらいたい。我々に物質的の脳髄はないが、しかし我々は一種の心霊的の網を有っている。この網の構造は、必ずしも人間の脳とはぴったり一致しない。即ちそれには脳髄のように、小さな神経区画が出来ていない。しかしその中には、やはり沢山の小中心が出来ていて、根源の統一体から、任意に心霊的のエネルギーを引き寄せる装置になっている。我々は非常に努力すれば、同時に注意を二ヶ所にも三ヶ所にも向け得るが、普通は一ヶ所にしか向けられない。特に地上と交通を試みるに当たりては、精神集中に多大のエネルギーを要するので、大体一時に一人との通信しか出来ないものと思わねばならない。その時通信を受け持っている中心、つまり我々の分霊は、専ら通信すべき材料に焦点を合わせているのであって、従ってその他の記憶は少しもその内部に宿っていない。換言すれば、他の問題を通信しようと思えば、我々は別の分霊を出さねばならないのである。
(評釈)この一章も又幽明交通現象に対する人達にとりて、甚だ有益な教訓を与えるものである。一口に幽明交通と言っても、談何ぞ容易ならんやである。霊媒の方では深い統一に入りて、波長を成るべく他界の居住者に近付け、又他界の居住者の方では、成るべく思念を人間界の方に向けて、霊媒との連絡を講ずべく努める。ここで初めて両者の接近が出来るが、元々振動数の異なれる両者の間に交通を開こうとするのだから、そこに多大の無理が出来る。マイヤースは、他界の居住者が一つの体を二つに分け、従って自分の一部分だけが霊媒と交渉を開くのだと言っているが、私の実験から言っても、これは確かにその通りに相違ない。要するに幽明交通では、人格の一部分しか現れないのである。この間の消息を知らないと、幽明交通に対して到底正しい批判は下し兼ねる。
第18章 潜在的自我
私は心の潜在的内容を説明すべき約束をしてあるから、ここでその責を果たそうと思うのである。それには順序として、人間を一つの生きた有機体と考え、そこから話を進めるのがよいと思う。一体有機体などという言葉は、現在の私には何やら奇妙に響くが、出来るだけ諸君の用語を使用して行かねばならないので骨が折れる。先ず第一に注意しておかねばならぬ事柄は、意識即ち魂と、肉体とが別個の存在であることであるが、現代の科学者はこの両者をごっちゃに取り扱いたがる。肉体というものは、これは遠い遠い過去から到来した遺伝物で、それ自身一つの生きた王国である。肉体は人間の想像以上に複雑なものであって、神経なども、上級、中級、下級の三段階から成立している。そしてこれ等の神経こそ、実に我々の意識が操縦する所の鍵なのである。
ところで我々幽界の居住者とても、或る程度肉体の機関に相当したエーテル体を有っている。バイブルには、言葉は神であり、言葉が肉体となって我等の中に宿ったのであるとあるが、その文句には、多大の真理が籠もっている。物質的有機体は、実際ある程度超現象的実在の反映なのである。私は全てに、一の統一原理が存在することを述べた。それから又私は、意識の小中心が沢山存在し、これが焦点となることも述べた。即ち幽界人が地上と交通する場合には、これ等の意識の小中心の一つが霊媒に憑りて、一時その肉体を占領するのである。その際我々は、通例霊媒の統一原理までは占領しない。そんな真似をすれば霊媒は発狂してしまう。何にしろ統一原理の占領は甚だ危険な仕事で、所謂幽界の悪霊でもなければ、滅多に試みない。私はここで地上の一例を引いて、判り易く説明することにしよう。例えばここに英国という国がある。国内にはそれぞれ自治自給の多くの都府があるが、しかし何れも大首都のロンドンに一般的の指揮を仰ぎ、又ロンドンから何等かの重要な刺激を求める。幽界居住者の状態は、正にこれに類似する。彼は薄紗状(ブエール)の雰囲気で包囲されたる一つの独立王国である。但し地上の王国のように、全てが造りつけにはなっていないで、右の微妙なる雰囲気は、任意にその形態を変更し得る。その他にも色々違った点がある。兎に角我々の包囲物は、一つの気象的熱的性質を帯びたもので、従って極めて弾性に富んでいる。それは極度に微細なる原子を含んでおり、平気で人間の体などを突き抜ける。
ここで諸君は質問を提出されるであろう。『幽界と物質界とは一体どんな具合に異なるか?』と。その相違点は実に大きい。何となれば幽界の組成原質は、何等定形を有っていないからである。従って、帰幽後に於いて我々が、充分の発達を遂げさえすれば、我々は、全然潜在的自我(自我の本体)の中に埋没してしまうのである。生前私などは、意識に二様の形式があると考えた。即ち甲は潜在的精神、乙は顕在的精神であって、後者は一般的世俗的事務を指揮し、前者は識域以下に潜む所の、一種の微妙なる創造的原動力だと思考した。ところが、帰幽後に於いてよくよく調べてみると精神としては、別に顕在精神などというものはないことを知った。そこに見出されるものは、内面の精神の働きに鋭く感応する所の、一の微妙複雑なる機械-肉体あるのみである。換言すれば精神はただ一種だけで、肉体という機械に感応したものを、人間が勝手に顕在意識などと呼ぶに過ぎないのである。
