ホームページ | 趣旨 | 活動 | 参加者 | 談話会 | 読書をしよう | 意見交換 |
いつもお世話様です。 ProjectKの件ですが、やはり出だしはやさしく、判り易いほうがよいと思います。対象者を成人クラス(父兄・先生他)と中高生クラスの2種類の教育課程があっても良いと思います。 インターネットについては各地での講演会のレジメをまとめればなんとかなりそうですが、環境についてはジャンルが@大気汚染 A土壌汚染 B河川汚濁 C廃棄物と大きく分けても4分類あり当面は1−2テーマで少しづつやっていくしかないかなと考えています。 また打ち合わせの時に知恵を寄せ集めたいものです。 |
貴重な意見を有り難うございました。小中高の実体を知らない者が集まって、独りよがりの方向に走ることが最もまずいことであり、その歯止めとしての意見を、現場の方に聞かせていただきたいと思っていました。趣旨の文章は、梶本が前回の研究会での雰囲気をまとめて書いたもので、全員の賛同を得ているわけではありません。このホームページが公開されるまでに、しっかりしたものにする必要があります。橋本さんの意見をいれ、かつ3月25日付の朝日新聞19面に掲載されていた、総合学習に関する記事も読んで、趣旨の文章を改訂しました。これについて、皆さんのご意見をお送り下さい。 主な変更部分に、アンダーラインをつけました。 <改訂前> この悪循環を断ち切ることができるのは教育である。欧米では、早くから子供に社会性を付け、好奇心を養う教育を行っている。日本は急速に進む少子化にもかかわらず、経済的繁栄に目を眩まされて、準備を怠ってきた。そのツケが今、来ている。しかし、このような、「子供にとって不幸な環境」を補うはずの学校教育も危うい。先生が、教育に情熱を持たず、確固とした信念を持たなければ、この深刻な悪循環を断ち切ることは出来ない。 子ども達に、社会性を付け、好奇心を育てる教育をするためには、小学校、中学校の義務教育に、良い先生を、熱のある先生を充てる必要がある。そして、カリキュラムも社会性と好奇心の獲得を第一とするように組み直さねばならない。また、「ゆとりの教育」で子供を遊ばせておくのではなく、もっと積極的な関与が出来る先生が必要である。積極的に、子供達に社会的な色々のテーマについて対話と討論をさせる時間、クラスの一人一人が役割を担って目標を達成するような行事、自然の不思議に目を向けさせる時間、を作ることが必要となる。中学高校の授業では、知識を単語として教えるのではなく、その本当の意味を語れる教師が必要である。科学の単語についても、歴史、倫理の単語についても同じである。 そのような教育は、現場の先生だけでは不十分な場合が多い。より深い研究を通じて本質を優しく語れる研究者や、社会を広く経験した先達が、現場の先生と連携して教育にあたれば、より好奇心をかき立てる授業、より社会の現実を考えさせる授業が可能になる。教育経験の豊かな先生と、社会経験・研究経験の豊かな人材とが協力し合うことで、子供達への教育はより確かな物となる。ここに教育ボランティアの意義がある。数十年にわたって、社会や大学で蓄えた財産を役立つ形で教育に還元し、次世代に継承していくことが出来れば、我々にとってもその喜びは大きいと言わねばならない。 <改訂後> この悪循環を断ち切ることができるのは教育である。欧米では、早くから子供に社会性を付け、好奇心を養う教育を行っている。日本は急速に進む少子化にもかかわらず、経済的繁栄に目を眩まされて、準備を怠ってきた。そのツケが今、きている。このような、「子供にとって不幸な環境」を補うのは学校教育である。教える側はそのことを真剣に受け止めて、教育への情熱と、確固とした信念を持つ必要がある。さもなければ、この深刻な悪循環を断ち切ることは出来ないであろう。 「総合学習の時間」を通じて、子ども達に社会性を付け、好奇心を育てようという試みが文部科学省の指導で、本年度から始まっている。一方で、教科の授業は3割減ることとなった。基礎知識を削減しても、考える力や社会性を養うことが出来れば、将来のためには遙かにプラスになるという考え方である。この理想を実現させるためには、真摯な教育への努力が求められる。どのように「総合学習」の時間を有効に使うか。先生方が熱意をもち自らも学びながら、積極的な学習時間を作っていく必要がある。子供達に色々の社会的なテーマについて対話と討論をさせる時間、クラスの一人一人が役割を担って目標を達成するような行事、自然の不思議に目を向けさせる時間、を作ることが必要である。また、教科の授業では、中学高校生に知識を単語として教えるのではなく、その本当の意味を語れることが必要である。科学の単語についても、歴史、倫理の単語についても同じである。 新しいカリキュラムの発足に伴って先生方は試行錯誤を始めている。学校を挙げての熱心な取り組みをしているところもある。しかし、そのような教育は、現場の先生だけでは不十分な場合も多い。より深い研究を通じて本質を優しく語れる研究者や、社会を広く経験した先達が、現場の先生と連携して教育にあたれば、より好奇心をかき立てる総合学習、より社会の現実を考えさせる学習が可能になる。教育経験の豊かな先生と、社会経験・研究経験の豊かな人材とが協力し合うことで、子供達への教育はより確かな物となる。ここに教育ボランティアの意義がある。数十年にわたって社会や大学で蓄えた財産を、役立つ形で教育に還元し次世代に継承していくことが出来れば、我々にとってもその喜びは大きいと言わねばならない。 |
趣旨の部分を読ませてもらいました。 本質的なところは賛成ですが、現在、小中高で始まっている「総合学習の時間」に対する配慮が欠けています。すでに、子供に考える力を付けさせ、社会性を養う教育を「総合学習」のなかで実現させようと、色々な試みがなされています。このような試みとタイアップできるような教育ボランティアを考えることが必要です。その意味で、趣旨の文章は、一方的に中高の先生方を非難するようなトーンになっていることには賛成できません。 |
大学生、高校生(過去に経験あり、甲南女子校、大阪桜宮=こちらは男女共学、非常勤で、世界史を)教育、それから年輩者の市民講座と放送大学面接授業(おもしろい言い方ですが)、夜間の法学部経済学部などを今後もやる予定の者として。 梶本邸での話で、大学生、生徒への倫理・生活道徳の再構築の必要性がでました。私も全く同感です。この領域では、空白が出来てしまった。大人=親、先生ともきちっとしたかたちで、子供・生徒と向き合うことがなくなってしまった。戦前の修身・道徳教育を否定したのはよいとして、社会とどう向き合い他者との間でどう接点をもつかについて、反省して思いをいたらせることがなくなってしまった。うるさいやつ、といわれるのをおそれたり、場合によっては注意するとすごまれたり、危ない目にある可能性を考えて、意識はしても手控えることが多くなった。 少し学術的な用語ですが、市民的公共性、公共意識の問題です。これは、青少年個人と我々の関係だけでなく、収賄、賄賂政治家をどう把握するか、という問題にもつながります。バス、電車の中での隣席に鞄をおいたままにして無言のうちに座らせまい、座ってほしくないという圧力をかけていること、それをまたたいていの日本人が、注意はおろか、黙って立っている。どちらも市民的公共意識の欠如です。バスの乗り方だって、バス停のドアの停まる位置というのは経験的に分かっているのだが、きちんと近くに立っておらず、離れたところからゆったらゆったら乗り込んでいる。また、細かいバス賃を用意せず、用意していないなら面倒でも早い目に両替をバスの中ですればいいのだが(降りるときでも、スムーズにできるなら、かまわないが)、降りしなにやっと財布を鞄からとりだして小銭を探し出している。バスの乗客で気を急いている者がいることに、なんの顧慮もないのです。 息子にはこれを言ってきた。また、3年ぶりにまわってくる教養ゼミでも発言するつもりです。教育のスタートポイントはここから始まる。もちろん、自分を振り返って律する事は必要です。人が降りる時、通路は狭く、押されるが、それでも身をよけて、通りやすいようにしてあげる、目下、意識して実践しています。 携帯電話のことは石田君が言っていた、京阪神もひどいようだが、広島の芸備線、可部線などローカル線もひどい。直接、現場で言いにくい時は、教室、家庭で言うようにし、諸君自身と諸君の甥姪や将来の子供にも伝えなさいと言います。 要するに、他者というのが自分の視野の中にどれだけ入っているか、です。テレビ・ドラマは、若い男女の恋愛感情を軸にしたこころの動きだけを追っているのが多い。これは、好きな人が出来たときでも二人だけを中心に世界をみて、後のことは全く念頭にない、といういびつな意識に陥ってしまいます。テレビの影響は大きいと私も最近考えるようになった。(影響の内容は別のことでしたが、田平君に同意します)。東京ラヴストリーの話の時は、ちょっと違ったじゃないか・・・・と言われるかも知れませんが、この説明はまたできます。恋愛論として内側に入って話すときは、以前のようなものになるのです。市民的公共性はまず、自分と他者の連関性の認識から始まります。今回は、ここで止め、これからは他のプロジェクト・メンバーの意見へのコメントをせいぜいするようにします。 |
青少年のモラルが話題になりました。 それを含めて、私も最近、人が人に対して不寛容、排他的、衝動的になっていると思います。長い間のテレビの刺激のせいもあるでしょうし、家庭での親子関係の希薄化、青少年らが、いたずらに、大人のまねごと、仲間入りだけを急いて、精神的成熟、経済的うらずけを伴わないままに 突き進んでいるように思えます。 |