106 「砧」講演

――日本の砧・朝鮮の砧――

 

1、「砧」とは何か?

 砧についてお話をさせていただきます。

 まずは「砧とは何か?」というところから始めます。砧は非常に誤解されているというか、間違って使われていることが多いものです。「砧」の正しいといいましょうか本来の意味は、汚れた布・衣類を洗濯した後の仕上げ工程の一つで、皺を伸ばし艶を出すことを目的に布を打つ道具もしくはその行為のことです。今でいえばアイロンかけに相当します。洗濯の済んだ衣類にアイロンをかけますと、布地の皺がとれて艶が出ます。昔からの洗濯の仕上げ方法には火熨斗や洗い張りなど色々ありますが、砧はその一つなのです。

 従いまして、稲藁を柔らかくするための藁打ちのことを「藁砧」ということがありますが、これは正確な意味での砧ではありません。

 また世界の民族のなかに、木槌で叩く方式で洗濯するところがあって、これを「砧」ということがありますが、これも砧ではありません。藁打ちも叩き洗いの洗濯も、木槌で叩くという点で砧打ちと仕草が似ているのですが、本来の意味の砧ではありません。

 日本の考古学では、1970年代頃から木製の横槌を「砧」と称して報告する例が目立ちました。これについては渡辺誠名古屋大学名誉教授が『考古学雑誌』という学術雑誌でこれを批判されまして、それ以来この木槌は「横槌」であって「砧」ではありません。しかし考古学研究者のなかには、今でもこれを「砧」と言う人がかなりいます。また世間一般でも、これを「砧」と呼ぶ人が多いようですが、間違いです。

 さきほど砧は洗濯後の仕上げであると申しました。洗濯は家事ですので、女性の仕事とされてきました。従って砧打ちも女性の仕事でした。これは日本も朝鮮も変わりありません。従って砧は女性の民俗・風習と言うことができます。

 前置きはこれぐらいにして、それでは砧とは具体的にどのようなものなのか、図や写真資料などを見ながらお話していきたいと思います。

 

2、日本の砧

 日本では砧打ちの風習が明治時代に廃れました。そのため砧の実物資料はほとんど残されていません。今のところ西宮市の郷土資料館に砧と思われるものがありましたが、それぐらいです。

 しかしそれ以前では、絵巻物や浮世絵などの絵画資料に砧を描くものが多く、その実像がかなりの程度判明します。そこでこの絵画資料から、日本ではどのような砧であったのかをお話します。

 

二種類の砧

 砧は「綾巻」と「台」そして「横槌」の三つの道具で構成されます。「綾巻」というのは聞き慣れない言葉と思いますが、江戸時代前期の文献にも「綾巻」が出てきますので古くから使われている言葉です。また現代でも『広辞苑』で「砧で布を打つ時、その布を巻きつける棒」と説明されていますので、本来はポピュラーな言葉で、決して唐突な言葉ではありません。なお江戸時代の文献では「綾巻」だけでなく「絹巻」という言い方もあります。

砧には二種類ありまして、一つはその綾巻という丸太棒に布を巻きつけて打つタイプです。綾巻・台・横槌の三点を使うもので、このタイプをT型と名付けました。もう一つは布を折りたたんで台に置いて打つタイプでして、綾巻を使わないで台・横槌の二点だけを使うものです。このタイプをU型と名付けました。

 

T型の砧

T型は綾巻を使う砧なのですが、その一番古い資料が(1)です。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(1)

13世紀末の『伊勢新名所歌合絵巻』に描かれた砧打ちの絵です。直方体の台の上に布を巻いた円筒形の綾巻が置かれています。これは綾巻を台に直接置くタイプで、これをT-a型と呼びます。この絵では顔を見せているのが女主人です。右手に横槌を持って打とうとしており、左手で綾巻を押さえています。相対して座って身体半分が隠れているのは下女でしょう。なおこの絵には疑問なところがあります。綾巻が台よりはみ出しておらず、台の範囲内の大きさに描かれているところです。本来は綾巻は台よりはみ出すものと考えています。これについては次に触れたいと思います。

 

2)は『訓蒙図彙』という、今で言えば百科事典ですが、寛文6年(1666)の本に出てくる砧の絵です。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(2)

綾巻は台よりかなりはみ出す大きさで、台の上に置かれています。(1)と同じくT-a型です。これが最も古いタイプの砧を正確に描いたものと考えています。台の側面には持つための引っ掛かりの凹み=引き手が表現されています。横槌が二本ありますが、二人で打つものだったのでしょうか、あるいは両手にそれぞれ持って打っていたかも知れません。