兎も角私は、この所謂顕在意識、もしくは通常意識と称するものの内容を解剖して見ることにする。第一の要素は、遺伝的の神経記憶、第二の要素は、右の神経記憶の大影響を受ける体的欲望、第三の要素は、内在的自我の反射-以上の三つであるが、勿論最も重要なるは最後のもので、それが人格の基本を成すのである。この内在的意識の反射をば、真っ先に受け取るものは、私の所謂神経記憶と称する液状体で、その液状体が、続いてこれを脳に伝達する。従って液状体の状況次第で、内在的意識が漸く強く脳に響いたり、又弱く響いたりする。兎に角通常意識なるものは三重体である。即ち内在的意識と、これを影像に翻訳する所の神経記憶と、これから右の影像を受け取る所の物質的脳との合作なのである。勿論その際、脳は出来るだけ受身の状態に置かれねばならない。受身の状態に置かれない脳は、内面から送られる思想をば妙に歪ませたり、潤色を施したりするばかりでなく、甚だしきは全然感応力をも失ってしまう。言うまでもなく、そこには右と全然逆の作用も営まれる。即ち脳が物質界の印象を同化吸収して、これを奥へ奥へと伝達する仕事で、人間はその覚醒時に於いて間断なく、これ等二種の働きを繰り返しているのである。
ここで諸君は更に疑問を起こすであろう。『一体あの積極的な、時とすれば感服しかねる存在-自我(エゴ)-とは何か?』と、これは全ての総計である。即ち(一)人間の物質的要求、(二)遺伝的記憶の累計、(三)内在的精神と交通能力、これ等諸要素の総計が、つまりその人の個性を成すのである。時とすれば一部の人間は、途方もなく優れたる独創的天才を発揮するが、これは結局その人の脳が神経記憶の奥に控えている所の、内在的精神の刺激に鋭く感応する、不思議の素質を有っている為である。普通人にありては神経的液状態が、中間に於いて媒介を務めるので、印象が兎角混濁して鮮明を欠くが、特殊の人には、脳と内在的精神との間に、直接の交流が営まれるのである。無論それに加えて、豊富な知識の貯蔵もなければならない。さもなければ、立派な創作物は出来上がらない。創作というのは決して単純なものでなく、多くの要素の持ち寄りで出来上がる。即ち内在的精神が原動力となりて、記憶並びに観念の想念を然るべく取り纏め、更に遊離状態にある所の外来の思想をも取り入れると言う按配である。同一の発明、同一の真理が、時として同時に、地上の二人乃至三人の天才によって唱道せらるるのは、つまりその結果である。
所が通常意識の場合には、右に反して、あの液状体が最も重要なる役割を演じ、それが『自我』の主体を為している。液状体はしばしば他界の居住者から材料を摂取し、幾多の部分的意識を造ることもあるが、しかしその大部分は、統一原理(自我の本体)と連絡を有し、言わばその付属物に過ぎない。その小意識が何かの拍子で、統一原理と関係を失すると、それがとりも直さず人格の分裂である。しかし、これは適当の処置を講ずることによって、大抵回復出来るものである。
ここで私は、諸君が私の所説に基づきて、人間の進化につきて一考察を遂げて欲しい。より大なる精神、即ち自我の本体は宇宙の大初から存在していた。原始的人類の発生並にその発達は皆その受持ちにかかる。要するに自我の本体が、人類の彫刻師なのである。人類が未発達の時には、勿論うまくこれを使いこなすことが出来ず、稀に微弱なる反射作用を与え得る程度に過ぎなかった。が、やがて人類は発達を遂げたので、往古に比べれば、遙かに強力なる交流作用が、両者の間に営まれるようになった。つまり神の言葉が、段々容易に肉体に宿った訳である。
ここで諸君は『何故に心が表現を求むるか?』と訊ねるであろう。他なし心が『個性』を求め、又『形態』を求むるからである。個性といい、又形態といい、大体心と物との間に行われる間断なき接衝の所産である。が、ここで諸君として忘れてならない事は、人類の行動の支配権を握るものが、どこまで行っても物質の精-神経並に神経記憶である事である。故に『自我』とは、結局肉体精神が骨子となり、これに統一原理から派出さる、影像が加味して出来上がったものである。それがとりも直さず言葉が肉体に宿ったのである。
(評釈)この一章は非常に用心深く、盛んに抽象的文字を使用しているので、真意を掴み難いかと思うから念の為に、もっと判り易く私の言葉で解釈してみよう。
第一に標題の『潜在的自我』とは、勿論『自我の本体』、私の所謂『本霊』のことである。『統一原理』というのもつまりそれである。もっと具体的に言えば、これは、各自の魂の親、出発点である所の一つの自然霊である。日本では古来『人は祖に基づき、祖は神に基づく』と言っているが、この『神』がつまり潜在的自我である。
マイヤースが『言葉が肉体となり我等の中に宿る』というバイブルの文句に与えた説明は妥当である。日本ではこれを神の分霊が、我々に宿ると言っている。
