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 映画 日記   (2004年)       池田 博明 


2004年4月以降に見た 外 国 映 画 (洋画)
見た日と場所 作  品        感  想     (池田博明)
2004年5月30日

VHS
モンテ・ウォルシュ

1970年
USA

90分弱
 ウィリアム・H・フレーカー監督作品、原作は『シェーン』のシェーファー。本作はアメリカのセル・ビデオは入手可能ですが、日本での字幕ビデオやDVDはありません。ベータ録画した、月曜洋画劇場で放映された吹替え版のテープがありました。
 リー・マーヴィン主演(声は納谷悟郎)の“誇り高き男”三部作『北国の帝王』『モンテ・ウォルシュ』『ポイント・ブランク』のひとつ。(この三作を誇り高き男と命名したのは私です)
 ジョン・バリーの音楽とママ・キャスの主題歌“The good times are comming (きっとチャンスが来る)”が雄弁な一篇。
 ガンマンの時代が終わり、カウボーイたちも資本家に取り込まれて、若者が仕事を失う毎日。それでも義理と人情に厚く、“他人のものは盗まず”、偽善を軽蔑するプライドの高い男たち。その代表格がマーヴィン演ずるモンテ・ウォルシュ。彼の名前は男たちによく知られています。ちょうど『北国の帝王』のAナンバーワンのように。
 モンテが伯爵夫人と崇めている娼婦マルチーヌ役にジャンヌ・モロー。モンテの親友チェットにジャック・パランス。脇役までアルドリッチ一家の渋い男たちが登場する傑作です。この映画のよさはわかる人には分るものでしょう。
 冒頭の狼を撃とうとする場面で、銃を構えたモンテが「待てよ、狼を素手でつかまえた男のことを話したっけ」とつぶやく場面の“はずし方”がなんともいえない味わいになっています。
2004年5月14日

DVD
マイノリティ・リポート

USA

2002年
146分
 原作がフイリップ・K・ディックとあれば見ないわけにはいきません。トム・クルーズ主演、スティーヴン・スピルバーグ監督作品。ジョン・コーエン&スコット・フランク脚本、ヤヌス・カミンスキー撮影。
 予知能力者の殺人予知を利用して事前に犯罪を防止する犯罪防止局のトップ捜査官ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は息子を失ったという過去がありました。プールで遊んでいるときに一瞬目を放した隙に失踪してしまったのです。その傷が癒えずに、妻とも別れ、一途に仕事に打ち込んできたジョンの前に、犯罪予知システムに疑問をもつ法務局の若きエリート、ウィットワー(コリン・ファレル)が現われます。
 絶対安静の規則を突破して予知能力者(プレコグ)にウィットワーが接近した後、プレコグのアガサ(サマンサ・モートン)が見た予知夢にはジョンが見知らぬ男クロウを射殺する場面がありました。追う男が殺人容疑者として仲間から追われる羽目になります。しかし、予知夢が真実だとすれば仲間の追跡をジョンはかわせるはずです。網膜識別システムを逃れるために、スラムの闇医師から移植手術をしてもらい、「ヤマカシ」氏の眼球を得たジョンは情報部中枢を突破するために自分の眼球も持参しています。
 予知能力者を発見した女性博士から、予知が外れた場合のマイノリティ・リポート(最小報告)があり、それはアガサの脳にファイルされたと聞いて、ジョンはアガサを予知システムから誘拐し、ハッカーにアガサの脳の隠されたファイルを探索させます。しかし、マイノリティ・リポートはありませんでした。代わりにアガサの母が溺死させられる映像が取り出され、録画されます。
 ジョンは秘密を握るクロウを発見し、アガサの制止も聞かずに、会いに行きます。すると、マンションのベッドには男が誘拐したと思しき少年たちの写真があり、写真のなかにはジョンの息子もありました。問い詰めると男は「その子は樽につめて沈めた」と告白するのでした。とうとう仇を見つけた・・・・ジョンは拳銃の狙いを男につけます。しかし、ジョンは自制して、男に容疑者の権利を伝えるのでした。予知夢を自分の意志で外したのです。一転してクロウは「自分を殺してくれ」と訴えます。「ある男と契約したんだ、誘拐犯人を装うことで殺されれば、家族は安泰だ、と」。男は拳銃を自分に当て引き金を引くのでした。マンションから転落していく男・・・・やはり予知夢は当ってしまったのです。
 一方ジョンを追跡しているウィットワーは事件の奇妙さに気付いていました。誘拐犯人がわざわざ部屋に写真をバラまいているなどと有り得ないことです。そしてアガサの脳から取り出された母親殺しの映像の波の向きの奇妙さに。巧妙なトリックが隠されているようです。いったい誰が、なんのために。
 絶対絶命のジョンはアガサと共に別れた妻の家に隠れました。ジョンの恩師ラマー(マックス・フォン・シドー)が相談にのっていました。しかし、敵の手は着実に近づいていました。
 二転三転する展開はトム・クルーズ主演の『ミッション・インポッシブル』のようです。プレコグの予知夢がトリックに使われています。 
2004年5月5日

