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   主イエスのたとえ話

  
〈29〉主人と僕のたとえ

 聖書
 
「使徒たちは主に『私たちの信仰を増してください』と言った。そこで主が言われた、『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉通りになるであろう。あなた方のうちの誰かに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰ってきた時、彼に「「すぐ来て、食卓に着きなさい」と言うだろうか。かえって、「夕食の用意をしてくれ。そして私が飲み食いする間、帯をしめて給仕をしなさい。その後で、飲み食いするがよい」と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられた事を皆してしまった時、「私たちはふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません」と言いなさい』」。ルカ17:5〜10

はじめに

 ★この「主人と僕のたとえ」は、求道者や入信間もない信徒にとっては消化不良を起こしそうな硬い霊的食物です。

 
「しかし、硬い食物は、善悪を見分ける感覚を実際に働かせて訓練された成人の取るべきものである」。ヘブル5:14

 ★このたとえ話に、天国に至るキリスト者道の重要な秘訣が語られています。

T.このたとえ話が主によって語られた背景

 ★このルカ17章1〜4で語られた兄弟を赦すことについての主の教えの難しさを思い、使徒たちは人を赦す事の出来る大きな信仰を持ちたいと願い、「信仰を増してください」と頼みました。
 ★マタイ18:22で主は「(兄弟<=隣人>があなたに罪を犯した場合)7度を70倍するまで、すなわち490回まで(いつも、いつまでも)赦しなさい」と教えておられます。

U.からし種一粒ほどでも本物の信仰があるなら
 ★「私たちの信仰を増してください」と言う使徒たちの願いに対して、主は「からし種一粒ほどの小さな信仰でも、生きた本物のキリスト信仰があるなら、桑の木のようにしぶとく根を張った赦さない心の根を引っこ抜いて海の底に沈めることが出来るのだ」と教えておられます。
 ★大きな信仰を求める使徒たちの願いは、間違っていません。主がたびたび弟子たちの信仰の小さいことをなげいて居られたことを福音書が語っているからです。
 ★マタイ17:20で「なぜ、私たちは悪霊追放に失敗したのですか」と言う弟子たちの問いに答えて、主は「あなたがたの信仰が足りない(新改訳/信仰が薄い)からである」と言っておられますが、その「足りない、薄い」と訳されている原語のギリシャ語は「小さい」という意味です。
 ★悪霊追放に失敗した訳は、「あなた方の小さい信仰のためだ」と言っておられるのです。

V.主人と僕のたとえ
 ★からし種の教えの後、主は「主人と僕のたとえ」を用いて小さくても本物の信仰を働かせて大きくする方法を語っておられます。
 
A.このたとえの要旨
 ★「僕は自分に命じられた仕事を全部やり遂げたからといって、主人から感謝されることはない。
 ★同様に、あなた方も神様からの感謝を期待せずに、神の御心をひたすら忠実に果たすことに専念しなさい」。

 
B.聖書の時代と奴隷制度
 ★新約と旧約の両聖書の時代に奴隷の存在が描かれています。聖書は奴隷制度そのものを悪として直接糾弾してはいませんが、人の人格を無視して人を物のように扱う傾向をもつ奴隷制度は神の御心そのもである聖書の精神に反します。
 ★「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の教えを忠実に守ろうとするなら奴隷制廃止の方向に向かわざるを得ません。

 C.私たちキリスト者は信仰によって神の子供たちであると共に、神の僕たちであること

 
★「私の言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕と何の差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである」(ガラテヤ4:1,2)

 ★上記のみことばは、イスラエル民族が神の国の相続人として選ばれた神の子供らでありながら、神の御子キリストの到来の日まで律法の下に僕として仕えていたことを説明するみ言葉です。
 ★同様に、私たちキリスト者はキリスト信仰のゆえに今や神の子供であり、新天新地の相続者です。にもかかわらず、キリスト再臨の日まで、地上にいる間、私たちは神への絶対服従を誓う僕として主に仕えて行くのです。

 
「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなた方は再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を受ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊自ら、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証ししてくださる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。ローマ8:14〜17

 ★私たちが忠実に主に仕えて行くなら、再臨の後、主が私たちに仕えてくださるという有難い約束があるのです。

 
「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたく時、すぐに開けてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきた時、目を覚ましているのを見られる僕たちは、幸いである。よく言っておく。主人が帯を締めて僕たちを食卓に着かせ、進みよって給仕してくれるであろう」。ルカ12:35〜37

W.このたとえ話が教えること
 A. 私たちキリスト者は神の御子の血潮によって買い取られた神の僕であること

 
★僕が主人を喜ばせることを第一義として主に仕える人生を貫き通すべきことは当然であるということです。

 「なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているからである。私たちはこう考えている。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために、生きるためである」。 Uコリント5:14,15

 B. 新天新地を受け継ぐ私たちキリスト者は、地上にあっては徹底した神の僕として仕える姿勢を貫き通す時、キリスト再臨の日にキリストと共なる共同相続人たちとなるのにふさわしくととのえられるのである。
 ★この世を来るべき世に入る前の人生道場と見て、聖書の信仰の先達であるアブラハム、モーセ、パウロに見習って、主の僕として自らを鍛えて行くとき、使徒たちが求めていた大きな成長した信仰ばかりでなく、新天新地が私たちのものとなるのです。

結び
 ★この「狭い門を通り、細い道を行く、天国に至るキリスト者道」こそ、「自分がどこから来て、何のために生き、どこへ行くのか分からない」人生の記憶喪失者とも言うべき世の人々にとって、選択すべき最善最高の道なのです。


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キリスト紀元2006年 11月 7日公開

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