上杉輝虎享禄三年(1530)―天正六年(1578)

虎千代、猿松、平三、長尾景虎、政虎、越後守護代、従四位下、弾正少弼、関東管領。法号宗心、不識庵謙信。長尾為景末子(次男、三男、四男説あり)。母栖吉長尾氏(虎御前)。
幼少時、林泉寺の天室光育のもとへ預けられる。のち兄晴景の跡を受けて春日山城へ入る。永禄四年、上杉憲政より関東管領職および上杉姓を譲渡される。この間、二度までも上洛し、治罰の綸旨を受けた。その後半生は関東管領としての任務遂行のため、関東各地への転戦に明け暮れた。また隣国信濃を侵した武田晴信(信玄)との戦いは十二年の長きにわたった。永禄四年の第四次川中島合戦は戦国史を彩る名勝負として語り継がれている。
天正六年、関東出兵を目前に三月十三日、脳溢血で倒れた。不識院殿真光謙信と法謚。室はなく、生涯不犯の聖将と呼ばれた。
風貌
趣味
閨閥
戦歴
軍事力