恐怖の岬 ★★☆
(Cape Fear)

1962 US
監督:J・リー・トンプソン
出演:グレゴリー・ペック、ロバート・ミッチャム、ポリー・バーゲン、マーティン・バルサム
左から:ロバート・ミッチャム、ジャック・クラシェン、マーティン・バルサム、グレゴリー・ペック

前回、イギリス出身のJ・リー・トンプソンが監督したいかにもノワールチックな70年代の作品「セント・アイブス」(1976)を取り上げましたが、今回はその彼がアメリカに渡った頃に監督した「恐怖の岬」を取り上げてみましょう。勿論この作品はそれなりにポピュラーな作品でもあり、またマーティン・スコセッシによるリメイクもあるので(グレゴリー・ペック、ロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムといったオリジナルの主要メンバーが揃ってカメオで出演していました)、この時代の米英映画のファンであれば必ずやご存知の作品のはずであるように思われ、敢えて内容に関する説明の必要はないとは思いますが、一言で今風な言い方をするとストーカーを扱ったスリラー作品というようなところになるでしょう。ほとんど狂気的とも云える程に凶暴な犯罪者マックス・ケイディ(ロバート・ミッチャム)を、主人公の弁護士(グレゴリー・ペック)が刑務所に送ったところ、8年の服役後に出所した前者がそれを根に持ち、自分をそのような惨めな境遇に陥れた後者とその家族に付き纏って復讐しようとするという展開は、いかにも現実世界でもありそうなストーリーであり、それだけにリアルな怖さがあります。白黒撮影の犯罪もの映画ということで、ここ何作かのレビューにおいて話題として取り上げているフィルム・ノワールを思わせるものがありますが、私見ではこの作品はフィルム・ノワールの残り香的な側面と、それとは全く異なったヒチコックの「サイコ」(1960)が切り開いた新たな側面の両方を兼ね備えているように考えられます。まずフィルム・ノワールの残り香的な側面についてですが、それはそもそもこの作品が1960年代の作品であるにも関わらず白黒で撮影されていることに典型的に示されています。DVDの特典で監督のJ・リー・トンプソン自身が語っていますが、この作品は陰影を強調する為にわざと白黒で撮影されたそうです。トンプソンと云えば、すでに前作の「ナバロンの要塞」(1961)でカラーアクション大作を監督した実績があり、その事実のみから考えてみれば「恐怖の岬」もカラーで撮影されていても何の不思議もなかったはずですが、陰影がくっきりはっきり強調される白黒映像で提示される必要性があったことはこの作品を一度でも見れば明瞭になるはずです。陰影がくっきりはっきり強調されるという条件は、まさにフィルム・ノワールのビジュアルスタイルの大きな特徴であったことは周知の事柄であり、その意味においては「恐怖の岬」には決定的にノワール的な要素が孕まれていると見なせます。湿地帯でペックとミッチャムが死闘を繰り広げるラストのクライマックスシーンは夜間に撮影されていますが、このような戸外でのアクションシーンが夜間撮影されることが現代のカラーアクション映画では極めて少なく、それに対して白黒のノワール作品ではむしろ当たり前であったことは「セント・アイブス」のレビューの中で述べた通りです。かくしてビジュアルスタイルという面においては、かつて1940年代から1950年代にかけて流行したフィルム・ノワールと共通する要素を少なからず持っていますが、それでは内容面はという段になると、たとえ犯罪ものという点においては共通するとはいえども「恐怖の岬」はフィルム・ノワールとは大きく異なる要素の方が際立っていると云えるでしょう。まず、フィルム・ノワールではえてしてプロットが錯綜しがちになるのが普通であるのに対して、ストーカーが被害者を襲うという明瞭なプロットに終始する「恐怖の岬」では極めて単純明快なストーリーが語られ、それは仮に画面をミュートさせ会話を全く聴かずにこの作品を見たとしても、画面上で何が起こっているかは恐らく簡単に察しがつくのではないかと思われる程です。またプロットが単純であるということとも関係しますが、「恐怖の岬」では各登場人物の人物像や役割が極めて明瞭であり、この点に関しての韜晦や曖昧さは全くありません。