第2話 3分3ラウンド・・・判定負け

■ 私の右拳の中指の甲は、骨と皮がくっついている。青春のほろ苦い勲章だ。
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■ 21才の岡山の夏だった。学生生活3年目の私の生活は荒れていた。そしてそうした生活にケリをつける出来事が訪れた。
「このゲーム、降りたッ!俺の負けヤッ!」 叫びながら自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。完敗だった。ラリルこととは煎じ詰めれば理性を超えてのめりこむことだ。所詮私のラリリは、徹しきれない薄っぺらなものだった。浸りきれるアンモさんの凄みには到底及ばない。その時だった。もうミナハイはやめよう。この連中からも逃げる他ない。恐怖とともに握り締めた断固たる決意だった。

■ 荒廃した生活との決別!!完敗したゲームの果てに握り締めた断固たる決意の筈だった。決意の後の日常を、埋めようもない空しさと自己嫌悪が襲っていた。私は四畳半ひと間の澱んだ静寂の中で、腑抜けた、打ちひしがれた日々を過ごしていた。煩悶の末に到達した結論は我ながら意表を突いたものだった。「ボクシングをやろう!」。
酩酊、麻痺、欲望、のめりこみ・・・。「ラリリ」の世界からの脱出・・・。克己、禁欲、鍛練、沈着。ボクシングの持つクレバーなイメージへの無邪気な憧憬。

■ 大学構内の片隅にボクシング部の練習場を兼ねたBOX(部室)があった。木造長屋のひと部屋だった。人通りの少ない夏休み中の構内・・・。灼熱の太陽の下でひぐらしのひときわ甲高い鳴き声が静けさを支配していた。
BOXを訪れ、ボクシング部のキャップテンに来意を告げた。既に3回生にもなる私の入部申込を,、同年齢のキャップテンは訝りながらも結局同意してくれた。そしてその日から練習が始まった。
腹筋、腕立て伏せ、縄跳び、シャドウボクシング、サンドバッグ・・・・。各メニューを3分刻みで3回ずつ消化する練習。仕上げのランニングは、岡山市の中心部を流れる旭川沿いに北に向って走る。BOXから中原橋までの往復約10kmものコースである。(右画像、近影)

■ 今更ながら、良く耐えたものだと思う。昼夜の見さかいのない徘徊、ミナハイのもたらす酩酊と覚醒、絶え間ない嘔吐。それまでの荒涼とした生活は、私の肉体を極限にまで追いつめていた。そんなボロ雑巾のような肉体が、突然、かって体験したことのない過酷な鍛練の場に投げ出されたのだ。中学時代の軟式テニス部という軟弱なスポーツ経験以外はおよそ体育会系とは縁のない人生でもあった。それでも・・・その過酷さは、振りかざされた果物ナイフと向き合わされた戦慄以上のものではない。そんな思いが支えになっていた。年下の先輩部員たちに囲まれたズブの素人の3回生部員の滑稽とも見えるトレーニングの日々が正確に時を刻んでいった。そして翌春の香川大学との定期戦が告げられた。入部以来約半年間の自分自身との闘いの成果を見届ける機会と目標が与えられた。私の試合に向けての思いがつのり、練習に対する取組みが本格化した。左グローブで顔面をカバーし、右肘でボデーをカバーする基本スタンス、左ジャブの後のワンツー、直角に曲げた左右の腕が水平に繰り出すフック、直角に突き上げるアッパー・・・、シャドーボクシングでフォームの基本を繰り返す。試合の1ヶ月程前からはヘッドギアをつけてのスパーリングも始まった。サンドバッグの連打がいつのまにか右拳の中指の甲の骨と皮をくっつけていた。

■ 当時の私の生活費は夕方から深夜12時頃までの水商売のバイトで賄われていた。帰省中のミナハイ服用が見つかり、親からの仕送りはストップしていた。岡山市内の有数の花街である田町のクラブ「環」での酔客相手のボーイやバーテン見習いが生活の糧であった。デビュー直後の「ヒデとロザンナ」がどさ回りの営業に来店したり、すぐ側の名門クラブの「烏城」には、身を持ち崩した女優「嵯峨美智子」がホステスをしているといわれていた。
バイト先でもミナハイ服用はすぐにばれたが、昼間の世界ほどにはお咎めの厳しさはなかった。只、バーテンのひとりだった大角さんは、自分自身の服用経験の果てに生まれた我が子のの障害をさり気なく語ってくれた。私の気持に少なからぬ動揺が走った。
「断固たる決意」の後、それまでの酩酊気味の出勤状態が、シラフに戻った。そしてスパーリング後の瞼を腫らした出勤が、バイト先での私のボクシング部入部を公にさせた。香川大学との定期戦の前日、もうひとりのバーテン西岡君がはしゃいでいた。店の女の子達を連れて絶対に応援に行くという。無様な負け戦を覚悟していた私の「断りの嘆願」は、その無様さを見てみたいという西岡君の魂胆の故に、空しくはねかえされた。

