「野良猫ロック・セックスハンター」の論理と構造    
               藤田真男
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「キネマ旬報」第543号:63-66
 ”大和屋竺が日活モダン・アクションの中に描いたものは?" 
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ホームページ作成者・池田博明



    「野良猫ロック・セックスハンター」の論理と構造 
                               藤田真男

    モダン・アクションの復活

 その機会はありながら、いつも見逃していた「野良猫ロック・セックスハンター」を、ようやく見ることが出来た。
 この作品は、まぎれもない傑作であり、1970年の日本映画界にとっては、大きな収穫であったと思う。落ち目の日活がよくもまア、と思わずタメ息が出るほど素晴らしい出来である。五社作品のどこに一体、このようなエネルギーが隠されていたのかと、不思議な気もする。天から降ったか、地から湧いたか・・・。いや、そういえば思い当たるフシが、ないでもない。

 三年前、種村季弘氏は、鈴木清順監督最後の日活作品、「殺しの烙印」について「このような、性的支配・被支配の主題が鮮明な映画を企業が撮れるのは、今年が最後かもしれないような気がする」と書いたが、そして彼の予想は図らずも的中し、日活は鈴木監督を「会社の信用を落とす」として解雇してしまった。ところが、どうしたわけか、今また日活は、「殺しの烙印」に優るとも劣らぬ、モダン・アクション映画を復活させつつある。

 その最も顕著なものが、この「セックスハンター」ではないかと思う。この作品は、長谷部安春監督のアクティブな演出なしには作り得なかったのはもちろんのことであるが、それ以上に大和屋竺の脚本に負うところが大きい。そのことは、長谷部監督の「野良猫ロック・マシンアニマル」の、もたつきぶりを見てもわかる。

 「マシンアニマル」のシナリオは、いかにもずさんに書かれていた。あれでは長谷部監督も、そのテクニックを駆使する余地がないというものだ。それにシリーズ第四作ともなると、会社もカネとヒマを出し惜しみするらしい。ところで、大和屋は次いで「ネオン警察・ジャックの刺青」のシナリオも書いている。これはあいにく、まだ見ていないので何とも言えぬが、おそらく大和屋ならではのモダン・アクションに仕立てられていることだろう。

 どういうわけで、若松プロの俊鋭・大和屋竺が、日活でシナリオなんぞを書いているのか、その辺のことはよく知らないが、このところ”人事異動”(?)の激しい映画界にあって、あくまでも平然と”異端”の位置を保つ、彼の才能を生かし得る、そんな状況がいまの日活にあることは確かである。無為の異端者というわけではないけれど、何やら超然として、ヌーボーとしたその容貌といい、どこへでもなりふりかまわず首を突っ込むそのバイタリティといい、大和屋竺こそ鈴木清順の後継者たり得る唯一の作家であることは、誰もが認めるところであろう。

 「殺しの烙印」で、わけのわからぬ主題歌を唄っていたのが、他ならぬ大和屋竺であったことを、御記憶の方もいることと思う。そしてまた、「セックスハンター」の梶芽衣子のイメージが、「殺しの烙印」の真里アンヌと重なる、と考えるのは僕の気の回しすぎか。

 「セックスハンター」という題名について、或いは日活らしい悪趣味だといった印象を受ける方もいるだろうが、僕はそうは思わない。むしろ作品の主題を、見事に言い表していると思う。すなわち、先に引用した種村氏のことばにあるように、この映画の主題となっているものは、性的支配・被支配を生む差別構造そのものなのだから。
 さて、この辺でこの作品の舞台装置について、当の大和屋竺に語ってもらおう。

 「立川では、グローブマスターもいまは飛ばない。閑散と広い飛行場に、それでも必ず、米国製の乗用車が、猛スピードで走っている。町のネオンも、横文字でウェルカムだの、ハッピイだのというのが消え去ってはいない。たまたま『日本人も大歓迎』と、申し訳程度に貼り出せば、黒対白の喧嘩に、黄も入り混じり、さいごにはきまって赤い血が流れる」(日本読書新聞10月5日号)

    共同体の保身としての差別

 日本人として暮しているメグミという妹を探して、黒人とのハーフである数馬(安岡力也)が、もと米軍基地があった町へフラリとやって来た。マコ(梶芽衣子)をボスの座にすえる野良猫どもが、「日本人も歓迎」の看板を掲げるゴーゴー・クラブにたむろしていて、メグミもその中にいた。この町には、他にバロン(藤竜也)をボスに、数台のジープを乗り回す”イーグルス”と名乗るグループと、黒人ハーフのグループがいる。

 一体誰の企みだろうか、クラブのステージで陽気に踊る女の子たちを、こともあろうに「ゴールデン・ハーフ」が演じている。何とも痛烈なアイロニーではある。それにひきかえ、数馬のたずねていった「ママ・ブルース」には、黒人のせつないブルースが流れ、ハーフたちが静かにテーブルを囲んでいる。おまけに画面両サイドがカットされ、まるで暗い牢獄である。バロン一味が、ハーフ狩りに殴り込んで来た際、「ママ」に向って「こいつらみんなお前のせがれだろう」とののしる。

