スパルタ総攻撃 ★☆☆
(The 300 Spartans)

1962 US
監督:ルドルフ・マテ
出演:リチャード・イーガン、ラルフ・リチャードソン、ダイアン・ベイカー、ドナルド・ヒューストン

左:リチャード・イーガン、右:ラルフ・リチャードソン

古代ギリシアと云えば、西欧文明のふるさとというようなイメージがあります。ところが、その古代ギリシアを舞台とする或いは古代ギリシアの英雄や賢人が活躍する映画作品というのは、ホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」のように神話の世界に片足というかほとんど両足を突っ込んでいる古典文学作品をベースとしたもの以外にはあまり記憶にありません。同じ地中海世界でもローマを舞台とした作品があまた存在することを考えると余計にその印象が強くなります。つらつら考えてみると、ローマを舞台とした作品はキリスト教に多かれ少なかれ関連した作品が多く、キリスト教の勢力範囲たる欧米においては多神教的な異教世界であるギリシアはやや軽んじられていたところがあるのかもしれません。しかしながら、キリスト教が成立する以前のローマを舞台とした「ジュリアス・シーザー」(1953)、「スパルタクス」(1960)、「クレオパトラ」(1963)などのポピュラーな作品も存在することを考えてみると、欧米作品におけるギリシア世界の等閑視にはやや不可思議な気がしないでもありません。その印象は殊に、ギリシアというエキゾチックでエンターテイニングな土地をバックとして面白そうな冒険物語やドラマが製作できそうなことを考えると尚更であるように思われます。そのような中にあって、数少ない例外として挙げられるのがこの「スパルタ総攻撃」です。とはいいつつも、やはり「スパルタ総攻撃」もどちらかと云えば舞台がギリシアであることよりも、この作品により描かれる有名なスパルタ王レオニダスとその部下達の英雄譚に焦点があり、それについては「遠すぎた橋」(1977)のレビューで取り上げました。最近も全く同じレオニダスの故事を扱っているにも関わらず、太陽が燦燦と降り注ぐギリシアというイメージには全くそぐわない「スカイキャプテン」(2004)流のダークで凝ったビジュアルが炸裂する「300」(2007)という劇画調作品がありましたが、要するにギリシアうんぬんよりも勇猛な英雄像を描くことがこれらの作品の焦点であったと考えられるでしょう。ところで、ここで1つ些細な指摘をしておくと、「スパルタ総攻撃」という邦題は映画の内容を正しく伝えておらず、恐らく邦題をつけた人は映画を全く見ていないか、或いは余程センスがなかったかのいずれかではないかと思われます。そもそも「スパルタ総攻撃」とは、スパルタがペルシア軍に総攻撃をかけたという意味なのか、それともペルシアがスパルタに総攻撃をかけたという意味なのかが判然としませんが、いずれにしても実情を全く反映していません。この作品を見ても分かるように、スパルタは祭礼に忙しくてスパルタの主力部隊は全く出陣せず、王のレオニダスと彼の取り巻きの親衛隊300人が出撃しただけの防衛戦であり、スパルタ側の視点から見ると全く総攻撃と呼べるものではありません。ペルシア側から見ても、彼らの攻撃の対象はギリシア全般(或いはどうしてもポリスに限定したいのであればスパルタではなく10年前にマラトンでペルシア軍を破ったアテネを挙げるべきでしょう)であったのであり、特定のポリスであったスパルタが攻撃の対象であったのではなく、たまたまペルシア軍の眼前にレオニダス率いるスパルタの小さな軍団が現れたに過ぎません。地図で見れば明確なように、レオニダスが防御陣地を構えたテルモピレーの地峡地帯は、ポリスで云えばアテネへの玄関口であったのであり、スパルタはペロポネソス半島の奥に位置しペルシアの脅威にまず第一に晒されていたわけではなく、それだからこそスパルタはアテネに利用されているのではないかという疑いが湧いても不思議ではない状況にあったわけですね。映画の中でダイアン・ベイカー演ずる娘が、テルモピレーと聞いた時「そんなに遠く」と呟きますが、これは単に物理的な距離に言及しているのみではなく、ペルシア軍とスパルタの間にはアテネが横たわっているのにという意味合いも含まれているのではないかと考えられます。従って総攻撃とどうしても言いたいのならば、「ペルシア総攻撃」か「ギリシア総攻撃」とすべきでしょうね。というわけで、いずれにしてもこの作品の主眼は、まさにたった300人の兵士が、ペルシアの大軍に立ち向かったという英雄譚にありますが、但し当時の政治的事情も若干ながら垣間見させてくれる点が指摘されねばならないでしょう。それは、歴史上の人物として彼らが実際どうであったかは取り合えず置いておくものとして、リチャード・イーガン演ずるスパルタのレオニダス王と、ラルフ・リチャードソン演ずるアテネのテミストクレスは、スパルタやアテネというような個々のポリスの枠を越えて「ギリシア」という見地から事態を判断していることです。この見地が存在しなければ、そもそもスパルタにとってはアテネを見捨てた方がむしろ得策であると見なされてもそれ程不思議はないはずです。ご存知のように古代ギリシア世界は無数の都市国家(ポリス)から成立していたのであり、これらの都市国家間での争いが絶えませんでした。