次にマイヤースが潜在意識と、顕在意識とを同一物とせるは正しき見解である。意識は一と色である。ただ媒体次第で、その働きに色々に等差がつくまでである。彼が通常意識を、一の複合体と見做しているのも甚だよい。人間の通常意識が、玉石混交である所以がよく判ると思う。天才の説明も大体に於いて首肯される。天才とは結局一種の片輪者、変態者であり、優れた霊媒も同一である。彼の所謂『神経的液状物』とは幽界人としての実際的観察に基づいた名称で、現界人からいえば、つまり常識の要素であり、人間味である。天才者にはそれが欠乏しているのである。
最後に彼が述べる所の進化論は、非常に良いと思う。私の流儀にこれを説明すれば、自然霊がその分霊を降ろして、人類の種子を植え付け、幾十百万年に亘る多大の年月の間に、段々これを進化せしめ、以って地上に於ける自分の代表者-肉の宮としたのである。現在の人類はまだお粗末であるが、しかし太古の原始時代の人類に比すれば、どれだけ進化しているか知れない。人間が宇宙の大霊と同化するなどというのは、単なる観念説で、実際問題とすれば、人間が自己の本霊と合流することが出来れば、それは理想の極致と称してよい。
第19章 睡眠
前章の記事は、潜在的自我の一切の働きを尽くすに至らなかった。何卒あれを一の序説位に軽く取り扱って頂きたい。あの問題をいかに論じてよいか、私自身にもよく判らなかったのである。
さてここでは睡眠につきて述べる事にするが、生前地上生活を送っていた時に、私は睡眠とは、結局霊の一時的退却であると考えていた。即ち霊が暫く脳から脱出して他界で休養するか、それとも、寧ろ一種の精気が外部から注入せられるかであってこれが為に翌朝眼を覚ました時に、心気の爽快を覚えるのであろう位に考えていた。私は生時から顕幽両界の生活を確信しており、その点に於いては、私に何等の手落ちもなかった。が、睡眠中にいかなる手続きが起こるのかは、こちらの世界に来てから漸く判りかけて来たに過ぎない。これからその説明を試みる。
実際をいうと、睡眠という状態は、魂と肉体とが分離する現象なので、その結果霊と脳細胞とは連絡を失うことになる。ここが肝要な点である。肉体というものは、主としてこの魂(エーテル体)によって支配され、それが脱出した時に、肉体は殆ど静止状態に陥ってしまう。その間に於いて魂の方では、諸君の所謂エーテルと称するものから、必要なる刺激又は栄養素を受け取るのだが、エーテルというのは非常に広義の言葉で、睡眠中に魂を養うものは、エーテルの中の特殊の要素なのである。仕方がないから私はここで新熟語を製造し、その特殊のものを『エーテル精(イーゼリック エッセンス)』と呼ぼうかと思う。物理学者達は有形無形、一切の元素に命名することを、自己の権能と考えているらしいから、私が今こんな真似をするのは、越権の沙汰であると言はるるかも知れないが、さし当たり致し方がない。ところで魂の不在中、霊(スピリット)の方はどうかというに、それは依然として肉体に接近している。ただ仲介者がいないので、直接脳に何等の作用をも及ぼし得ないまでである。但し高級の神経中枢が、特に敏感になっている場合には、霊は魂(ソール)の残滓を利用して、稀に何等かの影像を脳に印象せんとすることもある。睡眠者が、時として未来の出来事の正しい予覚(よかく)などを掴むのは、そうした場合に起こるのである。
ここで諸君は、夜な夜な睡眠者に起こる、かの混沌たる雑務の起因は、何であるかと訊かれるであろう。が、夢はこれを開くべき鍵さえあれば、決して不可解なものでもない。諸君は日中しばしば強烈なる神経的衝撃、例えば感情の抑圧などをやる。それ等の衝撃が、時として神経網の上に強き印象を作り、夜間支配者である魂の不在に乗じて、反射的に混乱せる模様を織り出すことになるのである。従ってそれ等の夢は、一つの神経性の幻影であって、決して高所から出発した、意義ある影像ではないのである。
私は既に注意とは、神経的エネルギーを、脳の或る特殊の細胞に向けることだと説明した。ところでもしこのエネルギーの流れが、日中に於いて強く且つ連続的であったとしたら、その振動は後まで続き、その余波が、他の何等かの印象と混合して、奇妙な結果を孕むことになる。例えば諸君が日中一つの婦人帽を見て、ふと死んだ祖母の事を想起したとする。日中には格別の事でもなかったが、夜間支配権が緩んで眠りに落ちると、忽然としてその祖母が夢の中に出現する。これは結局脳の内部で、監督者の不在に乗じて、祖母の影像と神経とが、一種の隠れんぼの遊戯に耽る訳である。かの夢遊病なども、結局神経が昂奮しているか、又は脆弱であるかに乗じて、部分的副意識が刺激を与えた結果である。夢遊病患者が慨して何等の危険にも陥らないのは薄弱ながら、右の副意識が働いているからで、まさかの場合には、体外に離脱している魂に警報を与え、大急ぎでこれを体内に呼び戻すようなこともやる。
私の説明は大分粗雑に流れたので、モウ一度繰り返しておく。仲介者の魂は、栄養摂取の必要上、一時肉体を離脱するが、それが取りも直さず睡眠という現象である。霊(スピリット)の方では睡眠中にも、依然肉体に生気を付与するが、仲介者不在の為に、脳の中枢に働きかけることは滅多に無い。疑もなく睡眠中にも、潜在的自我の一部-或る層だけは、脳に滲み込んでいるらしい形跡はある。例えば日中何等かの出来事によって、昔の連想又は昔の情念が喚び覚まされたとする。が、日中は魂が他事に忙殺されている為に、これを抑制して識域に上させずにおく。丁度それは水の流れがせき止められた形である。然るに夜間支配人たる魂が不在なるに乗じ、これ等の記憶は堰を破って、どッと脳の中に奔流して、ここに少時の間昔ながらの影像を活躍させる。
