〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると初めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕
状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求めるのは明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいく。もっとも、われらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとりて何が最も適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。
われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。そなたに、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によりて魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとりては障害であり妨害となる。
そなたの質問であるが、これまで幾度も述べた如く、われらはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。古き言説につきては、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的(1)学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳格にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。
こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見出すとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索するほうが、真理を求むる魂にとりてどれほど良いか知れぬ。神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、一片の霊性もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。
確かに、そなたの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとりて、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見下ろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、すべての起伏を避けつつ歩む。そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破滅を意味する。思考することは結局は迷いに終る。信ずることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい――そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。
中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。
キリスト教の聖徒にとりてはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にありても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡して行かねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いで行くことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。彼らにとりての絶対神、型にはまりたる宗教――それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが――これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うちて崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。が、これも所詮は徒労に終わることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。
これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、およびこれに類する人種はわれらにとりて難敵である。彼らにとりては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信ずるのみなのである。ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとりては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。彼らにとりて自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その古き良き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとりては邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。
以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことはそなたにも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。
神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵を掛け、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説――これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き止め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによりて真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れぬ。その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによりて、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れぬ。己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。
このことを主イエスの生活に示されたる模範の中に今少し見てみなければならぬ。
霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発(た)てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によりて作り上げた壁を張り巡らした。それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに巡らせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。
われらの任務はイエスがユダヤ教のために行なえるのと同じことをそなたらのキリスト教のために行なうことである。即ち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一つたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出してみせるためである。われらはそなたを肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めている。字句にこだわりて批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しか出来ぬ人種である。われらはそなたを身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今のそなたの精神状態ではわれらも説明することは困難である。
その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的“殻”に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしてもそなたの理解力の届く範囲において、そなたの長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。
キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理――人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によりて人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた――“汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん(3)”と。
キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神についての進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によりて価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純心で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践して見せたのであった。
イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する――そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にあった。そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。が、その自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。真理の尊厳――人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に湧かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。
人類にとりて真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとりて唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。
われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものである。
人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが今なお生き続けていることを、聞く耳を持つ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。
独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の生長を妨げ向上心の足を引っぱるドグマはわれらが引き裂き、魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向うところもまた同じである。
〔インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して――〕
その通りである。先に余は、余の使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた……イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を召集する計画を用意されつつあるところである。
――他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“キリストの再来”ということですか。
キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう――「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい(4)」と。
――こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。
さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。
〔注〕
(1) ユダヤの律法学者。空理空論を振り回す人の意にも用いる。
(2) コリント後3・・6
(3) ヨハネ8・・32
(4) マタイ11・・15、19・・12
第19節 地上人類としての宗教的生活の理想
〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕
これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。
まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。
しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。
過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以(ゆえん)であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。
次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。
それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。
その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。
人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。
最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬(うやま)い畏(おそ)れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇(あが)め拝(おが)むのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。
大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。
自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。
このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。
同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。
以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯(おび)える余りに縋(すが)らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。
そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。
人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。
ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂(いわ)れなき作り話に託している。
われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。
われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとに跪(ひざまず)く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。
以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。
第20節 霊団も全てを語ることを許されず、語ることが人間の為になるとも限らない
〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると――〕
それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。これは、後に残せる地上の肉親と何とか連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に初めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。
さてそなたの知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を断たれている。受け入れる用意なき者に押しつけんとしても有害無益である。これはわれらにも如何ともし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。もっとも童子に“害”はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによりて本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。
〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとインペレーターが答えた――〕
いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、そなたが言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、そなたも少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。そなたらが直接書記と呼ぶところの現象は今回はそなたのたっての要請に従って行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったと見える。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかりであることが判るであろう。
〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしければ、それから出る音も調子はずれで軋(きし)むのだ”と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕
神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。交霊会には危険はつきものであるが、今のそなたの精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受身の精神で臨んでもらいたい。そうすればそなたの望む証拠も得やすいであろう。
〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、そのほうが決定的な重要性をもっているように思えたのである。どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。私はこれまでの言説を全て真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いのないものにしてくれないと困る、と述べた。その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいるといった程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日に次のような通信が来た――〕
大神の御恵みの多からんことを。そなたが提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。もっとも、多くの点においてそなたが率直かつ汚れなき真情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつそなたの心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけには参らぬ。これは、われらにとりて大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。そなたの疑念にはわれらも敬意を払う。そしてそれが取り除かれた時はそなたと共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度はそなたを氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を阻む。またそれは率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずり込む。そうした依怙地(えこじ)な心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。
われらはそなたからそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪らぬ。そなたは何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことはそなたも知っていよう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったのかも知れぬ。不必要と観たのかも知れぬ。精神的土壤がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今のそなたがまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直な人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお“父よ、どうか私の望みよりあなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを(1)”と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。
これが神の御業(みわざ)の全てを支配する摂理である。それを具体的にキリスト教界に観ることは今は控える。ただそなたに指摘しておきたいことは、そなたの頑(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度はそなたにとりて何の益にもならぬということである。われらも不本意ながらもその姿勢を譴責(けんせき)せねばならぬ。過ぎ来(こ)し方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来ごとを思い返してみるがよい。そなたの生活全体に行き渡れる背後霊の配慮についてそなたは何一つ知らぬ。そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮――こうした目に見えざる配慮についてそなたは何一つ知らぬ。しかし、その努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところそなたのもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけはそなたの知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われらにとりて不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によりてそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。要するに、われらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を志向せるものだったであろうか、悪を志向せるものだったであろうか。神を志向していたであろうか、その逆を志向していたであろうか。そなた自身はそれによりて改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか、無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。
われらの存在そのものにつきて、われらの行為につきて、あるいはわれらの教説につきて、誰れが何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すベてにわれらは公然と主張する――われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。
われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。霊力の証を求めるそなたの要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとしてそなたの健康を損ねることまで行なった。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。確かに要求を拒否して来たものもある。が、それはそなたが無理な要求をした場合、ないしはそうすることがそなたにとりて害になることを知らずに要求した場合に限られる。そなたとは視点が異なることを忘れてはならぬ。われらはそなたより遙かに高き視点より眺め、しかもそなたより遙かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。が、しかし、そうした正当な理由によりてわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑る。どうやらそなたにとりては、そなたがこれまで崇めて来た尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが余ほど引っ掛かるのであろう。そこでそなたは拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である――少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。が、そう批判しつつもそなたはわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとりての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。
そなたのそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それはそなたにとってもはや“罪”とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。これまで披露せしものをそなたが侮(あなど)るのは構わぬが、それによりて危害を蒙るのはそなた自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。
今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、そなたの如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者としてそなたを最適任者として選んだ。願わくば現在のその無知と愚かさから一刻も早く脱し、われらがそなたを選べし時のあの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、そなたに宿る能力と率直さを以て検討せねばならぬ。今後のそなたとの関わりもそれにて決定される。是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断のもつ責任の大きさを認識した上で決定されたく思う。
その間、新たな証を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならぬ。
かつてわれらは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、なるべくならば当分は会は催さぬが良い。かく申しても決してそなたを一人に放置しておくということではない。そなたは常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ずそなたのもとを去るが、祝福と祈りはそなたと共にあるであろう。
神の導きのあらんことを。
〔注〕
(1) ルカ22・・42ユダヤの律法学者。
第21節 著者の反省と反論
〔この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。そして私をしきりに、過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのであった。私の背後で何が行なわれているのか、当時は皆目理解できなかったが、今にして思えばそれは私の霊的教化の一環であった。私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そしてそれまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをばらばらに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは僅かに毎日の教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。そこで私は自分で厳律を設けた。それは通信に係わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ十年間守り続けている。日課を終えて、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。
さんざん考え抜いたあげくに、私はこれまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題をこれ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑な態度には何か特別の意味があると観たのである。私はインペレーターの要求を何一つ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙さんと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが未だに相手にされていないこと、私から手を引くかも知れぬとの脅しは事態を悪化させるばかりであると述べた。さらに私はこれからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。しかし同時に、身元についての得心が得られるまではこれ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態はあのような表現では正しく表現されていないと指摘した。またイエス・キリストがしるしを見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。総引き上げの脅しの件については、そんなことをすればそれは私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。するとすぐに返事が来た――〕
友よ、そなたの言わんとするところはよく判った。その言い分にも妥当性を認めたく思う。われらがあのような厳しき言葉にてそなたを責めたのは、情報を得んとする欲求そのものではなく、われらに応じきれぬ条件を強要するそなたの心の姿勢である。またわれらはそなたのしつこき反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれらに与える印象を是非とも知らしめたいと考えた。あのような乱れた精神状態はわれらの妨げとなるからである。われらには果たさねばならぬ使命がある。徒に無為に過ごし、貴重なる時と機会を無駄にするわけにはいかぬ。為さねばならぬ仕事がある。何としても果たさねばならぬ。そなたのサークルがだめであれば他のサークルを通じて果たさねばならぬ。われらが総引き上げの意図がある旨を述べたのは、要求を満たさねば先へ進めぬとのそなたの言い分を受け入れたからに他ならぬ。われらとしては、そなたの要求に応じるわけにはいかなかった。故に総引き上げの必要を感じたのである。われらも、せっかく築き上げた関係を打ち切り、辛苦の中に成就せる仕事を一からやり直すことは元より望むところではない。将来はより一層強く支配することになるかも知れぬ。休息と反省とがわれらとそなた自身にとりて良き薬となるかも知れぬ。今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さぬがよい。よくよく真剣なる要求のないかぎりは交霊会には応じぬ。これまで述べたこと以上のことを付け加える意図も全くもたぬ。そなたの要求する条件も感心せぬ。そのような条件が一つ増えるごとに環境が変化を来し、それが余計な心配と手間の原因となる。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言わぬが、この際はその見通しもなく、それ故にそなたの提案に同意するわけにはいかぬ。
