必死の逃亡者 ★★☆
(The Desperate Hours)

1955 US
監督:ウイリアム・ワイラー
出演:ハンフリー・ボガート、フレドリック・マーチ、アーサー・ケネディ、ギグ・ヤング

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<一口プロット解説>
郊外の住宅地に住む中流階級の家庭に、突如刑務所から脱走した脱獄囚が侵入してくる。
<入間洋のコメント>
 かのウイリアム・ワイラーさんが監督し、かのボギーさんと名優フレドリック・マーチさんのやや異色とも思われる組み合わせによる意地と意地の激突が拝めるということで、それだけでも見る価値があるというものでしょうね。しかし、それなりにポピュラーな作品であることもあり、そのような面に関しては書籍等でいくらでも読めることと思われますので、ここで敢えてそれを繰り返すことは避けることにします。それでは何について述べるかというと、この映画の舞台となっているアメリカの大都市(この作品の場合はインディアナポリスです)の周囲に拡がる郊外住宅地(suburb)とはいったいどのような場所なのかについてです。というと???と思われること必定ですが、表面的にはどうであれ、まさにこの作品には、アメリカにおける「大都市郊外」に付随する社会問題についての暗示的な言及が核心部に含まれていると考えられます。つまり、都市の空洞化、脱中心化(decentralization)換言するとスプロール現象に付随する社会問題、すなわち郊外住宅地の同質的或いは排他的な中流階級化の問題が、この作品の背後には潜んでいます。また、更にその根底には、アメリカ社会を扱うにはどうしても避けて通ることのできない人種の問題が横たわっていることにも気付くことができるでしょう。アメリカの郊外住宅地とは、その発達のプロセスにおいて、白人中流階級に属する人々で占められる均質的な社会、ということは極めて偏った社会と化した経緯がありますが、そのような均質的な社会の安寧を維持する為に彼らが最も恐れていたのは、他階級や他人種に属する人々の侵入だったのであり、そもそもそのような人々から逃れる為に都心部から郊外へ脱出したのが彼ら或いは彼らの親の世代の人々だったのですね。まさに「必死の逃亡者」で人質にとられてしまう家族が、フレドリック・マーチ演ずる家長を中心とし、親二人子二人によって構成される典型的な白人中流階級の核家族なのです。また、この平和な白人中流階級の家庭に外部から強引に侵入してくるのがハンフリー・ボガート演ずるボスのグリフィンに率いられた3人の脱獄囚達であり、すなわち彼らは白人中流階級に属する人々が最も恐れているたぐいの人々なのですね。それは単に、凶悪だからというのみではなく、そもそも彼らが有する価値観からして自分達とはまるで異なっているからでもあります。また後述するように、白人中流階級の人々は脱獄囚達が属する下層階級貧民層を犠牲にしてうまい汁を吸ってきたような側面もあり、従ってある種の負い目があるが為に、余計に彼らを近付けたくはないということもあるかもしれません。普通の見方をすれば、平和な郊外住宅地の一家庭に悪漢どもが闖入して乱暴狼藉を働きまくる様子がこの作品では描かれているというようなところになりますが、しかし忘れてはならないことは、そもそもアメリカ社会において平和な郊外住宅地に住む平和な家族とはいったい何を意味したのか、或いはどのように成立したのかという社会的背景を把握することであり、この点を抑えない限りこの映画の持つ本質的な意味合いは汲み取れないとすら言い切ってもさ程大袈裟ではないかもしれません。そこで、そのような背景について、もう少し詳しく考えてみることにしましょう。

