1972年
弟8回東レサークル論文コンテスト 3席入選作品
巻末講評−審査員林周二東大教授(「流通革命論」の著者)

課題「コンシューマリズムを小売業の立場からどう考えるか」
小売業の原点としてのコンシューマリズム



はじめに

「コンシューマリズムを小売業の立場からは考えないことこそ、小売業のコンシューマリズムに対する姿勢ではないのか。」 これが、与えられたテーマについて、私の直感的に得た感想であり、そして結論である。
ここ2〜3年の内に、突如として語られ始めた感のあるコンシューマリズムという言葉は、消費者運動や不良商品の告発といった現象形態についてのジャーナリスティックな報道ともあいまってか、直接、間接にその対象物たる「商品」に関与する者たちから、一種の違和感をもって迎えられていることは否めない事実ではなかろうか。
コンシューマリズムを小売業の立場から考える姿勢とは、そうした違和感から出発し、あたかもかつての多くの「○○旋風」や「○○ブーム」に対し、うろたえ、戸惑い、そして身構えてきた姿勢と同一線上に連なっているかに見える。
現象形態としてのコンシューマリズムはどうあれ、そこに内在する本質的な意味を、小売業の立場からでなく捉える必要をこそ、小売業自らが痛感せねばならない。
コンシューマリズムの厳密な概念規定は、学者でない私には領分外であろう。ただ一個の消費者たる資格において、コンシューマリズムの叫ばれるゆえんを推察することによって、それのもつ本質的な意味を考察するばかりである。

経済活動の動機としての生活の論理

「生産」と「消費」という経済活動における二元性は、自給自足経済を基盤とする封建制社会末期より、産業革命を経て、初期資本制社会への移行期においてはじめて明確な形で確立されていったといえよう。
この「生産」と「消費」の分化こそ、コンシューマリズムを派生させるための必要条件であったと思われる。なぜなら、少なくともコンシューマリズムとは、消費する側からの生産する側への働きかけであり、それゆえそれは、消費する者が生産しえないという前提においてはじめて成立するものであるから・・・。消費するものが生産しえないという関係は、産業革命以降の、めざましい技術革新による「生産」の一方的な拡大の過程で、その後の「消費」に対する「生産」優位の関係として定着化された。
ここでいう「生産」の「消費」に対する優位性とは、経済活動としては、消費活動が生産活動の帰結にしかすぎないことを考えれば、一見極めて当然の関係といえるかもしれない。が、はたしてそうだろうか。
原始狩猟社会以降の人類の経済活動は、「消費」の「生産」に対する相対的な優位性に支えられてきはしなかったか。消費するものがまた生産しえた時代にあっては、つまり、「生産」と「消費」の未分化社会にあっては、人類の日々の経済活動は、むしろ消費することに、その主要で具体的な動機を有していたはずである。それゆえ、消費を満たしうる限りでの生産活動として「消費」の「生産」に対する相対的優位性は確保されていたといえよう。
だからといって、古き良き時代を懐古し、歴史の歯車を逆回転させようなどと述べるつもりでは毛頭なく、また今日の経済活動が、消費のためのものではないと単純に専断するわけでもない。否、むしろ「大衆消費社会」や「消費者は王様」に代表されるように、経済社会における消費活動の重大性が、今日ほど声高に叫ばれているかにみえる時代はない。
しかしながら、消費を惹起させようとするそうしたキャッチフレーズの多くが、消費する側からではなく、生産する側から発せられていることに気づかねばならない。
技術革新の長足の発展は、一方でその飛躍的な生産活動を通して「豊かな社会」を実現させた。が、他方で人類の経済活動の本来の動機を見失わしめたのではないか。たえず先行しつづけてきた生産活動それ自体の論理が、今日の「豊かな社会」に内在する多くのヒズミを生み落としたことは、見逃せない現実である。
「生産」の「消費」に対する絶対優位の関係は、日本の経済発展の過程においてとりわけ顕著である。
「富国強兵政策」にはじまる明治維新以降の日本経済の発展の歩みは、後発資本主義国としての、また狭少な国土と乏しい資源ゆえの貿易立国としての制約の中で、一貫して生産第一主義の経済政策を基礎においたものであったといえよう。その結果、「列強」の前に臥薪嘗胆したかっての極東の島国は、いまや世界第二のGNPに支えられた「経済大国」として、世界経済に不動の地位を築きあげた。日本経済の「袋小路」ともみえる「ドルショック・円切り上げ」後の今日の状況は、百有余年にわたる生産第一主義の国際貿易におけるツケであったとはいえまいか。
そして今、「貯蓄と勤勉」を行動指針として、シャニムニ働きつづけたエコノミックアニマルたちに与えられたものは、灰色の空と黒い海・・・・。
人類の科学が、生産活動に派生する種々の有害物質の処理について、いまだ有効な手段を見出しえていない現在、「世界の工業先進国」としての日本の地位は、「世界の公害先進国」としての地位も併せ持つ。
マスコミにコンシューマリズムという聞きなれない用語が、「公害」という奇妙な造語を追っかけるようにして登場したことは、決して偶然ではない。
私たちは今、あらためて経済活動の本来の動機を問い直す必要に迫られている。私たちが望んだものは、生活のための経済活動であり、生活を脅かすための経済活動ではない。「消費」のための「生産」ではあっても、「生産」のための「消費」ではあるまい。
コンシューマリズムを「消費者主義」という安易な直訳で呼ぶことは危険である。そこに内在する経済活動全体に対する問いかけを、単なる「消費者」という経済パーツの一分野の問題に矮小化させてしまう恐れをその呼称は感じさせてしまうから・・・。
経済の論理、とりわけ「生産」の論理が、人間生活のかけがえのない部分をも侵食しつつある今日、コンシューマリズムとは、経済活動における消費活動の正当な復権要求であると解釈したい。

「生産」の侍女(はしため)しての小売業

ところで、以上のような経済状況にあって、我が小売業は、かつていかなる役割を果たし、そして今日いかなる地位を占めているのか。
「生産」と「消費」という経済活動における二極面を、「流通」というパイプがつなげている。いうまでもなく小売業は、「生産」の側からみて流通パイプの最末端、「消費」との接点に位置づけられる。
ここで私たちの常識は、小売業の流通パイプにおける位置について、あえて「生産の側からみて」最末端と述べることを必要としない。流通パイプの最末端といえば、「生産」の側に近い末端ではなく、「生産」に最も遠い最末端を指すことが、もはや自明の理となっているところに、小売業が果たしてきた役割と今日の地位が、端的に示されている。
「生産」の「消費」に対する絶対優位の状況下で、その間をつなぐ流通パイプが、「生産」の側からの「期待される流通パイプ像」として成立していただろうことは、容易に理解できるところである。
流通の流れは、「生産」の側から「消費」の側へとのみ流れる一方通行の流れであり、逆流のない流れであった。もちろんここでいう流れとは、物理的な商品そのものの流れもさることながら、それ以上に、「生産」と「消費」のはざまにある「流通」の経済意志そのものの方向性を意味している。
このような「生産」による流通支配下における小売業の役割は、高々「着飾った陳列台」ではあっても、経済社会における意志主体と呼ぶには程遠い存在であったにちがいない。
小売業の伝統的な社会的地位の低さは、経済社会における「司祭者」である「生産」に最も遠い存在であるがゆえに、自立した意志を持つ経済主体たりえなかったという点に起因している。
従来、小売業において、百貨店を除いては、大企業と呼びうるだけの企業が存在しなかった、いや存在しえなかった。その主観的な条件は、「生産」支配下の流通構造の中で、経済意志主体としての企業の成立が困難であるという制約が、多くの企業家をして、その経営努力を傾けさせえなかったという点にあったと思われる。
わずかに企業家にとって、少なくとも小売業という範疇において、その経営努力を傾けさせたものは、商品自体の消費者への販売という小売業本来の企業活動においてではなく、巨大な消費の場を、立地的により多くの消費者の集中しうる地点において提供したり、あるいは種々の催し物を開催したり、売り場にきらびやかな装飾を施すことで、より快適な消費の場を提供することによる、消費活動の属性たるサービスの商品化活動においてであった。
いうまでもなく、これが小売業唯一の大企業たる百貨店を成立せしめた主観的条件である。したがって、百貨店の成立は、その出発当初から莫大な資本を必要とし、それゆえそれは、鉄道資本などごくかぎられた企業家の経営活動の対象物でしかなかった。
そして逆に、小売業において大企業たりうるためには、巨大な資本を必要とするという条件こそ、「生産」による流通支配下の小売業という歴史的地位を決定づける客観的制約条件を形成している。蓄積された巨大な資本は、「消費」の側にはなく、「生産」の側にしかなかったから・・・。
小売業が、自らの社会的地位を高め、産業としての自立性を確保するためには、少なくとも企業家にその経営努力を傾けさせるに足る主観的条件の形成と、巨大資本を必要とするという客観的制約を打破する手段を持つことが必要だった。

