我が家の“漫画今昔物語”

第1部 1970年代の我が家(作者29〜34才)
■作者は、24年前,、長男が2才になった頃から年賀状での「我が家の近況」を、得意の(?)漫画で発信することを思いついた。以来、プリントゴッコのお世話になった漫画メッセージが20数回に渡って知人のもとに届けられたことになる。
■幸い、それらの原稿が手元に残されている。駄作もあれば、我ながらの作もある。ホームページという格好の作品発表の場を得た今、これを使わない手はない。
■どんな形で加工できるか?あれこれ考え、試行錯誤することもまたホームページ作りの楽しみでもある。年賀状原稿をアルプス電気のスキャプリ「MD-4000J」で取込み、「Adobe PhotoDeluxe」で加工修正、ペイントしてみた。原稿をはるかに上回るできばえに仕上がった。パソコンツールの凄さにあらためて驚かされたものである。
■順次、暇を見つけながらアップしていこう。
プロローグ
■1968年、大学弁論部機関誌寄稿論文「我々にとって政治とは何か・誰もが変わる時」
■1969年、青春真っ只中「そしてゲームは終わった・・・完敗」 、「3分3ラウンド・・・判定負け」
■1970年、芦屋市の2Kの安アパートで新婚生活スタート。風呂もない銭湯に通う貧乏生活は、「かぐや姫」描くところの『赤提灯』の世界そのものであった。
1970年、エッセイ 「シンデレラたちの寮生活」
■子供のいないしばらくの間、部屋には熱帯魚が同居していた。
■1972年、長男が誕生。
1972年、この年、応募した懸賞論文が3席に入選。論文「小売業の原点としてのコンシューマリズム」
■1973年、阪急京都線「長岡天神駅」近くにマンションを購入。
雨の日の昼下がり

1975年の著述に、次のような小文が残されている。
『雨の降る休日の昼下がり、3才になったばかりの息子は、父親に絵本を読んでくれとせがんでいます。傍らで母親は、子供のための編物に余念がありません。・・・これは、今の私にとって貴重な日常生活のひとこまです。同時に幼かった私が、かつて限りない安心の中で過ごしただろう光景であり、そして私の両親が、かけがえないものと考えたに違いない生活のひとこまです。』
■ この年の12月、待望の女の子が誕生。ひねりまくった挙げ句「英里」と命名。「ひでさと」とも読めるが「えり」が正解。以後折りに触れ成長した娘とその母親から命名のミスを追求される羽目に。

【この年の著述】
■見聞録 「ソ連訪問記」作者の初めての海外旅行。
■ この頃、30歳だった私はチェーンストア労組の新進の書記長として結構頑張っていたと思う。労働界を代表する季刊誌「現代の労働」への寄稿した。表紙を飾る執筆者たちは当時の労働界のそうそうたるリーダーたちである。「春闘の生みの親、太田薫」「全民労協初代議長、樫山利文」「連合初代事務局長、山田精吾」の各氏の名前がある。そんな中でのチョット誇らしくもある執筆であった。チェーン労協のあゆみ
喪中 (賀状は控えました) 1977 ■ この前年、作者の父親がなくなりました。
■この年、高校の時の盲腸以来の十二指腸潰瘍の大手術。
【この年の著述】
エッセイ 優しさ時代

■マンション隣接の空地ブランコで遊んでいた娘は、京都新聞の取材を受けた。その時の切抜きである。

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ホ−ム