VHS
初恋のきた道

2000年
中国

89分
 チャン・イーモウ監督、パオ・シー脚本。チャン・ツィイー主演。
 父が死んだという知らせを聞いて村に帰ったユーシェン。村長の話では、父は新校舎の建築資金を集めている途中、吹雪に倒れて心臓病で死んだといいます。家路を忘れないように死者を町の病院から担いで村まで運ぶという母の決意を、息子は翻意させることが出来ませんでした。白黒画面で始まります。
 回想シーンがカラーになります。1958年、村に出来た小学校へ赴任してきた若い先生に、17歳の少女ディーは恋します。村一番の美女に任されるという新築の学校の梁に巻く赤い布を織ったのがディーでした。一途な想いをこめて少女は建築現場で働く先生たちのために食事を作ります。やがてその想いが通じたものの、先生は“右派”との疑いを受け、町へ戻らざるを得なくなります。(ビデオのパッケージには「文革」によりと書いてありましたが、これはおかしいですね。文化大革命はずっと後の話ですから時代が合いません)
 きっと帰ってくると約束した旧暦の12月8日、雪のなか、少女は恋人の帰りを待ち続けます。熱病に倒れながらも町へ探索に出た少女はとうとう行き倒れてしまいます。なんとか助けられた少女の許に先生が1日だけ帰ってきました。その後2年間の空白がありましたが、とうとう二人は一緒になります。それから40年間、父はずっと母と一緒でした。
 少女は一途な想いをこめてよく走ります。春夏秋冬、「走る」場面が印象的です。
 村長は現代の村には、もう老人と子供ばかりで、棺の担ぎ手はいないといいます。しかし、息子は父と母のために人を雇う決意をしました。いざその日が来ると、父の教え子たちがやって来て交替しながら無料で棺を村まで運んでくれました。
 そして、新しい校舎も出来ることになりました。母は貯えた財産をすべて村に寄付します。息子は取り壊される予定の教室で、村の子供たちを集めて、父が初めて村にきたときに朗読した本を読みます。それは父が独自に手作りした教科書でした。「読み書き計算に励め、必ず筆記せよ、目上のものを敬え」などなど。老いた母は息子の声に父の面影をみます。師範学校を出たのに教師にならなかった息子でしたが。
 原題の「The Road Home」(家路)を『初恋のきた道』と訳した日本コロムビア配給会社は見事でした。先生が独自編纂したという読本の内容は当時の政府から目をつけられるような内容なのでしょうが、その辺の綾は理解できませんでした。後述する藤井氏の本によると、それらは「古典の成語」であって、共産党から反革命分子の容疑をかけられるものだそうです。
 私の第一印象は美しすぎる、“甘すぎる”映画だなあというものです。村の背景に見える山はまるっきりのハゲ山で、森林になっていないことが分ります。春の新緑や秋の紅葉が少女と一緒に望遠レンズで美しく撮られているのですが、これらの木々は雑木林であって、決して森林ではないのです。このような自然環境で暮らすのは楽なことではないでしょう。表井戸と裏井戸という村人が利用している二つの井戸も決して村が豊かではない証拠のように見えます。しかしその貧しさが強調されることはありません。
 藤井省三の『中国映画』(岩波書店,2002年)によると、1958年から始まる共産党の大躍進時期に、人民公社が組織化される一方で、中国全土で千五百万から四千万の餓死者が出たといいます。犠牲者のほとんどが農民でした。大々的な水利建設に動員された結果、本来の農作業が行えなかったのです。藤井氏は『初恋のきた道』の盲目の祖母を少女ひとりで養っている設定は非現実的で、矛盾していると批判しています。藤井氏は“ハリウッド映画のお手軽なラブストーリィを借りた、中国版の矛盾だらけのメルヘン”と手きびしい評価をしています。この映画を観ていた何の予備知識もない私の妻も、“この少女と祖母の家はずいぶん良い食事をしているけれど、いったい何をして生計を立てているのかしら”と不思議がっていました。 
2004年5月3日

VHS
モース警部シリーズ vol.5

日の沈む時

1987年
英国
104分
 「日の沈む時 The Settling of the Sun」は日出る国である日本を逆説的に表現したタイトル。モース警部はジェーン・ロブソン博士(アンナ・カルダー=マーシャル)と美術展の話をしていました。車椅子の父親ロブソン牧師が展覧会のパンフレットの絵から急に過去の拷問された記憶を蘇らせて発作を起こし、死亡します。日本兵と関係があるようです。日本人と日本が悪役になっている一篇。
 カレッジ(大学)のクロスワード大会で勝者に賞を授与するプレゼンターとして招待されたモース。ディナーの途中で気分を害して部屋に戻った日本人の青年ユキオの身を案ずるジェーン。部屋には損傷された死体が転がっていました。参加者にはアリバイがあります。なにせモースが証人なのです。
 探っていくうちにユキオの持ち物からヘロインが発見されます。彼は麻薬の売人だったのです。事情聴取に答えた証言者は心なしか、みな落ち着かず、動揺しているように思われました。
 探索していくうちに関係者が隠している事実が少しずつ明らかになり始めます。そうしているうちに、添乗員の青年が殺され、バスでユキオの隣席だったフリードマン氏(デレク・フォウルズ)が殺されます。
 前年に麻薬で死亡したジェイクの父親が学寮長のウィルフレッド氏(ロバート・スティーヴンス)だったこと、彼から聞いてジェーンはユキオの父親がロブソン牧師を拷問した日本の科学者だったと知ったこと、フリードマン氏は実はジェーンの兄マイケル・ロブソンだったこと、添乗員はマイケルの息子だったことなどが明らかになってきます。
 捕虜を拷問した日本人は米軍の人体実験の資料収集目的から戦犯に指定されなかったこと、ロブソン氏は牧師であるがゆえに磔にされて拷問されたこと、替え玉を使ってユキオが生存しているように見せかけたこと、会計係のウォーバット夫人(エイヴィス・バネージ)も参戦経験があり捕虜に対する扱いから日本人を憎んでいることなどが絡み合って事件を複雑な様相に織り上げていきます。学寮長ウィルフレッドが「捕虜に対する非人道的な扱い等の報いを日本人は広島・長崎で受けたことになる」という見解を述べる場面もあります。
 脚本チャ−ルズ・ウッド、監督ピーター・ハモンド。
 日本クラウン株式会社では一期10巻のVHSが廃盤になっていました。『キドリントンから消えた娘』を見たかったのですが・・・・。
2004年4月27日

