コレクター ★★☆
(The Collector)

1965 US
監督:ウイリアム・ワイラー
出演:テレンス・スタンプ、サマンサ・エッガー



<一口プロット解説>
しがない銀行員で蝶々コレクターのテレンス・スタンプは、美しい女子大生のサマンサ・エッガーをクロロホルムで眠らせて、田舎の一軒家に監禁する。
<雷小僧のコメント>
 ウイリアム・ワイラーと言えば50年代後半には、「大いなる西部」(1958)であるとか「ベン・ハー」(1959)等のスケールの大きな映画を撮っていたのですが、何故か60年代の半ばになるとそれとは全く逆の異常心理(必ずしも異常心理という言い方は正しくはないかもしれませんが)を扱った随分と隠微でせせこましいこの「コレクター」を撮っています。知らなければ誰もワイラーの作品だとは思わないかもしれませんね。どういう心境の変化があったのでしょうか。何せ登場人物も、最初の10分くらいを除くと、ほとんどテレンス・スタンプとサマンサ・エッガーの二人だけになってしまいます。プロット解説で記したように何やら怪しげなストーリーなのですが、比較的早い時期から名画の紹介本などに紹介されていたのが題材を考えるとちょっと不思議なくらいです(多分ワイラーの映画だからかもしれませんね)。
 ところで異常心理を扱った映画というのは、今でこそたとえば「羊たちの沈黙」(1991)あたりから始まって我が世の春を謳歌しているのかもしれませんが、60年代まではそれ程多かったわけではないように思われます。確かにヒチコックの「サイコ」(1960)が、その後の異常心理映画の系譜を生み出したというような記述をちらほら見かけますが、私目はあの映画は異常心理というよりもどちらかというと出たがりヒチコックのショーマンシップ的な作品であるような気がします(別に悪い意味で言ってるわけではありません。映画にはそういう側面が常にあるわけですから)。たとえば、あのシャワー惨殺シーンにしろラストのシーン(まあこの「サイコ」の結末はこの頃の映画をよく見る人にとってはよく知っているものであるとは思いますが、礼儀としてどういうシーンかはここには書かないでおきます)にしろ、どちらかと言えば異常心理のなせるわざというよりも、劇的効果が狙われていたと見る方が妥当であるように私目には思えます。それに比べるとこちらの「コレクター」は、現実的に見たとしても何か納得出来るものがあります。すなわち、実際に誘拐を実行に移すかどうかは別にして、ああいう奴がいてもそれ程不思議ではないなという雰囲気がテレンス・スタンプ演じる誘拐犯にはあるのですね。というよりも、普通の人々でもともすると持っているようなちょっとした異常さを誇張したような側面がこの人物にはあると言った方がいいかもしれません。何もノーマン・ベイツやレクター博士のような殺気立った輩のみが異常心理的であるわけではないということであり、その意味においてこの「コレクター」は製作された1965年という時点では非常に新奇且つ面白い視点を提供することに成功していたのではないかと思います。
 それではこのテレンス・スタンプ演じる誘拐犯によって示されている異常さとはどういうものかと言うと、簡潔に言えば他人というものの確たる措定(これは同時に自己の措定をも意味すると考えてよいと思います)が自分の内部で社会的関係を通してうまく確立出来ていないという障害に由来する異常さであると言っても良いのではないでしょうか。この映画を見ていて分かるのは、スタンプがエッガーを誘拐する目的は、金であるとか快楽であるとかというようなベーシックな欲求に従ったものではないということであり、そのことは彼自身冒頭でも述べていますし、彼が述べなくても明瞭であるように思えます。ましてや、前段で述べたようにノーマン・ベイツやレクター博士のような一種の単純な狂気や殺気だけが異常性の全てを構成するわけではなく、彼がそういう範疇に入る訳ではないことは明らかでしょう。要するに異常性というのは、そのようなベーシックな欲求或はそれの抑圧からのみ発生するわけではなく、社会関係における障害からも発生するわけであり、このスタンプ演じる誘拐犯の異常性がまさにそれに当たるわけです。具体的にそれはどういうことかというと、彼がエッガーを誘拐するのは、社会的関係の中において自己の中の他人の措定に失敗しているが故に一次的な存在として欠けている自己の存在の証明或は理解をエッガーという他人から得たいという意識的或は無意識的な要求に由来するのであり、まさに自分の心に他人の措定がうまく出来ていないが故に彼はそれにことごとく失敗するのですね。また、ことごとく失敗するが故に、同じような自己証明行為を繰り返さないといけないという超悪循環に捕らわれているのであり、そういう輩に誘拐されたエッガーは悲劇という他はないでしょう。何故なら、この映画を最初から最後まで丹念に見ていると分かるように彼女が何を言おうが何をしようが、他人との相互理解というベースを欠いたスタンプに取ってみればそれは独り言のように言われた言葉、或は対象のない行為としてしか把握されないのであり、要するに相互理解が成立する場としてのベースがもともとガタガタに崩れ落ちている或は最初から存在しないが故に彼女の言動及び行為は彼の下にあっては全て水泡となって消えてしまう運命にあるわけです。異常心理を扱った映画ではないのですが、相互理解を可能にする社会的なベースを欠いたやり取りが如何に悲劇的な結果を招くかを見事に描いている映画に「探偵スルース」(1972)という映画がありましたが、状況的にはこの映画に非常に似ているように思います(近い内にこの映画のレビューもしたいと思っています)。そういうわけで、この「コレクター」という映画を見ていると、たとえ二人劇と言えどいや二人劇であるからこそ(面白いことに前述した「探偵スルース」も二人劇でした)社会関係における異常性というものがどういうものであり、どいういうことに由来するかがよく分かるように思えます(これは我乍らちょっと言い過ぎかな?)。
 それからこの映画のタイトルのコレクター(原題も同様)についてですが、私目はちょっと気に入らないですね。何故ならば、このタイトルは、テレンス・スタンプが蝶を収集する偏愛の延長線上でエッガーをコレクトしているような印象を与えますが(エッガー自身もこの映画の中でそういう主旨のことを言っています)、蝶を収集するというのと女子大生を収集するというのでは、収集するという同じ用語が比喩的に使用出来るということ以上の意味はないように思えるからです。要するに、社会的な連関を何も含まない、ものも言わぬ蝶々を収集するのと、生身の人間を誘拐収集するのとは、次元が全く異なる話であり、後者を実行するにはそれなりのメンタル的に一貫したパワーが必要であろうはずだからです。そういう意味で言えば、この破綻者たるスタンプがそもそもエッガーを誘拐出来たというのはかなり嘘臭いようにも思えるのですが、それを言っていると映画が成立しなくなってしまいますので言わないでおきます(なんて言っておきながら言ってしまいました)。
 まあこういう映画は何か後味が悪いものがありますし、万人にご推薦というわけにはいかないのは確かなのですが、いわば異常心理ものの1つのルーツ映画としては貴重なものがあるかもしれません。それから、こう言うと何なのですが、サマンサ・エッガーが如何にも誘拐され役にピッタリはまっていていいですね。なにやらいいところのお嬢さんのようで、如何にも誘拐されそうです。それと大きく脱線するのですが、私目が最も恐れていることに、テレンス・スタンプが収集している蝶の中には実は蛾が混じっているのではないかということがあります。私目は世の中で蛾が最も嫌いで見ただけで全身に鳥肌が立ってしまいます。去年の夏など最寄り駅の入間市駅の近くを歩いていると突然鳥肌が立ったので何かと思って暫く歩いていると、ギョギョギョいるではないですか。要するに見る前に勝手に体が反応するくらい嫌いなのです。あ!暑さで頭がぼけて言っていることが分からなくなってきましたので、この辺で終わりにします。

2000/08/12 by 雷小僧
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