ライアンの娘 ★☆☆
(Ryan's Daughter)

1970 UK
監督:デビッド・リーン
出演:サラ・マイルズ、ロバート・ミッチャム、ジョン・ミルズ、クリストファー・ジョーンズ

左:ロバート・ミッチャム、右:サラ・マイルズ

この作品はかのデビッド・リーンの作品ですが、批評家から酷評されその結果落ち込んだリーンは彼の最後の作品となるE・M・フォスター原作の「インドへの道」(1984)を撮るまで長い休止期間に入ってしまいます。まあ日本では考え難いことかもしれませんが、デビッド・リーンはこの時迄に巨匠としての地位は既に充分過ぎる程確立していたのであって、自分達で新たなものを創造するパワーがあるわけでもない批評家(げげ!かくいう私めもその範疇に入るのかな)の言うことなど無視していれば良いではないかと思われるかもしれませんが、確かにリーンにはそういうセンシティブな面があったことも事実だとしても、たとえば「イヴの総て」(1950)でジョージ・サンダースが演じているアディソン・ドウィットや「成功の甘き香り」(1957)でバート・ランカスターが演じているJ・J・ハンセッカーのような例でも分かる通り、あちらでは批評家やコラムニストが強大なパワーを持っているという側面もあるようですね。それはそれとして、それではかくいう私めは「ライアンの娘」についてどう思うかと言うと、いくら私めが同じくリーンが監督した長大なエピック映画「ドクトル・ジバゴ」(1965)を敬愛しているといえども、やはりこの擬似エピックムービー的な体裁を持つ「ライアンの娘」には無理があると言わざるを得ないでしょう。言わば不倫のストーリーをここまでエピック的な構成の中に収めようとするのは、まあリーンであるからこそ実現可能であったのでしょうが、しかしどうしても座りが悪い印象から免れることはできないでしょう。いずれにしても単純に考えても兎に角長い。長すぎ且つスローすぎますね。オットー・クレンペラーが指揮したブルックナーですらここまで気が長くはないでしょう。物理的な長さとしては前述した「ドクトル・ジバゴ」もほぼ同じくらいの上映時間がかかりますが、そちらが決して長いという印象を与えないのは、エピック的なハンドリングが、見事に題材、ストーリー展開ともうまくマッチしているからです。これについてはホームページのレビューや「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」でも述べたことなので敢えて繰り返しませんが、「ドクトル・ジバゴ」ではエピック映画に必須な要素である悠久の時間の流れが見事に捉えられています。それに対して、「ライアンの娘」では、そもそもこの作品で扱われているタイムスパンそのものが曖昧であるとはいえ相当短いであろうと考えられにも関わらず、全体的な構図自体がエピック的に構成されており、すなわち全体的な構図と題材の間に大きな齟齬があるような印象が避けられないのですね。また、この作品はアイルランドが舞台となっていてバックラウンドのアイルランドの風景が実に見事に捉えられているにも関わらず、フォアグラウンドとなる3人の主要な登場人物すなわちロージー・ライアン(サラ・マイルズ)、ロージーの旦那になる小学校の先生(ロバート・ミッチャム)、ロージーを寝取ってしまうシェルショックの悪夢に取り憑かれた将校(クリストファー・ジョーンス)の三人が完全にバックグラウンドから遊離していて、正直言えばメインのストーリー展開は別にアイルランドでなくとも十分良かったのではないかと思わせます。勿論、アイルランドでなくとも良かったということはアイルランドでも良かったということになるのかもしれませんが、あまりにもバックグラウンドが見事に捉えられているだけに、それだけ一層バックグラウンドとフォアグラウンドの乖離が目についてしまうわけです。従って、この長い長い作品を気長に最後まで見ていて気がつくことは、主演3人とアイルランドの村人達が密接な交流関係を持つシーンはほとんど存在せず、ロージーの髪の毛を村の群衆が刈り取る極めて暴力的な最後のシーン以外は、ほとんど主人公達と村人は没交渉であると言えます。このことはロージーとロバート・ミッチャム演ずる小学校の先生の結婚式のシーンや、嵐のシーンなどの物理的には画面上に両者が同時に存在するシーンであっても同様に当て嵌まります。しかしこれは恐らくそれがこの映画の意図だということなのかもしれません。というのも、主人公達と村人の間を行ったり来たりする極めて境界的な人物である村の白痴キャラクター(ジョン・ミルズが演じておりこの役でオスカー助演男優賞を受賞する)の存在が明瞭にそのような構図の存在を浮き彫りにしているからです。つまり、主人公3人のよそ者達(ロージー・ライアンに関しては戸籍上はよそ者ではないかもしれませんが、冒頭のパラソルのシーンからも分かるように彼女はアイルランドの鄙びた寒村のコミュニティからは明らかにかけ離れた存在なのです)と村人達はこの作品の舞台となるアイルランドの寒村では互いに外部と内部の関係にあり、その間をトリックスター的なジョン・ミルズ演ずるキャラクターが媒介しているという構図が明らかに存在するということです。従って私めがこの作品を見るたびに思うことは(と言っても今まで3回しか見ていませんが)、ジョン・ミルズ演ずるキャラクターを中心としてストーリーを展開させた方が興味深い内容になったのではないかということです。いわば一種の祝祭的な異空間ともいうべきパースペクティブを持った人物の見たストーリーとして展開されていたならば、外部と内部がもっとうまく平等且つ包括的に捉えられたのではないかということです。繰り返して言えば、折角風景としてのバックグラウンドが見事に捉えられているにも関わらず、ドラマとしてはあまりにもフォアグラウンドとなる3人の主要登場人物(しかも彼らは舞台となる村の住人達から見れば共同体の外部に住む人々です)が乖離しすぎている印象を受けざるを得ないのが、オーディエンスをしてこの作品の世界へのめり込むことを困難にしている要因であり、故に必要以上に長い印象を与えてしまうわけです。というような問題があり、正直言えば個人的にも高く評価をすることができない作品ですが、しかしビジュアルイメージという側面から見ると実に素晴らしいものがあります。アイルランドが舞台となった著名な作品としてはジョン・フォードの「静かなる男」(1952)がまず第一に頭に浮かびますが、「静かなる男」はまだワイドスクリーン映画が登場する以前の作品であり、その意味では1970年代に入って公開されたこの「ライアンの娘」においては技術的に現在と比べても大きな遜色がないくらいの高精度な広角ワイドスクリーンで撮影されているので満足度はより高いと言えるでしょう。またモーリス・ジャールの音楽も、確かにアイルランド的ケルト的ではないかもしれませんが極めて印象的であり、要するにビジュアルと音が織り成すイメージという方向からこの作品を評価するならば、さすがはデビッド・リーンと言わざるを得ないところであり、またその側面に限って言えば彼の作品の中でも最も見事なイメージがこの作品では提供されていると言っても言い過ぎにはならないでしょう。それを考慮するならば、ワイドスクリーンそのままのDVDバージョンが発売されたことはこの作品にとっては大きなプラスであると言えるように思います(私めの持っているのは海外版ですが国内版も販売されたのではなかったでしょうか?)。


2006/11/25 by Hiroshi Iruma
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