BS2
14:30〜16:00
ドン・キホーテ

フランス
1933年
(日本公開は1934年)
82分
 予約録画したのですが、古いTVガイドの放映時刻が8分ずれていたため、ラストが録画されていませんでした。本を燃やされたドン・キホーテが呆然とする場面で予約録画が終了してしまっていました。残念です。こんな古い映画を録画しようとした人もいないでしょうし、もはや完全版を見ることは不可能でしょうね。(と思っていたら、ドリームライフからビデオが市販されていました。14000円もしました。65分の一部カット版でしたが、ラストはちゃんと入っていました。)
 シャリアピンのLPレコードを購入したのは高校生のとき。もう30年以上も前の話です。レコードに収録された曲にこの映画『ドン・キホーテ』からの歌が2〜3曲ありました。たしか本を燃やされた失意のドン・キホーテが歌う最期のアリアも収録されていたような記憶があります。作曲者はジャック・イベール。この映画のために作曲されたものでしょう。ビデオに同梱された岡村喬生の解説によれば懸賞募集で採用されたものだったそうです。ラベルも応募したそうですが。監督はG・W・パプストで、ナチスを嫌ってドイツを去った後にフランスで製作した映画です。双葉十三郎氏は「オペラ的演出とリアリズム場面が調和していない出来。シャリアピン自身の企画」と書いていました。このとき1873年生れのシャリアピンは60歳。1938年に他界します。
 ドン・キホーテは原作通り、書物で得た騎士道にとりつかれた男として描かれていますし、彼を批判する目として、サンチョ・パンサ(ドルヴィル)の常識的な判断が、そしてさらにそのサンチョを批判する妻(マディ・ベリィ)の姿も描かれています。騎士道精神は、公爵により一定の評価をされますが、一般の人々は哀れな老人を笑いものにしています。
 風車との戦いは原作では始めの冒険ですが、映画では最後になっています。このパプストの映画は現在のような特殊撮影が無かったわけですから、かなり大掛かりな作品です。なによりも、シャリアピンの多くの歌がこの映画の最大の魅力です。脚色ポール・モラン、撮影ニコラス・ファルカス、装置アンドレエ・アンドレーフ、録音ドゥブヴェ・エル・ベル、衣装エム・プレッツフェルダー。
 ドン・キホーテが見果てぬ夢を追っているのは理解できますが、よく考えてみると、ミュージカル『ラマンチャの男』とか、テリー・ギリアムの未完に終わった『ロスト・イン・ラマンチャ』とか、なぜ繰り返しドン・キホーテが描かれるのか、不思議です。書棚にある牛島信明『ドン・キホーテの旅』(中公新書1672,2002年)と『ドン・キホーテ』(岩波少年文庫)を参考にその手がかりを探ってみましょう。
 執筆当時からこの書はフランスで高く評価されたようです。反スペイン感情の強かったフランスではスペイン風刺の傑作としてもてはやされました。騎士道精神を揶揄した小説としてだけではなく、理想を追い求める遍歴の騎士の受難の物語と理解されたのは19世紀になってからです。また、よく読むと、ドン・キホーテは多弁の人であり、聞き役で批判役であるサンチョと相まって重層的な物語となっています。
 牛島氏はドン・キホーテはまったく類似した前例のない「新しい人」であり、『男はつらいよ』の寅さんに通じている、と指摘しています。“とりわけその「場あたり性」は、確実性、体系性、普遍性、超時間的原理を追求する近代(モダン)の合理性とは相容れない。ラ・マンチャの騎士は、個別的なもの、ローカルなもの、その場限りのもの、人間的なるものを尊重する「ルネサンス=人文主義」の化身だったのだから”と論じています。ドン・キホーテはポスト・モダンの人物なのです。  
2004年4月24日

DVD
ターミネーター3

USA
2003年
110分
 未来から送り込まれてくる殺人兵器がとうとう女性になりました。監督ジョナサン・モストウ。
 アクション場面がスケールアップした分、物語は後退しました。ターミネーター同士の戦いは派手なものがありますが、クレーン車のような大きな車が物を破壊しても、格闘技を見ても感興を覚えたりすることが無く、モノが壊されて勿体ないなあとか、撮影が大変だったろうなあとか、余計なことを考えてしまいます。1作目が懐かしい。もっとも『ターミネーター3』にアクションを期待しない観客というのがそもそも奇妙ですね。
 女ターミネーターを演ずるクリスタナ・ローケンの無表情は、よくはまっており、印象的でした。
 責任の重圧さからドラッグ中毒になってしまっているコナー(ニック・スタール)がなぜ人類のリーダーになったのかという理由は最後の場面で分ります。自動戦争プログラム「スカイネット」が起動して核戦争が勃発してしまったのでした。生き残った女性ケイト(クレア・デーンズ)は意志の強い行動的な女性として描かれていました。『ターミネーター2』では母親が早めに事情を理解し、コナー本人がなかなか事情を理解できずにいましたが、今回はコナーがすぐに事情を理解し、ケイトが理解できないでいるという立場です。観客はみんな事情を理解しているので、その分、ケイト役は愚かに見えてしまい、損をしています。しかし、次第に母親同様の強さを発揮していく過程がきちんと描かれていました。
 みんなで楽しみながら映画を作っているという感じがしました。