 都市問題としてのスプロール現象と云えば、勿論アメリカの専売特許ではなく、私めが中学生の頃の日本ですら、日本の大都市のスプロール化現象が大いに問題にされていたことを覚えています。東京のど真ん中の千代田区などで、生徒数が足りなくなり小中学校が廃校の危機に瀕しているなどという話は、珍しいことではありませんでしたし、今でも珍しくはないことでしょう。しかし、アメリカの都市の空洞化は、日本を含めた他のどんな国よりも徹底化されていたのですね。都市のスラム化などという徹底的な都心の荒廃は、日本では考えられない程のレベルにまで達していたといえるかもしれません。勿論、都市論の専門家などではない私めが、威張ってこんなことを述べるにはネタ本があります。アメリカの都市論の論客として日本でも一般に知られているところではルイス・マンフォードあたりがまず挙げられるべきなのでしょうが、ここではケネス・T・ジャクソンという執筆当時コロンビア大学の教授であった歴史学者の書いた「Crabgrass Frontier」(Oxford University Press)という本が、アメリカの郊外化の歴史に関してなかなか簡潔に纏められているのでそれを参照することにします(但し、1980年代の前半に出版された本なので、ゲートコミュニティなどのそれ以後に起きた郊外化現象に関する記述はありませんが、これは致仕方のないところでしょう)。この本によれば、アメリカ都市部におけるスプロール現象は、実は既に日本で云えば江戸末期にあたる19世紀の前半から始まっていたそうです。とはいえども、そのような傾向が本格化するのは1930年代の大恐慌時代あたりからのようです。というのも、スプロール化が決定的な規模になってしまった大きな原因の1つとして、マイホームを持つことを奨励する為に行われた行政による資金バックアップ施策がバックファイアしてしまったという点が挙げられ、そのきっかけとなったFHA(Federal Housing Administration)などの住宅援助を目的とした公共機関が設立されたのも大恐慌時代(1934)以後のことだからです。因みにFHAなどの当時のアメリカの住宅援助を目的とした公共機関は、家を自から建てて安価に供給したり或いは住宅購入者に対して直接資金を貸与したりしたというわけではなく、住宅購入者に資金を貸与する民間の融資機関に対して保障を行う(たとえば債務者の債務不履行(a default on mortgage)が発生した場合の損害保障(indemnity)などです)という形態をとっていたそうです。では、何故それがバックファイアしたのでしょうか。それは、こういうことです。FHAは保障対象とすべき物件を決定する為に、一種のブラックリストを作成していたそうです。このブラックリストは、都市や都市近郊の各地区に対して地区別にA、B、C、D評価を行って順位付けた閻魔帳のようなものであり、それに基いて評価の高い地区に含まれる物件への保障を優先させたのですね。要するに一種の信用調査が地区別に行われたようなものです。A、B、C、Dを決定する為の主な評価基準は、以下のようなものだったそうです。

1.相対的な経済の安定性(Relative economic stability):40パーセント・・・すなわち経済問題
2.悪影響からの保護(Protection from adverce influences):20パーセント・・・すなわち環境問題

ということはすなわち、もともと既にスラム化がある程度進行し、経済的にも環境的にも悪化していた地区(これは主に都心部ということになります)に対しては公共的な援助が得られにくいといことを意味します。勿論、前述したように、公共的な援助とは、住宅購買者への直接の援助ではなく融資者に対する保障という形態をとりますが、いずれにせよ融資者としても公共的な保障が得られる物件に融資しがちになるのは火を見るよりも明らかでしょう。要するに、公的援助が必要であるような地区になればなる程、それが受けられないという大きな矛盾がそこにはあったことになります。環境が悪化した都心部を逃げ出して、しかも保障が得られる郊外に引っ越す人々は後を絶たなくとも、その逆の流れはほとんどなくなってしまうことになります。その結果、全く返すあてのない資金を借りることなどできない貧民層に属する人々ばかりが市街地に残ってしまいます。要するに、このようなブラックリストによる土地評価に住宅資金融資が左右されてしまうと、まさにその評価通りの現実が倍になって返ってくる結果になります。何故ならば、ひとたびブラックリストが何らかの理由で公になってしまえば(リストそのものが公にならなかったとしても、どの地区がどのように評価されているかなど実践上すぐに分かってしまうでしょうね)、評価の低い地区の物件に融資したり、そこへわざわざ住もうとする人などいなくなってしまうからです。こうして、ある程度の経済力を持つ中流階級の人々は、こぞって都心部から環境の良い郊外へと脱出する結果となり、そうなればますます都心部は経済状況、環境状態が悪化するという全くの悪循環に陥る次第です。かくして、それまでは貴族的とでも云えるような真の金持ち階級が主に住んでいた都市郊外に、中流階級に属する人々が大挙して押し寄せるところとなり、逆に言えば、中流階級を自称するのであれば郊外に家を構えて、車や電車で都心に通勤するのが当然であるという一般的な認識が生まれることになります。或る都市分析家が、「Credit blacklisting maps are accurate prophecies because they are self-fulfilling prophecies(信用調査のブラックリストマップは、正確な予言である。なぜならば、それは、自己充足的な予言だからである)」と述べているのは、まさに言い得て妙でしょう。一言で云えば、意図的ではなかったとしても、行政施策がスプロール現象を決定的にそして不可逆的に加速化させてしまったということです。ここで、この件に関して、前述したケネス・T・ジャクソンの著書「Crabgrass Frontier」から引用してみましょう。

