ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
   主イエスのたとえ話

  
〈28〉漁網のたとえ

聖書
 
「また天国は、海に下ろして、あらゆる種類の魚を囲み入れる網のようなものである。それが一杯になると岸に引き上げ、そして座って、よいのを器に入れ、悪いのを外に捨てるのである。世の終わりにも、その通りになるであろう。すなわち、御使い達が来て、義人の中から悪人をえり分け、そして、炉の火に投げ込むであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 マタイ13:47〜50


T.新約聖書時代の漁法

 ★このたとえ話で主イエスの言われる網(ギリシャ語/サゲーネー漁網)は漁師だったペテロ・ヤコブ・ヨハネがガリラヤ湖で行っていた漁法を念頭に置いて言われたと思われます。福音書を読めば分かる通り、漁師だったペテロ達の漁法は、日本の河で網を打つ漁師たちと同じ漁法だったようです。筆者は5,60年前の子供の頃、東京の調布市に住んで居りましたが、近くの多摩川で漁師が鮎を獲るために網を打っているのをしばしば見かけました。
 ★その網の打ち方は、舟で深みに漕ぎ出て縁に鉛の錘の玉を数珠のように多数取り付けた網を舟の上から魚のいるところを目指して大きな円を描いて打つのです。
 ★そして、その獲物の入った網を舟の上、ないし岸に引き上げて獲物をより分けるのです。
 ★聖書注解者の中には、このたとえを地引網のたとえと名づける人もいますが、新約聖書に描かれた漁法は地引網ではなかったようです。


U.獲物はより分けられる
 ★網に入る獲物は目指す良質の魚ばかりではなく、食用にはならない魚類はもちろん、いろいろな種類の生き物や人の廃棄物や落し物(主イエスの預言によって、弟子のペテロが銀貨をくわえた魚を吊り上げその銀貨を税金として納めた話が出ています。マタイ17:27)なども紛れ込んでいたことでしょう。
 ★このたとえ話の要旨は網で捕獲された獲物はえり分けられ、あるものは大切に食品として収納され、他のものは容赦なくみな捨てられるということです。
 ★網はキリスト教会の伝道活動あるいは教会そのものを表すと言ってもいいかも知れません。キリスト教会がこの世界(海─ギリシャ語/サラッサ=海・湖の義)に福音を宣べ伝える(網を打つ)と教会にいろいろな人々が入って来ます。


 ★余談ですが、当福音伝道サイトのドメイン名を初めはChristian Church の頭文字をとって〈31cc.com〉としようと考えましたが、どこかのゴルフ場(Country Club)がすでに取得済みでしたので、次に〈31church.com〉を調べるとこれも取得済みでした(まだ未使用のようでしたが)。〈.com〉の部分を組織コードといいます。〈.net〉という組織コード名については全く知りませんでしたが、たまたま取得可能ということでしたので〈31church.net〉に決めました。〈.com〉〈.net〉〈.org〉などの組織コードは主にアメリカで使用されていて、アメリカはインターネット発祥の地ということで、組織コードの後に〈.jp〉などの国名や地域名を表すゾーンコードが不要になっているとのことです。決まった後で、このドメイン名は漁網のたとえに示された主の御心に沿った名称であったことに気がついた次第です。


 ★さて、話を元に戻します。
教会に入ってきたすべての人々がみな天の御国に入る訳ではありません。キリストを信じて最後まで耐え忍んで救われる人々もいれば、途中で挫折し、あるいはつまづき、あるいは心変わりして滅びの道を行く人々も大勢いるわけです。
 ★キリスト教会はキリストに似た人ばかりの集まる天国ではありません。求道中の未信者や、友人や家族に誘われ義理で来ている人々や、冷やかしで来ている人々もいるでしょう。
 ★そればかりでなく、すでに洗礼を受けたクリスチャンや牧師でもはっきり言っていろいろいるのです。三浦綾子が描くクリスチャン像のように人格高潔な人々が全くいないとは言いませんが、多くはいないのです。
 ★キリスト教会は網で海から引き上げられた獲物のように良い人と悪い人の集まりであると言って過言ではありません。主ご自身の十二弟子の一人イスカリオテのユダが主を裏切り、敵の手に渡したように、主が共におられる恵まれた教会にいても、クリスチャンは12人に一人は背教または失格すると見ても良いかも知れません
 ★ですから、「キリスト教会に悪い人がいたから私は教会には行きたくない」と言っている人は、勘違いしているのです。聖書そのものが、キリスト教会はキリストの再臨の日まで良い人と悪い人の寄り合い(混合)所帯だと言っているのです。
毒麦のたとえもそのことを教えています。
 ★その良い人悪い人の基準は人間の判断基準ではありません。キリスト再臨の日に裁きを下されるキリストの判断です。そのキリストの判断基準を知りたい人は、へりくだって神の御霊の導きの下で聖書を熱心に学んでください。

