奇跡の人 ★★☆
(The Miracle Worker)

1962 US
監督:アーサー・ペン
出演:アン・バンクロフトパティ・デューク、ビクター・ジョリー、インガ・スヴェンソン



<一口プロット解説>
生まれながら見ること聞くこと話すことが出来なかったヘレン・ケラーが、師アニー・サリバンの助力によってそれを克服していく様を描く。
<入間洋のコメント>
 実は正直に言うと、個人的趣味として伝記物の映画或は偉人伝そのものがあまり好きではない。それでも小学生くらいまでは結構偉人伝集のようなものを読んでいたが、中学生高校生と学年が上がるにつれて考え方がよりシニカルになり、そんなに調子の良いことばかりではなかろうというようなかなりひねくれた見方をするようになるが、大方の読者は成長の過程において同様な経緯をたどったのではなかろうか。たとえばいかに己れのハンディキャップを克服して偉大な事業を成し遂げたかというような道徳的な側面が偉人伝では強調されがちになるが、反抗期に入った若者は、そのようなストーリーを左様ですかと額面通り受取ったりはしないのが普通である。それでは偉人伝が好きではないとうそぶく小生は、40才を過ぎてもまだ反抗期なのかということになるが、ひょっとするとそれには一抹の真理が含まれるのは確かであったとしても、ただそれだけというわけでもない。というのは偉人伝とは読んで字のごとく偉人を扱う伝記であり、結果として偉人になったと見なされる人々に関しての伝記ということになり、従ってストーリー自体を組立てるパースペクティブそのものがどうしても後向き、すなわち偉大な業績を残したという結果から、その人の生涯を再構成しようとする傾向が顕著に現れるのが常であり、それに対して「ちょっと待った」と言いたくなるからである。実はこのことは偉人伝に限られた話ではなく、ある意味で歴史記述そのものに既にそのような性格がある。高校生くらいになると読まされる書物の1つにE・H・カーの「歴史とは何か」というタイトルがあるが、そのカーも述べるように歴史とは常にある一定のパースペクティブが回顧的に適用された構成物であり、単純に言えば純粋にニュートラルな歴史記述などあり得ないということである。フィリップ・K・ディックのSFではないが、第二次世界大戦において枢軸国が勝利していたならば歴史は全く違ったものになっていただろうということである。「歴史は全く違ったものになっていただろう」とは、第二次世界大戦以後の歴史は変わっていただろうという極めて当たり前のことだけではなく、第二次世界大戦より以前の歴史に対する見方も全く違ったものになっていただろうということをも意味する。すなわち第二次世界大戦以前の歴史も枢軸国側に都合のよいパースペクティブが投射され再構成されていただろうということである。たとえば教科書問題なども、歴史記述に内在するこのような本源的なアポリアが顕在化したものとして捉えられるだろう。かくして歴史記述そのものに常に後向きのパースペクティブが適用される傾向があるわけだが、偉人伝というジャンルは殊にそのような傾向が顕著に現れがちになる分野である。たとえば、偉人伝の中で将来偉人になる主人公が小学生の頃万引きをしたことがあるというような記述があったとすると、本来ネガティブなそのような記述が挿入された理由の1つとして、幼い頃悪事を働いていた人物が大人になると更正して立派な業績を残すようになったというたぐいの後向きのモラルパースペクティブが投射されたことが必ずや挙げられるはずである。そうでなければ、偉人伝にふさわしくない素材は最初から切り捨てられてしまうだろう。実際には、当人が将来偉人になろうが悪人のままであろうが、悪事を行った時点では悪意をもってそうしたことに何の変わりもないのである。そのようなわけで、偉人伝もの映画と聞くとちょっと勘弁してくれと言いたくなるのである。

 前置きが長くなったが、「奇跡の人」は文字通りその偉人伝映画である。何しろ、小学生向け偉人伝の中でも筆頭で人気があるヘレン・ケラーが登場する。けれども、この映画の焦点は必ずしもヘレン・ケラーにあるわけではない。この点に関しては、邦題に誤解を招く要素があり、「奇跡の人」というタイトルは、生まれつき見る、聞く、話すという知覚能力を欠いていたにも関わらず見事にそのようなハンディキャップを克服したヘレン・ケラーその人を指すような印象を与えるが、実は「奇跡の人」とはそのような境遇にあったヘレン・ケラーを社会に適合させ更正させることに成功した彼女の師アニー・サリバンのことを指す。原題の「The Miracle Worker」ではこの点が明瞭であり、Workerとはソーシャルワーカー(社会福祉看護士)のことを指すであろうことがすぐに分かる。日本では圧倒的な人気があるヘレン・ケラー伝にあやかって宣伝上の戦略によりそのような紛らわしい邦題が付けられたのかもしれないが、小生のような天の邪鬼な人間は、逆にこの邦題が故に長年この映画は敬遠していたのである。

 かくしてこの映画は、ヘレン・ケラーよりもその師アニー・サリバンに焦点があるが、殊にこの映画について感心するのは、心理社会学的考察が喚起され、単なる偉人伝には見出せない見た目以上の深さが存在することである。というのは、知覚能力を欠いたヘレン・ケラーを社会に適合させることに成功したと一口に言っても、では社会に適合する或は社会とは何であるかが明瞭に把握されていないと、この映画のタイトルが示すようにそれがいかに奇跡であったかが本当には理解出来ないが、その点がこの映画では実に説得的に浮き彫りにされているからである。次にそれについて考えてみよう。ジョージ・ハーバート・ミードという社会学者が書いた書物の中にヘレン・ケラーに関する言及があるが、この書物でのミードの主張の1つに次のようなものがある。すなわち、「自己」が形成される為に必要な要素の1つとして、自分の心の中に自分の行動に対する他人の反応を予め喚起し、それに従って自らの行動を制御する能力の獲得が挙げられるという主張である。ミードはヘレン・ケラーに関して言及している箇所(以下ミードの引用は「Mind, Self, & Society」からの訳)で、「我々が通常メンタルコンタクト或は自己自身と呼んでいるような要素を彼女(ヘレン・ケラー)が獲得することが出来たのは、他人が他人に喚起することが出来る反応とまさに同じ反応を彼女自身の内にも喚起することが出来るシンボル化能力を持って他者とコミュニケーションをはかることが出来るようになったからある。」と述べている。見る、聞く、話すという能力を最初は全く欠いていたヘレン・ケラーにとって、ミードの言うようなシンボル化能力を獲得することが並大抵のことではないことは自明の理であり、「奇跡の人」の前半でパティ・デューク演ずるヘレン・ケラーが文字通り暴れまくるのは、彼女の性格が生まれつき暴力的であったからでは全くなく、シンボル化能力が形成されていないが故に彼女の住む世界自体がカオスであったからである。別の言い方をすると、シンボル化能力を持たないが故に自己というものが形成されず、刺激と反応という単なる一次元的な様式に従った態度行動しか取れなかったからである。刺激と反応と言えば、女優マリエット・ハートレーの祖父であったジョン・B・ワトソンを代表とする行動主義心理学を思い出すが、行動主義心理学の限界は、刺激と反応という一次元的な見方にベースが置かれそれによって説明出来ないことは捨象されるところにあり、勿論行動主義心理学は最初からそれを排除しているからそれは問題ではないのかもしれないが、少なくともそれでは自己とはどのような現象かが全く説明出来ないことになる。面白いのは、抱いたりあやしたりすることですら禁ずるジョン・B・ワトソンの信条に従って育てられたマリエット・ハートレーが女優になったのは、家庭における暖かさの欠如の代償を求めてであるようなことを自ら語っていることである。少し話しがあらぬ方向に逸れたので元に戻すと、他人が他人に対して喚起するのと同じ反応を自分の中にも喚起出来ることが自己形成の1つの必須要件であると述べたが、視覚/聴覚が欠けた状態でそのような能力を獲得することがいかに困難であったかは容易に推察出来る。何故ならば、そのような状態ではそもそも自己と他人の区別ですら困難であろうからである。矯正が不可能に近いこのような困難を克服したのがヘレン・ケラーであり、またそれを可能にしたのが彼女の師アニー・サリバンであり、アニー・サリバンが「The Miracle Worker」と呼ばれるのはまさにこの意味においてである。

 この映画の後半、パティ・デューク演ずるヘレン・ケラーが井戸の水を汲みながら何かを得ようとしてポンプを必死になって動かし、最後に「Water」という言葉を発することが出来るようになる非常に美しいシーンがあるが、言葉を発することが出来るようになることはシンボル化能力を獲得することと不可分であることがこのシーンでは見事に表現されている。ミードは次のように述べる。「自分以外の他人に対して及ぼす影響と同じ影響を自分自身にも及ぼすことが出来る発声行為を発達段階にある子供から奪ったとすると、自分自身の行動調整に関して直感的な手段に頼らざるを得なくなりその子供は動物的次元を越えた生活を送ることは出来ないであろう。<中略>。子供達を発声行為へと導くのと同じ選択的な過程が、自分自身に関わる一般的な態度の形成へと導くのであり、これは模倣のような行為を通じてではなく、自分以外の他人の中に呼び起こす反応と同じ反応を自分の中にもいかなる状況の下でも呼び起こすことが出来る傾向を獲得することによって実現される。」すなわち、何らかの語彙を発することは、単に発声器官をアクティベイトさせることを意味するだけではなく、自分及び自分とは異なる他人の存在を前提とする社会的な状況を自己の内部に固定同化することと切っても切れない関係にあるということである。ヘレン・ケラーが、井戸の水を組みながら必死になって得ようとしているのは、自分以外の他人の存在がその地平内に存在する社会的関係というチャネルへの接合であり、それが達成されると同時に初めて「Water」という音の連続が水という意味を持つ抽象化されたシンボルであることが体得出来、自らもその発音が出来るようになるわけである。自らの内に新たなる地平を開いた瞬間、それがこの井戸汲みのシーンであり、それがかくもビューティフルに描写されているのを見る為だけでもこの映画を見る価値があると言ってもあながち言い過ぎではなかろう。映画を見ながら心理学や社会学の勉強が出来るとは何という贅沢な話であろうか。

 最後に付け加えておくと、これを書いているまさにこの時点で、この映画でアカデミー主演女優賞に輝いたアン・バンクロフトが亡くなったという訃報を聞いた。デビュー当時彼女は、どちらかというと「ディミトリアスと闘士」(1954)のような歴史映画の飾り物女優にすぎなかったが、この「奇跡の人」でオスカーを受賞してからは大女優の仲間入りを果たす。最も有名なのは、勿論あの「卒業」(1967)でのダスティン・ホフマンを誑かすロビンソン夫人であろうが、コメディなどにも才能を見せ演技幅の広い人であった。彼女の冥福を祈りながらこの章を終えることとする。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2001/12/01 by 雷小僧
(2008/10/16 revised by Hiroshi Iruma)
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