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田舎暮らしの老後の配当 2009.12.04
 いつもの散歩コースの出来事である。名来神社前の愛宕橋のすぐ先で、何やら鮮やかな色が動いたように見えた。じっと凝らした視線の先の枯れた草のてっぺんに、輝くような美しいブルーを背負った小鳥がとまっていた。カワセミだッ!ポケットのデジカメをそっと取り出す。息を殺して電源をONにしズームをいっぱいにアップした。飛び立たないでくれ!と祈るようにスイッチを押す。撮れたッ!二度目のスイッチを押そうとした瞬間、カワセミは直線的な鋭い飛行で飛び去った。モニターチェックする。翡翠色の鮮やかな背中と長いくちばし、白いほっぺの横向きの顔が川面を背景に写っていた。あの敏感な野鳥をよくぞ稚拙な腕で補足できたものだと自賛する。
 身近に野鳥を目にできる環境とは、田舎暮らしに限りなく近い生活環境の裏返しにほかならない。現役時代は、最寄の鉄道駅までバスで20分揺られなければならない不便さをかこっていた。リタイヤ生活を迎え、自宅中心の生活があらためて自然豊かな田舎暮らしの愉しさを気づかせてくれる。現役時代の田舎暮らしの不便さの配当を、老後生活を向かえた今受取っているのかもしれない。
爽やかな初夏の凄まじい闘い 2009.05.26
 有馬川遊歩道にそって新緑の若葉に包まれた桜並木を歩いていた。並木の一角の違和感がふと気になった。視線の先に若葉の緑がごっそり抜け落ちた桜があった。近寄って注視して一瞬寒気をもよおした。枝という枝に無数の生まれて間もない小さな毛虫が張りついていたのだ。生え変わったばかりの若葉は毛虫たちにことごとく食い尽くされていた。
 爽やかな初夏の早朝の清冽な景色の下で、生き物たちの凄まじい闘いが繰り広げられていた。多くの生き物たちが生まれ変わりを迎える新緑の初夏は、実は喰うか喰われるかの闘いの季節だった。生まれたばかりの命を育むために、生まれたばかりの命を喰らうほかはない自然の過酷で残酷な現実があった。
 とはいえ若葉を食い尽くされたこの桜も、来春にはピンクの装いをまとうのだろう。毛虫たちの腹立たしい所業も織り込みなのだ。あるがままの自然の摂理に生き物たちが身を委ねている。
黒山羊ハッチャンとゴミ回収車 2009.02.12
 朝のいつものウォーキングコースの途中だった。黒山羊ハッチャンのいる石材屋さん横の道にさしかかった。前の道をゴミ回収車が通り過ぎ、石材屋入口横のゴミステーションに向った。その時だった。広い草むらの中央で悠然と草を食んでいたハッチャンが猛然と走り出した。見たこともないスピードだ。そして金網の塀に飛びついてつま先立ちをした。あっけにとられながら何事かと近づいた。
 30歳前後の回収車のドライバーが塀の前に立ってポケットから取り出した市販のサンドイッチのラップを剥いていた。塀の上に前足をのせて立っているハッチャンの傍にサンドイッチが投げ込まれる。ハッチャンは塀から降りて夢中で食べ始める。ゴミ回収の定期コースでの1場面である。恐らくコンビニでのゴミ回収を済ませた後のこのスポットなのだろう。ハッチャンの迷いのない本能的な振る舞いが、長年にわたる習慣化されたシーンであることを告げていた。ハッチャンのドライバーに寄せる信頼感を物語っていた。
 私と目が合ったドライバーが、はにかんだかのように口元を歪めた。いたずらを見つけられた幼児のような笑顔だった。過酷な仕事の合間に見つけた彼の癒しのひと時を一緒に愉しんだ。
散歩道の珍客 2008.08.25
 有馬川遊歩道から水田地帯に抜ける畦道にさしかかった。突然10mほど先に蠢く二匹の黒っぽい生き物が目に入った。特徴のある鼻先は紛れもなく猪だ。体長50cmほどの子供のようだ。と見る間に一匹が右手の水路を超えて草むらに消えた。もう一匹はじっとこちらを見つめている。足を止めて携帯電話を取り出した。カメラボタンを押して構えた途端、くるりと身を翻してアッという間に走り去った。記録される筈の珍しい画像がスルリと逃げた。
 自分の住む街は大阪近郊のベッドタウンという気分が少なからずあった。ところがこの珍客との遭遇は、一歩踏み出せば猪の生息するとんでもない田舎だったことをあらためて思い知らされた。その事に気づいた時、なぜか愉しい気分に包まれた。
哀しさとの遭遇 2008.07.13
 住宅街を抜け農道に入ってすぐの所だった。路上になにやら黒っぽい物が見える。近づいてみて小動物のむくろだと知らされた。四肢をつっぱらせて横たわっている。野ネズミのように思えたがよく見るとモグラだった。鋭い爪を帯びた前足が自らの正体を告げている。携帯に亡骸を収めて手を合わせた。先日の青大将の反省が甦った。農道とはいえ農作業に向う車の往来が頻繁である。放置すれば遺体は無残な姿になることが目に見えている。片手でそっとむくろを道の端に寄せておいた。
 散歩道は生き物たちとの出合いとともに、哀しみとの遭遇の場であることを思い知らされた。  
続・青大将 2008.05.24