◎ワシントン(米政府)のプログラムは、あらゆる収入階層に対して社会的便宜を図ろうとする要請に一貫して動機付けられていたと、どれほど政府の官僚達が主張しようが、住宅に対する政策は、都市中心部への貧民層の集中と、裕福な階層の郊外への分散へと基本的に向けられてきた。
(However much government officials argue that Washington programs have been consistently motivated by the desire to produce social benefit for all income groups, the basic direction of federal policies toward housing has been the concentration of the poor in the central city and the dispersal of the affluent to the suburbs.)
◎アメリカの住宅政策は、社会的な目標が欠けていたのみではなく、社会的な不公平の基盤を確立する手助けとなりさえした。アンクル・サム(米政府)は、公平どころではなく、都市部の一般的な不利益と郊外の一般的な繁栄に貢献した。
(American housing policy was not only devoid of social objectives, but instead helped establish the basis for social inequities. Uncle Sam was not impartial, but instead contributed to the general disbenefit of the cities and to the general prosperity of the sunurbs.)


ここで云う、都市部の不利益とはもともと貧しかった人々が更に不利益を被ったということであり、郊外の繁栄とはまさに白人中流階級の繁栄とほぼニアイコールであると見なすことができるでしょう。要するに、郊外に住むようになった白人中流階級の人々は、彼らが直接手を下したわけではないとしても、ある意味で都心に住む貧民層の更なる犠牲の上に繁栄を享受し得たとも見なせるわけです。従って、貧民層が失うものは命以外にはほとんど何もなくなってしまったのに対し、白人中流階級の人々は失いたくないものを今やたくさん抱え込み(折角手に入れたこの安泰で裕福な暮らしというわけですね)、それを危殆に陥れる可能性のあるものは何でも排除しようとする狭い範囲の均質的な文化を発達させる結果となります。それが行き着くところまで行き着くと1980年代のゲートコミュニティの登場になるのでしょうが、時代がかなり先の話になるのでここではそれについては述べません。

 かくして誕生したのが、「必死の逃亡者」の舞台となる都市郊外の住宅地なのであり、フレドリック・マーチ演ずる家長を中心とするヒリアード一家は、そのような白人中流階級に属する家族だということになります。また、彼らの抱くモラル観はまさに中流階級のものであり、そのようなモラルを共有しない人々は排除の対象にされます。勿論、「必死の逃亡者」の闖入者は、刑務所を抜け出した悪漢どもであり、その意味においてはどんな階級であろうが排除の対象とされることは云うまでもありません。しかし、この作品はまさに中流階級の抱いている悪夢、すなわち自分達とは異なる階級との混淆、もっと正確に云えば自分達よりも劣る階級との混淆に対する嫌悪感が、裏返しになって描かれているとも見なすことができるように思われます。要するに、この作品に描かれているのは、中流階級の悪夢なのであり、悪夢が悪夢として成立するのは主人公達の置かれた社会状況とは無縁ではないということです。この映画が公開された折、この作品を見たオーディエンスのかなりの部分は、まさにヒリアード一家同様、中流階級に属する人々だったと考えられ、そのような人々がこの作品を見て受けたインパクトは、現代の日本人が見るよりも必ずや強烈なものがあったのではないかと推測できます。まあ、映画館で自分達が普段恐れている悪夢を見せられるようなものだということです(とはいえ、最後に述べるように、この映画にはマイナス効果しか見出せないということを必ずしも主張したいわけではありません)。勿論、そのような背景は考慮せずとも、現代的に云えばストーカーに襲われる哀れな一家のストーリーとして見てもなかなかよく出来た作品ですが、そのような社会的背景を考慮すればもっともっと深い意味を汲み取ることができるのではないかと考えられます。