 いや、ハーフたちに向けて言ったのかもしれなかった。どっちでもいい、とにかく戦後日本を描く時、今村昌平でさえもこのような視点は持ち得なかった。

 僕はこの作品の含む問題を語るとき、出来るなら「差別」ということばを使いたくない。それは、本当の敵の存在を、あいまいなものにしてしまいかねないからである。

 とりあえず、「差別」の歴史についての私見を述べようと思う。

 我々の遠い祖先は、まず「自然」から疎外されたため、自己防衛すべくヒステリー的な精神をもつようになった。ヒステリー患者の症状は、自己制御の放棄から主体を喪失し、演技的になることである。すなわち「裸のサル」は、弱きが故に、例えば言語のような幻想を、観念的なコミュニケートの媒体として共同体を形成し、その中ではじめて個体は生きのびることが出来たのである。

 また、「性」という人的なコミュニケートが、親族構造を決定し、「法」(タブー、常識、法律、政治、思想など広義の)が、そのようにして出来た共同体の外壁を固める幻想となった。共同体は文明を創り、文明は剰余を産み、剰余は遊びとして消費されるようになった。

 剰余とは、あらゆる観念的な芸術でありエロチシズムであり、情緒感情のことである。つまり、我々の観る(空を飛びたい夢、というような意味をも含めて)とは、脳から排出される剰余であり、その消費が遊びである。例えば、現在、イカルスは月ロケットやICBMになって現実に姿を見せている。遊びとはレクリエーション(再創造)なのである。人間は夢を観ないと、狂い死にするそうである。個体内部のサイクルが途切れ、抑圧が蓄積するためであろう。このような危機的状況が、共同体単位で進行し、爆発寸前に至った時、ファシズムが現われてくる。

 すなわち、先に述べた共同体のさまざまなコミュニケーションのサイクルの中から、排出されてくる剰余の消費を抑圧するものが現われた時、共同体は自ら狂い死にから逃れるため、排他的な人種理論をつくり、他人種を血祭りにあげて代償行為とするわけだ。正統が、自らの存在証明として、異端の血を必要とするのと同じ仕組である。魔女狩りも同様である。(男の”魔女”もいたのだ)そしてナチスのユダヤ人狩りにおいて典型的であったように、ファシズムとは、あらゆる共同体につきものの、このような「差別」構造が、あるきっかけで大量の血を求め出す時に始まるのである。

 さて、ずい分と前置きが長くなったが、以上が「セックスハンター」に描かれる、「人種戦争」「ハーフ狩り」の歴史的背景の概要である。”イーグルス”の進が「面白ェ戦争ゴッコだぜ」ともらすと、バロンが「これは遊びじゃねェ!」と叫ぶシーンは重要である。その進が実はハーフだったというのは、ヒトラーがユダヤ人であったという伝説を思い出させる。また、バロンが性的不能であったことは、非常に重要な点である。

     日活には異変が起こっている

 ここでちょっと筆をすべらせて、他の日活作品にふれておきたい。現在、日活の中からとんでもない傑作が、次々と生れてくるようになった間接的なきっかけは、いうまでもなく「ハレンチ学園」の大ヒットにあると思う。追いつめられた日活が、窮余の一策として打ち出した「ハレンチ学園」が、思いがけなくヒットし、同時に若年層の観客を日活にひきつけることになり、その結果「ヤングの日活」などということになったのである。
 「ハレンチ学園」そのものは、風俗の域を出ていないと思うが、それに便乗して今度新しく始まった「女子学園」シリーズは、注目に値するものだと思われる。

 性的支配・被支配にあえぐ大人どもは、ファシズムに走るが、そのような構造から、スッポリ抜け落ちたガキどもこそ、これから期待されてしかるべき、変革の担い手たる存在である。シリーズ第一作、江崎実生監督の「女子学園・悪い遊び」の中の遊びとは、すなわち先に述べた剰余の消費の回復をめざしており、抑圧された大人どものファシズムに対抗し得る、革命(レボリューション)としての遊び(レクリエーション)である。もちろん「悪い遊び」を悪いとするのは、大人の目から見た場合のことであり、真に「悪い遊び」は大人のファシズムである。子供の無邪気さは狂気につながり、遊びは浪費につながり、ファシズムを革命へと転化させてしまう。大衆の持つファシズムのエネルギーを、革命の武器に転化せよ、と主張したジョルジュ・バタイユが生き返って、日活映画をみたなら、泣きかつ笑って喜ぶにちがいない。ブラック・ユーモア作家バタイユは、文学にエロチシズムや笑いをとり入れ、攻撃の武器とした。
 ゴダールの「アルファビル」をみてみよう。アルファビルでは、言語的剰余である詩(ポエジー)は消滅し、人間の感情的剰余である、泣く・笑う・愛するという行為は禁止されている。また、性的剰余であるエロチシズムもなく、女はすべて階級づけられた売春婦として、アルファ60というコンピューターに管理されている。