2004年4月以降に見た 日 本 映 画 (邦画)
見た日と場所 作  品        感  想     (池田博明)
2004年5月28日

VHS
木曜ゴールデンドラマ・妻の失ったもの

1981年6月4日YTV
80分
 脚本・新藤兼人、監督・森崎東。近代映画協会が共同で製作していたTVドラマの一篇。新藤=森崎コンビ作品は『妻は何をしたか』(1983/1/11,ANB、香山美子主演)、『妻は何を感じたか』(1983/10/10,ANB、樫山文枝主演)など。
 太平洋岸沿いの新興住宅地(後で千葉県蒲郡と出て来る)に住む主婦・時田光枝(丘みつ子)が一人でいるときに、若い男(風間杜夫)が訪れてくる。男に押し倒されて寝室の布団の上で気絶した光枝が20〜30分後に気づくと、男の姿はなく、パンティが脱がされていた。暴行されたのだろうか。いや、そんなはずはない。隣人の主婦(吉田日出子)に訴えると警察に通報してくれた。すっかり主婦たち(絵沢萌子ら)の好奇心の餌食である。
 警察の取り調べ室で刑事の安達(前田吟)は現場に犯人の指紋がなく(軍手を手をしていた)、争った痕跡も残されていない(光枝が寝室の布団を片づけてしまった)ことから、無くした金の理由づけに妻が仕組んだ狂言強盗であるという予断をもって、捜査する。長時間の執拗な尋問に耐えられず、光枝は暴行された可能性が医師の診断によってはっきりすることを恐れ、「新聞には出ない」という刑事の甘言に乗ってしまい、狂言だったと自白してしまう。警察の部長役は戸浦六宏。
 しかし、翌朝の朝刊には狂言強盗と出てしまった。四面楚歌が始まる。小学校の娘や中学校の息子は仲間から非難される。役場に務める同居の妹(島村佳江)は同僚から交際を解消される。ホテルマンの夫(愛川欽也、月給は14万円という)は上司(小松方正)から辞職を迫られる。食堂を経営する父(殿山泰司)も商売あがったりだと言ってくる。妻は夫に真実を打ち明け、狂言強盗はウソでしたと警察へ訴えたが、メンツをたてに警察では取り合ってくれない。母(乙羽信子)は妻を信じて力になってやれと夫を激励するものの、次々に起るバッシングに二人は倒れかかってしまう。
 しかし、様子がおかしいと気づいた新聞社が取材を始め、狂言強盗ではなかったと報道される。そのことが一波乱を呼ぶ。騒ぎを嫌うホテル業界に務める夫は首をきられてしまう。妹は家を出て行く。夫は「この町ではもう暮らせない、町を出ていこう」と提案する。しかし、子供たちは味方だった、「なにも悪いことをしていないのに、こそこそ町を出ていくのはイヤだ」というのだ。
 そこへ、あの“強盗”男がやってくる。警察に自首する前に謝りに来たのだという。当日、自殺するつもりでいたのだという。暴行はしていないと断言する。思わず、「ありがとう」と答えてしまう光枝。夫はこれまでの怒りをこめて男を殴る、殴り続ける。やがてパトカーがやってきた。
 夫は無抵抗の男を殴った自分は卑怯ものだったと反省するが、妻は夫のその言葉を強く否定していた・・・・
 ほとんどセリフがない丘みつ子の演技力が光る。森崎さんの的確な演出がみもの。
2004年5月20日

VHS
野良猫ロック セックスハンター

日活

1970年

85分
 基地の町にたむろする不良集団イーグルス。暴行・傷害・輪姦などなんでもありの少年たちをひきいるバロン(藤竜也)たちが、新しく始めたハーフ(混血児)狩りを、マコ(梶芽衣子)ひきいる不良少女グループ・野良猫たちは冷ややかに見ています。バロンは子供時代に米兵に姉を強姦されて何もできなかった経験がトラウマとなっており、街の女たちの貞操をハーフたちから守ってやるんだという表向きの理由を付けています。不良少女たちは余計なお世話だと答えます。
 彼女たちは自分の性を売り物にすることは拒否しており、女を商品として見る大人には徹底的に暴行を加えます。彼女たちが大切にしているのは、恋人とのほんものの“恋愛”です。
 現在見ても不良感度100%のこの映画。梶芽衣子の魅力は炸裂していて、タランティーノ監督の『キル・ビル』のヒットで再評価されている『さそり』や『修羅雪姫』と合わせて、『野良猫ロック』シリーズも再評価してほしいものです。ビデオは絶盤で入手困難です。USAでは英語吹替えのビデオ版が出ていたそうですが。2006年3月・深夜に放映されました。
 脚本は大和屋竺が書いた第一稿に長谷部安春が手を入れ、さらに大和屋が修正しました。撮影台本との最終的な違い(長谷部の判断)は、進(岡崎二朗)が「俺もハーフだったんだよ」と告白する台詞を入れたことと、ラストシーンで数馬が妹メグミを射殺することです。(大和屋竺ダイナマイト傑作選『荒野のダッチワイフ』、1994年、フィルムアート社)
 次のゾクゾクするようなマコとバロンの会話は当時よく友人どうしで真似たものでした。これらの台詞は大和屋竺の脚本に既にありました。

 “(ホテルの部屋で、バロンに仲間を売られたと知ったマコが怒って、ガーターに隠した細身のナイフを引き抜いて構える)
 マコ「ヤバイよ。なにしろ見境いなしだからネ。やさぐれの野良なんだから」
 バロン「(冷静に)マコ、カッコいい皮ジャン、買ってやったっけな」
 マコ「(吐き捨てるように)・・・やぶいちゃったよ」
 バロン「・・・香水。ディオールのリオリッシモ」
 マコ「(不敵に)・・・ビンごと割った」”
 バロン「(少し考えて)・・・マコ、あいつ(数馬)に惚れたのか」
 マコ「(ハッとする)・・・」
 バロン「そうなんだな」
 マコ「・・・そうよ」
 バロン「わかったよ。だがマズイことになるぜ。それでもいいのか」
 マコ「いいわ」
 バロン「ああ・・・、ズベ公が色気づきやがるとすぐこれだ、まるで見境いがなくなるんだな」
 マコ「あたしは、あんたと違うのよ(バロンは性的不能である)。立派な、一人前の女だからね」
 バロン「(怒って)一人前の女だったら何をやってるんだぃ、腰ふって野郎にベタつくしか能がねぇじゃねぇか!」
 マコ「・・・バロン、もういいよ。はっきりしたね」”
 
 さて、この映画は、いったい何を描き出しているのでしょうか。既に藤田真男“『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造”が指摘していたように、単なる風俗映画ではありません。あぶり出されているのは、差別意識を生む構造です。《男たち》(イーグルス)と《女たち》(野良猫)、《支配者》(アメリカ)=《男》と、《被支配者》(日本)=《女》の性的関係、《精力強靭な男》(ハーフの数馬)と《性的不能な男》(バロン)。
 他にも映画の内的な運動を形作る二項対立があります。《無垢で自由でわがままな子供》と《打算的で狡猾な大人》、《妹=血縁を、探す兄》と《兄=血縁を、拒否する妹》など。 
2004年5月19日