流通「ルネサンス」

今日、小売業の中から「生産」による流通支配下の小売業という伝統的な流通構造を打破する動きが現れている。その一つは、生協運動であり、その一つは量販店と呼ばれる一群である。双方にとってその主観的条件の形成は、個々の具体的表現としての運営理念や経営理念はどうあれ、本質的には、コンシューマリズムそのものに負っている。
コンシューマリズムとは、産業革命以降の余りにも長かった「生産」優位の経済関係に対する「消費」の側からの告発であり、経済活動における消費活動の本来の地位の復権要求である。生協運動の昂揚と、量販店の発展は、経済社会におけるこの歴史的背景を抜きにしてはありえない。
彼らはともに、従来の小売業に賦与されてきた経済環境を、自らの内に取り込みつつ、「消費」の側にその活動理念の原点を据えることによって、その経済環境を主体的に克服することを目指している。そしてそのことによって、自らの社会的地位を高め、産業としての自立性確保のための主観的条件を形成している。彼らの目指すものは、流通過程における「消費」の側から「生産」の側へと向けられる経済意志主体の確立であり、流通パイプの従来の流れに対する逆流エネルギーの形成である。
彼らにとって、この主観的条件形成の方法論は、同時に客観的制約打破の方法論をも意味している。巨大資本を要するという客観的制約を生ぜしめているところの、消費活動の属性たるサービスの商品化活動は、商品自体の消費する者にとっての本来の価値の実現を目指そうとする彼らにとっては、もはや第一義的な意味をもつものではなかったから・・・。
それでは、巨大資本を擁した「生産」の絶対支配下にある流通機構下で、あたかも風車に立ち向かうドンキホーテのモごとき彼らの志は、いかなる武器をもって実現しうるのか。
「見えざる神の手」に導かれた初期資本主義経済は、資本の集中化に伴う寡占化、独占化の進展するなかで、固定化された超過利潤を保証する「独占価格」の登場によって、その基盤たる市場価格形成のメカニズムを破綻させ、その歴史的過程を終えた。この過程は、単一の、もしくはごく少数の意志に組織化されたマス・プロダクションによる商品が「市場」に登場し、価格決定を自ら行いうるまでにそのシェアをもつに至る過程である。マス・プロダクションを支えるマス・コンサンプションの必要性が、寡占化・独占化された「生産」をして、高度に発達したマスメディアを通して、一方通行的に「大衆消費社会」を訴える。
ところが、このマス・コンサンプションは、「見えざる神の手」が神話となった「市場」においては、独占価格による本来の価値以下の商品を、しかもその本来の需要を超えて吸収しうるものとして成立している。組織化されたマス・プロダクションの拮抗力として、市場価格形成の復元力たりうる「組織化されたマス・コンサンプション」は、いまだその成立をみていない。
このような状況下で、消費する者にとっての商品本来の価値の実現をはかる方法論とは、消費の組織化以外のものではない。「消費」の組織化とは、「消費」の側の意志と需要を組織化することである。
量販店は、「消費者の意志を反映させうる商品」の組織化をはかることによって、生協運動は、より直接的に「消費者」を組織化することによって、それを実現しようとしている。
これまで彼らは、消費者の立場に立脚した商品の価値の追求を目指すことによって、消費者大衆の支持を得てきた。しかしながら、そうした小売業界の革命者たちの姿勢が、将来にわたって継続されるという保証はない。そのことはまた、消費者大衆が、将来にわたって彼らを支持するという保証がないことを意味する。
昨今、量販店に向けてしばしば指摘される「原点復帰論」なるものの論拠も、あながち的外れではない。「より良い品をより安く」売るための商品化政策をこそ、何よりも追求すべき量販店が、とりあえずより多く売ることや大規模化することは、理念実現のための流通支配という点での手段ではあっても、理念ではありえない。そのためにそのしわ寄せを、粗利益率を高めるという形で、消費者に強いるとすれば、自らの首を自らの手で絞める自殺行為というほかはない。
量販店にとっての理念は、「生産」と「消費」の流通パイプを、太く短くするというだけの、単なる「流通近代化論」にはない。流通パイプにおける逆流エネルギーの形成という理念としての「流通革命論」は、そのための一方法論としての「流通近代化論」と、本質的に異なることを明確にする必要があろう。
百貨店業界の総売上げをしのぐまでに成長した量販店業界が、今後その点をどこまで消費者に対し、自らの商品化政策において立証しうるか、そのことが今後の小売業界全体の在り方を決する上で、重大なポイントになると思われる。
消費者運動をまがりなりにも組織しはじめた消費者は、すでに「消費者は王様」などのキャッチフレーズに踊らされるだけの消費者でもなければ、過去の「消費者の味方」というイメージだけに頼る消費者でもない。

結びに変えて

これまでの生協運動や量販店の論理に代表される「消費」の論理が、小売業全体の論理となる時、それは単に流通機構における消費者主権の確立を意味するだけでなく、「生産」の論理によって人間生活そのものが危機に瀕している今日、「GNPの論理」に「人間の論理」をもって対峙する有力なカウンターベーリングパワーを形成する一拠点ともなろう。そこにこそ小売業の将来にわたる歴史的役割を担うべき展望を見出したい。
『コンシューマリズムを、小売業の立場からは考えないことこそ、小売業のコンシューマリズムに対する姿勢ではないのか』 これが、与えられたテーマについて、私の直感的に得た感想であり、そして結論である。


講評(審査員 林周二・東京大学教授)
本論の基本主張には、私自身原則として賛成である。課題を今日の経済社会の基本的な仕組みにおいて捉えようとする姿勢も良い。
ただ評を言うなら、意欲余って論証や考え方の詰めの部分がまだまだ弱い点が惜しまれる。例えばこれまでの小売業は、おおかた「生産」の侍女であるに過ぎず、それに対抗するには「消費」の組織化以外に途はないことはわかるにしても、「消費」の論理を、生協運動や量販店を含む小売業全体がどう具体的に体現してゆくべきかに関しては、なお本論は何ら触れていない。
小売業が、消費者の真の意向を汲んで直接行動した時、果たしてそれが小売業としての繁栄の途になりうるか否かについてなど、もう少し具体的に取り組んだ議論を展開してほしかった。