尼僧物語 ★★☆
(The Nun's Story)

1959 US
監督:フレッド・ジンネマン
出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・フィンチ、イーディス・エバンス、ペギー・アシュクロフト
左:ピーター・フィンチ、右:オードリー・ヘップバーン

1950年代と言えば宗教映画が全盛であった頃であり、「尼僧物語」という邦題からも分かる通りこの映画もその中の一本です。というよりも、オードリー・ヘップバーンの出演作ということで映画ファンで知らない人はまずいないでしょう。言わばアイドルスターであったオードリー・ヘップバーンに地味な僧衣を着せ、当然のことながらラブシーンなどただの1つもないという或る意味で極めてストイックな映画だと言えます。しかしながら外見はそうであっても、この映画はフレッド・ジンネマンが監督した作品であり、同時期の他の宗教関連映画と比較すると決定的に異なる点があります。それは同時期の他の宗教関連映画では、宗教が少しでもテーマになるのであればゆるぎなき信仰、帰依がその根底にあるのが当然であるかのごとく扱われており、主人公を代表とする作品全体のテーマが常にこの点に収斂していく傾向があるのに対し、「尼僧物語」では逆に宗教という本来ユニボイス(つまり神の信仰という枠組みの中では神の声以外が存在してはならないのであり、しかるにこの映画で主人公のシスター・ルークは他の尼さんと喋ることが禁じられるのは当然のこと自分の心の中に始終鳴り響く余計な声を静め心の平静を得ることが要求されるわけです)な営みに従事しているにも関わらず結局マルチボイス(或いはヘテロボイス)な自身の存在を克服することが出来ず宗教の世界を最後には去っていく主人公に焦点があることです。人間の存在とは予め固定されたものではなく様々な存在になり得る可能性を有する「可能性の存在」であるとすれば、互いに異なる様々な存在たろうとする様々な自己が葛藤するのが人間の本質であるということになりますが、オードリー・ヘップバーン演ずる主人公のシスター・ルークはまさにそのような葛藤を経て1つの確固とした可能性を自ら切り開いていこうとするタイプのパーソナリティを持っています。ユニボイスであることが義務である宗教の世界に住む人々は彼女のそのような特質に気が付かないか或いはそれを抑圧しようとするのに対し、そのような世界に住んではいない極めて世俗的なピーター・フィンチ演ずる医師は、シスター・ルークは他の従順なシスター達のようには未来永劫なれないであろうと見事に喝破するわけです。面白いことにシスター・ルークは、自ら従順であろうとしてしきりに「obedience」という語を口にしますが、実は「obedience」と語っているボイスそのものが既に本来obedientたるべき自己とは全く関係ない自己が語るボイスなのであり、「obedience」と自ら語る自己が消え去らない限りは決してobedientなユニボイスな自己には到達し得ないという根源的な矛盾がここではいみじくも示されていると言えます。他の宗教関連映画にも心の葛藤を抱く主人公が登場するのは勿論のことであり、宗教的信仰に帰依して最初から最後までそれに対して徹頭徹尾何の疑いも抱いていない人物が主人公であるとするならば、それではそもそもストーリー自体が成立しないことになってしまいます。しかしながらたとえそうであったとしても、そのような映画で描かれる主人公達の心の葛藤は、とどのつまりは最後に常にゆるぎなき宗教的信仰・帰依の確立という一点に収斂していく為に存在しているのですね。従ってそれらの映画では、主人公達がヘテロボイスを如何に克服してユニボイスを達成することが出来たかという点に大きな焦点があります。或いは、たとえば全編を通じて主人公が揺るぎなき自身の信仰を素晴らしい説教で語り尽くす「A Man Called Peter」(1955)のように最初から最後までユニボイスに貫徹する映画すらあります。余談ですが、前述したように通常ならば心に何の迷いもない人物が主人公であるような宗教映画は成立し難いように思われるにも関わらず「A Man Called Peter」が魅力的な映画に仕上がっているのは、私目の好きな俳優リチャード・トッド演ずる主人公が全編に渡って朗々と語り尽くすスピーチが実に素晴らしいからです。「尼僧物語」は、それらの映画とは全く異なりヘテロボイスの中の1つの声がユニボイスな世界への帰依を1つの選択肢と選びそれに順応していこうと努力はするけれども、結局本質的にはヘテロな存在たることを捨てきることが出来ない主人公が扱われており、言ってみればヘテロボイスからユニボイスへの収斂ではなくユニボイスからヘテロボイスへの拡散が1つの大きなテーマになっています。言い換えると、ユニボイスな修道院での生活が確信と安定感に充ちたものであると同時にそこで生活することは自己の可能性を固定化してしまうことであったのに対し、ヘテロボイスな世界に身を置くことは様々な可能性に開かれたオープンな状態に自己を保つことを意味し、自己が未決定である状態を自分から積極的に受け入れることでもあります。しかしながら誤解してならないことは、主人公が最後にそこを飛び出したからといって、必ずしも修道院がネガティブなものとして扱われているわけではないということです。むしろ、彼女は、修道院の有する安定した世界を飛び出すことにより、いわば不退転の決意をしたということであり、それがまさに不退転である理由は、そこを飛び出した修道院には人が生きていく上での拠り所となる規範という大きな価値が確固として存在していたのに対してこれからの彼女はまさにそのような価値を自分で探求し選択していかなければならないからです。従ってこの映画は、宗教がテーマであるにも関わらずオープンエンドな映画であるという点に大きな特色があります。すなわち、主人公の本当の物語は彼女が修道院を去っていくラストシーンから開始されるのです。一言で言えば宗教映画とはその性質上閉じられたストーリー展開になるのが常であるのに対しこの映画は開かれた映画だということです。そのことによっても監督のフレッド・ジンネマンがただ者ではなかったということがよく分かるでしょう。彼はヘテロボイスが当然になった1970年代にヘテロボイスが当然であるポリティクスの世界を扱った「ジャッカルの日」(1973)というユニボイスな作品を撮っていますが(「ジャッカルの日」はフレデリック・フォーサイスが原作の殺し屋が主人公の映画なのでポリティクスは全く関係はないというのは間違いのないところですが、但しドゴール暗殺が1つの主題となっている以上政治的コノテーションが関わっても何の不思議もないのにそうはなっていないところがそもそも「ジャッカルの日」がユニボイスであることの証拠なのです)、ユニボイスであることが当然であると見做されていた1950年代にユニボイスであることが当然である宗教の世界を扱った作品でヘテロボイスな主題を展開するのは実に興味深いものがあります。まあひょっとして彼は天の邪鬼だったということかもしれませんが、その天の邪鬼を実現すること自体が彼がただ者ではなかったことの証拠になるのではないでしょうか。最後に以前は気が付かなかったけれども今回DVDバージョンでこの映画を見ていてあれれ?と思ったことが1つあります。それはピーター・フィンチが病床のオードリー・ヘップバーンにベルギー産ビールを薦めているシーンで、ペットの猿しか見ていないとか何とか言ったあとで、自分の目、口、耳を手で閉じて見せるシーンについてです。これは多分「見ざる、聞かざる、言わざる」と言っているのだと思いますが、あちらでもそういう言い方をするのかなとふと思ってしまいました。「見ざる、聞かざる、言わざる」のさるとは猿とかけた洒落だとずっと思っていましたが、そうであるとすれば英語で同じことを言うはずがないので、ではこのシーンは一体何を意味するのかということになります。ひょっとすると、日光の東照宮の三匹の猿はオードリー・ヘップバーンも裸足で逃げる世界的なスーパースターだったということでしょうか???


2006/05/06 by Hiroshi Iruma
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