そなたが霊媒となりて行なう全ての物理的実験をこれ以後絶対に禁ずる。それによる肉体的消耗にそなたは絶対に耐えられぬ。昨今は余りに物理的現象に重きを置きすぎている。現象はせいぜい副次的な意味しか持たぬ。しかもそなたは他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。すべて差し控えてもらいたい。徒に進歩を遅らせ、ついには危害と落胆を蒙るのみである。そのような手段では益になるものは得られぬ。これまでは敢えて出席を阻止するまでのことはしなかったが、これ以後は阻止せねばならぬことを承知されたい。われらとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばならぬ。これは肝心なことである。排除してくれなければ、われらの仕事は一層困難となり、他の霊に憑依される危険性もある。その霊たるや、そなたがもしも本性を知ればそなたのほうから逃げ出したくなる類のものであり、およそわれらと仕事を共に出来るしろものではない。そなたの霊能が他のサークルの他の霊に役立つと思うのは誤りである。われらは敢えて阻止する。そのような方法では証拠は得られぬし、他の霊媒の為にもならぬ。むしろ逆効果である。さようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいかぬ。
そなたが持ち出せる問題につきて今はこれ以上深入りはせぬ。もしもわれらがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、疾(と)うの昔にこれほど実りなき苦労は中止していたであろう。今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことをそなたは無知なるが故に行なってきた。そなたの同志たちもわれらが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、出来るかぎりの利益をもたらしてきたつもりである。しかし、こうした問題においては、われらの力にも意志にも限界がある。しかも全体的にみてそなたに相応しからぬものを押しつけることになれば、われらに配慮が足らなかったことになる。これより後も援助することになろうが、差し当たりこの時点ではこれ以上のことは出来ぬ。新たな試みをするつもりもない。これ以上無益なる時間と労力とを費すことは出来ぬ。無益であることはそなたの状態を見て悟ったのである。そなたの言説を聞けば少なくともそなたの知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る。大前提として要求する例の実験(1)には応じられぬし、応ずる気にもなれぬ。そのようなことで確信が得られるものでもなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもない。そのような要求に応じてもそなたはまた新たな要求を突きつけてくるであろう。確信というものはそのような物理的手段によって確立されるものではないのである。
それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっている。得心のいかぬものを率直に拒絶すること自体、少しも非難はせぬ。が、一旦拒絶されれば最早やわれらとしては他に取るべき手段を知らぬ。故にそなたの選択は永遠なる重要性を秘めている。そしてそなたはすでに選択を行なっているやに察せられる。それが果たして賢明なる選択であるか否かは時が証明してくれるであろう。そしてその時に、その選択の誤りを幾分かは修正することが出来るかも知れぬ。が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈るものである。
〔翌十月四日も引き続いて通信が来た。その中には余りに私的な内容のものが含まれているので、その部分の公表は控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。内容的には結局これまでの主張の繰り返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引き上げの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫して見られる理路整然とした論理の典型を思わせるので、幾分私的な色彩があってもそのまま紹介する。極めて読み易い文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終るまで私にもその内容が判らなかったほどであった。〕
神の僕(しもべ)として、使者として、そなたの指導霊として、また守護霊として、余はそなたに神の御恵みの多からんことを祈る。至聖にして慈悲深き天なる父の祝福のあらんことを。目にこそ見えざれども、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。
われらは今、これ以後の計画を全て放棄する前に是非とも暫くの間(ま)を置くようにとの要請を受けている。特に○○氏〔他界したばかりの私の友人で、死後すぐに通信して来た〕より強き要請があった。彼は信仰問題で今そなたが置かれている苦しき事態につきて、われらより生々しく、かつ強烈なる印象を有しているのであろう。われらの仕事はそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、とにかく暫くの間を考慮してやってほしい――そなたほどの証を手にする者が最後まで完全なる確信に抵抗し得るはずはない、というのが彼の言い分である。そなたの視点、いかに公明正大なる精神も免れ得ぬ偏見、それに交霊につきまとう様々な困難――こうしたことも考慮せねばならぬ。そなたには疑わしく思えても、われらにはその真相を知り尽くしているが故に、そなたのその頑な態度がいかにも合点がいかぬが、それでも尚われらはその疑念に率直さと現実性を認め、それをこれよりのちの確信の可能性の尺度であるとの希望を抱いている。
これまでわれらは、そなたの心が近づき難き雰囲気に包まれておらぬ限り、そなたの悩みに答えてきた。が、あれほどの辛苦の末に結成せるサークルも用を為さぬほどに分裂し、殆どの交霊会において、われらの手に負えぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれらの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得なかった。物理実験のしつこき要請はわれらの望むところと余りに掛け離れていた。われらはこのような目的でそなたを選んだのではない。仮にそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけには参らぬ。さなきだに激しき消耗を強いられる生命力と絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいかぬ。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とする。それには逆に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が相応しい。そなたを通じてわれらはこの手段(2)によりて言いたきことを実に効果的に伝えることを得て来た。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動もその所期の大目的は未だ達成されぬままである。
そうした中において、更にそなたはわれらが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきた。その折われらは、これを更に要求してくる先がけに過ぎぬと受けとめた。そしてそなたがわれらのこれまでの言説を十分に吟味していないとみた。その上われらは、証拠を出そうと思えばそなたが要求しているもの以上のものを、折を見て出すことも出来た。そこでわれらは、いっそのことこの仕事を止めてしまえば、言い換えれば、われらがこの通信の仕事から暫し引き上げてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へと向い、そこより正しき教訓を学んでくれると判断したのである。が、別な観方も出来る。つまり、たとえわれらが引き上げたところで、そなたの霊的能力まで消すことは出来ぬ。われらが使用を中止するということに過ぎぬ。するとその霊力が他の霊によりて牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、遂にはわれらの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねぬ。その危険を無視するわけにはいかぬ。今もしそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑より不信へと陥るであろうことも十分承知している。直感的判断力より遙かに幅を利かせているそなたの論理的判断の習性のために、そなたは恐らく、出なくなったものは信じなくなるものと思われる。印象が薄れ、やがて消滅していくことであろう。
そこで困難を避ける唯一の道は辛抱づよく待つことであるように思われる。将来を予言することは出来ぬが、そなたの前に二本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、その二点に間違いはない。われらにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する資格は持たぬ。責任はすべてそなたにある。選択に誤りがなければそなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになろう。その道を拒絶すれば当然暗黒と退歩の道を進むことになろう。それもこれもそなたの判断次第で決まることである。われらとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはない。むしろ更に強調したいほどである。その実相についてはこののち更に一層明確に理解することになろう。が、今は神の使徒としてのわれらの存在とこれまでの教説について真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味するがよい。過去を振り返ることである。教説を吟味することである。記録を分析し、その中よりそなたの結論を引き出すのである。その間の進歩の跡に注目せよ。神より出でたる教義がいかに入念なる配慮によって仕上げられてきたか、その過程に注目せよ。そしてその過去を踏まえて将来への展望を広げてみよ。今そなたはまさに重大なる境界線上に立てること――魂の進歩の前に取り除かねばならぬことが数多くあること――建物を構築するに先立ちて地ならしの工事が必要であること――永遠がそなたを待ち受けていること――われらが扉を開くカギを授けんとしていることをよく認識されたい。
どうか、二度と訪れぬこの機を拒絶する前に、暫し間を置いてみられることを切望する。拒絶したが最期、それは暗き影となりて永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となりて永遠にその輝きを増し続けることであろう。
祈れ。父なる神に祈れ。そなたを守り、われらをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈れ。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機せる明るき霊との交わりを求めて祈れ。そなたほど厚き看護を受けし者はおらぬぞ。その看護をそなたほど無益にした者はおらぬということになっても良いというのか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力より護られるよう、そしてまたより高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたと共にわれらも祈ろう。
父よ! 永遠にして無限、全知全能なる神よ! 子なるわれらに、御前に近づき願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届け下さると信ずる故に他なりませぬ。永遠なる神よ、何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物を取り除き給え。疑う心に一条の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠れる敵対者を払いのけ給え。われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけ愛の力も大なるを要します。全能なる神よ、何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。われら天使より、御力の御しるしたる宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります。
〔この通信が事実上これまでの一連の議論の締め括りとなった。むろん私がこれであっさりと確信したわけではない。暫しの議論の小休止、とくに霊界との係わりを全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。と言うよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと言った方がよいであろう。〕
〔注〕
(1) 他の霊媒を通じてインペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在であり、モーゼスの第二人格でないことを証明するということ。
(2) 自動書記通信。
第22節 インペレーター、天界の祈りの集会に参列
〔インペレーターが暫く不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のそば――という言い方が適切かどうかは別として――にいなくても影響を行使することは出来るが、そのためにはいわば意念の操作を必要とするということであった。そうなると他に急務が生じた場合にそれも出来なくなる。今回も、そしてこれまでにも何回かあったが、霊界の上層部において、神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために数多くの霊が一堂に集結したという(1)。その他の質問に対して多くの返答があったが、次はその一部である。(十月十二日)〕
われらは神への礼拝と祈願のために暫し地上の使命につきまとう気遣いと苦心より離れ、讃仰の境涯の安らかなる調和の雰囲気に浸ってきた。使命に挫折と衰微を来し、悲しみの余り気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺(そ)がれることのなきよう、時に休息し、聖なる天使の中に交わることによりて気分を一新するのである。
ああ、そなたはこれまで混雑せる都会の細き裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不純なる悪臭を嗅(か)がされ、悲劇と罪悪の光景を目(ま)のあたりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすら出来得なかった。これで、われらがいかなる気持を抱いて人間の中にありて使命に勤(いそ)しんでいるか察しがつくであろう。そなたも人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術(すべ)もなき無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に己の無力を痛感したこともある。身も心も実りなき努力に疲れ果てたこともある。が、われらとて平然として任務を遂行していたのではない。その間どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めて来たことか。そなたはとかくわれらのことを人間の生活に関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に係わりをもたぬ、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。われらとてそなたの心を覗き込み、隠れたる悲しみを地上の人間以上に実感をもって知ることが出来ることを知らぬようである。われらを地上より掛け離れた存在の如く想像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも共に実感をもって認識しているのである。地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇もわれらの視野の中に入らぬかの如く想像しているようであるが、とんでもない誤解である。むしろわれらの方が人間より遙かに鮮明に悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘惑、絶望に追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのである。
われらの視野はひとり物的悲劇にかぎらぬ。霊的誘惑もありありと目撃できる。物的視野に映ずる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れたる悲哀もありありと見える。われらが人間界の悲劇や犯罪を見ることも知ることも出来ぬと思ってはならぬ。更にまた、そなたたち人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによりて、われらもまたその汚れに幾分か染まることは避けられぬことも知られたい。
比べてもみよ。雑然たる都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活――悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時のそなたの気持と、高き霊界より低き地上界へと降りてくる時にわれらが味わう冷たく寒々とした気持とを。われらは光と無垢と美の世界より降りて来るのである。そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは一かけらもない。その視野には目障りなもの一つ見当たらぬ。暗闇も見当たらぬ。目に入るものは全て輝けるもの、至純なるもののみである。完成された霊の住む世界、平和の漲(みなぎ)る環境を後にするのである。光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかなる地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しき雰囲気に包まれた世界――人は従順ならず、信ずることを知らず、物欲に浸り切り、霊的教唆に反応を示さぬ世界――悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのである。神の光と真理の輝ける世界より地球の暗黒の中へと向かう。そこでは神の真理の光は、僅かに数えるささやかなる交霊会を通して、ほんのりとした薄明り程度にしか見られぬ。調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入り込む。純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、呑んだくれと好色家、あぶれ者と盗人にあふれる世界へと下りて来るのである。天使が挙(こぞ)りて神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物たる偶像の君臨する地上へと向かう。時にはそれすら無視され、人間は霊的なるもの、非物質的なるものへの信仰の全てを失ってしまう。
かくして漸く降り来たれるわれらが見出すのは、大方、聞く耳を持たず何の反応も示さぬ人間ばかりである。中には己に都合よき言説、己の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいる。が、彼らもその段階を超えて一段高き真理、より明るき光へ導かんとするとわれらに背を向ける。イエスと同じことをわれらも体験させられる。すなわち、人間は奇跡を演じてみせると感心する。そして己の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは付いて来る。が、その段階より引き上げ、自己中心的要素から超脱させ、永遠なる価値を有する本格的真理へ近づけんとすると背を向ける。高すぎるものは受け入れられぬのである。そこで神の計画が挫かれ、神より授かれる人間への恩恵がにべもなく打ち捨てられる。その時、われらの悲しみに加えて将来の見通しに寒々とせる挫折の懸念が横切(よぎ)るのである。かくの如き次第であるから、われらは時として休息と気分一新を求めて地上を引き上げ、調和の世界にて気力と慰めを得て、再び冷ややかなる地球の恩知らずの群の中へと戻るのである。
〔私がこれまでに得た通信でこれほど人間的脆(もろ)さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは終始一貫して地上的なものを達観した威厳の雰囲気が漂っていた。インペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのがその人間的脆さと地上的なこせこせした心配事に対する超然的雰囲気であった。常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきが如き態度であった。そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的重要性をもつものにしか関心を示さなかった。しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。いわゆる“この世にいてしかもこの世のものに捉われぬ”者であり、穏やかな平和な境涯よりその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情(ふぜい)があった。それだけに右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると――〕
われらは、たとえ苦痛は訴えても挫けはせぬ。そなたおよびそなたの置かれたる環境との触れ合いによりて、やむなくそなたの人間的情念を摂取することになるまでである。あのような苦痛を述べたのは、われらにも幾許(いくばく)かの犠牲を強いられていること、そしてそなたを動かす情念と同じものによる影響を免れぬことを知って貰うためである。われらとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうものである。人間の心を締めつける心痛と同じものを真に味わう。われらがもし(そなたの言う如く)人間的でないとすれば、そなたの欲求を見届けることも出来まい。いずれ悟る日も来ようが、未だそなたの知り得ぬ摂理によりて、地上へ降りくる者は一時的に純然たる人間味を帯びる。そして霊界に戻ればそれを振り落とす。地上では地上的雰囲気と観念の中に融け込むのである。
〔このあと私に対して、通信を求めることを控えて過去を振り返るようにとの忠告が繰り返し述べられた。物理的現象をやり過ぎることは、体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、よほどの必要性のある時以外はいけないとの警告を受けた。仕事においても、仕事以外のことにおいても節度を守ることが大切であり、反省と休息を取るようにとのことだった。われわれは交霊会を中止こそしなかったが以前ほど頻繁に催すことは止めた。その間私に身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることが判った。とくに顕著なケースとして十月十四日に次のようなことが起きた。それまで長期間に亙ってよく出現していた霊を、列席者の一人が、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに細かく詰問した。その書物は出版されたばかりで質問者のほかは誰も見ていない。が、質問者の頭の中でその書物に出ている他の氏名と日付が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いの一つ一つを叩音(ラップ)で強く指摘し、黙認するわけには行かないと言って、氏名の読み方の間違いなどは綴りまで一つ一つ述べて訂正した。
その時に霊が出した叩音には困惑と苛(いら)立ちと腹立たしさがありありと感じられた。訂正の速さは質問者が全部言い終わらないうちに為されるほどで、しかも正確だった。その様子から判断して、その霊は確かに地上時代と変わらぬ個性を留め、記憶も少しも損なわれておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。その夜の私の心に、それまで私に通信を送って来た霊たちも自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。間違いを指摘する時のきっぱりした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほどの微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。〕
――昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。
あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は○○氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに、私がパリで勉強したというのは本当です。
――別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子がありありと窺えたものですから。
いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。随分きついことを述べましたが、自分では理性を弁(わきま)えていたつもりです。
――実は私にとってはむしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠としてこれまでにない最高のものを提供して下さったからです。
なるほど、でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうとチャンスを窺っておられるのでしょう。
――とんでもない! 私はとにかく証拠がほしい一心なのですから。
証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。
〔こうした中にも、これまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか、通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか、要するに自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか、それとも単に理解できないものに振り回されているに過ぎないのではなかろうかといった疑念に付きまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。こうした霊界との交信にとって最も好ましからぬ精神状態が禍して、ついにわれわれのサークルは解散するに至った。メンバー全員の意見もそのほうが賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、インペレーターも頻(しき)りにそれを促し、最後には強要してきた。そして、過去をよく吟味すること、とくに自分が引き上げたあと他(よそ)の交霊会に出たり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して――交霊会に関するかぎり――引き上げてしまった。自動書記通信も幾分気まぐれな表われ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのインペレーターと同じ断固とした目標に沿ったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。かつてないほどの動かし難い証拠が与えられた。綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するために数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。
私の全生涯に亙る霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった(2)。その内容に私は非常に驚いた。そしてそれまで私を扱ってきた霊の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気になれない。霊的実在に関する教訓を証拠の全般的な流れに光を当てるものに限って公表しようと思う。〕
〔注〕
(1) 「十二節」注(2)参照
(2) ここでは公表されていないが、続編の『インペレーターの霊訓』(潮文社)の第二部にそれに違いないと思えるものが紹介されている。
第23節 神の啓示の歴史的系譜
〔一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕
これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。
ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。
神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。
神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。
かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には与(あずか)らなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。
メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。
ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。
今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取り越し苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。
モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。
メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。
偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。
そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストの側(そば)にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。
〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11‐3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。
右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――〕
無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。
――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。
あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。
――想像の産物だとおっしゃいましたが。
散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。
――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。
そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。
――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。
伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)
天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。
――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。
それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。
それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。
また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。
然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。
これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。
〔注〕
(1) Melchizedek 古代都市サレムの王で祭司。(旧約聖書「創世記」14・・18)
(2) Abram アブラハムの元の名で、ユダヤ人の始祖。
(3) 聖なる使用に当たるために世俗から離すこと。
(4) Elijah 紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者。
(5) 旧約聖書はこの二人にまつわる話が大半を占める。
(6) Elisha 同じく預言者。
(7) ある日キリストが弟子たちと共に高い山に登った時、この世のものとも思えぬ神々しい姿に変わったという。(マタイ17・・1~13、マルコ9・・2~13)
(8) Enoch.