 ここまでは行政施策のバックファイアという側面に焦点を当てましたが、アメリカで過度なスプロール現象が起きた他の大きな要因として、日本ではほとんど考えられないもう1つの要因がそれに加わります。そうです、人種問題です。これについても、ケネス・T・ジャクソンの「Crabgrass Frontier」から直接引用することにしましょう。

◎第一次世界大戦の間、南部からの黒人の大量移民が盛んになった後、そして殊に、1954年に最高裁が、学校における(人種間の)隔離は合衆国憲法違反であるという裁定が下った後は、「子供達のため」と称し、殊により限定され均質的な郊外の学校システムの教育的社会的な優位性を求めて何百万単位の家族が市街地を脱出した。
(After mass migration of blacks from the South gained momentum during World War I, and especially after the Supreme Court decision in 1954 that school segragation was unconstitutional, millions of families moved out of the city "for the kids" and especially for the educational and social superiority of smaller and more homogeneous suburban school systems.)


ここには書かれていませんが、勿論都市を脱出したのは専ら白人の中流階級であり、その根には白人と白人以外の人種との混淆に対する白人の恐怖感が潜んでいると考えることができます。「必死の逃亡者」の場合には悪漢が3人とも白人であり、また黒人やマイノリティに属すると思しき人物は一人も登場しないので、人種問題に関しては表面上は全く示唆されていないように見えますが、むしろ脱走犯が3人とも白人であるという事実は、人種問題に焦点が少しでも及ぶことをわざと避けた結果なのではないかとすら思えてしまいます。かえって、「必死の逃亡者」の3人の脱走犯の侵入は、白人とは異なる人種による白人中流階級社会への侵入のメタファーとして捉えられるようにも思えてしまうのですね。

 これまでの説明で、都市の空洞化スラム化及びそれに呼応する都市郊外の際限のない発達は、アメリカ政府の住宅政策のバックファイアや人種問題によって、大恐慌時代以後拍車がかかったたことが理解できたと思いますが、それではアメリカ映画における郊外住宅地の扱いの変遷はどのような経過を辿ったかについては、現実面と完全にパラレルであったとは言い切れないところがあります。というのも、ある事象が映画として取り上げられるべき対象と見なされ得るか否かは、現実世界が如何であるかという点と必ずしも一致しないし、また一致すべき理由もないからです。あちこちのレビューで書いていることですが、郊外が郊外としてアメリカ映画の中のメインの舞台として設定されるようになるのは1960年代に入ってから、或いはギリギリ1950年代末であるように個人的には考えています。1940年代や1950年代の前半は、専らバリバリの都市部が舞台となるフィルムノワールのようなジャンルが全盛を誇っていたことを考えてみれば分かるように、それまでは、そもそも平々凡々とした中流階級が住む郊外などを舞台としたところでドラマティックで見栄えのする映画など製作できないと考えられていたのかもしれません。それよりは、暗黒の闇にうごめく貧民街の犯罪をドラマ化した方が余程絵になると云えるのではないでしょうか。しかしながら、映画に対するオーディエンスの見方も徐々に変わってきて、平々凡々とした中流階級の人々が住む郊外が舞台であっても絵になるような時代がきます。それが1960年代であり、1950年代は移行期であると見なすことができます。「スリルのすべて」(1963)のレビューでも書いたように、オーディエンスの親近感を誘う俳優が増えてくるのも1950年代、1960年代であり、そのこともそのような時代傾向の変遷とパラレルな現象であると見なすことができるでしょう。勿論、1950年代の作品でも郊外を舞台とした作品はいくつかあります。捜せば他にもいくつもあるのでしょうが、今までレビューした作品の中では、この「必死の逃亡者」の他には、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」(1956)(「必死の逃亡者」と比べると典型的な郊外住宅地が舞台であるとは言い切れないところもややありますが)を挙げることができるでしょう。そうしてみると、面白いことに気付きます。それは、脱獄囚であるか宇宙人であるかの違いはあるとしても、どちらも閑静な郊外の住宅地によそ者が侵入してくるというストーリーが展開されていることです。つまり、どちらの作品も、白人中流階級の心の奥底に潜む、自分達の社会への侵入者に対する恐怖感が表現されているように見なせるということです。「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の場合には、町中の人々が宇宙人に乗っ取られて没個性な存在と化してしまいますが、ここでハタと気付くことは、そもそも郊外に住む人々とは宇宙人に乗っ取られる前から或る面では極めて均質的な人々であったのではないかということです。つまり、宇宙人に乗っ取られることは、皮肉にも究極の郊外化の完成を意味するのではないかということです。勿論、ドン・シーゲルがこの作品で郊外化批判を繰り広げたとまで言ってしまえば、それは明らかに言い過ぎというものでしょうが、現在の時点から振り返ってそのようなパースペクティブを適用することは、また一興であるかもしれません。「必死の逃亡者」の場合は、侵入者達と一家が食うか食われるかの闘いになりますが、それを通じてフレドリック・マーチ演ずる父親を始めとする主要登場人物達の互いの互いに対する関係や見方が徐々に変化していく様子が描かれている点などには、明らかに馴れ合い的な均質社会の幻想からの目覚めというプラスのテーマが読み取れるのであり、それは皮肉にも脱獄囚の侵入というマイナスのイベントによって達成されるのです。