 

3)は『女用訓蒙図彙』という、これも当時の百科事典ですが、その名の通りに女性用の百科事典です。

 http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(3)

刊行は元禄元年(1688)で、先程の(2)より20年ほど後になります。この本にある砧の絵ですが、(2)と比べると受け枠が設けられており、そこに綾巻を受けています。これは転がりやすい綾巻を固定するためのものですが、この時期に登場しました。受け枠が登場したこの(3)をT-b型と呼びます。

                                           

4)は『増訓画引和玉図彙』という本で、これも百科事典です。

 http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(4)

元禄6年(1693)の刊行ですから、(3)の5年後です。受け枠が発達して、綾巻が少し宙に浮くようになりました。(4)は(3)の次の形態ですので、T-c型としました。

 

5)は『角川古語大辞典』という辞書にある挿図で、出典は『百人女郎品定』という絵本です。

     http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(5)

私の探した限りではこの絵本にその絵は見当たらなかったのですが、おそらく別系統の本にあるのかも知れません。刊行は享保8年(1723)です。女性二人が打っていますが、1人は右手に横槌を持ち、左手で綾巻を回しています。もう1人は両手にそれぞれ持って打っています。

綾巻の受け枠は更に発達して板柱となり、その上端には受け部を設けて綾巻を渡しかける形態になります。綾巻が台から離れて高い位置になりますので、打ちやすくなりました。新しいタイプの登場です。このように台の上に立てた板柱に綾巻を渡しかけて高い位置に据えるタイプをT-d型と呼びます。

 

6)は同じく江戸時代の『世津濃登起』という絵本の挿図です。

    http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(6)

刊行は安永3年(1774)です。この絵では布を巻いている綾巻の部分を太く、端のところでは細く描かれています。これは綾巻の両端に軸を装着したものです。両方の板柱の上から大きく切れ込む受け部を作って、ここに綾巻の軸を受けさせる構造となって、綾巻を回転させやすくなりました。軸を取り付けますので、綾巻の長さは短くなります。軸の登場は(5)のT-d型より発達した形態であり、従ってより新しい形であることが分かります。これをT-e型と呼びます。

 

7)は窪俊満の浮世絵に描かれた砧です。

     http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(7)

時期は天明年間(178189)です。一方の柱に受け部ではなくほぞ穴をあけて、そこに綾巻の片方の軸を挿入し、もう一つの柱の切れ込み受け部には反対側の軸を受けさせるという構造になります。綾巻が左右にずれにくくするように工夫したものと思われます。(6)のT-e型より発達したものですのでT-f型と呼びます。

 

8)は葛飾北斎の娘、応為の浮世絵です。

    http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(8)

時期は19世紀の前期で、幕末に近くなります。ここでは2枚の柱の間に補強の横木を入れています。これによって砧は構造的にかなりしっかりしたものとなりました。さらに発達した形態です。T-g型と呼びます。北斎も、またその弟子たちも砧打ちの浮世絵を多く描いていますが、その多くはこのT-g型です。

 

以上をまとめますとT型の砧は、次のように変化しました。

 

@ 台に綾巻を直接載せるもの(T-a型)。元禄(1680年代)まで。

A 受け枠を取り付ける(T-b型)。元禄元年、1688年頃。

B 綾巻が台から少し宙に浮く(T-c型)。元禄6年、1693年頃。

C 受け枠が発達して板状の柱になり、綾巻を高い位置に据える(T-d型)。享保年間、1720年代。

D 巻の両端に軸を取り付ける(T-e型)。安永年間、1770年代。

E 綾巻の一方を柱に挿入する(T-f型)。天明年間、1780年代

F 二枚の柱の間に補強の横木を入れる。(T-g型)。19世紀前期〜幕末。

 

T型砧の変遷図 http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutahennen

 

大雑把に言うとこのような変化です。これは砧を使いやすくするために改良してきた歴史と言うべきもので変化というより発達でしょう。

ここまで発達した後は明治時代となるのですが、砧を打つ風習は廃れました。T型の砧の実物は今のところ遺存例がありません。しかしどこかの古い民家の倉に残っている可能性があります。もしそれが発見されるとしたら、おそらく最後の段階のT-g型だろうと思っています。

 

砧の編年と世阿弥の能楽「砧」

 T型の砧の形態変化つまり編年を説明しましたが、これによって次のような意外なことが分かってきました。

 室町時代に能を大成した世阿弥の作品に「砧」があります。帰国しない夫を思って妻が砧を打って心を慰めるが、待ち焦がれて亡くなり、夫への思慕が迷妄の執念となって死後も苦しむ、という粗筋で、世阿弥の作品のなかでも名作とされています。