(9) Noah.
(10) Deborah.
(11) 旧約聖書の最初の五書のこと。すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」。
(12) Ezra 紀元前五世紀ごろのヘブライの律法学者で祭司。
(13) Joseph (「創世記」30・・22~24)
(14) Abraham 前出のアブラムと同一人物。
(15) 仏教的に言えば、迷わず成仏する、ということ。
第24節 旧約聖書時代と新約聖書時代の間の記録の欠落について
〔旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。〕
その時期の記録は何も残っておらぬ。その時代は霊界からの働きかけが特殊な場合を除いて控えられたからである。そのことについては詳説はせぬ。われらが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからである。取り敢えずその時期は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終ってのちに、ようやくわれらが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。今その最初の光が射し込んだ――その光の中のささやかな一筋をわれらが受け持っているのである。人間がようやくあたりの暗黒に気づき、その帳(とばり)が取り除かれ光が射し込むことを待ち望んだからである。
同じことが全ての民族についても言える。時として地上的・物質的要素が余りに強く蔓延し、霊的なるものが完全に地上より姿を消したかに思える時期があるが、実際はそうではない。暗黒の時期が去り黎明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽がその芽を出し始める。再び霊力の流れが起こり、人間はかつての真理より一段と高き霊的真理に目覚める。その過程はあたかも、その日の仕事に疲れた人間が休息を求めて横になるのにも似ていよう。あたりのことが皆目判らぬ。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困憊(こんぱい)である。内外ともに陰鬱なる空気が漂う。やがて寝入る。そして睡眠によりて身体は元気を回復し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かき光を注いでくれていることを知る。身も心も本来の快活さを取り戻し、魂はあたりの生命と美に喜びを見出す。夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇る。
人類もその長き歴史において同様の体験を繰り返してきた。それまで満足していた古き霊的教訓に知性がうんざりし始める。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめる。それまでの真理が一つまた一つと疑いの目で見られるようになり、一つまた一つと否定されていく。そして遂に神の真理の光が人間の目から被い隠されたことを識(し)る。太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰鬱と暗黒の夜が始まる。神の使者も活動を手控える。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まし光を求める時の到来を待ちつつ、ひたすらに耐え忍ぶ。魂は死せるにあらず、ただ眠っているに過ぎぬ。いつかは必ず覚醒の時期が訪れる。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらせてくれた神への讃歌を高らかに謳(うた)うのである。
旧約聖書の最後の記録と共に終息せる霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、かくの如き暗黒の時代があったのである。そなたたちの時代のすぐ前に、その黎明期があったのである。われらは今こそそなたを霊的黎明に向けて導かんとしているのである。疑ってはならぬ。今こそそなたにとりてその黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなるであろうことを疑ってはならぬ。その夜明けの光は前期の黄昏(たそがれ)時の薄明りより遙かに強く、且つ鮮明であることであろう。間断なく、ひたすらに待ち望むことである。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのなきよう、啓示への備えを怠ってはならぬ。
〔そうした暗黒の時期は必ず啓示の時代の前後に訪れるものであるかを質すと――〕
用語が少しばかり適切さを欠いている。その時期は必ずしも暗黒の時期とは限らぬ。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもある。地上生活に喩えてみれば、身体が栄養摂取のために休息の時期を必要とするのと同じである。地上人類が摂取し得るだけの真理はすでに十分に与えられている。更に多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続される。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望があらねばならぬ。
――ということは、啓示はまず内部から――つまり、主観的自我に発するということですか。
内部的希求と外部的啓示とが一致するということである。先にも述べた如く、人間は受け入れる能力に余るものは授からぬ。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至れば一段と次元の高き知識の必要を痛感する。その時こそ新たなる啓示が与えられる時である。神学者の中には、人間自らがその内的思考力によりて理論的ないし思索的思想体系を産み出すのではないかと弁ずる者がいるが、彼らは神の使者たる背後霊の存在を知らぬ。己の思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである。優れた神学者の中には真相近くまで踏み込める者も確かにいる。その者たちがもしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせていれば、聖書が完全にして誤りなき啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されぬものと思い込みたる者よりも、さらにさらに真相に近づくことが出来るであろうにと残念に思う。地上の人間の実生活にとりては、人間の思考作用と啓示との関連について余り細かくこだわる必要はない。分離できぬものを分離せんとしたり、断定できぬものを断定せんとしても、所詮は迷いを深めるのみである。そなたとしては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、進取的精神が真理へのより高き見解をもたらすものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆に他ならぬことを知れば足りる。かくの如く、啓示は人間の必要度と相関関係にあるのである。
真理普及の仕事において人間が頻(しき)りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。われらが厳然たる独立性をもつ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらがそなたの精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとりて不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。
――そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが……
そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば判るであろう。そなたはわれらの仕事を何やら個性をもたぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。そなたには単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。
〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを尋ねてみた。〕
大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、疾(と)うの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。
――ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。
そなたはそなたなりの道を辿りて結論に達するほうが良いのである。それから他人の結論を比較すればよい。
――あなたの態度はいつもそうです。回り道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きて来させたのですか。
それは、すでに申した如く、そなたが真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、そなたが思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとても、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。
そなたの全存在である生命は常に進歩を求める。しかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。
神学もそなたの訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしてもそなたがその誤れる見解を摂り入れていくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義をそなたの精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、われらはそれを着々と片付け、今やそなたの目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値をそなたが見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かというと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。
イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より照明を与える前にそなたみずからの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、多分その信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説――イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子たちの見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懴悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目に止まることであろう。
今やそなたにはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでのそなたはそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載された言説のもつ正当なる価値を検討せよ。その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削(そ)ぎ落とし、事実そのものを直視せよ。神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿りつく結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。
そうした勇気ある真理探求者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遙か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めてその国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団――人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている――“真理は汝を解き放ち、而(しか)して汝はまさに自由の身とならん(1)”と。
〔私はそれが現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で 雕(もが)くに任されることに不満を表明した。〕
われらは決してそなたを放置しておくわけではない。援助はする。が、そなた自らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。そなた自身が為さねばならぬ。そなたが努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。そなたにとりてはそれが最良の道であり、それ以外には真理を学ぶ道はない。われらがその真理を語ったところでそなたは信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にもそなたが目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。
〔注〕
(1) ヨハネ8-32ほか。
第25節 啓示はそれを受ける霊覚者の霊格の程度によって差が生じる
〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕
われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。
重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。
人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。
今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。
そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。
さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。
いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。
〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕
それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。
〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕
あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10)、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。
――“ダニエル書”第十章にある“幻(まぼろし)”の話ですか。
ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。
――同じものです。と言うことは、預言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。
抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声の聞かれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。
――ダニエルが大預言者、つまり霊覚者であったと言われますが、当時は霊的能力は珍しくなかったのでしょうか。
ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が、今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。
――となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。
まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも聖書から除外されたものもまた多い。
〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕
聖書に見られる神の概念につきては、これまで折にふれて述べて来た。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩して来ていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理――神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書の至るところに見られることなどをより明確に致したく思う。
その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。アブラハムの父はそなたも知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。
さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し脅迫したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根本に埋め隠したりしている。こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対の神ではなく、一家族の神に過ぎなかったのである。
そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜け切っていたとは言えぬ。そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べている。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。
真の意味での絶対神に近い観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまでに成長してからのことであった。“預言書”ならびに“詩篇”を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遙かに崇高さを増していることに気づくであろう。
この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中においてさまざまな形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。“ヨブ記”と“ダニエルの書”がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。が、全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。
またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出した時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が際立ってそうであった。今なお優れたる霊が霊覚者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。そなたの生きて来たほぼ全世代を通してその働きは続いており、かつてより遙かに明るき神の観念が啓示されつつある。備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を瞬(しばた)かせ、光を遮り、暗闇へと逃げ込む。神の真理を正視し得るまでに魂の準備が出来ていなかったからに他ならぬ。
――聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。
己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。そなたは今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回り、知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。まして奥の院を拝するに相応しき時に到るまでには永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに、忍耐強く待つことである。
〔注〕
(1) Elohist 旧約聖書最初の六書の中で神をElohimと呼んでいる部分の編者。
(2) Yahwist 旧約聖書最初の六書の中で神をYahwehと呼んでいる部分の編者。
(3) Elnathan.
(4) Joiarib.
(5) Saul イスラエル第一代の王。
(6) the Judges of Israel 裁き人、執権者。
(7) Solomon 紀元前10世紀のイスラエルの王。
(8) Hezekiah 紀元前8 7世紀のユダ王国の王。
(9) Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。
(10) Haggai 紀元前520年頃のヘブライの預言者。
(11) Zechariah 紀元前6世紀頃のヘブライの預言者。
(12) Malachi 紀元前5世紀のユダヤの預言者。これがインペレーターと名のる霊であるという。(解説参照)
(13) Gabriel 宇宙経綸を与る神庁の最高位霊。聖書においては七大天使の一人とされている。
(14) Michael 悪の勢力との対抗を与る霊団の最高位霊。聖書においては四大天使の一人とされている。
(15) Daniel 紀元前6世紀のヘブライの預言者。
(16) Hiddekel チグリス川 Tigris のこと。トルコ、イラクを通りユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。
第26節 霊団の態度の変化
〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけて障害となり、この自動書記通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。
それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕
ここで、これまでわれらがそなたを導かんと努力して来た跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。そうすればそなたがこれまで抱き続けて来たものより遙かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。そなたが重ねて証拠や実験を求めて来た反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。それでもなおかつ心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、そなたの猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心の靄(もや)を突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。そなたは自らを突き抜けることの出来ぬ帳(とばり)で包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。
われらはむしろ、そうしたそなたとわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したと言える。われらはそれを究極における成功を暗示する証であると見なし、感謝しているところである。つまりそなたの、その、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。そなたとしてはいかに真剣なる気持とはいえ、われらが大義名分とせるものを受けつけようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。殊にわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら大なる障害となる。これは是非ともよく理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとするが如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。もしもわれがそなたが怪しむが如きいかがわしい存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が、若しそういうつもりはないと言うのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、率直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今のその頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遙かに有益な成果を産み出すことであろう。われらはそなたが訝(いぶか)っているが如く、そなたの要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。サークルの同志からの筋の通れる要求は大事に取ってある。仮に要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでのそなたとの関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的原理なのである。
さらに、そなたがしつこくこだわっているところの、そなたの指図に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえそなたの思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、そなたの意念とサークルの意念との混同によって不完全にして信頼のおけぬものとなろう。そして結局はそなたの目的は挫折するであろう。が、証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。そなたのこだわっている問題、すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供しており、そなたもその価値を渋々ながら認めている。
このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうしたそなただけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、そなたの理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そして、それ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すことも有り得ることを心しておかれたい。
今のそなたには如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることも有り得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡な成果にせよ特殊な成果にせよ、こうして語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。少なくとも、われらがそなたを誑(たぶら)かしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪な影響を及ぼしてはいない。われらの言葉には真実味と厳粛さとが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、そなたの必要性に合わせ、そなたの啓発を意図しつつ説いている。
故に、そのわれらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題についてそなたを誑かさんとする者であるか否かはそなたみずからが責任をもって判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、敢えてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそそなたの如き、われらを知る人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。
〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た。それについては細かく述べていると霊訓の流れから逸(そ)れる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話を交わす(1)ことが出来るようになった。私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、ついには霊的身体が肉体から離れて行動しながら(2)実に鮮明な映像を見るようになった。その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本物であったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側は私の霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。
この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息(3)のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られて来た。プライベートな事柄を述べた後、次のように書かれた(4)――〕
昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだ良い音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは分からないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遙かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃めく。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果は良くなかったと言ったのである。音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは演説家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で純化され、調和し、霊性を賦与された時である。
言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音はあっても魂が籠っていない。聞いていると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂の籠ったメロディーは、地上より遙かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。霊の叫びが直接霊へと響くのである。魂が漲(みなぎ)り、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。
〔この通信には二人の世界的作曲家(5)と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕
〔注〕
(1) 意念による以心伝心的交信。霊界では全てがこれによって行なわれる。
(2) 幽体離脱現象。
(3) モーゼスは九年間に亙ってこの子の家庭教師をしている。
(4) インペレーターではなく、地上で音楽家だった複数の霊による。
(5) 本書に付したモーゼスの自動書記ノートの写真から判断すると、その二人はベートーベンとメンデルスゾーンであろう。
第27節 民族と宗教の揺藍地インド
〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと(1)――〕
その通りである。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことが出来る。インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の貴殿にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。
インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ――これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー(2)とヴェーダ・ヴャーサ(3)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。
さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感して来たこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されて来ている事実を見出さねばならない。数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー(4)の奇跡の子クリシュナ(5)の物語であることも判るのであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘して来た。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらをして手控えさせたのである。
このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しい思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ貴殿にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。たとえば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であったManou(6)がエジプトではManesとなり、ギリシャではMinosとなり、ヘブライ伝説ではMosesとなった。いずれも固有名詞ではなく“人間”Manを意味する普通名詞であった。偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆からThe Manと呼ばれた(7)。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。
インドのManou(マヌ)はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。
ペルシャのゾロアスター(8)の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いない事実であるとの得心がいくであろう。近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿には類似点を見出し得ぬかも知れないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニーManesがエジプトに摂り入れ、モーセMosesがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。
哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー(9)と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス(10)の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ(11)の神殿における巫子(みこ)となり、古代ローマではケレース(12)神の女司祭となり、後にあのウェスターリス(13)となって引き継がれていった。
が、これはわれらが貴殿に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく注意をその方向へ向けて貰いたい。われらは極めて大まかな概略を述べたに過ぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。貴殿にはまだ概略以上のことは無理である。
――確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。
これまでもしばしば述べて来た如く、知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、人間はその影に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。貴殿に学ぶ心さえあれば幾らでも教える用意がある。
――人間には取り柄(え)はないということですか。
従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。
――もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。
すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。
――霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。
言うことが違っているわけではない。各霊が自分なりの説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。貴殿もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎぬことが判るようになるであろう。地上においては混じり気のない善というものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想というものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならならない。
(プルーデンス)
〔私が「霊の身元」と題する記事(14)で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人(15)の家でデュポテ男爵(16)による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された(17)。〕
その霊がそなたに取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬほうがよい。心を乱される恐れがある。
――(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、何故その男はすぐに目を覚ましたのでしょう。
非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。
――あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしても霊は傷つかないのでしょうか。
肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。
――あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。
あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響を何でも引き寄せてしまう。この種の霊的引力はそなたにはまだ理解できぬであろう。が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。大半の者は気づいておらぬが、すべての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代わるのである。
が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊もそなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。
〔注〕
(1) プルーデンスが回答。三世紀のエジプト生まれの哲学者プロティノス。ギリシャ、ローマで学ぶ。
(2) Djeminy.(正確にはJaimini)
(3) Veda Vyasa.(ジャイミニーの師)
(4) Devaki.
