序論
本書の大半を構成している通信は、自動書記(1)ないし受動書記(2)と呼ばれる方法によって得られたものである。これは直接書記(3)と区別されねばならない。前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいは、プランセントに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる。一方後者においては霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記される。

自動書記というのは、われわれが漠然と“霊(スピリット)”と呼んでいる知的存在の住む目に見えない世界からの通信を受け取る手段として、広く知られている。読者の中には、そんな得体の知れない目に見えぬ存在――人類の遺物、かつての人間の殻のような存在――を霊と呼ぶのは勿体ないとおっしゃる方がいるであろうことはよく承知している。が、私は霊という用語が一番読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはない。とにかく、私に通信を送って来た知的存在はみな自分たちのことを霊と呼んでいる。多分それは私のほうが彼らのことを霊と呼んでいるからであろう。そして少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊(スピリット)”でいいのである。

その霊たちからのメッセージが私の手によって書かれ始めたのはちょうど十年前の一八七三年三月三十日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ一年後のことであった。もっとも、それ以前にも霊界からの通信は(ラップ(4)や霊言(5)によって)数多く受け取っていた。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、このほうが便利ということと同時に、霊訓の中心となるべく意図されているものを保存しておくためでもあった。ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当だった。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると部分的に聞き落とすことがあり、さらに当初のころはまだ霊媒自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは不可能でもあった。

そこで私はポケットブックを一冊用意し、それをいつも持ち歩くことにした。すると私の霊的オーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることが判った。それは、使い慣れたテーブルのほうがラップが出やすく、霊媒自身の部屋のほうが新しい部屋より現象が起きやすいのと同じ理屈である。スレートを使った通信(6)の専門霊媒であるヘンリー・スレードも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかった。今このことにこれ以上言及しない。その必要がないほど理屈は明瞭だからである。

最初の頃は文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと丁寧に書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章をあとから追いかけねばならなかった。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのだった。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観のするページもあった。(各ページの最初に書いた)私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、恭(うやうや)しげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図した私的(プライベート)な色彩を帯びていた。一八七三年に始まって八〇年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。

初期の通信はさきに説明した通りの、きちんとした文字で書かれ、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(7)だった。通信の内容も、それが書かれ続けた何年かの間ずっと変わらなかった。いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の十年間も、私自身のふだんの筆跡が変わっても、自動書記の筆跡はほとんど変わることがなかった。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに通信全体を通じて一つの個性があったということである。その存在は私にとって立派な実在であり、一人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただければ、私がふだんつき合っている普通の人間とまったく同じように、独自の特徴と個性を具えた存在であった。

そのうち別の通信が幾つか出はじめた。筆跡によっても、文体および表現の特徴によっても、それぞれの区別がついた。その特徴は、いったん定着すると等しく変わることがなかった。私はその筆跡をひと目見て誰からの通信であるかがすぐに判断できた。

そうしているうちに徐々に判ってきたことは、私の手を自分で操作できない霊が大勢いて、それらがレクター(8)と名のる霊に書いて貰っているということだった。レクターは確かに私の手を自在に使いこなし、私の身体への負担も少なかった。不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が激しかった。そういう霊は自分が私のエネルギーを簡単に浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけである。

さらに、そうやって代書のような役になってしまったレクターが書いたものは流暢で読み易かったが、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に書体が古めかしく、しばしばいかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないことがあった。そういうことから、当然の結果としてレクターが代書することになった。しかし、新しい霊が現れたり、あるいは、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は本人が書いた。

断っておきたいのは、私を通じて得られた通信の全てが一つの源から出たものではないということである。本書に紹介した通信にかぎって言えば、同じ源から出たものばかりである。すなわち、本書はインペレーター(9)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録である。もっともインペレーター自身は直接書くことをせず、レクターが代書している。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは明らかに別の霊団から通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意した。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の五年間はとくに多くなっていった。

通信の書かれた環境はそのときどきでみな異なる。原則としては、私は一人きりになる必要があり、心が受身的になるほど通信も出やすかったが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができた。最初の頃は努力を要したが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは本書に紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていった。本書はその見本のようなものである。

本書に紹介したものは、初めて雑誌に発表した時と同じ方法で校正が施してある。最初は心霊誌『Spiritualist』に連載され、その時は筆記した霊側が校正した。もっとも内容の本質が変えられたところはない。その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての発行のことはまったく無かった。が、多くの友人からサンプルの出版をせがまれて、私はその選択に取りかかった。が、脈絡のことは考えなかった。その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に避けようということだけで、それは当然まだ在世中の人物に言及したものも避けることにもつながった。私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからである。結果的には私にとって或る意味で最も衝撃的で感動的な通信を割愛することになってしまった。本書に発表されたものは、そうした、今は陽(ひ)の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含めて誰一人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき厖大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたい。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初の頃は筆致がゆるやかで、書かれて行く文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。

こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである。

だからといって、私は決して私自身の精神が使用されていないと言うつもりはないし、得られた通信が、それが通過した私という霊媒の知的資質によって形体上の影響を受けていないと言うつもりもない。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常である。影響がまったく無いということはまず考えられない。しかし、確実に言えることは、私に送られて来た通信の大部分は私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信念ともその概念上において対立しており、さらに私のまったく知らないことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメの細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということである。テーブルラップによって多くの霊が自分の身許についての通信を送ってきて、それを後にわれわれが確認したりしたのと同じ要領で、私の自動書記によってそうした情報が繰り返し送られて来たのである。

私はその通信の一つ一つについて議論の形式で対処している。そうすることで、ある通信は私に縁もゆかりもない内容であることが明確に証明され、またある通信では私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけである。実際、本書に集録した通信の多くはその本質をつきつめれば、多分、まったく同じ結論に帰するであろう。

通信はいつも不意に来た。私の方から通信を要求して始まったことは一度もない。要求して得られることはまずなかった。突如として一種の衝動を覚える。どういう具合にかは私自身にも判らない。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をする。一連の通信が規則正しく続いている時は一日の最初の時間をそれに当てた。私は起きるのが早い。そして起きるとまず私なりの朝の礼拝をする。衝動はしばしばその時に来た。といってそれを当てにしていても来ないことがあった。自動書記以外の現象もよく起きた。健康を損ねた時(後半よく損ねたが)を除き、いよいよ通信が完全に途絶えるまで、何の現象も起きないということは滅多になかった。

さて、厖大な量の通信の中でもインペレーターと名のる霊からの通信が私の人生における特殊な一時期を画している。本書の解説の中で私は、そのインペレーターの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、求めても滅多に得られなかった心の安らぎに包まれた時期について言及しておいた。それは私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には私にとって一種の霊的新生となった。その期間に体験したことは他人には伝えようにも伝えられる性質のものではない。また伝えたいとも思わない。しかし内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方々には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとしたその厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけると思う。表面的にはあれこれと突拍子もないことを考えながらも、また現に問い質すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来インペレーターという霊の存在を真剣に疑ったことはただの一度もない。

この序論は、私としてはまったく不本意な自伝風のものとなってしまった。私に許される唯一の弁明は、一人の人間の霊体験の物語は他の人々にとっても有益なものであることを確信できる根拠が私にある、ということだけである。これから披露することを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのである。私は、その必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが霊的体験の一つの典型として心の琴線に触れる人には有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにした。真理の光を求めて二人の人間がまったく同じ方法で努力することはまずないであろう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には家族的とも言うべき類似性があると信じている。ある人にとっては私のとった方法によって学ぶことが役に立つ日が来るかも知れない。現にこれまでもそうした方がおられたのである。私はそれを有難いと思っている。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もあるが、これは極めて些細な問題である。通信の価値を決定づけるのはその通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理である。その真理が真理として受け入れられない人は多いであろう。そういう人にとっては本書は無意味ということになる。また単なる好奇心の対象でしかない人もいるであろう。愚か者のたわごととしか思えぬ人もいるであろう。私は決して万人に受け入れて貰えることを期待して公表するのではない。その人なりの意義を見出される人のために本書が少しでも役立てば、それで私は満足である。

一八八三年三月  ステイントン・モーゼス


〔注〕
(1) Automatic Writing
(2) Passive Writing
(3) Psychography又はDirect Writing
(4) Rapping 文字どおり叩く音によって通信する方法であるが、一番多いのはテーブルが傾斜して、上下運動をしながら一本の脚が床を叩いて通信する。したがってモールス信号のような符牒を取り決めておく必要がある。
(5) Trance Speaking 入神した霊媒の発声器官を使って霊がしゃべる。
(6) Slate Writing 二枚のスレートを合わせて置いておくだけで、その片面または両面に通信が書かれる。一種の直接書記。
(7) Doctor, the Teacher 巻末「解説」参照。
(8) Rector 巻末「解説」参照。
(9) Imperator 巻末「解説」参照。

第1節 新しい霊的真理普及の時代
〔世界の歴史においても特異な意味をもつこの時期とその特徴について述べたあと、さらにこう綴った――〕

今まさに新しき真理の普及のために特別の努力が為されつつある。神の使徒による働きかけである。それが敵対者の大軍による曾てなき抵抗に遭遇している。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語であった。片や神と善、片や無知と悪徳と邪悪――霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪である。そこで、時として――今がまさにその時期の一つであるが――尋常ならぬ努力が払われることがある。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、知識を広める。目的達成の時も間近い。恐るべきは真理からの逃亡者であり生半可者であり、日和見(ひよりみ)主義者である。かくの如き人種に惑わされてはならぬ。が、神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。

――解ります。しかし何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう。真剣に求めながらなお見出せぬ者が多いのです。

切に求める者にして最後に見出せぬ者はおらぬ。その道のりの長く久しき者もあろう。さよう、地上を去り、高き界へ到りてようやく見出す者もあるやも知れぬ。神は全ての者を試される。そして相応(ふさわ)しき者にのみ真理を授けられる。一歩進むにもそれ相当の備えが為されねばならぬ。それが進歩の鉄則である。適性ありての前進である。忍耐の必要なる所以である。

――それは解るのですが、内部の意見の衝突、証拠を納得して貰えないこと、偏見、その他もろもろの要因から来る障害はどうしようもないように思えます。

そなたにそう思えるというにすぎぬ。一体何故に神の仕事に抵抗せんとするのか。もろもろの障害!? われらが過去において遭遇せる障害に比べれば、そなたたちの障害など物の数でないことをそなたは知らぬ。かのローマ帝政の末期――放蕩と肉欲と卑俗と悪徳とに浸り切った地域から聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしそなたが生を享けておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことであろう。その非情さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれであった。肉欲、ただ肉欲のみであった。天使はその光景を正視できずに逃げ去り、その喘ぎを和らげてやることなど到底及びもつかなかった。実に、あるのはただ不信のみ。否、それよりさらに悪かった。世をあげてわれらを侮蔑し、われらの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んだりの放蕩三昧の日を送るのみであった。まさしく堕落しきった動物同然の生活であった。さほどの悪の巣窟さえ神とその使者は見事に掃き清められしものを、ああ、そなたはわずかな障害を前にして、これを“どうしようもない”と嘆くとは!

