宮台真司は
「オウム的」か?

小林よしのり の『新・ゴーマニズム宣言 (2)』 に見られれる宮台批判の一つに、第17章「西部邁と語った知識人の責任と罪」 の中でオウムを擁護する吉本隆明などの知識人たちの責任を追求するくだりでのひとコマ(P.27) がある。

このコマには、右半分に宮台がラブホテルの前で女子高生に紙吹雪をまいて称賛する絵があり、以下のようなキャプションがついている。

しかしやっぱり不良少女を積極的に賛美しちゃう知識人はいるのだ

たとえこれが共同体や倫理の崩壊の中での生き方のシンボルとして取り上げてたとしても

いつか暴力団がらみで大事件に発展する可能性があるのでわしは警告しておく

オウムを育てた知識人と同じ道をたどるだろう

ここで小林が言う「賛美」は、宮台のスタンスを把握した上で小林自身が自覚的に敢えてそう表現したものだろう。小林は「共同体や倫理の崩壊の中での生き方」が、現代の日本の社会において模索されるべきなにものかであることについては了解しているものと思われる。

しかし、あいかわらず「売春女子高生=不良少女」のパラダイムからぬけだせないでいるようだし、それゆえに「暴力団がらみの大事件」とやらの心配をしている。ここで小林は具体的にどんな「大事件」を想定しているのだろうか?

最後の二つのパラグラフがかぶる同じコマの左半分に描かれているのはブラックホールのような効果線に囲まれて転落していく宮台の姿である。直前のコマでのオウム事件のイメージ描写と比較すると、そこには小林が可能性を指摘する「大事件」の内実についてイメージ的な描写さえできないでいるらしいということが見てとれる。

確かに文脈的には日本の知識人という人種に対する批判であり、ブルセラ女子高生の話は一つの例に過ぎない。が、まるで女子高生よりも宮台のことを心配しているようなこの描写を見る限り、小林は援助交際などの問題に関しては「情」のレベルで問題視しているわけではなさそうだ。彼の宮台批判は、薬害エイズ訴訟の時のような「情」で繋がった誰かのための、現実の問題をなんとかするための、批判ではないと言える。


この短いキャプションにおける小林の批判は、宮台の女子高生「賛美」を目的の上では認めながらも、結果として現実に起こる問題を危惧するがゆえに批判するという形式をとっている。しかし、肝心の漫画の部分には彼が危惧する問題については何一つ描けないでいるのだ。本当のところ、小林よしのりは宮台真司の何を批判したいのだろうか?

百歩ゆずってこれ以上援助交際の女子高生が増えると「大事件」が起こりうるとしよう。オウムと比較できるような「大事件」とは言わないが、宮台も援助交際の問題性については著書などで触れている ( [B.1994a] , [P.1996g] など。)

それでも簡単には宮台を批判できない。宮台は、小林のような単純な倫理の押しつけ(説教)こそが倫理に反する行為をより危険な形で蔓延させかねないという矛盾を社会学的な観点から指摘しているからだ。これは倫理の内実とは独立に成立する批判であって、宮台自身がどういう倫理観を持っているかということとは全く関係ない。

このような批判に反論するには、実際には矛盾が生じないことを主張しなくてはならない。しかし今のところ小林には小林自身の「常識」だけを根拠にした議論しかできていない。それを自覚しているからこそ、小林は上で説明したコマの次のコマには以下のようなキャプションを書いたのではないか。

こんな知識人を「まちがってる!」と今の時点で厳然と批判できる知識人もどうせ一人もいない

かくも知識人はなさけないのである

「今の時点で」というのは「大事件」が起こる前に、という意味である。地下鉄サリン事件が起こる前に誰も坂本一家失踪事件でオウムを批判しきれなかったという事実と対応している。そして宮台はオウムで言えば上祐に対応することになる。つまり、直接証拠が出ない限り議論そのものでは決して追い詰めることができないような論陣を張り、その結果メディアを通じて問題を隠蔽するようなメッセージをばらまくという役まわりだというのだ。

確かに社会学(に限らず人文科学ではよくあることだが)の理論は物理学のような厳密な実験によって検証することが不可能なことは多々ある。だからといって小林のように統計やフィールドワークを信用しないというのであればそれこそ別の意味で「オウム的」といえるのではないだろうか。


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