 ここで1つ付け加えておくと、都心のスラム化、郊外化をもたらすスプロール現象の悪影響は、これまで述べてきたような社会的側面ばかりではなく、物理的な側面にも及び、たとえば前述したルイス・マンフォードなどは、「The City in History」(Harcourt、邦訳「歴史の都市明日の都市」(新潮社:現在古書のみ))という1960年代の初頭に出版され全米図書賞に輝いた著書の中で、無制限な郊外の発達にともなう無秩序な自動車道や駐車場の発達を、あたかもがん細胞の増殖であるかのように見なしています。確かにマンフォードは現代文明に対してあまりにも悲観的な態度を取りすぎるきらいがあり、マンフォードの「The City in History」以後の都市論の重要著作と言われる大著「Cities in Civilization」(Phoenix Giant)をものしたピーター・ホールなどは、同書の中でマンフォードの考え方に否定的な見解を述べていたりもします。しかし、やはり郊外化のキータームの1つとして「マイホーム」と対をなす「マイカー」がクローズアップされねばならないのは言うを待たないところでしょう。「必死の逃亡者」でも「マイカー」が重要なポイントを占めているのを見逃すべきではないでしょう。「マイカー」ではありませんが、グリフィン達が郊外住宅地に侵入するのも車であれば、フレドリック・マーチ演ずるオヤジが通勤するのも「マイカー」によってです。娘の恋人(ギグ・ヤング)が乗り回しているのも「マイカー」であれば、グリフィンの弟が逃亡するのも「マイカー」をカージャックすることによってです。また、この作品ではヒリアード一家のガレージが1つのポイントとなっていることも指摘しておくべきでしょう。すなわち、明らかに「マイカー」がなければ成立しないのが郊外住宅地の生活なのですね。そのような点を含め、都市+郊外の問題は、アメリカを筆頭とする現代社会において極めて大きな問題と化しており、それが加速度的に問題化され始めた1950年代の中盤にまさにその郊外の住宅地を舞台とした「必死の逃亡者」(及び「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」)が登場したのは、単なる偶然ではないようにも思われます。