〔このあとも、地上人類のための計画が人間みずからの無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯が述べられた。そこで私はこのたびも失敗に終わりそうなのかと尋ねた。〕

神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇きを潤し知性を納得せしめる真理がふんだんに地上に注がれている。むろん中には古き訓えのみにて足れりとし、新たなる真理を受け入れようとせぬ者もあろう。われらはそうした人種を構うつもりはない。それはそれでよい。が、古き啓示を十分に学び尽くし、さらに深き真理を渇望している者が大勢いる。そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられる。それが彼らを通じて縁ある人々へと波及し、やがて山上の垂訓の如く、われらが公然と全人類へ向けての啓示を垂れる日も到来しよう。見よ! 神の隠密は地上の低き階層にて研鑽を重ね、その知識と体験をもって真理を唱道する。その隠れたる小さき泉がやがて多くの流れを集めて大河を成す。測り知れぬエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませる無知も不信も、愚かなる思想も罪も一気に押し流してしまうことであろう。

――その“新しき啓示”ですが、それは“古き啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが。

啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や、偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊なる啓示と思えばよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。そなたの嘆く意見の衝突も相違も単なる正邪の選り分けの現れにすぎぬ。しかも取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽られている。結束せる悪の勢力の働きかけも予期せねばならぬ。が、足もとにのみ捉われてはならぬ。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことである。

――背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。

背後霊は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。そういう場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残りで結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。

――そうやって地上に戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。

主として地球に最も近き下層の三界(2)の者たちである。地上の人間との連絡が取り易いからである。高級霊の場合はそなたたちの言う霊媒的素質に似たものをもつ者に限られる。このことについては余り多くは語れぬ。われらの通信を正しく伝え得る霊媒を見出すことは至難のわざであるということ以上は今は語れぬ。通信を望む霊は実に多い。が、適切な霊媒が見当たらぬことと、それを求めてあたら無駄な時を費すのを嫌う故に、彼らは地上との接触を断念する。ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因がある。そなたたちが時おり発見する間違いは必ずしもわれらの側の落度とは限らぬ。そのうち、通信に影響を及ぼす事情につきてさらに多くを語る時期も来よう。

――神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。

われらの使命を阻止せんとする邪霊のことである。彼らはいかにもわれらと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装いつつわざとしくじり、人間及び霊にわれらへの反抗心を煽るのである。悲しい哉、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込め、邪悪の道に快感を求め、一段と悪の要素の強烈なる霊を首領として集結し、われらに憎悪を抱き、仕事を邪魔せんとする。彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれらと同じ仕事仲間であるかの如く装いつつわざとヘマをやっては、半信半疑の真面目の徒を迷わせ、就中(なかんずく)、崇高にして高雅なるものを授けんとするわれらの努力の裏をかき、真摯なる学徒に下劣にして卑俗なるものを与えんと企(たくら)む。神の敵であり、人間の敵と言うべきである。善の敵であり悪の使者である。彼らに対してわれらは飽くなき闘いを挑むものである。

――そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが。

ああ、哀れなる哉! 哀れなる哉! 善に背を向け、悪への道を選びし霊たちほど哀れなるものはない。そなたはその邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止せんとすることが驚異だと言うが、それなどまだまだ驚くには当たらぬ。実状はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えて来るのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。そなたたちがその事実を知らぬことこそ、われらにとって驚異と言うべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂がそなたたちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。然るにそなたたちは、神を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔一つにて清められ天国に召されると説く。前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではない。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること――それが向上であり成長である。そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によりて徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。ない、ない、断じてない! 習い性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。魂の本性となり切っているが故である。これでそなたも納得がいくであろう。悪の軍団とはかくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。彼らに残されたる更生の道はただ一つ。高級なる霊の教唆によりて道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。かくの如き低級霊は実に多い。それらが全てわれらの敵なのである。善に対抗し真理の普及を妨げんとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、そなたらを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。

――その首謀者と言うべきいわゆる“悪魔”がいるのでしょうか。

彼らを煽動する首領は多い。が、キリスト教神学の説くが如き“悪魔”は存在せぬ。善良なる霊も、邪悪なる霊も、全て善悪を超越せる宇宙神の支配下にある。

〔注〕
(1) 地上に生をうけた霊(人間)の使命達成と罪障消滅を目的として陰から守護・指導・援助する霊を指す総合的な用語。本人の魂の親である守護霊(ガーディアン)(類魂の一人)を中心として複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図は本文の説明どおり各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じである。

(2) インペレーターによると、宇宙は大きく三階層に分かれており、各階層が更に七界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の最上界に属するという。三節参照。

第2節 真の博愛主義者
〔本章の通信も前章と同様インペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。インペレーターは頭脳と同様に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると――〕

真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩を慮(おもんぱか)る人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それに媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非(えせ)博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものは潔(いさぎよ)く受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。

――“生命の旅”と言われましたが、これは永遠ですか。

然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なる証(あかし)がある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。今なお“動”の世界にあり(そなたらの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅(じゃくめつ)する、と。が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。そなたたちはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。

――無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。

神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。つまり神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである。

〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕

そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。

何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

父なる神よ! 願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにその拠(よ)って来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰に勝(まさ)る叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身(みずから)につきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ。人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺(さんたん)たる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。

第3節 筆記の激しさによる著者の頭痛
〔前節の通信が書かれた時の勢いはこれまでになく激しいものだった。一ページ一ページきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけは必ず大文字で書いた。書き上がったものを見るとまさに書き方の手本のようだった。が、書き綴っている時は手がヒリヒリし、腕ががくがくして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。すると非常に穏やかな筆致でこう綴られた――〕

あの時の頭痛はエネルギーの強さと、それをそなたより引き出す時の速さが度を越したからである。あのような重大なる問題については熱烈さを伴わずしては書けぬ。われらが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題にそなたの関心を向けさせることにあるからである。われらは神の定めたる不変の法則に従うことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは己を危うくすることでしかないからである。

戦争は人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかならぬ。然して戦争のあとに残されるものは一体何か。神の美(うる)わしき自然が破壊され踏みにじられる。人間のすばらしき平和な勤勉の産物が無残にも破壊される。到るところが血の海となる。そうして未熟で無知で未浄化の霊魂が肉体から引き離されて洪水の如く霊界へと送られてくる。ああ、何たる愚行! 何たる蛮行! 地上自ら悪を生み、そして常に悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり人類の進歩は遅々として進まぬであろう。然るに人間はひきも切らず悪のタネを蒔き続け、それがわれらの仕事の障害ともなっている。

人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。

例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかない。もとより法律には懲罰的要素もなくてはならぬ。が、同時に更生的要素も持たねばならぬ。然るに異常者とみた者をすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと隔離する。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにした。彼らのどこに罪があると言うのか。何のことはない。その口にすることが普通一般の常識と異なるというに過ぎぬ。あるいは――古(いにしえ)より狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることであるが――単に未熟霊にそそのかされたに過ぎぬのである。いつの日かその真相を知って後悔することであろうが、常識の道からはずれることが必ずしも狂える証拠とはかぎらぬ。霊の訓えの道具となることが精神に異常を来したことにはならぬのである。人間の愚行によりて多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらが精神病棟を溢れさせ、霊媒を発狂させた元凶であるという誤れる認識が行なわれている。盲目にして無知なる為政者がわれら霊とその訓えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからに他ならぬ。愚かにも人間は霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証と決めつけ、従って霊的真理を口にする者は悉(ことごと)く狂人であり、故に精神病院に隔離せねばならぬと決定した。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ、幽閉することに成功すると、今度は、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのである。

もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と身体(からだ)の管理をおろそかにしたために道を間違えたのである。これを言い換えれば、神聖なる霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのである。が、われらはその種の人間には取り合わぬ。彼らはまだしも良い。彼らより遥かに道を踏み外せるのは、道を踏み外せる者と思わずにいる飲んだくれの肉欲集団である。彼らは快感に浸りて己を忘れ、汚れたる肉体の官能を飽くことなく刺戟し、堕落者、不道徳者と交わり、挙句には、いま一度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食となって行く。われらの目にとりて、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしきものはない。この上なく卑しく、この上なく恐ろしき堕落の巣窟である。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱である。

――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。

こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。

こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を虜(とりこ)にして、今一度地上的快楽を味わっている現実を知らしめんがためである。一度酒色に溺れし者の更生が困難であるのは、かくの如くに悪徳の悪循環が行われているためである。その悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟(ま)つほかはない。それにはまず、より垢(あか)抜けした真実の霊的知識の普及が必要である。つまり幅広き真の意味での高等教育が要請されるのである。

――そうすることによって、いま例を挙げられたような憑依が防げるということですか。

さよう。最後には防げる。人間の側より餌を撒くが如き愚を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外には方法はあるまい。

――幼くして死んだ子供は一気に高い世界へ行くのでしょうか。

そういうことは有り得ぬ。地上生活ならではの体験は決して免除されることはない。確かに、汚れを知らぬという利点のおかげで“浄化のための境涯”は速やかに通過できよう。が、体験と知識の不足は、それを補い鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばならぬ。故に、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせ損失を招くのみと見なされた場合を唯一の例外として、決して得にはならぬ。与えられし宿命に甘んじ、己の成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直に従う者こそ、地上生活を最大限に活用した者と言えよう。そうした地上生活を送れる人間たちは改めて学び直すものはなく、従って霊界での向上も速やかである。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類の自惚(うぬぼ)れと利己心、無精と怠慢、そしてわがままである。公然たる罪悪と悪徳、それに偏見から真理の受け入れを拒否する頑迷固陋(ころう)の態度――こうしたものは言うに及ばぬ。魂の肥やしは愛と知識である。子供には愛はあるかも知れぬ。が、知識は教育されぬかぎり身につくものではない。これは、霊媒の背後霊の一人となりて生活を共にすることによりて獲得されることがよくある。が、夭折する子の中には、もしもそのまま地上生活を続けていれば、徒に悪徳と苦しみにさらされたであろうと見なされた子が少なくない。そうした子は知識の上での損失を純粋性で補ったと言える。が、不利な環境の中で闘い、そして克服した者の方が遥かに気高い。試練によって一段と清められたるが故に、そうした魂のために用意された境涯へと進むことを得る。地上的体験は貴重なのである。その体験を得んとして大勢の霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となりて己に必要な体験を積まんとしている。それは、ある者にとりては情愛の開発であり、ある者にとりては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとりては知性の開発であり、感情の抑制つまり心の平静の涵養であったりする。かくの如く、地上に戻り来る霊には、われらの如き特殊な使命を帯びたる者を除いては、それ自身にとりて必要な何らかの目的がある。つまり、われら並びにそなたたちとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのである。それは魂の自然の欲求なのである。より高き向上! より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上して行くのである。

――地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。

無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。

〔このあと霊の住居と仕事について通信が続いたが、私には今一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろ、その上の界の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる“試練”もしくは“浄化”の環境と、そのあとに来るいわゆる超越界――いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない“無”の世界――との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕

七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ていよう。が、その超越界につきてはわれらも殆ど聞かされていない。ただ、われらがこうしてそなたを見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれらを援助し導いて下さっていることは承知している。が、それ以外の客観的な事実については何も知らぬ。判っているのはその世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。われらとてまだまだその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがある。その遂行の中に喜びを見出しているところである。霊といえども己の得た経験と知識に基いて語っていることを承知しておく必要があろう。奥深き問題についても、それまで知り得たかぎりの知識の範囲で解答を出す。故に真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはならぬ。霊の世界についてわれらが間違いなく言えることは、そなたらの住む地球が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの活動の世界があり、さらにそのあとに七つの超越的瞑想界が存在するということである。(2)但しその七つの各界には数多くの“境涯”が存在する。自ら堕落の道を選べる者が遂に後戻りの出来ぬ境涯まで落ち込んで行く理由については、すでに少しばかり述べた。絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育(はぐく)み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則(おきて)を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。都会に軒を連ねる酒場、哀れなる道楽者の屯する悪徳の巣窟にはかつて地上で同じように酒色と悪徳に耽りたる霊がうろつきまわる。彼らは地上で飲んだくれの生活を送った。それを今また繰り返し、あまつさえ、そこに通いつめる人間を深みに引きずり込んでは、してやったりとほくそえむ。そなたがもしその邪霊の群がる場を一目見れば、悪のはびこる謎の一端を知ることが出来るであろう。悪の道にはまりし人間の再起を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊なのである。地獄への坂道には狂えるが如き勢いで破滅への道を急ぐ邪霊がそこかしこに屯する。その一人一人が邪霊集団の拠点であり、人間を次々に破滅へ追いやっては、彼らと同じ惨めな境遇にまで引きずり下ろすことに快感を味わっているのである。引きずり下ろされた者は肉体から離れるとすぐさま地上よりさらに下層の同種の境涯に引き寄せられて行く。そして誘惑者と暮らしつつ、肉体を失いし後もなお消えやらぬ激しき情念と酒色に耽るのである。

こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によりて善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信ずる。

ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪”(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、最も下賤なる感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き降ろしてしまう罪である。そこまで至れる者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消してしまい、向上心の息の根を止める。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと引きずり下ろし、ついに動物性を病的なものにする。もはや霊の声も届かぬ。魂は一路奈落の底へ深く深く沈み行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅する。

これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪”(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。

罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を培(つちか)うことにもなる。これが、誤れる方向より戻し、過ちを償わせ、その結果として魂に新たなる希望を育んで行く、その第一歩と言えよう。彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し伸べることも出来る。悪の影響より完全に隔離される。やがて悔恨と無念の情が湧いてくる。性格は優しく温順となり、善の影響に感じ易くなる。かつての頑(かたくな)で冷酷で反発的態度は消え失せ、魂が進化しはじめる。過去の罪の償いも終わり、良心の苛責もすっかり和らいでいる。こうした過程はいつの時代にも同じである。

さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。

〔注〕
(1) GuardianまたはGuardian angel地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。

英語と同様、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させまたは阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。

ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。

(2) 死後の世界の分類の仕方は、視点の置きどころによって諸説がある。したがって他の説と数字だけで比較するのは適当でない。
(3) マタイ 12-31~32
(4) 同右

第4節 作曲家アーンに関する詳細な記述
〔以上の通信は一八七三年の四月から五月にかけて受け取った厖大な量の通信からの抜粋である。この頃には自動書記も楽にそして流暢に書けるようになり、適切な用語も前ほど苦労せずに見つかるようになっていった。

関係している霊の地上時代のことや正確な記録もいくつか明らかにされた。例えば五月二十二日にまったく別の問題について綴っていたところ突如その通信が途切れて、トーマス・オーガスチン・アーン(1)という名が書かれた。そしてスピーア博士(2)のご子息で素晴らしい才能の持ち主である私の生徒との縁で出られることになったと、その経緯を書いてきた。

その頃の私は自動書記通信に大いに関心を抱き、その内容にも注目していた。そこでさっそく当時の筆記者のドクターにアーンの身元を証明する地上時代の事実があれば提供してもらいたいと頼んでみた。すると間髪を入れず返答が書かれた。生年(一七一〇年)、学校名(イートン)、バイオリンの教師名(フェスティング)(3)。作品集――少なくともそのうちの八曲ないし九曲の曲名。さらに彼の作曲した英国の愛国歌「ブリタニアよ統治せよ」(4)が「アルフレッドの仮面劇」(5)の中に収められていること。その他、実に細かいことが数多く、しかもすらすらと書かれた。その全てが私の知らないことであるのみならず、私はその方面のことに関心がないので――私は音楽のことは全く無知で音楽に関する本は一冊も読んだことがなかった――私はそれほど細かいことが何故わかるのか尋ねてみた。すると、実際はそう簡単に書けるものではなく、霊媒がよくよく受容的な精神状態の時にのみ可能であると書かれた。同時に、霊界には知識の貯蔵所のようなところがあって、不明確なことはそこから情報を得ることが出来るとも述べた。

私はそれはどういう手段でやるのか尋ねた。すると、ある条件のもとで、知りたい目標を心に描いて“読み取る”のだという。人間がするように問い合わせる方法もあるが、それは読み取るのがあまり上手でない霊にかぎられるという。

ではあなたにもそれが出来るかと尋ねると、自分には出来ないと答え、そのわけは地上を去ってからの期間が長すぎるからだという。そう述べてから、地上の情報を蒐集することを得意とする二人の霊の名前を挙げた。そこで私はどちらか一方を呼んでほしいとお願いした。

その時のこの筆記をしている部屋は私自身の部屋ではないが、書斎として使用しており、まわりの壁はすべて書棚になっている。

そこでいったん筆記が中断した。そして数分後にこんどは全く筆跡の違う文章が出はじめた。そこでさっそく尋ねた。〕


――あなたは読み取りが出来ますか。

いや、私には出来ない。が、ザカリー・グレイ(6)が出来るし、レクターにも出来る。私には物的操作が出来ない――つまり物的要素を意念で操作することが出来ないのです。

――どちらか来られてますか。

一人ずつ呼んでみましょう。まず……あ、レクターが来ました。

――あなたは読み取りがお出来になると聞いています。その通りですね? 書物から読み取れますか。

〔筆跡が変わる。〕

出来ます、なんとか。

――「アエネイス」(7)の第一巻の最後の文を書いてみて下さいますか。

お待ち下さい――Omnibus errantem terris et fluctibus aestas.

〔この通りであった。〕

――その通りです。でもそれが私の記憶にあったということも考えられますので、書棚の二番目の棚の最後から二番目の本の九四ページの最後の一節を読み取ってみて下さい。私はその本を読んだことがありませんし、書名も知りませんので。

I will curtly prove, by a short historical narrative, that popery is a novelty, and has gradually arisen or grown up since the primitive and pure time of Christianity, not only since the apostolic age, but even since the lamentable union of Kirk and the state by Constantine.(8)

〔調べてみたところ面白いことにその本はロジャース著『僭称的教皇長老主義者――キリスト教をカトリック的因習と政治性と長老支配から解放、浄化するための一試論』(9)とあった。引用された文章は正確だった。ただnarrativeがaccount(10)となっていた。〕

――意味深長な本を選んだのには何かわけがあるのでしょうか。

それは知りません。偶然でしょう。一語間違いました。書いた時すぐに気づいたのですが、敢えて改めませんでした。

――どうやって読み取るのですか。今の文はさっきよりゆっくりと、しかも時おり思い出したように書いておられましたが。

憶えていた個所もあり、判らない個所は見に行ったりしたからです。読み取るというのは特殊な操作であって、こうしたテストの時以外は必要でありません。昨夜ドクターが言っていた通り、われわれも幾つかの条件が整った時しか出来ません。もう一度試してみましょう。まず読んでから書き、それからあなたに印象づけてみます。

Pope is the last great writer of that school of poetry, the poetry of the intellect, or rather of the intellect mingled with the fancy.(11)

これは正確です。さっきと同じ書棚の十一番目の本を取って来て下さい。〔それは『詩とロマンスとレトリック』(12)という本だった。〕開いてみて下さい。ちょうどその文章の書かれているページが開くはずです。われわれのこうした霊力をよく確かめ、物質的なものを超えた力を人間に啓示することを許された神の意図をよく認識していただきたい。神に栄光あれ。アーメン。

〔その本を開いたら一四五ページが出た。そこに書かれた通りの引用文が出ていた。私はその本を一度も見たことがないし、まして内容については何も知らなかった。〕

〔注〕
(1) Thomas Augustine Arne.
(2) Dr.Speer 巻末「解説」参照。
(3) Festing.
(4) Rule,Britannia.
(5) The Masque of Alfred. Zachary Gray.
(7) Aeneid ローマの詩人バージルのラテン語の叙事詩で全十二巻ある。
(8) 大意――私はこれより、カトリック的制度などというものが本来のキリスト教にはなかったものであり、純粋な原始キリスト教時代――伝道者時代はもとより、コンスタンチヌスによる教会と都市国家との嘆かわしき結合以来、徐々に台頭もしくは発生して来たものであることを簡略に論証してみようと思う。
(9) Antipopopriestian-an attempt to liberate and purify Christianity from Popery, Politikirkality, and Priestrule,by Rogers.
(10) 双方ともほゞ同じ意味を有する。
(11) 大意――ポープはその流派、知性の詩、というよりは詩的想像力と渾然一体となった詩の流派の最後の偉大な詩人であった。
(12) Poetry, Romance, and Rhetoric.

第5節 霊的能力の種類
〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕

霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。

ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。

――でも、これでは完全な人格を求めることになります。

何と! これをもって完全とな? そなたは“完全なる霊”が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程もそなたは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子はそなたらには見えぬ。そなたらに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質はそなたらの用語にして表現し得るかぎりのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものに過ぎぬ。そなたらに完全は有り得ぬ。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けている。そなたらの画く完全性も、われらの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのである。

――確かにそうかも知れません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。

少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。

――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。

〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕

騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

〔注〕 (1) Prudens 巻末「解説」参照。

第6節 ダービーによる悪影響
〔この頃ホーム氏(1)と会った。その日は、たまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕

そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入る隙(すき)を窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。邪霊たちにとって彼らは恰好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いに最も乗りやすい者はこの最後に挙げた人種である。たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。こうしたものは須(すべか)らく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまと掛かり易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

以上の如き理由のため、そなたが質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。

――しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。

必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱(たづな)をゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものと言えよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊した身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にも増して天使の暖かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も功を奏さぬこととなる。祝日を人間の堕落の日とせぬためには、善霊の働きと人間の義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとりて少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

神よ、無分別なる愚行に耽る理性なき魂を救い、守り給わんことを!

〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係わりもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれのほうで為すべきことはどんなことか尋ねた。〕


レクターはそなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。そなたの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為(せい)である。あの実験会での霊言はまったく当てにならぬ。そなたの精神状態は異常なほど反抗的であった。写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、そなたの度の過ぎた興奮が今のべた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。

〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると――〕

そなたはこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時のそなたの反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。そなたの興奮状態が通信を不可能にしたのである。

〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないよう慎重を期した。その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一箇所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕

可能なかぎり精神を受け身に、冷静に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入っている時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、全てを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。

――確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけます。

日曜日はわれらにとりても好ましくない。何となれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらはそなたに新たに現象を試みることに恐れを感じる。そなたへの危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

理由はそれのみにかぎらぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。人間は気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらが被(こうむ)る困難である。前にも述べたことであるが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは好ましくない。われらが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合も無きにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。そなたはその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。

――しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。

われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。心または身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、そなたたちが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔順にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。そうすればそなたたちの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。先にそなたの言及せる光――〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ状態の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。

〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕

それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。従って当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは永続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げる。逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。かくの如き結婚の絆は不滅である。但しその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は別れてそれぞれの道を歩み始める。そこには何の悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。

――それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。

愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。そなたたちはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとする故に納得がいかぬのである。霊同士はそなたたちの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。われらには時間も空間も存在せぬ。われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全く有り得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくとも、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上においても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。物の考え方も違うであろう。が、共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人は二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。われらにとりても空間は存在せぬ。これでそなたも朧気(おぼろげ)ながらも理解がいくことと思うが、われらにとりての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、そなたたちの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。

――では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。

その言葉どおりである。さきにわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在のそなたにとりて立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのである。故にわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して人間の世界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、従って地上の言語によって大凡(おおよそ)のことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。

――なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか……

そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。

――しかし高級霊ならば、“愚か者の愚かな質問に答える”ことをせずに、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。

無論できることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。

〔注〕
(1) D.D.Home(1833-1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。

第7節 新プラトン主義
〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕


昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。

〔注〕
(1) Neoplatonism 三世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節にプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus である。
(2) Souffism
(3) Lydgate

第8節 著者の信仰上の遍歴
〔翌日、前回の通信に関連した長い入神談話があったあと、インペレーターと名のる同じ霊がいつものレクターと名のる筆記者を使って、再び通信を送って来た。それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。当時の私の立場から観ればその教説は、論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら少なくとも高教会派的(1)と呼びたいところである。そこで私はかなりの時間をかけてキリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がある。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、国教会の中でもアングリカン(2)と呼ばれる一派も、それまでに私が到達した結論に最も近い教義として受け入れていた。その強い信仰は自動書記通信によってある程度は改められていたが、本格的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派の一人をもって任じていた。

が、この頃からある強烈な霊的高揚を覚えるようになった。これに関してはこれから度々言及することになると思うが、その高揚された霊的状態の中で私は一人の威厳に満ちた霊の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついには霊的再生とも言うべき思想的転換を惹き起こさせられるに至った。〕


そなたはわれらの教説をキリスト教の伝統的教説と相容れぬものとして反駁した。それに関して今少し述べるとしよう。

そもそも魂の健全なる在り方を示す立場にある宗教は二つの側面をもつ。一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である。では、われらの説く神とは如何なる神か。

われらは怒りと嫉妬に燃える暴君の如き神に代わりて愛の神を説く。名のみの愛ではない。行為と真理においても愛であり、働きにおいても愛を措いて他の何ものでもない。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨む。

われらの説く神は一片のおべっかも要らぬ。法を犯せる者を意地悪く懲らしめたり、罪の償いの代理人を要求したりする誤れる神の観念を拒否する。況や天国のどこかに鎮座し、選ばれし者によるお世辞を聞き、地獄に落ち光と希望から永遠に隔絶されし霊の悶え苦しむさまを見ることを楽しみとする神など、絶対に説かぬ。

われらの教義にはそのような擬人的神の観念の入る余地はない。その働きによってのみ知り得るわれらの神は、完全にして至純至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性等の人間的悪徳とは無縁である。罪はそれ自らの中にトゲを含むが故に、人間の過ちを慈しみの目で眺め、且つその痛みを不変不易の摂理に則(のっと)ったあらゆる手段を講じて和らげんとする。光と愛の根源たる神! 秩序ある存在に不可欠の法則に則って顕現せる神! 恐怖の対象でなく、敬慕の対象である神! その神についてのわれらの理解は到底そなたらには理解し得ぬところであり、想像すら出来ぬであろう。しかし、神の姿を見た者は一人もおらぬ。覗き趣味的好奇心と度を超せる神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を曖昧模糊(あいまいもこ)なるものとする形而上的詭弁も、またわれらは認めるわけには参らぬ。われらは真理を覗き見するが如き態度は取らぬ。すでにそなたに述べた神の概念ですら(神学より)雄大にして高潔であり、かつ崇高である。それより更に深き概念は、告げるべき時期の到来を待とう。そなたも待つがよい。

次に、神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。そなたらは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。われらが敬意を払う人間とは、たとえ信ずる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。人間が喜ぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われらは関知せぬ。キリスト教の神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を超越せる神秘への覗き趣味には、われらは思わず後ずさりさせられる。われらの説く神学は極めて単純であり、理性的理解のいくものに限られる。単なる空想には価値を認めぬ。派閥主義にも興味はない。徒(いたず)らに怨恨と悪意と敵意と意地悪の感情を煽るのみだからである。

われらは宗教なるものを、われらにとりても人間にとりても、より単純な形で関わるものとして説く。修行場としての地上生活の中に置かれた人間――われらと同じく永遠不滅の霊であるが――は果たすべき単純なる義務が与えられ、それを果たすことによりて一層高度な進歩的仕事への準備を整える。その間、不変の摂理によって支配される。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守(じゅんしゅ)すれば進歩と充足感を与えてくれる。

同時に人間は、曾て地上生活を送れる霊の指導を受ける。その霊たちは人間を指導監督すべき任務を帯びている。ただし、その指導に従うか否かは人間の自由意志に任せられる。人間には善意の判断を下す基準が先天的に具わっており、その判断に忠実に従い、迷うことさえなければ、必ずや真理の道へと導いてくれるはずのものである。善悪の判断を誤り背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみである。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わう。罪悪そのものが罰するのである。正しき行為の選択には背後霊の指示もあるが、本来は霊的本能によりて知ることが出来るものである。為すべきことを為していれば進歩と幸福が訪れる。魂が成長し完成へ向けてより新しく、より充実せる視野が開け、喜びと安らぎをもたらす。

地上生活は生命の旅路の一過程にすぎぬ。しかし、その間の行為と結果は死後にもなお影響を残す。故意に犯せる罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばならぬ。

一方善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界にてその清き霊を先導し高級霊の指導教化を受け易くする。

生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。

徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。

父なる神を崇め敬う(崇拝)………………………………神への義務
同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)…………………隣人への義務
身体を大切にする(肉体的養生)…………………………自己への義務
知識の獲得に努力する(知的進歩)………………………自己への義務
より深き真理を求める(霊的開発)………………………自己への義務
良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)………自己への義務
祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務

以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族によりても独占されるものではない。神の啓示は一度たりとも“終わった”ことはないのである。その昔シナイ山にて啓示を垂れた如く(3)、今なお神は啓示を送り続けておられる。人間の理解力に応じてより進歩的啓示を送ることを神は決してお止めにならぬ。

また、これも今のそなたには得心しかねることであろうが、全ての啓示は人間を通路としてもたらされる。故に多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。故に新たなる啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致せぬからとて、それは必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのである。いずれもそれなりに真実なのである。ただ、その適用の対象を異にするのみなのである。正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そして、あくまでそなたの心が得心し、進歩をもたらせてくれると信ずるものに縋(すが)るがよい。いずれ時が来れば、われらの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになろう。われらは根気よくその時節を待とう。そして同時に、そなたと共に、神が人種の隔てなく真理を求むる者すべてに、より高くより進歩的なる知識と、より豊かにして充実せる真理への洞察力を授け給わらんことを祈るものである。

神の御恵みの多からんことを!

〔注〕
(1) High Church 英国国教会内の一派で、教会という組織の権威・支配・儀式等を重んじる。
(2) Anglican カトリックとプロテスタントの両要素をもちながら、どちらにも偏らない要素を備えた一派で、総体的には高教会派的。
(3) モーセの十戒。

第9節 著者の反論
〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説と全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だと言うのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕

われらが述べたるところは大凡の指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。極めて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が、本質的には間違ってはおらぬ。確かにそなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識も持たぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊するものの如く思われるかも知れぬ。が、実際はそういうものではない。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によりて足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。前(さき)にわれらは、先ず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。

――その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。

違う。必ずしもそうではない。そなたの言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録は極めて不完全である。その記録を見れば、キリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれらの説くイエスに近き存在であった。

――そんな筈はありません。それに例の贖罪説――あれをどう思われますか。

ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節も来よう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権を委(ゆだ)ねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。が、全てのドグマはこうして作られてきた。かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。

――そうかも知れません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(†Imperator)。私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(†Rector)。あの方などは絶対とは言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの――もしくは完全な誤り――であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でのクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。

いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。

〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった。〕

友よ、これよりそなたを悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家は字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探求と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。そなたたちの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中より断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。が、そうすることによりて徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもって佳(よ)しとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

前(さき)にわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点においてそなたたちのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物――三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められていると言う。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、そなたたちが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとりてはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみを引用し、不都合なところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってはバイブルは神の直接の言葉なのである。

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついにたどり着きたるところが他ならぬわれらの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なえる僭王であった。それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着く。故に真理探求者は少なくともその点についてのわれらの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉を持たぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知を覚(さと)ることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることは出来ぬ。彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残された道はない。そなたがこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録にすぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。それと同じ原理がこうしたそなたとわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり所期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が大いに関わることになる。

バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

そうした例ならば幾らでも見出せるであろう。イザヤ(1)がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル(1)がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル(1)にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ(1)にはエレミヤを通じて語れる“主”の観念があった。ホセア(1)には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ(2)然り。ペテロ(2)然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのもやむを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまで人間である。

故に、バイブルを読む者はその中に己自身の心――いかなる気質であれ――の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。彼はバイブルに己の理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己の気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己自身の啓示を作り上げる。

同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己の主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏付けされた個人的見解となり果てたのである。

そなたは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒涜している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

バイブルより出でし神の観念がかくもそなたたちの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たりては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現にて授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(3)の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

神についての誤れる冒涜的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く逸(そ)れる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によりて字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たりては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾けの影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たりて、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段を取らんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくって行くのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。われらには人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何より重大である。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、われらは敢えて取り合わぬ。

そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである――霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎぬではないかと。そうではない。今こうしてそなたに述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行なう。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにもドグマ的である時に限られる。

仮にここに神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信ずると言い出せば、そなたはその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗りかえられていった場合、そなたたちにはその変化が気づかぬであろう。その変化が徐々に行なわれ、かつ微妙だからである。が、われらにとりては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。頑(かたく)なにして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一層輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実にそなたたちのまわりに存在している。そなたたちは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ、そうと気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たりては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、そなたには理解できぬかも知れぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたぬものだからである。それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成のためには、今も述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

さて、かく述べれば、すでにそなたには今のそなたの苦悶の謂(いわ)れが判るであろう。われらはそなたが抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。かつての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が判るであろう。われらの指導のもとにそなたは数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によりて被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書をそなた自ら念入りに読んで来た。そこに様々な形態の信仰を発見してそなた自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこからそなたに理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々――そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なるものを身につけてきた。長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、そなたをいよいよ理想の真理――霊的にして実感に乏しくとも、そなたの学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

まず知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのという付帯的俗説も含めて、そなたたちが考えているものとは大凡本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらはそなたの理解しうるかぎりにおいて、そなたたちが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

そなたはそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるのかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲(いけにえ)として怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。

キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。キリストの敵――たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは敢然と戦いを挑むものである。

ある程度霊的真理に目覚めた者にとりても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。その時のイエスへの崇敬の念はいささかでも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。そなたにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いて参るであろう。

われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!

