旅その1 廃線前夜の父の町(幌加内町 1993年11月)

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幌加内町の位置  北海道の中央部からやや北に寄ったところに、かつては深川と名寄を結ぶ「深名線」というJR路線があった。だがその路線も1995年、残念ながら赤字路線と言うことで廃線となった。

 この路線の途中にある町が「幌加内町」と言う町だ。この町で父は生まれた。正確には幌加内町の中心の幌加内集落(かつてはJR幌加内駅があった)から、さらに北に寄った「政和(せいわ)」という集落がその場所だ。

 夏には蕎麦畑に白い花が咲き、自然のあふれた美しい土地であるらしい。近くには 朱鞠内(しゅまりない)湖という名前の自然湖を上まわる景観の人造湖もある。
 やがて短い秋を経て、冬が訪れる。
 厳冬期には「マイナス30℃」なんて日がざらにある、寒さの厳しい場所だ。日本最寒記録を作ったのも、この幌加内町にある 母子里(もしり)という集落だ。冬を過ごすにはかなりの「覚悟」と、そして「強さ」が必要な土地だと言える。

 この旅日記は、まだ深名線が廃線になる前、例によって札幌出張の合間にふと思い立って出かけた「父の生まれた町」を旅した記録だ。
 この時はまだ自分でWebページを作るなんてことは考えてもいなかったのだが、幸いなことにメモを残していた(何が役立つか人生わからないものですねぇ・・・まあ、そんな大げさなことじゃないけど)。
 このメモを参考に、4年近く前の記憶を掘り起こしながら、この旅日記をすすめて行こうと思う。列車が深川駅を出たところから、この旅日記は始まる。



深名線の線路  この深名線という路線は、いわゆる典型的なローカル線だ。北海道でも1、2位の赤字路線だが、代替交通機関が整備されていないという事情もあって、かろうじて存続している。逆に言うと、バスなどへの転換が完了すれば、すぐにでも廃線になっておかしくない路線だと言える。
 この深名線は札幌から特急で1時間ほどのところにある『深川』と言う町と、旭川から北へ同じく1時間ほどの『名寄』と言う町を結んでいる。
 この路線を運行している列車は驚くほど数が少ない。時刻表を何度眺めても朱鞠内方面が4本に、深川方面が3本。しかも全線を通して走る列車は無い。上りも下りも途中の朱鞠内駅を終点とする。
 この路線を旧式のディゼールカーが運行している(1両だったと記憶しているのだが、何両か連結していたような気もする。ただし乗車できたのはたぶん1両だったと思う)。
 この路線の大部分は幌加内町が占めている。ちょうど中間の辺りに幌加内集落が、そしてそこから名寄方面に少し行ったところに、政和という集落がある。ここで父は生まれてから中学時代までの時期を過ごした。

 私はこの父の生まれた町を、実は一度も訪れたことがない。今では親戚もほとんどいない(というより、1軒だけしかない。しかも私はその親戚に会ったことがない)ため、盆や正月に訪れることもないままに過ごしてきた。父にしても、もう30数年の間訪れていないと思う。
 近くに観光地がないわけでもないのだが、北海道に観光に来たとして、「真っ先に訪れたい」と思う場所ではないだろう(もっとも、人によって思い入れはそれぞれなので断言は出来ないが。そもそも私自身がそうなのだから)。
 私にしても、きっかけは単純。「深名線っていう路線が1,2年後に廃線になるらしいよ」という話を聞いたこと。そして、たまたま出張の合間に予定外の連休ができたこと。時刻表を買ってきてパラパラとめくっていたら、深名線のページが目に留まって、『札幌から日帰りが可能』ということがわかったこと。それらが偶然重なって「一度ぐらいは行ってみるかなぁ・・・」という気持ちになったに過ぎないのだ。



政和駅駅舎  車窓風景が寂しくなって来ると、段々と気持ちも心細くなってくる。
 実は早起きをしたせいで、朝飯を食べていないのだ。だがここまでの途中、停車した駅はすべて無人駅。人家が疎らにあるだけで、食事が出来そうなところは皆無。おまけにみぞれ混じりの天候になって来た。もし下車予定の政和で食事が取れないとすると、ひょっとすると夕方まで食事がお預けになる可能性もある。これでは心細くもなろうというもの。
 「何かしら買ってくれば良かったなあ」とすでに後悔しているのだがもう遅い。「人が住んでりゃあ、コンビニの1軒や2軒あるさ」という甘い考えで列車に乗り込んだのだ。この辺りが便利さに慣らされた「人間の弱点」ということなのかな?(笑)

 乗客は私を含めて全部で12人(ちゃんと数えていたんですね、メモを見ると)。この一両の列車に、ちゃんと車掌さんも乗車している。これでは赤字なのも無理はない。人件費だけ考えたってたぶん赤字だろう。
 乗客の何人かは制服を着た高校生で、他には孫と思われる子供を連れたおばあさんと中年のおばさんが3〜4人、そして私だ。

 車窓から雨竜川が見える。水量はかなり豊富だ。人工的な雰囲気が皆無(もちろん、そんなことはないのだろうが)で、自然なまま蛇行している(後で聞いた話だが、この蛇行が竜のように見えると言うことでこの名前が付けられたらしい)。みぞれ混じりの天候のせいか、水の色は「真っ黒」に見える。
 そんな川を暗い気持ちで見つめている内に(とても、これから旅しようとしている人の気持ちじゃないよね。極度の空腹が影響していたに違いない。きっと・・・)、やがて風景が開けて、深川からここまでの間、途中目にしなかった大きな集落が見えてきた。幌加内駅に到着だ。


 幌加内は幌加内町の中心的な役割を果たしている町だ(ここで言う町とは狭い意味での町。幌加内集落という意味)。
 この駅にはちゃんと駅員もいるし、列車から見る限りでは人の行き来もある。駅前にはお店もあるようだし、何より人家の数がここに来るまでの間とは段違いに多い。
 単純なもので、「いよいよになったらタクシー飛ばしてここまでくればいいんだよな」と思った瞬間、急に明るい気分になって元気も出てくる。
 ここでおばさんの内の2人と高校生がすべて下車し、残りの乗客は5〜6人になってしまった。



政和駅前風景  さて、またしばらく走って政和駅に到着。ここも無人駅だ。
 列車から降りるときに、車掌さんに切符の乗り越し運賃を払って下車する。切符は札幌から深川までしか買っていなかったのだ。
 駅舎は「寒い時期の風除け」のためと、「ここが駅なんだよぉ」と言う目印として存在しているようなもので、駅舎を抜けて行く必要もない。もっとも、全国的に無人駅なんてザラにあるものだし、中でも北海道では当たり前のように多い。
 この駅で孫を連れたおばあさんも一緒に降りた。私と違って目的地は決まっているわけで、どんどん歩いて行ってしまった。取り残されたのは、私一人・・・。
 さて駅前に出たわけだが、心配していたとおり駅前にはガソリンスタンドが一軒あるだけで(しかも閉まっていた)、他には何も見えない。帰りの列車までは2時間半ほど時間があるのだが(この帰りの列車を乗り過ごすと、さらに後2時間半・・・5時間もの間、あてのない場所で過ごさなくてはならないことになる)、その間をどうやって過ごそうか。

 何も考えずに、ただ「父の町が見たい」という理由だけで、ここまで来てしまったのだ。だからどこに何があるのかも知らないし、これから何をするかも決まっていない。強いて言えば、この集落に「父の子供時代」が見つけられればと思っているだけだ。「途方に暮れる」というのは、今みたいな状況のことを言うのだろうなぁ・・・
 駅前には電話ボックスがある。ここで思いついて、公衆電話で自宅に電話することにした。父がいれば、何か情報を仕入れることが出来るだろう。
 運良く父は家にいた。そして、いくつかの情報を入手することに成功。ただし30年以上前の情報なので、正確さは不明・・・。

 列車に乗っているときから降り出したみぞれが強くなってきたので、傘をさしながら父に教えて貰った方角(真っ先に、商店の場所を尋ねたのは言うまでもない)へ歩いて行く。すぐに一軒のお店を発見。これは父の情報通り。
 「これで、飯にありつける」と喜び、さっそくそのお店の中に入った。おばあさんが一人、店番で座っている。
 扱っているモノは、日用雑貨から食品、たばこの類までなんでも・・・いわゆる「日本の伝統的なコンビニエンスストア」(笑)というわけだ。
 「何か食べるモノを・・・」と思い、店の中を眺めるとパンが置いてあることに気が付いた。「これでいいかぁ」と思い、何気なく賞味期限を見ると、なんと賞味期限を2日過ぎたサンドウィッチだ。さすがにいくら「天然の冷蔵庫状態」の時期だと言っても多少心配でもあり、横にあったアンパンを手にした。こちらはまだ賞味期限を過ぎてはいない。
 こうして本日の「朝食兼昼食」は「豪華6個入りアンパン」に決定した。
 お金をおばあさんに渡し、店を出る。ついでに店の前に並んだ自販機で熱い缶コーヒーとタバコを買った。



政和神社鳥居 建替中の政和神社  さて、困った。パンを買ったは良いが、考えてみればこのみぞれの中、食べる場所がない。さっきの駅舎まで戻って食べれば良いのだが、迂闊にもこういうときに限って考えが及ばない(「ナントカの法則」みたいな話ですね)。
 「どこか雨宿りしながら食べられるところは・・・」と思いながら歩いているうちに「政和小学校入り口」の看板を発見」。あてがあるわけでもないのだが、その小学校に向けて歩いて行くと、先の方に神社の鳥居と石段が見えた。
 「神社の軒下を借りるかぁ・・・どうせなら高いところから景色でも見ながら食べよう」と思い、みぞれで滑りやすくなっている石段を登って行くと、小高いその山の頂上は樹林が茂っていて展望はほとんどない。頂上には社が建っているのだが、立て直し中で外側が覆われている。そのためこの社の軒下も濡れていて、座って食べられる状態ではない。

 結局、立ったまま、左手で傘と缶コーヒーを持ちながら右手にパンを、パンを口に入れたところで、すかさずパンの袋を缶コーヒーと持ち替えて口に流し込む・・・そんな動作をしばらく繰り返しているうちに、ようやくお腹をいっぱいにすることが出来た。落ち着かないことこの上ない。
 それでもお腹が満たされると不思議と(当たり前かな?)元気が出てくる。たかがアンパン、されどアンパンなのだ(笑)。



政和郵便局(ポストに注目ね!)  再び石段を下り、小学校の写真を撮ったりしながらブラブラ歩くことにする。運が良ければ、電話で教えて貰った父の生家(ただし残存しているかは不明。もう住人がいなくなって、何十年も経つのだ)や親戚の家を見つけることが出来るかも知れない。

 そう思って歩いていると、最初に親戚と思われる家を発見した。ロケーションと言い、家の作りと言い、教えて貰った家に似ている。「たぶんそうだろう」とは思うのだが自信がない。表札の名字は同じだ。だが何と言っても、私の名字は「日本の名字ベスト10」に入るか入らないかのありふれた名字だし、しかも「集落のほんとんどが同じ名字」なんてのはよくある話だ。
 それを確かめるのに一番手っ取り早いのは、家の人と話してみればよい。で、思い切って扉をノックしてみた。しかし煙突から煙は上っているが誰も出てこない。今度はもっと強くノックしてみる。それでも誰も出て来ない。今度は「やまださ〜ん」と声を張り上げてみるが、やっぱりダメだ。
 何だか拍子抜けしてしまった。実は多少の緊張もあったのだ。だって生まれてから今まで、一度も会ったことのない親戚に、なんて挨拶すればいいのだろう・・・そんな心構えもないまま、いきなり行動に出てしまったのだ。向こうだって、何の前触れもなく初対面の男が現れて「親戚でぇ〜す」と言ったって、驚いてしまうだろうし、すぐには信用してくれないかも知れない。
 結局、その家の写真を数枚撮って、その場を後にした。あとで父に見せて判断して貰おうと思ったのだ。言ってみれば、現場検証写真みたいなもの。
 (この時撮影した写真で、ここがまさしく親戚の家だということが判明した。30年前とまったく同じだったらしい。それにしてもあとでそう聞かされると、やはり挨拶をして置きたかったと、ちょっぴり残念な気がする)



 それにしても寒い。とても11月と言う感じではない。私はセーターの上に革ジャンを着込んでいる。それでもかなり寒く感じられるのだ。
 この寒さとみぞれ混じりの天候のせいか、あるいは人が一人も外を歩いていないせいか、「寂しい」という印象が強く感じられる風景が辺りに広がっている。「政和地区生活改善センター」なんて建物を見ると、どうしても 冬の寒さ、生活の厳しさなどを連想してしまい、その思いがより強くなる。
 夏場は蕎麦やジャガイモなどの農業が盛んなこの地域だが、11月というこの時期は農作物の収穫時期はとっくに過ぎている。だからそんな「明るい季節」と違う印象を持つのは当然かも知れない。

 それでも遠くで、冬に備えて畑の後片付けをしている男の人がいたので、何だかホッとする。この政和で下車してから今までの間で見かけた、二人目の人(一人目はお店のおばあちゃん)だから尚更だ。

 足が冷たい。革のワークブーツの中に冷たい雨が入り込んでいる。
 父の子供の頃、この集落にはどれだけの人が生活し、そしてどれだけの人が同じ様な冷たさを感じていたのだろう。
 そんなことを思いながらどんどん歩き続ける。立ち止まると、すぐに駅まで引き返してしまいたくなるのだ。



雪景色の蕎麦畑 寒々しい五線川  歩き疲れて、駅舎に戻ることにした。帰りの列車まであと30分ほど。
 駅舎のホーム側の外に寒暖計が付けられていた。見ると「マイナス15℃」を指している。かなり古い寒暖計なので壊れているのかも知れないが、その指している温度が正しいとすると寒くて当然だ。東京だったら真冬でも、こんなに気温が下がることはない。

 駅舎の壁にはたくさんの落書きがあった。そんな中で、「10年ぶりに来たぜ、ふるさと政和。今はトラック転がし南へ北へ」などと演歌の歌詞のような落書きや「高校を卒業するまで、ここで暮らしていました。またいつか訪れる日を楽しみに」などの書き込みが目についた。鉄道マニアと思われる人たちの落書きも多数目に付く。
 落書きなどしたこともなく、したいと思ったこともないのだが、私もつい言葉を残しておきたい衝動に駆られて、一言残すことにした。

 「廃線前の父の生まれ故郷を、初めて訪れました・・・」

 しばらくすると、来るときに一緒だった孫を連れたおばあさんが現れた。私と同じようにまた深川に戻るのだろう。何だか久しぶりに知り合いに会えたようなホッとした気分になる。
 やがて列車がホームに入ってくる。見ると車掌さんもここへ来るときと同じ車掌さんだ。何だか嬉しい気分になってくる。
 ここからまた、深川、そして札幌へと戻るのだ。



父の生家の辺り 政和駅ホームにて  さて、話はいきなり札幌駅前。深川から乗った特急列車は定刻通りに札幌に到着した。

 札幌の町が何だか妙に暖かく感じる。そう思って寒暖計を探すと、「プラス8℃」を指している。政和の駅で見た寒暖計とは23℃も差があるわけだ(多少、正確性に「?」なところもあるけどね)。これでは、暖かく感じて当然かも知れない。

 幌加内町・政和。そこはもうすでに冬を迎えていた。そしてそこは日本最寒の地。父が生まれた町。

 そんなことを思いながら、「暖かな札幌の町」をホテルへ向かって歩き出した。


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1999.6.16 Ver.5.0 Presented by Yamasan (Masayuki Yamada)