能では舞台に使う小道具で演能のたびに手作りするものを「作リ物」といいます。能楽「砧」の舞台で現在使われている砧は(9)で、「作リ物」です。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(9)

その形は布を巻いた綾巻を二本の柱に渡しかけるもので、先程の編年ではT-d型に相当すると考えられます。ほぞ穴や軸の表現がないので、T-e型より以前の段階です。従って時期は元禄1690年代から安永(1770年代)頃までの780年の間となるでしょう。とすると、現在の能楽「砧」の小道具の砧はこの時期に出現したものと判断されることになります。

ところがご存知のように世阿弥は1415世紀の人ですから、この時の砧はT-a型のように、綾巻が台の上に直接載っていなければなりません。1718世紀のT-d型では300年もの違いがあり、矛盾することになります。

そこで調べていきますとが、増田正造さんという方が中公新書『能の表現』という本のなかで、世阿弥の「砧」について

 

これほどの名作が、江戸のある時期には能として上演が絶えていた」(90頁)

 

と論じているのを見つけました。これで先ほどの矛盾が解決しました。世阿弥の「砧」は、上演が一旦途絶えた後に復活して再上演された際に、舞台で使う小道具の砧については、その当時の世間で使用されていたT-d型の砧の形を模して考案された作リ物だったわけです。その時期は17世紀末〜18世紀中頃です。

このように世阿弥の名作「砧」の上演が江戸時代に一時絶えていたという説は裏付けられました。さらにその復活の時期が17世紀末〜18世紀中頃ほどの間ということまで推定できたのです。

また歴史をさかのぼって、世阿弥の生きた時代に上演された「砧」の小道具は、当初の形であるT-a型であったと推定されます。もし将来にこの時代の砧の小道具が発見されることがあれば、このT-a型であろうことが予想されます。

 

U型の砧

 次に綾巻を使わないU型の砧です。従ってこのタイプの砧は、台と横槌の二つだけの構成となります。この最古の資料は、東北の平泉中尊寺にある「大般若波羅蜜多経」という国宝に指定されているお経の見返し絵です。(10)の絵の右側がそれです。

      http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(10)

時期は平安時代終わりの12世紀末頃とされています。台の上に折り畳んだ布を置き、二人の尼さんが横槌で打っている場面です。

 なおこの絵の左側は、中高年の方は記憶にあって若い人はご存じないと思いますが、伸子張りです。これは洗濯の仕上げである洗い張りの一つで、反物にした洗濯物を張って竹串を刺し並べていくものです。今回のテーマである砧とは関係ありませんが、日本独特の風習である伸子張りの最古の資料として紹介しておきます。

 

 その次の時期の資料は平安時代から大きく飛んで江戸時代、寛政3年(1791)刊行の『大和名所図会』の挿図(11)になります。

       http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(11)

ここでは台の上面が膨らむいわゆる蒲鉾形であることに注目されます。(12)は東海道五十三次で有名な安藤広重の絵です。

       http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(12)

和歌の歌枕に出てくる景勝地を描いた「諸国六玉河 摂津 擣衣之玉川」という浮世絵です。台は見えませんが、折り畳んだ布を打っているので、U型の砧であることが分かります。この絵は横槌が人の頭よりも大きいことや布が台より大きくはみ出していることなど、部分を強調していますので、実際の砧を写生したものではないと考えられます。

 U型の砧はこのようにT型より絵画資料が少ないのですが、西宮の郷土資料館に(11)とそっくりの木製の台が収蔵されていました。(13)がその写真です。

        http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(13)

ただしこの資料館ではかなり以前の収集でその使用法は分からず、衣料関係の資料と記録されていました。砧の道具とは認識されていませんでした。

以上のように、日本ではT・U型の両方のタイプの砧があったことは確かです。

 

砧の槌

 砧を打つ際に用いる槌ですが、考古・民具学的に「横槌」と言われる木槌です。先ほど言いましたように、これを「砧」と呼ぶことは誤りです。横槌はA〜Gタイプの7種類に分類されのですが、日本の砧の槌はこのうちのAあるいはBタイプに相当します。下記がその図です。

       http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutatsuchi

これは打って布にあたる部分(敲打部)と手に持つ柄の部分(柄部)との境目に段差があるものです。敲打部の短いものをAタイプ,長いものをBタイプと分けられています。なおGタイプは朝鮮の砧の槌ですので、後でお話します。