次に催眠と睡眠との相違につきて一言述べておきたい。両者の間には、少なくとも一の肝要な相違点がある。他なし催眠現象にありては、多くの場合に於いて、被術者の魂が、ただ抑え付けられるだけで、滅多に体外に退去することのない事である。従って催眠術者は、神経がある病的状態に陥っている場合の外は、通例被術者をして、その意志を放棄せしむる迄には至らない。つまり催眠術がかかった場合には、潜在的自我と肉体とが、言わば大変に接近したような状態になり、平生埋没されている記憶などが、ヒョロヒョロ表面に現れて来る。無論その間、媒介役の魂が抑え付けられている為に、自我の統体としての活動は不可能で、僅かに自我の断片のみが現れるだけである。
(評釈)用語の不備の為に、説明がやや難解に陥らんとするは致し方ない事である。マイヤースの所謂霊(スピリット)とは『自我の本体』の分かれで、超個性的のものと思えばよいであろう。又魂(ソール)又は神経魂(ナープ ソール)というのは、要するに本人の個性の中枢で、その用具として特殊の媒体(エーテル体)を使用している。それからモウ一つの肉体-これは勿論本人が地上生活に於いて使用する用具である。要するに人間生活は霊=魂=体、この三つの使い分けであると考えれば考えられる訳である。兎に角右の観念を腹に入れて、マイヤースの解説を読めばよく意味が判ると思う。最後の催眠に関する説明も簡単ながら頗る要領を獲ている。
第20章 思想伝達
私は生者と生者との間に起こる、思想伝達につきて述べようと思う。それは或る点に於いて、生者と死者との間に起きる思想伝達とは相違している。後者にありては、我々の方で余程の工夫調節を要する。が、我々は完全に自分の内在的精神を熟知しているので、仕事が簡単である。地上の人間の方で、もっとよく内在的精神を知ってくれれば受信発信共に、よほど容易になるに相違ない。が、兎も角私は出来るだけ解説を試みる。
私は既に、かの潜在意識と肉体とを連係する所の、幽的液状物につきて諸君に物語った。所で、この液状物は間断なくその形態を変え、肉体には全然見られぬような強い弾力性を帯びており、その感受性たるや実に驚くべきものがある。ただ困るのは、右の液状物と、脳との連絡が不確実なことである。イヤ寧ろ人間の方で、いかに両者を結合せしむべきかを理解していないことである。両者を結合せしむるには幾つも方法がある。
その一つは自分の心を、或る問題から引き離すことによりて、心身の活動を鈍らせることである。一体この液状物中には記憶が印象せられており、捜せばいくらでも見つかる。又この液状物は、以心伝心式に外来の通信を受け取る力がある。そしてそうした通信は、実は平生沢山受け取っているのだが、ただ特殊の人間に限りて、これを脳に伝えることが出来る。通信を空間に発送するのも、又この液状物である。そんな場合に或る一個の独立霊が伝送係を引き受けることは稀である。単に心の繊維ともいうべき多くの遊糸が現れて、通信を自己の液状物内に引き入れ、それから脳に印象すると言った手続きである。
科学者達は、到底生理的にも、又物理的にも、生者と死者との間の思想伝達現象を説得し得ないと信じているらしい。が、魂の生理学からいえば、立派にこれを説明し得ると私は主張する。一見すれば、何やらこの言葉に矛盾があるように聞こえるかも知れぬが、決してそうでない。人間がまだ発見するに至らない極微分子-それがあまりにも微細なので、人間はこれを『物』として取り扱おうとせぬであろうが、しかし我々死者は、遙かに精妙な知覚を有っているので、これ等の微分子を『物』として取り扱うことが出来る。
勿論地上の所謂『物』とは多くの点に於いて類似しているとはいえないが・・・。兎に角これ等の微分子の特質は、それが感情と思想との影響を受け易いことである。即ち意念がこれ等の分子に活力を与え、それが脳に達した時に、脳はこれを適当の形態に翻訳する。
一体魂のエーテル体が、強烈に意識によりて左右せられ、又極めて迅速に、或る刺激の感応を受け易いことは、既に述べた通りである。なので今ここで思想伝達の実験を行なおうとすると、意識は発信者によりて送られた思想を捕えるべく大に緊張する。こんな場合に、ある人々にありては、その魂のエーテル体が妙に硬直状態に陥ってしまい、到底通信を受け取る力がなくなる。要するに脳は受信するなかれという、一の本能的警告を発した訳で、この場合には、つまり本能が意識に打ち勝ったのである。
この本能こそは外来思想の闖入(ちんにゅう)を防止すべく、自然に人間に備わっているもので、本来甚だ正しい本能と言わねばならない。もしも人間が間断なく他人の思想を受け入れることにのみ従事していたとしたら、その人はよほど不健全な頭脳の所有者となるに相違ない。かるが故に自然は、人類にこの防衛物を賦与して、自己の人格の安全を保たしめているのである。故にこの防衛的本能に打ち勝つ人のみが、初めて受信者として成功する。この際受信に重要なる役割を演ずるのは、内在的精神であって、勿論それとエーテル体とは直接の連絡を保っている。