■ とうとう定期戦の日が訪れた。レフリー役を務めるべくボクシング部OBたちがやってきた。試合は体重別階級制のルールに従い軽量級から順番に行われる。50kgにも満たない私は当然ながら最軽量級のフライ級だと思っていた。1週間程前の計量では47kg。この体重はナント、フライ級でなくモスキート級だとのこと(その時初めてモスキート級なる階級があることを知った)。「蝿(フライ)」でなく「蚊(モスキート)」だったのだ。減量ならぬ増量をめざしたが間に合わない。
幸い1回生のひとりがモスキートだった。第1戦は彼の挑戦。ゴングがなる。どうやら対戦相手も1回生のようだ。手が出ない。睨み合ったままリングをグルグル回るだけで空しく時間が過ぎる。レフリーの「ファイトッ」の声が繰り返される。3ラウンド終了。レフリーの怒りを含んだ宣告と叱責。「ドローッ 試合になってない!手が出せないなら試合などやるなッ!」。

■ 第2戦。いよいよ私の出番だ。マウスピースを口に含みリングに立つ。ゴングを待つ緊張の一瞬。そこで初めて悟った。初戦のチームメイトの試合にならない無様な試合ぶりの正体を。
恐怖・・・。スパーリングとは比べようもない本物の闘い。やるかやられるかの真剣勝負の場。対戦相手の背後に果物ナイフをかざしたアンモさんの影を見た。恐怖感が全身を襲う。膝の震えが情けない。
ゴングが響く。それでも・・・・初戦の愚は繰り返せない。闘うほかはない。手を出さねばならない。思いとは裏腹に、極度の緊張感がパンチのスピードを奪い、フットワークの軽快さを奪っている。ふらついたドタ足から繰り出されるオープンブローなパンチは、観客の目にはまるでガキのケンカのように映った筈だ。半年間とはいえ練習で身につけた筈の基本フォームはどこへ行ってしまったのか。繰り出すパンチの多くは空を切り、まれにヒットしたパンチも重心の乗らないフォームでは威力がない。対戦相手の決して強いわけではないパンチが、それでも確実に練習量で私を上回っていると思えるパンチが、小気味よく私の顔面やボディーを捉える。
いつのまにか恐怖は失せ、無我夢中のヤケクソな時間が経過する。ラウンドを刻む1分間の休息。再開の直後に訪れる恐怖の瞬間。覚めたもう1人の自分の呟き。「早く時間が経ってくれ!」。再開のゴングに追い立てられるように闘いの場に・・・。
そして第3ラウンド終了のゴング。レフリーが二人の腕を掴み、宣告する。「香川大学、判定勝ちッ」。対戦相手の右腕が掲げられる。終わった・・・。


■ BOXの片隅の固い木の椅子にうずくまっていた。極度の緊張から解き放たれた弛緩した空間の中で、私はかろうじて意識を保っていた。試合中に浴びたパンチの効果が時間の経過とともに顕われる。体の節々から鈍痛が疼き出す。瞼がみるまに腫れあがる。唇が膨れ上がり血が滲む。体中を覆う痛みの中で、何故か不思議な心地よさに浸っていた。
その時だった。けたたましいマフラー音を響かせて真っ赤なスポーツカーがBOX前に急停車した。派手なファッションに身を包んだ若い男女3人が降り立った。クラブ「環」の西岡君御一行様の時間遅れの到着だった。試合中にもかかわらず、私の名を連呼する声が情けない(西岡君!君の声はどうしてそんなに大きいんだ)。片隅にうずくまる私をようやく見つけた西岡君。「どうしたんナラ〜その顔は?ボッケー腫れ上がって!」岡山弁丸出しの傍若無人な叫び。私の面相の豹変ぶりに全てを悟った面々の、かけてくれる慰めの言葉が、やけに白々しい。
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■ 私の右拳の中指の甲は、骨と皮がくっついている。青春のほろ苦い勲章だ。



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