VHS
女生きてます・盛り場渡り鳥

松竹

1973年
 たった一度だけテレビ放映されたものをベータ収録したもの。おそらくあまりにも異色であるため、森崎さんの「女生きてます」シリーズのうち、この作品だけがビデオ市販されていません。放送禁止用語が次々に飛び出すわ、春川ますみが演ずる初子(川崎あかね)の母・富子の“卑猥な”言葉が過剰な森崎東監督の超傑作。
 藤原審爾原作『わが国おんな三割安』から、“いただき初子”のキャラクターを借りたものですが、初子の住むスラムや、初子の“色キチガイ”の母、“むっつり”して裁縫する祖母(浦辺粂子)、“出歯亀”浪人生(なべおさみ)、激しい吃音の労務者(山崎努)、その通訳の老人(藤原釜足)などが織り成す“他人同士が家族を築く”連帯の人生模様が強烈です。
 労務者(山崎)は、女房の間男のヤクザを殴り殺して刑務所入りしたものの、出所後にそのヤクザの連れ子・和江を探していました。初子がスラムで預かっている子どもたちの一人がその和江でした。男は娘を取り戻そうとしていますが、ひどい吃音のため、意志を通じさせることができません。勢い、家を破壊したり、暴力をふるったりしてしまいます。
 一見、“貧しい”、“暗い”、“汚い”、“底辺の”、“裏”世界を描いて、人間の“豊かな”、“明るい”、“美しい”、“高貴な”、精神世界をあぶり出すという、森崎ワールドの全面展開が、ここにはあります。
 それにしてもよくこれほど“過激で”“非商業的な”映画が作れましたね。1970年代当時の商業映画の懐の深さが感じられます。 
2004年5月18日

VHS
顔役

ダイニチ映配

1969年
 1981年にフジテレビでたった一度だけテレビ放映されたものをベータ収録したもの。ところどころ画像が乱れます。20分くらいカットされています。勝新太郎の初監督作品で徹頭徹尾ワンマン映画。
 この映画がDVD化されることと、以前ビデオで出ていたTV版の座頭市が全巻復活発売されることが今いちばんの希望です。
 『顔役』の凄さはとにかく見てもらうしかないでしょう。公開当時、実験映画気取り、前衛映画気取りと酷評されたようですが、評論家なんて見る目が無いものですね。勝新は実験映画や前衛映画を気取ったのではありません。この映画は実験映画、前衛映画そのものなのです。そして、勝新のやくざ刑事ものがなぜ実験映画ではいけないのでしょうか。勝新のやくざ刑事ものの系譜としては、この後『警視K』があります。この『警視K』も実験映画そのものでした。ほとんどシナリオが無い話もありましたね。
 『顔役』にも、ほとんど脚本が無いまま撮影が進行したのではないかと思わせる箇所がいくつもあります。勝作品をよく撮影した森田富士郎(『顔役』の撮影は牧浦地志)が「勝さんには構成力が欠けていましたね」と言っています。
 細部にこだわった『顔役』にはわかりやすいスト−リーはありません。しかし、その細部こそが映画そのものなのです。

【追記2010年1月27日・11月】『顔役』シナリオ採録をした。テレビで放映されたものを規準に言語化したものである。CS衛星劇場で11月9日・18日・27日にとうとう『顔役』完全版が放映された。やった! 分析シナリオも修正しました。
2004年5月17日

VHS
俺の愛した謎の女

1979年10月?
 森崎東監督の「特選サスペンス」枠のテレフィーチャー。車が縦横に走ります。
 山崎巌脚本・原作はルイーズ・フレッチャー「スタンフォード60号の女」。助監督に下村優。
 タクシー運転手(河原崎健三)は横浜行きを秘密にしてくれという不思議な美女(宇都宮雅代)を載せます。もう一度、女に会いたくなった彼は偶然を装ってKDDI前で待ち伏せて女を拾います。再び横浜へ行った女はタクシーを待たせてある家に入っていきます。約束の時間になっても戻って来ない女は、どうやらそこで男に脅迫されているようです。激しい雨に濡れた体を乾かそうと入ったホテルで女は彼に体を寄せてきました。彼はひき逃げされた妻の話をして、ひき逃げ車に乗っていた男を探すために運転手になったのだと告白します。
 数日後、「河野」と名乗る女に指名された彼は例の横浜の家で男の刺殺死体を発見します。男はあのひき逃げ犯人でした。警察が乗り込んできて間一髪、彼は逃げのびます。しかし、駐車したままの車が証拠となり、彼は重要参考人となってしまいます。「女のワナにはまったのでしょうか」。
 殺された男は古美術商で商事会社を脅迫しており、その会社の社長秘書が女の正体でした。成田空港から飛行機に乗ろうとしていた女をやっと発見した彼は、警察に出頭する前に、驚くべき告白を女から聞くのでした。そして女は短刀で自殺してしまいます。
 正味40分のドラマで森崎さんのスピード感覚あふれる作品となっています。 
2004年5月17日

VHS
天中殺の女たち/第3話・天女の遺産

1979年11月16日
 森崎東脚本のテレフィーチャー。監督は山根成之。
 森崎世界のキイワード満載の映画になっています。
 “ひろわれっ子”の“温泉芸者”豆太郎こと西村時枝(倍賞千恵子)はお百度参りをしているようです。“養父母”(楠トシエなど)の家で病気療養中だった老人が“大往生”していました。豆太郎の水上げをしたこのパトロンは、豆太郎に会社の財産をそっくり遺してくれたばかりか、会社社長にしてしまったのです。息子の副社長(砂塚秀夫)も老妻(浦辺粂子)も社長の遺言に異存はありません。戦争中、“引揚者だった”夫が中国でご馳走になった“茶碗”に入れた“砂糖水”を入社の儀式として社員に課しているような栃木の中小企業です。
 豆太郎こと蘭子は美容院で「天中殺」の話を聞き、自分の生年月日から天中殺が来ないうちにと、会社に出社し、経理をマスターしてしまいます。初恋の人に似ているという親切な社員・古屋(糸山英太郎)に惚れて、婚約しようと決意しますが、彼には内縁の妻がいたのです。養父母が生年月日を3日遅く届けていたので、本来の生年月日からは蘭子はもう天中殺に入っていたのでした。
 副社長は“親子どんぶり”になりますが、蘭子に惚れてしまいました。会社の金を持ち逃げした古屋の“赤ん坊を引き取って育てる”蘭子でした。古屋が出所する一年後にはたして赤ん坊を親もとへ返せるかどうか、養父母は心配しています。まるで自分を見るようで、甲斐甲斐しく育てているのですから。
 主演は倍賞千恵子で、コミカルな演技をきっちりこなしています。
2004年5月10日