 「私はあなたがたに裁かれたり、人間の裁判にかけられたりしても、何ら意に介しない。いや、私は自分を裁くこともしない。私は自ら省みて、何らやましいことはないが、それで義とされているわけではない。私を裁く方は主である。
 だから、主が来られるまでは、何事にも先走りをして裁いてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるであろう。」 Tコリント4:4〜5

V.網の中の獲物がより分けられるのは世の終わりの日、つまりキリスト再臨の日であること
 ★キリスト教会の中に隠れた悪人達ばかりでなく、この世の悪人達の多くが裁かれることなく、のうのうと暮らしており、近頃は法律が定める時効なるものに守られ、安逸をむさぼり寿命を全うしようとする悪党共もいます。
 ★しかし、人が信じようと信じまいと、世の終わりのキリストの再臨の日には、人は地上で肉体にある時に行った行いと言葉と心の思いのすべてが公正に裁かれるのです。

 
「まむしの子らよ。あなた方は悪い者であるのに、どうして善いことを語ることが出来ようか。およそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉からよいものを取り出し、悪人は悪い倉から悪いものを取り出す。あなた方に言うが、裁きの日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなくてはならないであろう。あなた方は、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。  マタイ12:34〜37

 ★キリストの再臨など何時起こるのか、と言っているあなたの世を去る日があなたの世の終わりの日、あなたのすべてが裁かれる日なのです。

 
「一度死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが、人間には定まっている」。 ヘブル9:27

 ★ですから、キリストの福音(ゴスペル・よい知らせ)はキリストを信じる人々には「良い知らせ」ではあっても、不信仰を貫こうとする人々には大きな災いの降りかかる「はなはだ悪い知らせ」なのです。ですから、キリストの再臨は思いもよらないある日突然の泥棒の侵入にたとえられているのです。

 
「このことをわきまえているがよい。家の主人は盗賊が何時ごろ来るか分かっているなら、目を覚ましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなた方も用意していなさい。思いがけない時に人の子(キリスト)が来るからである」。 マタイ24:43,44


W.キリストの第一回降臨(受肉・世界最初のクリスマス)によってこの世に来た天の御国(神の国)は、今はこの網の中の良い者と悪い者との雑居状態の中に間違いなく存在するということ
 ★天国はいろいろな種類の魚が入っている網のようだと、主が言われる(上記テキストマタイ13:47)その天国はキリスト再臨の日に成就する新天新地のことではなく、すでに地上に来ている天国キリスト教会のことです。
 ★
パン種のたとえで書きましたように、悪のパン種によって堕落し腐敗しきった中世のキリスト教会の中にも神の御国(天国)が完全には失われていなかったように、今日世界規模で見るとき、キリスト教会がはなはだ腐敗し堕落しているのを見ますが、この悪のパン種で汚染されたと見える現代のキリスト教会の中にも神の国(地上の天国)は厳然として存続しているのです。
 ★宗教改革者によって始められたプロテスタント教会は、聖書のことばに立つ教会として、教会も信徒も絶えず聖書に立ち返らなければなりません。使徒行伝17:10〜13に出てくるベレヤの会堂に集まっていた人々のように、「素直に毎日聖書を学び」、自分の信じていること教えられていることを聖書によって確認する態度を絶やさなければ、終末に現れる偽預言者・偽キリストに惑わされ毒されることはないでしょう。

X.教会選びに関する助言
 ★これから教会を選ぼうとしているあなたに助言します。
 ★あなたが選ぼうとしているその地域教会とその所属している教派の信仰的立場を重視してください。その教会と教派の信仰的立場が聖書に立脚し、このホームページが教えているような聖書の根本教理、すなわち神の三位一体の聖書的な正しい信仰、旧新約聖書の原典における無謬性などを教えるプロテスタント教会を選んでください。
 ★
「狭い門から入りなさい」で書きましたように、世の中には三大異端(ものみの塔〈エホバの証人〉・統一教会〈文鮮明教〉・モルモン教)ばかりでなく、聖書に反することを教えている間違ったキリスト教会が沢山ありますからご注意ください。
 ★洗礼の形式すなわち、浸礼か滴礼という問題や異言(いげん)の問題は救いにかかわる重要問題ではありません。この類の最重要ではない問題を気にして、折角、近くにある比較的聖書的な教会に行くのを止めて、自分の家でのデボーションや家庭礼拝で済まし、公同礼拝を守らないでいるとサタンの餌食になるか、せいぜい独りよがりな名だけの仮面信者に成り下がる危険がこの世には一杯あふれています。
 ★天の御国への道・クリスチャン道を行くには、母であり兄弟姉妹である神の家族が不可欠です
(マタイ12:50)。聖書はすべての人々に特に主にある兄弟姉妹に善を行いなさいと教えています。教会にあなたが、そしてあなたを必要としている神の家族が居るのです。

 「人は自分のまいた物を刈り取る事になる。すなわち自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠の命を刈り取るであろう。私たちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないで居ると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会があるごとに、誰に対しても、特に信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。ガラテヤ6:7後半〜10



URL http://31church.net
キリスト紀元2006年 9月 10日公開

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