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   主イエスのたとえ話

  
〈16〉毒麦のたとえ

 聖書 
 ★また、他のたとえを彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑に蒔いて置いた人のようなものである。人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。芽が生え出て実を結ぶと、同時に毒麦も現れて来た。
 ★しもべ達が来て、家の主人に言った、『ご主人様、畑にお蒔きになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦が生えてきたのですか』。主人は言った、『それは敵の仕業だ』。
 ★するとしもべ達が言った、『では行って、それを抜き集めましょうか』。主人は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

 ★それからイエスは、群集を後に残して家に入られた。すると弟子たちは、みもとに来て言った、「畑の毒麦のたとえを説明してください」。 イエスは答えて言われた、「良い種を蒔く者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子達で、毒麦は悪い者の子達である。それを蒔いた敵は悪魔である。
 ★収穫とは世の終わりのことで、刈る者は御使い達である。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもその通りになるであろう。人の子はその使い達をつかわし、つまずきとなる者と不法を行う者とを、ことごとく御国から取り集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 ★その時、義人達は彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くが良い」。
   マタイ13:24〜30、36〜43。


 ★このたとえ話の要約と解説
 A. このたとえ話の要約
 人が畑に良い麦の種を蒔くと、寝ている間に悪い者が来て毒麦を蒔いた。麦が成長して来た時、毒麦も生え出て来た。「毒麦を抜き取りましょうか」というしもべの提案に答えて主人は「毒麦を抜く時、良い麦も抜くといけないから、両方育つままにして置いて、収穫の時に分けることにしよう」と言った。

 B.主イエスの解説
良い麦の種を蒔く者
= キリスト、毒麦を蒔いた敵悪い者= 悪魔、
= 世界、
良い麦の種= 御国の子達、  毒麦= 悪い者の子達、
収穫= 世の終わり、 刈る者= 御使い(天使)
 世の終わりに、つまずきを与える者、不法を行う者達は御国から集められて炉の火に投げ込まれ、義人たちは御国で太陽のように輝く。

 C.注意するべき点
 1.主が毒麦(悪い者の子達)の裁きを世の終わりの日まで忍耐して待っておられるのは、良い麦(御国の子達)の救いとその成長と保護のためであること。
 2.良い麦の種も毒麦も共にこの世(世界)に蒔かれ、世の終わりの日には良い麦は御国から父の御国に移され、毒麦の一部は御国の中に入り込んでいるのが発見されて除去されること。
 3.御国の子等だけでなく、悪い者の子等も世の終わりの日まで生き残ること。
 4.キリスト教会が実行している戒規(御言葉の違反者に対する懲戒=陪餐停止・除名など)についてはこのたとえ話は何も語っていないが、それは戒規不要の意味ではなく、聖書全体は戒規の重要性と必要性を語っていること。


 このたとえ話が教えること
 A.この世の悪人達を主が今すぐ裁かないのは御国の子らの保護のためであること。

 1、毒麦を収穫の日まで引き抜かないで放って置く主人の方針は農業のやり方としては適切ではないかも知れません。一般的に雑草は小さいうちに抜き去るのが普通だからです。草取りの手間は収穫時に分別する作業よりはるかに楽だからです。
 しかし、このたとえ話は農業のやり方を教える話ではないのです。御国の奥義を教えるための話です。しかも、パリサイ人や律法学者などの悪意をもった偽善者をふるい落とすためのふるいの役目を果たすために語られた話なのです。
 ですから、「このたとえ話は農業者の行動としては愚かな話だ」、と言ってつまずく人は、パリサイ人・律法学者と同様にこの世の知恵に先走って、隠れた神の知恵を見落としているのです。不正な家令(管理人)のたとえを聞いてあざ笑ったパリサイ人の様に、たとえ話というふるいに掛けられてふるい落とされない人は幸いです。
 2、世の終わりの日以前の人の裁定には誤りが避けられません。麦と毒麦との判定を誤り、麦を毒麦として抜き取る危険性があります。毒麦が良い麦に変化することはありませんが、人の世では悪い者の子等が改心して御国の子に生まれ変わることはよくあることです。

 「ある人々が遅いと思っているように、主は約束の実行を遅くしておられるのではない。ただ、一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなた方に対して永く忍耐しておられるのである」(2ペテロ3:9)

 B.世界(この世)に蒔かれた毒麦の悪い影響力が、御国(キリスト教会)に浸透して、世の終わりに裁かれる人々が御国(キリスト教会)から出るということ。
 1.人の子(キリスト)が良い種(御国の子等)を蒔いたのはこの世(世界)でした。しかし、世の終わりの日に御国の子等がこの世にある御国(キリスト教会)から召されるのは当然ですが、その日に悪い者の子らも御国から裁かれるために刈り集められています。
 これは、この世に蒔かれた毒麦の悪い影響力が御国の子らに浸透して、天の御国に入るに相応しくない不純分子が教会から出ることを意味しています。このたとえ話では御国にいる人々への裁きだけが述べられていますが、これは
 a. 終わりの日の裁きはキリスト教会から始められるという預言の成就を表すとともに、
 b. キリスト教会が厳しく裁かれるなら、神とキリストを無視して勝手気ままに生きて来たこの世の人々が更に厳しく裁かれることは全く当然のこととして省略されているに過ぎません。

