トップ 有馬路の街道 西国巡礼街道 石碑巡り 不思議発見

 西宮市の中央図書館山口分室で「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を見つけ借り受けた。マップにはこの地域の史跡だけでなく道標、石碑、供養塔、伝承地などが記載されている。このマップをもとに山口の石碑巡りの散策に出かけた。さくらやまなみバス「天上橋」バス停を起点に3時間ばかりのコースである。散策スポット・ガイド を参照に散策ガイドとして活用頂ければ幸いである。このコース最後のスポットの十王堂橋の道標横に「金仙寺口」バス停がありここが終点となる。
旧街道茶店前の竹本多賀太夫墓碑
 最初に訪ねたのは竹本多賀太夫という人物の墓碑である(散策スポット・ガイド ▲L)。ネット検索してみると明治初期の浄瑠璃の太夫のようだ。天上橋バス停前の有馬川にかかる橋を渡り真っ直ぐ道なりに進む。中国自動車の高架下を抜けて北側の側道を東に500m程進む。側道から北に入った小道の先に農家の倉庫がある。マップの示す墓碑の位置はその庭先のようだ。
 庭先の小屋から出てきた70歳前後のおじいさんに出会った。早速、尋ねてみる。「この辺りは昔の大坂街道の一部だった平尻街道の分岐点のあったところですか」「そう、ここは小字は平尻と言っていた所で、この小屋はその頃は街道筋の茶店だった。旧街道はあの西側の山の谷間を通り、山中を縫って道場平田の宿まで繋がっていた」と教えてもらった。「子供の頃は、名来の村で道刈りをしていて、その街道を行き来していたもんだ。今は通れなくなってしまったが」「その三つの墓石も、わしのじいさんとばあさんが倒れていたのを二人で起こして据え直したものだ」と笹に埋もれた数基の石碑を指さした。その墓碑のひとつには確かに「竹本多賀太夫」の文字がくっきり刻まれ、その横には「宇滴宋圓」と刻まれたものと「蝸牛」の文字が辛うじて判読できる 墓石があった。いずれの墓石も建立の年号は見当たらない。この地の所有者でしか語れない貴重な情報に感謝して辞した。画像を収めた後、教えられた旧街道を辿った。残念ながら、畦道の先の小山の裾で猪避けのトタンで行く手を遮られた。 
光明寺境内の西国巡礼供養塔
 次に訪れたのは浄土宗の古寺・光明寺である(散策スポット・ガイド ▲M)。天上橋バス停まで戻り、天上橋交差点を西に向う。モスバーガー先の交差点を左折し、300m程先に光明寺がある。マップの示す西国巡礼供養塔は、ここの境内と思われた。境内に入って眺めてみるがよく分からない。ほどなく庫裏から檀家参りに出かける様子の住職と鉢合わせた。来意を告げると山門前と納骨堂前の9基の石碑を教えてもらった。
 ※西宮市教育委員会発行の「新西宮歴史散歩」によると9基の石碑は、最も古い年号の元禄7年(1694)から宝暦9年(1759)までの建立である。江戸中期の下山口での西国三十三ヶ所巡礼の信仰が盛んであったことが窺われる。
駅前橋と山口村道路元標
 光明寺前の道路にかかる橋の石柱に「駅前橋」と刻まれている(散策スポット・ガイド ▲I)。かってこの道路を走っていた旧・国鉄有馬線の「有馬口駅」の存在を示す墓標というべきか。
 光明寺南隣の公智神社前の東西の通りは「宮前通り」と呼ばれている。この通りを東に向かって突き当たりの道が旧山口村の真中を走る旧街道である。右側に公智神社の「御旅所」を見ながら旧街道を南に行くと右に「下山口中屋敷公園」がある。公園手前の道を西に行くとすぐに二つ並んだ「道祖神」がある(散策スポット・ガイド ▲H)。ひとつはかってここから南の位置にあったものを移設してここに並べている。元の旧街道に戻り南に行くと間もなく三叉路に出る。東側すぐの「明治橋」と結ぶこの三叉路地点の南側に「山口村道路元標」がある(散策スポット・ガイド ▲G)。大正8年(1920年)制定の旧・道路法で当時の各市町村に設置が義務づけられたのが道路元標である。今となっては1951年に西宮市と合併して消滅した旧・山口村の貴重な名残りである。
