フロッグメン ★☆☆
(The Frogmen)

1951 US
監督:ロイド・ベーコン
出演:リチャード・ウイドマーク、ダナ・アンドリュース、ゲイリー・メリル、ジェフリー・ハンター



<一口プロット解説>
太平洋戦争を舞台とした、アメリカ海軍の水中特殊工作部隊の活躍を描く。
<入間洋のコメント>
 前回、「バタシの鬼軍曹」(1964)という英国産の作品を取り上げましたが、実はイギリス映画にはこの作品同様、戦争に関連したマテリアルが取り上げられながらも戦争映画につきもののアクションシーンがほとんど見られない亜戦争映画とでも称すべき作品がしばしば製作されています。たとえば典型的には軍事法廷を舞台とした作品が挙げられ、これまでにレビューした作品の中では、「Tunes of Glory」(1960)や「Conduct Unbecoming」(1975)などを興味深い作品として挙げることができます。これらの作品がいずれも日本劇場未公開であるのは、ただでさえ法廷モノはあまり受けない日本では、ましてや軍事法廷モノなどほとんど言語道断ともいうべきゲテモノであるかのようにも見られているからではないかと考えられます。このような軍事法廷が舞台となる英国産映画は、必ずや名誉や規律という集団的なモラルに関するテーマに焦点が置かれており、ポジティブな言い方をするといかにも騎士道精神に基いたジェントルマンのお国柄、ネガティブな言い方をすると階級区分が根強く残っているお国柄が反映されているとも捉えることができます。勿論アメリカ産の映画にも「ケイン号の叛乱」(1954)のような一部に軍事法廷が登場する作品も存在しますが、英国産の作品が場合によってはほとんど全編に渡って軍事法廷シーンが展開されることすらあるのに対して、アメリカ産作品の場合にはアクションシーンやそれ以外のドラマシーンがメインであり軍事法廷シーンはほんの一部にしか過ぎないということは別にしても、興味深いことはアメリカ産作品においては集団的なモラルに関わる名誉や規律よりも個人の能力に大きな焦点が置かれがちになることであり、このことはいかにも個人主義的且つ能力主義的なアメリカのお国柄が反映されているとも見なせるでしょう。「ケイン号の叛乱」でも、ハンフリー・ボガート演ずる艦長が、艦を指揮するだけの能力を個人として有していたか否かが軍事法廷における論議の最大の焦点になるのであり、偏執狂的な彼のパーソナリティが明確になることによって判決が自ずと下されることになります。因みに、ほとんど全編に渡って裁判シーンが展開される「ニュールンベルグ裁判」(1961)はどうしたのかと問われる向きもあるかもしれませんが、「ニュールンベルグ裁判」は軍事裁判ではなく政治裁判が扱われているのであり、軍事裁判においてはそれを主催する軍隊という組織の集団としての名誉が最終的に大きな焦点にならざるを得ないのに対して、政治裁判の対象は集団的な価値に関わる名誉や規律よりは個人としての責任が大きく問われるのです。従って、バート・ランカスター演ずる被告の取った過去の行動が裁判で大きな問題となるのであり、「ニュールンベルグ裁判」はいかにもアメリカ的なテーマである個人の責任に大きな焦点が置かれていたことになります。名誉と規律だけを問題にするならば、ナチスにおいてすらそれらは美徳として賞賛されていたのであり、名誉や規律とはあくまでも一種の抽象的なフォームであるに過ぎないことが看過されてしまうと、フォームを埋めるべき内容が腐り切っていれば結果はナチス支配下の第三帝国のような状況に陥ってしまうわけです。従って名誉や規律がテーマになる映画それも英国産映画の中には、フォームとしての名誉や規律とそれを埋めるべき現実との決定的な齟齬から発生する悲劇や喜劇が描かれることも稀ではなく、結果として悲劇を招来する例としては「戦場にかける橋」(1957)や「遥かなる戦場」(1968)などが挙げられ、また喜劇的でアイロニカルな結末に至る例として「バタシの鬼軍曹」が挙げられます。そう言えばダーク・ボガードとトム・コートネイが主演した「銃殺」(1964)などという恐ろしく陰惨な作品もありました。原題は、「King and Country」ですが、邦題と原題を合わせるとこの作品がどのような作品であるかが目に浮かぶのではないでしょうか。