(5) ChrishnaまたはKrishna.
(6) 原文のままであるが、インド哲学の専門家によればManuが正しくManouという綴りは有り得ないという。訳者の推測ではManuを英語読みにするとマニューとなるので、モーゼスの英語感覚の影響を受けて原文のようになったのであろう。
(7) 現在でもその年で最も活躍の目覚ましかった者を、The Man of the Yearなどと呼ぶ。
(8) Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。
(9) Devadassi.
(10) Osiris.
(11) Delphi.
(12) Ceres.
(13) Vestal virgin女神ウェスタVestaに身を捧げた処女。
(14) 心霊誌Lightに連載。
(15) Mrs. Mackdougall Gregory.
(16) the Baron Dupotet.
(17) 再びインペレーターが回答。
第28節 エジプトの神学とユダヤ教
〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると――〕
そなたには解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今のそなたより遙かに現実味のある信仰を抱いていた。死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遙かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識は言わば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。
まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発せる知識、そしてその教えを通してそなたらの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれそなたの知らぬ多くのことを教えることになろう。地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余年もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見に参る。その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それはそなたの偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。
〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕
いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛りも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛りはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー(3)のもとまで辿り着いたのである。
〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕
古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、言わば日常生活が即宗教であった。この点についてはそなたの知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質――肉体の尊厳――には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。
エジプト人にとりて生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来得るかぎり自然の腐敗を防がんとした。その見事な技術の証拠(4)が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。が、それが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけ無数の再生を繰り返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めて行かねばならぬ。が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。
動物の生命を崇拝するということが愚かしく、浅はかに思えるとしたら――そう思うのも無理からぬことではあるが――信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬は言わば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢である場合もあることを忘れてはならぬ。中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅してはおらぬ。その概念が媒体によりて歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることはある。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺がそなたには理解できるであろうか。
――ある程度出来ます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。
今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、そなたの述べるところは真実である。われらとしてはただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至りてその多くが完全に消滅してしまっていることをそなたに知らしめんとしているまでである。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たりては謙虚であることが大切である。
――判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、エジプトの司祭だったのでしょうか。
彼はオシリス(5)に司える預言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス(6)とホルス(7)――これが彼の崇拝した三一神(8)であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。彼はその最高神を地上の歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せるI am the I Am(9)――すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ(10)なる語をモーセがテーベ(11)の司祭たちから使用したのである。
――原語ではどう言ったのでしょうか。
Nup-pu-Nuk、すなわちI am the I AM.
この通信を送って来たのは例のラーの預言者である。“光の都市”オン(12)、ギリシャ人が“太陽の都市(13)”と呼ぶ都市の預言者で、そなたらの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョム(14)と言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。
〔私はエジプトの神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた(15)。〕
その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は長く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。
こうしたことに深入りする必要はない。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。
それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文学も科学も、言わば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期(16)、つまりは大凡(おおよそ)二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の源泉たるラー神の純白の光の中に吸収されつくすと信じたのである。
斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の預言者、司祭、神官、士師、書記がいた。その全てが神秘的伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々とある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばない。
また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価をすべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わない。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。神の概念は未熟ではあったが、日常生活の行為の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取り引きにおいても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着は見られたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。
現代にも通ずるものがあることに貴殿も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。われらが指摘せずとも貴殿には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはない。ただ、貴殿の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深き霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。
――判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が、一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが。
そうかも知れない。現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向がある限り希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも事実である。全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を誤り、ないしは、妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。
――おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。余りに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は、所詮、霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。
貴殿がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒(いたずら)にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。
――モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。
まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものである。神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(17)の観念もエジプトからきている。いや、そもそも“聖所”とか“至聖所”という観念そのものがエジプトの神殿からの借用に過ぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。貴殿も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結び付いていない。
――その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。
無論である。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。
――それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。
三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。
――それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(18)はなぜ生き残らなかったのでしょう。
彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみに限られていた。ために国境を越えて広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但しその影響は他の信仰の中に見られる。
――三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。
創造力と破壊力とその調停者という三一神の観念は、インドにおいてはBrahm,Siva,Vishnu、エジプトにてはOsiris,Typhon,Horus、となった。エジプト神学には他に幾通りもの三一神があった。ペルシャにもOrmuzd,Ahriman,Mithra(調停者)というものがあった。
エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としてのPthah、太陽神すなわち最高神の顕現としてのRa、未知の神Amunといった如く、神にも種々あった。
――エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。
生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の概念であって、その一つ一つは重要ではない。
――ではエジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。
一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者はわれらの霊団にはいない。
〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた(19)。〕
そなたは先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には“肉”の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。インド人にとりて神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとりては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとりて時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。エジプト人にとりて、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドと対照的であった。が、ペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。
前にも述べた如く、エジプトの信仰の他に類を見ぬ良さは、日常生活の全てがその信仰に捧げられたことである。信仰が日常の全ての行為を支配していた。そこに信仰の力があった。すべての自然、とりわけ、動物の生命を神の顕現とする信仰であった。たとえば、エジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとりてそれは存在の神秘――神の最高の表現を崇拝したことになるのであった。そうした古代エジプトの教義を形成し、われらの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、再びそなたらの時代に摂り入れられて然るべきものである。
――結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動であったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように語っていますが、私からみればエジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、しつこく身体を洗ったりヒゲを剃ったりしたのは愚かとしか言いようがありません。
そうとばかりは言えぬ。あの儀式はあれなりにあの時代と民族にとりて必要なものであった。もっとも、われらが指摘せんとしているのはその底に流れる観念でしかない。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も全てが宗教のためのものであった。とは言え、信仰のために日常の暮らしが窮屈に縛られたわけではない。それどころかむしろ生活の行動の全てがその崇拝の行為の厳粛さによって高められたのである。エジプトの宗教の真髄はそこにあり、また、そこにしかない。これほど崇高なる信仰は他に見出せぬ。神の見守る中での生活――身の回りの全てに神を認識し、全ての行為を神に捧げ、神が純粋である如く己の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる――これこそ神の如き生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それは敢えて問われるほどのものではない。
――確かにわれわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただってまさか人間の信仰が絶対に偏見がないとおっしゃるつもりはないでしょう。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたの理想とされるものとはならないでしょう。
確かにならぬ。時代は常に進歩し、より高き知識を獲得していく。初歩的発達段階にあった別の民族に適せるものが必ずしも現代に合うとは限らぬ。が、獲得するものもある一方には失えるものもある。そしてその失えるものの中には、如何なる形式の信仰にも等しく存在すべきものがある。それが己ヘの義務と神への献身である。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではない。キリストの生涯とその教えの中ではむしろそれがより高度に増幅されて具現されている。然るにそなたらはそれを忘れ去った――真の宗教の証とも言うべきものを失った。その点において、そなたらが軽蔑し批判する者のほうがそなたらを凌いでいることを篤と認識する必要がある。
常に述べて来たことであるが、人間の責務はその人間の宿す内的な光によってその大小が決まる。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、大きくなるのである。信ずる教義の如何に関わらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さによって向上した者も多ければ、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われらにはその真相がよく見て取れるのである。信仰の形式――そなたにはその形骸しか見えぬのであるが――は大して重要ではない。人間には生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ぬ。問題はそれをどう理解するかにあり、それによりて進化が決まる。地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、またマホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるか、パルシー教徒(20)となるか、それは生まれついての宿命的巡り合わせと言える。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に係わる問題である。地上にて与えられる機会は霊によりてさまざまであり、それを如何に活用するかによりて、死後の生活における向上進化に相応しき能力が増す者もあり減る者もいる。その辺のことはそなたにも判るであろう。故にパリサイ主義的クリスチャンが侮蔑を込めて見下す慎ましく謙虚なる人間にとりても、あるいは恵まれた環境と、向上の機会の真っ只中に生を享けた人間にとりても、真の向上の可能性においては些かも差はないのである。要は霊性の問題である。そなたはまだその問題に入る段階に来ておらぬ。形骸にのみこだわっている。核心には到達しておらぬ。
――でも、いくら真面目とは言え、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が遙かに上だと信じますが。
全存在のホンの一かけらほどに過ぎぬ地上生活にありては、取り損ねたら最後、二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。そなたら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によりて拘束されている。本人には障害であるかに思える出来ごとも、実は背後霊が必要とみた性質――忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけんとして用意する手段である場合がある。一方ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入れる生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させんとして企んだワナである場合がある。
そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断している。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴があることが理解できぬ。
なおそなたの言い分についてであるが、人間は己に啓示され理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ行動するというのが、絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである。
――“最後の審判”を説かれますか。
説かぬ。審判は霊が自ら用意する霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了する。そこに誤審はない。不変の摂理の働きによって落ち着くベきところに落ち着く。そして一段と高き位置への備えが整うまで、この位置にて然るべき処罰を受け、それが完了すれば向上する。その繰り返しが何回となく行なわれるうちに、鍛練浄化のための動の世界を終了し、静なる瞑想界ヘと入寂する(21)。
――と言うことは審判は一回きりでなく、何回もあるということですか。
そうとも言えるし、そうでないとも言える。数かぎりなく審判されるとも言えるし、一度も審判されないとも言える。要するに魂は絶え間なく審判されているということである。常に変化する魂に自らを適応させているということである。そなたらが考えているが如き、全人類を一堂に集めて一人一人審問するなどということはない。あれは寓話に過ぎぬ。
鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによりて一つの性格を形成する。その性格にはそれなりに相応しき境涯がある。そこへ必然的に落着くことになる。そこに審判というものはない。即座に判決が下る。討議も裁きもなく、諸々の行状の価値がひとまとめに判断される。地上に見られるが如き裁判のための法廷など必要ではない。魂みずからが己の宿命の決定者であり、裁判官である。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまる。
―― 一つの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか。
似たようなものはある。それは、霊体が徐々に浄化され、低俗なる要素が拭い去られるという意味で似ているということである。上へ行くほど身体が純化され、精妙となっていく。故にその変化はそなたらが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではない。脱ぎ棄てるベき外皮を持たぬからである。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高き境涯への向上という点においては同一である。
――そうやって全ての不純物が消えると霊は瞑想界へと入り、そこで完全に浄化され尽くすというのですか。
そうではない。全ての不純物が取り除かれ、最後に純粋なる霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界ヘと入っていくのであるが、そこでの生活は実はわれらにも知ることを得ぬ。ただ判っているのは、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみである。友よ、完成されたる魂の最後に辿り着くところが、それまでひたすらに求め来たれる神――その巡礼の旅路のために神性を授け給いし父なる神の御胸であるのかも知れぬぞ! が、それもそなたと同様われらにとりても単なる想像に過ぎぬ。そのような問題は脇へ置き、今のそなたにとりて意義あることのみを知り得ることで有難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘の全てに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場がなくなるであろう。ともかくそなたが地上にて知り得ることは高が知れている。が、たとえ限りはあっても、知らんと欲することは許される。知らんと欲することによりて魂を浅ましき地上的気苦労に超然とさせ、真の在るべき姿に一層近づくことを得さしめることであろう。神の御恵みのあらんことを!