私はここで『液状物』などという言葉を用いたが、勿論これを文字通りに解してもらっては困る。地上生活中ならば、私はこんな言葉の使用を避けたでもあろうが、こちらの世界へ来てみると、魂のエーテル体は、この言葉で表現するのが、最もよく実際に当てはまるし、又簡単でもあるから、思い切ってこれを通俗的に使用した次第である。
『界』という文字も又これを文字通りに解してはならない。私の所謂『界』とは『特殊の境涯』を指すに用いたものである。
(評釈)魂の用具たる幽的液状態の認識-これが全ての鍵である。そんな感受性に富んだ仲介者があるから、思想伝達が可能であり、又学術的にも合理化する訳である。従って近代心霊科学が最も力瘤を入れてこれを捕えんとしたのは、このエーテル体であったが、幸い今日はほぼ遺憾なき迄にこの難事業に成功し、その認識は一の心霊常識となりつつある。マイヤースの説明は、モウさしたる反対には出会わせぬであろう。
マイヤースが、霊媒と非霊媒との相違を、主として防衛的本能の作用に帰したのは卓見である。平たく言ったら、全てを任せ切る人と任せ切らない人-ここに霊媒と否との相違が生ずる。どちらにも長所と同時に短所がある。我々は霊媒の仕事に対して、充分の理解と敬意とを払い、霊媒の人格がややもすれば不統一になり易い点は、出来るだけ雅量を以って大目に見てやるべきであろう。
第21章 幽明交通
可視の世界と不可視の世界との間には、実は間断なき思想の交錯が行なわれ、それが幽明交通をして一層困難ならしむる原因なのである。もしも我々が、生者と死者とから発送さるる無尽蔵の思想をば、一々これを分類し、区別し得るならば、その時は一切の雑音が消え失せて、どんなに通信が容易になるか知れないであろう。が、実際は何という混線状態であろう。我々死者は、しばしば人間の空想から造られた大森林の中に迷い込み、いつしかとんでもない岐路に踏み入りて、茫然自失するような場合に直面することが、実に多いのである。
説明の前提として、私はここで人間の三種類の精神状態につきて一考察を試みたい。第一が熟睡の状態、第二が主観的状態、第三が通常意識の状態である。
右の中主観的状態というのは、随分広範囲に亘り、多大の階段がある。例えば睡眠状態などもその一つで、人為的にこれを誘導することが出来る。術者によりて充分訓練を受けた被術者は、しばしば驚嘆すべき技量を発揮し、幼少時代の記憶を喚起したり、苦痛に対して無感覚であったり、その他思いもよらぬ知識を示したりする。インドのヨガ僧などは容易にこの状態に入り、遠距離にいる他人の消息などを探知して誤らない。要するに彼は精神的、主観的の旅をするのである。
ところで、我々の境涯-諸君の所謂死者の境涯も、又同じく三様に分かれる。但し肉体を有する人間の意識とは、多少その間に趣を異にする所のあるのは無論である。我々が、地上の敏感者を用いて通信を試みようとする時は、我々は一種の入神、一種の主観的状態に入るが、これに軽重の二種がある。軽く入神した時には、我々は過去の生活の具体的事実と絶縁している。殊に霊媒を通じて直接通信する場合には、自分の人格や話し振り位は保ち得るが、地上生活の正確なる経歴などは中々通信し得ない。時とすれば自分の姓名すら述べられない。
こうした通信に際して、時として我々を助けるものは所謂観念の連合-連想作用である。霊媒の潜在意識の中には、彼の過去の経歴の記憶が沢山浮遊している。ドゥかすると、我々はそれを手懸りとして、自分の地上生活の記憶を回復し、案外すらすらと通信し得る場合がある。
次に深い入神状態-これは非常に気持のよい状態で、人間の睡眠又は夢に似ている。その状態に入った時に、我々は人間の主観的精神に入り得るが、勿論人間の方で、我々を助けてくれなければ困る。即ちその人が愛の絆で我々と結ばれるか、又はその人が、所謂霊媒的天分の所有者かでなければ、感応は不可能である。但しもしもそういった人間が、我々を助けてくれれば、我々は再び地上生活圏に歩み入りて、物質界の実況を目撃し、これをその人の潜在意識に印象させることが出来る。時とすれば極めて些細なる出来事までも、はっきり認識し得ることもある。
殊に非常に深い入神状態に入った時などは、単に一個人の潜在意識と接触するに留まらず、一時に数千人の潜在意識にも接触し得るのである。そんな場合は、我々の前面に、さながら大海が展開したような具合である。その大部分は、何の事やら意味が判らないが、しかし守護霊の援助で、我々はその中から、我々の地上生活中に経験した出来事、姓名、地名等の連想を引っ張り出すことが出来る。それがつまり有力な証拠物件となるのである。
が、第三の主観的状態こそは、我々の最高の境涯で、その状態に於いて我々は、宇宙の大記憶と接触するのであるが、遺憾ながら、これは地上との通信に於いて利用し得ない。それはただ多大の年月に亘りて修行を積み、特異の叡智に恵まれた霊魂のみが、極めて極めて稀に、地上の敏感者を用いて片鱗を漏らすに留まる。蓋(けだ)し最高の叡智は、到底低調なる人間の言葉で言い現し得るものでなく、従って僅かにその余響位が、所謂地上の天才者の筆端に現れるに過ぎない。