銭塚地蔵の竹本増太夫碑と西国巡礼供養塔
 明治橋を渡り下山口会館東側の小道を左折し北に行くと山口春道公園右手にお堂が見える。「竹本増太夫墓碑」と「西国巡礼供養塔」がマップに記されている「銭塚地蔵」(散策スポット・ガイド ▲F)である。お堂横の「下山口墓地」入口には「山口五郎左衛門時角の碑」があり、そのすぐ横に「竹本増太夫墓碑」があった。竹本増太夫については、ネット検索で江戸中期の延享、宝暦年間に江戸三座に出演した太夫ということがわかった。供養塔はそれらしき碑文がなくどれか分からない。ただ増太夫墓碑のすぐ隣りに光明寺で住職から教えられた供養塔とほぼ同じ仕様の墓碑があった。確かめる人とていないがほぼ間違いないと思われた。
 ※「新西宮歴史散歩」によると、この墓地には「西国巡礼供養塔 右ハ大坂 左ハ山道 寛政三亥歳四月十八日 同行九人」と記された道標があった(現在は山口町郷土資料館に移されている)。西国三十三ヶ所巡礼の第24番札所の中山寺から台5番札所の清水寺への巡礼道が名塩、山口平尻、道場平田へと通じており、この道標はこの道筋に建てられたものと推定されるが、元あった場所は不明である。ちなみに寛政三年は1801年である。
 
尚、下山口墓地は二ヶ所あり、この銭塚地蔵横と光明寺境内である。神戸女子大学文学部史学科による「西宮市山口町上山口・下山口の民族」によれば、下山口墓地の墓石の建立年代は古くは江戸初期の天和年間(1681〜)にまで遡るもものが6基あると記されている。
竹本加治太夫の墓碑と明徳寺の境内の夜泣き地蔵
 下山口会館前の道まで戻り、有馬川東側の遊歩道を南に向う。桜並木の続く遊歩道を右手に2009年4月にオープンした山口地区センターの建物を見ながら進む。大通りにかかる平成橋の東の袂から遊歩道東側の道路に入る。すぐ先の三叉路の南東角に植込みがある。「竹本加治太夫の墓碑」(散策スポット・ガイド ▲E)はその植込みの中にある。どういう人物だったのかネットでもよく分からない。ここから西側に見える有馬川にかかる芽具実橋は、かっての国鉄有馬線の架橋跡である。
 そのすぐ南の万代橋を渡り、対岸に見える明徳寺を目指す。道路を渡り正面の小道を抜けて旧街道に出る。左折してすぐのところに参道がある。参道正面の山門から明徳寺を訪ねる。マップには境内とおぼしきところに「夜泣き地蔵」(散策スポット・ガイド ▲D)が記されている。境内に入り捜してみると本堂南にそれらしき小さなお堂があった。本堂正面で掃除中だった住職に尋ねると、「この辺りでお地蔵さんはあそこしかない。恐らくあれが夜泣き地蔵でしょう」とのこと。しばらく雑談を交わしてお礼を言って辞した。帰宅後、有馬郡誌を調べなおして次の記述を確認した。『古、上山口庄屋、永年子なきを悲しみ、祈願せしに、忽ち美事なる男子を授かり、篤信奉祠せしを、明徳寺境内に遷祠せるものにして、夜泣き地蔵とも、道祖神(縁結地蔵)とも、お乳の地蔵ともいう』
 明徳寺参道から旧街道に出て左折し南に800mほど行くと有馬に向う県道98号線に合流する。県道右手向かいに十王堂橋がある。橋の袂には明治3年(1870年)建立の道標(右画像)が目に入る。道標には「右 ありま なだ / ひだり ふな坂 西ノ宮」と刻まれている。