トップ 概要 自然 歴史 船坂の旧街道 史跡 名勝旧跡

 有馬郡各村には、様々な史跡が残されている。「有馬郡誌」には第四篇に「古城址と名勝旧蹟」という篇を設けて郡内各村の史跡が名勝旧蹟として記述されている。有馬郡誌より、山口村の名勝旧蹟を「山口篇」と「船坂篇」に分けて拾ってみた。このサイトは「船坂篇」である。
 川上滝は船坂川の最上流に在り。両側は山嶽巍峨として、晝(昼)尚暗く、水流は上部細く下部箒の如く拡がりて、両方に面し落下す。



 船坂川の上流にして半ば林縁、半ば川岸に位置し、一個の御影系の石にて、一つの亀裂もなく、側面より見るときは藁葺平屋造りの如く、平面亀を伏せたる如く、南北に長く黒錆を帯び、一見荘厳を極む。
 本大石は、聖武天皇の時代より、大巳貴命・少名彦命・猿田彦命の三神を奉祀しありて、其の後右三神を今の氏神社の所に移し、山王神社と称することとなれり。爾後神の祟りありとて此の大石に手を触るる者なし。
 川床の一断崖を形成せる箇所にして、奇岩怪石点々として突出し、渦巻く水は異様に屈曲せる岩間を流れ、上下十余間を隔てて約一丈の滝二ヶ所あり。
 右岸に長さ四間、深さ二間半の凹所あり。更に水深七尺に及び、悉く岩石より成るを以って、一見石筧の如く、終始水の絶えたることなく、人之を天狗の溜池という。
 右岸は屏風を連ねたるが如き岩石にして、苔水滴たり。其の上より数百年を経たる老松懸崖となりて枝尖厳めしく、対岸の岩上に垂る。之を天狗松という。
 一度杖を曳き岩上に立てば、周囲の森厳に打たれて、そぞろに畏粛を感じ、さながら仙境に入りたる慨あり。昔は天狗の祟りありとて、昇りたるものなしと伝う。 
 四十八ケ瀬の半ば、道端に立つ。昔、弘法大師温泉に赴く時、此の大岩往来に在りて妨げとなる故、山腹に抛げ上げ、道途の患を除く。後来洪水の時、岸を崩すといえども、曾って落つることなし。見る人危うしと語り合う。
太閤、有馬湯治の砌、座頭谷の話を聞きて、弘法の抛げ岩に「右ありま道」と揮毫せりと。長さ二間、横二間半、周囲約十間、今尚ほ現存す。
 船坂に在りて、昔仁西上人、有馬温泉再興の時、湯槽を造る。現在の字ヒロコバは其の所なりと伝う。
 四十八ケ瀬の半ばより少しく船坂の方に在り。高さ五丈余りの大岩石にして、屏風を立てたるが如し。
 昔、弘法大師、弥陀の名号を此の岩面に記す。今尚ほ雨後潤いあれば文字薄く見ゆと伝う。
 昔、盲人湯治の為め、有馬に赴く。渓谷に迷い入りて出る所を知らず。終に此処にて疲れ死す。因りて此の名あり。



 村社山王神社境内に、松杉二本の老樹あり。二樹ともに丈十八丈余、周囲一丈五尺ありて、四百年以上を経たるものと認めらる。


 行基法師、有馬温泉に浴する途、飢えたるために、魚を乞う。即ち鯉を長州に求めて與ふ。其の魚骨を葬りし塚なりと伝う。里人、此の塚に触るる時は疫すと言いて、近寄るものなし。船坂山王神社の北方に在り。