◆越中の戦場に散った謙信の祖父


守護代長尾氏は能景の代に、安定期を迎える一方、強大な軍事力をもってしばしば関東管領上杉顕定を助けて活躍した。しかし、越中でも一向一揆の活動が活発となり、能登畠山氏と連携し、越中に出陣。しかし、般若野(一説に梅壇野とも)で一揆勢に敗れ、戦死した。
長尾能景?(?)―永正三年(1506)
弾正左衛門尉、信濃守、越後国守護代。信濃守重景の男。文明十四年、家督相続。越後春日山に林泉寺を建立、長尾氏の菩提寺と定めた。永正元年、関東管領上杉顕定を助けて関東へ出陣、ついで同三年には越中で一向一揆と戦ったが、九月十九日般若野(富山県砺波市)において敗死した。法名高岳正統。



◆越後の暴れん坊、戦国大名化への苦闘


為景派反為景派
高梨政頼
安田景元
北条光広
長尾景信
本庄実乃
山吉政久
長尾房長
大熊朝秀
柿崎景家
上条定憲
宇佐美定満
平子弥三郎
新発田綱貞
中条藤資
黒川清実
色部清長
本庄房長


長尾能景が越中で戦死した後、越後守護代は子の為景が継いだ。しかし、守護上杉・守護代長尾の協調路線は崩れ、猛将為景はひたすら戦国大名化への道を模索するのである。その力まかせの専横化は自立性の強い越後国人衆の反感を買い、のちの謙信の代にまで深刻な影響を及ぼすことになる。為景派には謙信初陣時の側近本庄実乃、母の実家栖吉長尾の長尾景信らがいる。また、反為景派には、謙信最大のライバルである上田長尾の長尾房長、のちに本庄実乃と対立し出奔することになる大熊朝秀らが顔を揃えていた。



長尾為景?(?)―天文十一年(1542)
六郎、弾正左衛門尉、越後国守護代、信濃守、道号紋竹庵張恕、蘇久、黄博。長尾能景の男。父能景が越中で戦死後、家督を相続。永正四年、守護上杉房能を自殺させ、上杉定実を守護に擁立したため、関東管領上杉顕定や越後国人衆の反発を招いた。しかし、顕定を長森原で敗死させた後、越後の実権を掌握、戦国大名への基礎を固める。朝廷との交渉も活発で、毛氈鞍覆・白笠袋を授けられた。晩年は、嫡男晴景との二頭政治をとりつつ、国人衆との対立の中で没した。