つまり、正義と悪の区分がはっきりしていて、フィルムノワールに登場するたとえば動機の不明な私立探偵であるとか汚職警官であるとか或いは鼻の下を伸ばした助平男に淑女然とした装いをして近付き不運な男を奈落の底につき落としても眉一つ動かさないなどという骨の髄まで腐敗し切っているファム・ファタルなどというような外見と中身が全く一致しないモラル的に曖昧な人物は全く登場しません。加害者は加害者、被害者は被害者、警官は警官、私立探偵は私立探偵の役割をきちっと果たしており、間違っても加害者が被害者になったり、警官が加害者に加担したり、私立探偵が犯人に買収されたりすることはありません。更に、この作品で悪の犠牲者になるのは、父(グレゴリー・ペック)=母(ポリー・バーゲン)=娘(ロリ・マーティン)で構成される一家族ですが、私めの見た範囲ではフィルム・ノワールというジャンルにおいては家族という単位が何らかの描写対象として重要性を持つことはまずありません。しかも、ロバート・ミッチャム演ずるストーカーのマックス・ケイディは、どうやら復讐のターゲットをまだ幼い娘のナンシーに向けようとしますが、これは明らかにノワール美学の範疇に入るとは思えないところであり、反則とすら見なせるかもしれません。というのも、フィルム・ノワールというジャンルが対象としてきた世界はガキンチョ抜きの大人の世界であったのであり、また夜の都会の闇にうごめく猥雑な空間が主要な舞台となっていて、そこに郊外的なコノテーションを持つハッピーで平凡な家族という単位が割り込む余地はほとんどなっかたのですね。その点では、まさしく郊外に住む平凡な家族の安寧を脅かすストーカーを扱った「恐怖の岬」は、ノワールを越えてポストノワールと称してもよい内容を有しているとも考えられるでしょう。ところで、この作品を改めてDVDで見直して思ったことは、ビジュアルな提示のされ方がいかにもヒチコック的だなということでしたが、案の定DVDに同時収録されている特典の中でトンプソン自身がヒチコックならどうするだろうかと常にヒチコックを意識しながらこの作品を監督したということを述べていました。まあ、ヒチコック御用達であったバーナード・ハーマンが音楽を担当しているので、いやでもヒチコックの作品が思い出されずにはいられませんが、その彼の作品の中においても殊に「サイコ」(1960)に類似した雰囲気がこの作品にはあります。勿論マザコンのノーマン・ベイツとマザコンとは正反対の極に位置するマックス・ケイディでは大きな違いがありますが、ノワール的なビジュアルスタイルの上で、内容的にはノワールという狭い範疇を越えたスリラーが展開されるという点においては極めて類似した側面があります。「サイコ」のレビューにおいて述べたように、「サイコ」という作品はフィルム・ノワールというジャンルに最後通牒を突きつけた作品であると考える評論家は、エディ・ミューラー氏を始めとしてあちらにはかなりいるようであり、その意味でも「恐怖の岬」は「サイコ」でノワールに対して突きつけられた最後通牒をもう一度改めて突きつけ直したような趣のある作品であったと個人的には考えています。要するにビジュアルスタイルとしてのノワールを維持したまま、その上部に構築された内容としてのノワール性をいわゆるひとつの脱構築したのが、「サイコ」によってであり、それに続いて「恐怖の岬」によってであったのではないかということです。さてこの作品の映画史的な位置付けはそうであるとして、それでは実際に内容的な面ではどうでしょうか。DVDの特典の中で主演のグレゴリー・ペックが述べているように、この作品でカギを握る人物はストーカーのマックス・ケイディであり、この人物の出来如何が作品全体の出来の如何を左右するとも云えますが、そのケイディを演ずるロバート・ミッチャムがピタリと役柄にフィットしています。これまで述べてきたように、「恐怖の岬」はノワール的な虚構としての悪の美学よりも、実際にこんな奴がいればコワイに違いない、又実際にいるに違いないと思わせるようなリアルな怖さがウリの作品であったと見なすことができます。ロバート・ミッチャムは、それまでノワール作品にも数多く出演しておりリアルさという面ではやや不利な点があることは間違いありませんが、しかしこの作品におけるミッチャムにはスタイルとしての悪の美学よりも、生々しいばかりのいやらしさがフツフツとたぎっているように見受けられます。DVD(国内版)に封入されていたパンフレットによれば、ミッチャムは撮影で現地入りするなり、以前そこで刑務所に入れられ、鎖で繋がれて囚人として肉体労働者をしていたことがあると言って地元の人々を驚かせたそうですが、それが本当であるとすれば(南部のジョージア州で16才の時逮捕され1週間程chain gangとして鎖に繋がれた経験があることはどうやら事実のようです)彼の体にはリアルな犯罪者の面影がどこかに宿っていてそれがこの映画によってフツフツと再燃したかのような印象を受けます。さすがに後半の沼地でのクライマックスではリアルさが失われてしまいますが、郊外の平和な町に住む平穏な家族に言い知れぬ恐怖をもたらすそれまでのシーンにおいては、実際に犯罪者が乗り移ったのではないかと思える程、彼のパフォーマンスにはリアルな怖さがあります。対する主演のグレゴリー・ペックもこの作品ではうまくフィットしています。あちこちのレビューで述べてきたように、グレゴリー・ペックという俳優さんは、ぶっきらぼうで朴訥な印象がある為(従って彼を大根役者であると見なす人達も少なからずいるわけです)、どのような映画にもそれなりにフィットするというタイプには分類されないという特徴を持っています。この作品では被害者を演じており、前述した「ナバロンの要塞」におけるようなヒーロー役とは全く逆の役割を演じていることになりますが、彼の朴訥さ不器用さがうまく活かされているように思われます。というのは、器用にストーカーの攻撃をかわして状況の変化に応じてうまく立ち回る能力を持っているという印象をオーディエンスに与えてしまっては、少なくともこの作品においてはスリラー要素が半減してしまうからです。たとえばペックと同じようにヒーローを演じたことがあるチャールトン・ヘストンやカーク・ダグラスがストーカーの被害者を演じていてはスリラー要素が忽ち吹き飛んでしまうことは火を見るよりも明らかでしょう。まただからと云って、無名の俳優を起用するわけにはいかないことも明瞭です。何故ならば、単なる弱いものイジメという印象をオーディエンスに与えてしまっては対するロバート・ミッチャム演ずるマックス・ケイディの持つ怖さやいやらしさもそれに応じて矮小化されてしまうことになるからです。その辺のサジ加減が難しいところですが、時にヒーローを演ずることはあっても、「鋭い」、「敏捷である」、「機転がきく」などというような印象を与えることのないペックは、この役にはピタリであったと云えます。ラストシーンでペックが取り押さえたミッチャムを殺さないのは当時のモラル的な背景から考えれば当然といえば当然かもしれませんが(リメイクではどうであったか忘れてしまいました)、ペックであるからこそさもありなんという印象を受けるのも確かです。カーク・ダグラスならばミッチャムの命はなかったでしょうね。そのようなわけで、ロバート・ミッチャム=加害者、グレゴリー・ペック=被害者という配役が実にうまく機能しているように思われます。ついでながら述べておくと、ペックの嫁さんを演じているポリー・バーゲンは、確かに悪くはありませんが、低い特徴的な声といい、いくつかのコメディに出演しているという後知恵的な印象があることといい(但し「The Caretakers」(1963)という日本劇場未公開作品では彼女自身が極めてリアルな精神病患者を演じていましたが)、個人的にはややストーカーの被害者には見ないような印象があります。警察官を演じているマーティン・バルサムは、「サイコ」の私立探偵の前例があるので、この作品でも被害者としての捨て駒の一人なのかなとも一瞬思えますが、そのようなことはありませんでした。この作品では私立探偵役としてテリー・サバラスが起用されていますが(うっ!毛がある)、これまた後知恵もあってか場違いな印象が避けられないところです。ということで、「サイコ」と並んでポストノワール的なイメージのあるこの「恐怖の岬」は、傑作であるとは言わないとしても、スリラー作品としては一級品であることは保証します。


2008/01/22 by Hiroshi Iruma
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