謙信の軍事力

動員能力


手明ほか鉄砲ほか大小旗騎馬合計
3604丁650人316丁368本566騎5509人

天正三年上杉家軍役帳より抜粋したものだが、意外に少ない、というのが印象だろう。しかし「麾下八千人」といわれ、謙信自らも「精鋭八千があればいかなる敵もなし」と言うくらいであるから、この数字はほぼそれを裏付ける資料でもある。もっとも、ここに記された武将は越後在国中の三十九名にかぎられ、中でも謀反の真っ最中であった本庄繁長、越中在国の河田長親、上野在国の北条高広などがぬけている。その証拠にわずか二年後の天正五年の動員名簿には八十一名の武将が名を連ねている。留守部隊を併せれば、ほぼ二万以上を動員できたのではなかろうか。

内訳

一門・客将

一門筆頭は謙信没後、家督を継いだ景勝。山浦は村上義清の子。上条は能登畠山氏の一族である。同じ養子で上杉景虎の名前がないのが不思議。軍役を課すつもりがなかったのか、それとも後継と見なし、謙信の直属となっていたのか。

譜代・旗本

軍役帳中、最大の軍役を担う山吉豊守は謙信の信任厚い秘書官。本庄秀綱は謙信初陣時の功臣実乃の子である。また、長尾景直は謙信の従兄弟にあたるという。吉江・河田らは謙信が上洛した際、取りたてられた者たちである。

国人衆

最初の中条以下十二名は、俗に「揚北衆」と呼ばれた自立性が強く、精強無比の国人たち。斎藤朝信・千坂景親らはもともと越後守護上杉家の家老で、謙信の長尾家とは同格であった。



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