ジュリアス・シーザー ★☆☆
(Julius Caesar)

1953 US
監督:ジョセフ・L・マンキーウイッツ
出演:マーロン・ブランド、ジェームズ・メイスン、ジョン・ギールグッド、ルイス・カルハーン


<一口プロット解説>
古代ローマを舞台として、ブルータス一派によるシーザーの暗殺、その後の彼らとマーク・アントニー軍との戦闘及びその結果による前者の没落を描く。
<入間洋のコメント>
 まず最初に一言述べておくと、個人的にはそれ程この作品を評価しているわけではありません。何故ならば余りにも舞台劇的な色彩が濃すぎて映画を見ているような気がしないからです。これについては後でジークフリート・クラカウアーという人の書いた映画論を用いて説明する予定ですが、単純に考えると「映画」と「演劇」はジャンルとして極めて近しい関係にあるように思えても、近い面が全くないとは言えないとはいえ実際には180度正反対であるような側面もそれに劣らず濃厚に存在することが改めて考慮されねばなりません。最近はDVDなどでたとえばアメリカン・フィルム・シアターのような本来一般の映画館での公開用に製作されたのではない作品も見ることができますが、それらの作品を見ていると劇場の舞台で撮影されたのではないにも関わらずどうにも映画ではなく演劇を見ているとしか思えない印象が避けられず、通常の映画ファンの趣味には全く合わないだろうという感想を持つのが普通ではないかと考えられます。しかしまあそれらの作品は、もともとジャンル的に明確でないところがあるので、ある程度仕方がないとしても、シェークスピア劇を基にしたこの「ジュリアス・シーザー」は一般の映画館での公開を意図して製作された作品であり、その意味では僅かな曖昧性もなく「映画」というジャンルに属する作品であると言えるはずです。ところが内容的には、冒頭からラストまでほとんど映画ではなく演劇を見ているのではないかという錯覚を覚えます。もともとマンキーウイッツはたとえば同じく1950年代の作品で言えば、「イヴの総て」(1950)、「People Will Talk」(1951)、「去年の夏突然に」(1959)など会話主体の作品が多く、その意味では演劇的と言っても大きな間違いのない作品を数多く撮っているとは言え、ここが微妙なところですが、「ジュリアス・シーザー」は演劇的どころかほとんど演劇ではないのかという疑問を持たざるを得ないような作品なのですね。通常は個人的に評価してはいない作品をレビューに取り上げたりはしない方針を取っていますが、この作品に関してはそのような「映画」と「演劇」の境界スレスレに位置する作品の1つのケーススタディとして極めて興味深いので敢えて取り上げてみました。因みに公平を期すために附記しておくと、この作品はプロの評価は一般的に極めて高い作品です。また、作品賞他5部門でオスカーにノミネートされ「Best B&W Art Direction」部門で受賞しており、その意味でも一般には評価された作品として位置付けられます。