〔注〕
(1) Pythagoras ギリシャの哲学者・数学者・宗教家。
(2) Plato ギリシャの哲学者。
(3) Ra エジプト神話の太陽神。
(4) ミイラ。
(5) Osiris.
(6) Isis.
(7) Horus.
(8) Trinity 三位一体観。
(9) 旧約聖書“出エジプト記”3・・14では、I am that I amとなっている。他からの働きかけによって作られたものでなく、時を超越して自ら存在し続けるもの、即ち実在ということ。
(10) Jehovah.
(11) Thebes ナイル川沿いのエジプトの都市。
(12) On 創世記41・・45
(13) Heliopolis.
(14) Chom.
(15) プルーデンスに替る。
(16) Sothic cycle古代エジプト暦によって古代エジプト史の絶対年代を決定する際の基準の一つで、一周期が1460年。
(17) Cherubim 創世記3・・24その他。
(18) 前節参照。
(19) 再びインペレーター。
(20) Parsee ゾロアスター教の一派。
(21) 三節参照。
第29節 低級霊に関する警告
〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られて来たが、その中で唯一普遍的な内容のものを紹介する。〕
このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人間を騙さんとして他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も“未熟霊”の中に入る。その種の霊による面倒や困惑の危険性がそなたの身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。如何にもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。
この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによりて煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。
そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状がそなたの肉眼に映らぬからであるようである。となれば、そなたの霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとりて地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとりては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによりて、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。
肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによりて麻痺されていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑きやすき呑んだくれを見つけてはけしかける。けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるベき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのである。こうした現実がそなたらの身のまわりに実在する。それにそなたらは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある――あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか。何故どこからも批難の声が上がらぬのであろうか。何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によりて人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。かつての呑んだくれは――人間の目には死んだと思えようが――相も変わらず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。
一方人間の無知の産物である死刑の手段によりて肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ――その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである――を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境の永続を図る。人間は一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。協同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。そなたらは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。ああ、友よ、そなたらの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、そなたら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。
かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変り得るであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいはそなたにも判るであろう。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、そなたにそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。
この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのである。地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱しめるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。
そなたら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それをそなたらのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。その押しつけんとする宗教と文明がそなたらにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、そなたらの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。そなたらの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠し切れず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至りては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。その点においては、人間本来の感性を文明によりて矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた狡猾なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遙かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。
地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え途方に暮れている。霊的影響力を受けつけぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。が、その悶えも、取り囲む闇の帳(とばり)を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。
では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷――実はすぐ目と鼻の先のそなたらの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが――そうした巷より霊界入りする人間はその後いかなる経過を辿るであろうか。彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ち溢れている。金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか――そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるベき仕事も持たぬ。発育は歪(いびつ)となり、落着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。そうなるが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術(すべ)を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏――そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。
が、人間はそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。われらもそなたに理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病いと犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰――犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。そなたらはこれまで抱いて来た結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。結婚の美名のもとに行なわれる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまでそなたらが佳しとして来たものに代わりて、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。世に言う社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その墜落せる観念をわられは軽蔑をもって拒否する。かの恥ずべき人身売買――最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行なわれる人身売買を軽蔑するものである。
そなたは未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとりて必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題においてもそなたらはわれらの敵に味方する結果となっている。そなたらがその独占者を以て任じているところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされて早や十九世紀の歳月が流れた。然るにそなたらは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。それどころかむしろイエスがその修業時代を過ごせるエッセネ派(1)にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。
そなたは知らぬ。肉体と霊の問題――この世のみならず死後の生活にも関わる重大なる意味をもつこの問題について、そなたはまるで判っておらぬ。
以上、かつて言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によりて時々刻々その勢力を拡充していきつつある。
これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにおいた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみせることにあるからである。出来るだけその方向へそなたの注意を仕向けてきた。言っておくが、われらはその内面の姿を有るがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担(にな)える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団についてかつて述べたことを繰り返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなるであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。これは特殊な敵対手段であり、最も大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと強力に働きかけている。いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、初め霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。
心霊現象は単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言い始める――われわれは色々とやってみた。自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いても最早や無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。
繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させる悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動して貰いたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かれざる客が携わっている。驚異的現象も余り度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとりての効用を過小評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たぬうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗未に映ることすらあろう。が、現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。また、この世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足しているわけでもない。もしもそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命はそなたにも判っていよう。信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。旧き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫ヘと目を向けさせる。
われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的の為のやむを得ぬ手段として必要と見たからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それをもってわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。
心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界ヘの働きかけの証と受けとめよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出て来ぬ。それに、霊側がこれ以上は無駄と見た時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が人類に一体何の役に立つというのであろうか。万が一そなたら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。
そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探求にまで進めば――要するにわれらの意図を信じてくれれば――その暁には、未だそなたが知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界についてはそなたの国(2)以外の国の真摯なる探求者にはすでに、遙かに奥深きことが啓示されている。そなたらの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(3)その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を挙げて行きつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけには参らぬ。われらは心を読み取ってしまう。故に人間が実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで――心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっともこの度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしてはそなたが少しでも早く物的束縛より脱け出て、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈る気持でいる。そなたはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。
永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚めしめ、私たちの説くところを悟らしめます。願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればと願えばこそでございます。
〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙(かた)るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるのかが理解できないと述べた。〕
われらの世界に法も秩序もなきが如くに想像するのは誤りである。人間の側にて整えるべき条件を整えてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっともそなたらの言う悪の要素が完全に抹殺される日は来ぬ。何となれば、そうした体験も霊的鍛錬の一つであるからであり、われらとてそなたの進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。そなたにはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならぬことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。
邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は交霊会が用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨みを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許していると見てよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。
――そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。
その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、そなたにはすでに証明済みである。証拠の上に証拠を重ねてきた。われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意――そなたに授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それはそなた自らの判断にて評価されたい。そなたの評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう(4)。今すでにそなたはそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関してそなたは、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。
――おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせかねなかったと思われます。
それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。そなたにとりてそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、そなたに猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にはわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。
――確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。
何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によりて行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念を持って臨むべきである。不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとりて恰好の餌食となる。その種の人間が霊的なことに係わることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。その種の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳を持つ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。
――それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(5)、椅子が浮揚するのを見る方を好むものです。
確かにその通りである。それはわれらも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。が、それは真の目的ではない。われらが期待している真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。しばし休息せよ。
〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕
邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとりて面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。肉体より離れて行く人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。
言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙(けむ)に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあるとそなたに言わしめる要因がそこにある。茶目っ気や悪戯半分の気持から如何にも真面目くさった演出をしては、それを信ずる人間の気持を弄(もてあそ)ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識は持ち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。
人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害とならんとする。係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによりて惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば如何ようにでも心理操作が出来るのである。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはある。が、次の会では巧みに本人を出し抜いて悪戯霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そなたもそうした霊に付け入られぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。
〔注〕
(1) the Essenes ユダヤ教の一派で禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。
(2) 英国。
(3) テーブルがひとりでに傾斜して、一本の脚が床を叩き、その符牒によって通信を交わす。
(4) 本書の形での公表は、霊側は当初より意図していたことが窺われる。
(5) 霊がメガホンなどで列席者の頭や肩を叩いてまわることがよくある。訳者にも体験がある。人情的にはなぜか「うれしい」ものである。
第30節 イースターメッセージ(一八七四年)キリストに学べ
〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として三年連続して送られて来たイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のインペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕
〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕
あの通信が届けられた頃のそなたの心境と現在の知識とを較べれば、そなたの進歩のよき指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。あの頃われらはいわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における霊の蘇(よみがえ)りの真相を説明した。その時点におけるそなたにとりては初耳であった。が、今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性――そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスがそなたらと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。愚かなる人間的神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによりて、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。
イエスは肉体を持って昇天したのではなかった。が、決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかも知れぬ。
今そなたが見ているのはこれから始まる新しき配慮――人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての“主”の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による“主”の出現の前ぶれとしての“しるしと奇跡(1)”なのである。すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。
このところそなたの精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目指す目的から目をそらせてはならぬ。今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを繰り返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期までにそなたは火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。死せるものより目覚め、魂を蘇らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取り越し苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を捨て去り、興味の対象を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう――「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ(2)」と。次の聖書の言葉も心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん。(3)」
――私がこの世的なことに無駄な時間を費して来たとおっしゃっているように聞こえますが。
そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言って来たつもりである。が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そしてそなたに求めることを全ての人間に求むるものである。
〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる――つまり霊界との関係にのみ浸り切り世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕
霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとりてはそうなって行くことが理想であろう。そなたもいずれはそのように取り扱うことになろう。もともとそなたを選んだのはそうした目論見(もくろみ)があってのことである。それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わりて信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。
〔ここで私はかつて述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であるといったことであった。さらに私は、信念が必要であることは論を俟(ま)たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕
そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。今の程度の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだそなたの精神に染み込んでおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。ある種の抵抗に遭うことで力を付けることはあろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の“あるもの”によりて鼓舞されたものであらねばならぬ。魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑え難きエネルギーであらねばならぬ。イエスが“山をも動かす(4)”と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。
この種の信念をそなたは知らぬ。そなたの信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出した知的合意に過ぎぬ。安全無事の人生を送るには間に合うかも知れぬが、山をも動かすには覚束(おぼつか)ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。知的論争における後ろ楯としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なく湧き出ずる信念ではない。そなたにはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。そのうちそなたも過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことである。その時節が到れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。そなたにはまだ信念はない。
――あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。
違う。今のそなたは内と外より影響を受けつつ自ら造り上げて来たものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。そなたには誤解がある。われらが批難したのは、その名に値せぬものを信念であると広言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。そなたはより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼べるものが魂に注がれ、その力によりてより高き知識へと導かれるよう祈れ。そなたのそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。
〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕
すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝う。イースターも貴殿たちと同じようにわれわれにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることである。
全ての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味においてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味をもつ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信ずるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大である。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解し始めたということである。
〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕
人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人に限られたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。そうした特殊な降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差があるように、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。俗性と官能性とを多分に具えた者もいれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費すのは不釣合だ――勿体ないという思いが走った。〕
救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られるように、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。
イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等(6)、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。
仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それではあたかも何世紀ものちになって歴史を編纂するのにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。
イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数か月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団(7)からの指示を受けていた。イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。