 朝6時過ぎに自宅を後にした。浮き立つような昨日の天気とは打って変わった曇天である。今にも泣き出しそうな鉛色の空の不気味さが、昨日の青大将の死体の不気味さを連想させた。住宅街を抜ける坂道の先に田圃が広がっている。昨日まで水を張っただけだった水田は、今日は縦横に並んだ苗がそよいでいる。降り出しそうな天の恵みを、待ち受けているかのようだ。曇天の光と影に思い至った。
 有馬川沿いの遊歩道に出た。青大将の死体が横たわっている筈の場所が近づいた。・・・が、ない。どこにも死体はない。向こうから毎日のように顔を合わせるおじいさんがやってきた。いつものように挨拶を交わした後、思いついて尋ねてみた。「昨日この辺に蛇の死体があったでしょう?どうなったんでしょネ」。とつとつとした口調が返ってきた。「あ〜、あれは私が川に捨てました。散歩する人が気味が悪いでしょう。可哀想だったけど・・・」「それはありがとうございました。まだそのままだったら私が片付けなければと思っていたものですから」。
 私よりひとまわり以上年配のおじいさんである。いつも青いジャージの上下を着て黙々とウォーキングに励む姿が生真面目なキャラクターを物語っていた。そのおじいさんが、私がその場で決断できなかったことをこともなげにやってのけている。一件落着したものの、なぜか一抹の悔いを感じさせた結末だった。
青大将 2008.05.23
 早朝ウォーキング途中の出来事である。雲ひとつない初夏の爽やかな朝だった。有馬川沿いの遊歩道を、微風の漂う澄み切った透明な空気を満喫しながら歩いていた。1日の内でも最も癒される気持ちの良いひと時である。
 その時だった。前方の道の真中に黒い紐のようなものが目に入った。近づくにつれ正体が明らかになった。ナント全長1m近くはありそうな青大将が身をくねらせて横たわっていたのだ。癒しのひと時は瞬時に吹き飛び緊張感で体が固まる。私の接近にすばやく身を隠す筈の蛇は、不敵にもじっとしたままである。足を止め身構えながら凝視した。口の周りが血に染まり、皮膚はわずかながら乾燥しているかのように見える。死に絶えた青大将の姿に、不気味さと安堵と哀しさが身を包む。ざわついた気分を抑えて、道の端を踏みしめ遠ざかった。 
 快適な安らぎの空間を掻き乱したこの物体と、当分の間、毎朝対面することになるのだろうか。そんな不安がよぎった。青大将の死体との対面回避と引換えにこのルートを変更するには、この散歩道は快適すぎる。誰かが片付けてくれるに違いないという根拠のない期待もある。誰も片付けなかったら、結局自分でやるしかないのか。様々な空想が錯綜する。  明日のブログ「続・青大将」には、どんなコメントが書けるのだろうか。
黒山羊ハッチャン 2006.06.25
 早朝ウォーキングのいつものコースの終着点近くの天上橋のたもとに石材屋さんがある。ゆったりした敷地の半分程が小川で区切られている。手前の歩道側の草むらにはこの辺りでは珍しい黒ヤギが飼育されている。金網の塀には、飼主の手書きの看板が掛かっている。「名前:くろやぎのはっちゃん、生年月日:平成12年9月12日デス、出生地:三田市の青野ダム近くデス、好物:にんじん、さつまいも、だいこん。紙やナイロンはあげないで下さい。みんなでかわいがってね」
 1時間近くのウオーキングの果てに登場する黒ヤギのはっちゃんの姿が、私を癒してくれる。いつも遠くにいるはっちゃんが、今日は珍しく、歩道側の金網にまとわる草を食んでいた。内側から食べられる草を食べ尽くし、しきりと首を傾け、網の目から舌で外の草を食べようとしている。近寄って金網から指を差入れ鼻筋を撫でても、臆することなく草を食べようとする動作は止めない。はっちゃんが取れそうにない草を引き抜いて口元に持っていく。ときおり見つめる眼差しが限りなく優しい。
 先日の公智神社の3本足の白猫と黒ヤギのはっちゃんと・・・。散歩道で出会った2匹の動物の境遇の違いを想った。どちらが幸せなのか答は持ち合わせない。
公智神社の白い野良猫 2006.06.22
 有馬川沿いの遊歩道から西川沿いの農道を折り返すいつものコースである。
 公智神社前にさしかかった時だった。悲しげな猫の鳴き声が聞こえる。そういえば、境内に住み着いているらしい野良猫を以前にも見かけた。前足の一本が折れ曲がり3本足のように見える白猫だった。気になって、境内を覗き込んだ。背中を丸めてうずくまっていた猫が、私の気配に気づいて頭をもたげた。絵になると思った。デジカメを構えた時だった。くだんの白猫が不自由な3本足で向ってきた。逃げることはあっても向ってくるとは・・・。この意表突いた行動に一瞬狼狽させられる。
 傷つき障害を負った野良猫の気持ちを想った。公智神社は由緒ある社である。訪れる人も少なくない。訪れる人が野良猫を見かけたとしても、境内では乱暴狼藉には及ぶまい。障害を哀れんで何がしの餌を与えるかもしれない。彼は、この境内に住み着いて以降の数々の経験から、生き抜くための智恵を身につけたようだ。向ってきた野良猫の目の強さに、哀れみでなく威厳を見た。