カーツーム ★★☆
(Khartoum)

1966 UK
監督:ベージル・ディアデン
出演:チャールトン・ヘストン、ローレンス・オリビエ、リチャード・ジョンソン、ラルフ・リチャードソン

左:ローレンス・オリビエ、右:チャールトン・ヘストン

1960年代には、ヴィクトリア朝時代のイギリスのコロニアニズム(植民地主義)を背景とした歴史もの作品が集中していくつか現れました。ここで取り上げる「カーツーム」がその1つであり、他にも義和団の乱を扱った「北京の55日」(1963)、ズールー戦争を扱った「ズール戦争」(1964)、クリミア戦争を扱った「遥かなる戦場」(1968)などが挙げられます。時代はやや下りますが「バタシの鬼軍曹」(1964)なども、ヴィクトリア朝植民地主義時代のいわば後日談的な内容を持っています。また、スティーブ・マックイーンが主演した「砲艦サンパブロ」(1966)も時代的には少しずれるかもしれませんが(またイギリスではなくアメリカの帝国主義ということになるかもしれませんが、内実は似たようなものです)、このリストに加えても良いでしょう。1960年代と云えば、丁度ヴィクトリア女王が統治していたイギリスの帝国主義戦略がその絶頂期を迎えた時代から数えてほぼ1世紀が経過した頃であり、そのような意識が製作者の頭の中にはあったのかもしれませんね。「遥かなる戦場」はやや異なる面もありますが、面白いことにそれ以外の作品は全て、世界各地へと侵略の足を伸ばしたイギリスの軍隊が、現地の大軍に包囲され絶望的とも云えるような状況で奮戦するストーリーが展開されます。また、それが「カーツーム」のようにイギリス軍(イギリス人)の華々しい玉砕に終わろうが、それ以外の作品のように土壇場まで苦戦に苦戦を重ねた末最後の最後に勝利しようが、そのような絶望的な状況で獅子奮迅の活躍をしたイギリス軍(人)は英雄として扱われています。いわば、ここには一つの英雄神話があると見なしてもよいでしょう。しかしながら、ポストコロニアリズムの洗礼を受けた今日の我々の目から見ると、このようにして描かれる英雄神話は、侵略者側に都合の良いロジックに従ったものであるようにしか思えないことも確かです。少し考えてみれば明らかですが、これらの作品でイギリス軍が大軍に包囲され防御せざるを得ない状況に追い込まれているのは、特定の時と場所に限定された舞台においてのみのことであり、大局的には帝国主義戦略を推し進めるイギリス軍の方が、他国に土足であがりこんでいることは敢えて指摘するまでもないでしょう。その結果、侵略軍が現地民に包囲されているのであり、まあ現地民にしてみればイギリス軍はせいぜいのところがはた迷惑な存在だということになります。さすがに、ポストコロニアリズムの洗礼をまだ受けてはいなかった時代に製作されたこれらの作品であっても、侵略軍であるイギリス軍を単に現地民が包囲攻撃したというだけであれば、イギリス側に大義名分は立たないであろうことは明確に意識されていたようであり、従って話はやや込み入ってきます。すなわち、地元民を他民族の圧政から解放する正義の味方としてのイギリス軍という図式がここに登場します。「カーツーム」の場合で云えば、スーダンの地元民を支配しようとするイスラム教徒から彼らを守るという大義名分が立てられます。その際、適用される尺度の1つが、「イギリス=文明」vs「イスラム=野蛮」であり、従って文明国であるイギリスが、未開のスーダンを野蛮なイスラムの手から守るという筋書きになります。狂信的なイスラム原理主義者のリーダーであるマフディー(ローレンス・オリビエ)が、チャイニーズ・ゴードン(チャールトン・ヘストン)に生首を見せるシーンなどにそのことが象徴的に表わされています。しかし実は、このような野蛮な暴力性という要素は、英雄神話には不可欠なものであり、本人が犠牲になるか否かはともかくとして(「カーツーム」の場合には、英雄チャイニーズ・ゴードンは最後は自分も犠牲者になります)、まさにそのような血の犠牲を通してこそ一介の英雄は英雄神話になることができると云えるかもしれません。