地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的視覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、ほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう――荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶。いずれも誤り伝えられてはいるが。
さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。
イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず――それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく――その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。
その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。が、その意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしき出来ごとであった。
イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死にに来た。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。しかし、あの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。
もしイエスが地上生活を全(まっと)うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が、時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。
受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまったと言えよう。
のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。
貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力(9)はイエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったも同然である。が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。
クリスマス(キリスト降誕祭(10))――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。
エピファニー(救世主顕現祭(11))――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。
レント(受難節(12))――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。
グッドフライデー(聖金曜日(13))――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。
イースター(復活祭(14))――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。
ペンテコステ(聖霊降臨祭(15))――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。
アセンション(昇天祭(16))――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。
以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(インぺレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当てて下さったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。
われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したように、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならない。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。
『磔刑(たくけい)と復活――自己犠牲と新生』
〔私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生ヘの道であると考えて良いかと尋ねた。(17)〕
その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないということである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。
〔言われるまま私は一八七五年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕
その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(そなたらの用語で言えば)天国にて完成される――自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとでの三十年余の準備期間はイエスの使命にとりて相応しきものであり、三年の短かき期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭りに象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超脱し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によりて用意された境涯(18)へと進む。
これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によりて端的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑――パウロの言う“日毎(ひごと)の死(19)”である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であり、日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯につきての理解を深めることである。物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展――あたかも火によりて、全てを焼き尽くすほどの熱誠によりて焼き払う如く、物的汚れを清めて行くことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、神の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。
これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ、霊的“炎”が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがある。一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。
――その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服して行くべきか迷います。
先ず自己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある――自分自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現している。
まず自己すなわち“肉”の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己自身を克服せよ。これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。
これさえ成就すれば、その魂にとりて目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最後、それ以後は外界の物的形体を真理の影――人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。物質は殻であり、それを剥ぎ取って始めて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。そう悟れる魂にとりては最早や、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとりては、表面上(うわべ)の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に適う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとりては真実の意味において“身を棄ててこそ浮かぶ瀬(20)”もあるのである。その生活は魂のための生活である。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も最早や魅力はないからである。
が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服して行くことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。
以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。一日一日が死であり、そこより新たなる生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。そなたらの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。
――Sic itur ad astra.(21)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。
そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。だからこそわれらはそなたの関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸(そ)らさんとしてきたのである。危険と見たのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。
――ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をし難くさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。
そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が、案ずるには及ばぬ。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱づよく待つことである。
神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。
このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤の後に得られる勝利について説いてある。そなたも人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進歩が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。
さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。
そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。
かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして“この世の君(22)”悪魔(サタン)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。
すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんとする霊が付きまとうことを知るがよい。
幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によりて安全の地を求めてエジプトへと連れて行かれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露せる知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。
そなたにとりてはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋(けだ)し賢明であった。神秘的知識の豊富なるエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのも、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。一つには安全の地への逃避であったが、今一つは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身につけんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長――イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養して行ったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。
救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終わる。準備期が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遙かに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく自らを鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期――われらのいう伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。そなたには改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとりては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ(23)”の戒律を厳守することが必須の条件なのである。
故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己自身と対峙し、背後霊団(24)との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた(25)。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちにも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。
〔のちに、その一人とは聖ヨハネ(26)であるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(27)を目撃している。〕
この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによりて些かもその恩恵が減少するものではない。一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。たとえ目指すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時を持たねばならぬ。
その宗教的向上心の生活と相まてる陶冶(とうや)の生活は来るべき奉仕的社会生活への準備なのである。
救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によりて霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活よりようやく福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法にふれて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。
誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。すべては推移であり、緩やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。一年の終わりと始まりとに急激なる断絶はない。人間の目には前年に埋められし墓の石蓋が如何なる力によりて取り除かれて来たかが判らぬ。ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によりて起こされるのである。太陽が再び光を放つ。その光は死せる年が閉じ込められた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯(じゅうたん)と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。
同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れし旅人の喉を潤す果実一つなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病が全てに蔓延していた。そうした中に“神の使者”、“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)”――これは“息子(サン)”でもあった(28)、両者に差異はない――が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだ。そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によりて生気を取り戻す。古き時代につきての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教はかつてなく高度にその霊性を増す。イエスは形式に代わりて霊的意義を、けばけばしき儀式に代わりて静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教――人に見せんがための行事――に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わりて温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり(29)、大衆の目にあらずして神の監視の中にあった。
大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。信仰に目覚めし魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められた霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹きを取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によりて楽しく、かつ誇り高きものと感じられるようになるということである。
あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや”と幾度も叫ばしめた無味乾燥の儀式が復活霊の息吹きによりて生命と温(ぬく)もりと現実味を帯びる。それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。霊的に啓発された目をもって見れば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されて行くものであることを知るのである。
要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えた力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。その時は最早や平凡なる人間とは物の観方が異なる。行為も異なる。何の変哲もなき外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によりて発育を促し、枯れ枝の刈り込みによりて若き枝が成長すると観れば、これを見捨てることはせぬ。かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によりて一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。
この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。
主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽(あお)るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得べくもなかったことに理解がいくことであろう。恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(30)と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(31)にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ――が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。
イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる“真理の子”に報復したのであった。
そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長(た)け、より多く世の為に尽くした人物もいた。が、そうした指導者は稀である。大抵の指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。
キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフ(32)とニコデモ(33)の二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師――彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。しかしそれは、人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。それは実は天使の仕業であった。それと同じ力――完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。
これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るベき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。
修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活――地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち“愛の摂理”によりて鼓舞され続けた。イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっている。
自らの発意によりて地上界を訪れる霊はことごとくその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。
希望に燃えよ! そなたはとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にありてはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”ありてこそ“再生”があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。そうした生活には必ず死が先立つものであること――人間が死と呼ぶところのものは、神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての“種子の死”に過ぎぬことをそなたは知らぬ。生へ向けての死――これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たりては、このことを忘れてはならぬ。
輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照りつける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて“真理の言葉”を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り、伝来の世俗的信仰の中に埋没して行くことを恐れる必要があるのである。全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。
救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。
〔注〕
(1) 使徒行伝2・・43。
(2) Be in the world,but not of the world. 身はこの世にあっても“この世的”人間になるな、ということ。この通りの言葉は聖書に見当たらないが、多分ヨハネ17の場面で実際に述べたのであろう。
(3) エペソ5・・14。
(4) マタイ17・・20。
(5) 聖書全体に流れる基本的教説。
(6) マタイ3~4その他。
(7) 医師のスピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて一度も物質界に生を受けたことのない霊団によりて支配され元気づけられていた」と述べている。日本で言う自然霊である。
(8) Calvary ゴルゴタGolgothaのラテン名。キリストが十字架にかけられた土地の名。
(9) カトリック、プロテスタント、東方教会。
(10) Christmas.
(11) Epiphany.
(12) Lent.
(13) Good Friday.
(14) Easter.
(15) PentecostまたはWhitsuntide.
(16) Ascension.
(17) インペレーターが回答。
(18) 人間は日常生活において、死後に落着く環境を築きつつあるというのが高級霊界通信に共通した説である。
(19) コリント前15-31。
(20) “to die has been gain”.
(21) ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道すなわち不滅への道はかくの如し、という意味。(ラテン語)
(22) the Prince of the World(ヨハネ12-31その他)。
(23) マタイ10-8。
(24) 西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。注(7)参照
(25) 幽体離脱現象。
(26) イエスの弟子のヨハネ。前出のバプテスマのヨハネとは別。
(27) 俗に後光がさす、と言っているもので、一種の変容、または変貌現象。
(28) Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。
(29) 当時の民衆の尊敬を得ながら、現実は空理空論を弄んでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながら、社会にとってなくてはならぬ存在である収税吏のほうが上であるということ。
(30) 伝説的にはかつて売春婦でイエスの教えで信仰に目覚めた女性とされる。(ルカ7-37~50)
(31) モーセの律法の巻物が納めてあるもので、イエスは平気で手を触れたりした。
(32) Joseph of Arimathea(マタイ27-57~60)イエスの死体を手厚く葬ったという。
(33) (前出)ヨセフと共にイエスの死体を葬ったという。
第31節 著者の友人の自殺の波紋
『生と死――進歩と堕落』
〔一八七六年四月二十八日。本節で紹介する通信は通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙され易く、かつその可能性が十分あり得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完璧な一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、まずそれは不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会でその友人の映像が写真に出て、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真を撮った時、私は入神していた。撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の面影が容易に見て取れた。実はこのケースにはもう一つ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られたと述べるに留めさせて頂く。
この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真の製造方法についてのものであった。それによると、一人の霊が私の周りで活撥に動いて、複数の霊界の技術者に指示を与えていたという。像の周りの例の被(おお)いのようなものは時間とエネルギーを節約するための処置だということで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば“スケッチ”ほどのものだという。そうした部分的物質化という機械的な仕事にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者が携わるという。一人の心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似た傾向があるのはそのためだという。
インペレーターとしては二度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力するのはどうしても協力せざるを得ぬ時のみに限って来たので、この度のこともインペレーターの意向にそったものではないとの説明があった。
その友人の霊は生前ずっと私の仲間であり、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。従って彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易であった。もっとも私は二人の友人を伴い、その二人のための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。
そういうわけで、その友人はM霊の世話でその会に出席し、M霊が技術者を指揮して顔を整え、被(おお)いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材で拵え、実際にポーズを取り、それから撮影した。
こうした通信のあとインペレーターが次のように述べた。〕
これよりそなたの友人のことについて述べる。が、その前に一言申しておくが、われらはそなたが再び物理的現象に関わるのを防がんとして出来得るかぎりのことをした。ようやく落ち着いて来た正常なエネルギーが再びその方面へ駆り立てられるのを望まなかったからである。そこでわれらは、そなたがその気持にさせられる環境に置かれるのを阻止せんとした。以前にも説明したが、われらはそなたがいつまでも物理的段階に留まっているのを不可として交霊会を中止した。友人がそなたに付きまとうのも好ましからぬことと観ていた。彼は霊性が低い。故になるべくなら彼のことを構わずにいて欲しかった。が、一旦こうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばならぬ。M霊はそなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りである。霊と霊との間の親和力の法則である。そなたも知っていよう。
――知ってます。ですが親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろ、その通りの結果が現実に見られるのは稀なように見受けられます。で、彼は今幸せではないのですか。
彼がどうして幸せで有り得よう。神が進歩と発展を願いてその魂を宿した聖なる神殿(2)に向かいて冒とく行為(3)を働いたのである。霊的成長の機会を無駄にし、己自身であるところの神の火花の宿る聖殿を思いのかぎり破壊した。そして今、魂に何の用意も出来ておらぬ見知らぬ土地へ、道連れもなしに一人で旅立ったのである。父なる神の前から逃亡したも同然である。その彼がどうして幸せであり得よう。死しては不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、更には寿命を全うせずして他界することによりて、地上的縁故の人々に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。無益に過ごせる生活がその代償を求める。長年にわたりて培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せぬようにする。生活そのものが利己的であり、地上で目指せるものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えぬ。哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚め精神的再生に至るまで、心の安らぎは得られぬ。今彼はまさしく“宿無し”の身である。
――向上の望みはあるのでしょうか。
有る。望みはある。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつある。霊的暗闇を通して、朧気ながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつある。幽(かす)かながらも、己の置かれた荒廃せる状態についての知識に目覚め、光を求め始めている。そなたの近くに留まっているのはそのためである。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばならぬ。
――それは喜んで……ですが、どういう具合に?
まず祈ってあげることである。祈りの力によりて高き世界の曙を招来してあげることである。不幸なる魂に働くことの楽しき雰囲気を味わわせてあげることである。彼の魂は、聖純にして爽快なる雰囲気が如何なるものであるかを知らぬ。そなたにとりては彼の存在は不快かも知れぬが、そなたがそれを教えてやらねばならぬ。そもそもそなたが彼を呼び寄せたのである。そして彼はそなたの誘いに素直に従っている。彼の存在は我慢せねばならぬ。われらの警告と願いを無視してやったことであり、最早や取り返しはつかぬ。せめてもの慰めは、かくすることによりてそなたも神の聖なる仕事に携われるということである。
――私が呼び寄せたと言うのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけには行かないと思います。
責任は問われるべきであったし、今なお問われて然るべきである。彼自身も今そのことに気づき始めている。彼が自らを殺(あや)めた最後の罪業(4)の種子は怠惰な無為の生活の中にすでに蒔かれていた。彼は病的とも言うべき内向的性癖を培い助長していた。自己のみを考察した。それも進歩や発展のためではなく、欠点を反省し、徳を培うためでもなく、利己的排他性の中で行なった。いわば歪められた利己主義の暗闇に包まれていた。それが彼に病をもたらし、挙句には霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられた。霊界より鵜の目鷹の目で見張る邪霊に身を曝してしまった。その意味において彼はそなたの言う如く狂っていた。が、その狂気の行為も彼のそれまでの所業の結果に他ならぬ。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に同じ邪悪な影響を及ぼしている。己自身への災禍(わざわい)が今や他の愛する人々ヘの災禍となっているのである。
――本当に恐ろしいことです! 天罰の厳しさを見せつけられる思いです。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよく判ります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。