無論我々は絵画を用い、又象徴的徽号(きごう)を用いて、霊媒の知らない姓名、又は言葉を通信することが出来ないではない。人間の通常意識というものは、一の障壁を造るが、その奥にはより深き自我、より主観的な心境があり、それには殆ど障壁がないのである。我々は困難なる問題の通信に当たりて、出来るだけそれを利用する。
私は先に帰幽者が、こちらの世界の修行に没頭せねばならぬ結果、一時地上の記憶の大部分を放擲(ほうてき)すると述べたが、諸君はこれを聞いても、余り心を悩ますには及ばない。成る程我々は普通の状態にある時に、地上の記憶を失っているが、しかし第三の深い主観的状態に入りさえすれば、いくらでも地上の記憶を呼び戻し得る。死後の親子、又は夫婦達は、時としてその状態に於いて、生前の活歴史を再演することもある。地上生活中に経験した事柄は、ギリシャ語でも、ラテン語でも、地理でも、歴史でも、格別興味のない茶話会の愚談でも、許婚時代の情話でも、何でもかんでも、皆引っ張り出そうと思えば引っ張り出せるのである。
が、我々の大部分は、一種の冒険的気分に富んでいる。死後の世界で愛する人と逢った当座は、ちょっと昔の情話などに耽ることもあるが、我々は直ぐにそんな過去の生活の遺物などに倦きてしまう。我々が第三の深い入信状態に於いて調べようとするのは、過去よりも寧ろ未来である。我々は『生命の書』の頁をば、先へ先へ先へと繰ろうとする。尚未だ地上に演出されたことのない戯曲(ドラマ)の耽読-これは我々にのみ許されたる特権である。予言者などの漏らしたのは、僅かにその余響に過ぎない。ああ我々の生んだ子孫の放浪、我々同民族の悲しき運命・・・我等は未来の記録を読破した時に、覚えず超然として長太息と共に、『生命の書』を閉じるのである。
最後に一言するが、かく主観的状態に於いて、過去と同時に未来を読破すべく許されるのは、ただ精神的に発達した霊魂に限るのである。死の関門を通過した幾百千の霊魂達は、彼等自身の手で築き上げたる心霊的障壁の内部に閉じ込められて、とりとめのない夢幻的空夢に耽りつつ、或いは面白そうな、或いは又は不愉快そうな、取るにも足らぬその日その日を送るのである。
(注)-幽明交通中の主観的状態とは、一種特別の精神統一状態で、すっかり自己の環境から隔離せねばならぬ。これと同様に人間の方でも、自動書記中は全然周囲の風物から隔離し、筆をとりて書きつつある世界の中に自己を没入せねばならぬ。右の隔離状態は、特に霊媒を通じて働く所の帰幽霊にとりて必要である。彼は通信を開始する以前に於いて、すっかり通信材料を準備しておいて、それから主観的状態に入りて霊媒の体を占領するのである。仕事を始めてからは、準備せる材料以外の通信は不可能である。(マイヤース)
(評釈)私が知れる限りに於いて、かくも幽明交通中の内面装置を、詳細明確に説明したものは未だ見当たらない。普通我々は幽明交通に関して霊媒のみを責め、『あの霊媒はインチキである。自分の姓名さえも名乗らぬようなことでは仕方がない』などと言うが、この批難はマイヤースの説明によりて、必ずしも正当でないことが判る。無準備の霊魂には、通信すべき材料の打ち合わせがないのである。そう言った霊が憑った時に、どんな名霊媒でも、歴然たる証拠資料を通信する訳には行かないに決まっている。
もしそれマイヤースの所謂、優れた霊魂の深い主観状態に於ける未来の洞察-これは正に驚き入ったる大文字である。彼は英国の未来に対して、はっきりした見透しをつけているらしいが、大分言葉を濁している。『覚えず超然として長太息と共に姓名の書を閉じる・・・』この中にはアングロ、サキソン民族の前途に対する、微妙なる哀音が聞こえて来るではないか。
兎も角も、私はこの一章が本書中の圧巻であると思う。読者の精読を希望する。
第22章 幸福 普通一般の男女に対して
幸福を論ずるに当たりては、全てに亘りて均衡の観念を失わず、人類が決して一列平等でないことを忘れてはならない。甲に対して、いつまでも変わらざる、誠の歓喜の種となる一つの生活が、乙にとりては、ただ不満と、不幸との源泉であるかも知れないのである。
由来多くの学者達は、幸福につきて、厳密周到なる法則を規定すべく努力したのであるが、不幸にして彼等は、謬れる前提の上に、無益の労苦を重ねた憾(うら)みがある。人間の性情は千差万別であるから、いかなる階級、いかなる国民、又いかなる男女を問わず、自分の提示せる法則にさえ従えば、皆幸福を見出すことが出来る、とは言い得ない。それ等の法則を、自己の日常生活に適用するには、或る一部の個人又国民は、物質的にも、精神的にも、又心霊的にも、まだ充分発達を遂げていないかも知れない。たとえそれが出来ているにしても、それ等の法則は、これを実際に当てはめてみると、単に退屈の源泉であり、激しい幻滅の種に過ぎないかも知れない。