 ということで前置きが長くなりましたが、「フロッグメン」は太平洋戦争を舞台としたアメリカの水中特殊工作チームの活躍を描いたアメリカ産の戦争映画です。水上或いは水中シーンがふんだんに盛り込まれていますが、この作品が撮られた1950年代初頭当時にあっては、かなり画期的だったのではないかと思われます。特殊工作員(フロッグマン)が高速で突っ走る舟艇から一人一人水中に散開するシーンや、逆に水中から高速で突っ走る舟艇にフロッグメンが一人一人収容されるシーンは、実にリアルです。そのような英国産の戦争映画ではあまり見られない外面上のカッコよさやスマートさは別にして、「フロッグメン」においては英国産の戦争映画に特徴的であった名誉や規律とは全く異なるいかにもアメリカ的な美徳が際立たされています。一言で云えばそれは仲間意識(camaraderie)であり、名誉や規律が上下関係という縦の関係を象徴するとするならば、仲間意識は横の関係を示すものとして捉えることができます。名誉や規律は全体の利益が優先される社会において発達し、仲間意識は個人間の関係が重要視される社会において発達すると大まかに云えるのではないでしょうか。この作品では艦長(?)を演じているゲイリー・メリルは別として、基本的にはリチャード・ウイドマーク演ずる司令官のローレンス、ダナ・アンドリュース演ずる下士官のフラニガン、ジェフリー・ハンター演ずる兵士のパピーという3人が織り成すドラマがメインであると見なすことができます。司令官、下士官、一介の兵士という設定からも分るように、軍隊組織内での地位はこの三人の間では厳然と区別されており、状況としては明らかに縦の関係が主要登場人物間に設定されていることになります。しかしそれにも関わらず、この作品では縦の関係を横の関係に解消しようとする強力な磁場が働いています。まず、フラニガンとパピーの関係は、上司と部下の関係であるにも関わらず、しかも一般社会よりは上下関係が厳格であるはずの軍隊においてであるにも関わらず、ほとんど兄弟でもあるかの如く行動しており、たとえば日本軍がウヨウヨしている島の海岸にパピーが一番乗りを示す旗を立てようとして勝手な行動を取った時も、フラニガンはそれをいさめるどころか旗を立てに一緒にこっそりと島に上陸します(画像右参照)。ローレンスとフラニガンの関係は表面上は、厳しい上司とそれに従う部下という体面を危うく保っていますが、実はフラニガンやその部下達は戦死したかつての上官キャシディを今でも尊敬していてローレンスに対しては常に反感を抱いています。何故フラニガンやその部下達が戦死したかつての上官を死後になっても尊敬しているかというと、それは彼が自分達の兄弟のような存在であったからであり、すなわち「頼れる兄貴」であったからです。兄弟という関係は、確かに兄の方が年長なのでその意味では縦の関係にあると云えないこともありませんが、しかし兄弟関係においては同時に個人と個人の関係から自発的に発生する仲間意識という立場が強調される点においては年齢という縦の関係以上に横の関係が強調されると云っても良いのではないでしょうか。そのような部下達の期待に対して、ローレンスは軍隊的な縦の関係ばかりを強調し作戦の成功の為には部下を見捨てることすらやむ無しと考えているので、仲間同士の連帯感が固い部下達の反感を買っているわけです。すなわち、この作品の前提として、規律を重んじ軍隊ひいていはそれを代表する自国という全体の利益を優先させる上官ローレンスと、個人間の仲間意識を最優先事項と考える部下達との間に横たわる容易には越え難い齟齬が強調されていることになります。しかし、面白いことにこの作品では、司令官のローレンス自身が実は自分自身に対して大きな疑いを抱いていて、前任の上官であったキャシディのやり方の方が正しいのではないかと悩んでいるのですね。あるシーンでは、「自分一人が間違っていて、部下全員の方が正しいのではないか」と艦長に打ち明けたりもします。このような葛藤に常にローレンスは悩まされていますが、日本軍の潜水艦基地爆破という危険な任務の遂行中に日本兵に逆襲され重傷を負ったところを部下達に救われてから、一種の啓示に目覚めることになります。共に負傷したローレンスとパピーが医務室で上下関係の区別なく仲良く横になっているところへフラニガンが入ってきて、くだんの戦死した上官の奥さんにかたみの品として渡すための似顔絵にローレンスがサインするラストシーンには、まさに縦の関係を重要視し全体の利益を最優先していたローレンスが横の関係の重要性に気付き、自分自身でそのような関係の中に参加することの決意の現われが表現されているとも見ることができます。アメリカの戦争映画にはかくしてこのような横の関係を表す仲間意識を描いた作品が多いように思われ、1つの典型例をこの作品に見出すことができます。