ところで、それは何も、ヴィクトリア朝イギリスのコロニアリズムに関してのみ当て嵌まるわけではなく、同じことは「マニフェスト・デスティニー」などという自分達にのみ都合のよい標語を掲げてインディアンやメキシコ人達を搾取していったアメリカ開拓史にも少なからず当て嵌まることであり、そこにはカスター将軍やアラモ砦におけるデイビー・クロケットなどというような英雄神話が必須アイテムのように登場します。英雄神話が持つこのあたりの暴力性や犠牲性を、アメリカのフロンティア神話及びそこからエネルギーを汲取る西部劇の中に見事に跡付けた極めて興味深い本としてRichard Slotkin(スロットキンと発音するのでしょうか?)のかなりよく知られた三部作※が挙げられますが、彼の議論についてはいずれ「アラモ」(1960)あたりの西部劇をレビューする折に改めて紹介することにしましょう。いずれにせよ、神話が生まれる基底には何らかの血の犠牲及びそれに伴う暴力性が不可欠なのであり、かくして成立した神話が今度は現実の世界を支配し始めるのです。神話を効果的に利用したのは何もナチスに限られるわけではなく、少なくとも表向きは民主主義や自由の国を標榜しているアメリカやイギリスにおいても、それがジェノサイドにまで至ったか否かは別としても、神話の利用と無縁であったというわけでは決してなかったということであり、そのようなメカニズムをアメリカ史の中で検証しようとしているのがスロットキンの本なのです。さて、「カーツーム」にはそのような神話形成的な要素に加えてもう1つ重要な要素があります。それは、政治家達のご都合主義や官僚主義及びそこから帰結する彼らの状況への対応の不的確さと、現地をよく知る人間(たとえば「カーツーム」ではチャイニーズ・ゴードンやリチャード・ジョンソン演ずる軍人)の的確な状況判断及びそれに基いた素早い行動との対比です。勿論チャイニーズ・ゴードンがカーツームから脱出しようとしなかったことが適切な判断であったか否かは、それを見る者の立場によって大きく異なって見えるのは当然ですが、確実に云えることは、彼は現地の状況についても敵のリーダーの考え方についても全て正確に把握した上でそのような行動を取ったということです。それに対して、イギリスで胡坐をかきながら状況判断をしている政治家達がまず第一に考えることは、国民に最も受けるにはどうすれば良いのかということと、他国に対する帝国主義国家イギリスの面子です。そもそも、ラルフ・リチャードソン演ずるグラッドストーン首相がチャイニーズ・ゴードンを軍隊抜きの単身丸腰でカーツームに差し向けるのは、国民や諸外国へ向けての一種のジェスチャーなのですね。ところが、チャイニーズ・ゴードンはマキャベリ的な国内政治や国際政治の機微を完全に無視して、現地のリアリズムに従って行動する為に、両者の間に大きなギャップを生んでしまいます。この作品を見ていて思うのは、チャイニーズ・ゴードンは、自国の首相のグラッドストーンなどよりは遥かにイスラム原理主義者のマフディーの方に立場的にも心情的にも近いのだろうということです。そのように考えてみると、実はチャイニーズ・ゴードンが壮絶な最後を遂げたことは、表向きは別としてもイギリス政府にとってはむしろ万々歳だったのではないかいう印象すら受けます。それは何も国民に人気がありながら自分達政治家の言う事を全くきかない問題児を厄介払いできたという意味においてのみではなく、イギリス帝国主義を大車輪で展開する為の燃料として供することができる殉教者に、そのような彼を仕立て上げることができたという意味においてもです。前述したように、英雄神話には血の犠牲が必要であり、殉教者の血を通して全く新たなパワーを生み出すことができますが、イギリス政府は帝国主義政策を有利に展開する為にチャイニーズ・ゴードンの殉教を通して得られたパワーを利用することができるようになったのではないかということです。ラストシーンで映し出されるチャイニーズ・ゴードンの銅像が、まさにそのことを示唆しているようにも思われます。