DVD
『座頭市』と呼ばれた男

2003年
角川大映
40分
 構成・演出は今尾偲。亡き勝新を中村玉緒、田中徳三・井上昭(監督)、森田富士郎(撮影)ほかが語ります。テレビの《座頭市》時代の勝新の破天荒な監督ぶりが一番面白い。話ができあがっていなくて、現場で勝新の口だてをメモしていくようなときも多かったそうです。勝新には「構成力が無かった」と森田富士郎は言っていました。
 脚本家・中村努の話が無類におかしいですね。クランクインしたのに、話がまったくできておらず、勝新にも分らないで撮ってしまう場合もあったが、なんにも無かったのに途方も無い傑作ができてしまうことがあり、それが例えば原田美枝子が出演した第10話『冬の海』、「こんな映画ができてしまっては・・・・いったい私たち脚本家はどんなふうに書けばいいのですか」と勝新に聞いたところ、答えは「市、少女、海」と3行書けということでした、と。
 混乱の果てにできる映画だった、と話は進んでいくのでした。
2004年5月8日

DVD
座頭市千両首

大映
1964年
83分
 池広一夫が初めて「座頭市」シリーズを監督した作品。国定忠治を島田正吾が演じています。以前に一度TV放映を見たはずですが、すっかり内容を忘れていました。
 急に斬りかかられたため、斬ってしまった吉蔵の墓参りに上州の板倉村にやってきた市は、村の祭りの輪に加わった。三年越しの飢饉で大変なのに上納金千両を課されて村は大変、しかしそれがようやく用意できたのだそうです。ところが、翌日その千両を浪人ものに奪われてしまいます。転がってきた千両箱に知らずに腰掛けた市は、目撃していた村の娘(坪内ミキ子)によって強盗一味と疑われてしまいます。赤城の山に立て篭もった忠治の部下も一味に加わっていました。
 村人は市を打ち、忠治を疑います。市は自分と忠治の無実を明かそうと調べ始めますが、村人たちはやくざでお尋ね者の市をまったく信用しません。
 忠治は市の忠告で山を下りますが、既に手が回っていました。斬りあいで子分を失ってしまう忠治。市のほうは千両箱強盗の首謀者は代官であることをつきとめます。代官は庄屋の訴えを斥け、さらに千両を要求します。強訴に出た村人とともに庄屋は斬首と決まりました。
 その朝、刑場に向う役人の列に市が斬り込みます。代官も成敗して千両箱を村の娘に渡した市は、鞭を使う浪人・十四郎(城健三朗)と決闘します。
 撮影・宮川一夫、美術・西岡善信、照明・中岡源権。脚本は浅井昭三郎と太田昭和。TV版「座頭市」では“赤城おろし”に国定忠治が登場します。
 島田正吾出演場面は新国劇の舞台のように重々しくなっています。シリーズ中屈指の傑作という評価をしたひともあったと思いますが、物語や人間関係が単純で薄く、水準作というところでしょうか。平岡正明は“江戸時代に悪代官はほとんどいなかったし、十手取縄をあずかる親分は悪い親分ということはなかった。・・・農民が代官へ直訴するというのはおかしい。直訴の対象は将軍である。庄屋が代官にかけあいにいったら死罪なんて無茶苦茶だ”と評しています(『座頭市・勝新太郎全体論』)。代官にとって金づるを殺してしまったら、元も子もないのですから。
2004年5月5日

DVD
攻殻機動隊

1995年

バンダイ・ビジュアル
講談社
 キャラクター中心に動くアニメが主流ですが、この作品で重要なメッセージは「風景」と「状況」にあります。押井守は『イノセンス創作ノート』(徳間書店)で、『ルパン3世・カリオストロの城』の風景や建築の組み込み方(美術設定)に驚愕したと言っています。“アニメにおける美術設定、わけても建築の意味について考えぬかねば、演出家に未来はない、と肝に銘じた”と。
 『攻殻機動隊』で印象的な「風景」は香港のような旧市街(押井の言葉を借りれば、“アジア的混沌として電脳世界を具体化すること”)、9課の中心制御室、高層ビル街(“垂直線の街、遠景のない閉塞した街”)、高速道路、湾。そして、最後の銃撃戦が行われる水没博物館。
 そして、「状況」とは、この映画では登場人物が語り、作り出すものですが、押井守の世界にあっては、“登場人物一人一人が観念なんです。情緒というものがない。いっさい官能性がない”(鈴木敏夫談)。私とは何かをめぐる、メタフィジカルな会話。サイボーグが自分の存在に疑問をもつのは、ディック原作『ブレード・ランナー』以来の伝統です。
 電脳社会で取替えのきく義体をもつスナイパー・草薙素子「少佐」は、「自分」は自身や他人の情報の総体として存在すると言います。
 一方、電脳内に誕生したプログラム「人形使い」のゴースト(幽霊。ここでは生命本体のようなもの)は電脳内のバグとして移動し、生存してきました。人形使いは素子やバトーを製作・メンテナンスしている会社の義体を乗っ取り、公安9課へ潜入し、逃亡を図り、捕縛されて、素子との「融合」を試みます。完全な機械だった人形使いは、人間・素子の脳と融合することで単なるコピーから脱却しようとしたのです。政府の抹殺命令を受けて人形使いのシュミラクラと素子は狙撃されます。素子の相棒バトーもケガをしました。しかし、バトーは素子の脳を回収します。
 最後に、人形使いと素子は融合したのでしょうか。新しい人格が創造されたのでしょうか。少女の義体を得た素子の言葉、「人となりては童のことを棄てたり・・・ここには人形使いと呼ばれたプログラムも少佐と呼ばれた女もいないわ」から、おそらく広大なネット社会に新たな人格をもった彼女がダイブしたであろうことが予想されます。
 原作・士郎正宗、脚色・伊藤和典、演出・西久保利彦、音楽・川井憲二、キャラクターデザイン・沖浦啓之、監督・押井守。
 DVDには『イノセンス』のプロモーション映像が収録されています。より三次元的な奥行きが深まり、色彩は原色に彩られていました。
2004年5月4日