一例を挙げれば、キリスト教、並びに仏教の神秘的禁欲論者の唱道する幸福への道は、ほぼ一致している。彼等は口を極めて、真の幸福は決して五感を通じて獲られるものでなく、又金銭や権勢では、決して買われるものでないと教える。彼等の推薦するのは完全なる放棄であり、ありとあらゆる種類の富、権力、美の軽蔑である。彼等は何れも口を揃えて、真の幸福はただ静思内観、神との直接の交通あるのみであるという。つまり彼等は神そのものは尊重するが、しかし人間の五感を歓ばせ、人間の欲望を満足させるべく、神から賜る所の一切の事柄は、全部これを軽蔑せよというのである。
私の視る所によれば、彼等の意見には、幾多の重大なる抗議の余地があると思う。神秘家自身には、或いはこの種の内的生活が、唯一の真の幸福の種であるかも知れない。が、百人中の九十人は神秘論者でも何でもない。彼等は月並みの平凡人であって、右の如き勧告を実行に移そうとしても、とても出来ない素質を有っている。もし強いてそんな真似をしてみようものなら、彼等はいたずらに自分の性情を狭め、苦しめ、又歪曲せしむるだけである。で、普通一般人士に対する幸福は節制、克己、及び自由等の言葉の中に見出されると思う。彼は何より先に、自分自身を支配する事を学ばねばならない。一旦その力が修得されると、今度は続いていかに賢明に他人を支配し、又境遇を支配すべきかを学ばねばならない。それで初めて自分の自由が獲得される。第二に彼は自分というものが、広大無辺なる天地間の大機構の中の、極めて微弱なる存在であるかを知らねばならない。第三に必要なのは、天賦的に自分に備わる所の、特殊の創造力を開発することである。
一旦人間が自制の力さえ習得すれば、そこで初めてある程度の心の落ち着きが出来て来て、日常の片々たる不幸災厄の為に、進退度を失うような、下手な事はしなくなって来る。又他人に対する統制力が備われば、物質上の損害又は欠乏等から救われ、又悪意を以って色々画策する者が現れても、何とかこれを切り抜ける道がついて来る。もしそれ自身に対する謙虚なる評価は、自然他人との折り合いを良好にし、それだけで幸福の種子となるであろう。一時的にもせよ、自己を忘れ、必要なる同情を他人に分かつ仕業程、世にも麗しい仕業はないのである。
次にかの創造的本能-これは人間性情の概要部を構成するもので、その賢明なる活用こそ、彼にとりて何よりも重要なる業務の一つとなるのである。この本能は或る程度、性的刺激に起因する。が、往々性と離れた仕事の上にも働き、それが最大の幸福の基となることがある。その人の性的生活が何であろうとも、彼はすべからく何等かの方法で、創造的本能のはけ口を求めるがよい。よし彼が一つの構成的想像力の所有者でないとしても、絵画の翫賞(がんしょう)とか、山水の探訪とか、兎も角も何物かの上に、自己の創造的本能の満足を求め、自己の感官に適当の快楽を与えることが出来る。が、何より幸福なのは、真の創造力と同時に、適当の自制力をも兼ね備えた人達である。表現すべき媒体の高下などは、少しも問題とするには足りない、その楽しみたるや、誠に言うに言われぬものがあろう。
かの禁欲論者は、皆口を揃えて、金銭を軽視すべく諸君に教えるであろうが、実は夫子自ら金銭上に顧慮を要せぬ連中なのである。彼の友人又は崇拝者が必要品の全部を供給するとか、親譲りの立派な資産があるとか、禁欲者とは大概そんな境涯の人達だと思えばよい。
かるが故に、自分としては、幸福を求むる者に向かって、金銭に対する適度の尊重を力強く忠告するものである。金銭がなければ餓死するか、さなくとも、非常なる肉体的欠乏、又は不愉快極まる衰弱を余儀なくせられ、肉の宮に鎮まれる魂の光を、充分に発揚せしむることは覚束ない。彼は最早自由の身ではない。何となれば、彼は時々刻々かまびすしき肉体の要求から苛まれる、哀れむべき身の上であるからである。又彼が薄給で、長時間労役に服せねばならぬとすれば、これが為に時間も体力も共に乏しく、とても自己本来の面目を発揮したり、他人の快楽に向かって寄与したりする余裕はない。
で、適度の金銭欲は寧ろ一の道徳である。それは完全なる人間となるべき希望の現われであり、従って間接には、他人を膰益(ひえき)せんとする希望の現われでもあるのである。
全て幸福は努力の結果であり、賢明にして統制ある五感的快楽の満足の結果であり、肉体の完成の為の体育的活動の結果であり、精神的開発に対する勉学の結果であり、又寛容性、博愛性のもたらす安心の結果である。で、これ等の発達を講ずることは、結局霊性の開拓ともなる。
これを要するに、普通人にとりて、幸福なるものはその人の一切の才能、一切の力量-体力、感受力、霊力等の、賢明にして且つ持続的なる活用の中に見出されるものと思えばよい。
最後に、近代人としては、叡智の中にこそ人生の秘鍵、安心立命の秘鍵が見出されると思う。信念、希望、仁愛-これ等の全ては、この崇高なる叡智の中に包蔵せられ、そして全ては、叡智の光によりて色彩を添えるのである。叡智の伴わざる信念にも、希望にも、又仁愛にも、そこに何等人を惹き付ける光はない。全て闇の中に埋もれているものが、健全なる発達を遂げることは絶無である。