 さて、では何故同じように会話主体の映画である「イヴの総て」はたとえ演劇的であったとしても決して映画という範疇からはずれる程そのように見えはしないのに対し、「ジュリアス・シーザー」はほとんど映画の範疇からはずれそうな程演劇演劇して見えるかが問われねばならないでしょう。何しろ「イヴの総て」は私めの大好きな大好きな作品であり何度も繰り返して見ているのに対し、「ジュリアス・シーザー」はあまりにも趣味が合わなくてほとんど見る機会がない作品です。同じ監督の同時期の作品であるにも関わらず存在するこの違いはどこから由来するのでしょうか。また、更にそれ以前の問題として問われねばならないことは、演劇であるように見えてしまうと何故映画としては不適切で異様に見えてしまうのかということです。前段でも述べたように「映画」と「演劇」は一見するといわば兄弟のように思われるので、優れた演劇のごとき外観をした映画は、同時に優れた映画であるとも言えるのではないかという錯覚がどうしても避けられないのですね。私めは随分と長い間このような疑問を抱いてきましたが、全くその回答を見つけることができませんでした。しかしながら、最近読んだジークフリート・クラカウアーという映画評論家(というか一種の社会文化学者と言った方が良いかもしれません)の著作を読んでこの疑問に対する1つの回答を得ることができました。次にそれについて説明したいと思いますが、その前にジークフリート・クラカウアーという人について簡単に紹介しておきましょう。彼はワイマル期から1960年代まで活躍した映画評論家です。但し映画評論家と言っても個々の映画作品の内容的な評論をするのではなく、映画というメディアの持つ表現様式に関する評論がメインになります。彼が主張する映画表現様式論の根底には、映画は写真から派生したと見なせるメディアであり、従って映画の表現様式も写真の表現様式からベーシックな特徴を受け継いでいるという考え方があります。従って彼は映画の表現様式として、ビジュアルイメージの持つ不確定性を高く評価し、劇場演劇が有する筋書き等の確定的側面がそれに混入することは映画の表現様式を破壊するとしてネガティブに捉えますが、これについて後述します。正直言えば、彼の議論は明快であると共にそれに付随するマイナス面として極端過ぎるきらいがあるのも確かであり、彼の議論を読んでいるとたとえば「イヴの総て」のような作品が、演劇的に会話主体でストーリーが展開されるというだけの理由で映画としての評価が下がりそうな畏れを抱かざるを得ません。しかしながらいずれにせよ、彼の論点はなかなか興味深く、前述した疑問の少なくとも2番目すなわち「演劇であるように見えてしまうと何故映画としては不適切で異様に見えてしまうのか」に関するこれ以上ない程の明快な回答が得られるのでここに紹介することとします。彼の著書で有名なのは「カリガリからヒットラーへ」(みすず書房)ですが、この本は専らドイツ表現主義が対象とされており、より広範な映画を扱った「Theory of Film」(Princeton University Press)という本をここでは参考することにします(こちらはwww.amazon.co.jpで検索しても検索されないので邦訳は存在しない或いは絶版かもしれません)。

 まず前段でも簡単に述べましたが、彼の考え方の基本には、「映画」は「写真」の延長線上にあるという見方が頑として存在します。では「写真」というメディアの表現様式の特徴とはどのようなものでしょうか。それに関しては、絵画との比較が有効でしょう。絵画においては、ある決まった構成の中である決まった主題に従うことによって、表現する対象が明確に最初から決定された上で作品が製作され、その過程においては偶然的な要素はできるだけ排除されるのが普通です。誤解のないように付け加えておくと、ここで言う絵画とはあくまでも写真というメディアが出現した当時までに存在していた絵画のことを指し、必ずしもこの定義が当て嵌まるとは言えない現代の絵画は対象外とします。これに対して、写真にはそれとは異なる面があります。勿論写真においても構図や主題が存在しないわけではありませんが、写真を写真として1つの独自な表現様式として確立させる要素は「偶然性」です。たとえばこれはクラカウアーが挙げている例ではなく私めが挙げる例ですが、ロバート・キャパであったかスペイン市民戦争で今まさに銃弾に当たって倒れる兵士を写した写真がありました。このキャパの写真が写真としてのパワーを受胎するのは、まさにこの兵士は当たるべく必然性があって銃弾に当たったのではなく、当たらないチャンスも多かったのに当たってしまったというその偶然性によってです。たとえば、それが銃殺刑を写した写真であったとすれば、この写真程のパワーを持って見る者に訴えることはなかったのではないでしょうか。実際処刑が行われた瞬間が写しだされた写真はいくつか見たことがありますが、これらはいずれも報道或いは歴史記述が目的の写真であるという範疇を越えて見ることはできないのに対して、勿論キャパの写真も最初は報道目的で撮られたのだとしてもそこにはそれを越えたパワーを見出すことができます。さすがに人間が死ね瞬間を捉えた写真を芸術的であると呼ぶと顰蹙を買うので敢えてそのようには言いませんでしたが、芸術的であると見なされる写真は、結婚式の記念写真のように誰誰さんはこっちへきて誰誰さんはあっちへ行ってというように最初から細かく構図を決めて撮影した写真とは全く正反対に、たとえば道端で偶然捉えたシーンが収められているというような類の写真であることが普通なのではないでしょうか。かくして偶然的な要素を常に孕んでいる点が写真というアートの大きな特徴であると見なすことが可能であり、たとえばロラン・バルトが写真論「明るい部屋」(みすず書房)で「punctum」と呼んでいる写真の特徴的な要素もこれに近いのではないかと考えられます。

