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       向って、かっての大坂街道の名残りとおぼしき畦道@が残っている。更に西に進み中国道の高架下を潜り抜けると生コン工場Aがある。■そのまま大坂街道を西に進むとすぐに七合橋Bがある。山口の中心部の有馬街道との合流点である明治橋に繋がる道である。大坂街道との分岐点を右方向に工場東の道を北に行くと船坂川に架かる鍋倉橋Bがにある。この橋が実態としては平尻街道の起点と思われる。 ■その先を旧道が北六甲台の北側の中国道に沿って続いている。途中、北に入る小道の先に農作業小屋Cがある。平尻街道と山口を結ぶ街道の分岐点だった所で、現在も「平尻」の地  名が残っている。過日、この小屋の庭先を訪れた際、小屋から出てきた70歳前後のおじいさんに出会い、話を聞いた。「この辺りは小字を平尻といっていた所で、この小屋は昔は街道筋の茶店だった。旧街道はあの向こうの山の谷間を通り、山中を縫って道場平田の宿までつながっていた。子供の頃は 、名来の村で下草刈りをしていて、その街道を行き来していたもんだ。今は通れなくなってしまったが。その三つの墓石も、わしのじいさんとばあさんが倒れていたのを二人で起こして据え直したものだ」と、それぞれ「竹本多賀太夫D」、「宇滴宋圓E」の文字が刻まれた墓石と「蝸牛F」の文字が辛うじて判読できる墓石を指さした。いずれの墓石も建立の年号は見当たらない。この地の所有者でしか語れない貴重な情報だった。小屋の前に西に向って畦道Gが続いているが、その先は林に覆われた小山で阻まれている。 | 
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       ■ある日の朝、西宮市立郷土資料館編集の「西宮歴史散歩・案内マップ」記載の名来の山中にある道標を探訪した。かっての平尻街道沿いに建っていた道標に違いない。有馬川に架かる愛宕橋袂に名来神社Gがある。その北側の狭い舗装路を山中に向って東に進む。ゆるい坂道Hを200mほど進むと関電のフェンスで行き止まりとなる。それらしき石碑はないかと周囲を探すが見当たらない。諦めて一旦帰宅し、郷土資料館に問い合せた。このマップの道標を現地調査したという女性職員から詳しい位置を聞いた。午後、再び探訪に出かけた。半袖シャツの両腕を笹の葉で傷つけられたり、蜘蛛の巣を顔中に浴びたりしながらようやく目的の道標Iに辿り着いた。  ■道標にはお地蔵さんを挟んで両脇に「右 清水道/左ハ在所道」Jと刻まれている。なぜか道標の前の道だけは整備され、いかにも旧街道を思わせる風情Kである。清水道とは25番札所の「清水寺への街道」のことだ。まさしく巡礼街道である。だとすればこの道をそのまま東方向に進めば以前確認した平尻の茶店前の街道に通じている筈である。腹を括って前進した。関電の工事道を左に見ながらフェンス沿いに進むと左に折れる。笹や倒木と格闘しながらひたすら進む。ようやく木の間に平尻の水田Lが見えた。その  手前はぬかるんだ谷間になっている。構わず進むと最後に猪避けの低いトタンが遮断している。トタンを乗り越え畦道に出る。右手東方向には平尻宿の茶店跡の小屋が見えるM。ヤッタ!何とか旧街道を踏破した。
      ■帰宅後、再び郷土資料館の女性職員に連絡した。無事確認できたことと平尻宿の街道まで踏破できたことを報告。彼女からは「道標に刻まれた方角が間違っているのは設置位置が移動したため。以前は真向かいに反対方向に向いていたと地元の紹介者に聞いた」との情報を得た。確かにお地蔵さんは東を向いて建っていた。とすれば右は南方向で清水寺とは逆方向だ。反対位置に建っていたとすれば納得がいく。いずれにしろ平尻の茶店前の旧街道がこの道標とつながっていたことがあらためて確認できたことの収穫は大きい。  | 
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