がちょうのおやじ ★★☆
(Father Goose)

1964 US
監督:ラルフ・ネルソン
出演:ケーリー・グラント、レスリー・キャロン、トレバー・ハワード
左:ケーリー・グラント、右:レスリー・キャロン

この映画で主演のケーリー・グラントの相手役を務めているのはレスリー・キャロンです。実はこの作品の妙味はこの二人のコンビにあると言えるでしょう。ケーリー・グラントに関しては改めて言うまでもありませんが、確実に言えることの1つは、この作品は彼のフィルモグラフィーのほとんど最後に位置する作品であり、彼のスタイルが遍くオーディエンスの頭に浸透している頃の作品でもあるので、相手役は誰でも良いというわけにはいかなかったはずだということです。これは何も相手役は彼と同じくらいの名声を持ったビッグスターでなければならなかったということではなく、少なくとも彼のスタイルに合わないような女優さんではあってはならなかったということです。たとえば彼は若い頃はキャサリン・ヘップバーンと共演することが度々ありましたが、1945年以降はありません。勿論それには様々な事情や理由があったのでしょうが、私めの想像では1945年を過ぎるとケーリー・グラントもキャサリン・ヘップバーンも共に独自のスタイルを確立していた為、共演すればその強烈な個性が両雄相立たずという結果になることが目に見えていたからではないかと考えられます。たとえば1960年半ばの作品で、ケーリー・グラントとキャサリン・ヘップバーンが共演しているところは想像すら難しいところです。同じヘップバーンでも「シャレード」(1963)で共演したオードリー・ヘップバーンは確かにビッグスターではあっても強烈な個性があるというタイプではなく、それ故彼女の存在によって彼のイメージが損なわれるということがありませんでした。また、その当時ケーリー・グラントの相手役を勤めたドリス・デイやレスリー・キャロンにも同様なことが言えます。ドリス・デイは、ケーリー・グラントを筆頭としてクラーク・ゲーブル、ジェームズ・スチュワート、ジェームズ・キャグニー、ロック・ハドソンなどというような多くのビッグスター達との共演実績がありますが、それは取りも直さず彼女の持つ先駆的な庶民性は旧来のビッグスターのイメージとは大きくかけ離れていて(これについては「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「等身大のスター達の誕生 《スリルのすべて》」に書きました)、従ってケーリー・グラントやクラーク・ゲーブルのような旧来的ビッグスターと同じレベルで張り合う必要がなかったが故に、自分のイメージのみならず相手役のイメージも競合によって損なわれることがなかったが故に可能であったように思われます。レスリー・キャロンもドリス・デイとはタイプは異なりますが、非常にフレッシュなイメージがありました。面白いのは、ドリス・デイが歌手出身であったのに対し、レスリー・キャロンはバレリーナ出身であり、どちらも最初は映画俳優が本職ではなかったということです。だからこそケーリー・グラントのような既に伝説の域に達したようなビッグスターとつつがなく共演することができたのかもしれません。レスリー・キャロンについては、よく美人か不美人かという論争がありますが、暇つぶしにはなっても大きな意味はないでしょう。というのも単に美人であるというだけならば、映画スターよりもモデルを対象として議論した方が良いからであり、美人であるだけでは決して映画界におけるビッグスターにはなれないからです。昔のスターの中には天上人的な美人がたくさんいたのに、現在ではごく普通のお隣リのおねえさま的なスターしかいなくなったというような言い方がしばしばされますが、個人的には単純にそのようには考えてはいないところで、昔のスターの方が現在のスターより物理的な容貌上の美人度が上であったというわけでは決してないと考えています(これは、栄養が廻って体格がよくなった現在の野球のピッチャーよりも昔のピッチャーの方が剛球を投げていたというようなどうにも???と思わずにはいられない言説と似たようなところがあります)。そうではなく、昔は映画界とそのオーディエンス達がそのような天上人的美人のイメージを作ってきたのに対して、現在ではそのようなイメージはさして必要がなくなったということであり、つまりコンテクストが全く変わってしまったということです。いずれにしても、映画の中で美人度が問題であった時でも、それは決してモデル的な容貌上の美人度を意味していたわけではなく、映画界とそのオーディエンスが1つの共同幻想として作り上げた尺度に照らしての美人度であったはずだということであり、またその尺度そのものが現在では存在しなくなってしまったということです。マリリン・モンローなどは、容貌上の美人度では必ずしも美人とは言えないと個人的には思いますが(殊に瓜実顔を美人の典型と考える日本的な美人尺度から言えばモンローはカワイコちゃんではあっても美人という範疇には入らないのではないでしょうか)、彼女が伝説になった理由は彼女が物理的に究極の美人であったからではないのですね(というよりもそうであったならばむしろ逆に今日に至るまでの彼女の名声はなかったかもしれません)。そのような共同幻想的な尺度に全く関係なくビッグスターになった最初の女優さんがドリス・デイであったことは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」でも書きましたが、レスリー・キャロンにもドリス・デイに似たようなところがありました。50年代はミュージカル作品が多く、ポピュラーな作品でも個人的にはまだ見たことがないものもありますが、茶目っ気のある妖精的なクオリティを持っていたことは間違いがないところでしょう。そのようなクオリティが要求される役には、従来的な天上人的でスタティックなビューティではイメージが合わないはずであり、美人か不美人かよく分からないような不均整でダイナミックな魅力を持つ女優さんが必要なのですね。そのような茶目っ気のある妖精的なレスリー・キャロンのキャラクターがこの「がちょうのおやじ」でもよく滲み出ていて、あるシーンではなかなかの美人のように見えたかと思うと、次のシーンでは誰が見ても「彼女ってやっぱりどブスちゃんだったのね」と言たくなるようなシーンがあるというように、兎に角ダイナミックで変幻自在なイメージを持つ人だということが分かります。そのようなダイナミックな彼女のキャラクターが、最早この頃は自己パロディとでも言えそうな程自己回帰的なイメージに凝り固まっていたケーリー・グラントが演ずるキャラクターと極めて鮮やかなコントラストを為しています。それと同時に彼女の持つわざとらしさがないナチュラルさは(これはドリス・デイも共有するクオリティですね)、決して相手役のケーリー・グラントを過去の遺物のように見せることもなく、いわば一種の引き立て役にもなっているのであり、従って冒頭でこの作品の妙味はこの二人のコンビにあると述べたわけです。尚、「がちょうのおやじ」はコメディではありますが、アカデミー脚本賞を受賞しています(その後はあまりないかもしれませんが、1950−60年代はコメディ或いはコメディ調の作品でもアカデミー脚本賞を受賞することがしばしばありました)。


2006/12/23 by Hiroshi Iruma
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