 その写真の延長線上に存在するのが映画であるとクラカウアーが見なしていることは前述の通りです。それでは、映画はどのような仕方で写真の持つ偶然性という特徴を受け継いでいるのでしょうか。確かにドキュメンタリー等を除けば映画で描かれる対象は、写真とは違って現実そのものではなく創り出された現実ということになります。しかしながら、映画においても、たとえそこに表現されているものが実際は人工的に創り出されたものであったとしても、それが現実のものであるという一種のイリュージョン(illusion of actuality)を喚起するような自然なリアリティ(physical reality)を備えていなければなりません。ここで、注意する必要があるのは、このような自然なリアリティのベースには写真の特質でもある偶然性(fortuitousness)が介在していなければならないということです。たとえば映画では、街路、駅、ダンスホール、バー、ホテルのロビー、空港などが舞台とされることがしばしばありますが、それは何故かというとそこには偶然性を孕んだリアリティが
豊富に存在するからです。それと対照的なのが、舞台劇の舞台です。舞台劇の舞台の上では、上演されている劇の筋立て(intrigue)に関係のないものは省略されるのが普通です。そのことはたとえ舞台上のシーンがたとえば街路上のシーンであったとしても同様に当て嵌まり、劇の進行に関係のないオブジェクトは可能な限り排除されます。たとえば、映画ではわざわざエキストラを使ってストーリーとは何の関係もない通行人をバックグラウンドに登場させることがありますが、演劇ではそのようなことはないはずです。何故映画では一見すると無駄にも見えるようなことをするかというと、それはまさに映画によって捉えられるシーンは、物理的なリアリティを帯びていなければならないという要請が存在するからであり、従って逆説的に聞こえるかもしれませんが偶然性を意図的に導入する必要があるからです。

 更にまた映画においては、プロット等を含めた叙述様式に関して確定的であるようには見えないような不確定性の見かけが必要になります。見かけと言ったのは、勿論映画にもシナリオが存在するので絶対的な意味で不確定的であることは論理的に不可能であるからですが、たとえば古代のギリシャ悲劇のようにある決まったマクロなパターンに当て嵌まることなく、現実の人生が常に不確定であるのと同様な意味において、たとえ擬似的ではあっても不確定性がそこでは感ぜられねばなりません。これについてはクラカウアー自身の言葉を引用しましょう。

◎どのようなフィルム叙述も次のような仕方で編集されるべきである。すなわち、筋立てを構成する道具として叙述を限定させないだけでは単になく、そこから目を離すことによって表現対象となるオブジェクトの方角へと視線を向け変え、それらが示唆的な不確定性の様相のもとに立ち現れるようにすべきだということである。
(Any film narrative should be edited in such a manner that it does not simply confine itself to implementing the intrigue but also turns away from it toward the objects represented so that they may appear in their suggestive indeterminacy.)


ここで述べられている「表現対象となるオブジェクト」というフレーズがまさに前述の自然なリアリティに照応することは明白であり、すなわち筋立てという確定的な側面から、偶然性に充ちた自然なリアリティという不確定性に視線を向け変え、叙述があたかも不確定的な相のものに立ち現れるような表現様式が映画の叙述様式としては肝要であるということが主張されているわけです。

 また、映画では撮影空間が現実の具体的な事物で充たされ、尚且つ選択された撮影空間はたまたまランダムに選択されただけであって同質的な空間がカメラレンズが届かない遥か先まで続いているという印象をオーディエンスに与えることが肝要になります。まず前者の条件すなわち「撮影空間が現実の具体的な事物で充たされ」に関してですが、これは演劇との対比を考えてみればよくわかります。演劇では勿論小道具が使用されることはありますが、基本的に劇の進行に必要ではない余分なオブジェクトがわざわざ置かれることはなく、要するに演劇空間では不要なディテールを捨象する抽象化作用が機能していると言ってもよいでしょう。これは別に一幕ものの劇ならばともかく幕間で舞台のチェンジが必要な劇でわざわざ現実世界と同じディテールを持つ舞台を用意するのは実践的に不可能であるという理由だけによるのではなく、恐らく現実世界と全く同じディテールで舞台設定がされてしまったならば演劇そのものがディテールに埋没して成立しなくなるからであろうと考えられます。すなわち、演劇では抽象化すなわち現実の切り詰めが不可避なのではないかということです。これに対して、自然なリアリティが必要とされる映画においては、抽象化ではなく具体化が要請されるのであり、従ってそこで扱われる空間は現実のディテールにより現実の事物で充たされている必要があります。ここでハタと気がついたことが1つあります。それは、私めは宇宙を舞台とした映画が個人的にあまり好きではないとあちこちのレビューに書いてきましたが、実はその理由がまさにこの点にあるのではないかということです。すなわち、宇宙を舞台とした映画では、我々が日常見慣れているオブジェクトが日常のディテールで配置されることがほとんどないので、それによって「自然なリアリティ」が希薄化してしまうことを私めのセンシティブな?本能が直感的に感じ取っていたのではないかということです。さて次に後者の条件すなわち「同質的な空間がカメラレンズが届かない遥か先まで続いているという印象をオーディエンスに与える必要があります」に関してですが、これが舞台と映画の大きな違いであることは一目瞭然でしょう。しかしこの条件をモロに適用すると、「ジュリアス・シーザー」のような歴史劇は最初から全く不利な立場に立たされてしまうことになります。これに関してクラカウアーはどう述べているかというと、たとえばクローズアップを多用し顔というオブジェクトに焦点を合わせた歴史劇等の例を挙げて何通りかの妥協策(compromise)があることが示唆されています。他の例では「ベン・ハー」(彼はフレッド・ニブロによる古いバージョンに言及していますがウイリアム・ワイラーによる新しいバージョンでも同様でしょう)での戦車競争を挙げ、戦車競争のシーンではオーディエンスは歴史よりも戦車競争のセンセーショナルなリアリティへと注意がシフトされるので過度な演劇化を避けることができるように述べています。しかしそのような特定的で個別的なテクニックやシーンの存在に依拠した説明はどう考えても説得的とは思えず、たとえば新バージョンの「ベン・ハー」(1959)において戦車競争等のアクション的なシーンを除いた部分に関しても、舞台劇的に限定的であるような印象を与えることはないように思われるからです。正直言えば、この点については私めも何故かはよく分りません。しかしながら、1つ確実に言えることは人工的に見えるような舞台空間が一度でもセットアップされてしまうと、そのような空間がカメラレンズが届く範囲を越えて拡張され得るという印象を与えるはずはなく、それによってその空間はわざわざ撮影用にしつらえられた舞台空間であることが一層際立ってしまう結果となり、映画に必要とされる「自然なリアリティ」が雲散霧消してしまうということです。

 クラカウアーは、この他にも写真とは異なる映画独自の特徴として「動き」を挙げ、また偶然性や不確定性を基底に持つ「自然なリアリティ」から派生する意味の多層性が喚起する心理物理相関(psychophysical correspondence)すなわち「生命感の流れ(flow of life)」の醸成により、開かれた生命感(open-ended life)が映画作品に付与されると述べています。「動き」に関してはこのレビューには直接関係ない為詳しい説明は省略しますが、心理物理相関に関しては「めまい」(1958)のレビューで紹介したエドガール・モランの映画論にも通ずるものがあると言えるかもしれません。オープンエンドな生命感の開放性、多様化する意味の地平に対して開かれる可能性は、映画固有の特徴であり、映画を演劇とは大きく異なる表現メディアにしている主たる要因の1つであると言えるかもしれません。

 これまでの記述の中で映画と演劇の比較がしばしばなされてきましたが、それより容易に推測されるように映画と演劇の間には類似点よりも相違点の方が多いように思われます。クラカウアーが主張するのもまさにその点であり、映画の中に演劇的特性が混入すると映画としての本質が見失われるということが指摘されています。敢えて言うまでもないことですが、彼は演劇というメディアの否定や批判を行っているのではなく、映画と演劇という区分が侵犯された時に発生するネフガティブな作用について指摘しているにすぎません。彼は映画的ではない叙述形態のことを「uncinematic story form」と呼び以下のように述べています(以後storyを叙述と呼ぶことにします、というのは明らかにここで言うストーリーとは語られる対象としての物語だけではなくそれを語る語りの様式という意味も含まれているからです)。

◎非映画的叙述形態として際立つ1つのタイプが「演劇的叙述」であり、そのように呼ばれる理由はそれが依拠するプロトタイプが演劇だからである。それ故、非映画的叙述は伝統的な演劇に基いてパターン化されている。
(Uncinematic story forms, only one such type stands out distinctly - the "theatrical story," so called because its prototype is theatrical play. Uncinematic story, then, are patterned on a traditional theatrical play.)


このような演劇的な叙述の特徴として彼は以下のような項目を挙げています。
1.自然なリアリティではなく、対話やアクティング及びイベントや純粋に人間的な体験領域に限定される筋立て(intrigue)に主眼が置かれる。
2.叙述対象の最小単位は複合的であり無限のブレイクダウンを許さない。
3.予め決定された意味のパターンによって配列される。
4.目的論的な配列が行われる。
1は、まさに2、3、4が派生する根本要因であると考えられるかもしれません。映画では自然なリアリティに重点が置かれるとするならば、演劇では構成的な筋書きに重点が置かれることを意味します。2は、若干分りにくい点がありますが、演劇では筋書きに沿った一連のパフォーマンスのような抽象的な複合コンポーネントが意味の最小単位を構成するので、そこからのブレイクダウンは通常は許されないということを意味するように思われます。映画でも勿論俳優によるパフォーマンスは必須ですが、物理的なリアリティをそれによって表現することが映画の主要な目的であるが故にたとえば俳優の仕草であるとかバックグラウンドのオブジェクトであるとかいうようなより小さな単位にブレイクダウンしても意味単位として十分に存立し得る、いやむしろそのような小さな単位の方が映画においてはより根源的であるということにもなるのかもしれません。従ってクラカウアーは、演劇には抽象的全体的に物事を把握する大人の視線が必要とされるのに対し、映画では必ずしも全体に捉われず個々の具体物を具体物として個別に捉える子供の視線が必要であると述べています。3、4についてはクラカウアー自身の言を引用しましょう。まず3についてです。

◎複合単位から複合単位へと進展することにより、演劇的叙述は意味の明瞭な一連のパターンに沿って展開される。映画の視点から言えば、これらのパターンは、視覚イメージの流れからは独立して立ち現れる為、予め配置されていたかのような印象を与える。[それらのパターンが]視覚イメージの流れの中から成長していくのではなく、それが流れと依然として言えるとしたならばだが、それとは全く逆にそのような流れの方向を決定するのがそれらのパターンなのである。
(In progressing from complex unit to complex unit, the theatrical story evolves distinct patterns of meanings. From the angle of film these patterns give the impression of being prearranged because they assert themselves independently of the flow of visuals; instead of seeming to grow out of it, it is they which determine the direction of that flow, if flow it still is.)

つまり演劇的叙述においては、自然なリアリティの方が演劇的叙述固有のパターンに従って限定されてしまうということです。次に4についてです。

◎それら[演劇的筋書き]は全て、古典悲劇をモデルにしているように思われる。プルーストが言うように、古典悲劇においては演劇の筋を支援することがないあらゆるイメージが無視され、その目的を見る者に理解可能にする為の手助けとなるイメージのみが維持される。
(They all appear to be modeled on the classical tragedy which, Proust has it, neglects "every image that does not assist the action of the play and retains only those that help us to make its purpose intelligible.")
※原文の開始ダブルコーテーションの位置は、everyの前ではなくneglectsの前に置かれるべきであり、そのようなものとして訳してあります。何故ならば、そうでないとretainsが関係代名詞thatによってevery imageを修飾しているように見えてしまうからであり、それでは意味が通らないからです。


すなわち、この特質によって演劇的叙述では、特定の目的に合わない不確定性は可能な限り排除されることになり、映画で必須となる不確定性という重要な要素が抜け落ちてしまうことになるわけです。

 かくして演劇的叙述の特質と映画的叙述の特質の大きな相違が明瞭になったのではないかと思われます。「ジュリアス・シーザー」という作品は、まさに上記のような演劇的叙述様式がほぼフルの勢いで映画中に流れ込んでしまった典型例であると捉えることができますが、次にそれについてこれまでの議論を基にして検証することにしましょう。因みに、クラカウアーもそのような映画の1つとしてこの作品を挙げています(実はタイトルだけ記載されているのでこのバージョンについて言及されているかは確実ではありませんが、名声から言ってもこの作品に言及していることは恐らく間違いないように思われます)。まず相変わらずミクロス・ローザやな!というような映画音楽というよりはオペラチックな荘厳で重厚な序曲が終了すると、ストーリーはローマの群衆シーンによって開始されます。群衆シーンとは、演劇の舞台では再現が困難なシーンであり、その意味でも本来演劇的であるようには見えないシーンであるはずです。それにも関わらず、このシーンはどうしても演劇的であるように見えざるを得ません。というよりも、むしろ本来演劇的でないはずのシーンが演劇的であるように見えてしまう為、余計に映画としては不適切で異様に見えると言った方が正解かもしれません。では何故そう見えるかというと、場所がいかにもそこだけに限定されているような窮屈さを感ずるからであり、同様な光景がカメラレンズの届く範囲を越えて拡がっていくような印象をまるで受けないからです。しばらくするとシーザー暗殺計画についてブルータス(ジェームズ・メイスン)とカシウス(ジョン・ギールグッド)が2人で議論するシーン(上掲画像左参照)に移行しますが、ブルータスを演ずるジェームズ・メイスンはそれ程ではないとしても、カシウスを演ずるジョン・ギールグッドは自身が演劇出身の俳優であることもあってかフルパワーの演劇パフォーマンスをいきなり全開にします。シェークスピア学者で演劇評論家の大場建治氏の「シェークスピアを観る」(岩波新書)によれば、何せ彼は25才でハムレットを演じてセンセーションを巻き起こし、ある演劇評論家に「長いイギリス演劇の歴史において、ギールグッドのハムレットに匹敵する達成はほとんど稀であろう」と云わしめた程であったそうです。まあ、どのようなパフォーマンスであるかは、説明するよりも実際に見た方が良いでしょう。クラカウアーの本の中で、舞台俳優でもあったフレドリック・マーチがある映画の撮影中に監督からカットと言われて始めて、自分が演劇的に大仰なパフォーマンスを繰り広げていたことに気付き「またやってしまった」と監督一同に謝ったというようなエピソードが書かれていますが、ギールグッドのパフォーマンスは、それがもし「ジュリアス・シーザー」のような最初から最後まで演劇演劇した作品でなければたちまちカットカットと言われてしまうようなパフォーマンスであったと言えるでしょうね。次に来るのがブルータスのモノローグシーンですが、敢えて指摘するまでもなくモノローグ(セリフの独白)は演劇固有の様式であり、コメディのような例外を除けば通常の映画の中では登場人物がモノローグを開始したりはしません。「ベン・ハー」の中でチャールトン・ヘストンがいきなりモノローグをおっ始めたならば、オーディエンスは必ずや彼は気が狂ったのではないかと思うことでしょう。それに対してブルータスのモノローグシーンがオーディエンスにそのような印象を与えないのは、この映画が最初から演劇的な叙述に終始しているからであり、むしろモノローグシーンに奇怪な印象を受けないという事実そのものがこの映画がいかに映画的ではなく演劇的であるかを示しているとも言えるでしょう。しばらくするとシーザーの暗殺シーンがあり、それに続いて最初にブルータスの、次にマーク・アントニー(マーロン・ブランド)の広場における演説シーン(上掲画像中央参照)が展開されます。これらの演説シーンも群衆シーンであり、演劇の中においてこの映画におけるような多数のエキストラを動員することは不可能であることを考慮すれば、それらは最も演劇的ではないシーンになってもおかしくはないにも関わらず、これらのシーンもより一層演劇的であるように見えます。