太平洋の地獄 ★★☆
(Hell in the Pacific)

1968 US
監督:ジョン・ブアマン
出演:リー・マービン、三船敏郎

手前:リー・マービン、奥:三船敏郎

登場人物の数が限られる映画は数多くあれど、それがたった二人ということになると、個人的に知る限りではここに取り上げる「太平洋の地獄」とジョセフ・L・マンキーウイッツの「探偵スルース」(1972)しかありません。しかも、「探偵スルース」が会話が極端に重視される作品であったのに比べ、「太平洋の地獄」では互いに相手の話す言葉がさっぱり分からないという前提がある為、いわばアクション重視(この言い方は現在のアクションの定義からいうと誤解される可能性があるのでむしろビジュアル重視と言うべきかもしれません)にならざるを得ない作品です。見ていて面白いのは、互いに敵同士であっても生存する為には協力しなければならず、協力する為には相互理解が必要であるのに、そのベースとなるはずの言語コミュニケーションの成立が不可能であるという、いわばwhat ifシナリオの展開が見られる点です。言い換えると、言語コミュニケーションの成立が不可能であるような状況下において、相互協力という文化的な営みが可能かどうかという問いがまずあり、それがもしYESであるとすればそれはどのような仕方によってかという問いが作品の背景には存在するのです。これらの問いに関して、個人的に見たポイントを簡単に述べると次の通りです。初めの頃は、いがみあいが互いの生存の危機に直結する様子がよく分かり、たとえば二人が争うことによって日本兵(三船敏郎)が溜めていた貴重な水が失われてしまうシーンなどが典型的な例です。コミュニケーションが可能になる最初のきっかけは、日本兵がアメリカ兵(リー・マービン)を捕虜にする時点において発生し、但しこれによって成立する関係は主(マスター)と従(スレーブ)の関係です。しかしながら、主従関係とは対等な関係ではないが故に主従が逆転する可能性が常に存在し、隙を伺って今度はアメリカ兵が日本兵を捕虜にします。言ってみれば、これは革命ということになりますが、この段階では、二人の関係の逆転が生じるに過ぎないのであり、主従関係というパワー相関そのものが廃棄される革命ではありません。やがて、パワー相関そのものが消失するのは、主人となったアメリカ兵が、主従関係を維持する為に二人が生活する為の作業を一人でこなさねばならなくなり、それが面倒になるからです。すなわち、経済的な要因が単純なパワー相関を凌駕する時点で始めて、アメリカ兵は相互協力が必要であることに気付き、日本兵を解放し対等の協力者にするわけです。やがて、この関係は、単に経済的な要因で対等でなければならないとする理由付けを超越した別の有用性を生み出します。すなわち、日本兵が筏を作って島を脱出しようとする全く新たな創造的なアイデアを提案し、その実現の為には相互協力が不可欠になるのです。最初は、筏の作り方に対して意見が合わず言い争いをしますが(といってももとより言葉が通じないので身振り手振りによる意見交換ですが)、この言い争いが以前の争いと異なることは明白です。なぜならば、このレベルにおける争いとは、互いが互いの存在を対等であると認めた上でのより高次なアイデアを巡る争いだからです。やがてこの高次なレベルにおける相互協力は友情すら生み出します。かくして二人は無人島から脱出して別の島に流れつきますが、そこで捕虜になった日本人の写真が掲載されているアメリカの雑誌を見て日本兵は再び憎悪の炎に燃え二人の間に争いが始まったところへ砲弾が落下してジエンドになります。おそらく、戦争の無益さを強調しようとして最後にこのようなシーンが挿入されているのでしょう。しかしながら、このような視点から作品を見ていると、この最後のシーンはなくもがなに思われます。ということで、始めに立てた問いに対する回答は、私見では次のようになります。第1の問いに対する回答はYESです。第2の問いに対する回答は、前述の通り、段階的に相互理解が徐々に深まり、やがて高いレベルでの創造的アイデアを実践することにより相互理解は更に深化するというものです。いずれにせよ、これらの問いに関する回答は、実際に作品を見て自分の目で確かめて下さい。ところで、「太平洋の地獄」には二人の登場人物が互いに相手の言葉を理解できないとする前提が存在するが故に、意図されずして妙にコメディ的なところすらあります。何しろ、三船敏郎演ずる日本兵は「こん畜生」とか「くそ」など、もう少しましなことが言えないのかと思える程のボキャブラリーの貧弱さで何やら口走っており、出来の悪い4コマ漫画を見ているような印象すら受けます。そのようなコメディ的な印象が、ある程度意図的ではないかと思える箇所が1つあって、それは捕虜になっているアメリカ兵が隙を伺って今度は日本兵を捕虜にするシーンです。このシーンでは、捕虜になっているアメリカ兵は背中に木を縛り付けられ両手が動かせない状態にされているにも関わらず、日本兵を待ち伏せていて、予期せぬ場所でいきなりアメリカ兵と出くわした日本兵は驚愕します。すると、次のシーンでは、早くも今度は日本兵の方が背中に木を縛り付けられた状態になっています。つまり、いかにして、今度は日本兵が捕虜になったかを説明するその間の描写が全て省略されているのです。これは明らかにコメディで良く用いられる手法であり、あるシーンとそれに続くシーンの間に論理的なギャップが存在するにも関わらず、それを敢えて説明しないところにコメディ的なおかしさが生じるわけですが、それと全く同じことがコメディなどではないはずの「太平洋の地獄」の中で行われているのです。いくら日本兵が予期せぬ場所でアメリカ兵に待ち伏せされていたとしても、両手が使えない後者に比べれば前者がそれでも圧倒的優位な立場にあることは変わらないはずなのに、次のシーンではいきなり前者が捕虜になっているのです。といっても、そのような状況においてはアメリカ兵が日本兵を打ち負かして捕虜にすることは絶対にできないはずだと言い張りたいわけではありません。そうではなく、論理的に発生し難いと思われるシーンを次に挿入したいのであれば、不利な状況にあるアメリカ兵でも日本兵を打ち負かして捕虜にできることをオーディエンスに納得させる中間シーンが挿入されねばならないのであり、それが省略されれば別の次元での意味合いが発生しコメディに見えざるを得なくなる点を指摘したいのです。いずれにせよ、「太平洋の地獄」というタイトルには全く相応しくないシーケンスに見えるのは間違いのないところです。尚、フランク・シナトラの唯一(?)の監督作「勇者のみ」(1964)でも、太平洋の孤島で孤立したアメリカ兵と日本兵の間に発生する争いと協力というテーマが扱われています(但し、個人間の争いではなくグループ間での争いが描かれています)。「勇者のみ」も争い−>協力という過程を経て、最後は再び戦闘になり日本兵が全滅してジエンドになります。しかも、最後の戦闘は、アメリカの援軍が到着することが分かった為に発生します。すなわち、「太平洋の地獄」同様、何らかの外部からの情報が、孤立状況における相互協力を破壊してしまうのです。戦争の無益さを強調したいがゆえということかもしれませんが(※)、後味が必ずしも良くない点においても「太平洋の地獄」と似ています。

※「勇者のみ」について戦争の無益さを強調する意図があったか否かに関しては、かなり曖昧な部分もあり、それについてはそちらのレビューを参照して下さい。(2009/01/27追記)


2003/06/22 by 雷小僧
(2008/11/08 revised by Hiroshi Iruma)
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