 「裁きが神の家から始められる時が来た。それが、私達からまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか」(1ペテロ4:17,18)

 2.教会外の悪者を裁くことは教会の仕事ではなく、神から権威を委ねられた国家の仕事です。しかし、教会内の不純分子を裁き、場合によっては教会から除名することは、このたとえ話では触れられていませんが、主から命ぜられた教会の務めです。
 「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。・・・・・もし彼ら証人の言うことも聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人と同様に扱いなさい」(マタイ18:15〜17)。この他の聖句は1コリント5:1〜13などです。

 C.良いものと悪いものとの判別は歴史の長さや信奉者や支持者の多寡が決めることではなく、世の終わりの日に人の子(キリスト)が裁定することだということ。
 1.収穫の日すなわち世の終わりの日まで悪魔の子等が裁かれずに生き残っているのは主の御心であることをこのたとえは語っています。
 2.使徒行伝にあるガマリエルの演説から「悪い団体は歴史が淘汰してくれるのであり、歴史の試練に耐えて生き残っている団体は神に祝福され認証されている団体であるに違いない」と思い込んでいる人々が教会内にもいます。

 律法学者ガマリエルの演説 「そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たち(使徒ペテロたち)から手を引いて、その成すままにして置きなさい。その企てや、仕業が、人間から出たものなら、自滅するだろう」(使徒5:33〜41)
 もし、ガマリエルの説が正しいなら、キリスト教以外の歴史の試練に耐えてきた仏教・イスラム教なども神に是認された宗教だということになってしまいます。キリスト教会の中でも、カトリック教会が永い歴史をもっているから、世界一大きな韓国の某教会は大きくて栄えているから、共に神に祝福されていると安易に結論付ける人々がいます。
 しかし、その団体・組織の良し悪しは歴史の長さや会員数の多い少ないによって決められないのです。世の終わりの日に執行されるキリストの裁きによって最終的に決定されるのです。


 D.世の終わりの裁きと報い
 1.悪人に対する裁き

 御国(キリスト教会)の中にいてはならない「つまずきを与える者」や「不法を行う者」が御国の中から除去され、永遠の火に投げ込まれます。彼らが終わりの日まで生き残って居れたのは、彼ら自身の狡猾さによるか、或いは戒規によって自らを聖めて来なかった教会の責任であったかも知れません。或いは、教会やその指導者である牧師が、聖書の基準を逸脱した教理を教えて信徒を惑わしたためかも知れません。
 2.義人に対する報い
 「義人は、天の父の御国で太陽のように輝きわたる」(43節)とあります。旧約聖書ダニエル12:3は「多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠に至る」と言っています。
 主イエスは私達キリスト者に向かって「あなた方は世の光である」(マタイ5:14)と言っておられます。
 旧約聖書の出エジプト記(34:28〜30)で「40日間シナイ山で神と語らっていたモーセはその顔が光を放っていたのでイスラエルの民は恐れた」とあります。新約聖書の変貌山の場面(マタイ17:1〜8)で、「弟子達の目の前で主イエスの姿が変わり、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった」とあります。
 終わりの日に、私達信仰者は主と同じ姿に変えられる(ピリピ3:21)のですから、私達も天の御国で主のように輝く者たちとなるのでありましょう。「主イエスは、万物をご自身に従わせ得る力の働きによって、私達の卑しい身体を、ご自身の栄光の身体と同じ身体に変えて下さるであろう」(ピリピ3:21)
 使徒パウロはパラダイスに引き上げられ、人間には語ることを許されていない、口に出すことの出来ないことばを聴いたと語っています
(2コリント121〜10)。そして、その啓示が余りにもすばらしいことだったので、彼が誇ることの無いように、主はかれに肉体のとげを与えられたと言っています。彼パウロが言語に絶する迫害と試練の道に耐えることが出来たのは、この時の啓示から来る励ましや支えも、大きかったと思われます。
 主イエスはご自分の前に置かれている喜びの故に、十字架の苦しみを耐え忍ばれたとあります
(ヘブル12:2)
 主は信じて従う私達キリスト者にもこのような栄光を与えると約束しておられるのです
(ローマ8:28〜30;1コリント2:7;ヨハネ17:22)

 ★結び
 「耳のある者は聞くが良い」
と主は言っておられます(43節)。誰でも耳を持っています。ですから、すべての人々は主イエスの御ことばに傾聴すべきです。しかし、多くの人々は耳を持ちながら、主の御声を聞き分ける霊的耳をもっていません(ヨハネ10:2〜4)
 しかし、主は求める者には誰でも霊の耳も霊の眼も開いてくださいます
(1列王6:15〜18)。今、毒麦のような生活を送っている人でも、その罪を悔い改めて良い麦(御国の子等)になってくれることを、またキリストにある成人にまで成長していない御国の子等(キリスト者)が十分に成長してくれることを(エペソ4:11〜16)、主はこのたとえ話を通してその切なる願いを表明しておられるのです。



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キリスト紀元2005年 7月 30日公開

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