イエスを今なおわれらは崇める。
その御名をわれらは敬う。
その御ことばをわれらは繰り返す。
その御訓えが再びわれらの中に生き返る。
イエスもわれらも神の使いである。
そしてその御名のもとにわれは参る。
†インペレーター


〔注〕
(1) いずれも旧約聖書に出てくる予言者。
(2) いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。
(3) Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。
(4) 贖いを意味する英語atonementが語原的にat-one-mentすなわち、“一体となること”を意味することを示唆しながら説いている。

第10節 再び著者による反論
〔不服だったので私は書かれた通信を時間を掛けてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解――当時の私にはそう映った――は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答が来た――〕


友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。それまでに着実な準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは、われらにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力は付きものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものなること以外は何一つ知らぬのである。

イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち――その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、彼らの神の冒涜者――不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである――はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らであった。

イエスが神の名誉を奪う者でないことはそなたのよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

親へのうわべだけの義務――愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務――を説く佗しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出でる子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。うわべのみの慣例主義に代わって衷心よりの施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者のほうが、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆(くつがえ)さんと企(たくら)む不敬者として十字架にかけたのであった。

その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に敢然と立ち向かったイエスの弟子たちへしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。が“四面楚歌”の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と“時の権力”には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見出すことが出来なかった。彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。そなたも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが……

しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことの方がおかしい。バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかぬのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かと言うべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

申すまでもなく、そなたたちが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を現す――それもその世紀の人類が滅びる前である、と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

そなたが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだという。その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っていれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかなる満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によりて全てが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉欲に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒涜していたはずの神のもとへ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、清純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

指摘すれば枚挙に暇なしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神――理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、そなたもわれらと共に驚きを感じて欲しく思うのである。友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

われらが知るところの神、そしてそなたに確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神とそなたたちとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神――摂理によって顕現し天使を通じて作用するところの神である。

では、人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懴悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。そなたたちはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。その霊の世界にありては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻(ゆめまぼろし)の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ――たどり来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。

罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。

霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命はそなたら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せる者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できる。

神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍(ふえん)して説く時機も到来しよう。以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張――すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖であり、イエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで十分であろう。

それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じてより崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。知り得ぬことは知り得ぬこととして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信ずるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ、神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命をたどることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。
(†インペレーター)


――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。

それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!
(†インペレーター)


〔注〕
(1) the Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。
(2) the Pharisees 儀式・慣習等の伝統を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。

第11節 霊団による著者への支配の強化
〔この頃には迫ってくる霊の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが何の反応もなかった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。考え始めるとすぐにその影響力が中に割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。ところが今や私にとって全く新しい考え――それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆しかねない思想を突きつけられている。七月二十六日、私は前回のインペレーターの通信に再び言及してこう述べた――〕

――あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。一体あなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。また、そのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。また、あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。

友よ、これほど真摯にして理性的質問を引き出し得たことは、われらにとりて大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心――その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、全てを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に適うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性ある真面目な心の証として称賛する。従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悶のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

そなたの抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。そなたがわれらに挑む議論は、神の使者として述べた言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。そなたの煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある超えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。われらは人間の世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷に持ち出す類の証拠を提示するわけには参らぬ。ただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう――証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携わる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている(1)。そして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、そなたは決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。そなたがあくまでもそれでは納得できぬと言うのであれば――もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めたる情報に過ぎぬと言うのであれば、われらとしてはそなたとのこうした霊的交わりのもつ霊的雰囲気に注目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄(ぶどう)を収めざるなり”(2)とイエスが述べた判断の基準を思い出して貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券(こけん)に係わろう。そなたがこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後はそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

われらの霊団の各霊――地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

差し当たりここで人間の地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる“自説(オピニオン)”というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目隠しをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目隠しをされている今はそれが判らぬ。一方、程度こそ違え全ての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

ああ、友よ、そなたら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によりて十分に包括し得るものである。かの神学的産物――神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまず)きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差し伸べつつなおも光を求める。

かくの如き彷徨(さまよ)える魂はそなたの目にはみな同じように映るかも知れぬ。が、われら霊界の者の目には実に多くの相違点のあることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にありて必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。が、われらより見れば、そなたらが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、そなたらが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。また、われらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過した後でしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を現し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが或る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によりて生長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、生長を阻害されるということである。しかし、神と、己のたどる宿命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、皆その低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

これでそなたにも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことが出来る。ギリシャのヒポリタス(3)が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その説教の言葉に力と真実を賦与した。

かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神および聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによりて、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

彼らにとりて今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力――ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決してそなたが考えるほど不可能なことでないことの理由が、これでそなたにも得心がいくことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみてそなたを選んだのである。その判断に誤りはない。われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれそなたもその合理性に得心がいくであろうことを確信する。その絶対的証拠は? と言うのであれば、それはそなた自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りをするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、そなたが少しずつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。どうかイエスが人を裁く時に使用せる判断の規準――己が裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまでに交信せる様々な霊によりて種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらはそなたをわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えずそなたの観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたりて必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。われらの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点は避けてきた。そうした、これまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでもそなたの方より、われらが明らかに誤りがあり何時(いつ)までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

われらの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所よりそなたを運び出さんとする動きがよく見て取れる。それを見てわれらはそなたをその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、そなたの魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立てぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。そなたの思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、かりに援助してそのロープを締めていたならば、そなたの魂は死物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。そなたの心の態度一つでわれらはそなたをその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助するであろう。

こうした作業において、われらはそなたに過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても、指導を誤ったことはない。そなたをごまかしたこともない。そなたに与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくならそなたの精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しく且つより真実に近き見解を育(はぐく)み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても偽れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさとそなたの精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、そなた自身の先入観の影響が大いにある。そなたの精神が受けつけようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつかそなたが曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛(さいな)まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それがそなたの綿密なる目には矛盾として映るのであろう。が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力がそなたを導いていたことを知るであろう。

そなたはわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についてもそなたは真相を知らぬ。お粗末な継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰――対抗するものではなく補足補充するもの――と置き替えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、そなたが思うより遥かに近く迫りつつある。

友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられて行くであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以て考えてはならぬ。また、われらの視界はそなたらの視界の如く狭く限られたものではない。いずれわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時をそなたもわれらも共に待たねばならぬ。

われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。それを受け入れるか拒否するかはそなたの選択に任されている。が、そなたおよびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は、浅薄なる頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者、独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に泌み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見出す者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋(すが)らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。そなたおよびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進化と共に徐々に向上しつつあるということである。本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝説的教説――単に古き時代のものという意味での伝説的教説――を金科玉条とする盲目的信仰に代わりてそなたの理性に訴えるということである。軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者であるということだけで、われらの教説――単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説――を信じて貰おうなどとは、さらさら思わぬ。理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらがそなたにその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされて来た教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め(4)に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑(かんが)みて説かんとするものである。

“そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ”と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が初めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。収穫にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨にうたれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収穫の季節を迎える。耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が、手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

次にそなたはわれらがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を贈り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち――人類に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説――イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによりてイエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒涜する者はわれらにはあらず、彼らなのである。

われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒涜し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎(おろそ)かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することに他ならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑に遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、生長を止める。“儀文は殺す。されど霊は活かす”(5)とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わりてわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義よりそなたたちを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするものである。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。そなたも細心の注意をもってよく熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) 巻末「解説」参照。
(2) ルカ 6-44
(3) ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてインペレーター霊団に属している。 「解説」参照。
(4) モーセの「十戒」。
(5) コリント後 3-6

第12節 著者の苦衷と不信
〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私がたどって来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程をたどっている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶(とだ)えていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”であった。その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであるという印象を拭い切れないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者のほうが上であった。また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私はさきに述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である――〕


友よ、再び対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に質問の全てに答えることが出来ず、また全てを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

そなたの誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念にあるやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものは何の霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを規準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

かくして出来あがれる神は全てに先んじて己の名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心を持つ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかくあるべきであると想像せるものであった。要するにそれは栄光を授けられたる人間――普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長と共に進歩する。その知的発達と洗練の度合に応じて進歩したものとなって行く。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神について正しき概念を把握することが可能となるが故である。

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。故にこれ以後もわれらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代のそなたの観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念が即ちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対にあり得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

それ故そなたが神の働きの真意にまで言及して“そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神はそのような行為に出られなかったからである”と述べるということは、言い換えれば“私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである”と述べていることになる。われらが指摘せんとするのはまさにそこである。そなたはそなた自身の神を拵え、そなた自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち――この地上にせよ死後にせよ――そなたの視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、“なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう”と述懐する日も到来しよう。

これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとは限らぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

さてそなたはそなたなりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示――人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示――が流入したと言うことも出来よう。

それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

そなたたちが抱いている神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしもそなたの欲求とは一致せず、従ってその神は――と言うよりは、神についての見解は、そなたの見解とは異なる。それをそなたはどうにかしてそなたの思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

よく考えるがよい。そなたはわれらの述べるところの観念が、そなたが聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬと言う。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪――今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪――に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

さらに、われらの教えはそなたたちのいう大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬと言うのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神――半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾するとそなたは言いたいのか。パウロかヨハネか、それともイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。即ちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた朧気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。“天に在(ま)しますわれらが父”――無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何という違いであろう!

神! そなたは神を知らぬ! そのうちそなたも、その目を遮るベールの内側に立てる時、そなたが愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそそなたの想像せるものとは異なる。もしも神がそなたらの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼なる人物に報復すべきところである。

が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、神は低劣なる観念をいつまでも後生大事にする愚かさ――己の偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、そなたはまさかその類ではあるまい!

