トップ 春の詩 夏の詩 秋の詩 冬の詩 生き物 イベント

朝霧の季節 2008.11.17
 早朝6時10分過ぎに家を出た。日の出前の薄闇の中で周囲の景色がぼんやり霞んでいる。朝霧の季節なのだ。朝の冷え込みが厳しい季節となった。日中の気温が高くなるのだろうか。寒暖の差が大きくなる時、朝霧を招く。
 有馬川の遊歩道に出ると川面をゆらゆらと漂う霧が目に入る。髭にまとわりついた朝霧が指先を濡らす。髪の毛にはない髭の湿り気の不思議さを想う。
 遊歩道から隣町の田園地帯に入ると朝霧は一層深く立ち込めていた。50m先の景色が見えない。真っ白なとばりが、上半分の景色を覆っていた。
 早朝ウォーキングの朝霧の散歩道を愉しんだ。
深秋の散歩道 2008.11.04
 下着にポロシャツ、更にウインドブレーカーを着込んでの早朝ウォーキングの季節になった。住宅街から抜ける坂道の桜並木が赤く染まっている。歩道の両脇を茶色い落ち葉が縁取り、カサカサと鳴いている。道路脇の貸し農園の縁に植えられたこの地方の特産の黒豆が、鞘に太った豆を宿している。晩酌のあてを連想させる枝ぶりに心和ませられる。その隣りには赤の小紋をつけた黄色い小菊が咲き誇る。有馬川遊歩道に出ると、冬を待ちかねて来訪した鴨たちが川面を回遊している。深秋の散歩道である。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 2008.09.26
 有馬川の土手を、爽やかな微風が通り抜けていた。堤の斜面が赤い斑点で染められている。彼岸花が咲き誇っていた。小津安二郎監督の名画に「彼岸花」がある。この作品のもつおだやかで上品なイメージはこの野花の名前に似合わない。幼い頃、郷里では、この花は「てくされ」と呼ばれていた。触ると手が腐るという、いわれのないに汚名を着せられていた花だった。
 「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」という呼び方もある。私たちの年代で曼珠沙華と聞けば真っ先に思い浮べる歌がある。『赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてるじゃがたらお春・・・・・』。この花の持つ毒々しさにはほど遠い哀しくて切ない歌だった。
 それにしても、この花が運んでくる季節感は、その強烈な存在感ゆえに圧倒的だ。それにしてもその朱色のかたまりを田んぼのあぜ道のあちこちで目にした時、なぜか安らぎを覚えてしまう。
いわし雲 2008.09.17
 その景色は見事に秋を伝えていた。透き通るような青空の可能な限りの上空に無数の小さな綿雲がばら撒かれていた。山影の向こうの朝日はもう顔を出したのだろうか。山の頂きから日の出のダイダイ色がまぶしく輝いていた。綿雲に当たる光の強弱がこちらに向って美しいグラデーションを描いていた。
 6時前の住宅街を抜ける坂道にさしかかった時に目にした風景だった。早朝ウォーキングのスタートが、日の出の時刻とともに遅くなっていた。その美しさと強烈な季節感が足を止め、携帯内臓カメラを起動させていた。現役時代には味わうことのなかった筈の、幸せな老後の実感を噛みしめるひと時だった。