 ところで、「必死の逃亡者」について、ここまでとは全く異なった見方を適用して、その特徴を指摘することも可能です。前々段で、「平々凡々とした中流階級の人々が住む郊外が舞台であっても絵になるような時代がきます」というような言い方をさりげなくしましたが、実はこれは極めて重要なことなのですね。というのも、この作品でヒリアード一家が、脱獄囚の人質になるべき積極的な理由など何もないからです。つまり、人質になるのは右隣のアダムズ一家でも左隣のスミス一家でも等しく良かったということであり、ここには大きな因果連鎖の省略を見出すことができるのです。たとえば、「恐怖の岬」(1962)でグレゴリー・ペック一家が、ロバート・ミッチャムに執拗に付き纏われるのは、前者が後者をかつてブタ箱に放り込んだのを後者が逆恨みしているからです。それに対して、「必死の逃亡者」のグリフィンは、これまでヒリアード一家のメンバーの誰一人として出会ったことすらないのです。つまり、ここには決定的な偶然性があるのですね。グリフィン達は一種のストーカーなんだから、そんなことは当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、現実とフィクションの世界は違うということが忘れられてはなりません。分かりやすいように、極端な例を挙げましょう。ギリシア悲劇には、神様の気まぐれで突然悲劇がある人物を襲い、悲劇を見舞われた人間側からすればそれは全くの偶然の運命としか見えないというようなストーリーの基本パターンがあります。しかし、たとえ主人公から見れば悲劇が偶然であったとしても、ギリシア悲劇という1つのフィクションの中で悲劇は誰を襲っても良いということにはならないのですね。オイディプスは王様なのであり、兄貴であるポリュネイケスの埋葬をした為に捕らえられ自死に至らしめられるアンティゴネはそのオイディプスの娘であるというように、ギリシア悲劇の中では、町の魚屋のたれ兵衛が悲劇に見舞われたなどという展開には絶対になりません。それは、シェークスピア劇とて同じことでしょう。何故ならば、悲劇は確かに悲劇を被る主人公から見れば偶然かもしれませんが、フィクションとしての構図の中ではそこには必ず何らかの因果関係が張られるべきであると見なされているからなのです。そうでなければ、町の魚屋のたれ兵衛が悲劇に見舞われても一向に差し支えないことになってしまいます。そうではなく、まさにテーバイの王であるオイディプスであるからこそ悲劇が見舞うのです。またそのようなオイディプスの血をひくアンティゴネだからこそ、彼女を悲劇が見舞うのです。ここで誤解のないよう付け加えておくと、それならばアイスキュロスさんや、ソフォクレスさんや、エウリピデスさん達は、町の魚屋のたれ兵衛には悲劇など絶対見舞うはずはないと考えていたということかというと、そんなはずはないでしょう。何せ、現代よりも科学や医術が発達していたとはとてもいえない古代ギリシアのことゆえ、町の魚屋のたれ兵衛のような一般人が悲劇に見舞われて死ぬ光景はいやという程見ていたはずです。ここでのポイントは、それにも関わらず町の魚屋のたれ兵衛がギリシア悲劇の主人公になったりはしなかったということであり、その逆に「必死の逃亡者」では町の魚屋のたれ兵衛に相当するヒリアード一家に偶然の悪運が降りかかったということなのです。当然、演劇の世界においても、20世紀に入ると不条理劇のようなジャンルが登場して町の魚屋のたれ兵衛が悲劇の主人公になっても全くおかしくない状況になります。つらつらと考えて見れば、偶然に支配される現実こそ不条理に支配された世界なのであり、不条理の不条理たるゆえんは、まさに現実には存在しない因果連鎖に支配された伝統的な様式、及びそのような様式に従って芸術作品を製作したり鑑賞したりする人々にとって不条理であるという点に存在するのですね。演劇には何千年の歴史があるにも関わらず20世紀を待ってようやく因果連鎖に縛られない作品が出現したくらいなので、たかだか100年程度の歴史しか持たない映画の世界の中で、因果連鎖に縛られない作品が登場するのに多少時間がかかるのは当然のことなのです。そうして考えてみると、1960年代の作品であるとはいえ、フィルム・ノワールの残り香的な側面を半分残している「恐怖の岬」(これについてはそちらのレビューを参照して下さい)は、因果連鎖にいまだ固執しているという意味でも1950年代の半ばに製作された「必死の逃亡者」よりも古風な面を持っているということに気付くことができます。ここまで説明して、ハタと気がつくことがあります。それは、「或る殺人」(1959)で論じたスティーブン・カーンが提唱する「特殊性(specificity)」->「多様性(multiplicity)」->「複雑性(complexity)」->「蓋然性(probability)」->「不確定性(uncertainty)」という因果系列の発展/解消段階図式です。詳細は「或る殺人」のレビューを参照して頂くものとして、ストーリーの展開過程における因果律の呪縛が解けるには、最低でも上記図式の「蓋然性(probability)」に到達せねばならないことにここでは留意して下さい。また、映画というメディアにおいてこの段階まで達するのが1950年代の後半であったということは、そちらのレビューで述べました。そのように考えてみると、「必死の逃亡者」の持つ偶然性の扱いは、やや大袈裟に云えば1950年代の半ばに製作されたこの作品が既にその段階にまで達していたことを示すものであり、その点では実に新しい作品であるということになります。現在では何の理由もなく人を殺しまくるストーカーが登場する映画は山ほどあるので、それのどこが新しいのかということになってしまいますが、つらつら考えてみると「必死の逃亡者」以前の作品の中でストーカーを扱った映画などほとんどないように思われるのは(といいつつもあまり自信がない私めでありました)、まさにそのような因果連鎖に関する制約が機能していたからだと考えられるのではないでしょうか。