そこへペルシアという東方の専制国家が攻め込んできて、いわば利害を異にする都市国家同士が大同団結せざるを得ない状況が出来したと云えるかもしれません。しかしながら、少なくともこの映画におけるレオニダスとテミストクレスの頭の中には、単に政治的な方便である大同団結としての「ギリシア」ではなく、普遍的な理念としての「汎ギリシア」という絵図が描かれていたようにも思われます。これは極めて重要なことなのですね。何故ならば、政治的な方便である大同団結はあくまでも特定の具体的な状況の下でしか成り立たないのに対し、普遍的な理念としての「汎ギリシア」とは特定の具体的な状況を捨象したまさに1つの理念であったからです。市民社会としての近代性の外観の下に、実はベースとして奴隷制度が存在していた都市国家の中にあって、個々の都市国家間の具体的な事情に関する相違を問わない普遍的な理念としての「汎ギリシア」というアイデアこそまさに近代へと繋がる考え方であったと捉えることが出来るのではないでしょうか。このようなアイデアは、実は対ペルシア戦争によって突然出現したというわけではなかったのでしょう。というのも、かの有名なスポーツの祭典オリンピックにそのような理念の一端が窺われるからです。オリンピック期間中は、ポリス間での争いは一切停止されるきまりになっており、この休戦はエケケイリアと呼ばれていたそうです。勿論、近代的な見地に立って、この事実からオリンピックはその発端において博愛の精神から創設されたと類推されるべきではなく、むしろ話があべこべでスポーツの祭典を開くのに戦争は妨げになるからその間のみ休戦期間が現実的な方便として設けられた考えるのが本当のところでしょう。しかしながら、いずれにしてもそのような現実面における要請から立てられた取り決めが、「汎ギリシア」というローカルに固執しない普遍的な理念を育む素地になったことは十分に考えられるところであり、レオニダスやテミストクレスのアイデアもそのような歴史的背景を経て生まれてきたということかもしれません。悲しいことにレオニダスやテミストクレスの抱く当時としては極めて高邁なこのようなアイデアも、サラミス海戦でくだんのテミストクレスがペルシア海軍を破り、更に陸でもプラタイアイでギリシア連合軍がペルシア陸軍を破り眼前の脅威が取り払われると、一挙に瓦解することになります。つまり、そのような高邁なアイデアを抱いていたのはほんの一握りの人々だけであったということです。政治的な方便たる大同団結は、眼前の脅威が過ぎ去るや否や喉元過ぎれば熱さ忘れる状況に陥って、いつの時代にあっても簡単に四分五裂の結果に終わってしまうということです。かくしてこの法則に寸分違わず、アテネとスパルタはペロポネソス戦争の覇権争いに突入し、「汎ギリシア」などという高邁な理想はどこかに吹き飛んでしまいます。その意味では、かのオリンピックですらヘレニズム時代を過ぎると政治的に利用されるようになったのであり、まあスポーツと政治の癒着は現代特有の現象というわけではなく、既に古代からその兆候は歴然としていたということでしょうか。それはまあ余談として、実を云えばテルモピレーでスパルタがペルシアに蹴散らされたこと自体は、そのような理念の存在なくしては歴史的な意味がそれ程あるとも思えず、それどころかレオニダス王は王様たるものが無謀な暴挙に走ったと批判されても文句は言えないような面すらあります。確かに地峡地帯で敵の進撃を食い止めるのはセオリーであり、当初こそ少数精鋭でテルモピレーの地で踏ん張りながら援軍を待つことには大きな意義があったとしても、味方の増援が来ないことが分かりスパルタが務めを果たしたことが充分に世間様に示された後になって、テミストクレスが海上からの撤退を提案しているにも関わらず踏みとどまることは狂気の沙汰と紙一重であるように思われるのですね(まあ、ここでそそくさと撤退してしまえば映画にはならないことも確かですが)。つまり、レオニダスの行動を単に英雄譚或いは悲劇的な武勇伝としてのみ捉えると問題の本質を捉え損なうことになるということであり、その点「スパルタ総攻撃」は、普遍的な理念としての「汎ギリシア」というアイデアがそれなりに表現されている点では評価できるように思います(これに対して、最近の「300」は単なるアクション武勇伝と確か化していたように覚えています)。ただまあ作品自体は、いま一つ迫力というか臨場感に欠け、平均的であるような印象が避けられないところがあります。たとえば、主演のリチャード・イーガンはポピュラーなところでは「避暑地の出来事」(1959)でサンドラ・ディー演ずる主人公のパパさんを演じていましたが、あまり英雄タイプには見えないところがあり、厳格な規律で鳴らしたスパルタ王としてはにやけ過ぎだぞと思わず知らず言いたくなります。それからDVDバージョン(個人的に所有しているプロダクトは海外版なので国内販売のものについても同様であるか保証できませんが)は、1962年製作の映画としては画像のクオリティが高く、この事実はこの作品にとっては大きなプラスですね。


2008/05/08 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp