ボブ&キャロル&テッド&アリス ★☆☆
(Bob&Carol&Ted&Alice)

1969 US
監督:ポール・マザースキー
出演:ナタリー・ウッド、ロバート・カルプ、エリオット・グールド、ダイアン・キャノン

左から:ロバート・カルプ、ナタリー・ウッド、ダイアン・キャノン、エリオット・グールド

1960年代後半には、アメリカ西海岸を中心としていわゆるカウンターカルチャーと称される運動が全盛期を迎える。1つにはベトナム戦争に対する反動として生まれたおかみに対する抵抗が、現代文化全般に対する抵抗へと発展していったという側面があったのだろう。日本でも1960年代後半は学生運動が盛んであった頃であり、当時筆者は東京外国語大学のすぐ前に住んでいたが、機動隊が楯を持って進軍?する光景を今でも思い出すことが出来る。筆者が大学に入ったのは1970年代末であったが、筆者の通っていた同志社大学は当時移転問題で揺れていて、バリケードストライキで数か月間休校になるというような事態がその頃でも発生していた。某国立大学のように移転によって学校側の管理システムが強化されることへの危惧からそのような運動が行われていたように聞いたが、いずれにしてもこれらの運動がカウンター(対抗)運動であったことに間違いはないだろう。カウンターカルチャー運動とは読んで字のごとく文化に対する抵抗運動ということになるが、それはたとえば革命運動のような外面的な抵抗であったばかりではなく、自己自身の意識の変革、すなわち自己という意識の陥穽からの離脱という側面があったことを考えるとむしろ内面的な抵抗運動でもあった。意識とは自分自身に属するものであると思われてはいても、実はそうではなく自分ではない何ものかが自分だと思われるようになった状態が自己意識であると考えられているケースの方が多いということは、何も難しい精神分析学の書物をひっぱり出さなくても自明であろう。それ故、カウンターカルチャー運動には同時期の日本における学生運動のような過激さよりは、むしろ内省的でインテリっぽい側面もあったように思われ、そのような傾向を「ボブ&キャロル&テッド&アリス」からも少なからず窺うことが出来る。自己自身の意識の変革という側面は、胡散臭いと思うかどうかは別として、たとえばカウンターカルチャー運動にも大きな影響を与えた文化人類学者カルロス・カスタネダの呪術師ドン・ファンシリーズを読めば明瞭であり、LSDや或いはカスタネダのペヨーテなども、内面的意識の変革をもたらす為の1つの道具として使用されていた。「ボブ&キャロル&テッド&アリス」でも、集団セラピーや夫婦交換などの内面的意識の変革をもたらすための実践が描かれている。その為、今日の視点からこの映画を見ると極めてナイーブな印象が強いのは極めて自然なことであり、ある意味でカウンターカルチャー運動自体が結局は単なるサブカルチャー的な運動であったのではないかという印象すら受ける。1970年代以降カウンターカルチャー運動が後退したのも、一種の自己矛盾的な様相がどうしても避けられなかったということにその原因の一端があったのかもしれない。たとえば、この映画でも夫婦交換などという題材が取り上げられながらもその点が結構曖昧で、本当にこの2組のカップルは夫婦交換という行為を致したのか致さなかったのかが最後までよく分からない(というよりもしていないだろう)。「エマニエル夫人」(1974)などという現在から見れば何でもない作品に大騒ぎしていた時代よりも更に以前の時代に製作された映画なので、映画というメディアの中ではそのような表現が許されていなかったということかもしれないが、現在という視点から見るとカウンターカルチャーと言いながらもどこかで結局はカルチャーで縛られていたのではないのかとどうしてもチャチャを入れたくなるのも無理のないところであろう。そもそもカウンターと言っていること自体が、カウンターする当の対象物の存在が前提とされていることを示しているのであり、カルチャーで縛られていたというのはむしろ当たり前であったのかもしれない。とはいえその是非は別としても、1960年代後半のカウンターカルチャー運動の内面的意識の変革というテーマが一番明瞭に提示されている映画がこの「ボブ&キャロル&テッド&アリス」であり、確かに現在から見ればストーリー的にはいま一つ平凡である印象から免れないが、カウンターカルチャー運動に関する歴史の証人として見るに値する作品である。この作品のクレバーさは、内面的意識の変革というテーマをダイレクトに見ている者に投げかけてくるところにある。たとえば、レストランで他の客や従業員が聞いているにもかかわらず主演4人が普通の人間から見れば赤面しそうな程ナイーブな会話をするシーンがあるが、このシーンを見ている観客がそれを見てどう反応するであろうかが緻密に計算されているような印象がある。すなわちこのシーンを見て、自分までもが赤面するならば、それはある意味において自己がカルチャーによる呪縛を受けている証拠であるということにもなるのであり、要するにこの映画を自己に対する意識実験の材料であると見なしても面白いのではないかということである。

※※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。


2002/03/24 by 雷小僧
(2008/11/11 revised by Hiroshi Iruma)
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