利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に多くの魂がこれに蝕まれている。まさしく魂を麻痺させるものである。その上さらにその利己主義が内向的となれば、いよいよもって致命的となる。利己主義にも極めて毒性の少ないものがある。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらある。たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。あくまで余計な気遣いを避けんが為にいかなる指図にも従う。いずれも魂の進歩にとりては障害となるものであり、褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とは言えぬ。
彼の場合はいかなる善行も、いかなる活動も伴わぬ卑劣なる利己主義であった。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもなかった。否、自己満足以上でさえあった。何となれば全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が侵蝕されていたからである。この種の利己主義は己にとりても縁ある人々にとりても残酷なる影響を及ぼす。罪にも段階がある。彼の罪はとりわけ深かった。これは彼の話であるが、他人事(ひとごと)としてでなく、そなた自身のこととして聞くがよい。が、暫し休むがよい。その間にわれらがそなたの心より邪気を取り除いておこう。
〔私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間に、ある心和(なご)む光景を見せられ、目を覚ますとすっかり気分が爽快になっていた。〕
いま彼の無益なる人生を事細かく詮索する必要はあるまい。魂が異常なる利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊であった。そなたのいう意味では確かに狂っていった。が、その狂える精神が支配するかぎり自殺の手を押し止めることは何者にも出来得なかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのである。
が、そなたの罪の評価は幼稚である。あの状態を誘発したのは彼自身なのである。魂そのものが己を敵に売り渡し、破壊するに任せたのである。彼の場合は遺伝的精神病が正しき判断と行為を狂わせたのとは異なる。自殺は利己的怠惰の所産に他ならぬ。理性の力を奪い、自殺という罪へ追いやったのは誘惑の魔手であった。その誘惑は人によりては別の形を取ることもある。が、自己破滅にせよ他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足にせよ、その根源は同一である。
授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある――神のため、同胞のため、そして自己のためにである。一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。悪がいかなる形態を取るかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形をとり、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。
生命の糸(5)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。自ら殺めた魂の宮が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。無意識のまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる世界には歓迎される場はないのである。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様自ら破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められし同類の霊が次々と薄ぼんやりとした姿を見せる。彼らが近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていく。
その悲劇――本人は悲劇であることを半分も自覚しておらぬが――それを少しでも和らげ魂を癒すための手段が講じられることになったのは、良心の苛責の初めての身震いが天使に届いた時であった。暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいてその麻痺せる良心の回復を加速せしめ、悔恨の情を目覚めさせるべく手段を講じた。見た目には残酷に映るかも知れぬが、天使は敢えて彼の置かれた惨めな状態に気づかしめ、その罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。悔恨の門をくぐり抜けずして、魂の安住の地へは辿り着けぬ。故に苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならぬ。
その努力も暫し効を奏さなかった。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は今や嫌悪さえ覚えるに至ったその悲劇より抜け出る道を手探りで求め始めた。が、しばしば元へ引き戻されたりもした。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのである。が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。霊たちはそれとは気づかぬ。彼らはただその低劣きわまる本能の赴くままに動いているに過ぎぬ。が、その実、彼らも因果律の行使者なのである。
彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばならぬ。それを措いて他に魂の清められる道はない。利己主義は自己犠牲によりて拭わねばならぬ。怠惰は労苦によりて根絶せねばならぬ。彼の魂は苦難によりて清められねばならぬ。それが向上進歩の唯一の道である。その道は過去の誤れる生活によりて歩行困難、否、ほぼ不可能にされている。が、努力によりてたとえ一歩でも進まねばならぬ。しばしば転倒することであろう。後戻りすることもあろう。が、それによりて、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのである。一歩一歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばならぬ。しかも、回りを取り巻く誘惑――向上せんとする魂を挫折させんとする邪霊の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばならぬ。これを罰というのである。それが、他のいかなる手段によりても得られぬ、天国への唯一の道なのである。
むろん天使の援助の手は片時たりとも控えられることはない。向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとりて光栄ある使命なのである。とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりに贖(あがな)うことは出来ぬ。背反の天罰を一分(ぶ)たりとも和らげてやるわけには参らぬ。代償として支払うべき余徳などもない。友人といえども重荷を肩代わりすることは出来ぬし、疲れ果てたる肩よりそれを下ろしてやるわけにも行かぬ。衰え行く精力を補い扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯せる本人が背負わねばならぬ。
これは、無為に過ごせる人生の避け難き天罰である。これによりて半ば消えかかれる火花が再び点火され、魂を導く灯として大きく燃え上がることになるかも知れぬ。あるいはそうした天使の声に耳を貸さず、相も変わらず暗闇と孤独の中をさ迷い、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛に苛(さいな)まれることによりてのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れぬ。そうした罪障消滅に費される期間(とき)は、永遠の如く感じられるかも知れぬ。あるいは状況が固定化する以前に魂が目覚め奮い立つこともある。そうして必死の努力によりて光明へと近づき、自ら進んで浄化のための苦難を求め、残れる気力を以って地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れぬ。
それは有り得ることではある。が、そう滅多にあるものではない。性癖はそう簡単に変えられるものではない。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものでもない。利己主義、あるいは不徳の中に死を迎えたる者は往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境が地上生活の証でしかない。幽(かす)かながらも向上心の芽生えた彼に援助の力の授からんことを祈るがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによりて慰められんことを祈るがよい。彼の病にとりてはそうした祈りこそ最良の薬である。
〔右の通信を読んだ時、私はこれでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか――人間にとっては理想が余りに高すぎる、と述べた。〕
否! 否! われらの述べたるところもまだまだ実情の全てではない。また、いささかの誇張も潤色も施しておらぬ。彼の如き無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇の境遇の真の恐ろしさは、われらにはとてもその全てを語ることは出来ぬ。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情が如何に痛烈なるものであるかは、とても言葉では言い尽くせぬ。その後に魂が辿る過程は、いかに立派な理屈をもってしても、われらにも如何ともし難きことである。われらとしては永遠にして不変なる因果律の働きを述べることしか出来ぬ。身に染みた利己主義と犯せる罪悪が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることは出来ぬ。われらがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる神の定めた摂理なのである。そなたの身近に証を見ることの出来る法則の働きを指摘したまでである。何時(いつ)のことかも判らぬ死後の遠い遠い先の或る日、全人類が召集され“記録天使”が“審判の書”を提出し、それを手にキリスト神が一人一人に判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられるなどということはない。断じてない。が、行為の一つ一つが確実に魂に刻み込まれ、思念の一つ一つが記録され、全ての性癖が死後の性格の要素として持ち越されるという形での審判はある。そのことを人間が忘れがちであるために指摘したく思ったのである。罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要らぬ。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えたく思うのである。審判者は魂自身なのである。魂が己と語り合い、己自身の命運を読み取るのである。参考とすべき書類は道義の記録のみである。地獄とは魂自らが罪悪を焼き尽くさんとする悔恨の炎のことである。
しかもそれは全人類が他界せる遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たなる生命への再生と同時に始まるのである。気絶状態でもあるまいが、遠き彼方のうっすらとした靄の如き光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定なのである。なぜかく申すかと言えば、われらについて世間では、われらの述べる霊訓は宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によりてのみ支配され、いかなる行為を為そうと、いかなる教義を信じようと、全ての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからである。われらはそのような無分別きわまる教理を説いているのではない。今はそなたもその点を理解していよう。が、そなたもそこに至るまでは繰り返し繰り返し説かねばならなかった。すなわち、人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。
われらがこうした人生の暗黒面を取り挙げたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからに過ぎぬ。気品と美と天使の支配に満ちた明るき面については、これまで度々言及してきた。神の溢れんばかりの慈悲と愛、その神と人間との間を絶え間なく取りもつ天使の優しき心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗き一面――孤独と荒廃、邪霊の誘惑の存在に意識を向けるのも無駄ではあるまい。
理想が高すぎると言うが、そのようなことはない。もしも高すぎるということになれば、高き理想は向上心に燃える魂のみを鼓舞するためにしか役立たぬことになる。確かに向上心なき魂にとりては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪によりて蝕まれておらぬ者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとりては決して高すぎることはない。友よ、いかなる者にも逃がれ得ぬ摂理というものがあることを明記するがよい。人生とは旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続である。闘争は目的成就まで絶え間なく続く。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格よりキリスト的霊格への発達である。この摂理だけは曲げることは出来ぬ。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は叶わぬ。己を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されて行くのが永遠の必然性である。神より放たれし火花がその父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのである。
真の幸福は最高の理想を目指して生きることによりてのみ獲得されることをそなたは今さら説き聞かされることもあるまいと思うが如何? 怠惰なる者、無精者はそれを知らぬこと、邪悪なる者――自ら選び自ら好んで悪事を働く者には縁なきものであることは改めて説くには及ぶまいと思うが如何?
地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出ずるものであり、その道程において克服せる危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも改めて述べるまでもなかろうと思われるが如何?
天使は常にそうした魂を補佐せんとして見守っていること、天使はそれを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害は被らぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが如何?
たとえ勝利の宣言が為されても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えぬ。勝利は葛藤の末に得られるもの。平和は艱難の後に得られるもの。そして発展は着実なる成長の末に得られるものである。
〔私は当然そうであると思うと答え、人生の準備期においては出来るだけ多くの知識を蓄え、出来るだけ多く仕事をし、その上で叶うかぎりの平和を享受すべきであると思う、と述べた。しかし仕事と知識、とくに神そのものと未来のことについての知識が、平和または安息の前提条件である以上、十分な瞑想の余裕がなくなることになる、と述べた。〕
違う。人生には三つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして三種の敵(6)との葛藤である。瞑想の生活は自己認識にとりて必須のものである。着実なる成長の重要素である。それには当然祈りが伴う。すなわち肉体に閉じ込められし魂と父なる神及びわれら神の使者との霊的交わりである。
次に魂が己を見出し行く無数の局面――神の声なき声に耳を傾ける静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえたる厳(おごそ)かな神殿にて神を恭(うやうや)しく讃える聖歌の斉唱、さらにまた、言葉に出ず、他人の耳にも届かざる魂の奥底からの止むに止まれぬ向上心――こうしたものを通じて、神によりて植えつけられし讃仰の本能がその捌(は)け口を求めるのである。これは絶え間なき悪との闘争に欠くべからざるものである。われらはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張する者である。そなたも今少し安らかな思索の時をもつよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いている。
――彼の無節操な行為の中には、必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことをお認めになるでしょう。
無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそこに宿れる魂の意思に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合も多い。その場合は魂に責任はない。事故による傷害によって精神に異常を来すこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もある。そうした原因に由来する時は誰にも咎められることはない。ましてや公正なる神による咎めは絶対にない。神は霊的動機と意図によりて審判を下すからである。
われらがそなたの友を咎めたのは、あの不幸なる結末が生涯にわたる罪悪の生み出せるものであるからに他ならぬ。それに関しては彼に責任があったし、今もなお責任がある。そして彼も今そのことに気づき始めている。
全能なる神よ、叡智を育み授け給え。
〔注〕
(1) F.A.Hudson 英国最初の心霊写真霊媒。
(2) 肉体。
(3) 自殺。
(4) いかなる形での自殺かは述べていない。
(5) 霊的身体と肉体とを結びつけている帯状の紐。
(6) 30節。イースターメッセージ一八七六年参照
第32節 真理とは
〔その後のインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染みわたるのを感じていた。〕
『真 理』
イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、そなたの疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところそなたのもとに届けられた何通かの手紙によりて、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によりても予期されていることが判るであろう(1)。備えを怠るでない。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛錬が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されぬ。真理へのカギは霊界にある。試練によりて鍛えられた真摯なる魂にあらずんば、何人といえども勝手に真理をもぎ取ることは許されぬ。
安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学び取るがよい。
さらに、今こそわれらと邪霊との烈しき闘争の時期でもある。その煽(あお)りがそなたにも感じられるであろうことを述べたことがあるが、神の摂理の大いなる発展の時期には付きものなのである。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件として憂鬱の体験であり、真摯なる魂が浄化される試練の時期なのである。イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やお前たちの時、そして暗黒の時(2)”と述べた。今こそその時である。しかも容易には過ぎ去らぬであろう。辛酸をなめ尽くさねばならぬのである。
それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声をあげて叫ぶ――真理とは何ぞや! と。それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。
その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。“喜びは暁と共に来らん(3)”“悲しみと歎きは消え行かん(4)”かくして夜の恐怖――“暗黒の力”が過ぎ去る。が、全ての者にとりてのことではない。相も変わらず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。
故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂をいくことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によりて踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き平等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。
神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請される。それを理性によりて律し、我欲を抑え、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことについては、とうに述べてある。心するがよい。
大方の者が真理なりと信ずることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるに及ばぬ。そういうものなのである。真理にもさまざまな段階がある。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられる。その光の一条たりとも全ての魂によって曇りなき目で受け止められるとは限らぬ。僅かな者、ごく僅かな数の者に、その無数の光の中よりはぐれた一条――もしかしてそれ以上――の光が届くに過ぎぬ。それも多くの媒介者を通して届けられる故に、ようやく届いた時はすでにその透明度が曇らされている。それは如何ともし難きことである。それ故にこそさまざまな真理の観方が生ずるのである。それ故にこそさまざまな見解、誤謬、誤解、錯誤が罷り通ることにもなるのである。真理を見たと言うも、その多くは束の間の真理を見ているに過ぎぬ。それに己の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重なる真理の光が歪められ破壊される。かくして真理が台無しにされて行く。咎めらるベきは真理の中継者の不完全さである。
或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。独り占めにするには余りに美しく、余りに崇高であり、余りに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとりてあれほど美しく愛らしく思えた真理が忙(せわ)しき生存競争の熱気と埃(ほこり)の中で敢えなく新鮮味を失いゆくのを見て驚く。己の隠れ処(が)においてはあれほど純にして真なるものが、世に喧伝されると見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けることに驚異を覚える。彼がもし賢明であればこう悟る――へルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、即ち至聖にして至純なる真理は霊感によりて魂より魂へと密かに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝さるべきものではない、と。
むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石の如き粗野なるものもある。これは言わば全ての建築者が等しく使用すべき土台石なのである。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに眺むるべきものである。故にヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼は全ての者の目に映ずるはずの真理の外形を物語ったのだった。但し、彼がこの奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエス・キリストの存在と栄光のみであった。
そなたがこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。そなたにとりて絶対的真理と思えるものも実は、そなたの求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのである。そなたにとりては完璧であり、それが“神”であろう。が、別の者にとりては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまでもそなたのものであり、そなた一人のものなのである。そなたの魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。
真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに儚(はか)なすぎる。その霊妙なる芳香は魂の奥の院においてのみ発せられるものである。このことを篤と心に留めておかれたい。さらにまた、受け入れる用意の出来ておらぬ者に押しつけることは真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとりては天啓ではあっても、そうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。
さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探求を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありての最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。人間生活に充満する俗悪な野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心――これらは紛(まご)うかたなきソドムの林檎(7)である。然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑――同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン(8)にもう一つの石を積み上げんとする心である。彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。その説くところは気高きものかも知れぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとりて真理と思えることはその者にとりて真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探求のために温存し、人に説く前により多くを学ぶべきであった。
教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。
〔ここで大して重要ではない質問をしたのに対してこう綴られた――〕
違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらはそなた自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。これまで導いた道は、過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によりて痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、そなたはもう一つの側面を理解せねばならぬ。
そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性の者であるかを知らねばならぬ。それを措(お)いて今そなたを悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。一体真理なるものが如何なる方法により如何なる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりを持つには予(あらかじ)めこうしたことを全て理解せねばならぬ。しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何はほとんど、あるいは全て人間側に掛かっていることを忘れてはならぬ。我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目指す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。真理を万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せよ。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標とせよ。そうすれば神の使徒が見守り、そなたは魂の奥に真理の光を見出すことであろう。
〔注〕
(1) 具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第一次世界大戦、さらには、50年後の第二次大戦も含めてのことと推測される。
(2) ルカ22・・53。“お前たち”とは、イエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダたちを指すが、それは同時に背後の邪霊集団を意味している。
(3) 詩篇30・・5。
(4) イザヤ書35・・10。
(5) Mount Hermon シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。
(6) ヨハネ黙示録21・・11~21。
(7) Sodom apples 外観は美しいが口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。
(8) 記念・道標などとしてピラミッド型に積み上げた石塚。
第33節 霊の身元を裏づける証拠の数々
〔四節において作曲家アーンの生涯について綴られた極めて細かい事実を紹介したが、一八七三年九月十二日には他の作曲家――ベンジャミン・クック(1)、ヨハン・ペプシュ(2)、ウェレスリ・アール(3)の生前の事実や日時についても同じように細かく且つ正確な言及が為された。三人とも私の知らない名前であった。まるで人名辞典のような簡略な記述で内容的にはばかばかしいほどの些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容である。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれらの目的である。地上生活のこまごましたことは今のわれらには興味はない”と述べている。
一八七四年七月十六日。病気で部屋に籠っていたところ右の三人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていた一人の人物と密接な関連のある内容であった。この度の霊はジョン・ブロウ(4)と言い、“クリストファー・ギボン(5)の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル(6)の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。生没年を質すと一六四八年~一七六八年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態でたまたま部屋に引き籠っていたから得られた情報である。
一八七三年十月五日に更にプライベートな証拠がもたらされた。四節において書物からの読み取りが出来る霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは凡そのことは私も不案内というわけではなかった。と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは私には付いて行けないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手な性質(たち)なのである。生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣を付けるべく努力してきた。
その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんど全てが顕微鏡的細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。
同じ頃、中世の錬金術学者ノートン(7)の著書からの二十六行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をのちに校合(きょうごう)しようとしたが困難を極めた。と言うのは、関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。通信によると、古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。そして彼の著作に詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art(8)というのがあり、ヨーク大主教のネビル(9)に捧げられたものであった。
他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。
が、もう一つだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊が自らその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は出席していた者の誰一人として知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。
一八七四年三月二十五日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。〕
あの霊はシャーロット・バックワース(10)と名のっていたが、その通りである。われわれとは特に関わりはないのであるが、たまたまあの場に居あわせ、貴殿にとって証拠になると考えて通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはなかった。われわれの手で改善することも出来なかった。非常に乱れていた。あのような日の後は得てしてそういうものである。貴殿の巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気がわれわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのである。
――霊媒的能力を持つ四人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。
貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようだ。あの時に通信した霊は百年以上も前に地上を去った者で、一七七三年に急死し、何の備えもないまま霊界へきた。ジャーミン通り(11)の友人の家で他界している。そこで娯楽パーティに出席していた。多分彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもない。
〔ここへ連れて来てほしいと言ったところ、通信霊がそれは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何か他に知っていることがあるかと尋ねた。〕
ある。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めてしばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで地上の雰囲気に近づいていない。雰囲気が調和性のある場所に引かれている。それは彼女の性格に愛らしさがあるからである。他界のしかたは急死であった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。
――死因は?