 話が大分それてしまったが、いまの日活ではある意味でゴダールに匹敵する作品が、生れてくるという異変が、確かに起こっているのだ。澤田幸弘監督「女子学園・ヤバい卒業」の中で、恐るべき少女たちは、次のようなセリフを口にしている。
 「ヒトラーの娘の如くふるまえ・・・」
 異才・藤田敏八(と、予告篇のタイトルにあった)は、「野良猫軍団」を組織してがんばっているし、日活の革命的少年少女ファシズム集団は、ますます健在である。加えて、日活では、谷岡ヤスジの漫画「ガキ道講座」を映画化するという。誰が監督するかは知らないが、「ハレンチ学園」の二の舞だけは避けるべきである。「セックスハンター」に戻る前に、アラン・ロブ・グリエの次のような言葉を紹介しておこう。
 「遊戯性のない革命は、いずれブルジョワの秩序に組み込まれてしまうだろう」

 さて、場面は子供の頃のバロンの記憶へとさかのぼる。彼の目の前で、彼の姉が黒人米兵に強姦されている。幼児期の性的な体験は、その人間の性格を左右することがある。彼のような、もしくはそれに類するような場合、サディスティックな殺人犯になる事が、往々にしてあり得る。それは、「裸の十九歳」「黒い雪」「壁の中の秘事」などに描かれていた通りである。人間は大きな恐怖に出くわすと、しばしば発狂したり、記憶を喪失したり、自殺したり、或いは逆に殺人をしたりする。つまり分裂症である。それが、全く生理的な自己防衛システムなのか、或いはそれ以上の何かが含まれているのか、僕にはわかりかねるが、とにかくこれと似たシステムがバロンにも働いたのはまちがいない。バロンは黒人兵黒人米兵ではなく)に対する恐怖、コンプレックスから不能になり、それを血であがなうべく、ハーフ狩りを行うのである。

 そんな彼だから、最後にマコが数馬と共に、監視塔にたてこもったのを、人質にとられたのだとしか考えられない。マコを黒人ハーフから守ることは、姉の純潔(日本の純血)を守ることである。進は、自分は一体何をしているだろうかと疑問を抱き、そのためにバロンの手で射殺されるが−このシーンは、ラストの決闘シーンとともに圧巻である−バロンはとうとう最後まで、自分が何者であったかを理解しなかった。そしてそのために、「殺しの烙印」の殺し屋・ジョーが「ナンバー・ワンはオレだァ!」と叫びながら、どこからともなく飛んでくる銃弾に倒されたのと同じく、凄まじい死を遂げる。

 彼と撃ち合った数馬の方は、自分が何者であり、自分の本当の敵が何者であるかも知っていた。その彼は、マコが止めようとしたにもかかわらず、バロンと被支配者同志のみじめな殺し合いをし、メグミに向って「オレの妹じゃない」と叫んで撃ち殺し、結局心中するしかなかった。なぜなら、彼は彼と妹が生きてゆける場所が、もはやこの国の、いや世界中のどこにもないことを、そして自分達が犠牲に選ばれたあわれな小山羊であることを、知っていたからである。
 しかし、彼は死ぬ直前に、を確認し、それを撃った。敵−それは、「幻の星条旗」のはためく、白いポールであった。

 「セックスハンター」は、同じく大和屋竺脚本、若松孝ニ監督による「処女ゲバゲバ」とも、ほぼ同じ構造をもつ作品である。
 主人公・星は、どこへも行くことの出来ない、出口なき荒野にいる。屠殺人(ヤクザの手下たち)の手で、恋人の花子とともにここへ連れてこられ、彼だけ逃げ出したところが、「ボス」に出会うが、星は彼が「ボス」であるとは知らない。星はボスのライフルの引き金を引いてみた。何かに命中した。後に花子を助けに戻ってくると、彼が撃ったのはなんと、十字架上の花子だった。彼は復讐する。屠殺人も、幹部(大和屋竺が演じていた)も、ボスも、ボスの女も、すべて叩き殺した後、彼はあてどもなく荒野を彷徨う。遠くで雷鳴がひびく。

 「セックスハンター」のバロン、「殺しの烙印」のジョー、「処女ゲバゲバ」の屠殺人、彼等は同一人物である。彼等は自分たちの殺す人間と、自分たちが共に同じ立場にいる、つまり被支配者であることに気付かない。

 では、「幻の星条旗」が、「ナンバー・ワン」が、「ボス」が本当に支配者であるかというと、そうではない。なぜなら、そんなものは初めから存在しないのだから。幻は幻にすぎないのである。本当の敵は、幻を生み、犠牲を要求する、それらの共同体の構造そのものなのである。だから数馬は、ポールを撃った。少なくとも我々は、バロンのように敵を間違えてはならないし、マコはそれを、しかと見届けたようである。

                 (KINEJUN NEW WAVE 論文。  当時、学生. 19歳)

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