 結論的に云えば、前段で述べた因果連鎖に関する議論はひとまず置いておいたとしても、これまで述べてきた通り「必死の逃亡者」が描く郊外社会の均質性とは、まさに社会的によって作り出された均質性なのであり、そのような均質性に依拠した平穏さなどは、殊に人種のるつぼであるアメリカではちょっとしたきっかけで崩れ去ることを示すことがこの作品の最大のテーマであるように考えられ、両スターの好演によってもその点がうまく表現されているように思われます。1980年代以後蔓延するゲートコミュニティなどを引き合いに出すまでもなく、郊外社会が典型的に示す排他的な同質性に関する問題は現在に至るまで解決されているとはとても言えないことを考えてみれば、「必死の逃亡者」は、因果連鎖うんぬんは別としても現在であっても極めてコンテンポラリーな価値を有する作品だと言えます。さすがは、ワイラーさんと言うべきでしょうか。ということで、最後に2、3どうでもよさそうなことを付け加えておきます。ハンフリー・ボガートとフレドリック・マーチのコンビは、タイプが全く違うので極めて新鮮なイメージがあります。その他にも、殊に現在の目で見ると、良いか悪いかは別として、おや?というキャストが目につきます。それは、悪漢を演ずることが多いアーサー・ケネディの警官役と、50年代後半はロマコメ的作品で独特な味を発揮することが多くなるギグ・ヤングの若き恋人役と、体型が体型なので以後コメディ系の作品への出演が目立つロバート・ミドルトンのほとんど白痴的な悪漢役(上掲画像中央でフレドリック・マーチに歯をむきながら笑いかけているのがミドルトンです)です。それから、テーマがテーマだけに仕方のない「コレクター」(1965)は仕方がないとしても、ワイラーさんは何で蝶の標本を飾りたがるのでしょうか(小さくて見にくいかもしれませんが、上掲画像右の壁の一番上にかかっているのがそうです)? きっと、あの中には私めの大嫌いな蛾が混ざっているかもしれないではないですか(一番下のやつが特に怪しい)。西欧人には神経というものが備わっていないのかどうか知りませんが、蝶と蛾の区別をつけないことがままあるようです。うげっ!ジェリー・ゴールドスミスの音楽が素晴らしい映画「パピヨン」(1973)でも有名なフランス語の「papillon」は蝶も蛾も意味するし、この前ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」のドイツ語オリジナル版「Die Unendliche Geshichte」を読んでいて、専ら蝶を意味すると思っていた「Schmetterling」がどうやら蛾の意味でも使用されているようなので辞書を引いてみるとどちらの意味もあり、奴らはホンマにどんな審美眼を持っているのかと訝ってしまいました。因みに私めの安物辞書では、英語の「butterfly」には蛾(moth)の意味はないようです。よかった、よかった。

2008/07/25 by Hiroshi Iruma
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