前述したスロットキンは、「Gunfighter Nation」という彼の主著の1つの中で、チャールトン・ヘストンが1960年代に主演した3つの歴史もの映画、すなわち「エル・シド」(1961)、「北京の55日」(1963)及びこの「カーツーム」(1966)を取り上げて、当時の大統領ケネディに影響されたリーダーシップのあり方がそこに反映されているのではないかと見なしています。イギリスで製作され、監督がイギリス出身でありチャールトン・ヘストン以外の主要な配役にはずらりとイギリス人が並ぶ「カーツーム」に関して、アメリカ大統領ケネディを関連付けるのはやや牽強付会な印象もあるとはいえ、「chivalric hero(騎士道的なヒーロー)」、「charismatic visionary(カリスマ的な夢想家)」、「counterinsurgency warrior(叛乱弾圧の戦士)」、「frontier cavalryman(フロンティアの騎兵)」、「man who knows Indians(すなわち戦いの相手をよく知っている人)」という性格付けはまさにその通りであろうと考えられます。ここで最も重要なことは、ケネディが自ら犠牲者になり神話になったのと同様、チャイニーズ・ゴードンも神話になったということです。アメリカなどは相手を挑発して相手に先制攻撃をさせてから大義名分を獲得した上で、堂々と攻撃を開始するというお家芸を持っていて(そういうわけで9.11もひょっとするとCIAあたりの陰謀ではないかなどという噂が自国内ですら囁かれるわけですが、さすがにあれは違うでしょう)日本もかつてその挑発に乗った口ですが、これまで挙げてきた作品のいくつかには、まさに帝国主義的な政策を継続する為の大義名分をこれ以上ない形で得ることを目的として「殉教者=英雄」を作り出すメカニズムが、製作者の意図がどうであったかは別としても結果的に描かれていたように考えられます。殊に「カーツーム」と「アラモ」は、それぞれイギリスとアメリカにおけるそのような作品の典型例であると考えても良いのではないでしょうか。チャイニーズ・ゴードンにアメリカのスーパースターであったチャールトン・ヘストンを起用し、狂信的なイスラム原理主義者のリーダーであるマフディーにイギリスの演劇界のスーパースターであったローレンス・オリビエを起用するというのは、かなり変わった配役であるように一見すると思えます。まあ前者に関して云えばヘストンの史劇大作における実績が買われたということでしょうし、後者に関して云えばムーア人であるオセロを演じた実績が買われたというようなところでしょうか。まあそもそもこのクラスのスーパースターを相手にして買われたなどと言うのは無礼千万かもしれませんね。ということで、イギリス映画なのでこれ見よがしの派出さがない作品ですが、堅実な作品であるとは十分に評価できるでしょう。最後に付け加えておくと、いかにも帝国主義イギリスという雰囲気を持ったエルガー調の音楽が素晴らしいですね。

※「Regeneration Through Violence: The Mythology of the American Frontier, 1600-1860」
 「The Fatal Environment: The Myth of the Frontier in the Age of Industrialization, 1800-1890」
 「Gunfighter Nation: The Myth of the Frontier in Twentieth-Century America」
いずれもUniversity of Oklahoma Pressからの刊行で、残念ながらまだ邦訳はないようです。3冊とも500ページを越える大著です。最後の本は、脚注を含め800ページ近くの英語を読むことは慣れていなければ大変であるかもしれないとはいえ、西部劇映画がメインに扱われているので殊に西部劇ファンは西部劇のバックグラウンドをよりよく知る上で是非一度読まれるとよいかもしれません。



2008/06/19 by Hiroshi Iruma
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