ブルータスを演じているジェームズ・メイスンやマーク・アントニーを演じているマーロン・ブランドが持てる能力を全開にして演劇的な所作で演劇的なセリフを語っているということもありますが、それ以上に彼らに反応する群衆がこのシーンの意図に沿った画一的で集合的な反応をしているので、群衆というただ1つの複合単位からそれ以上にブレークダウンすることをオーディエンスに許さないことが演劇的に見える1つの大きな要因であるように思われます。その後ブルータスとカシウスの軍勢とマーク・アントニーの軍勢が激突する戦闘シーンになります。前述の通りアクションというビジュアルに重きがおかれる戦闘シーンは、最も演劇的特質から遠ざかるシーンになるはずですが、何とこの作品では戦闘シーンはあっという間に終わってしまいます。これはあたかも、戦闘シーンを長々と続けると演劇的な雰囲気が希薄になってしまうのを監督が恐れたかのようにすら思える程です。この映画は、敗残のカシウスとブルータスが、奴隷や部下の手を借りて最後を遂げるシーン(上掲画像右参照)で終わりますが、上掲の小さな画像でも若干分るようにこのシーンは戸外のシーンであるにも関わらず舞台設定は見事なまでに演劇的であり、それはわざとそのように見せているとすら言っても良いほどです。この映画の全体的な印象を総括すると、ほとんどスキがないという言い方が当て嵌まるように思われます。スキがないというのは、演技やセリフが完璧だという意味ではなく(そうであるかもしれませんが)、他の可能的な展開が考えられない程、ギチギチに展開が固定されてしまっているように見えるということです。シェークスピアの演劇がベースであるということもあるのかもしれませんが、しかし同じシェークスピア劇がベースであってもたとえば最近の例ではアル・パチーノが主演した「ヴェニスの商人」(2004)や、またオスカー・ワイルドの映画化である「The Importance of Being earnest」(1952)のような作品では、この「ジュリアス・シーザー」ほどに演劇演劇しているような印象があるわけではありません。実はこのような比較を行うと若干不公平である部分もあり、まず第一に「ジュリアス・シーザー」が白黒作品であるのに対しそれらの作品はカラー作品です。何だそんなことかと思われるかもしれませんが、カラー映画と白黒映画の間にも表現様式の違いは存在するのであり、それ故クラカウアーも「Theory of Film」の冒頭で、本書ではカラー作品やワイドスクリーン映画は対象外とするとわざわざ前置きされています(と言いつつも都合の良いところではヒチコックの「知りすぎていた男」(1956)などのカラー作品も取り上げていて思わず苦笑してしまいましたが)。それから「The Importance of Being earnest」はコメディであり、クラカウアーも述べるようにコメディは演劇の中でも最も演劇的ではなく、演劇的筋書きよりも個々のオブジェクトに焦点が置かれるケースも多々あるように思われ、「The Importance of Being earnest」では見事なまでの小道具の使用によりコメディとしての演劇的側面と映画的側面が見事に融合されている好例であると言えます。

 最後に残った課題として、一見すると演劇的に見える会話中心の「イヴの総て」のような作品が、「ジュリアス・シーザー」のようなガチガチの演劇的作品であるという印象を与えないのは何故かという点が挙げられますが、これに関しては「ジュリアス・シーザー」とはあまり関係がないので(と言いつつも実はまだその理由を明確に指摘できないということもありますが)別の機会に考察したいと思います。最後に前述したように「ジュリアス・シーザー」は私めが所有しているどの映画解説書でも極めて高い評価が与えられている作品であり、この作品に対して待ったをかける変人は私めとクラカウアーさんくらいのものかもしれませんが、実際どうであるかは是非ご自分の目で確かめてみて下さい。

2007/08/30 by Hiroshi Iruma
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