シャイニング ★☆☆
(The Shining)

1980 US
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ジャック・ニコルソン、シェリー・デュバル、ダニー・ロイド、スキャットマン・クロザース

上:ジャック・ニコルソン

2001年宇宙の旅」(1968)のレビューで述べたように、スタンリー・キューブリックという監督さんは視覚イメージに異常とも言える程固執していた人でした。「シャイニング」もその傾向が大きく顕現している作品であり、そのことは主人公のジャック(ジャック・ニコルソン)が運転する車を遥か上空から俯瞰する圧倒的なオープニングシーンから明瞭になります。勿論これ以前の映画でも同様なオープニングシーンを持つ作品は少なからずありましたが(既にレビューした作品の中では、「ボブ&キャロル&テッド&アリス」(1969)の冒頭などはちょっと見にはよく似ています)、これ程視覚イメージが最優先されていることが誰にでも一目で分かる例はないでしょう。というのもそれまでの作品では、冒頭俯瞰的な景観が提示されたとしてもその目的は、ストーリーとしてのナラティブを開始する為の1つのテクニックとして用いられているのが普通だからです。ストーリーが重要視される作品においてしばしば取扱いが困難になることは、勿論どのように終わらせるかというエンディングに関してもそうですがオープニングもその1つです。すなわち、ストーリーが開始されるトリガーをどのように与えるかという問題を解決するのはさ程簡単ではない場合が多いということであり、映画というジャンルにおいてもストーリーの立ち上げに関して様々な工夫が凝らされることが多く、冒頭における俯瞰的なイメージの配置はそのような工夫の1つであると言うことができます。従ってそこでは、イメージを提示することそのこと自体が第一の目的となるのではなく、あくまでもストーリーをつつがなく開始させることが大きな意図としてそこに存在するわけです。たとえば70年代を代表する超大作の1つ「タワーリング・インフェルノ」(1974)の冒頭のタイトルバックでヘリコプターが海岸や山あいをかすめて飛行する俯瞰シーンが提示されますが、これは観客を作品の舞台となる巨大な高層ビルへといざなう為に配置されているのであり、決して俯瞰的イメージそのものの提示が意図されているわけではありません。勿論「シャイニング」の場合にもこれからそこでストーリーが展開される舞台への観客の誘導という側面が全くないわけではありませんが、それにしてはあまりにもゴージャス且つ一種の運動感覚を伴った主観的パースペクティブ(カメラ自身があたかも主体の位置を占めているかのような印象を与えるパースペクティブのことを指し、たとえば冒頭のシーンでは見ている自分が鳥になったかのような印象を与えます)に基いた映像がそこでは展開されており、そもそも主人公の乗った豆粒のような車はそれが主人公が搭乗しているという印象すら与えないのですね。しかも、冒頭の俯瞰シーケンスは、「The Interview」という白抜きの文字のみが表示された黒い画面を境としてこれから主人公一家が冬を過ごすホテルの中に主人公が入っていくシーンにいきなり切り替わります。この唐突なシーンの切り替えはあたかも冒頭の目にも鮮やかな俯瞰シーンはまさに俯瞰シーンを提示するが為に提示されていたという印象を残し、実際それは間違いなくその通りなのではないでしょうか。しかしながら、冒頭で示された視覚イメージの優先性は、それが最も効果的に提示可能な屋外の俯瞰シーンを離れて屋内シーンに切り替わっても全く変わらず、これぞキューブリックの面目躍如たるシーンが最初から最後まで続きます(たとえば上掲画像をご覧あれ)。このような性格を持つ彼の作品を熱狂して迎えるかそうでないかはオーディエンスによってはっきり分かれるはずであり、聴覚派を自認する私めはあまり得意なタイプの作品ではないというのは事実です。しかしたとえば、「江戸の想像力」というかつて話題になった本(私めも発売時にさっそく買って読みましたが内容の詳細は忘れてしまいました、すすすすんましぇん)でデビューした法政大学の田中優子氏が自身のホームページでキューブリックやタルコフスキーの映画の持つ一種のエクスタシーに強く惹かれるという主旨のことを述べていますが、一方で私めのようなオーディエンスが確実に存在するのと同様、田中氏のようなオーディエンスも他方で確実に存在するわけです。まあ江戸時代の町人文化の研究が専門の彼女は、日本文化が持つ視覚性と同種のものをキューブリックらの作品の中にも見出しているのかなというように邪推してみたくもなります。また彼女は、キューブリックやタルコフスキーの作品が観念的であると思っている人がいるようだがそれは間違いであると述べていますが、これについてはまさにその通りでしょう。