NHK総合

8:30〜10:00

天空に夢輝き/手塚治虫の夏休み

NHK大阪
 小学校5年生の治。昭和14年、宝塚市の大阪大学附属池田小学校でした。授業中のマンガで注意された治(吉澤拓真)に、父・豊(三浦友和)は今後いっさいマンガを読むことも描くことも禁止を命じます。治は昆虫採集に方向を転換します。林で出会った奇妙な男・中田(田中邦衛)は実は流しの時計修理屋。昆虫採集のコツや這いまわる「しぶとく生きる」オサムシを教えてもらった治は、家出を決意し、一緒に連れていってくれと頼みます。今晩12時きっかりに祠の前で星空を見て、星が流れた方向に神のお告げの場所があると言われて、会う約束をした治でしたが、うっかり寝過ごしてしまいました。翌日、謝りに行った治に中田は自分の失敗を取り返してくれるほど神様は甘くないよと諭して、出立してしまいます。宝塚歌劇ファンのお手伝いさんの末子も田舎に帰ってしまいます。行き倒れで保護された中田は病院で「あの晩、星はたくさん流れたよ」と言い、満州に一緒に行こうと約束します。しかし、病気は重く、彼はそのまま死んでしまいました。身よりも無い中田の葬儀の席上、やむにやまれぬ衝動から治は中田の肖像を描きます。父は「好きな事を精一杯やれ」と言います。時代は国民皆兵に向っており、若者の明日の生命は知れないときでした。
 母親役は松原千明。音楽・久石譲、作・下川博、演出・大森青児。TVムービー。
2004年4月17日

舞台
太鼓たたいて笛ふいて

3時間

紀伊国屋サザンシアター
 林芙美子の戦前・戦中・戦後を描いた井上ひさしの戯曲、こまつ座第72回公演。栗山民也演出。
 林芙美子(大竹しのぶ)、その母・林キク(梅沢昌代)、島崎藤村の姪・島崎こま子(神野三鈴)、音楽プロデューサー・三木孝(木場勝巳)、行商人・特高・刑事・加賀四郎(松本きょうじ)、行商人・遠野の百姓・土沢時男(阿南健治)、ピアニスト(朴勝哲)。キャストは初演時と同じでした。
 1場に1曲以上の歌(音楽)が盛り込まれています。その歌も「行商隊の唄」や鯛の「姿焼きの唄」など宇野誠一郎のオリジナル曲から、チャイコフスキー原曲の「女給の唄」、ベートーベン原曲の「物語にほまれあれ」など様々。
 林芙美子は庶民に支持された作家でした。文壇の評価以前に売れた『放浪記』、戦中の従軍記者としての活躍。しかし、明治以来の国民の「戦争は儲かる」という無意識の物語を、笛や太鼓で囃し立てた責任を感じて、戦後は戦争の爪あとにこだわった作品を遺しました。井上ひさしは芙美子にこう言わせています。
 “書かなきゃならないの、この腕が折れるまで、この心臓が裂け切れるまで。その人たち(庶民)の悔しさを、その人たちにせめてものお詫びをするために”。
 主演の大竹しのぶの舞台は『奇跡の人』を見たことがあります。彼女はサリバン先生役でヘレン・ケラー役は中嶋朋子でした。天使から悪魔まで演じ分けることのできる声が大竹しのぶの持ち味です。2003年の野田秀樹作のひとり芝居『売り言葉』(NHK教育テレビで放映)でもその実力は存分に発揮されていました。
 林芙美子の『放浪記』(新潮文庫版)、『浮雲』(新潮文庫)や、川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館)、平林たい子『林芙美子・宮本百合子』(講談社現代文庫)をまとめて読みたくなりました。
2004年4月15日