 ところで、星の数ほどあるアメリカ産戦争映画の中から「フロッグメン」のようなマイナーな映画をわざわざここで取り上げたのは、1つには、前述の通り縦の関係が基本に設定されながらそれが徐々に横の関係へと解消される様子が典型的に表現されているという理由がありますが、その他に「カリガリからヒトラーへ」で知られドイツ表現主義をメインとした映画クリティックとしても知られるジークフリート・クラカウアーが書いた「Theory of Film」の中でどういうわけかこのメジャーとはとても言えないアメリカ映画が取り上げられているのを読んだこともあります。クラカウアーは、彼が名付ける「Suspense-laden silence」という手法が適用された格好の例としてこの作品を取り上げています。「Suspense-laden silence」とは、緊張感が盛り上がったシーンでそれまでバックグラウンドに流されていた音楽を急に停止させ、静寂を強調させることにより一層のサスペンス感を盛り上げる手法のことを云います。クラカウアーは、サーカスの空中ブランコなどで決定的なウルトラCが披露される直前に伴奏音楽を突然停止させ手に汗握る緊張感を更に高める演出を1つの例として挙げています。「フロッグメン」では、特殊工作部隊が水中で危険な作業を行うシーンでは、バックグラウンド音楽が全く停止され、それによって大きな緊張感とリアリティが得られているとクラカウアーは述べています。少し長くなりますが、彼の見解を以下に紹介しましょう。

◎第二次世界大戦中の米海軍水中破壊工作班の活躍を描いたセミドキュメンタリー「フロッグメン」を(Suspense-laden silenceが適用された好例として)取り上げてみよう。この作品は、破壊工作班の水中破壊工作を描くいくつかのエピソードでクライマックスを迎えるがそれらのシーンでは音楽の伴奏を全く伴わない点が際立っている。しかしながら、これらの海陸両用工作員達をすっぽりと包む沈黙によって、彼らが虚空の中を漂う亡霊でもあるかのごとく見えるようになるわけではない。それどころか、そのような沈黙は観客のリアリティに関する信頼及び水中で展開される破壊工作班の活動に対する観客の関心を増大させるのである。
(Take The Frogmen, a semi-documentary about one of the U.S. Navy's underwater demolition teams during World War II: the film culminates in several episodes depicting the team's amazing submarine exploits-episodes conspicuous for their lack of musical accompaniment. Yet the silence which envelops these human amphibians does not transform them into apparitions floating through a void; on the contrary, it increases the spectator's confidence in their reality, his concern for their underwater evolutions.)


確かにこの作品は、アクションシーンではバックグラウンド音楽が流されず、それによってサスペンスが巧みに盛り上げられているのは確かなところで、しかもボンドシリーズのド派手な水中戦などに比べれば遥かにリアルであるような印象を受けます。但し、このような意図して音楽を用いないことによりサスペンスを盛り上げる手法は、よく知られたヒチコックの「」(1963)の例を持ち出すまでもなく、殊に1970年代を過ぎるあたりから頻繁に見られるようになるので、現在から見ればわざわざ指摘するほどのことではないかもしれません。とはいえ、1950年代前半においては極めて斬新な効果があったからこそ、クラカウアーのような御仁がしかも自国の映画の範疇を越えてまでこの作品に言及しているのでしょう。

 では、何故そのような効果が得られるかについて疑問になるところですが、それについて彼は以下のように述べています。

◎そのようなイメージが及ぼす魅惑をどう説明すればよいのだろうか。それらが観客に及ぼす魅惑は、そのようなイメージによって描写される息を呑むような冒険シーンに何らかの関連があるであろうことは否めないとしても、もし沈黙に至る以前のシーンにおいては音楽が伴われていたという事実がなければ、魅了するよりは不安にさせる結果に終わっていたことも確かだろう。そのようなイメージをかくも全面的に我々観客が受け入れる要因は、音楽は我々の感覚器官を共感的なエネルギーで充たすという事実に帰されねばならないだろう。たとえクライマックスに到達する以前の段階で音楽が取り除かれたとしても、それによってもたらされた残照が、音楽があった場合よりもより効果的に音のないクライマックスを照射するのである。
(How can one explain the fascination such images exerts? Even granted that the spell they cast over us owes something to rhe breathtaking adventures they picture, we would nevertheless find them disquieting rather than inspiring were it not for the music prior to lull. That we accept them so unreservedly must be laid to the fact that the music has loaded our sensorium with sympathetic energies. Even though it withdraws before the decisive moment is reached, still its afterglow illuminates the silent climax more effectively than would its continued presence.)