もしもそなたが軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てた、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けしむるに至ったのである、と。

もしもわれらの述べる神および死後の生命についての言説に何一つそなたの心に訴えるものを見出し得ぬとすれば、それはそなたの魂がかつて喉を潤せる、より雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶんそなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲がそなたに恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害がそなたに及ぶとは危惧しておらぬ。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大なる問題、神につきてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒につきて、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。想像の産物に過ぎぬ“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純心なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ち受けている。悪魔などは、自ら創造せぬかぎり、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当たる霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食(えじき)とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己の無力さを感じ、良心の苛責に苦しめられることもあろう。が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは絶対にない。そうした懊悩も悲しみも良心の苛責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性癖そのものが悪を引き寄せる。招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきにそなたは軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いた低級なる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるベきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたに過ぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落の道へと引きずり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるベきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。そなたらの想像せる物的炎(ほのお)ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるベきは善霊を偽りてそなたらをごまかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる低級霊たちである。

これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる(2)。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がそなたの悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) John Calvin 十九世紀の神学者、宗教改革家。カルビンとも。
(2) 高級神霊界においては「讃仰(さんごう)の祈り」という儀式がよく行なわれる。

シルバーバーチ霊が語っているところによると、とくにイースターとクリスマスの頃には地球浄化の大事業すなわち「スピリチュアリズム」に携わっている世界各地の霊団の指導霊が一堂に会し、計画の進捗(しんちょく)ぐあいの報告と今後の方針の決定が為される。その時の主宰霊がほかならぬ地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物であるという。

無論これは「ナザレのイエス」として地上に降誕する以前から行なわれていたはずで、日本神道の祝詞で八百万の神々が「高天原に神集えに集え給う」と述べているのは、そのことではなかろうか。

第13節 再び著者の反論と苦衷の開陳
〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行なわれていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

が、その主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆えされることになるという危倶を拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは火を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。各種の神学上の著作――ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学――に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備は出来ていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに、私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備は出来ているつもりでいたのである。

ところがインペレーターの言葉はまったく問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に係わることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならぬと考えた。とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると次のような通信が来た――〕


良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題につきては、深く考えるために十二分に時間(とき)を費す必要がある。われらはいずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説をそなたの熟考にまかせよう。疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

寒々として霊性を寄せつけぬ地上生活にありては、そなたたちの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによりて如何に強く促進されるものであるかをそなたたちは知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることであろう。博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ち受ける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。何んとなれば、そうした努力によりて掴(つか)みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによりて結果もまたさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の表れ方も異なるのである。

無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び――悲しみによりて絞り出されたる叫び――それ自体が魂の救済であることがある。が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める“神秘の間”に入る者はよほどの霊性を開いた者に限られる。同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それがそなたらの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待する通りのものとは限らぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねぬのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的とも言うべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強(じ)い的、かつ非現実的哀願のみに費す礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ! 祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び――これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは魂と魂の直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みを言うのである。

言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めた生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種の者にはわれらの方からも近づき易い。外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥探き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。そして不断の祈りによりて彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の生長にとりて必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることが出来るのである。

ああ! かくの如き素晴らしき摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか。この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを。霊性の自覚によりて、覗き趣味的好奇心に駆られ、己の分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。たとえ完全には免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ絞切り型の嘆願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係わる問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に係わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。その収拾にそなたが係わる必要はない。またその中のいずれがそなたにとりて不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今のそなたには係わる必要はない。今のそなたには絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間を掛けねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならぬことは幾らでもある。

このことにつきてはなお言うべきことがあるが、差し当たりて必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらとそなたとを護り給い、われらが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。
(†インペレーター)


〔右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いを巡らした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして、代わってその手が激しい勢いで別のことを書き始め、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕

待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。そなたはせっかちに過ぎる。しかも下らぬことばかり思い巡らしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それがそなたに何の意味があるというのか。何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。それすら理解できぬようでは先ヘ進む資格はない。かの古き教義や信仰――当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合よき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものをわざわざ求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説――今の時代には生命を失いたる言説を超えて生長したからこそである。それはもはやそなたの益にはならぬ。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

然るに何故にそなたはそのようなものに心を煩わせるのか。何故にそなたはすでにそなたにとりて何の意味も持たぬものから意義を見出そうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声に何故に耳を傾けようとせぬのか。一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり――神及び人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それがそなたにとりて何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きをもってそなたの魂に訴えている。それはそなたにも判るであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはやそなたにとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう――“何故にそなたらは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は蘇れり”(1)と。そこでわれらもそなたに言う――何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空(うつ)ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見! われらはそなたにその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、そなたとそなたの世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔もまったく同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理ヘ導かんとされる。その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとりても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が、生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路である。肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由の世界へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一(ゆいいつ)人間を自由にするところの真理による自由(2)である。そなたには今は理解できぬかも知れぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

これがわれらの切なる声である。そなたは何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の係わりがあると言うのか。古き教えにはすでにそなたにとりて生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見出す者に任せるがよい。そしてそなたはより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と訣別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

もっとも今のそなたにとりては、そうとも言えぬようじゃ。そなたにとりてはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的なものではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。われらがそなたに理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる生長である。より広き知識の発展である。

イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見出すであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(3)の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くベきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風(なみかぜ)の立つことを望まぬ者にとりてわれらの言説が忌々(いまいま)しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。

今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによりてもたらされた。人々の想像もせぬ人物――およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、倣慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙りてキリスト教界の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹きを吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。

われらの啓示の源は民衆によって“ナザレの大工”と蔑(さげす)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけの侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。彼らはイエスの起こす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が、彼らは十字架上のイエスに向いて“その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい”と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。民衆はイエスを“ペテン師めが!”と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新らしきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹きを吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

われらの説く神の真理は、イエスがあの時代――地位と身分ある教養人すなわち“パリサイ派や為政者”の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代――に説ける真理と同じく、そなたたちにとりていささかも奇異なるものではない。どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ(4)の気持ちを察するがよい。そして、それをそなたたちの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) ルカ 24-5
(2) ヨハネ 8-32
(3) the Sadducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在を認めなかった。
(4) Nicodemus パリサイ派の一人で議員でもありながら、イエスの隠れた弟子であった。
第14節 目に見えざる師を信ずることの困難さ
〔前節の通信は、私に少なからざる影響を及ぼした。即座の反論が出来ず、次の通信まで何日かの間(ま)が必要であった。いよいよその通信をする気になった時、私はまずこう反論した。〕

――キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってキリストの言説に耳を傾けている図は私にも容易に想像できます。今の時点で言えばそのサドカイ派の学者は間違っていたことになります。それは判ります。しかし私が思うに、それは実に無理からぬことだったのです。理性の光だけで判断すればキリストの言説は途轍もないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者が、虚言か妄想としか思えぬものを拒否したのも無理からぬことでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度はなかったとしか思えません。ただ彼らの場合は、その途轍もないことを言う人間が目の前にいたということ――姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べることが出来たということです。その点私の場合は影も形もない、ただの影響力であり、もしかしたら、自分の中だけの心と心の葛藤に過ぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それも極めて曖昧で、しかも往々にして軽蔑したくなるものばかりです。啓示だと言われても、愚かと言うのが言い過ぎなら、得体が知れないとでも言わざるを得ぬもので、聞いてショックを受けることもしばしばです。私はどうして良いのか判りません。あなたという存在についても、私は何も知らないし、果たして一個の独立した存在なのかどうかも判りません。あなたに関して得心のいく手掛りは何一つありません。たとえ曾て地上で生活したことがあると証言しても、私には大して意味はありません。あなたは一体個性を具えた存在ですか、それとも単なる影響力に過ぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば幾分か救われる気がします。しかし、とにもかくにも、出来ることなら私には一切構わないでおいて頂きたい心境です。

〔正直いって、その頃の私は自分の強固な信仰と、強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克によって頭が混乱を極めていた。そしてそれが来(きた)るべき段階への一つの準備としての体験であることは明らかであった。〕

友よ、そなたの疑問とするところはよく理解できる。われらとしてもその疑念を解く手助けを致したく思う。まずそなたは例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけ有利であると言う。なるほどイエスは目に見える存在であった。が、そのことは有利であるどころか、むしろ一層困惑を増すものではなかったであろうか。何となれば、目の前にいるイエスなる若者はナザレの大工の息子である。それを神の新たなる啓示者と結びつけるのは、そなたがわれらを神の使者と結びつけること以上に困難なことではなかったであろうか。サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれらのことを“これは一体個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻なる問題ではなかったであろうか。イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れたることの出来る明白なるもので、しかも、およそ好条件とは言えぬものばかりが揃っていた。生まれは卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところが全ての民衆から背を向けられる。こうしたことは全て現実であり、如何ともし難き不利な条件であった。あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどであった。故に、たとえサドカイ派の学者がイエスの言説を理解し得ず神の使者として認めなかったとしても、その学者には何の咎もない。それは単にその学者が、より成長した折に再び訪れるであろうところの進歩の好機を逸したということに過ぎぬと言えよう。

そなたの場合はそれとは事情が異なる。そなたには目を惑わす困難は何一つない。知的疑念と闘っておればよい。しかもこれまでそなたに語られた言葉が神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるところであろう。その説くところはそなたが必要性を痛感せるものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさに溢れ、しかもそれを受け入れる用意のあるものには強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた自身以外の源より発していることは十分に得心していよう。何となれば、もしもそなた自身の内部の源より無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向より衝突することは有り得ぬくらいのことは当然そなたも認めるであろうからである。もしもわれらの述べるところの言説がそなたの精神より自然に発するものであれば、そなたもその公表に躊躇する余裕をもつことも出来よう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説はそなた自ら納得できぬであろう。そうでないことはそなたもすでに得心している。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではない。やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、何故われらのことをそなたらと同じく“人間”と呼ぶ形体を具えた知的存在であることを疑ったのであろうかと不思議に思える日も到来しよう。

さよう、いまそなたに必要なものは“時間(とき)”である。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間である。かくまでそなたの心を深く――その深さはそなた自らの想像すら超えるが――動かせる言葉は、そなたの思いに通じ、そなたの苦しき立場を理解し、さらにそれに劣らず、いまそなたを悩ます懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉である。地上時代、余はイエスの出現に先立てる苦難、いま再び繰り返されつつある苦難の世相の中にて使命を担わされし者である。歴史は巡り来るものである。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わらぬ。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになる。が、昼のあとに必ず夜が訪れる如く、神の概念が薄れ、非現実的となる時代が訪れる。すると、より明確なる知識を求める神の火の粉が再び炎となって燃えあがり、天に向いて神のメッセージを求める。そこに新しき啓示の必要が生じる。人間の魂がそれを希求するのである。古きものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中より新しきものが芽生える。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉に外ならぬ。いつの時代にもそうであった。そのことはそなたも知っていよう。こうした神と人類とのつながりは全歴史を通じてたどることが出来る。それが何故に今の時代にそうであってはならぬのか。人類が最もそれを必要としているこの時代に何故に神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのか。

余について何も知らぬから、とそなたは言う。しかし何故にそなたは啓示そのものと啓示を持ち来れる者とを混同するのか。何故に神の訓えと、その訓えを伝える通路に過ぎぬ者とに同一価値を置かねば気が済まぬのであろうか。

〔こうした議論の結果ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰に一つの確信を得ることが出来た。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓とそれを伝える者(インペレーター)とを区別することも出来るようになった。私はこうした一連の論議――その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが――を再度始めから目を通し、そこにまさしく新しき啓示と言えるものをようやく見出すことが出来た。通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没してしまった。私はその時に至って初めて燃える炎の如き強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持がその確信の炎にかき消されてしまった。

実はそう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに私の若き日の宗教的修業もそれを許さなかった。私の頭には再び神学的見地からの反論が蘇った。その最初の波が去り、二日間の間(ま)を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを繰り返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去一年間に亙る交霊の経験の価値評価もしてみた。そして次の三つの明確な結論に到達した。すなわち、私に働きかけている“影響力”は、(一)私自身とは別個の存在である。(二)その述べるところは真実であり、首尾一貫している。(三)その宗教的教説は純粋であり、崇高さがある。 以上の三点は間違いないように思えた。そこで更に私はその身元の確認と主義主張の問題を洗ってみた。その他の問題は後回しにしても良いように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今なお誠実である筈だと強く信じ込む気持になった。が、そこでふと疑念が頭をもたげた。もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆さんと企んでいるのでは……という疑念である。そこで私はこう書いた――〕


――私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させて頂けば、あなたの教説は取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは(これは言い過ぎでしょうが)無神論にもなり得る性向をもっているとも言えないでしょうか。それは神を単なる一種のエネルギーと見下げることになり、人の心に絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。つまり神とは宇宙に瀰漫する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示と言っても、それは神から真理が明かされたのではなく、人間の心の中で想像したものに過ぎないことになります。キリスト教もそうして生まれた信仰の一つに過ぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は程度の差こそあれ盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、一人一人が自分だけの特殊な神をもつことになります。数学以外には絶対的な真理が存在しないことになります。結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位に過ぎぬことになる――それも知性が硬直化しなければの話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性があるという皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は絶対的神性を有するキリスト教の福音に取って代わろうとするものです。キリスト教の教説には寸分の誤りもなく、その道徳性は殆ど誰にも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることが出来なかったのです。なのに、あなたが説くような善の影程度しか持たぬ哲学――まさに影のみの存在で、漠然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代わる未来への建設力を持たぬ教説に、どうしてそれが出来るのでしょう。その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教のもとですら手を焼いた反抗的民衆の心を捕らえることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠ってくるところが不明瞭であることについてはすでに述べたので繰り返しません。またそれが一般に普及した場合の危険性についても改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先のことであり、ここで詳しく述べる必要性を認めません。同時にあなたの教説が広まると道徳的、社会的、宗教的に人類にとって欠かすことの出来ない健全な結びつきを多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄なる軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。こうした危惧はまったく私の杞憂に過ぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代わりになるものとは思えません。たとえあなたの主張する通りの真正なるものであるとしても、人間はスポンジケーキだけでは生きていけないように、このような教説に従って生きることには耐えきれないでしょう。その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣なる面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。

神の御名においてわれらはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれらの手に余るものがある。われらの述べたところの真意を正しく理解しておらぬようである。襲い来る感情の激動が精神を混乱せしめ、微妙なる点の理解を不可能にしている。それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことである。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行である。いま理解できぬことも、そのうち判るようになるであろう。衝動と熱情が経験的知識と静なる確信へと変わり行くであろう。これまで、理解して受け入れるというよりは単に譲歩したに過ぎなかった信仰は、いかに崇高であれ、入念なる吟味と論理的分析より生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われらの述べたところはその吟味と分析に値するものばかりである。これまで書かれたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもって貰いたい。そしてそなたとの交信に一貫して流れるものを読み取って貰いたく思う。そしてわれらがいかなる素性の者であるかはそなたとの係わり合いの中で判断して貰いたいのである。前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時にわれらの言葉と態度、われらの説く教説の道徳的印象によって判断して貰いたい。細かき分析によって論理的あら捜しをするのもよいが、それと同時にわれらから受ける霊的雰囲気によって判断して貰いたく思う。

差し当たりては、われらが神の使者であることを厳粛なる気持ちで繰り返し主張するに留めておこう。われらが述べる言葉は神の言葉なのである。それはそなたにも判っているであろう。その弁明に改めて言葉を費すこともあるまい。そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではない。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもない。悪魔ならば神につきてわれらの如き説き方はせぬ。また、人間の脳からはわれらの述べたような教説は出て来ぬし、われらの与えたような証言も出て来ぬ。精神が今少し穏やかになればそなたにもその事実が読み取れるであろう。そなたの精神が今の如き状態でさえなければ、神聖なるものに悪魔的要素を見出さんとしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところである。それはちょうどイエスが地上の腐敗と災禍の中に在りし時、彼によりて追い払われたる悪魔がユダヤ教の狂信家たちの口をつきてイエスは魔王の手先であると非難したのと同一である。われらはそのような他愛なき非難には係わらぬ。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからである。じっくりと時をかけて熟考すれば、自ずとそなたの疑念に対する回答が出てくるであろう。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが理屈抜きの激情から発したものでもよい。とにかく、われらと共に、啓発と耐える力を求めて祈ることである。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るがよい。光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのである。そして解き放たれたるのちも堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈れ。そなた自身の求めるところと、他人の影響とを截然と区別せよ。そなたにとりて正しきものを選り出し、他人は他人なりに適切なるものを選ぶに任せる大らかな心を求めて祈れ。選択と拒絶の責任を明確に認識し、一方において頑固なる偏見を避け、他方において安易なる軽信に流れることのなきよう祈れ。就中(なかんずく)、正直さと、誠実さと、謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷と下劣さによって神の計画を損うことのなきよう祈るがよい。

かくしてわれらの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手を差し伸べんとして待機する高き世界の神の使者の愛と慰めを引き寄せることになろう。スピリチュアリズム普及活動の一般的趣旨に関するそなたの批判につきては、すでにその大半に答えたつもりである。表面的活動の底流にはそなたの目に映じぬ或るものが存在することを述べた。いつの時代であれ、神の知識の発達過程においては、人目につかぬところで密かに新しき啓示を貪(むさぼ)り求め、さらにより高き真理を求めて着実に生長しつつある者が必ずいるものである。今の時代とて同じことである。そなたと同じく、酔狂に心霊現象を弄(もてあそ)ぶ者たちを憂えつつも、それによりて些かも信念を揺るがされることなく、真摯にわれらの霊訓を心の支えとしている者がいる――実に大勢いるのである。

さらにそなたに指摘しておきたきことは、われら霊界の者と地上との霊交は地上の科学の尺度で計れぬ法則によって支配されていることである。われらの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われらにすらよく判らぬものが多くある。そなたの保護のために勝手に法則を規定するわけには参らぬ。われら自身の保護すらもままならぬのである。そなたの係われるこの仕事の遠大なる重要性につきては、この仕事に興味を示す者にすら本当のところは殆ど理解されておらぬ。多くの場合、単なる好奇心の程度を出ておらぬ。それより更に下劣なる動機に動かされる者もいる。霊媒の管理が適切を欠いている。ために霊界との連絡のうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労気味の者もいる。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なる。われらとしてもその条件の変化に必ずしも対処できるとはかぎらぬ。出席者の構成が適切を欠いていることもある。そうした諸条件の重なり合いが交霊現象を常に同質のものに保ち、規則正しきものとすることを不可能にしているのである。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにする要因もそこにある。この問題につきては言うべきことがまだ多くあるが、今はそれ以上に大切なものが迫っている。いま述べたところにより、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、通信を寛恕の目をもって評価せねばならぬ理由の一端が判ってもらえるであろう。偽りの現象の侵入する交霊会に至りては今は述べる言葉を持たぬ。よほど低級なる霊の仕業であり、全て信ずるに足らず、不愉快きわまる。

その点に関してそなたにはわれらの手助けが出来る筈である。愚かなる好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいはそなたにできる筈である。と申すのは、そなたはわれらのサークルにおいてわれらの指図通りに行ない、現象が徐々に発展して来た経緯を知悉(ちしつ)しているからである。他のサークルの者たちにも同じ指図を与えるがよい。やがて暗雲も晴れることであろう。もっとも交霊会にまつわる問題の原因はわれらの側と同様にそなたたちの側にもあることだけは確かである。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) Deism 超自然的啓示を排し、理性と自然のみを頼りとする有神論。
(2) Pantheism 自然のすべてが神であるとする説。

第15節 スピリチュアリズムの宗教性
〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか――それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕

『スピリチュアリズムの宗教的教訓』

そなたはわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本を見る思いがする。全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しきかぎりの不毛なる思想について、われらは最早や言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらはそなたらが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在――もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格をもたぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただし、その存在の本質と属性はその働きと人間の心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。そなたの抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たりて問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。絶対的完全性が有り得ぬ如く、今のそなたの未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべくもない。そなたはまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの――地上より遥かに掛け離れたわれらにとりてもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそそなたの置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。そなたにとりて真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てをそなたに啓示しようなどとは思いも寄らぬ。われら自らがまだまだ無知であり、神秘のべールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念――これまでそなたらが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

これまでのところわれらは、そなたが筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、そなたの聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解というほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え――悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え――過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる“縺(もつ)れ”を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によりてその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬのであろうか。そうしたわれらの教説と、そなたらの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変化によりて、眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとのそなたらの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によりて知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによりて少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの教えであろうか。それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によりて魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、そなたにも明々白々である。なのにそなたはわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置き替えんとするものであると言う。否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。キリスト教神学はいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

敢えて言おう。われらの説く信仰のほうが遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。神の啓示としてそなたに授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によりて導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。

〔総体的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない――少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた――〕

その点につきてはわれらも述べたいことが多々ある。これよりそなたの誤解を説き明かすべく努力してみたく思う。まず第一にそなたは人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。見よ、彼らは結果によりてのみ知らるベき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。そなたの耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。そなたが世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。そなたの知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実はそなたの目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとりて最も理解し易き手段にて神より授けられている――そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在についてはそなたは何も知らぬ。そなたの視界に入らぬのである。入らぬのであるが、しかし現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

かくの如くそなたは一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、そなたが下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、そなたにはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他の全ての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉にて語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

この種の人間は、高き天使の声――いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声――によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち――その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によりて進歩を阻害され、歪める精神的教育によりて拘束を受けることも有り得る。同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によりて地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段は余りに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救い難き無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。そなたの耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻りて発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が篭っている。その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するよう指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。物理的演出についてはそなたもすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によりて霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足がかりとして意図され、或る者にとりては価値ある不可欠の手段なのである。

そこでわれらはこれより、そなたが腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、そなたにとりて左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊をそなたは“悪”の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

悪の問題につきてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、そなたの想像するが如き悪の仕業ではない。

悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらとそなたを取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それはそなたが想像するようなものではない。見た目に常軌を逸するもの、垢抜けのせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。そうした観方は途方もない了見違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろそなたらの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。しかも、洗練された者に反発を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。そうでないことはそなたにも判るであろう。前者は少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的も持たぬ人間とはわけが違う。死者の中より甦ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。それは、生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには“ささやき”程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。何となればそれは、新たにかちえた確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命につきての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されて来たのである。

今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。そなたにとりて、そしてまたそなたと同じ観点より眺める者にとりてはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとりてはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

今こそそなたにも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

常に分別を働かさねばならぬ。その渦中に置かれた者にとりては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

そなたの提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて――さらばである。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) 死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰を指す。

第16節 これまでの霊信の総括
〔思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて逆に次のような通信が来た。〕

これまで述べてきたところをまとめる意味で今少し述べてみたく思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたぬことを十分に理解しておらぬ。そして、むしろわれらの述べる言説の方が人類の必要性と願望を満たする要素をもつことも理解しておらぬ。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ぬものをここで指摘しておく必要がありそうである。

人間界に蔓延せる死後の問題の無頓着さが何を意味するかをそなたは理解しておらぬようである。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかぬということである。つまり理性的に観れば、神の啓示が全てであるとする聖書には、人間の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断規準さえも耐えきれぬこと、そしてまた、理性は啓示の判断規準に他ならぬが故に、啓示はすべからく知的判断の範囲外に置き、ただひたすらに信ぜよとの牧師の言葉は、実は決して誤らぬはずの福音の中に数多く発見される誤りと、矛盾を被い隠すための巧妙なる言い逃れの手段であることは容易に知れる。理性という試金石を使用すれば、その程度のことは立ちどころに知れる。理性をもたぬ者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていく。そして教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから一歩も出ようとせぬ。それもただ、それに疑義をはさむことが恐ろしいからに他ならぬ。

宗教上の問題につきて、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の生長をほぼ完全に阻害する。魂というものはその欲求を満たすと満たさぬとに係わりなく、一つの因習的宗教によりて縛りつけられるものである。魂の生命の糧を自ら選択する自由が皆無となるからである。遠き祖先にとりてはそれで良かったかも知れぬことも、時代を異にして苦悩する魂にとりては全く無意味なことも有り得る。故にその自由を奪われては魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになろう。キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたらの言う異教徒になるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになる。その神がインディアンの言う大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその預言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも――要するに、その宗教的観念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的拘束力をもつことになる。何となれば、いずれの国にありても古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからである。

この事実はそなたにとりて熟考を要する問題である。いかなる宗教といえども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけらるべきものではない。それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものである。その妄想にしがみつき、われこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込みたる者を見ると、われらはそのけなげなる気持ちに微笑(ほほえ)まずにはおれぬ。もっともその思い上がりを笑われ、その思想を蔑(さげす)まれるのが落ちであるが……

秀れた学識を具えている筈の神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせているが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条に過ぎぬことに今まで気づかずにきたこと、そして今なお気づかずにいることは、われらにとりて驚異というほかはない。神の真理は太陽の如く、あまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できぬ。それは是非とも地上の霊媒を通すことによりて和らげる必要がある。すなわち、光に慣れぬ目を眩まさぬように、人間的伝達手段を通すことによりて幾分か光度を落とさねばならぬ。その中間的介在物を通さずに直接真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て天上高く舞い上がった時である。

地上の全ての民族にそれ相当の真理の光が授けられている。それを各民族なりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもある。いずれにせよ結局はその民族なりの必要性に応じて変形されてきた。故に地上のいかなる民族といえども、真理の独占を誇り、あるいはそれを他民族に押しつけんとする無益な努力が許される道理はない。地球が存続してきた限りにおいて、全ての宗教――バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も、それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ勝手にそれを真理の全てであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続者であると自負したに過ぎぬ。その過ちを最も顕著に示しているのが他ならぬキリスト教である。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じておりながら、その実、教会内部において相対立する宗派が最も多いのもキリスト教であるという事実が、それを何よりも雄弁に物語っていよう。キリスト教界内の分裂、その支離滅裂の教義、互いに神の愛を独占せんとして罵り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことはキリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かなる自負に対する絶好の回答である。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつある。その新しき啓示の普及による啓発の前に、そうした宗閥的勢力争いも消滅するであろう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意が出来ているのである。その暁には、各宗教には中心的太陽とも言うべき神の光の一条のみが与えられているに過ぎぬこと、しかも、その光が人間の無知によりて曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知るであろう。故に人間は他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、これまで己の欲求にそぐわぬと思えたものの中にも神聖なるものを認識せねばならぬ。

われらがその普及を使命としているところの壮大なる霊的教訓は、理性的観点からすれば、合理的にして且つ崇高なるものであり、その普及によりて、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の嘲笑の的としてきたところの宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上より払拭される日も間近い。それにしても、何たる醜態であることか! 本来ならば神の本性を明らかにし、そうすることによりて神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学であるものを。ああ、それが事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しき感情をむき出しにする不毛の土地と化し、神につきての無知を最もあらわにさらけ出し、神の本質と働きにつきて激しく非難し合う佗しき荒地と化してしまうとは! 神学! これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っているではないか。神につきての無知の証とも言うベき退屈きわまる神学書は、見苦しき悪口雑言、キリスト者として最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりである。神学! 聖なる本能の全てを掻き消し、敵に向けるベき攻撃の手を同志に向け、聖者の中の聖者とも言うべき霊格者を火刑に処し拷問にかけ八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし或いは追放し、人間として最高の本能を堕落させ、自然の情緒を掻き消すことを正当化するための口実とされて来たではないか。何たる悲しきことであることか。そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界より一歩でも出ようとする者を押し止めんとする。“退(さ)がれ! 退がれ! 神学のあるところに理性の入る余地などあるものか”これが神学者の態度である。真摯なる人間を赤面せしめる人間的煩悩の殆ど全てがそこにあり、自由なる思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化している。

本来ならば神について語るべき叡知を人間はそのような愚劣なる目的のために堕落させて来たのである。

しかし、友よ、われらの目的成就の日も間近い。神学による悪癖をいつまでも放置しておくわけには参らぬ。今はまさにイエス・キリストの降臨前と同じである。夜明け前の漆黒の闇と同じである。無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつある。聖職の権能によりてがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸せる愚行、無知が生む偽善、そして曖昧模糊たる思索の産物に代わりて、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れよう。その時は神につきてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命につきてのより正しき見解を手にするであろう。人間の言う死者が今なお生き続けていること、それも人間より一段と生命の実感をもって生きていること、しかも地上時代と変わらぬ情愛をもって加護に当たっていることを知るであろう。

キリストは地上に生命と不滅性をもたらしたと聖書にある。その言葉は筆記者が意味したより広き意味にて真実である。キリストによる黙示の成就は――今まさに成就されんとしているのであるが――真実の意味における“死”の観念の撲滅であり、生命の不滅性の実証に他ならぬ。その偉大なる真理、すなわち、人間は永遠に死なぬということ、たとえ死にたくとも死ぬことが出来ぬという事実の中に、未来への鍵が託されている。信仰の一つとしてでなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実の一つとして、生命の不滅性は未来の真の宗教の基調であらねばならぬ。われらの説く深遠なる真理も、崇高なる義務の概念も、壮大なる宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すベてその生命の不滅性の上に成り立つのである。

今のそなたには理解できぬかも知れぬ。炎に慣れぬ魂は目が眩むことであろう。が、やがてわれらの言葉の中に真理のしるし――神性の一面を認めるようになる日も来よう。
(†インペレーター)


第17節 著者の不満と要望
〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反発しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中でどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。 (一)インペレーターの地上時代の身元、 (二)イエス・キリストの本質と使命、 (三)通信の内容の真実性を示す証拠。 私はこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。同時にこれまでの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信が持てるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足と言えるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である――〕

友よ。そなたの述べることには率直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも、そなたはわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが……。そなたの(われらの身元についての)要求については、そなたがそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけには参らぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。申し添えるが、そなたの要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとてそなたの心に確信を植えつけんと切に願っている。が、そうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとりてこの上なく残念なことであり遺憾に思う。そなたにとりてもわれらにとりても残念なことである。が、結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところそなたの心に得心がいかぬとみえる。ということは、そなたにそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐強く待つとしよう。

そなたの提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要と見たものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。単なる見解の相違の問題につきて深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。そなたの今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それともそなたが主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところである。そなたの視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。またそなたがわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性はそなたも認めている。その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。そなたがわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

われらとしては、そなたのことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今のそなたの混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことであろう。が、万一そうではなくそなたが失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が、使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなた自身にとりても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。自由意志による判断に基づきてあくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかはあるまい。

われらの身元についてであるが、そなたの要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々に提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。が、われらの教説はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実体なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておく。

とは言え、今のそなたの精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く神の味方であるとすれば、そなたの言うが如き、世間から嘲笑をもって受けとめられるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。が、もしもわれらがそなたの思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、そなた自ら問い直してみるがよかろう。われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

われら自身のことはどうでもよいことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今のそなたにとりて最も大事な問題はそなた自身のことであり、そなたの未来のことである。そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。そなたを中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。われらも暫し身を引き、そなたにその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことはそなたを一人置き去りにするということではない。より一層の警戒心をもつ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊がそなたのそばに待機するであろう。その方がわれらにとりても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すベきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを“時”が判断してくれるかも知れぬからである。いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらもそなたもあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めてそなたに送るとしよう。きっと一層の効果をあげるであろうことを確信する。

では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。
(†インペレーター)


〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊はZOUDと名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った(1)――〕

われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。

〔この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が――〕

それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持は山々である。が、あの会場への出現は(インペレーターから)止められたのである。しかも、われわれは貴殿の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の貴殿には毒になるばかりである。禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。今必要なのは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことのほうが遥かによい。全てインペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。

――しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。

友よ。そなたの要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、そなたの求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それがそなたにとりて益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。

〔これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。その一つは例の「私と父は一つである(2)」という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた――〕

そなたの引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭(3)に出席していた。その折そこに集まれる民衆が“もしもあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい”とイエスに迫った。彼らは今のそなたと同様に疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによりてもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。またそれを理解する備えのある者――イエスの言う“父の羊たち”――はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。が、質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信ずる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類の全てに新たなる息吹きを吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった――「私と父は一つである」

イエスはそう述べたのである。が、そのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。が、その心に陰日向(かげひなた)の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した―― 一体自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその倣慢不遜の態度を非難するのであると。そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すベてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業を見よ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどという意味はかけらもない。むしろその逆である。

〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、インペレーターがしゃベった(4)。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

それから夏休暇(5)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドヘの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にインペレーターからの別の通信を受け取った。これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠言を受けた。〕


これまでたどれる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲でそなたのために尽くせるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今そなたが目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらはそなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めはせぬ。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、そなたの性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところそなたはあまりに破壊的過ぎるのである。

さらに友よ、そなたの抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。が、それは(仕事の性質上)やむを得なかったと言えよう。が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

ムキにならぬことである。そなたにとりて目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することは止めよ。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今のそなたにとりて目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、そなたの知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。
(†インペレーター)


〔注〕
(1) インペレーターの指揮下にある別の霊による。
(2) ヨハネ10‥30
(3) Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4) スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。
(5) 当時モーゼスは学校の教師をしていた。