 この横槌を右手に持って打ちます。左手はT型では綾巻の端に置いて回し、U型の砧では左手は使われていません。

 

砧は秋の風物詩

 日本の砧は、秋の夜のしじまに哀調と幽玄な音が響きわたるがゆえに、古典文学にしばしば登場します。「ころも打つ」「擣衣(とうい)」という言い方をすることもあります。古くは源氏物語の夕顔の帖に

 

白妙の ころもうつ きぬたの音も かすかに こなたかなたに 聞き渡され‥‥

 

とあり、和歌では鎌倉時代初めの有名な歌人である式子内親王が

 

千たび擣(う)つ きぬたの音に 夢さめて 物思ふ袖の 露ぞ砕くる

 

と詠まれ、また江戸時代では俳句で松尾芭蕉の

 

声澄みて 北斗にひびく 砧哉

 

という作品があります。これらでは「砧」は“秋”の季節に打つものとなっています。俳句では秋の季語です。

 それでは、なぜ砧は秋の風物詩なのでしょうか。かつての日本人の一年の生活サイクルを考えて見ましょう。

 洗濯はふつう毎日のようにするものですが、そうでなくて一年単位で洗濯するものがあります。例えば綿入れや布団などがそうです。これを洗濯するには、夏に糸を解いて中の綿を出して布地を洗濯して汚れを落とします。それを秋に砧を打って皺を延ばし艶を出します。そして冬には再び綿を入れて裁縫し、元の綿入れや布団にします。このような綿入れや布団は一例で言っただけで、これらに限るものではなく他の着物も同じですが、こうして新鮮さを取り戻した着物などを用意して正月を迎えるのです。つまり一日か二日で完結する日常の洗濯ではなく、正月を清清しく迎えるために夏から洗濯して準備するという長い期間のサイクルのなかで、砧打ちは秋に行なうものであったわけです。砧が秋の風物詩であったのは、こういう風習があったからと考えられるのです。

 

和菓子の「きぬた」

 京都の四条河原町を北に上がったところに「長久堂」という伝統和菓子屋さんがあります。そこの有名なお菓子に「きぬた」があります。

http://www.digistyle-kyoto.com/hyakumikai/hyakumi_55_shop.htm

 これは円柱状の練羊羹を芯にして、求肥(きゅうひ)を羽二重のように薄く延ばして巻いたもので、いわゆる棹物です。これを一口サイズに切って食べるのですが、このお菓子は砧の綾巻を模したものです。練羊羹が綾巻、求肥は布です。布を巻いた綾巻をそのままお菓子にしたというアイデアに感心します。

 このお菓子のしおりには、

 

当舗は天保二年、初代長兵衛が“新屋長兵衛”なる屋号をもって創業し、名菓“きぬた”は、嘉永六年初代長兵衛が郷里の丹波路にて、秋夜の擣衣(とうい)の音を聞き、その幽玄なる風趣に感を深め、考案創作したものであります。

 

と記されています。「擣衣(とうい)」というのは衣を()つことで、砧と同じ意味です。

嘉永六年はペリー来航の年で1853年です。京都で菓子業を営んだ長兵衛はそれまで砧の音を聞くことがなかったのですが、郷里に帰ったときに砧の音を聞いて感動したということです。つまり砧はこの時期には都会で打つことがなくなり、田舎で打つ風習が残っていたと推測することができます。

砧は明治時代に廃れるのですが、その直前の幕末はこういう状況であったと思われます。

 

砧巻

 何かを丸く巻いて作った食べ物を「砧巻」を称することがあります。例えば、古くからあったお菓子に「砧巻」というのがあります。これは小麦粉に砂糖を入れて水で捏ね、薄く焼いて巻いたものです。

 また今の料理では、海苔を巻けば「海苔巻」ですが、海苔でないものを巻いて作ったものを「砧巻」と言うそうです。あるいは「砧大根」といって、大根をかつらむきにして生姜などに巻いたものがあります。

 このように巻いて作る食べ物に「砧」という言葉を付けるのは、綾巻に布を巻くところからできた言葉です。T型の砧を知らなければ、なぜ「砧」なのだろうと不思議に思うでしょうが、知っていれば綾巻のことだと分かります。

続く

 

 

【参考資料―講演の際に配布したレジュメ】

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/kinutarejume

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutarejume1

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutarejume2

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutarejume3

 

【関連論考】

「砧(きぬた)」      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

「朝鮮の砧」       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai

「誤りの多い“砧”の解説」http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuusandai

「角川『平安時代史事典』の盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485

「“砧”と渡来人は無関係」          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192

 

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