(評釈)例によりて穏健、周到、着実の議論、そこに一点の申し分がない。普通人に向かって、五感の適度なる満足を勧め、その天賦的特徴の発揮を勧め、更に身分相応の蓄財の必要を進める辺りは、甚だ傾聴に値すると思う。かのいたずらに実行不可能の禁欲を勧める口頭説法程キザで、高慢で、且つ不健全なるはない。物欲の奴隷となるのは固より唾棄すべきであるが、さりとて消極的の乞食生活、托鉢生活などを鼓吹するに至っては、正に言語同断である。全て世の中は、霊と肉との七分三分の兼ね合い、賢明なる調節協調以外に健全なる道はない。その点に於いてマイヤースは立派に及第点を取っている。
第23章 神は愛より大なり
私にとりて、神は愛だとか善だとか、もしくは又妬むものとか、悲しむものとかいう言葉程、不思議に感じられるものはない。神は『必至』であり、一切萬有の終結である。が、神は善でもなければ又悪でもない。無慈悲でもなければ又親切でもない。神は一切の目的の背後の目的である。神には愛もなければ憎みもない。神を完全に表現し得る思想はどこにもない。何となれば、神は一切の創造であると同時に、又一切から離れたものであるからである。彼は無量の世界、無限の宇宙の背面の『思想』である。
我々が愛とか憎みとか言う時には、我々は決まり切って人間的の筆法で考える。その際胸に描くのは、恐らく、幼児に対する慈母の愛、妻に対する夫の愛、さては民衆の為に注がれた勇士の血涙等で、それ等が愛の象徴となる。それから憎みの代表としては、自分を騙り、自分を傷付けたものに対する烈しい憎悪、さては何らかの凶行を犯した悪漢に対する嫌忌の念-大体先ずそんな性質のものである。
ところが人間的の愛又は憎みは、よしそれが最高潮に達した時でも、到底神の属性とは思考さるべくもない。人間が知っている限りの愛には、そこに何らかの汚斑(しみ)、何らかの欲望の條脈(すじ)が入っている。そんな不純な愛は、到底神の愛たるべき資格はない。同様の最も高尚な人間の憎みの中にも、又多少の汚れがあり、これを以って神の名を傷つけるべきでない。
これを要するに、この方面に於いて、我々は神に対して適用すべき、ただ一つの言葉の有ち合わせもない。我々は神を無限の或者と呼び得るかも知れぬが、神は決して祈祷者の所謂『我等の愛する父』でも何でもない。神はもっともっと高尚な、もっともっと偉大なる存在である。一人の愛する父は、ただ彼自身の子を愛する父である。さればにや、かの大戦に際して、英人は神の愛を自国のみで独占せんとし、同様にドイツ人も、又神の愛を一手に買占めようとした。人間が『愛』という言葉を用いる時には、常にそこに或る特殊の愛の目的物がある。成る程人間は、機械的に、神はその手に創造せる全てを愛し給う、などと言わぬではない。が、人間は実は自分の使っている言葉の意義を知らないのである。愛は相対の場合にのみ成立する。絶対の場合には、そこに愛も不愛もない。で、私としては、造物主を『愛』の神などと呼んで、その神格を汚したくない。もしそんな真似をすれば、それは必然的に神の観念を局限することになる。換言すれば、神を人間並に取り扱うことになる。
敢えて言う、神は決して愛しない。愛は人間の徳性であって、それは火焔の如く上下に浮動する。それは或る時期には光であるが、その光は必ずしも永続しない。その結果、いかに優れた男女間にありても、愛はしばしば焦燥、癇癪、もしくは或る利己的の憂鬱によりて汚される。
これに反して神は決して変わらない。宇宙の父であり、又宇宙の母である神性には、そこに浮沈もなければ上下もない。もしも神が愛であったとしたら、この驚くべき萬有の生命が、かくも完全に続いている筈がない。それは必然的に、愛と称するものの変化し易い性質の影響に服したに相違ない。時とすれば物の発生が全然休止し、草木の枯死となり、土地の荒廃となり、海水は溢れ、山岳は崩壊し、幾百千万の生霊が一朝にして無惨の横死を遂げると言った悲劇が、あちこちに発生したに相違ない。然り、もしも神にして、人間の思考するが如き愛の所有者であったりしたら、世界の歴史は根本的に趣を変え、現在よりも遙かに悲惨なもの、悪性のものであったに相違ない。神は断じて愛ではない、愛以上のものである。
昔キリストはユダヤ人に向かって、『神は愛なり』と言った。キリストとしては、或はそれでもよかったであろう。何となれば彼の所謂愛は、地上の人類が慣用の愛とは、全然選を異にしていたと信ずべき理由があるからである。有限の心の所有者にとりては寧ろ『神は愛よりも大なり』という言葉の方が、一層適切に神性神格に対する理解を高めると自分は信ずる。
(評釈)神の絶対性につきて、昔から教えられて来た東洋民族にとりて、この章に述べてあることは、初めから判り切った事であるが、『神は愛なり』の慣用語に浸潤し切って、何の批判も考慮も働かぬように習慣付けられて来た西洋人の意見としては、正に破天荒の卓見と称してよい。かくいう私も、先年日本人までが無自覚的に、『愛』という言葉を濫用するのを遺憾に思い、『愛の検討』と題する一文を発表したことがある。それは昭和八年十月号の『心霊と人生』に掲載されているから、何卒参照されたい。本章と対照すれば、一層の真意義がはっきりすると思う。