BS2
13:00〜14:00
股旅三人やくざ

東映
昭和40年
 沢島忠監督の傑作。三話オムニバス。脚本は野上龍雄・笠原和夫・中島貞夫。撮影・古谷伸。大変ユニークな作品ですが、興行的には失敗し、東映が時代劇から撤退するきっかけとなったそうです(川本三郎ほか『時代劇への招待』より)。
 冒頭「どじょっこ、ふなっこ」の秋の歌が流れます。第一話は秋の章。ススキのシルエットが夕日に映えて美しい。一人のやくざ者・仙太郎(仲代達矢)は途中、会った男に路銀を渡して道中を急ぐ旅。しかし、男は仙太郎を追ってきました。凶状もちと知って賞金稼ぎに来たのです。仙太郎は男を斬って捨て、懐からこぼれた女ものの櫛を取り上げます。
 さて、顔を隠して村に入った仙太郎は土地の親分(内田朝雄)のところにわらじを脱ぐことになります。土間で中腰で仁義をきる姿がなんとも美しい。
 仙太郎は半分かくまわれた状態でず。そのうちに昔の男を忘れられないと騒ぐ女郎(桜町弘子)の番をさせられます。昔の男は乱暴ものだったらしいがと女に問うと、女は一度だけ抱かれて顔も思い出せない男だが、自分を本気で好きだと言ってくれた男だから、それでいいのだと答えます。しかし、少し調べてみると、女の愛したという男は仙太郎が斬って捨てた男でした。仙太郎は女にわびます。女は自分の番をしてくれていながら、自分をきれいなまま見張りをしてくれた仙太郎に惚れたといいます。女に惚れた男は、代官と組んで悪どい稼ぎをしている親分に反抗していた兄弟の弟分でした。仙太郎は一計を案じ、兄貴分に自分を奉行所に売らせます。そして得た賞金を女に渡してもらい、自分を疎んじてきた親分を河原に呼び出し、斬った後で、自分が手配した役人の中に斬りこんでいきます。
 第二話は冬の章。吹雪のなか、若者(松方弘樹)と老人(志村嵩)が一軒の家に避難し、休息に入ります。昔は茶店をしていた家のようです。二人は会話の内容からすると、いかさま博打の盆から逃げて来たようです。暖をとりながら、まず若者が身の上話をします。父親が死んだとき小さかった自分は後をつがせてもらえず、十七歳になったらという約束で諸国で苦労を重ね、やっと故郷へ戻ってみると、やくざもんには田んぼは任せられないと拒否された。体よく騙されて代代の田畑を取られただけだった。そこでグレてやくざものになったのだ、と。一方、謎めいた老人は帰宅した娘(藤純子)からこの家のおかみが死んだこと、父親がやくざものに身を落したことを聞いて呆然とします。父親から預かった金だと娘に渡そうとしますが、若者が笑ってイカサマ博打でもうけた金だと暴露してしまいます。娘は男が自分の父親だと気付きますが、父を許そうとはしません。あきらめて外へ出た老人を若者が追って出ます。若者は「子供の気持がわからないあんたは馬鹿野郎だ。戻れ!」と言い、追っ手を自分ひとりで片付けると言います。家に戻った老人がやがて追っ手を討つために出ようとしますと、娘が初めて「おとっつあん」と呼びかけるので、出られなくなります。そのうち雪崩れが起こり、若者や追っ手をみんな飲み込んでしまいます。
 第三話。中村錦之助は風の久太郎といういなせなやくざ。不思議なことに村人に大歓迎されます。村長(遠藤達雄)が話すには、不当な年貢を取りたてる代官を成敗してもらいたいのだそうです。一度も人を斬ったことがない久太郎は震え上がります。なんとか逃げだそうとしますが、夜伽に娘(入江若葉)まであてがわれるわ、少年からはたよりにされるわ、逃げる術がありません。
 久太郎は、朝、馬で来た代官(加藤武)に居合を見せられて震え上がってしまいます。なんにもせずに戻ってきた久太郎を、村人は見限って、別の旅人を探すことになります。次の旅人は、村人にもてなされますが、逆に代官に賄賂をもらって、村長の陰謀を暴露してしまいます。この様子を目撃していた久太郎は怒って金を取り返しますが、村人たちはすでに意気地の無い久太郎に愛想をつかしていました。久太郎は村人たちを自分では何もできない腰ぬけと批難します。娘は久太郎の言う通りだと同意します。
 しかし、代官は村長を一揆の首謀者として捕縛に来ました。村長の身代金は九十両。連行されていく村長を途中で救ったのは久太郎でした。代官は怒って久太郎を追いかけます。逃げて転んだ久太郎に斬りかかろうとした代官が一歩前へ出ると、子供が仕掛けていたタヌキ・ワナにひっかかってハネ上がり、首を吊られてしまいました。
 悪代官の死体を前にして村長は「あの人は神さまだったんだ」と呟くのでした。娘が久太郎を探す声が菜の花畑に響きます。久太郎はやくざなんかやめて、あの娘と所帯をもつのも悪くないかもしれないと考え始めていました。 
2004年4月2日

テレビ朝日

21:05〜23:09
砦なき者  テレビ朝日開局45周年記念ドラマスペシャル番組。原作及び脚本・野沢尚、監督・鶴橋康夫。テレビ・ムービー。
 看板番組「長坂が斬る!」のキャスター長坂・役所広司は、女性ディレクター逢沢・鈴木京香が持ち込んだ高校生売春組織に迫る報道の直後に、元締めとされた女子高校生の自殺、その恋人八尋・妻夫木聡の涙ながらの「彼女は無実、マスコミの被害者」という告白によって、降板されます。彼の故郷・長崎での休養生活になってしまいます。
 逢沢は、次第にマスコミの寵児となっていく八尋の周辺で、多くの不審死が続発していることを突き止め、真相を探る協力を長坂に求めます。
 二人は、公金横領の疑いをかけられて自殺した父親を皮切りに、母親の引き逃げ事故死、大学時代の友人の川への転落死、ゼミの指導教官のホームへの転落事故と、八尋が関係したと思われる殺人事件を取材していくことになります。援助交際で金を出した会社役員も、実際には八尋の演出だったことが判明します。首都テレビ(MBC)は長坂と八尋の対談を企画しますが、収録のその日、二人は局に現われませんでした。たった二人で秘密の番組を作るのだと、長坂は駐車場で八尋を襲い、彼の父親が死んだ場所へ連れて来ていたのです。
 八尋の真相の告白を聞き終えた長坂を、若者の集団が取り巻きました。首都テレビが現場へ駆けつけたときには既に遅く、長坂は首吊り死体となっていました。自責の念からの自殺と報道されるなか、逢沢は長阪の残した手がかりを探します。
 「望遠レンズの向こうに捉えたいものが映る」と言っていた、かつての報道記者・長坂が仕掛けたカメラは、巣箱の中でした。長坂が前日に局のみんなに向けたメッセージと、大勢の若者と八尋によって彼が木に吊るされる瞬間が映っていました・・・・逮捕された八尋に、「あなたを神にしてあげる」と一人の青年が近づきます。刺されて意識が薄れていく八尋の目には先に逝った長坂の姿が見えました・・・
 巨大なマスコミが伝える報道を受け取る視聴者という大きな謎を相手に奮闘するものの、その謎をつかみきれないマスコミの焦燥感が描かれています。携帯電話で八尋の指示を受けて行動する若者の集団が不気味ですが、それほど多くの若者を動かすカリスマ性が八尋にあるかどうかは、やや疑問です。
 (7月追記・・・脚本家の野沢尚氏は6月に自殺してしまいました。たくさんの仕事を抱えていましたが、自分の仕事に納得がいかず、行き詰まっていたのでしょうか)

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