縄文岩魚1 縄文岩魚2 縄文岩魚3 縄文岩魚4 縄文岩魚5

 源流部の緩い斜面には、数百年の風雪に耐えた見事なブナが林立している。見渡す限りブナ、ブナ、ブナ・・・。ゆっくり斜面を登り縄文の森を散策、乾いた倒木にはもちろんキノコは生えていなかったが、広い空間に仁王立ちしたブナの巨木は、見るものを圧倒させるに十分の迫力があった。ブナの葉が黄色に色付き始めているのがわかるだろうか。こうした巨木を見上げるシーンを撮るには、回転式のレンズと広角ワイドコンバータがあれば、無理なく簡単に撮影できる。これもデジカメならではのスグレモノだと断言できる。
 落ち葉と清流。ブナの森から染み出した流れは、すこぶる冷たく美味い。撮りたくなる被写体は、360度山ほどあった。縄文の森と渓は、もはや人間の匂いのしない獣の世界、それだけに眠っていた感性はやたら忙しくなる。
 白神源流部のブナの森。標高が高くなるにつれて、ブナの幹はクネクネに曲がっている。いかに日本海から吹き上げる風雪が厳しいか、その姿から容易に想像できる。もうすぐ黄葉のクライマックスも近いだろう。冬の訪れを前に、秋晴れの陽光を浴びて最後の生命を謳歌しているようだった。
 ブナ越しに山の峰を眺める。風とせせらぎの音以外、雑音は何も聞こえない。向かいの山も黄色と紅色に染まりかけていた。「母なるブナ」とはよく名付けたものだと思う。ここ白神では、ブナの森が生き物全ての生命を支える母のような存在だ。
 逆光に輝くブナ。道なき沢を登り、縄文の森を彷徨えば、かつてブナの森に全面依存して生きた縄文人のように、森との一体感を取り戻すことができる。白神の森を人間から切り離し、ただ山の頂上から森を見下ろすのではなく、むしろその懐に入って森を見上げる。白神の森と谷の生の鼓動は、そうした沢歩きこそ本物を体験できるのだとつくづく思う。ここに撮影した全ての画像を見れば、二ツ森や白神岳などへの登山では決して見ることができない風景であることがわかると思う。白神の登山と言えば、登山道もなく山小屋もない沢から沢へのルートこそ、本物なのだ。それが理解できない登山者や自然保護活動家が多いのは、何とも悲しい。悪いことに、それは入山禁止を叫ぶ秋田県に多い。なぜなら、白神の森と谷を知り尽くした青森県の人たちとは対照的に、秋田県の登山者や自然保護活動家は、残念ながら白神の核心部を余りにも知らな過ぎる。もっと白神の懐深く入って、白神の全てを体感すべきだと言いたい。白神を巡る入山規制問題は、議論ではなく、まず自ら歩くことから始めるべきではないだろうか。
 森を歩きながら、何度ブナの巨木を見上げたことだろう。見下ろした場合と、見上げた場合では大違いだ。ブナと対等に立ち、見上げることによってその偉大さが実感できる。ブナの幹には、昨年登ったようなクマの爪痕が至る所にあった。恐らく、ブナの豊作にクマは小躍りしながらブナの巨木に登ったのだろう。今年は一転不作、新しい爪痕は皆無だった。
 ブナの深緑が逆光に透けて輝く。所々黄葉しているのがわかるだろうか。斜面には、巨木が何本も根こそぎ倒れ森に穴が空いたような場所も幾つかあった。自然の厳しさと世代交代、滅びては次々と命が誕生する。死は、可愛そうなものではなく、新たな生命を生み出す源でもある。森は、生と死が混在し、それらが全て食物連鎖で繋がっている。その連鎖、生態系の中に人間も生きているということを忘れてはならないだろう。
 岩魚の刺身。山では、唯一のタクパク源。とりわけ渓師にとっては、これに勝る山の恵みはない。それだけに、できるだけ旬の状態で保存し美味しく、有り難くいただきたい。ナイフは、なかなか山に行けない中村章からいただいたドイツ・オランダ研修の土産でもらったもの。岩魚の刺身には、なかなかスグレモノだった。章に感謝、岩魚に感謝、縄文の森に感謝・・・
 塩焼き用の岩魚。源流部まで探索し、テン場に戻ってきたが、岩魚の色が変色していない点に注目。これぐらい旬の状態を保つことが美味しくいただくポイントだ。串はできれば竹が一番だが、残念ながらなかったので、小枝で作った。串は、尻尾の手前で止めること。こうすれば、岩魚がズレ落ちたり、回転したりせず、安定して焼くことができる。
 風倒木や流木を集め、盛大な焚き火の周りに岩魚を並べて、2001年最後のフィナーレを飾った。今年は、初めてルアーやテンカラに挑戦、おまけに山釣り師たちから非難されるようなバス釣りまでやった。それでも早春の白神に始り、岩見三内の源流、太平山O沢源流、マタギサミット、仙北マタギと山釣り、北海道日高の山釣りルアーF・・・最後は、秋深まる白神の森で締めくくった。幾つか予定した沢に行くことはできなかったが、最高の山釣りの旅ができたと満足している。何も大岩魚を釣るだけが、我々渓師たちの目的ではないはずだ。
 せせらぎの音を聞きながら、ほろ酔いかげんで炎を見つめる。「やっぱり白神は最高だ」・・・何度もそういいながら酒を飲み語らった。一時は、新しいルアーやテンカラにのめり込む余り、釣りに夢中になり過ぎた感もあったが、白神の森は、釣りではなく自然に回帰することを再び教えてくれた。もちろん今回も竿は一度も出さなかった。岩魚を夢中で追い掛けるのもいいが、それでは森は何も語ってはくれない。釣りは、やっぱり下手糞でちょうどいいのだ。ただし食べる岩魚を釣れないようでは話にならないが・・・。
 長谷川副会長が作ったブナハリタケの煮付け。3日間食べても余るほどだった。それにしても美味い、美味い。  刺身用の岩魚は尺クラスの岩魚3尾。まるで早春のサビついた岩魚のように真っ黒。これが縄文岩魚の特徴でもある。
 皮を剥げば、ご覧の通り真っ白、いや薄っすらピンク色に輝いている。旬の身は締まって、調理も簡単、食べたら最高だ。この味は、山で食べなきゃ味わえない。今年最後の岩魚料理か、と思うと調理に力が入った。  岩魚を三枚におろし刺身にした残り。上の頭と骨は燻製に、左下の皮と腹部の骨は空揚げ、右下の卵は、酢醤油でいただく。
 卵は、酢と醤油で30分ほどねかせると、最高の味になる。美味い、美味い、しこたま美味い・・・。 焦げ付いた残飯をインスタントラーメンの余った汁でオジヤを作った。このオジヤにニンニクと梅干を添えて食べたら、しこたま美味かった。山で食べれば何でも美味いが、これは簡単でホンマに美味かった。
 翌朝になると一転、大雨となった。我々にとっては、嫌な雨だったが、干乾びた白神の森にとっては、待ちに待った恵みの雨である。水溜りに細々と生きていた岩魚たちは、きっと穴から出てきて、瀬に踊っているだろう。ブナの風倒木や流木には、様々なキノコたちが鉄砲水のごとく顔を出すに違いない。山から吹き降ろす風は、凄まじく、全山怒っているようにも、笑っているようにも見えた。

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