心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しく愛らしい性格ではあったが、至って無頓着な娘であった。
――何という人の家で、どこにありましたか。
われわれには判らぬ。彼女自身から告げることになろう。
〔このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信がきた。私は忙しくて寛いだ気分になれないのでペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされてしまった。〕
ロッティ(12)が他界したのはドクター・ベーカー(13)とかいう人の家であったことを確認した。十二月五日であった。それ以上のことは判らぬ。が、以上で十分であろう。
〔通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で為された。当初その事実を確認する手掛りはまずないとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れてしまっていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた三人で談笑したことがあった。その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人――A氏と呼んでおく――が一番上の棚の本を取り出すために椅子を持っていった。そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏は埃の中から一冊を取り出し、一年一年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載っていないものはないほどだと言った。それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある人ならよくご存知の、曰く言い難い閃きであった。内的感覚に語りかけられた声のようなものであった。私は一七七三年版の年鑑を探し出し、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。その本は厚く埃を被り、五年ほど前にそこに置かれてから一度も動かされていなかった。私の記憶ではその年鑑はきちんと配列されていた。そして一度も手を触れた形跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰一人として取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。
このことに関連して一つだけ付け加えておくと、一八七四年三月二十九日に私のノートにあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じであった。署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは私には読めなかった。結局それは私の知らないかなり老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で百歳近い高齢で他界している。姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。メッセージを伝えたそもそもの目的(と思われるの)はその婦人が一八七二年十二月に他界しているという注目すべき事実で、“寿命を全うして、地上生活の疲れを癒して来た”ということであった。
この件にかぎらず、霊の身元の件に関するものは全てインペレーターが指示し、私がしつこく要求した身元の確認――というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。そのいずれも明らかにある計画性をもって運ばれている。私からの勝手な要求が容れられたことは一度もなく、その計画を変更させることは遂に出来なかった。
通信の連続性がこの頃から途切れ、通信らしい通信が来なくなった。時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて一八七九年頃を境にこの自動書記による通信は事実上終わりを告げ、もっと容易で単純なものに代わってしまった。私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取り敢えず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。
本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めんとして来た一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在が弛(たゆ)むことなく働きかけ、そして遂に成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。〕
〔注〕
(1) Benjamin Cooke
(2) Johann Pepusch
(3) Wellesley Earl
(4) John Blow
(5) Christopher Gibbon
(6) Henry Purcell
(7) Norton
(8) 直訳「化学的技法の手引き」
(9) Richard Neville 15世紀の英国の貴族・政治家。
(10) Charlotte Buckworth(女性)
(11) Jermyn Street ロンドンの中心に位置する。
(12) シャーロットの愛称
(13) Doctor Baker
解説―訳者
本書は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、かつ人に説いて来た思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。
モーゼス自身が再三断わっているように、本書に収められたのはほぼ十年間にわたって送られて来た厖大な量の通信のほんの一部である。主としてインペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的にそって啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合から言うとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことの方が圧倒的に多いようである。が、それはモーゼスの意向に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。
通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探求心のほとばしりをそこに見ることが出来る。それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。ほゞ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著『ベールの彼方の生活』Life Beyond the Veil by R.V.Owenを出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。
なおこの『霊訓』には『続霊訓』More Spirit Teachingsという百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が、博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から“是非とも公表されるべきである”と判断したものをまとめたものである。背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの『続霊訓』(潮文社刊)を参考にさせて頂くことにする。
第1項 ●霊団の構成について
『続霊訓』の冒頭でインペレーターが霊言でこう述べている。
「神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令によりて仕事に当たる。
余は全知全能なる神の意志を成就せんが為に第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上して行くであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。
余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。
レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当する一団が控えている。
次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。そこで霊界の悪の勢力――霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊が付いている。余の直属のこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。
第一のサークルは守護と啓発を担当する霊――霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。
次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。
次のサークル――これも同じく一人が六人を主宰している――は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。
次のサークルは知識――人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識――を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身につけさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行なわれる。
その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ、性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。
次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を開放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。
最後の霊団は物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。
いずれのグループに属する霊も教えることによりて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれらの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。」
以上がインペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼスの背後霊団」The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewyによると、この最高指揮官であるインペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たる言わば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。
第2項 ●霊団の身元について
本文でもインペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって『霊訓』の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一、地上の記録自体が信頼が置けないのである。が、しかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと――
インペレーターは紀元前五世紀のユダヤの預言者で旧約聖書の“マラキ書”の編纂者マラキMalachi、レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタスHippolytus、ドクターは紀元二世紀頃のギリシャの哲学者アテノドラスAthenogoras、プルーデンスは“新プラトン主義哲学”の創始者プロティノスPlotinus、その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。
ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することは全く別問題である。地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった“俗世的”なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いて殆ど顧みられないことが多い。そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。インペレーターの霊言に次のようなところがある。
「地上へ降りて来る高級霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーである。そなたらが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等な霊信の非個人性に注目されたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が、実はわれらを通して数多くの影響力が届けられている。死後首尾よく二段階三段階と上りたる霊は、そなたらのいう個体性を失い、形体なき影響力となり行く。余はそなたらの世界に戻れるぎりぎりの境涯まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、そなたらより遙か彼方に居る。」
西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にしすぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。
第3項 ●スピリチュアリズムにおける『霊訓』の価値
スピリチュアリズムSpiritualismというのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、“発明”ではなく“発見”――目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。
そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。インペレーターの霊言に次のような個所がある。
「今夜は大勢の霊が活発に動いている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。そなたらが“近代スピリチュアリズム”と呼ぶところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。スピリチュアリズム――われらはこれをむしろ“霊界からの声”と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。」
この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証としてさまざまな心霊現象が演出されたのであった。新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。ところが現実にはスピリチュアリズムヘの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの“現象面”に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。インペレーターは続けてこう語っている。
「スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来する言わば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来るべき死後の世界への信仰に拠り所を求めている。が、地球を取り巻く唯物的雰囲気に影響され、霊的真理が視覚的現象の下敷きとなり、息も絶えだえとなっている。もしもこのまま現象のみの満足にて終わるとすれば、初めよりこの問題に関わらぬ方が良かったかも知れぬ。が、しかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。」
要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの『霊訓』に象徴される霊的真理の普及にあるのである。インペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。そして今なお世界各地で送られて来ている。『霊訓』はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情から来る特殊性を見落としてはならないであろう。つまり、その内容を煎じつめれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、たとえば再生――生まれ変り――の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、『続霊訓』の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。インペレーターは自動書記通信でこう述べている。
「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行なわれる神々の協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否と判断されるかは誰にも判らぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。
すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上に戻り、人間と共に生活を送ることは事実である。他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。未だその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊はみずから己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。」
第4項 ●シルバーバーチの霊訓との比較
インペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、それからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モーリス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀にわたって厖大な量の霊言を残し、『シルバーバーチ霊言集』全十六巻となって出版されている。
訳者はこれを全て翻訳して上梓しているが、その内容は基本的にはモーゼスの『霊訓』と完全に符節を合している。強いて異なる点を挙げるならば、インペレーターが控え目に肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。察するにモーゼスの『霊訓』その他によっていわゆる“夾雑物”が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。
このことに関連して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するインペレーター霊団の霊媒がキリスト教会のかつての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。
第5項 ●モーゼスの経歴と人物像
ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。
オックスフォード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。とくに当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。
一八六九年三十歳時に重病を患いS・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯にわたるスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職についたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。
その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの『霊訓』を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追求した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期であったと言える。
最後に『続霊訓』の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。
「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する厖大な知識と相まって、氏を魅力ある人間に造り上げていました。
二年前の病さえなければ『霊訓』をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありません。」
次は心霊誌『ライト』に載った記事。
「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を倣慢不遜にし苛立(いらだ)ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。しかし、氏にとってそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。」
スピーア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。
「真理普及ヘの献身的態度はいくら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現われないであろう。」
第6項 ●あとがき
訳者としてお断わりと謝意を述べなければならないことがある。
まず、この度の翻訳に当たり、聖書関係の人名及び訳語については、研究社の『新英和大辞典』、小学館の『ランダムハウス英和大辞典』、それに各種の日本語訳聖書を参照したが、辞典ごとによる違い、プロテスタントとカトリックとの違い、ラテン語読みと英語読みの違い等があり、その選択に迷ったものは近くのプロテスタント系の教会で司牧されている方の助言を得た。またイエス語録の訳についても教えを乞うたが、いずれの場合も最終的には私なりの判断で訳した。それ故、全責任は訳者の私にある。
本書の内容に鑑みて、その牧師の氏名を公表できないのが残念であるが、快く助言を下さったことに陰ながら深く謝意を表したい。
本書は“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて今なお世界各地に熱烈な愛読者をもっている。日本にも浅野和三郎氏の抄訳がある。それを読んでぜひ全訳を読みたいと思われた方も多いことであろう。実は訳者自身その一人であった。訳者はその後、原典でその全編と続編を読み、こんどは、それを全訳したいとの希望を抱き続けてきた。それがこの度、国書刊行会から『世界心霊宝典』の一冊として上梓されることになり、この私が訳すことになった。永くスピリチュアリズムに親しんできた者としてこの事をこの上ない光栄と思い、まる一年、この翻訳に体力と知力の全てを投入してきた。
今こうして上梓するに当たり、その名誉をよろこぶ気持ちと同時に、こうした訳し方でよかっただろうかという一抹の不安と不満を禁じ得ない。もっと平易な現代語に訳すことも出来たであろう。訳者も当初それを試みてはみた。が、原典のもつあの荘重な雰囲気を出すには現代語では無理と判断し、結果的にこうした形に落着いた。この最大の要因は、この霊界通信が単なる霊的知識の伝授ではなく、霊媒のモーゼスと指導霊インペレーターとの壮絶とも言うべき知的並びに人間的葛藤の物語であり、そこに両者の個性がむき出しになっている点にある。そこにこそ本霊界通信の、他に類を見ない最大の魅力があり、その生々しさを表現するには文体を操るしかないと判断したのである。
その出来不出来は読者の批判を仰ぐこととして、訳者としては、いつの日か別のスピリチュアリストが別の形での訳を試みられることを期待しつつ、今はただ、お粗末ながらもこうした歴史に残る霊的啓示の書が日本でも出版されることになったことを素直によろこび、一人でも多くの方がこの“泉”によって魂の渇きを潤して下さることを祈るのみである。
なお、『霊訓』初版は一八八三年に刊行された。翻訳に当たっては一九四九年版を使用した。