というのも観念的である為には、その底流として首尾一貫したナラティブの存在が前提とされなければならないはずですが、彼らの作品はその対極にあるからです。それから話が飛びますが、「シャイニング」はホラー映画であるものとして分類されることが多いように思われ、手元にあるDVDの裏面にも「史上初のホラー映画」というような少々わけの分からない宣伝文句が躍っています。史上初のホラー映画とは恐らく史上初の真のホラー映画であるということが言いたいのかもしれませんが、あいにくこの作品はその持つ意味を変える意図がない限り通常の意味におけるホラー映画では全くなく、敢えて言えばむしろサイコスリラーに近いのではないでしょうか。思うにそもそも視覚イメージをここまで優先するキューブリックが、昔ながらの意味におけるホラー映画を製作できたとは思えないところで、というのもいかに視覚要素が重要であるはずとはいえども、ホラー映画は持続的な想像力の喚起をもたらすナラティブの存在がその根底に確固として存在しなければ成立し得ないジャンルだからです。そのようなナラティブ中心的な考え方とは対極的な位置を占めるのがキューブリックの作品であることは「2001年宇宙の旅」のレビューで詳しく述べたのでここでは繰り返しません。「シャイニング」中での具体例で言うならば、主人公ジャックの息子が時々以前ホテルで殺された少女達の幻影(?)を見るシーンがありますが、ホラー映画の亡霊からこれほどかけ離れたイメージはないでしょう。というよりも、ここにあるのはイメージだけであり、ホラー映画では常識になっているような亡霊という言説に結びついた観念が一切捨象されて提示されているからです。他の例では、部屋の中に血潮が噴出するシーンにおけるほとんど中性的とも言えるイメージも、ホラー映画の血しぶきからこれ程隔たったイメージも存在しないでしょう。何故ならば、そこで提示されるイメージは、いかなる観念も付着していない、いわば漂白されたイメージだからです。それでは「シャイニング」は前述したようにサイコスリラーとして分類可能なのでしょうか。実はこれもかなり難しいところで、確かにストーリー的にはそのような要素が色濃く存在します。しかしたとえばサイコスリラーの嚆矢となったヒチコックの「サイコ」(1960)などと比べてみれば明らかなように、それまでのサイコスリラー作品が典型的に有していた細心なナラティブ構成に基いたプロット展開という要素が「シャイニング」にはほとんど見当たらないのですね。また「サイコ」のような作品においては緻密なプロット展開の裏側に一種のシークレットが埋められているケースもあり、あたかもフロイト的な深層構造の一種のシミュレーションのようなものが意図されていることすらありますが、「シャイニング」には視覚的イメージのトリックは存在したとしてもナラティブに関するトリックとは全く無縁です。というより、「シャイニング」は視覚的なイメージの綿密さとは裏腹にストーリー的には極めて単純であり、要するに雪に閉ざされたホテルの中で一家のあるじが徐々に狂気化し家族に危害を及ぼし始めるというようなものであり、たとえばそもそも「サイコ」にはあったような主人公が何故そのような行為に及ぶかというような説明とはまるで無縁なのですね。つまり「サイコ」はwhyに対するアンサーにあくまでも拘わるのに対し(「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「観る者の深層心理を深く抉るヒッチコック作品《鳥》」で書いたように正直言ってそのことが逆に取ってつけたような印象を与える結果となってしまっていますが)、「シャイニング」ではそれに対して全く無頓着なのです。心の深層に存在する錯綜した心理機制に基いて殺人を犯す「サイコ」のノーマン・ベイツがパラノイアックであったとすると、理由もよくわからず暴れ始める「シャイニング」のジャックはスキゾフレニックであり、歪んでいたとしても独自なナラティブを紡ぎ出すパラノイアックな人物が主人公である作品と、そもそも最初からナラティブの存在を拒否するスキゾフレニックな人物が主人公である作品では、同じ精神異常を扱った作品でもその内容は180度反対になると言えるでしょう。前者はアルフレッド・ヒチコックのようなストーリーテリングの名手が活躍できる分野であり、後者は物語的側面よりも視覚的イメージを重視するまさしくスタンリー・キューブリックのような御仁が活躍する分野だということになります。まあ要するに「シャイニング」はキューブリックであったからこそ成立可能な作品であったということになるでしょう。


2006/12/02 by Hiroshi Iruma
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