つまり彼は、継続して存在していたものがなくなることによる効果の方が、それが継続することにより得られる効果よりも遥かに大きい場合があるということを述べています。更にそれは何故かと問いたくなるところですが、まあその回答は心理学等の専門的知識がなければ得られないものと思われ、クラカウアーもそこまでは述べていません。いずれにしても、一見すると大いなる矛盾であるように思われたとしても、実際には経験的にそのようなことが日常生活でも頻繁に発生することは誰しも知っているのではないでしょうか。まったく最初から存在しないことと、それまで存在したものが存在しなくなることとの間には、時間性が不可避的に関わらざるを得ない人間の有する心理面においては大きな懸隔があることは云うまでもないところであり、そうでなければ対話的な弁証法過程など成立し得ないことにすらなります。たとえば私めの個人的な経験で云えば、同志社大学の学生であった頃京都の西陣地区に住んでいた頃の1つの体験を思い出します。住んでいた下宿の両隣が西陣織りの織物屋であり一日中機織の音が途切れることなく鳴り響いていましたが、それに慣れてしまうと今度は夕方になって機織の音がパタッと鳴り止む瞬間にハタとそれまで機織機が鳴り続けていたことに気付くようになりました。すなわちある有意味な1つの状況が日常的な経験の中に埋没してしまうと、逆にその否定の方に有徴項が移ってしまう場合があることがこの経験によって示されていることになります。私めの個人的なエピソードは多少例が悪いかもしれませんが、文学などにおいても、かつて存在していたものが今では存在しないことの表現が醸しだす効果が有効に利用されているケースが多く見られ、私めが大嫌いであった古文の時間に、憎き古文の先生がしきりに「もののあはれ」を強調していたのもそのような効果に言及していたものと考えることができるのではないでしょうか。またミッチャーリヒの「喪われた悲哀」(河出書房新社)であったか、喪の悲哀の喪失によりもたらされるトラウマについて書かれていましたが、何故喪に服する期間が必要であるかというと、それまであったもの(人)がなくなるという本来ネガティブであったはずの状態が強烈な意味を帯びて立ち現れてくる心理面における一種のゲシュタルト反転の衝撃を緩和する必要があるからであり、それができないとゲシュタルト反転のショックが大きなトラウマを生み出すからです。例がどんどんあらぬ方向に脱線してきたのでもう一度音楽に話を戻すと、音楽においては音が鳴り止む休止及びそのタイミングが重要であることは良く云われるところです。但し、原理的にはその通りだとしても、クラカウアーが「フロッグメン」をそのような効果が適用された格好の例として挙げているのはやや牽強付会であるような印象もあります。何故かと云うと、この作品はタイトルバックでいかにも戦争映画らしい勇壮な音楽が流れるとはいえ、全体的にはクライマックスシーンであろうが通常のシーンであろうがバックグラウンド音楽はもともとそれ程多くは流されていないからです(それとも私めの持っているDVDバージョンは、音楽が勝手に編集し直されているのでしょうか?TV放映ならばそういうことはあっても、DVDではそれはないと思っていますが)。従って、クライマックスで一種の残響効果が得られそれによって緊張感やリアリティがいや増しになっているという論理の展開には、やや無理があるように思われます。個人的にはそのような実際に響き渡る音響の停止による物理的効果のみではなく、見る側の心理的な構えすなわち劇的なシーンでは劇的な音楽が鳴らされるであろうという見る側の日常化された期待に対して、実際にはそれが差し止められ期待が成就されないことによる効果もあるのではないかと考えています。前述したように、心理的な次元においては有意味な状況が日常性に埋没すると逆にその否定が意味を持って立ち現れることがあるからです。いずれにせよ、提示のされ方が稚拙であると、クラカウアーの表現を借りれば虚空を漂う亡霊にも見えかねないような水中アクションシーンを、それにも関わらず緊張感溢れるドラマとして観客の眼前に現前せしめるのは、それを見る側の何らかの受容様式にも大いに関わるのではないかということは、ヴォルフガング・イーザーやハンス・ロベルト・ヤウス等の文学における受容理論の存在などを考えてみても、それ程強引な見解であるわけでもないように思われます。
ということで最後に、この作品にはジェフリー・ハンターの他にもロバート・ワグナー、ジャック・ウォーデン、ハーベイ・レンベックなどの若手の俳優が多く出演していることを付け加えておきましょう。その意味では、主演のリチャード・ウイドマークですらデビューしてから5年も経ってはいませんでした。また太平洋上が舞台の戦争映画なので、女優さんは一人も登場しませんので悪しからず。

2007/10/28 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp